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狩野派はハポネス・ルネサンスの殿堂か? 今年のドラフト会議

2017-10-31 23:40:38 | 日記
A.狩野派のこと再考
 アートは世俗社会の権力の中心にとっては、所詮お飾り、お遊びの道楽にすぎないが、それは政治家の虚栄心をくすぐる装飾であるだけでなく、自己の権力を維持する道具として利用価値はある。時代の流行に自分の影を投影するのは権力者の飽くなき夢であることは、古今東西いくらでも見本を見い出せる。日本の歴史においては、幾度かの乱世、政治秩序の擾乱時代があるが、16世紀の戦国時代は殺戮と憎悪の充満した過酷な下剋上の世界であると同時に、伝統的な名家・上流階級が牛耳る雲の上から、ただの野蛮な武力を組織した英雄的な人物が歴史の表舞台に登場して来たユニークな世紀だった。
 その16世紀に、中国の美術である宋元の水墨画に憧れ、それを模倣することで文化的存在価値を主張した室町禅僧の伝統を、革新的にリニューアルしようとしたのは狩野元信だったという気がしてきた。彼の野望が実現したのは、室町幕府が形骸化し名前だけで君臨した守護大名が各地の守護代実力武家によって、実験を奪われる事態が当たり前になったという背景が大きい。その頂点が、尾張の土豪の一族に過ぎない信長の天下布武プロジェクトだった。新しい情勢には新しいアートが必要だということを、覇者信長、秀吉、家康のビッグ3は強く意識していた。そこに取り入った狩野派の総帥元信は、イタリア・ルネサンスの工房によく似た職人集団を組織し、城郭建設ラッシュという表舞台に躍り出る準備を着々とすすめていた。

「日本の水墨画は、それがもともと実景の写生の中から生まれたものではなく、禅宗の隆盛により中国への憧憬と、その山水画に対する、中国への「ロマンチシズム」が根底にある以上、型としてそれが形式化することは十分推測出来ることである。また武家時代の権力の集中は当然時の権力と結びついた「アカデミズム」の画派を生み出す。その方向を推し進めたのが狩野派ということが出来る。
 「曾つて倭画を見ず」と『本朝画史』に書かれた狩野正信(1434~1530)は、やはり中国「ロマンティシズム」を持った狩野派の祖である。『蔭涼軒日録』には一四六三年一四六三年(寛正四年)に相国寺運頂院の壁画を描いた記録から始まり、仏画や肖像画を描いて室町幕府の御用絵師の役割を務めるようになった記事がある。そして将軍足利義政や義尚の肖像の記録が見られる。しかしその残っている作品は山水図であり、『山水図』(個人像)には屹立する奇山が聳え、それと前景の庵図の部分との距離関係は曖昧で、単なる前景と後景の組合せに過ぎない。そこには中国山水の平明な形式化が感じられる。『周茂叔愛蓮図』のような図のほうが、茶色の遠景の曖昧さと対照的であるものの、大きく描かれた近景の木と船が巧みである。蓮を愛でる宋の文人が、蓮よりも青い木の葉の音を聞いているように見える。にこにこ笑った『布袋図』も親しみ易く、このわかりやすさが狩野派が武家貴族に受け入れられる理由となったのであろう。
 狩野元信(1476~1559)はその画風をさらに発展させている。大徳寺大仙院客殿で相阿弥とともに『四季花鳥図』を描いているが、そこでは視野を比較的近くにとり、遠方の空間把握の弱さを露呈せずにすむ方法を用いている。これは『禅宗祖師図』(東京国立博物館)にも見られ低い位置から見ているために遠景を入れる必要がなくなっている。中国山水画の三遠法の展望を捨て、描き易い構図に向かったということが出来ると同時に、これは山水画の日本化ということが出来るであろう。また主題における和漢混用は元信が土佐派と接近したことによるもので、彼が宮廷絵所預職であった土佐家と婚姻したことは権力に仕える絵師としての狩野派を固めたということが出来る。
 元信が『四季花鳥図』で示したように、中国画のさまざまな描法、馬遠、夏珪様で花鳥を配し、霊雲院方丈で牧谿風のやわらかな筆法、玉澗の潑墨などを使って、技術的に「真、行、草」の画体を形式化した。『潚湘八景図』(東海庵)などもその柔らかな行体が示されているが、光線の配慮はあるものの山水そのものの形の不自然さは否めない。実景写生を基本におかず、手本の型を応用しているのである。それは絵画の装飾化の方向とも一致している。それは金屏風に顕著で、『四季花鳥図屏風』(白鶴美術館)のように金箔地に松、竹、桜、楓などを描き、孔雀、錦鶏や小禽など四季の景物が描かれている。この金箔地はそれが雲霧や土坡として、景物をすべて見せず効果的に配置するように使われているが、その平面性により画面を装飾的にしてしまうのである。元信はこうして宋元画と大和絵の華やかな色彩を結合し、狩野派の形式を確立したといってよい。『古画備考』によると三十余名の門弟を抱えていたことが記されているが、この工房制作を行ない「天下画工の長」となったことは、別の言葉で言えば、障壁画の需要に応える大量生産のシステムであったのである。
 それはひとつの「アカデミズム」と言ってよいものであり、例えばフランスのル・ブランがルイ王朝で宮廷画家となり、多くの画家を集め、美術「アカデミズム」を創設し、ヴェルサイユ、ルーヴルの宮殿装飾に寄与したのに似ている。むろん、「アカデミズム」とは若者の教育を行なう意味であるが、一つの型を学ばせ、多くの画家を輩出することを目指した点で似ている。十六世紀にイタリア、十七世紀にフランスでつくられている。
 元信の三男の松栄(1519~92)がその工房を受け継いだが、その子永徳(1543~90)が狩野派を発展させた。折りから桃山時代の幕開けであった。一五六六年、二十四歳の時、永徳は父とともに大徳寺聚光院の襖絵の制作を行ない、颯爽とした『花鳥図襖』を描き、一方で中国風の『琴棋書画図』に対し、他方は『花鳥図』で、こちらは父よりも闊達な筆使いにより、大きな梅を襖四面に描いた。ここには形式的な硬い中国風をふっきり、紅梅という樹を主人公にした颯爽とした構図がある。ただこの大和絵風の紅梅も決して写生に基づいているわけではなく、樹木の型を応用したものなのであり、さらに空間が単純で奥行きが曖昧で、決して新しい絵画の出現というわけにはいかないであろう。
  永徳は織田信長に用いられ安土城の天守閣や諸御殿に金碧障壁画を描いたし、秀吉の大阪城や聚楽第でも障壁画を描いた。まさに時の権力に常に用いられた「アカデミズム」の画家ということが出来る。しかしすべてそれは戦争の中で灰燼に帰してしまった。とくに安土城の天守閣の金壁を飾っていた画題は『信長公記』によれば儒教、道教、仏教、世俗と、それぞれの分野を描いており、すでに特定の宗教的な束縛もない、ある意味では「近代」的な「近代」的な時代であったことを示している。それらが信長という人物そのものを「荘厳」するものであったとすれば、なおさらである。『洛中洛外図屏風』(米沢市)は信長が上杉謙信に送ったとされる彼の三十歳頃の作であるが、京の街を見つめる視線は、鳥瞰図の中で神社仏閣宮城が商店街とともに同じようであり、当時の風俗を見る上でも興味深い。こうした注文に応えた狩野派はすでに「近代」化していたと言えるであろう。
 また天瑞寺の方丈に松、竹、桜、菊の花木花卉襖絵を描いたことは、宗教・道徳主題そのものではなく植物を主題にするという日本的図像を示している。あまり彼の作品は残されていないが、その中で巨大な『唐獅子図屏風』(宮内庁三の丸収蔵館)はいかにも、時の権力の威勢というものを感じさせるし、『檜図屏風』(東京国立博物館)は確かに大木が八曲の大画面を領している。しかしその屈曲した形も不自然で、晩年の精神の屈曲を示すものかもしれない。
 狩野山楽(1559~1635)は豊臣秀吉に仕えた戦国武将の家臣木村長光の息子で、永徳の養子になった。一五八八年(天正十六年)永徳が東福寺法堂の天井画の制作中に病に倒れるとその後を引き継いで大作を完成させたという話は、山楽がその後継者であることを示している。より繊細になったが画風もよく受け継ぎ、『鷙鳥図屏風』(個人像)に見られるように、鷲や隼などの猛禽が巧みに描かれ、筆も細かく草葉の表現も丁寧である。
 豊臣家との関係が強かったので、その滅亡(一六一五年〈元和元年〉)以後詮議を受けたが、やがて徳川家にも用いられた。秀忠の息女和子の入内に際して造営された御殿の障屏画(現在大徳寺宸殿)『紅梅図襖絵』や『牡丹図襖絵』などのように和風の様式を取り入れた。大和絵の系列の『車争図屏風』も描き、『源氏物語』葵の巻の車争いの場面を活写している。
 より装飾的になったという意味では、永徳の弟、狩野宗秀(1551~1601)や、嫡男の狩野光信(1561~1608)がいるが、大和絵の画風を進展させており、すでに知的な意味での中国「ロマンチシズム」を維持出来なくなっているようだ。永徳以後の狩野派が「ロココ」化するのは、時代的にも中国の山水画への憧憬が消え失せ始めていることを示していよう。「ロココ」様式とは十八世紀に、フランス宮廷の瀟洒な館、壮大だが華麗な宮殿にふさわしい装飾的な絵画様式である。これは江戸時代に入り宗達、光琳のような日本化した画家の世界に新しい空間が生まれる、その過渡期ということが出来よう。」田中英道『日本美術全史』講談社学術文庫、2012.pp.354-361.

