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恋愛映画考5 危険なリエゾン 愚かなスタンダール

2018-12-31 02:42:55 | 日記
A.最高の女を最高の男が落とす?
 邦題は「危険な関係」となっているが、原作のラクロ(Pierre Ambroise François Choderlos de Laclos,1741-1803)が1782年に書いた書簡体小説の題名は、Les Liaisons dangereuses 危険なリエゾン(複数)で、フランス語のliaisonは①(通信・交通機関による)連絡、②(事物の間の)つながり;連結、③(人との)関係;愛人関係と3番目に男女の「関係」が出てくるが、文法用語として➃連音(単独では発音しない語末の子音字を次語の母音とつなげて発音する)、⑤(料理でソースの)とろみづけ;つなぎもリエゾンを使う。ラクロはフランス・アミアン出身の砲兵士官で、スペイン系ユダヤ人。南部フランスの駐屯地で観察した貴族たちの生活をモチーフにこれを書いた。当時のアンシャン・レジームと呼ばれた貴族社会の道徳的退廃と風紀の紊乱を活写した内容は、上梓当時は多くの人の顰蹙を買いつつも広く読まれた。フランス大革命の始まりを1789年7月のバスチーユ襲撃とすると、その7年前に出た「危険な関係」の描いていた貴族社会はまもなく大揺れに揺れて破壊されるわけだ。
これまで「危険な関係」は何度も映画化され、前回ふれたロジェ・ヴァディム監督ジェラール・フィリップ、ジャンヌ・モロー主演版のほか、フランス、アメリカ、そして日本でも作られている。振り返ると…。

*華麗な関係(1976年、フランス) 再びヴァディム監督で映画化。主演はシルヴィア・クリステル、ジョン・フィンチ、ナタリー・ドロン。
*危険な関係(1978年、日本) 藤田敏八監督が舞台を日本に置き換え映画化。主演は三浦洋一、宇津宮雅代。
*危険な関係(1988年、アメリカ) ハリウッドで映画化、出演はグレン・クローズ、ジョン・マルコビッチ、ミシェル・ファイファー、キアヌ・リーブスほか、アカデミー脚色賞などを受賞している。
*恋の掟(1988年、イギリス・フランス合作) 監督はミロス・フォアマン、主演はアネット・ベニング、コリン・ファース。
*クルーエル・インテンションズ(1999年、アメリカ) 舞台を現代のアメリカに移し、登場人物も高校生中心に置き換えた。
*スキャンダル(2003年、韓国) 主演はペ・ヨンジュンで、舞台を李氏朝鮮後期の両班社会に置き換えたもの。
*危険な関係(2012年、中国・韓国) 監督はホ・ジノ、出演はチャン・ドンゴン、チャン・ツィイー、セシリア・チャン。舞台は1930年代の上海に置き換えられた。
映画化以外にも1986年にクリストファー・ハンプトンにより戯曲化されている。ロンドン、ニューヨークなどで上演。日本では1988年に初演、1993年に再演されている(演出:デイヴィッド・ルヴォー、主演:麻実れい)。ドイツの劇作家ハイナー・ミュラーが『四重奏』の題名で戯曲化している。日本では1994年、演出家渡邊守章が自ら女形を演じ、東京都墨田区にある劇場シアターΧで上演した。2017年には、ハンプトンの芝居をリチャード・トワイマン演出、主演は玉木宏で上演された(東京・シアターコクーン / 大阪公演・森ノ宮ピロティホール)。さらに1997年に宝塚歌劇団雪組で『仮面のロマネスク』のタイトルでミュージカル化された(主演:高嶺ふぶき・花總まり)。後、2012年宙組で大空祐飛・野々すみ花主演、2016年花組で明日海りお・花乃まりあ主演、2017年花組で明日海りお・仙名彩世主演で再演された。
2005年には、アダム・クーパーの演出・振付・主演でバレエ化されたという。
 このけしからぬ宮廷遊戯恋愛ドラマが、なぜ200年後の20世紀後半の人々の興味をかくも惹きつけたのかは、考えるに値する。とりあえず、1988年の映画版を見てみよう。

■ スティーブン・フリアーズ監督「危険な関係」1988
 これは原作の通り、18世紀のパリの貴族をそのまま登場させた時代劇である。ただし登場人物は全部英語で話す。カツラをつけ着飾った衣装で宮殿を歩き回るジョン・マルコヴィッチがヴァルモン子爵、まだ若いキアヌ・リーブスがセシル(ユマ・サーマン)の恋人ダンスニ、貫禄のメルトゥイユ侯爵夫人がグレン・クローズ、貞淑未亡人トゥールベルがミシェル・ファイファーである。ロココの派手な衣装や化粧が本格的だが、冒頭の着付けのアップで侯爵夫人の肌が大写しになる。どんなに豪華な衣装を着、高価な化粧品で装っても肌のシミは見苦しいほどだ。西洋白人の目鼻立ちと体格は確かに一般的に立派だが、肌の美しい人は少ない。女性はとくに20歳を過ぎると荒れてアップに耐えない人が多い。この点では、東洋の女性の肌は宝石のごとく素晴らしいといっていい。それに映画ではわからないが、たぶんロココの貴婦人はあまり風呂に入らないで強い香水を振りかけるから体臭も相当きついはずだ。正直言っていくらお金持ちでも、あんまり近寄りたくない。物語とは関係ないが、いきなりそんなことを感じてしまった。人間は生きているだけで、身体から臭い、呼吸、音、排泄物、体液などを頻繁に発散する動物だ、ということがわかる。
 傲慢で少々欲求不満のメルトイユ侯爵夫人は、彼女の恋人バスティード伯爵が若い娘と結婚するらしいという噂を耳にしたことから、かつての愛人であり、社交界きっての遊び人として名高いヴァルモン子爵を使って、当のボランジュ夫人の娘である美しき処女セシルの純潔を踏みにじろうともちかける。ヴァルモンにとっては若く恋に無知な娘をたぶらかすだけのこんな軽い遊びは簡単すぎてつまらない。それよりも、美しく身持ちの堅い清楚な淑女トゥールベルを誘惑してわがものにすることに命を懸けるほどの喜びを感じる。
本命に冷たく避けられ、半分やけっぱちでセシルを誘惑して簡単に我がものにしてしまう。しかし、本命のトゥールベルも手練手管を駆使してようやく落とし、公爵夫人に自慢しようと仮面の愛を注いでいるつもりだったのに、次第に彼は自分のやっていることを懐疑し、欺かれていたことに気づいたダンスニに決闘で殺される。プライドが高く自分にできないことはないと思っている傲慢な男には、この世で最高の偏差値の高い女をものにするほど生きがいを感じる行為はないのだが、いつの間にか、ヴァルモンはプレイボーイの枠を踏み外して、純粋純潔恋愛にはまり込んでいた。
すべてを巧みに操っていたつもりのメルトゥイユ侯爵夫人は、ヴァルモンに裏切られ陰謀を暴露されて窮地に立たされる。結局この場合も、因果応報の罰当たりである。

