東京市に実業家名取和作の三男として生まれる。母方の祖父は三井財閥の大番頭朝吹英二。慶應義塾普通部で学んだ。だが、花街の女将に見送られて登校するといった早熟ぶりもあり、成績不良で予科に進めず、父のはからいで18歳でワイマール期のドイツに渡った[1]。ベルリン遊学中、国立美術工芸学校のウェイヒ教授を通じてバウハウスのデザイン思想を知る。教授の地元ミュンヘンの美術工芸学校に入り、やがて教授が経営する手織物工場のデザイナーとして働くうちに9歳上のドイツ人女性エルナ・メクレンブルク(のち妻となる)と同棲。エルナが撮った火災現場写真を洋之助が組写真にして写真週刊誌に持ち込んだところ高値で採用された。それが契機となって、ベルリンの総合出版社ウルシュタイン社に認められ、ヨーロッパ最大の週刊グラフ誌の契約写真家となり、帰国した。 エルナ・メクレンブルグ (1937年、アメリカにて。名取洋之助撮影。) 名取は