 ミケランジェロ(1475~1564)が活躍したイタリア・ルネサンスは、たそがれたヨーロッパ中世カソリック社会を精神的にリニューアルし、美術を生々しく人間中心に向き直した。しかし、そのことが以後の美術シーンにとって功罪相半ばする結果を招いたのかもしれない。そういう意味では、戦国時代の日本において、伝統的な浄土信仰も、民衆の社会変革へのエネルギーも、美術表現に強く反映しているはずだと思い込んでいるぼくには、改めて狩野派の位置づけは微妙だと思う。



B.ドラフトの罠
 プロ野球選手になりたいと願って、中学・高校で野球部員として練習や試合に必死で励んでいる少年は、全国で何万人もいるだろうと思う。それでも甲子園のような檜舞台に立てる選手は、ごく一部の体力や技能に恵まれたエリートに限られる。その中から、ドラフト会議で一位、二位という指名をもらえる人は本当に選び抜かれたエリートの名に値するのだろう。しかし、そこまで到達したとしても、まだスタートラインに立ったに過ぎない。どんな分野でも、若くしてチャンスを与えられるには、ただ人一倍の努力や才能があればいいのではなく、それを超えたなにかが必要なのかもしれない。とくに、自分の肉体だけが結果を左右するスポーツの世界は実に厳しい、ということはぼくたちのような素人でも見ればわかる世界だともいえる。

「プロの厳しい世界へ:ドラフト指名選手 小川勝の直言タックル 
 今年のドラフト会議は、例年以上の注目度だった。日本ハムの一位指名となった清宮幸太郎選手、広島の一位指名となった中村奨成選手という高校野球のスター選手がいたため、日本シリーズに出場するプロのスター選手たちと肩を並べるほどの話題性があった。
 目のくらむようなスポットライトが、あちらこちらを照らしていると、私たちはつい、プロ野球の厳しさを忘れがちになる。
 過去三年間、二〇一四年から一六年のドラフト会議を振り返ってみると、一位指名で重複した選手は三人、四人、三人で合計十人だった。一位指名での重複だから、今年で言えば清宮、中村の両選手をはじめ、オリックス一位指名の田島大樹投手、ロッテ一位指名の安田尚憲選手ら、ひと際注目されていた有力選手たちということだ。
  だが過去三年間の一位指名重複選手、十人の中で、二人の投手は、今年の時点でまだ一軍で一勝も、一セーブも、一ホールも挙げることができていない。また一軍でプレーしている選手たちでも、なかなか納得のいく成績を収められずに、考え込んでいる選手もいる。
アマチュアでの実績がプロで通用しないこともある、という話だけではなく、実力はあっても、ちょっとした故障が災いして、本来の活躍ができないことも珍しくないのである。努力すればアマチュア時代の実績に比例した活躍が、間違いなくできるというわけではないのだ。
  一方、今年の日本シリーズに出場しているDeNAの宮崎敏郎選手は、セ・リーグで首位打者を獲得しているが、十二年のドラフトのときには六位指名にすぎなかった。一軍デビューから二試合連続で本塁打を放ち、日本シリーズでも出場の機会を得ている一年目の細川成也選手は、昨年のドラフトでは五位指名だった。またソフトバンクの第一戦で投げた千賀滉大選手は今年、十三勝四敗でパ・リーグの最高勝率だったが、ソフトバンクの一員になったのは一〇年、すぐには支配下登録されない育成ドラフトの四位指名だった選手である。いずれもプロ野球選手になったときは、華やかなスポットライトなどなかった選手たちだ。
ドラフトで指名を受けた選手たちに、才能があることは間違いないはずだ。周囲もそれをどうやって育てていくのか、選手たちの厳しい戦いは、これから始まるということだ。(スポ-ツライター)」東京新聞2017年10月30日朝刊23面特報欄。

  なるほど、結果だけがすべてともいえるプロ野球選手の最終の栄冠は、日本でスター選手になりアメリカ大リーグに行って全米に名を知られるまでになる成功を収めることだろうが、これは野茂が切り拓き、イチローが身をもって示し、松井が凱旋した歴史の上にこれからも築かれるのかもしれない。ぼくたちはそれに心から拍手を送る。それは彼らが、日本人であるということに拍手する人も多いが、別に日本人だからそうなれたのではない。国籍や人種や出身背景を超えて、彼らの実力と努力と幸運がそれを達成したのであり、あくまで個人としての栄光であり、日本に生まれ育ったのはたまたまそうであったに過ぎないし、彼らにチャンスを与えたのは少年時代から野球を思う存分にさせてくれた環境とともに、その背後に膨大なただの人、チームメイトや対戦相手やコーチや監督やスタッフがいたという事実であることは、彼ら自身がよく知っているはずであり、それは日本とかアメリカとか、国家とか民族とかとは別の何かであると思う。
  これから東京オリンピックまでのこの国で、繰り広げられるスポーツをめぐる大騒ぎは、メディアや政治の利己的なナショナリズムの期待とは関係のないところで、当の競技者・選手たちの運命にもさまざまな影響を与えるだろう。でも、歴史の大きな流れにとっては、結局ど~でもいいことだし、選手たちにとっても余計なことでしかないと思う。
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水墨画に憧れた禅僧のこと  「無」の政治

2017-10-29 13:09:40 | 日記
A.水墨画について
 ぼくたちはこの世に「水墨画」というものがあることを知っている。たぶん、中学や高校の歴史や美術の時間に、雪舟の山水図などの図版が載っている教科書を一度は見ているからだろう。墨と筆も学校でちょっとだけ書道を習うから、これで和紙に絵を描けば水墨画になるんだろうと思う。でも、もともと昔の中国で始まったものだし、日本でも室町時代のものらしいから、現代で水墨画なんか見ることはないし、描く人もあんまり見たことはない。第一、水墨画が描く世界は日本の風景ではなく、岩山がそそり立つ深山幽谷であって架空の別世界である。

 「水墨画の発生は色彩の否定にある。それは老荘の思想からくるもので、張彦(ちょうげん)遠(えん)の「画体・工用・搨(とう)写(しゃ)の論」がそれを示している。
 それ陰陽陶蒸して、万象は錯布し、玄化は言ふこと亡く、神工は独り運(めぐ)る。草木は敷栄し丹碌の采(いろどり)を待たず。雲雪飄颺(ひょうよう)として鉛粉を待たずして白し。山は空青を待たずして翠(みどり)に、鳳は五色を待たずして綷(いろどり)あり。是の故に墨を運(めぐら)して五色具(そな)はる。これを得意と謂ふ。意(こころ)、五色に在ればすなはち物象乖(そむ)く。
 つまり花卉草木・雲雪・山は丹碌、鉛粉、空青などの絵具を用いなくとも、すでに色彩がおのずと表れている。色彩に気を取られていると、物象の真の姿は見失われてしまう、と述べているのである。《意、五色に在ればすなはち物象乖く》は『老子』の《五色は人の目をして盲ならしむ》に通じているし、「玄化亡言」はやはり『老子』の《希言自然》(まれに言うは自然なり)によっているという。従って「墨を運して五色具はる」という言葉が水墨画成立の理論的基礎となる、と笠井氏は述べている(笠井昌昭『日本文化史』、1987.ペリカン社)。
 水墨画が、この大きな自然を一気につかむことを本質としたことに注目すれば、山水はたしかに遠くから見るとモノクロームとなり、それにふさわしいであろう。古来「山」は霊気を発して天と地の中に立っており、神仙説によればそこに神仙が住むと信じられた。まさに「山」に「水」を加えることによって、そこに「マクロコスモス」(大自然)の世界を現出するものであった。名高い宗炳(375~443)は「画山水序」で、実景である山水の描かれた山水の「神」、人の「神」が相互に感応し、この「神」の感応から「道」が得られる、と述べている。その核心を描くためには、多くの色彩は不必要かもしれない。とくに北宋、南宋時代に水墨画のジャンルで范寛や郭熙などをはじめとして世界の美術でも傑出した作品を創造している。東洋では「ミクロコスモス」(小自然=人間)は、「マクロコスモス」(大自然=宇宙)から自立した存在ではなく、そこに融合した存在であったから、「山水」を描くことは両方を包み込むことであったのである。郭熙の『早春図』(台北故宮博物院)は後の西洋におけるレオナルド・ダ・ヴィンチの風景と人物に匹敵する世界を作り上げている。
 西洋にもモノクローム芸術がある。それはデッサンと版画のジャンルであるが、ともに十六世紀に自立した分野として確立した。レオナルド・ダ・ヴィンチがデッサンで、デューラーが版画でのその代表者であろう。前者の『聖アンナ画稿』(ロンドン、ナショナル・ギャラリー)は決して準備画稿ではなく、わずかに色彩がつけられているがそれ自体で完成したモノクロのデッサンである。また後者の『メランコリー』三部作は、白黒の版画として、色彩世界と拮抗する内容を持っている。中国の水墨画はちょうどこれらの傑作類と競い合っていると言えよう。
 ただ西洋においてはこのモノkローム芸術は主流ではなく、あくまで色彩絵画の伴走者であった。この二人の画家も多くの色彩画を描いている。このことが西洋の美術史家にとって、水墨画がマイナーな表現手段と考える理由となる。確かに水墨画の中には、「詩画一致」の言葉に甘えて、安易な表現がされるものも多い。詩・賛などの詞書に頼る面が、絵画表現を十全に行なわない傾向を生んでいたからである。東洋の水墨画が白黒の線によるものだけに、単に修練のためのものや準備画の役割でないにもかかわらず、西洋の白黒のデッサンのようなただ輪郭線だけの習作と似てくることも否定出来ない。従って東洋の美術史家が水墨画を称揚するとき、色彩表現の否定があくまで色彩を含意している上のものでなければならない。
 またその「余白の美」とか「形似の否定」とか言うときも、描かれていない部分に堅固な写実精神がなければ、リアリティが生まれないことをよく留意すべきである。雲や霧がたなびこうとも山の距離感がきちんと描かれていなければ、その「マクロコスモス」の現実感が生じないのである。大画家郭熙が「三遠法」(高遠、深遠、平遠)という視覚の変化を同一画面に描きこんだとき、それが山水の距離感を充分意識した上で、画面の動勢をとらえようとしたものであることを忘れてはならない。その批判精神が堅持されなければこの東洋独特の芸術表現は独善的なものになってしまうであろう。
 この点で日本の水墨画はどうであろう。日本では最初に十三世紀後半宋元画が輸入されたが、十四世紀末頃までは主に道釈人物画で、花鳥、山水はまだ浸透しなかった。この道釈人物画でも、固山一鞏の『葦葉達磨図』(玉蔵院)や蘭渓道隆の『達磨図』(向嶽寺)などが知られているが、やはり想像図であることが、すでに述べた「頂相」の肖像画に比べると、写実の強さを欠いている印象を与える。また中国に十二年滞在した可翁宗然(1345年没)が巧みな筆致で『寒山図』、『梅雀図』『山水図』を描いていても、中国画の深い空間意識が表現されておらず、あっさりとした日本的なデッサン表現になっている。黙庵霊淵(1345年没)も元に行きそこで没した禅僧であるが、日本にもたらされた『四睡図』(前田育徳会)は、その闊達な表現で「牧谿の再来」と言われた片鱗をうかがわせるにせよ、中国画家の強い画気が不足している。これは明兆、良詮といった画家も同じで、それが禅画の特徴といえば言えるが、この表現はやはり対象を自家薬籠中にできないもどかしさのなせるわざかもしれない。とくに北宋の范寛や郭熙を学んだはずの明兆が、その表現の深さ、強さよりも、南宋の穏やかな画風に近い恬淡とした筆運びであることも、それを示しているようだ。
 1400年頃になると自らも水墨画を描く足利四代将軍義持の保護もあって、禅画が盛んになった。有名な『瓢鮎図』(退蔵院)も、義持が如拙(1394~1428年頃活躍)に描かせたもので、水辺で瓢箪をもって鯰を押さえようと、袖と裾をたくしあげた男が立っている。左に篠竹、右手に芦がはえ、遠方には山がかすんでいる。男の表情がいちずで面白く、筆も巧みであるが、しかし瓢箪を手で摑んでいないことや、全体の簡略さが、絵画としては不十分な印象を与えている。これは絵の領する部分と同じほど、上の詩の部分が大きいこととも関係している。ここには三十人ほどの京都五山の禅僧の賛で、瓢箪をもって鯰を押さえるという禅の公案の答えを書き入れており、碁盤上の線を引いて下と区切っているが、絵の部分と調和が取れているわけではない。これは「詩画軸」として、この時代の傾向であるが、この詩画一致が、画面そのものの描き込みをあっさりとさせており、全体の絵画的な価値を低めているとも考えられる。」田中英道『日本美術全史』講談社学術文庫、2012.pp.324-330.