さて、このヴァルモンという女たらしの男をどう描くか、それが「危険な関係」の主要な焦点になる。彼を扇動して虚栄と無知に溺れる女たちを見下し、愚かな男たちも支配しようとする女帝メルトイユは、退廃した貴族社会の中年悪女、の象徴としておけばすむ。だが、ヴァルモンをただの歩く生殖器、美女を誑し込んで手に入れれば捨てて次に行くだけの男にすると、17世紀以来プレイボーイの代名詞として語られるスペインのドンファンDon Juan伝説をなぞって、悪徳遍歴の結末として神の罰を受けて破滅することになる。この映画も、ヴァルモンは若い音楽家ダンスニの剣に刺されて死ぬ。しかし、彼は聖女トゥールベルを汚したことを恥じて自己否定と彼女への愛を語りながら死ぬ、ということにしてある。
「危険な関係」の読者にとって、とくに20世紀の観客大衆にとって、モテすぎるエリート男というイメージに対しては羨望と嫉妬が湧き上がる。彼がみんなが認める極上の美女に厚い壁を突破して彼女を落とす、というゲームに全力を注ぐのを、そしてついに抱かれる彼女の姿を実は見たくてたまらないのだ。男にとっても女にとっても、自分には手の届かない危険でヤバい世界だからこそ、隠微な欲望をくすぐられる。つまり、ここに描かれる「恋愛」は、上流階級の特権的な遊びの物語であり、結婚制度や世間の表層道徳を超えた恋のかけひきに並外れた能力を示すエリートのドラマなのだ。ただそれがそのまま肯定されたのでは、そんな世界に生きていない大衆には、空虚な夢物語か、特権貴族の鼻持ちならない自慢話だから不愉快になってしまう。そこで、話はヴァルモンとメルトイユを破滅に落とすことでバランスを取る。
しかし、スタンダール『恋愛論』の文脈では、これはどうなるんだろう?



B.有閑階級の愉しみ
 人間がおのれの生存と安全のために、環境と戦い必死で働き食べて寝ることにほとんどの時間を費やす生産力の低い時代には、動物一般がするように生殖の欲求だけを残して精神の文化的充足など望むべくもなかった。そういう唯物史観に立てば、人類が「恋愛」などという行為を理念として肯定しはじめたのはいつからだったのか?おそらく、王権と分業が成立し、労働から解放されたごく一部の権力者が言葉と精神の遊びを追求する余裕を獲得したときだろう。もっとささやかに、もっと堅固に生命の使い方を「野蛮に」「素朴に」短く死んでいった大多数の人間を、奴隷としてあるいは下僕として踏みつけながら、自分たちは高貴で優雅な優れた人間なのだと自負していた人間だけが、「恋愛小説」を書くことができた。
「危険な関係」は、そのような傲慢な世界を、いっぽうで仰ぎ見、他方で心から侮蔑するフランス革命直前の啓蒙主義かぶれの軍人が書いたモダン小説だった。ナポレオンが切り拓いた新しい時代の申し子、しかもナポレオンの没落をみずからの没落として自己同一した奇妙な作家スタンダールは『危険な関係』を読んで、そこで展開する過剰に退廃的でどこか優美な虚栄恋愛、趣味恋愛を自分もやってみたいと確かに思ったのだ。でも、スタンダールが実際の人生で経験したミラノの「恋愛のようなもの」は、限りなく滑稽でなにひとつ報われない愚劣なコミックだった。でも、さすがに彼はそれを自覚していた。
 
