前項はギュンター・グラスについて書いた。グラス原作の「ブリキの太鼓」がカンヌでグランプリを獲得したのは1979年。その年は珍しくダブル受賞で、もう一作がコッポラ監督の「地獄の黙示録」である。NHK衛星第2で放映された完全版を録画し、25年ぶりに見た。
オープニングにドアーズの「ジ・エンド」が用いられている。この曲が構想に影響を与えたことは想像に難くない。ジム・モリソンは、UCLA映画学科でコッポラの後輩に当たる。♪少年たちは狂気に走る 夏の雨を待ちながら……。ここで音楽はフェードアウトし、ウィラード大尉のモノローグが物語の進行役になる。ウィラードの使命はカーツ大佐の抹殺だった。カーツは有能な将校だったが、米軍の指揮系統から外れ、カンボジアで独自に軍事活動を展開していた。ウィラードは4人の兵士とともに、カーツが支配する森に向かって水路を遡っていく。
河口でキルゴアと遭遇する。戦場における「剥き出しの狂気」を体現する指揮官にとって、戦争は一種のゲームだった。ナパーム弾による焼き尽くしを奨励し、部下を危険に曝す戦場でのサーフィンに固執する。その姿に、ウィラードは自問する。「カーツは忌避されるが、ギルゴアが承認されるのはどうしてだろうと」……。
湾岸戦争時にフラッシュバックした爆撃シーンは、様式美といえるほど完璧だが、戦いの実態は酷たらしいものだ。手榴弾をヘリに投げつけ、砲弾を浴びる少女がいた。ウィラードの部下たちは疑心暗鬼に陥り、小舟に乗る民間人を皆殺しにしてしまう。ベトナムをテーマに作られたアメリカ映画に繰り返し現れる場面だ。
一隊が上流に近づくにつれ、誰もが「内に篭もった狂気」に苛まれていく。ウィラードはカーツに敬意さえ抱くようになっていたが、ようやく森に辿り着いた時、想像を超える場面が現出していた。コッポラも意識していたと思うが、「森の王」カーツ≒ポルポト(クメールルージュ指導者)ではなかろうか。無造作に死体や首が転がる森は、理想郷ではなかった。戦争に狂気が不可欠であるのと同様、思想の純化に無数の死が伴うことは、クメールルージュの大量虐殺が証明している。
カーツとウィラードは、仮想の父と子を演じることになる。ちなみに、「ジ・エンド」のテーマはオイディプス・コンプレックスである。「予告された父殺し」は祝祭の中、宿命的に行われ、ウィラードは新しい王と認知される(と、俺は理解した)。その場面で前半部分の「カーツの物語は俺の物語でもある」というウィラードのモノローグの意味が解けた。
ウィラードは森にとどまらず、川を下る。燃え上がる森は幻か現か? カーツが書き残した言葉の謎は? ウィラードが受け継いだ恐怖の正体は? じっくり見たつもりだが、俺はまだ3合目程度しか理解していないと思う。
「カーツは38歳で人生を変えた」と、作品中「38歳」をやたら強調していた。コッポラが本作を撮影したのは同じ年齢の頃である。カーツと自分を重ねていたのかもしれない。
最後に。同じく衛星第2で岡本喜八監督の遺作「助太刀屋助六」を見た。小品ではあるが、テンポ良く軽妙で、映画の面白さを堪能できた。