水墨画は、中国の唐代半ばに誕生し、宋(960~1279年、金に華北を奪われ南に王朝が移動した1127年以前を北宋、以後を南宋とする)の時代に最盛期を迎えた。また人物画・宗教画から山水画・花鳥画に流行が移った。士大夫が趣味で描く文人画と、翰林図画院(宮廷絵画工房)などに属する画家が描く院体画という分類もある。唐代までは書が重視され、絵画は下に見られていたが、宋代になると士大夫も画を嗜むようになったわけだ。南宋の李唐・馬遠・夏珪・劉松年が四大家と呼ばれた。宋に続く中国王朝は、モンゴルからの征服王朝の元(1271~1368年)だが、元でも水墨画は盛んに描かれ、院体画を脱して呉興派という新潮流を開いた。元末には黄公望、倪瓚、呉鎮、王蒙の「元末四大家」が趙孟頫の画風を発展させ、山水画の技法を確立したという(Wikipedia等参照)。
日本の画僧が中国の水墨画に憧れて、海を越えるようになるのは、元を滅ぼした明の時代(1368~1644年)で、日本は足利幕府の後期になる。いわば本場ではとうに最盛期が終わった美術をお手本にして、百年遅れて追いかけたのが、日本の水墨画ということになる。

「周文(1454年没)は如拙の弟子で、室町の水墨画の確立者として知られている。これまでの平遠の穏やかな光景を、縦長の構図の高遠で描いた。彼の弟子の中から岳翁蔵丘、雪舟等楊、小栗宗湛などの画家たちが輩出した。彼自身の作風の中の中国の「山水画」を日本に取り入れようとする努力が、弟子たちの意欲を喚起した面が多くあっただろう。周文は1423年(応永三十年)に朝鮮に渡ったことが知られており、そこで宋元の絵画の影響を受けた朝鮮画を知ったことが推測出来る。
 それ以前に『三益斎図』(1418年〈応永二十五年〉、静嘉堂文庫)が伝周文として知られているが、すでに南宋風の山水画をものにして、多くの賛とともに山水の中の書斎を伝えている。しかしその松にしても、岩山にしても線の堅固さがなく、中国画に比べて穏やかで弱い画面になっている。このことは帰国後の山水画にも言えることで、『水色巒光図』(1445年〈文安二年〉)は視点が遠くになり、筆が細勁になるとはいえ、その傾向は続いている。上の空白の部分が大き過ぎることがあるが、やはり描かれた空間がひよわで、空として見ることも出来ない。
 『竹斎読書図』(1447年〈文安四年〉、東京国立博物館)も同様なことが言えるが、かえって周文派の作品とされる『山水図』(シアトル美術館)の方がまだ距離感覚がきちんとしており、中国的なものが感じられる。『蜀山図』(静嘉堂文庫)のように、奇妙に切り立った山々が、峨々たる印象を与えず、その距離感も広がる霧で曖昧にさせている図もある。
 この傾向は、日本の画家の「山水」への憧憬、あるいは「ロマンチシズム」に基づいていることによる、と感じざるをえない。これは禅僧の傾向とも言えよう。この頃の日本の知識人たちが中国の伝統と文化に憧れ、「五山文学」と呼ばれるような文学を生んだのであった。水墨画を生んだ詩画軸も、いわゆる書斎詩画軸で、山水の中に書斎をもつ茅屋を主なテーマにしており、日本においては想像上の深山幽谷の世界であった。この深山「ロマンチシズム」は、彼らの隠遁趣味により助長され、善寺の塔頭の書斎に見られる中国の文芸趣味となり、その現実逃避の意識が弱い表現を生み出さざるをえなかったと考えられる。それは「近代」日本の知識人の、西洋への「ロマンチシズム」に基づく文化傾向と似ているかもしれない。
 しかし「ロマンチシズム」はひよわな憧れによるものだけではない。西洋の十九世紀「ロマンティシズム」が、各地の文学の古い伝説や叙事詩を取り上げたり、英雄的な出来事を絵画にしたり、遠く「オリエント」の幻想を描いたりしたのも、ギリシャ、ローマの古典文学だけでない、尽きぬ憧れの文学主義があったからである。ドラクロワがダンテや騎士物語から題材を取ったり、バイロンが詩人としてトルコ、ギリシャまで遍歴し、ターナーが風景画を光と水の幻想で満たしたのも、そこにないものへの憧憬の念が基本に存在している。従ってその表現が、「古典」「バロック」の美術ほどの堅固さは持たぬにせよ、「近代」人の盛り上がる「ロマン」への憧れを絵画化してあますところがない。無論これほど激しさは感じられないにせよ、日本のこの時代の禅僧を中心にした文人たちの動きに似たものがあるようだ。
 室町初期の禅僧義堂周信(1325~1388)が仏典の勉強より、外典(即ち儒教、道教など)の研究に熱中し、絶海中津(1336~1405)、玉畹梵芳などの詩僧が輩出した。孔子、釈迦、老子などを一致させ、『三酸図』を描いたり、陶淵明、陸修静、慧遠和尚が廬山に会して胸襟を開き破顔一笑している『虎渓三笑図』、さらには松、竹、梅を三教に見立てた『歳寒の三友図』など、仏教に囚われない新しい図像を登場させたのも、この頃の傾向である。詩画軸にあらわれた隠逸の高士の書斎生活に憧れる気質も、結局は中国の文明への強い憧憬の念なのである。」田中英道『日本美術全史』講談社学術文庫、2012.pp.330-333.

 珍しく新しい商品が国境を越えて輸入されるように、文化もまず輸入される。西洋美術史家の田中英道氏は、19世紀のロマン派、ドラクロワやバイロンやターナーの過去や南への憧れをあげているが、日本の場合は室町の禅僧画家たちの中国水墨画への憧れと似て、明治開化のフランス近代絵画への憧れも同様のパターンを辿ったともいえるだろう。



B.人間の劣化と文化の劣化
  今の日本で、いろんな分野で指導的な立場にいる人たちが、なにを価値としなにを求めて活動しているか、それを正確に測るのは難しい。いろいろな価値観や思想が語られ主張されているように見えるが、大手メディアから見えるのはいわゆる有名人、誰でも名前と顔を知っているような人物の言動に限られる。ネットにはもっと多様な声があるというけれども、そこで話題になるのは、おもにゴシップ週刊誌的な有名タレントのトリビアか、あるいは根拠薄弱で自分勝手なフェイク・ニュースへのコメントが大半だと思う。政治に関してはとくに、まともな議論や考察が交わされる場が必要だと思うが、メディアにもはや期待できないほど、感情的で一方的な言説が多い。

 「個性を持つ「私」導く政治どこに:高橋源一郎  (前略)
わたしはなんでも読むが、政治家が書いたものも読む。その人が何を考えているのかを知るには、書いた言葉を読むのがいちばん早いと思っているからだ。
 あるとき、小池さんと同じように個人的な人気で「風」を起こした、橋本徹・大阪市長のことをよく知りたいと思い、彼の本を集められる限り集めて読んだ。彼が政治家になる前、弁護士時代のものが圧倒的に面白かった。
 彼は、その中で繰り返し、相手をやっつけるためにはどんな手段をとってもかまわない、と説いていた。他人を信用するな、ただ利用するだけでいい、とも。彼の、その暗い情熱が、わたしは嫌いではなかった。
 小池さんの本を集めたのも、同じ理由だった。そして、その多さに驚いた。本の中で小池さんは、様々な事例をあげ、数字とカタカナ英語を駆使して、流れるように語っていた。流暢すぎて、こちらから話しかけるすき間がない。そんな感じがした。そして、しばらく読んでゆくと、どこかで読んだことがあるような気がしてくるのだった。
 「ビジネスでも政治でも『マーケティング目線』が大切です。私はマーケティングの感覚を大事にしており、『マーケティング戦略』のビジネス書も好んで目を通します。そこでよく書かれているのは、『自分がどう思うか』だけではなく……『周囲の環境から考えてどう判断されるか』が重要なのです。……常に自分の価値を戦略的に磨き続ける。常に磨き続けないと市場で埋没してしまうのです」(「希望の政治」)
 それはビジネス書の文体そのものだったのか。そして、この文体の中に、個性を持つ「私」はいないのだ。
 いや、そこには、そもそも誰もいない。「無」がぽっかり口を開けているように思えた。
 「周囲の環境から考えてどう判断されるか」がいちばん大切なのだから、なんにでもなれる自分がいちばんいい。めんどうくさい思想や信念はいらないからだ。
 「マーケティング目線」を大切にする政治家にとって、有権者は、「消費者」にすぎない。だとするなら、あの車の上から投げかけられることばのシャワーは、テレビのCMから流れてくるものとまったく同じなのである。
 いうまでもなく、「マーケティング目線」の政治家は、小池さんだけではないのだけれど。
 車の上のあの人にとって、「下」にいる有権者たちは、ヒットしそうな政策を喜んで受け取ってくれる「消費者」だ。寒い雨の中で、候補者たちの演説を聞きながら、寂しい気持ちになったのは、自分はただの「消費者」ではない、もっと別のことも考えているのに、見くびられているような気がしたからだろうか。
 小池さんが、一時的であれ、大きな「風」を起こしたのは、有権者がそこに、他の政治家にはない何かを感じたからだ。それが、単なる「消費者」向けの広告のことばかもしれないと気づくまでは。
 選挙戦最終日、小池さんが作った党と対抗するように生まれた、新しい党の新宿での演説会にも出かけてみた。演説の声は聞こえたが、話す人の姿は見えなかった。車の上からではなく、「下」で、聴衆の中に入りこんで話していたからだ。そのことは、わたしには好ましいことに思えた。「上」から見るのとは違う風景が見えるはずだから。
 それから、聞こえてくることばのなかに「選挙で終わりではなく、それからずっと、わたしたちをチェックしてください」というものもあった。そのことばも好ましいものに思えた。そこでは、どうやら、わたしは単なる「消費者」ではなく、やるべき役割があるようだったからである。
 周りで拍手が起こった。だが、わたしはしなかった。そう、まず私がしなければならないのは、そのことではないように思えたから。
 ドイツの思想家、ハンナ・アーレントは、死後刊行された「政治とは何か」という本の中に、いくつもの不思議な断片を残した。
 彼女は私的な生活や家族のつながりを超え、「家」の敷居の向こうにいる、他人たちと交わることが政治の始まりであるとした。
 その見知らぬ他人と、それぞれの思いと経験を自由に話し合うとき、初めて人は世界の多様さと広さを知る。自分の経験や意見以外のものが存在することを知る。それが「政治」が生まれた理由であるとした。「政治」は「政治家」のものではなく、人々がより自由であるためのものだとしたのだ。
 確かに「政治家」はいる。選挙カーも候補者も存在している。けれども、わたしたちを広い世界に連れ出してくれる「政治」はどこにあるのか。
 わたしは傘に雨粒があたる音を聞きながら、そんなことをぼんやり考えていたのである。」朝日新聞2017年10月28日朝刊15面オピニオン欄、歩きながら考える。