 「恋の情熱においてもっとも驚くべきはその第一歩であり、人間の頭の中でおこる変化のすさまじさである。
 華やかな宴のくりひろげられる社交界は、この第一歩を助けるという意味で恋愛に役立つ。
 第一歩はまず、単なる賞讃(第一段階)を優しい賞賛(第二段階)に変える。「彼女にキスをしたらどんなにうれしいだろう」、などなど。
 無数のろうそくの灯りに照らされたサロンにかかるテンポの速いワルツは、若者の心を陶然とさせ、内気さを鎮め、力の自覚を高め、最終的に恋する大胆さを授ける。というのも、相手の愛想の良さだけでは十分でないからだ。逆に、女の愛想のよさも極端になると、繊細な心の持ち主は勇気をくじかれる。相手が自分に恋している姿とはいわないまでも、少なくとも威厳を捨て去ったところを見る必要があるからだ。むこうから言い寄ってくるのでなければ、だれが女王に恋しようなどと思うだろうか。
 *1 作為に端を発する情熱が可能なのはこのためである。以下の例、そしてベネディクトとビアトリスの例(シェイクスピア)。
 *2 ブラウンの『北方の宮廷』におけるストルーエンセの情事を参照のこと。
 したがって倦怠に満ちた孤独と、ごくたまの、長いこと待ち望まれていた舞踏会との組み合わせほど、恋の発生に有利なものはない。未婚の娘を抱えるよき家庭の母はそのように仕組む。
 かつてのフランス宮廷で見られたような真の社交界*3は、1780年以降はもはや存在しない*4と私は考えているのだが、そこは結晶作用の働きに欠かせない孤独と余暇とを不可能にするという意味において、実は恋愛にはあまり向いていなかった。
 *3 デュ・デファン婦人、レスビナス嬢の『書簡集』、ブザンヴァル、ローザン、デピネ夫人の『回想録』、ジャンリス夫人の『礼儀作法字典』、ダンジョーやホレース、ウォルポールの『回想録』を見よ。
 *4 おそらくペテルスブルクの宮廷以外では。
 宮廷生活ではたくさんの微妙な差異を認め、実践する習慣がつく。ほんのわずかな差異が、感嘆や恋の情熱の端緒になりうるからだ*5。
 *5 サン=シモンとウェルテルを参照のこと。孤独な男は、どれほど感じやすく繊細であっても、心は虚ろである。想像力の一部を、社交界の情勢を見極めることに費やすからである。気骨こそ、真に女性的な心をもった女をもっともひきつける魅力のひとつである。謹厳実直な青年将校たちが成功を収めるのはそのためだ。女は、自分でも潜在的に感じている。そうした男の情念の激しさと、気骨とを区別する術を十分に心得ているが、どれほどすぐれた女でも、この種の話ではときにいかさまにひっかかるものだ。女の結晶作用が始まったことに気づいたらすぐさま、男はなんの懸念もなく、そうしたいかさまを用いることができる。
 恋愛に特有の不幸が他の不幸(あなたの恋人が、あなたが当然持っていてしかるべき誇りや名誉や個人的尊厳の感情を傷つけた場合の虚栄心の不幸、あるいは健康上、金銭上の不幸、政治的迫害による不幸、などなど)と混じりあっている場合、こうした思いがけない不運によって恋が増幅されたように思えても、それは見かけにすぎない。それにより、想像力は他のことに費やされるので、有望な恋愛においては結晶作用が妨げられ、両想いの恋においては小さな疑念の発生が妨げられる。そうした不幸が去ると、恋の喜びや狂気が戻ってくる。
 注目すべきは、軽薄な男、あるいは鈍感な男においては、不幸が恋の誕生を助けるということ。それ以外の人生の局面が陰気なイメージしかもたらさないのにうんざりした想像力が、全力を傾けて結晶作用を押し進めようとするからである。」スタンダール『恋愛論』(上)岩波文庫、杉本圭子訳2015.pp. 62-65.

じつはスタンダール『恋愛論』のなかにラクロ『危険な関係』に触れた箇所がある。ということは当然スタンダールはこの本を読んでいたわけだが、それは『恋愛論』の中でも比較的長い記述のある第26章「羞恥心について」である。

 「男の目から眺めると、羞恥心には九つの特徴があるように思う。
 一、女はわずかなものを得るのに多くを賭けている。したがって極度に控えめになり、しばしば気取りに陥る。たとえば、最高におもしろいものでも笑わないことなど。だから羞恥心をちょうど必要な分だけもつためには、多くの才知が必要なのである。それゆえ、女は内輪の集まりではそれほど羞恥の念をもたないことが多い。より正確に言えば、男から聞かされる話に十分なヴェールがかけられていなくともよしよしとし、話を聞いて陶酔や熱狂がおこるにつれ、徐々に話のヴェールがはぎとられていくのも大目に見る
  〔中略〕
 大部分の女が男のうちに評価するものが厚かましさをおいてないというのは、羞恥心と、羞恥心によって多くの女性が必然的に強いられている死にたくなるほどの退屈の結果なのだろうか。あるいは彼女たちが、厚かましさを気骨ととりちがえているのだろうか。
 ニ、第二の法則。羞恥心のおかげで、恋人は私のことを一層尊敬してくれるようになるだろう。
 三、どんなに情熱的な瞬間にも、習慣の力がものを言う。
 四、女の羞恥心が恋人にもたらす喜びは、その自尊心を大いにくすぐる。男はそれを通じて、相手が自分のためにどれほどの掟を侵しているかを感じるからである。
 五、そして女にはいっそううっとりするような喜びをもたらす。そうした喜びは強力な習慣でも破らせてしまうので、心の中にさらなる動揺を生む。ヴァルモン伯爵が夜中にとある美女の寝室にいたとして、そんなことは彼には毎週あることだが、彼女にとっては二年に一度のことだろう。したがって、珍しさと羞恥の念が女にいっそう激しい喜びを用意するにちがいない*。
 * 憂鬱質を多血質と比べたときの話である。貞淑な女性――たとえそれが宗教の説く欲得ずくの美徳(天国で百倍になって返ってくるごほうびとひきかえの美徳)の持ち主であってもよいのだが――と、すれっからしの四十歳のならず者とを眺めてみるとよい。『危険な関係』のヴァルモンはまだそこまでは達していないが、トゥールヴェル法院長夫人は小説全体を通じてヴァルモンよりも幸せである。著者はあれほど才気のある人であったが、さらなる才気があれば、このことを彼の傑作の教訓としたことだろう。
 六、羞恥心の不都合な点は、たえずうそをつかせることである。
 七、度をこした羞恥心と厳格さは、感じやすく臆病な女が恋をする勇気を失わせる。まさにこうした女こそ、恋の喜びを与えたり感じたりするのに向いているのだが。」スタンダール『恋愛論』(上)岩波文庫、杉本圭子訳2015.pp. 119-122. 

