YouTube でお気に入りの動画や音楽を楽しみ、オリジナルのコンテンツをアップロードして友だちや家族、世界中の人たちと共有しましょう。
大河ドラマなどの歴史時代劇で描かれる時代と言えば、戦国時代か幕末維新と、最近は、おおよそ相場が決まっている。 理由は歴史小説などの題材として盛んにとりあげられてきたため、登場人物になじみのある名前が多く、視聴者が入り込みやすいこと。もう一つは同じ理由から、コアな歴史ファンがすでについていることだ。 本書は歴史番組などのコメンテーター・モデレーターとして、すっかりおなじみになった歴史学者、磯田道史(みちふみ)・国際日本文化研究センター教授が2017年から22年にかけて新聞に連載したコラムをまとめたもの。 「暴く」とまで言えるかどうかは微妙だが、教科書には書かれていない日本史の新説や新発見が、これでもかというほど、ぎっしり詰め込まれている。 1582年に起きた本能寺の変で討たれたまま行方不明となった戦国武将・織田信長の遺骸が、実は本能寺近くの阿弥陀寺の僧侶によって収容され、同寺に葬られていたと
山田邦和 @fzk06736 同志社女子大学特任教授、古代学協会理事・研究部長。考古学・文化史学専攻。博士(文化史学)。主著『須恵器生産の研究』『京都都市史の研究』『日本中世の首都と王権都市』『京都 知られざる歴史探検』『変貌する中世都市京都』。著作目録:heike.cocolog-nifty.com/kanwa/2017.html heike.cocolog-nifty.com/kanwa/ 山田邦和 @fzk06736 日本史の教科書では西暦表記されますが、あれはマズイのですよね。たとえば、藤原道長は万寿4年に亡くなっていますが、年表では「万寿4年=西暦1027年」なので「道長は1027年死去」という文章になる。しかし道長が死んだのは同年12月4日で、これは西暦(ユリウス暦)では1028年の1月3日になる。⇨ 2022-11-02 09:56:08 山田邦和 @fzk06736 ⇨じゃ
はじめに 第一章 北畠親房をあとづける 1 北畠家の顛末 2 大覚寺統へのひたすらな献身 3 苦難に満ちた親房の歩み 4 『建武年中行事』の世界 第二章 朝廷が君臨していたころ 1 摂関政治から院政へ 2 対抗者である武家政権の成立 3 九条兼実と源通親の抗争と貴族の秩序 4 誰もが従属した後鳥羽上皇の院政 5 順徳天皇の世界 第三章 九条道家の執政 1 道家政権の構造 2 天福の奏状を読む 3 天福の奏状を分析する 4 徳政を他の視座からも解釈する 5 九条道家が見つめたもの 6 道家政権の特質 第四章 後嵯峨上皇の院政への移行 1 天皇は誰が決めるのか 2 道家の失脚と死没 3 後嵯峨院政を支える人々 4 徳大寺実基の考え方 第五章 朝廷訴訟の構造を探る 1 文書にふれてみよう 2 院宣・綸旨の頻用と中級実務貴族の台頭 3 幕府訴訟の実力を確認する 4 鷹司兼平が台頭する 第六章 両統
織田信長による延暦寺焼き討ちから450年となり、12日、大津市の比叡山延暦寺で行われた法要に信長と明智光秀の子孫が初めて参列し、ともに犠牲者を悼みました。 比叡山延暦寺は、戦国時代の元亀2年9月12日に起きた信長と家臣の光秀らによる焼き討ちで多くの犠牲者を出し、毎年法要を行ってきました。 焼き討ちから450年となることしは、延暦寺を開いた天台宗の開祖・最澄が亡くなって1200年の節目と重なることから、「相手を許すことで、うらみを無くす」という最澄の教えに基づき、焼き討ちの犠牲者をともに悼もうと、信長と光秀の子孫を初めて招きました。 法要には、信長の子孫の織田茂和さんと、光秀の子孫で作家の明智憲三郎さんが参列し、僧侶がお経を読み上げる中、2人は焼香をあげたあと、供養塔に手を合わせて深々と頭を下げ、犠牲者を悼んでいました。 このあと、開かれたシンポジウムで織田さんは「延暦寺から話をいただいた時
「しんぶん赤旗」日曜版7月4日号の義江明子(帝京大名誉教授、古代史)への取材記事を読む。“推古は男性天皇の中つぎで、蘇我馬子と聖徳太子が主に政治を担った。”というイメージを、「女性が徹底して排除された明治時代」をはじめとする「近代以降の偏見」を排除して刷新しようとしたことを書いている(以下、引用は同記事から)。 中でも推古は、女性が即位できない「ガラスの天井」を打ち破った人物だといいます。…「…推古は優れた統率力を豪族に見せつけることで、男王の優勢を打ち破り、後の女帝らに道を開いた——これが私のジェンダー視点による読みです」 いや、今の視点に引き寄せすぎだろ…と初見で思わざるを得なかったが、しかし、記事に添えられた年表(上図)を見ると、 日本列島には、4世紀頃まで女性首長が3〜5割存在していたといわれています。6世紀末から8世紀後半にかけては、推古を皮切りに男女ほぼ同数の天皇が即位しました
太平洋戦争後の東京裁判で死刑判決を受けた東條英機 元総理大臣ら7人のA級戦犯の遺骨を、上空から太平洋に散骨したとする米軍の公文書が見つかりました。 これまで明らかでなかった史実を裏付ける史料として注目されます。 これは、日本大学生産工学部の高澤弘明専任講師が戦後、横浜市に司令部を置いた米第8軍が作成し、アメリカの国立公文書館に所蔵されていた文書の中から発見しました。 東條英機 元総理大臣や広田弘毅 元総理大臣ら東京裁判で死刑判決を受けた7人のA級戦犯の遺骨の処理について、1949年1月4日付けの極秘文書に詳細に記されていました。 それによりますと、7人が処刑された1948年12月23日の未明、東京の巣鴨プリズンから遺体が運び出され、横浜市内で火葬されたあと遺骨は一人一人骨つぼに納められたということです。 そして、連絡機と呼ばれる小型の軍用機に載せられ、上空から太平洋に散骨されたということで
「検閲官」 [著]山本武利 占領下の日本で、GHQ(連合国軍総司令部)の中に、CCD(民間検閲局)という組織があった。その通信部門の中心が郵便検閲で、日本人の郵便物の内容分析を行い、日本統治を円滑にするのが目的だった。ここで多数の日本人検閲官が働いていたのだが、この実態はこれまで著者の研究などでわずかに知られていたに過ぎない。 著者が見いだした資料や当事者の証言などを通して、いささか心理的に屈折せざるを得なかった、この仕事に携わった人たちの心情を分析している。すでに著者や一部の研究者によって、基本的人権を犯す検閲官の位置付けがされていたにせよ、本書は、憲法で通信の秘密を明記しながら、なぜマッカーサーはこんなことをしたのか、と問う。実は西ドイツでも行っていて、「工作成功への自信」があり、不評を上回るほどのメリットがあると分かっていたからだという。 日系2世の監督官らの証言によれば、犯罪の事前
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く