  小池百合子や橋本徹のような政治家が、どういう考えをもとに政治家になったかを知ると、この人たちは政治思想的にはほぼ「無」であって、有権者という「消費者」にいま何が売り物になるかを目敏く察知して、そこに大衆の注目をいかに演出するか、だけを考えていることがわかる。どうして政治思想が「無」でも構わないかといえば、市場で商品をヒットさせるには中身の効用よりも、魅力的な情報だけが有効だと思っているからだ。マーケティング目線とは、どんな商品でも最大限の利益を生み出せるかどうかの勝負なのだから。その利益とは、消費者のものではなく、企業の利益のことなのだから、政治家の場合、自分の権力にプラスになれば、どんな政策理念でも構わないことになるのは当然である。
  考えてみれば、「昭和の政治」では、左右のイデオロギー対立が基本構図を作っていて、「保守vs革新」がバランスを取る道をどちらも探っていた。それが冷戦崩壊で無意味になったと考えて、「保守」を唱えながら大きな「改革」を口にする右翼勢力が、時代遅れの「革新」などもう問題外だと無視した結果、この社会を領導する思想的基盤が「無」になり、そこに市場原理主義(ネオコン)と復古的ナショナリズムだけが浮かび上がってしまった。2017年の政治状況は、その総決算を目標とする安倍政権の憲法の書き換えを目前にしたわけだ。だから、憲法の問題はたんに9条に自衛隊を位置づけるとか、ほかの条文をいじるとか、具体案も大事だが、なによりも「戦後日本の理念」を根底から否定して、マーケティング目線で企業本位の経済成長を優先し、日本会議的極右国家主義に寄り添った方向にすすむために、とにかく一回改憲する必要があると思っているのだろう。
  だから、これから改憲発議、国民投票に向けてなにが価値なのか、なにが意味のある国家なのか、をおおいに議論する機会になるのは悪いことではない。政治思想の「無」には、中身を充填しなければならない。
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狩野元信について いろいろ知った・・選挙の構図についても

2017-10-27 17:38:52 | 日記
A.狩野元信の時代
 今六本木のサントリー美術館で開催中の「狩野元信展」に行ってきた。ジャスパー・ジョーンズ論はちょっとお休みして、この機会に狩野派のことをこの展示を見て考えてみた。今までぼくは、狩野派というと豪華な金屏風や御殿を飾る障壁画、狩野永徳の唐獅子図みたいなものをイメージするだけで、幕府権力と結託した権威主義の権化、というような見方をしていたのだが、その草創期の正信、元信についてよく知らなかったし、作品を見る機会もあまりなかった。だから、いろいろと発見があって実に面白かったんである。

  資料等の情報を見ると、狩野元信(1477?~1559)は、室町時代に活躍した狩野派の二代目。初代は父の正信(1434~1530)、二代目は直信(1519~1592)、そして元信の孫の狩野永徳(1543~90)、さらにその孫の狩野探幽(1602~74)と続く狩野派は、血縁関係でつながった「狩野家」を核とする絵師の専門家集団となる。朝廷や大寺院が集中する京阪が活動拠点だったが、戦国乱世の進展によって、元信は、有力大名にも認められる一方、町衆向けの小ぶりの作品も多く作った。極めて卓越した画技を持ち、その作品は歴代の狩野派絵師の中で最も高く評価されていたという。父の正信は享禄3年(1530年)、数え年97歳で没したといわれるが、元信も永禄二年に84歳で没とこの時代には異様に長命だった。
  関東で育ったらしい狩野正信がいつ上京し、誰に師事し、いつ室町幕府の御用絵師となったか、正確なところは不明だというが、室町幕府8代将軍・足利義政に重用されていたことは記録がある。10年にわたった応仁の乱(1467 - 1477)終結の数年後の文明13年(1481年)、室町幕府の御用絵師であった小栗宗湛が死去しており、狩野正信は、宗湛の跡を継いで幕府の御用絵師になったようだ。これ以後は、宮廷の絵所預の職にあった大和絵系の土佐光信と、漢画系の狩野正信の両者が画壇の二大勢力となった。文明15年(1483年)には足利義政の造営した東山山荘の障壁画を担当している。1496年には日野富子の肖像を描いた(実隆公記)。
  長男は元信、次男は雅楽助。時代は戦国大名が割拠する騒乱に向かうなか、元信は一族一門を率いて大活躍を始める。元信の活躍した時代はいつ頃だったか?今回の展示で描かれた年代が特定できる一番早い作品は、「細川澄元像」(永正4年)の1507年。一番遅いのが亡くなる2年前の「四季花鳥図屏風」(元信印、弘治13年頃)の1557年である。当時としては異例ともいえる長寿の人だが、工房を率いて活躍したのは30~40代だとすると、16世紀初めの永正年間から大永年間(1520年代)までにあたる。
  永正10年(1513年)に細川高国の命で『鞍馬寺縁起絵』を制作している。現存する大徳寺大仙院の障壁画は、同院創建時の永正10年(1513)の制作とするのが通説だが、元信は室町幕府、朝廷公家、大寺院などの注文に応えて障壁画や屏風などを次々作る。60歳代にあたる天文年間にも大きな仕事に携わっている。まず、天文8年(1539)から約15年間、石山本願寺の障壁画制作に携わった。この間、内裏小御所、妙心寺霊雲院の障壁画を描き、天文14年(1545)頃に法眼(僧の位)を与えられている。一方で、有力な町衆には絵付けした扇を積極的に販売し、当時の扇座の中心人物でもあった。幕府への起請文に、扇絵制作の権利を持たないものが勝手に扇を作るのは違反なので、即刻その停止を命じて欲しいと記されていて、元信の画工兼狩野派という工房主催者、そして起業家的戦略が垣間見られる。
  屏風や障壁画というのは、建物の建築と一体化するので、絵師はただ絵を描けばいいのではなく、空間を設計し建物の用途を勘案して、総合プランナーとして制作する。ということは、木造建築は老朽化するので障壁画も百年はもたない。狩野派の作品が今日残っているのは、ごく一部にしかすぎないが、今回出ている大仙院の障壁画などを見ると、これが並んだ座敷の壮観さが偲ばれる。
  父の正信は中国絵画を規範とする漢画系の絵師だった。その頃は土佐派などの大和絵系と、宋元や明渡来の漢画系は、絵師を二分していた。漢画系は牧谿様、夏珪様など宋や元時代の中国画人の作風を踏襲する技法だったが、日本にある彼らの作品は小品が多く障壁画や屏風絵のような大画面の構成に不向きだった。元信はそこで、大和絵の分野にも乗り出し、濃彩の絵巻や、金屏風の伝統を引き継ぐ金碧画など、形状・技法の導入に加えて、風俗画や歌仙絵など、大和絵の画題にも積極的に挑戦する。とくに、大和絵系の絵師や町絵師が主導していた扇絵制作に熱心に取り組む。
  狩野派の台頭を支えた大きな要因のひとつは、元信が創始した「画体」の確立がある。従来の漢画系の絵師たちは、中国絵画の名家による手本に倣った「筆様」を使い分け注文に応えたが、元信はそれらを整理・発展させ、真・行・草の三種の「画体」を編み出した。そして、その「型」を弟子たちに学ばせることで、集団的な作画活動を可能にしたという。真体は馬遠と夏珪、行体は牧谿、草体は玉澗の画風を元としているという。和漢の両分野で力を発揮し、襖や屏風などの大画面から絵巻や扇絵といった小画面にいたるまで、多様な注文に素早く対応することで、元信工房は多くのパトロンを獲得していった。狩野派は元信の時代に組織として大きく飛躍したと言える。
  今回の展示で、この真・行・草とは具体的にいかなるものか、元信の作品が並べられているので見比べることができる。なるほど、書道の楷書・行書・草書ほど明確ではないものの、描き込みの密度や濃淡の差は3段階になっており、楷書に当たる真の画体で描かれた山水などは丁寧で明確な線が際立つのに対して、ほとんど朦朧としたぼかしだけで描く草体は水墨の味ならではである。
 しかし、水墨と言えば日本では先行する雪舟等楊がいたはずだが、元信は中国の本場で多くの作品を見ていた雪舟のことはどう思っていたのだろう?枯淡な山水という水墨画は、戦国の気風に応えるには物足りなかったのかな。
 「日本文化」と一口に言うけれども、今日に伝わる伝統文化の粋は、多くが室町時代から桃山時代にできあがったもので、茶道、華道、連歌、能狂言、池泉回遊庭園、数寄屋建築などみなこの時代に発する。狩野元信もそういう文化運動の中心にいたのだなあ、とおもふ。いろいろ興味は尽きないので、この項を次回も続けます。



B.誰が負けたのか?
 とにかくじたばたと総選挙が終わって、ひとあたり総括や感想のような発言が出そろったが、なんだか納得のいく説明がないように思っていたら、これが出て、うん、そうだな、と思った。