 このあと八、九とまだ続くのだが、こんな文章を追ってみても現実の恋愛を理解したことにはならないし、自分の私的恋愛になにか役に立つことも全然ないことは明白だ。第一ヴァルモンは伯爵ではなく子爵だったというようなど~でもいいことは措いておいて、20世紀の後半には、グローバル資本主義の経済成長は少なくとも地球上の3分の1の社会では、とにかくごく普通の家庭に生まれた庶民の若者でも、自分はいずれ素晴らしい運命の相手に出会い、世界で一番幸福な愛される夢の瞬間を生き、誰よりも意味のある人生を生きると、たとえ嘘でも信じられると思った。それは、雲の上の哲学的な高尚な真理なのではなくて、ごく普通のどこにでもある俺ら、あたしんたちの現実なのだと思わせたのは、映画というメディアの20世紀的威力なのだった。文化の地下水脈の威力を、この世の権力を握っていると思い込んでいる政治家、財界金融企業幹部、中央官僚、大手メディアや保守的アカデミーのボスたちは、浮草のようなたわ言として無視する。それはそれでぼくはただくすんだモノクロの風景として眺める。
 今の日本の地方都市の、ごく平凡な風景として素朴で善良な若い少年少女の夢見ている世界に、ポジティヴな未来構想としてある選択肢。それは、巨大なモンスターの跋扈する東京に出て一発自分の可能性をチャレンジしてみるか、自分にはそんな冒険をする能力はなく自分の生まれ育ったこの場所で、なにができるかを現実的に実践する以外にない。さて、そこで「恋愛」という誰もがある時期に直面せざるをえない試験に、どういう答えを出すのか?それは東京というセンターの傲慢に本拠のあるぼくからすれば、「恋愛」こそが自律した個の衰弱したこの国に活力を与える鍵であるのに、若者たちは男も女も恋愛に真剣に向き合うことにひどくためらっている。スタンダール『恋愛論』の80%は、自分勝手なステレオタイプな女性蔑視を基本に書かれているバカな本だと思うのだが、恋愛の喜びをこの世に生きる人間の最上の喜びとして語って飽きない情熱だけは、未来に繋がるポジティヴな価値を示唆していると言おう。
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恋愛映画の夢の幻4 危険な関係 

2018-12-29 03:20:09 | 日記
A.遊戯としての恋愛
 映画は作りものfictionであるから、現実に起きたことそのままではなくて現実のある部分を拡大したり削除したり、転化したり変形したりして、作者の好む表現に仕上げる。それが成功することも失敗することも、作者の力量というよりは、作者よりは観客の期待や好みにそれがどれだけ応えられたかによる。観客が何を期待し好んでいるかは、ある時代の移ろいやすい気分や流行に左右されている。恋愛映画は人間の本性にもとづく普遍性のあるテーマだと思い込んでいる人が多いが、これほどそのときどきの時代を反映しているジャンルもないと思う。現実の社会生活では、恋愛以外の他の要因、経済的基盤とか道徳的規範とか政治的力関係とか、いろんなものを無視できないので、いくら恋愛に夢中になったとしてもほとんどの人たちは、情熱恋愛に溺れて破滅を招くようなリスクは犯さない。だからこそ、作りものの映画のなかにその現実を超えて、つまり現実を踏み外した特別な世界を見たいと願う。つまり、恋愛映画を見れば、人々がある時代になにを価値として願望していたかを垣間見ることができると思う。
 ある時代まで、恋愛は上流階級の遊戯として一定のフォーマットを作っていた。とくに西欧の18世紀から19世紀の宮廷を中心にした社交界というものが成立していた時代には、王侯貴族や富裕なブルジョアたちの日常は、労働という生活の必要に煩わされることなく、恋愛をゲームのように楽しむ文化を育んだ。地位と教養のある男たちは、自分の気に入った女をどうやって口説き落とし心と身体を我が物にするかに夢中になり、女たちは自分を崇拝し持ち上げてくれる男を慎重に選別し独占するかに心を占領されていた。そこには中世の王女・騎士物語から敷衍された「高貴な女性」像と、子を産む存在でしかない女に男を魅了し挑発するエロスを付加した「近代的」恋愛のモデルができあがった。スタンダール『恋愛論』は、フランス革命直前にパリの社交界で蔓延っていたこの「趣味恋愛」「虚栄恋愛」を、貴族階級の精神の退廃堕落として批判しつつ、彼自身がそうした恋愛文化を骨の髄まで身につけて、だからこそナポレオンのもたらした19世紀新時代の文学的実験として、自分自身の恋愛体験を間接的に告白するようなエッセイを書いた。
 その『恋愛論』のなかにも触れられた小説「危険な関係」(1782)は、作者の軍人にして小説家ラクロ(1741-1803)が、女たらしの主人公ヴァルモン子爵とラヴ・アフェアを趣味的に弄ぶ侯爵夫人の、遊戯的恋愛ドラマは、20世紀にフランスで映画化されている。ただし、舞台は18世紀のブルボン王朝のパリ宮廷ではなく、20世紀の第2次大戦後のパリで、登場人物は貴族ではなく外交官とその妻にしてある。 

