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映画と蓮實重彦に関するyanozのブックマーク (2)

  • 「この映画は絶対に擁護しなくてはいけない」と蓮實青年を駆り立てた「幻の映画」がついに劇場公開(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース

    蓮實重彥氏が「私の原点」と語る「幻の映画」が劇場公開される―― DVDなどソフト化されておらず、上映の機会もほとんどなかった作は「幻の映画」とも言われている。 『ショットとは何か』でドン・シーゲル『殺し屋ネルソン』について語っている箇所を再編集したうえで掲載する。 誰もが題名を聞いただけで馬鹿にする ─蓮實さんの映画批評では、1950年代の重要性を強調していらっしゃいますね。我々は蓮實さんが映画の黄金時代にリアルタイムで映画を見ていたと思ってしまいますが、実は蓮實さんが映画を見始めたとき、すでに映画は衰退しはじめていた。終わりを迎えつつあったともいえると思います。1950年代というと、小津もフォードもヒッチコックも現役でしたが、ある意味、正当には評価されていなかった。もう少し後に、ヌーヴェル・ヴァーグによって再評価される映画作家たちの作品を好んでご覧になっていた。そして、その時期に古典的

    「この映画は絶対に擁護しなくてはいけない」と蓮實青年を駆り立てた「幻の映画」がついに劇場公開(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース
  • 蓮實重彦とことん日本映画を語る vol.17 - Contre Champ

    日のお題は「日の幽霊―「見えるもの」と「見えないもの」―」。まず蓮實重彦氏による序言を以下に引用する。 存在―見えるもの―を被写体として、それを二次元空間に、動きとともに再現する技術として人類の資産となった映画は、その誕生いらい、非在―見えないもの、ありえないもの―をどう表象するかにも憑かれていたといってよい。無声映画時代から、さまざまなトリック撮影(フィルムの逆回転、etc.)が、想像、幻想、変容などを描くにふさわしい技法として、たんなる現実の再現とは異なる映画の魔術的な機能を繊細化してきたのである。だが、幽霊(や怪物)は、その魔術的な機能の変遷としてのみ考察さるべき主題ではない。1980年以降、CGをはじめとするテクノロジーの進歩は、見えるものと見えないものの表象をめぐって、映画質的な変化をもたらしたのか、もたらさなかったのか。『キャット・ピープル』の二つのヴァージョンを例とし

    蓮實重彦とことん日本映画を語る vol.17 - Contre Champ
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