「総選挙の構図 「希望」が幻想だったわけ:歴史社会学者 小熊 英二 
 安倍晋三首相の周辺は、「日本人は右が3割、左が2割、中道5割」と語っているという(❶)。今回の選挙を、この図式をもとに読み解いてみたい。
 実はこの比率は、選挙の得票数にも合っている。「右3割」は自公の固定票、「左2割」は広義のリベラル(共産党も含む)の固定票、「中道5割」は棄権を含む無党派として検証してみよう。
 日本の有権者は約1億人。「右3割、左2割」なら、自公が3千万票、野党が2千万票となる。実際に2014年衆院選の自公の選挙区得票数は2622万、4野党(民主、共産、社民、生活)が1989万。16年参院選の比例区は自公が2768万で4野党は3037万だ。なお維新の得票を自公に足すと2回とも約3千万になる。首相周辺は、こうしたデータをもとに語っているのだろう。
 そして12年以降の国政選挙投票率は、いつも50%台だ。つまり「中道5割」の多くは棄権している。この状況だと、リベラル(2割)は必ず自公(3割)に負ける。野党が乱立すればなおさらだ。
 民主党が勝った09年衆院選はどうか。この時の投票率は69%で棄権が3割。民主・社民・共産は選挙区で3783万、自公は2808万。両者の比率はざっと4対3で、グラフで示すと図1となる。リベラル(2割)に無党派票(2割)が加わり、自公(3割)に勝った形だ。
 今回の選挙はどうか。希望の党は、無党派票を集めて自公に勝つかのように当初は報道された。つまり図2(リベラル2、自公3、希望4)になるというわけだが、それには投票率90%が必要だ。どんなブームでも、それは不可能である。
 ならば今夏の都議選で、なぜ自民は負けたのか。実は都議選では、小池ブーム以上に、公明党の動向が大きかった。
 創価学会は衆院選の各小選挙区に2~3万票を持つ。これが野党に回れば、自民党候補は2~3万票を失い、次点候補が2~3万票上乗せされる。つまり次点と4~6万票差以下で当選した自民党議員は落選する。14年総選挙の票数で試算すると、公明票の半数でも離反すれば自民党議員が百人は減るという(➋)。
 都議選では、公明党が小池新党支持に回った。しかも東京は農業団体など自民党の固定票が少ない。結果は、公明票に離反された自民が総崩れになった。
 図3で都議選の得票を単純化した。投票率は51%で棄権5割。公明の支援を得た小池新党と公明党の合計で2.5割。東京は無党派が多く自民もリベラルも固定票が少ないので、自民系が1.2、民進・共産・社民などが合計1.2.こうみると、1.2を凌ぐ程度かそれ以下の「小池効果」で自民に勝てたとわかる。小池ブームは意外と小さかったのだ。
 今回の選挙に公明の離反はない。冷静に考えれば、夏の都議選は大阪での維新ブームの変形版にすぎない。ならば都知事が党首の政党が地方でブームを起こす理由もない。自民党茨城県連幹事長は、「希望」立党直後から、地方に大きな影響はないと述べていた(➌)。初めから「希望」の大勝など幻想だったのだ。
 ではなぜ「希望」は過大評価されたのか。これはメディアの責任が大きい。維新が国政に出た時、東京のメディアは冷静にうけとめた。だが彼らは、自分の地元の東京で起きた小池ブームを相対化できず、東京で起きたことは全国で起きると誤断した。「永田ムラ」の記者は、永田町の現象を全国的現象と考えがちだ。小池の「排除」発言がなければ勝っていたという意見は、幻想に惑わされた「永田ムラ」と「報道ムラ」の責任回避だと思う。
 それでも、小池自身はまだしも冷静だった。彼女が党首に出た理由は、すでに65歳で、首相の座を狙う最後の機会だったからだといわれる(➍)。それで党首になっても、知事を辞任して国政に出る判断は世論調査の支持率を見たあとで十分だから、都知事の座は確保できた。
 軽率だったのは、支持率調査さえ出ないうちに自滅行為に走った前原誠司だ。彼は民進党支持者が希望支持に移行すると考えたかもしれないが、あんな独断的なやり方で支持者が離反しないはずがない。党の公式サポーターすら「前原誠司に詐欺られた」と非難した(➎)。
 あるいは前原は、民進党内のリベラル派を切り、保守二大政党を実現する好機と考えたかもしれない。だがリベラル層を切りながら自公に勝つには図2の達成が必要だ。実際には、非自民・非リベラルの票を狙った維新や「みんな」、そして希望は、約10%の保守系無党派層を奪い合うニッチ政党にしかなっていない。
 逆に立憲民主党の健闘はリベラル層の底堅さを示した。自公に勝ちたいなら、リベラル層の支持を維持しつつ無党派票を積み増す図1の形しかない。保守二大政党など幻想であることを悟るべきだ。
 選挙は終わったが民主主義の追求は続く。政治家はブームや幻想に頼らず、現実の社会の声に耳を傾けてほしい。

 ❶記事「『安倍政治』を問う:3 選挙中は『こだわり』封印」(本紙9月29日)
 ➋記事「衝撃シミュレーション もし今、衆参ダブル選挙なら 安倍自民、大敗!」(週刊ポスト15年8月21日・28日号)
 ➌記事「うねる政局、手探り衆院選」(本紙9月29日朝刊)
 ➍記事「小池“緑のたぬき”の化けの皮を剥(は)ぐ!」(週刊文春10月19日号)
 ➎北原みのり「騙(だま)された…選挙に行くしかない」(週刊朝日の連載、10月20日号)」朝日新聞2017年10月26日朝刊15面、オピニオン欄、論壇時評。

 
 大手メディアもわれわれ有権者も、なんかポピュリストの一言で風が吹いたり止んだりして、選挙で番狂わせが起こることを無責任に期待している心情が漂ってしまったが、冷静に選挙の現実を見れば、投票行動はもっと地に足がついていたのであるというわけだ。自公圧勝といっても、それが安倍という人がどれほどヘマをやっても自民党を後押しする人が増えたというわけではなく、たんに自公は堅実な選挙区調整をやって臨んだのに、野党側は「希望」というバクチに浮足立って、分裂したからこうなっただけだ。もし公明党が自民党を見限ればいつでも、自民党はガクッと議席を失うし、保守二大政党で政権を争うなどという構図こそ現実離れして自滅するのは、いわば当然だということだな。


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ジャスパー・ジョーンズの影響  日本人はバカか?

2017-10-25 13:10:42 | 日記
A.ジャスパー・ジョーンズの影響
 一人の画家を理解するには、その初期から晩年までの作品を年代順に見ていくことができれば理想的だ。しかし美術作品というものは、作られてからまもなく多くは作家の手を離れて、美術館やコレクターの手に渡ってしまうから、有名な画家ほど作品を一堂に集めるのは簡単ではない。ジャスパー・ジョーンズは20世紀後半の現代美術、アメリカン・アートシーンの立役者のような人だから、作品数も多く世界各地から回顧展に結集するような努力は大変だろうが、1977年にニューヨークのホイットニー美術館で大回顧展(亡くなったわけでもないのに)が開かれ、さらにこの1997年のニューヨーク近代美術館の大展覧会が、ケルンから東京に回ってきた。日本人にはまだジャスパー・ジョーンズといっても一部の愛好家しか作品を知らなかったものが、このあたりから現代美術への関心が高まったのは確かだろう。ニューヨークの近代美術館を目標に開館した東京都現代美術館も1995年に開館したばかりだった。このカタログに付されたカーク・ヴァーネドーの論文は、ジョーンズのアメリカ美術史における位置づけを、同時代の潮流や後続の画家たちに与えた影響を眺めながら広範に論じたもので、1950年代後半から1990年代半ばまでの動きを追っていて、戦後美術のポイントを知ることができる。