■ロジェ・ヴァデム監督「危険な関係」1960
 遊びplay, pleasure、plaisir, Spielにはいろいろあるが、「遊び人」playboyというとまず女遊び(女たらしlady killer)を意味し、次にギャンブル狂い(ばくち打ちgambler)、そして道楽者(金持ちで多趣味・多才な男le dilettante, 芸術オタクle debauchee)ということになる。ドン・ファン、カサノヴァ、カルーソー。遠山の金さんは自称遊び人だが、実は町奉行という権力者なので嘘、ほんとうの遊び人は日本で言えば、光源氏や在原業平の系譜になる女誑しの貴公子、教養があって和歌や漢詩が読めて好きな女を抱くためなら死んでも惜しくないという、ヤワなプレイボーイである。この遊び人はとびきり美形でセクシーであるほどよいが、それだけではアホっぽくなるから時には腕力も見せる。
   文学や映画の世界では、この手の遊び人がひとつのヒーローになるが、色好みの貴公子のひとつの典型を作ったのが、フランス大革命の直前にピエール・コデルロス・ド・ラクロによって書かれた書簡体小説「ヴァルモン」(1782)の主人公である。この物語の主要な登場人物は、パリの社交界に君臨する侯爵夫人と遊び人の子爵ヴァルモン、彼が恋の標的にする美しく貞淑な未亡人、それに若い娘セシルの4人。侯爵夫人とヴァルモンにとって恋愛はゲームである。18世紀末のパリの宮廷貴族の乱れた世界。
   これを現代のパリに舞台を移して映画にしたのがこれ。若死にした二枚目スター、ジェラール・フィリップ最後の作品として知られるが、悪女の貴婦人を演じるジャンヌ・モローの色気でも有名だ。基本構造は同じだが、設定は少し変えていてプレイボーイのヴァルモン(G・フィリップ)は外交官、悪女の侯爵夫人にあたるのはヴァルモンの妻ジュリエット(J・モロー)になる。ふたりは互いに愛し合いながらも倦怠し、それぞれ他に恋人を作るのを是とし、その秘め事の報告をしあい、後始末を共にするのを楽しんでいる。
 ジュリエットにはジェリーという愛人がいたが、彼が婚約したことに憤り、夫にその相手セシルを誘惑し処女を奪わせようと唆す。が、セシルにはダンスニ(J=L・トランティニャン)というもう一人の恋人がいた。途中からヴァルモンは火遊びの相手のつもりのマリアンヌ夫人に本気で惚れてしまう。これを知ったジュリエットはダンスニを情夫にしようとするが、すべてのカラクリを知った彼はヴァルモンを殺す。残されたジュリエットは証拠の手紙を焼き捨てようとして火が身体に燃え移り、顔に火傷を負ってしまう……。
 今日の目で見れば、20世紀の一夫一婦制モデルは、18世紀より遥かに極度に倫理的なモラルとして流通していたから、ロジェ・バディム版「危険な関係」は、ゲームとしての恋愛をインモラルに描くと見せて、ひどく通俗的で実は因果応報の結末をもたらす保守的なイデオロギーが覆っている。
  結婚制度はもともと女にとっては、ある男に子を産みつけられるべき女がその男から経済的保護とその子の家産継承権を公的に保証してもらうためのものであったから、愛情の強さとか、夫婦がそれ以外の性関係を持つこととか、まして誰に「処女を奪われたか」(この表現自体が卑猥だが、最初の性交相手が誰だったかというつまらない問題)などということは、本質的な問題ではない。重要なのは子どもが生まれたとき、その子の父親を誰にしておくか、ということだけだった。それがやがて実際に子どもが生まれるかどうかにかかわらず、法的な正妻という地位を作ってしまったので、妻と妾、あるいは妻と愛人という区分が発生し、さらに「純潔」な妻候補者とか、「キズモノ」の妻失格者とかという観念を生んでしまった。それは論理必然的に、婚外の性愛を「不倫」として禁止するモラルを成立させることで、ようやく結婚制度を支えるような神経症的な場所に堕落し、男を放埓にさせ、女を結婚に縛りつけたのだ。ついでに言えば、避妊の技術が普及すれば、これを女の自己決定として自由にできると考えたところからフェミニズムは発展する。自分の意志でいつ誰とセックスするか、一番気に入った相手の子どもを産むかどうかを女が決められる。これはすべてを男の手に握られて、一方的に子どもを産まなければならなかった女の無念を晴らすには画期的だった。
ところが、18世紀の「危険な関係」は、結婚制度はそのままにしておいて、ただ貴族の特権のもとに好きな相手と好きなだけ恋愛やセックスを楽しみたいという「密かな愉しみ」を追求する世界である。その先にはサドの悪徳がある。ラクロの興味はそっちの方にはいかずに、狙いをつけた質の高い美女から自分の手腕で心と身体を奪うことに命を懸ける。それはスタンダールのいう「虚栄恋愛」、人工的で知的な高級なゲームとみれば「趣味恋愛」でもある。日本の平安時代、光源氏は、最高の女を求めて渡り歩く。しかし、20世紀のヴァルモンはただの外務官僚で仕事もいい加減に遊んでいるだけの男だから、結婚制度に縛られて本気の恋愛をした途端、殺されてしまうし、ジュリエットはスキャンダルが発覚して魔女のようにカソリック的に火あぶりの結末。20世紀が性愛にとって少しも自由ではなかった、ということが今にしてわかる。
ぼくは性別が男だから、ヴァルモンのように魅力的な女性をひたすら追いかけてあの手この手で自分に振り向かせ、ついに心も身体も手に入れて勝利に酔い痴れる、というアチーヴメント気分が多少わからないことはない。でも、実際にそんなことをしたことはないし、性愛をゲームだと考えたことがない。「女を落とす」ことに生きがいを感じる男はいまもいるだろうし、インパクトのある男に「迫られ落とされる」ことを嬉しいと思う女もいるのかもしれない。しかし、ぼくは恋愛をテクニカルな勝負と考えることは、手段としての性愛でしかないから、必然的に次々相手を変えることは彼には必然で、一種の病気だと思う。



B.『恋愛論』第四章
  19世紀のスタンダールに、21世紀を生きているぼくたちが何かを学ぶということは、ほとんどないと言ってもいいし、実生活において彼は恋愛のみじめな敗者であったわけだが、では「恋愛論」を無視していいかというと、そうもいかないのだ。つまり、その後の近代社会に『恋愛DE L’AMOUR』という,強力な観念を人々の行為を左右するひとつの価値として植えこんだことは、否定はできない。それまで伝統的保守制度や習慣や秩序の中に納まっていた性愛を、個人の選択と嗜好に開いたことは、魅力的な解放であると同時にきわめて危険なことだと受け取られた。スタンダールの『恋愛論』は、それをある意味では情熱恋愛の鼓舞として打ち出しながら、これが人間を破滅に導く狂気だと打ち消す矛盾に、本人が懊悩している。

