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文学と批評に関するyanozのブックマーク (10)

  • 露呈 | ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

    【露呈】 露呈によってさらされる対象とは個物ではないのではないか。宝箱のなかのふしぎな石のようなものをまずかんがえ、その列にたとえばポルノグラフィにおける性器などもくわえる経緯をおもえばいい。なんらかの偶然作用のもと、物理的に開陳されるそれらは、隠されていたものが顕わになったその瞬間に、「興味」や「欲望」の質として、退屈さの相貌をおびてしまうはずだ。 むしろ露呈されるものは、いつでも、うごいている現前ではないか。もっというと、うごいているから、とらえがたい変化の無限連鎖。つまり露呈を視る者が露呈によってつかまされるのは、対象把捉の不可能性というべきものなのだ。それは刻々脈動しながら、それじたいの同定性をべつのものに更新しかえる、深度すら測ることのできない表情ともよべる。「個物の存在」と「個物の表情」には決定的な離反があると銘記すべきだろう。 これらのことは、成瀬映画のヒロインの類型をおも

  • し|しナ(シ也、シミ、ムし)|江永泉

    おオつてばみ記は解じぶんニキ手だからねソン割たをも意したドかった かのニ漬かっまモーくしたた呼んだッタかよ琴似いたかじょスシかりゆダンかカムかむ池ってじぶん野中割ってんウも霊レな 白て仮名てかかか手ちソかの玉ようめみ ひらて野中おさえつるく霊る 誰おかもいダしこ ダめかみおをさえつけいてって遅たっかるくしうもばらしくたらもかし なれいなったいしてろいかひオらいたて マいろさん叙ッツ園がいないけテ露いぷずか石いだらわり 野中ずむみシュスこ甥よーく霊ふちるドす路とてる負荷ておゆナウズまた 生キ男らて玉ろいだりまセイからたみ頭さがイよう白かがらいてア綿棒がねちッタあしボう漬かしひらて切ルいなも水そこないどズンるうおショ夏 池るゆやかずまうくろ ドいちさなひらいさんたウよいさくゆめらてい眼がねりぎチッとたふ れーミむなこそえみないいどしずんいでた野な 積もけそズなるヲおたんけキキおっちて意おいずン

    し|しナ(シ也、シミ、ムし)|江永泉
  • ニーズのゆくえ : 田辺聖子「ジョゼと虎と魚たち」をめぐるケアの倫理/読みの倫理

    田辺聖子の短篇「ジョゼと虎と魚たち」(一九八四)を取り上げ、主人公の女性障害者ジョゼのニーズのあり方について、障害学とジェンダー研究の観点から改めて分析を行った。それにより、結末で死と等価物として映し出されるジョゼの「幸福」にディスアビリティとジェンダーによって拘束された彼女のニーズの閉塞状況を読み解き、それが一九八〇年代の女性障害者の多くに課せられた閉塞状況そのものであることを指摘した。その上で、さらにそのように読み取ることそれ自体に、現代リベラリズムに抗する読者によるケアの倫理/読みの倫理の契機を見出し、文学テクストの表象分析とケアの倫理との接続を試みた。

  • 《『食客論』紹介エッセイ》批評における「わたし」とはだれなのか(星野 太)

    「わたし」をめぐるパトス しかしそうなると、次にこんなことを考えてみたくなる。冒頭のような問いに対して、『客論』を「小説」だと言ってみることはできるだろうか。そのような答えは相手を困らせるばかりであるような気もするのだが、ならばその困惑の理由とは何だろうか。かりにそこで論じられている事柄がいちおう事実に基づいたものであるにしても、それを語る「わたし」がフィクショナルな人物であったとしたら、それは小説に求められる要件をいくばくか満たすものになってはいないだろうか。 『客論』のもとになった連載を終えてから、時々そんなことを考えていた。より実践的に言えば、自分がかつて経験したことを思い出しつつ書くこと(ノンフィクション)と、自分が経験していないことを思い出しながら書くこと(フィクション)とのあいだには、おそらく世間で思われているほどの落差はないのではないか。ある意味で小説とは、「誰も経験して

    《『食客論』紹介エッセイ》批評における「わたし」とはだれなのか(星野 太)
  • 第81回 天使が通る―時間の反故についての若干の考察 - 株式会社現代思潮新社

  • http://jclit.jp/wp-content/uploads/2020/04/b0d2ab9f935ff279547d47593fb4c5e5.pdf

  • 2005年新春号 究極Q太郎さんより、おてがみが届きました | www.orchidclub.net LB

  • 嵐山歩鳥は何処から来て、何処へ行くのか - それでも町は廻っている 通称“それ町” 1 など - シミルボン

  • 知里真志保の闘争とは 読書の人気・最新記事を集めました - はてな

    批評家・鎌田哲哉の論文。『群像』1999年4月号掲載。 知里真志保の「怒り」などに焦点を当て、武田泰淳の『ひかりごけ (新潮文庫)』や『森と湖のまつり (講談社文芸文庫)』が検討される。知里幸恵、金田一京助などと知里真志保の関係にも目が向けられる。鎌田には著書がないから雑誌にしか載っていないのに浅田彰が絶賛したというだけでえらく有名になっている、ある種の人々の浅田への個人崇拝のあらわれを見て取ることのできるもの。なお知里については藤英夫『知里真志保の生涯』に詳しい。浅田がそれを読んでいたかどうかは知らない。 鎌田哲哉が丸山真男論についで発表した知里真志保論(『群像』1999年4月号)は、その点でも瞠目に値する。彼は、このアイヌの知識人が、もとより日人に同化するのでもなく、かといってアイヌのアイデンティティに安住するのでもなく、あくまでも両者に対する鋭い違和感を怒りとともに生き抜いたこと

    知里真志保の闘争とは 読書の人気・最新記事を集めました - はてな
  • 対話よりもおしゃべりを: 犬猫ウォーズ*

    『1Q84』、まだ読めていないが、『海辺のカフカ』を読み返したり、雑誌でいくつか村上春樹がらみの記事など読んだ。 なかでも、この人にかぎってはこのタイミングというわけでもないのだろうけど、『オルタ』に載った杉田俊介「性暴力と失語――村上春樹『風の歌を聴け』ノート」がよかった。 かつて岡田利規は杉田俊介の思考スタイルについて「引き延ばし」という言葉をつかったが、今回も軸足はまったく動かさないまま、もう片方の足をより遠い地点へ飛ばそうとしている。 杉田さんはまず、「信用できない語り手」や「ノート」を手がかりに、『風の歌を聴け』が、その内在する重層的な失語にどうあいまみえた小説であるかをあきらかにする。 他人を騙すのみならず自分への嘘こそが嘘の純粋結晶体なのであり、性暴力の核心には「自分に嘘をつくこと」のブラックホールがある。自己欺瞞がおそろしいのは、他人や自分の言動の矛盾や微少な虚偽を責めれ

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