「ジョーンズにヒントを得て、大衆文化に皮肉な眼差しを投げかけながら気侭に渉猟するもの、あるいは体験の絶対性を突き詰めようとする者など、種々の傾向に分かれたアーティストたちによって1960年代の扉が開かれたとすれば、やはりジョーンズの作品に見出した強烈な疑念、ニヒリズム、そして負のエネルギーに注目したボックナー等によってこの時代は幕を下ろされたといえるだろう。近代絵画の理想主義のみならず、個人主義や実利主義一般までが酷い批判にさらされたこの時代にあって、深く内に秘めた濃密な情感と知性の発する独特なアウラは、ジョーンズならではのタッチと素材の物質性に対する思い入れに、救いともなる強烈な信憑性を与えた。この時期のジョーンズの芸術は、絵画は過去のものと考えるひとびとと、絵画を支えようとするひとびとのいずれにとっても糧となった。セラがたとえば《2個のボールのある絵》(1960年)を見るとき、色彩を始め絵画的な要素はほとんど度外視し、ただ圧搾の強烈な効果に目を奪われている、この作品はセラにとって、性と心理にまつわる事象の深い隠喩と思われた(Printing with Two Ballsの題名にかけて、ballsyな――睾丸の隠語ballsから派生し、「男らしい」、「精力的な」を意味する――絵という洒落がよくもち出されるが、これとは無縁)。セラはその緊張感が作品の枠を超え、梃の原理や世界の機械化された文化の諸相に関わると考えた、ところがこのように物質性の切実さが彫刻家たちの関心を呼び覚まし、言葉を作品にもちこんだことがコンセプチュアル・アーティストたちの動機づけになる一方で、ジョーンズのイメージに対する持続的な興味はマーレイのような画家の創作意欲をかきたて、イメージを消し去ろうとする絵具の用い方はマーデンのようなひとびとの発想に資することにもなった。
 1960年代にはジョーンズの影響のこうした多様性は、主に初期作品に深くしみついたパラドックスに発しているようであり、副次的には《標的》のアッサンブラージュに見られる彫刻と絵画の接合など作品の表面に現れた分裂に根差す部分もあった。ところが1970年代前半に入ると、状況は複雑の度をくわえる。ジョーンズ自身の作品がより多様で多面的なものになったばかりか、それまでジョーンズの独り舞台だった領分に若手のアーティストが進出してきて、開拓を始めたからである。40歳の坂を超えて画廊巡りや美術雑誌に目を通すうちに、おそらくジョーンズは、自作の様々な側面にヒントを得て、本人も探究するにはいたらなかった方向に進み始めた多種多様な作品を目の当たりにしたことだろう。したがって、たとえば1972年作、4枚のパネルからなる大作《無題》の右端の部分に、身体の一部を型抜きしたオブジェを再び使うことにしたとき、それが自作の《石膏塑型のある標的》や《ウォッチマン》への回帰であったことは当然として、そこに至るまでにはたんに作者の死後、1969年に世に出たデュシャンの《・・が与えられたとせよ》に用いられた身体の複製から得た教訓のみならず、ナウマンが1960年代後半に蠟で生体を型取ったり、身体を型紙代わりに制作した作品も経由していたはずである。影響する側とされる側が入り交じるこうした循環の構図から抜け出し、手垢のついていない領域を見い出そうとおそらくは意図的に努めた結果、1972年作《無題》を構成する残りふたつのモティーフである敷石とクロス・ハッチが、伝統的な美術ともポップの素材となった商業的な大衆文化とも無縁なところ、つまり美術とは別世界に属する作者不明の「ストリート・アート」から導き出されることになった。そしてジョーンズは1973年以降この方向に突き進む。
 とはいえ、ジョーンズがクロス・ハッチの模様を用いたとき、それはポロックの遺産であるオールオーヴァー絵画の抽象性を迎え撃つ方法であったのみならず、1960年代後半のボックナーやソル・ルウィット等による体系に依存する作品への関心を暗示して、数量性や位相幾何学性を潜ませたものとなった。数字や文字を格子に収めた自作に学んだものが、音楽や舞台装置の原理など他分野での経験と結びついて肉付けされ、美術作品がものとしての姿を失おうとしていたこの時期に、ジョーンズの(あきらかに逆説的なかたちでの)絵画への執着を支えた。1970年代に成熟期を迎えた若いアーティストたち、たとえばテリー・ウィンタースの目に、クロス・ハッチ作品は「ポロックの絵のなかにもあった空間を数量化し、測定した」と映る。カラー・フィールドの抽象という装飾性の袋小路にさまよいこんでしまったグリンバーグの唱えるフォーマリズム理論に恩義を受けたわけでもなければ、「個性も逸話(バイオグラフィー)もなく、作品の外の世界とはいっさい無縁な、血の気の失せたコンセプチュアル・アート」に与するものではないことが見てとれた。セラやジャッドを始めとして、じつに多くのアーティストたちが筆を持たず「ポロックの成果の即物化」に没頭している時代にあって、ジョーンズの抽象性こそ精神と身体をともにイメージのなかに維持したままポロックを再生し、抽象絵画を前進させるものとウィンターは感じた。ラウシェンバーグとの長期にわたる双生児のような関係から抜け出したいま、ジョーンズはサイ・トゥオンブリと併せて論じられるべきだろうとウィンタースは考えた。グレーを背景としたトゥオンブリの1970年代初期の傑作、いわゆる「黒板」のシリーズも同じくポロックの遺産に真正面からとりくみ、客観性を求めるミニマリズムの志向性を踏まえたうえで、ポロックの解釈に新しい光を当てていた。1970年以降、ラウシェンバーグが、さまざまな芸術形態を抱合するかのように、マルチメディア作品、パフォーマンス等々の先頭を切っているとの印象がますます深まるなかで、絵画に忠誠を尽くしたいと願いつつも、言語や数量化、ロマン主義的なものを脱却した自己意識など、抽象表現主義の世代とは明らかに異なる関心を抱くアーティストたちにとって、トゥオンブリとジョーンズは、貴重な手本となった。
 ウィンタースの目に、クロス・ハッチ作品の「蒸留と凝縮」は「抽象性と再現性のあらゆる問題を宥和させた」と映った。たとえば《死体と鏡》は模倣によらずに形態への言及を試みた――「フラクタル幾何学が山脈(の輪郭)を描くように」、ジョーンズは「抽象的な情報を注入して、絵をひき出す」方法を提示したとウィンタースは考える。連想をかき立てる題名(《ダッチワイフ》、《泣く女》を付された作品には、それぞれに「物語」があるように思われ、主題は抽象のまま、外部の世界と響き合うものを保っている。ウィンタースはまたこれとは別に、1980年代初めにジョーンズがこの類の抽象作品に別れを告げたのは、内面の水脈が枯渇したことをすすんで認めようとするその心構えと、「署名同然のスタイル」をいつまでもつづけるのは避けようとする気持ちの現れと見て、敬意を抱いている。
 1980年代初めにジョーンズがイリュージョニスティックなイメージに立ち戻ったことは、多くの人に衝撃と驚愕、そして矛盾した行動との印象を与えた。1982年以後の作品と初期作品との間には、ヴィトゲンシュタインの『哲学的探究』(ジョーンズはこの書に深い関心を抱いた)と初期の『論考』の相違にも匹敵するほどの隔たりがあるとウィンタースは感じた。しかし今から振り返ってみると、1980年代のジョーンズの作品は時代の流れと密接にむすばれていたことがわかる。80年代のアメリカ美術は、それに先立つ10年を支配したポスト・ミニマリズムの美意識と競り合おうとするかのように、遅れてやってきた「ポスト・ポップ」の美意識の体験に浸っていた。具象性ばかりではなく、抽象美術と商業文化の相関性がふたたび問題としてとりあげられるようになる一方で、ジョーンズの作品にも現れた既存のイメージやイリュージョンを招く空間性は、若手画家の共通語にもとりこまれて、そこかしこで目立ち始める。「ポスト・ポップ」ならではの要素は、ジョーンズとロイ・リキテンシュタインの作品との関わりのなかにも顔を出した。それまでのおよそ20年間、ふたりはパブロ・ピカソに対する共通の関心に加えて、主題とスタイルの両面で、たとえばモティーフを縞模様のパズル風にあつかったり、旧作を寄せ集めて新しいイメージを創り出すといったように、共通性をいくつか示してきた。1970年代に制作した静物画でリキテンスタインは、ジョーンズも初期作品で参照したことのあるウィリアム・ハーネットやジョン・F・ピート等のアメリカの騙し絵(トロンプ・ルイユ)の伝統をとりいれて、掲示板のカリカチュア――影を落とす釘、偽のテープ、キュビストが得意にした本物紛いの木目――を描いたが、これはジョーンズが1980年代になって手がける作品の前触れのようにも見える(他方、ジョーンズの作品はやや皮肉めいたオマージュとして、リキテンスタインが近年に描いた室内風景のなかに登場している)。
」カーク・ヴァーネドー「火――ジョーンズの作品はアメリカ人アーティストの目にどのように映り、用いられたか」(ニューヨーク近代美術館『ジャスパー・ジョーンズ展』カタログ)日本語版、読売新聞社発行、1996.pp.104-106.



B.選挙が終わって虚脱している場合ではない
 選挙の結果についてあれこれ論評はあるが、フォーカスを引いてみれば安倍首相の意図は改憲を実現したいという悲願達成の手段に解散総選挙をやっておこうということであって、アベノミクスにしろ北朝鮮にしろ、そのほかの政策などハッキリ言って先の見えない手の打ちようもないことを知っているので、有権者にとりあえず受ける話をしておけば選挙は勝てると踏んでいた。結果は思惑通りともいえるが、これは野党とくに民進党の自壊自滅と希望の党などという選挙互助会がポピュリズムの一発イヴェントを狙って失敗したことが大きい。コアな古典的町内会的自民党支持層は実は基盤が老朽化していて、政治に期待をもたない大方の無党派層の心情はどうみても安倍晋三は信用できないと思っているはずだ。だからますます時代錯誤でファナティックなネトウヨ路線に総理大臣が傾くのは、この人の本音が「近代市民社会」とは別のものだからだろう。

「オピニオン&フォーラム:勝ったのは何か
 改憲の機 熟してはいない 元首相 細川護熙さん
 誰が勝ったのか、よくわかりません。そもそも何のための解散だったのかがわからないのですから。森友、加計学園問題の追求から逃れると共に、野党第一党の党首交代などの混乱に乗じ、選挙を有利に運ぼうという安倍晋三首相の魂胆が見え見えの暴挙でした。後世、憲政史の汚点と批判されかねません。
 首相は憲法改正を目指すようですが、改憲に進む環境が整ったわけではないでしょう。公明党もまだ慎重に構えているし、簡単にはいかない。そもそもなぜ今やらなければならないのか。機が熟しているとは全く思いません。安倍さんは本当に用心深くやっていかないと、ここでつまづきかねませんよ。
 大義なき解散は実は野党にとって好機でした。(東京都知事の)小池(百合子)さんが希望の党の代表に就任した直後の一瞬は風が吹いたのですが、その後の混乱が台なしにしてしまいました。小池さんが昨年の知事選で大勝できたのは、彼女が自民党に排除されたことを見て、有権者が味方になってくれたからでした。にもかかわらず、今回自分が排除する側に回ってしましました。それではうまくいくわけがありません。おごりがもたらした結果でしょう。
 そもそも新党を設立する時はまず事務所を立ち上げ、スタッフを集めないと選挙などできません。私が日本新党を立ち上げた当時の状況を、一緒にいた小池さんは見ていたはずなのに、生かされていませんでした。
 民進党や希望の党の騒ぎで、野党は何をごちゃごちゃやっているのかと有権者の失望を招いたことも大きかったでしょう。前から頼りにならないと思っていたところにますます不信感が募った。これは自民党しかない、という空気が強まったのでしょう。
 唯一の救いは、枝野(幸男)さんの立憲民主党が野党第一党の地位を得たことでしょう。安倍自民党がおざなりにしている、個人の権利や自由や平和を大切にする戦後保守の伝統につながっています。中道から寛容な戦後保守までを含みうる幅広さ、包摂力を持っています。1993年の最初の選挙の際に応援に行った時は全く人が集まらず、「この人、大丈夫か」と思いましたが、今回花が開いたのだからこの機に飛躍してもらいたいですね。ただ、政権をとるには自民の穏健な保守中道勢力とも連携する必要があるでしょう。
 今回の自民党の勝利は、細川内閣で導入した小選挙区制によるものでした。政権交代が実現するように小選挙区制があっていいと思いますが、比例区との比率は現在62%対38%。当初案は50%ずつでした。多様な民意を反映させるためにはやはりイーブンが適当で、できるだけ早く改正すべきです。(聞き手・磯貝秀俊)」朝日新聞2017年10月25日朝刊15面、オピニオン欄。

 細川護熙という人が現実的な政治家かどうかは、短命な首相時代に何をやったかでわかるが、そこでできた小選挙区比例代表制のお蔭で、今回も安倍政権は安泰になったことは記憶すべきだろう。米英に見習った健全な二大政党制を謳って、日本にも政権交代可能な野党をつくるといった選挙制度改革は、たしかに日本新党や旧民主党に世間交代の実現を可能にしたが、同時に今の安倍政権のような一党支配の巨大与党に対抗できる野党を破壊してしまった。

 「昭和の利益誘導 なお強固: 社会学者 浜野智史さん
 そこそこ若い世代の一人として、勝ったのは「昭和」だと私は思います。昭和時代に自民党が作り上げた、地元や業界への利益誘導に基づく集票システムを超える政治基盤が、本当に日本にはないんだな、ということがむなしく確認できました。そういう意味では死後なお、田中角栄が勝っているのかもしれません。
 日本はもともと、外圧でもないと変化しにくい島でした。黒船が来たから仕方なく近代化し、形だけ民主主義をやり始めたけれど、革命のあったフランスや南北戦争のあった米国のように、過酷な歴史を経て有権者に根づいた意識もない。だから日本の政治は、「民主主義ごっこ」のような一種の借りものでした。
 戦後、その「民主主義ごっこ」を日本流の利益配分システムに仕立て上げたのが、自民党であり角栄でした。その結果、組織票か、地元でずっと応援しているから、という利害と惰性中心で、政策は二の次という支持基盤が強固になりました。都市型無党派層の私から見ると、今回の結果は既得権益に頼る地方の人々が作り上げた分配システムの勝利にしか見えないのです。
 今回は、それに代わる投票行動の流れをつくりうるインターネット選挙の活用もみられました。結党まもない立憲民主党がツイッターやユーチューブを使って支持を伸ばし、一定の成果はみられた。でも、あれだけ盛り上がっても獲得したのは55議席で、自民の284議席には到底及ばない。そしてネット全体の状況をみれば、批判の応酬や炎上ばかりで、今後まともな言論プラットフォームとして機能する道筋は見通せません。さらに、自民党以外に現実的に政権を担える勢力もなく、「仮に北朝鮮と戦争になっても、日米で連携して負けないで」と思って投票した人も意外に多かったはず。「投票して何かが変わるわけでもないだろう」というニヒリズムから棄権する層が多かったという要素も加わり、自民党が大勝しました。
 少子高齢化が進む日本は、抜本的な手を打たないと、今後は国として国際競争力で「負ける」一方になりかねない下り坂の状況にあります。だから中国は、変わろうとしなかった日本をみて、「勝った」と安堵しているかもしれない。2020年以降は、日本はおそらく今の延命措置のままでは立ちゆかなくなる。
 そうなると若い世代のなかには選挙の危険どころか、日本人をやめようかな、といった感覚が強まりかねないと思います。ネット時代は、英語やプログラミングの能力があれば国籍に関係なく仕事ができる。若者が「変われない昭和のシステム」に切望して日本脱出を始める前に、この政治へのニヒリズムを何とかしないと、本当にまずいと思います。 (聞き手・吉川啓一郎)」朝日新聞2017年10月25日朝刊15面、オピニオン欄。