「恋愛の七つの時期についてもう一度まとめてみよう。
 一、賛嘆。
 ニ、どんなにうれしいだろう、などなど。
 三、希望。
 四、恋の誕生。
 五、第一の結晶作用。
 六、疑念が生じる。
 七、第二の結晶作用。
 一と二のあいだには一年かかることがある。
 二と三のあいだには一月かかる。希望がなかなか生まれない場合には、不幸のもとになるからと言ってしだいに二をあきらめる。
 三と四のあいだは一瞬である。
 四と五のあいだは間髪を入れない。この二つを隔てるものといえば、深い仲になることくらいだ。
 五と六のあいだは、どの程度血気盛んか、性格の大胆さが習慣化しているかどうかによって、数日かかることがある。六と七のあいだには間がない。
(第五章)
人間は、他のどんな行為にもまして大きな喜びをもたらしてくれることをせずにはいられない。
 *犯罪の観点からみれば、良い教育とは後悔の念を教えることであり、前もって与えておけば、秤に重しをのせておける。
恋愛とは熱病のようなものであり、意志とはなんのかかわりもなく生まれたり消えたりする。これが趣味恋愛と情熱恋愛の主な違いのひとつであり、愛する女の美点も、幸運な偶然としてたたえるべきだ。
要するに、恋は年齢を問わない。デュ・デファン夫人があまり優雅とはいえないホレース・ウォルポールに寄せた愛情を見るがよい。おそらくまだ記憶に新しいところだが、パリではもっと最近の、より魅力的な恋愛の例もある。
偉大な情熱の証として認められるのは、その結果として滑稽さが生じることだけだ。たとえば恋の証拠である内気さなど。これが学校を出たての若者にありがちな青臭い恥じらいとは別物である。
(第六章 ザルツブルクの小枝)
恋愛において、結晶作用がやむことはほとんどない。それはこういうわけだ。恋人とうまくいっていない間は、結晶作用がおきて想像上の解決をもたらす。そのときは想像上のうえでしか、愛する女にこれこれの長所があると確信することはできない。親密な仲になったのちも不安は絶えず生じるが、そちらはもっと現実的な解決法によって鎮められる。このように、幸福はそのおおもとにおいては一様だが、一日ごとにちがった花を咲かせる。
もし愛されている女が自分の感じている情熱におぼれ、陶酔の激しさによって相手の不安を打ち消すという大きなあやまちを犯すと、結晶作用は一時やむ。だが恋愛から活気、すなわち不安が失われても、そのかわりに相手にすべてをゆだね、全幅の信頼を寄せるという魅力が加わる。快い習慣が人生のあらゆる苦痛を和らげ、恋の喜びにまた別種の趣をそえる。
あなたが恋人の女に去られると、再び結晶作用が始まる。相手に感嘆するたびに、相手が与えてくれそうな、ただし以前のあなたは思いつきもしなかった幸福の姿を見るたびに、次のような痛ましい考察に行きついて終わる。「これほどすばらしい幸福を、自分はもう二度と味わえないのだ。しかもそれを失ったのは自分のせいなのだ。」別種の刺激のなかに幸福を求めてみても、そもそも心が拒否して感じとらない。想像の中で駿馬にまたがり、デヴォンシャーの森で狩りをするときの体勢を思い描いてみても*、あなたがなんの喜びも感じられないことは、自分でもはっきりとわかっている。こうした錯覚が拳銃自殺をひきおこすのだ。
*なぜなら、仮にあなたがそこに幸福を思い描けたとしても、結晶作用の方はすでにあなたにそうした幸福を与える特権を、あなたの恋人だけに譲り渡してしまっているからだ。
賭けにも結晶作用があり、これからもうける大金の使い道をめぐって起こる。
貴族たちが正当性を引き合いに出して懐かしんでいる宮廷内のかけひきは、それが引き起こす結晶作用によってこそ、あれほど魅力的だったのだ。リュイヌやローザンのような、瞬く間の出世を夢見ない人はいなかったし、貴婦人はだれでも、ポリニャック夫人のような公爵領をあてこんだ、合理的な政府には、こうした結晶作用を起こすことはできない。アメリカ合衆国の政府ほど想像力の働きに反するものはない。彼らの隣人たる未開人たちがほとんど結晶作用を知らないことはすでに述べた。ローマ人にはほぼそのような概念はなく、あったとしても肉体的恋愛の場合に限られていた。
憎しみにもまた結晶作用がある。人は復讐できると思ったとたんに、再び憎みはじめる。
荒唐無稽なこと、証明できないことにからむ信仰が、どれもきまってひどい愚か者たちを首領にかつぎ上げる傾向があるのも、結晶作用のもたらす効果のひとつである。数学でさえ、これと信ずる証明の全過程を随時頭に入れておけない人々のあいだでは、結晶作用がおこる(一七四〇年のニュートン主義者たちを見よ)。
その証拠に、ドイツの偉大な哲学者たちのたどった運命を見るとよい。あれほどさかんに不朽の名声をうたわれても、三十年や四十年先まで名が残ることはないではないか。
どれほど賢い人間でも音楽のことになると狂信的になるのは、自分の感情については理由をつきとめられないからである。
だれかに反論されたとき、自分は正しい、と思う存分に証明できる人などいはしない。」スタンダール『恋愛論』(上)岩波文庫、杉本圭子訳2015.pp.37-43.

恋愛とは、生物としての人間の生殖とか身体とかとは質的に異なる、きわめて人工的文化的なものだと考えれば、それをどのようなものとして捉えるかは、ある時代、ある社会の人々の欲望と期待の形式に依存する。性愛の規範は、比較的安定した結婚という制度のなかに納まっていたが、それがまずは文化的に逸脱を始めたのが18世紀フランス宮廷だったととすれば、スタンダールの19世紀フランスは普通の市民が恋愛を生き始めた時代であり、20世紀は大衆が映画に触発されて自分も恋愛がしてみたいと啓蒙された時代だった。
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恋愛映画の夢の幻3 before midnight スタンダールの偏見

2018-12-27 09:33:53 | 日記
A.時間との争奪
 映画はいろいろな要素の複合した表現である。まず目に見える映像(CGなど加工技術も含め)が注目されるが、俳優の演技と科白、作品のテーマやストーリー展開、そして音楽や衣装・美術の効果なども見どころになる。それらをまとめ上げて完成させるのが監督とプロデュ―サーの仕事だが、その諸要素のすべてにおいて優れたレベルに達した作品などはたぶんない。古今の名作秀作といわれる映画も、何か足らない部分はあるし、駄作とされる映画にもこれだけは捨てたものではないというきらめきの要素がある。
   そして、観客にとってもその映画の価値はどこに注目して見たかによって違ってくる。出演俳優の大ファンには、ストーリーも映像も基本的に興味はなく、ただお目当ての役者が自分のイメージ通りに活躍してくれれば満足だろうし、ミュージシャンなら映像よりもどんな音楽が流れるかに注意を向けるだろう。すべての観客の期待に応える映画などあり得ないが、映画は料金を稼ぎ出す興行商品でもあるので、採算を取るためにはなるべく多くの観客を満足させる必要がある。そこで、この映画はここが一番の見どころだよ!とアピールする宣伝に知恵を絞る。主演俳優が大人気のスターであれば、それを前面に出して予告編を作るだろうし、無名俳優しか出ていない新人監督の作品なら仕方がないからテーマやストーリーの過激さで話題になろうとする。そして、いつのまにか分類ジャンルができあがる。
   やたらに動き回って戦うアクション(これにもお子様ヒ-ロー、ミステリーもあれば犯罪ギャング、戦争映画や空手、チャンバラなどいろいろある)、歌や踊りが中心のミュージカル、衣装や美術で見せる時代劇、ただただ怖がらせるホラー、スポーツ・アスリート根性ドラマ、宇宙空間のSF、他愛なく腹を抱えて笑わせるコメディ、深刻なテーマを考えさせるシリアス・ドラマ、それに子供向け(アニメや童話)、女性向け、男性向け(バイオレンスとかエロチックもの)、高齢者向けなど性別世代別ジャンル分けがあるのは、ヴィデオ屋の棚をみればよくわかる。洋画邦画という区別は、製作と言葉の事情からそうなっているのはわかるが、映画としての価値は関係ないと思うし、ひっくるめて洋画と言ったって、アメリカ映画フランス映画イタリア映画などだけが洋画ではない。インドや香港は映画量産大国だし、イランとかウルグアイとかタイとか、意外に世界のあちこちで渋く深い映画が作られている。韓流映画はいまやヴィデオ屋の棚二つ分以上の勢力だ。
   映画監督の仕事には時代の表現者としての作家性と同時に、どんなシナリオだろうが観客を喜ばせ俳優やスタッフを奮い立たせて、魅せる映画を作る職人技術者という側面がある。職人監督を支え作品を興業的にヒットさせ、映画製作に携わる業界的利害にもきっちり応える企業家的な期待は、プロデューサーの役割だが、それがいつもうまくいくとは限らない。作品が完成する前にトラブルや資金不足で、挫折してしまう作品もあれば、せっかく完成しても一般上映するチャンスがなくお蔵入りしてしまう映画もある。かつて新作映画は映画館で見ないと、見逃してしまうという時代は去って、いまはちょっと待てば、DVDになって家で見ることができる。公開後の評判を聞いてからでも見るのは遅くないというわけだ。 実際、ぼくも最近はめったに映画館に足を運ぶ暇がなく、とりあえずヴィデオ屋でDVDを借りて見て、こんな文章を書いている。便利でお気軽になったものだが、ちょっと安易だな。