 この浜野氏のコメントに、ぼくは半分は賛成するが、半分は賛成できない。要するに従来の近代化論者が選挙のたびに言っていた「日本の有権者はバカで、利権や金で簡単に動いてしまう。そしてマジョリティはばかばかしくなって選挙に行かない。その結果ひどいことになるぞ」と警告するという図式に収まってしまう。結局ペシミステイックな現状追認に終わってしまう。ぼくたちの世代はそれで絶望しつつつぶやいていたのだが、浜野氏のような「昭和」という単語で上の世代を切り捨てたい人たちまで、結局日本はダメだ、で次は日本を棄てるか、になるのでは「本当にまずいと思います」。ネット時代で英語やプログラミングの能力のあるエリートは、愚かな大衆が無能な政治家に騙されている世界は捨ててしまえ、みたいな物言いは感心しないな。
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ジャスパー・ジョーンズのアート  隣国の傲慢?

2017-10-23 01:31:32 | 日記
A.ジャスパー・ジョーンズのアート 
1952年12月~1953年5月の間、ジャスパー・ジョ-ンズは、朝鮮戦争のため仙台に駐屯した。特別任務を課され、映画の宣伝ポスターや、対性病教育用ポスターをつくる。仙台駐屯の間、彼は東京にも行き、ダダイスト、シュルレアリストに触発された日本のアーティストたちの展覧会を訪ねたという。「それはとても面白かった。ある作品を覚えている。台から女物の手袋が下がっていて、象の足が、その手袋の指の一本の上に乗ってこれを固定しているというものだった」東野芳明は後に、ジョーンズは日本に滞在していたとき「地方の喫茶店で、1枚の[エドガー・ヴァレーズ]のレコードを見つけ、すり減るまで聴いていた」と書いている。(東野芳明「東京のジャスパー・ジョーンズ」『美術手帖』1964年8月号。日本から戻ると、彼は上等兵を最後にフォート・ジャクソンの軍を除隊する。23歳の若者はまだ画家ではなかった。

「ジョーンズの作品にまず貼られたレッテルのひとつは「ネオ・ダダ」だったが、パフォーマンス的な不条理さも政治的な破壊志向も――1950年代後半から1960年代前半にかけてダダ以外の芸術に跳びうつり開花したダダイズムの精髄――ジョーンズの活動には些かの関わりももっていない。ジョーンズと縁があったのはとりわけデュシャンであり、その結びつきには独創性と換骨奪胎の趣がある。もしジョーンズが彼自身による「翻訳」を提供しなかったとすれば、1960年代以降のアメリカ美術にデュシャンがこれほど広範な影響を及ぼすことはなかったのではなかろうか。たとえばナウマンは過去をふりかえり、ジョーンズは「デュシャンへの扉」を開いてくれたが、それは「フォークナーを読むことによってフロイトを学ぶようなもの――目の前にあることに変わりはなくとも、実地に適用されていた」と語っている。ジョーンズがときに行うデュシャンへの明確な言及や、デュシャンのことばの引用は1980年代に登場した無数の「アプロプリエーション」に見出されるが、それより重要なのは、ジョーンズがデュシャンの作品をこしらえないという流儀を、作品の作り方に転じたことである。ジョーンズは思想の禁欲的な優雅さを、もの造りの実践に切り替え、巧みなウィットを暗澹とした不穏な心理作用に仕立てなおした。そこには1940年代に生じたヨーロッパからアメリカへの移行過程での変化、つまりマックス・エルンストやアンドレ・マッソンらがパリで旗揚げしたシュルレアリスムを、ニューヨーク・スクールの年若い画家たちがその洗練された趣を除去し、カンヴァス上に無意識をねじふせる生真面目で、切実な方策につくり直した経緯の反映をみることもできる。そのころ台頭し、ラウシェンバーグによって受け継がれた「アクション・ペインティング」の壮健で伸び伸びとした、ホイットマン風のひろがりに対抗して、ジョーンズは、思慮深くイーキンズを思わせる粘り強さで、ものの支配する有形の世界を思想の届く範囲に押さえこもうとする、風刺のきいた即物主義を主張したのだった。
  ジョーンズの1960年代作《塗られたブロンズ(エール罐)》をデュシャンの《自転車の車輪》などのレディメイド作品と較べてみれば、ジョーンズが丹念に手作りでこしらえた実物紛いの作品のいかにもアメリカ的な特質が浮き彫りになるだろう。こうした手業の要素が、とりわけ絵画制作について、ゲルハルト・リヒターの世代のヨーロッパのアーティストたちの目にジョーンズをセザンヌに端を発する絵画の伝統、かれらが抑圧的と感じる伝統に深入りしすぎているとの印象を与えたのは、皮肉というしかない。ヨーロッパではジョーンズよりアンディ・ウォーホルのほうが幅広い影響をおよぼしたのは、こうした見方のせいもある――アメリカの魅力は工業的で人間味を感じさせない、粗野なところにあるというヨーロッパ人の考えには、ウォーホルの平板なスクリーンプリントがうまくあてはまった(一方、イギリスと日本では1960年代初めにすでに、ジョーンズの影響の広まりがはっきり認められるようになる)。ところがデビューしたてのころのジョーンズに(あるいは少なくともジョーンズが手にした成功と名声に)誰よりも夢中になったのはウォーホルだったのである。
  ジョーンズは実際にしばしば「ポップの父」とみなされるけれども、本人の言葉にもある通り、「もしチューインガムを作っても、みながそれを糊代わりに使うようになれば、作り手は糊の作者として認められることになる」。ジョーンズとラウシェンバーグがポップの誘因になったことを否定しては、観察力の鈍さを示すことになりそうだ。ステラはこんな比喩を使う。デュシャンができあいのものを台座に載せたのに対して、このふたりは付随的な事柄と日常の世界を作品にもちこんで目ざましいまでの切実さを感じさせ、もの同士の間に新しい関係を見い出し、予期せぬ調和を力づくで得心させることによって、作品に有効性を与えた。またボックナーの証言にもあるように、ジョーンズが文化の象徴の本命である星条旗を用いたことが、無数のアーティストを文化とその批評という大きな問題に向かわせるきっかけになったのはたしかだろう。ありきたりなオブジェ――ビールの罐、懐中電灯、電球など――を題材にしたジョーンズの彫刻が、ポップ・アーティストの注意を商品に向ける呼び水になったのもまちがいなさそうだ。ところがポップの台頭と同時に、ジョーンズはそうしたオブジェの制作を止めてしまう。今から振り返ってみれば、作業現場に散らかった作品――汚れた床板、使いさしの絵筆、裸電球、アルコールやカフェインの名残り(1962年作《愚者の家》の箒とカップも忘れられない)—―から連想されるうらぶれたボヘミアン風のスタジオの様子は、大量生産や商業広告をにこやかに受け入れたウォーホールの「ファクトリー」やオルデンバーグの「ストア」とは好対照をなしていることがわかる。
  ジョーンズは当初どうやらアメリカの社会生活のなかで、いつまでも中立的で変わることのないシンボルをいくつか求めようとしたらしい。ところがときはまさに国内の政治情勢、またとくに消費生活の変化が一段と速度を増す時期にあたっていた。星条旗の星の数は増え、商品のレッテルやロゴのデザインが変わり、息の長いブランド・ネームにも廃れたり改称されるものが現れた。不変と思われたものが次々と姿を消してゆくというこの感覚は、社会に流通している事物を拾いあげて、「ありふれた品々」の私的なイメージ構成をこしらえようという企図をジョーンズが断念する際にも一定の役割を果たしていたように思われるが、ポップ・アートに深い郷愁—―50年もレッテルのデザインの変わらない罐スープ、罐コーラ全盛時代のコカ・コーラの瓶、マディソン街の広告業界が雑誌のカラーページの隆盛に沸いた時代に生み出されたちっぽけで幼稚な宣伝の紙つぶてなど、かつてはありふれていたのに、今まさに消え去ろうとしているものに対する甲高く悲痛な哀歌――を呼び覚ます一因ともなった。一方、厳密に実寸を守るジョーンズのオブジェには無口で引っ込み思案な性質があり、これは美術の論理を敷衍しようとするポップの傾向とは水と油であったし、商品のイメージの作品化はただの二度(バランタイン・エールとサヴァラン・コーヒー)きりで終わらせているせいもあって、ジョーンズはポップ・アーティストの好む皮肉と感傷の安手の混淆からは超然とした位置を保っている。ポップのオブジェは取引を物語るのに対して、ジョーンズの作品は所有に関わる重要性を維持した。
 ジョーンズがポップの父であることは、彼がミニマリズムの生みの親とされることとつねに対をなしている。魅了された対象が《旗》のイメージそのものか、あるいはイメージのあつかい方によって後継者たちの進路はふたてに分かれた。前者は客体そのものとみなす。かれらの目には、イメージを前面に打ち出しカンヴァスを隅から隅までうめつくしてしまうのは、通常の再現性を打ち消すことに等しいと映った。モリスが1969年に記したように、「ジョーンズほど絵画を非・描写の状態に近づけたひとはほかにいない。旗は描写よりむしろ複写に近い…ジョーンズは背景を絵画から追い出し、絵画をものとして抜き出した。背景は壁になる。それまで中立の立場を守っていたものが能動的になり、それまでのイメージがものになった」。
  切迫したこの存在感、イリュージョンの空間との関連抜きに自立する全体性が、じつに多種多様なひとびとに鮮烈な刺戟を与えた。《旗》の縞からステラの1959年作のブラック・ペインティングへの受渡しが、直接的な点では最も顕著だとしても、ジョーンズは1960年代初めに登場したドナルド・ジャッドやダン・フレヴィンなど、内部の構成的な関係を排除し周囲の空間をじかに活性化させる道を探っていた彫刻家たちにも等しく影響を及ぼしている。ポップがジョーンズのとりあげた平凡な品物の身近で、些細な代用品から出発して、めまぐるしい世間のけばけばしさにのめりこんでいったように、もう一方のアーティストたちも認識の曖昧さに関わるジョーンズの作品を跳びこして、経験的な手応えのあるものへと突き進んだ。自分の描いた縞について、「目に見えるものが目に見えるもの」と述べたステラの名高い主張は、仲間のアーティストが言うように、ジョーンズを「見事に誤解」したもので、ジョーンズの作品が探ろうとした目と精神の間の微妙な緊張関係を、自信たっぷりに一掃したことになる。
  こうした厳密なミニマリズム的な意味合いで、ジョーンズは明晰な思考に基づいて作品制作の過程から神秘的な要素をとりのぞくように促したとみることができる――ただし、もっと詳しく調べてみれば、表向きには素直な手ごたえを感じさせるジョーンズの作品にも、皮肉や疑念がまとわりついている。」カーク・ヴァーネドー「火――ジョーンズの作品はアメリカ人アーティストの目にどのように映り、用いられたか」(ニューヨーク近代美術館『ジャスパー・ジョーンズ展』カタログ)日本語版、読売新聞社発行、1996.pp.096-099.

  アメリカの20世紀後半の美術シーンをふり返るとき、ジャスパー・ジョーンズという人の立ち位置は、「ポップの父」と呼ばれて当然ではあるが、それだけなら1960年代に終わったはずだ。ジョーンズより2歳年上のアンディ・ウォーホルは1987年2月に58歳で亡くなってしまったが、ジョーンズは87歳で今も生きている。20代はイラストレーターで働いていたウォ―ホルより美術界デビューはジョーンズの方が早かった。画家は短命な人もいれば、長生きする人もいるが、老齢まで現役で制作を続けたトップランナーは、ピカソそしてジョーンズではないか。それだけでも凄いな。



B.国家が強くなること
  衆議院選挙の結果はほぼ自民党の圧勝、単独過半数達成という結果に終わりそうだ。加計・森友問題と都議選敗北でぐらついた基盤をリセットしたい安倍晋三の思惑通りの結果といえるだろう。これが日本の今後にどういう形で深く影響してくるか、やはり歴史に学ぶ必要があると思う。
  戦前の日本には政党もあり選挙もあったが、政党以外にも貴族院やら元老院やらそして軍部という別個の権力があり、選挙権は国民の半分(女性)にはなかった。だから、一般の国民が敗ける戦争に突き進んでいったことへの責任は、国民大多数ではなく一部の権力をもっていた人々に責任が帰せられる、というのもある程度認められる議論だとは思う。もちろん鬼畜米英との戦争に喜んで協力したのも国民大衆の心情的支持があったからということも忘れてはいけない。
  今を去る77年前の1940(昭和15)年10月大政翼賛会が発足した。前年1月に第1次内閣を総辞職した近衛文麿だったが、ヨーロッパで第2次世界大戦が始まり、東アジアの日中戦争も泥沼化するなかで、日本は強力な指導体制を形成する必要があるとする新体制運動が盛り上がり、その盟主として国民に人気のある近衛の再登板に期待が高まった。既成政党側でも近衛に対抗するよりもみずから新体制に率先して参加することで有利な立場を占めるべきだという意見が高まり、民政党総裁町田忠治と政友会正統派の鳩山一郎が秘かに協議して両党が合同する「反近衛新党」構想を画策したものの、民政党では永井柳太郎が解党論を唱え、政友会正統派の総裁久原房之助も親英米派の米内光政(海軍大将・前海軍大臣)を首班とし新体制運動に消極的な米内内閣の倒閣に参加して近衛の首相再登板を公言した。そのために合同構想は失敗に終わり、民政党・政友会両派(正統派・革新派)ともに一気に解党へと向かうことになった。右翼政党の東方会も解党し、思想団体「振東社」となった。近衛も米内内閣の後の第2次近衛内閣成立後にこの期待に応えるべく新体制の担い手となる一国一党組織の構想に着手する。なお、その際、近衛のブレーンであった後藤隆之助が主宰し、近衛も参加していた政策研究団体昭和研究会が東亜協同体論や新体制運動促進などをうたっていた。こうした動きの結果、大政翼賛会が発足し国民動員体制の中核組織となる。ようやく定着するかに見えた立憲君主制と二大政党政治が、ここであえなく崩壊した。日本の敗北崩壊まであと5年もなかったのだが、そのときは日本人の大多数はそんな未来は想像もしていなかった。
 
 「安倍晋三首相(自民党総裁)は小雨が降る東京都千代田区の秋葉原駅前で最後の演説を行った。7月の東京都議選で「辞めろ」コールが起きた「トラウマ」の場所だが、連勝した直近4回の国政選挙で最後に街頭に立ってきた「験担ぎ」を優先。「アキバ」で人気のある麻生太郎副総理兼財務相が駆け付けたことも安心材料となったようだ。
 「看板を変えたからって国民を欺くこと、だますことはできない」。首相は冒頭から、民主党政権で閣僚だった立憲民主党の公認候補を名指しで批判。その後も野党批判を軸に演説を続けた。解散に踏み切った理由として北朝鮮問題への対応と少子高齢化対策を挙げ、「将来に夢をもつことができる日本をつくる。日本を守り抜き、日本の未来を切り開くことができるのは私たち自民党だ」と訴えた。
 麻生氏は株高や雇用増に触れ、「アベノミクスが正しかった。この政策に自信を持って続けていきたい」と主張した。
 駅前は厳重警備で、夕方から日の丸の小旗や「安倍首相を応援しよう」などと書いたプラカードを手にした支持者らが集まった。自民関係者が支援者だけを前方に陣取らせるよう整理。一方で、「安倍9条改憲NO!」などのプラカードを掲げる聴衆は後方に多く、「うそつきな総理はいらない」とのヤジも飛んだ。」朝日新聞2017年10月22日朝刊2面総合欄。

  安倍晋三は近衛文麿になるのか?そして、戦前日本に戻すような指向を滲ませた憲法を変えるという革命が、もうじき実現するのか?事態は往々にして思わぬ方向に展開してしまう。果たして近々に戦争が極東で起こるのかどうかは予断を許さないが、それよりもたぶん国内に深刻な亀裂が走るような気がする。安倍一強体制でなんでも通ってしまう政治が選挙で太鼓判を押されたとみんなが思えば、体制翼賛化がすすむのは避けられない。
いずれにしても、安倍晋三が目標とする「強い国家」とは何だろう?国家が強くなることは、ぼくたち国民にとってどういう意味をもつのか?それは単純にひとりひとりの幸福が増すことなのか?それとも「強い国家」のために国民は犠牲を払う価値などないのか?安倍自民党に強い指示を与えた投票有権者の多数は、「強い国家が自分たちを守ってくれる」と思ったのだろうが、この選挙への後世の人びとへの責任を自覚しているとはとてもいえない。
  隣の国でも、「強い国家」を自慢し、世界への威力を誇示したい権力者が大きな声を出している。

 「【北京=張勇祥】中国共産党の第19回党大会が18日午前9時(日本時間午前10時)、北京の人民大会堂で開幕した。習近平総書記(国家主席)に続き、江沢民元総書記、胡錦濤前総書記が入場した。李克強首相が開幕を宣言した。2012年に総書記に就任した習近平氏が、1期目である5年間の総括と今後の基本方針について演説した。党内の規律強化や脱貧困政策などの成果を誇示し、権力基盤の確立を国内外に強調する。最高指導機関である党大会の会期は24日まで。指導幹部である約200人の中央委員の選出や、党規約の改正などが主要議題となる。
  焦点の党首脳人事については、中央委員が25日にも中央委員会第1回全体会議(1中全会)を開いて政治局員(現在は24人)を選び、そこから最高指導部である政治局常務委員(同7人)を決める。最高責任者である総書記は常務委員から選ぶ。党規約の改正については、習氏が掲げてきた政治思想や理念を明記して権威を高める見通し。「習近平思想」のように自身の名を冠した名称になれば、毛沢東氏や鄧小平氏に並ぶ権威を得ることになる。強力な権限を持つ毛沢東時代のポスト「党主席」を復活させる案も出ている。すでに別格の指導者を意味する「核心」の地位を手に入れている習氏が、さらなる権力集中を進められるか。習氏が望むとされる「3期続投」に向けた地ならしが進むかも注目点になる。
▼中国共産党大会 党の指導体制や基本方針を決める最高指導機関。5年に1度開き、指導幹部となる約200人の中央委員の選出や党規約の改正、重要な政策課題を討議する。第19回の今回は約8900万人の党員から選ばれた2280人の代表が出席する。大会冒頭で党トップの総書記が、過去5年間の中国を振り返り将来を展望する活動報告を読み上げ国家運営の基本方針を示す。大会閉幕直後に中央委員会第1回全体会議(1中全会)を開き政治局員(現在は24人)を選定。その中から最高指導部の政治局常務委員(同7人)を決め、常務委員の中から総書記を選ぶ。」日経新聞オンライン。
 
  国家の強さは経済力と軍事力で他を圧倒しているかどうかで決まると習近平は考えている。そしていまや中国は、経済力にも軍事力にも主観的にはきわめて強い自信を持っているようだ。少なくとも経済力の乏しい弱小国家である北朝鮮が核兵器で大国アメリカに対抗しようとしている捨て身の冒険に比べれば、中国は実力をともなって世界への影響力を発揮し、日本など問題外とみなしているようだ。中国はぼろぼろの20世紀を否定して、栄光の中華思想を復活させたいのだろう。
  あらためてぼくは思うのだが、国家と自分の関係をよく考えてみると、ぼくは確かにこの国に生まれて国籍ももっているのだが、国が強くなることも弱くなることもぼくとは何の関係もない。外国に行ってみると、確かに円が強いとちょっと買い物に有利だし、日本人だからと唾を吐かれたり罵倒されたりはしない。でも、そんなことはぼくという人間にはど~でもいいことだし、人間の質を見てくれる外国人にはぼくが日本人かどうかなんて、これもど~でもいいことだ。だから、日本という国家が経済力で衰弱しようが軍事力でもの足りなかろうが、そんなことは人間の生活にはど~でもいいことなのに、ど~してそんなに「強い国家」が必要だなんて思うのだろうか不思議だ。
  確かにこの日本という国家が明治維新でできたとき、指導者は19世紀世界の情勢を見極めて、新しい国家が立ちゆくための知恵を絞った。その結果、ぼくたちは外国の植民地になることも内戦で分裂することも、経済破綻で崩壊することもなく、富国強兵を達成したけれども、昭和戦前期にあまりにも自己過信と軍事的妄想に溺れて、多大な犠牲と外国の占領という破滅を経験した。だからぼくはこう思う。ぼくらの前には今二つの別れ道がある。ひとつは昭和15年と同じことをくりかえす道で、「強い国家」ファーストの安倍自民党はそれを目指している。もうひとつの道は、「賢い国家」によってぼくたちの生命と生活の基礎を固めることを第一とする道だ。それは経済力と軍事力の強化を優先して世界に威張りまくる国にするのではなく、当たり前の人生を自分の意思で歩めるような社会を用意する国なのだ。
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