◆ リチャード・リンクレイター監督「ビフォア・ミッドナイト」2013 
そこでこの、一組のカップルのラブストーリー3部作である。ヨーロッパを横断して走る長距離列車の中で偶然出会ったアメリカ人学生ジェシー(イーサン・ホーク)と、フランス人女学生セリーヌ(ジュリー・デルピー)。車中の何気ない会話のやりとりでじわじわと盛り上がった二人は、翌日の朝までの時間、ウィーンの街を歩き回る。この第1作が1995年のベルリン映画祭銀熊賞(監督賞)受賞作「ビフォア・サンライズ」(日本公開時の邦題は「恋人までの距離」)。次が9年後、二人がパリで再開する2004年の「ビフォア・サンセット」。そしてこの「ビフォア・ミッドナイト」が9年目の3作目。
 ウィーンでの出会いが「夜明け前」、パリでの再会が「日暮れ前」、そして今度はギリシャでの「夜中前」というわけだが、二人は気楽な若者から中年の夫婦という立場に変わっている。同じ俳優が演じるので、人間の肉体の年輪が刻まれたことが視覚に現れる。20歳ごろウィーンで2人が出会ったとすると、パリの再開は30歳直前、その後いろいろあって、いまは一緒に暮らして子供もいて、アラフォー中年である。でも、まだそれなりに人生真只中の意欲満々、老いには程遠い。しかし、さすがに若者の無鉄砲な情熱や軽薄さは失せている。
9年という時間に何があったのか?
   この3つの映画の魅力は、ふたりの会話に尽きる。初めての出会いから、どこにでもありそうな自然な会話とみせかけて、きらめく言葉が相手の心の核心に鋭く刺さる。島国日本人は何も言わなくても相手が自分の心をじわっと察してくれることを期待するが、異文化異言語異民族が混住するヨーロッパでは、たとえ同じ言葉、たとえば英語でコミュニケーションできる人間同士でも、言葉で必死に自分が何を考えているのか、私とあなたが今ここで言葉を交わしていることの深い意味を繰り返し確認しなければ、恋愛はおろか明日の予定すら打ち合わせることができないのだ。恋愛は、ほんわか気分の妄想ではなく、エスノメソドロジー的な相互行為、つまり2人の会話のやり取りによって不断に想像され破壊される。
  だから、このヒロイン、ジュリー・デルピーと男イーサン・ホークのしつこいまでの会話は、とても考え抜かれたユニークな対決になる。情熱恋愛の常識的な公式は、まず偶然の出会いからくらくらと恋に落ちて、磁石がくっつくように結び合い、カップルが誕生する。しかし人間は24時間2人だけでくっついているわけにはいかないから、次に来るのは分離。飽きというよりは局面が質的に変化する。その速度に差があると、軋轢が齟齬を産む。
  この「ビフォア・シリーズ」も、初めはそこまで考えていなかったのだろうが、9年経ってそういえば彼女はどうしているのだろうと思い返し、さらにこのカップルが結ばれてまた9年が経過して、そこに何が起こるか、いわば実験しているような作品になった。初めは単なる若者の出会いと別れ、旅のつれづれ、青春の輝きを描いたつもりだった作品は、時間が経ったことで別の重い意味を帯びてきた。列車の中で出会い、その9年後再会し、パートナーがいるにも関わらず互いへの愛に気付いた小説家の男と環境活動家の女は、今やパリで家庭を築き双子の娘にも恵まれていた。友人の招きを受け、ジェシーの元妻と住んでいる息子ハンク(シーマス・デイヴィー=フィッツパトリック)も含めて夏のギリシャでバカンスを過ごす一家である。
一足先にハンクがシカゴへ戻るためジェシーは見送りに空港へ向かうが、演奏会に行くと伝えたところ息子に母親がナーバスになるからシカゴには来ないでほしいと言われてしまい、ショックを受ける。ジェシーと元妻の関係は良好ではないせいで息子になかなか会えないことを気にするジェシー。セリーヌが先行きについて悩んでいる仕事や息子ハンクについてなど様々なことを話し合っているうちに、ジェシーはシカゴへ引っ越さないかと提案。セリーヌは激怒する。別荘の主である老作家や孫、友人たちとの会食の後、友人たちの計らいで子どもたちを預かってもらえることになり、教会に立ち寄ったり海辺で夕日を眺めたりしながらロマンチックな時間を過ごす二人。しかしちょっとした言葉のはずみで再び彼らの間に険悪なムードが漂いはじめ、ついにはセリーヌがホテルの部屋を飛び出してしまう……。
 シリーズ4作目はあるかという気の早い質問に対し、リンクレイター監督は「先のことは誰にもわからないよ」と3作目が完成したばかりの今の時点ではさすがに未定だと回答。このような同じ主演俳優で、かなりの時間を経てその後の二人の物語を追いかけるという映画の形式は、今までもないことはない。かつてのソ連製の大作文芸映画トルストイ「戦争と平和」4部作(セルゲイ・ボンダルチュク監督)は、ナポレオンのロシア侵攻という歴史の大事件に合わせてヒロイン、可憐なナターシャ(リュドミラ・サベーリエワ)の少女時代から激動の時代を生き抜く長編ドラマを同じ俳優で描いていた。また日本では、TVドラマだけれど、21年間に及ぶ8シリーズの倉本聡の「北の国から」がある。架空の作品ながら、田中邦衛・吉岡秀隆・中嶋朋子をはじめとする主要な俳優は映像作品のなかで成長し、年齢を重ね、それなりの人生の変化を身に帯びて生きていた。こういう時間の経過そのものを作品に取りこんだ息の長い名作は、そうそう作れるものではない。だって、主演俳優の誰かが不幸にも病気や事故で欠落したら、こんな作品は不可能になるのだから。いわば、俳優は自分の実人生とは別に、作品のなかである役を生き続けなければならない。
  第1作のウィーンで、ジェシーとセリーヌは電話番号を交換せずに、半年後に同じ場所で再会すること約束するが、それは実現しない。偶然の出会いは偶然のまま、一期一会で終る。第2作で作家になったジェシーは、“あの夜”のことを書いた新作のプロモーションで訪れたパリで9年ぶりにセリーヌと再会を果たす。青春の日が蘇えり、燃え上がる。確かにそういうこともあるだろう。ここでも決め手は言葉である。
  自分を語り相手を語る会話は、ここでも重要だ。アメリカ人とフランス人の英会話は、淀みなく機智とユーモアに溢れてテンポよく進行する。手紙やメールなら、少し表現を工夫し考える時間の余裕があるが、会話は即座に返さないと噛み合わなくなる。口から出る言葉は、思わぬ効果を発揮して相手を刺戟したり失望させたりする。この映画のジェシーとセリーヌの会話のやり取りは、ほぼ理想的なかたちで、同情や親愛を示す場合よりも対立や罵倒するときの表現が非常に効果的にできている。なかなかこうはいかない。
 ぼくらは会話する相手の態度や言葉が気に入らない場合、不愉快な表情だけを示して黙ってしまうという反応をする。すると相手はさらに攻撃的にむきだしの言葉を投げかけたり、自分も沈黙によって会話を打ち切ろうとする。しかし、このふたりはそういうことをしない。あなたの言っていることのどこが気に入らないのかを即座に言葉でちゃんと説明する。しかも、これまでの2人の間で交わされた言葉と経験を、もう一度確認するように全力で訴える。これはそうとう知的なハードワークだが、事務的職務的な場面では当たり前に必要とされることだ。でも、男女の恋愛のような空間での直接的対話というのは、ここまで真剣に言葉でやりあうだろうか?むしろ、怒りの感情が昂ぶって論理もレトリックもふっ飛んでしまう方が普通だろう。手が出ればそれで会話どころではなくなる。
  喧嘩も愛情表現だという言い方は、このような言葉の能力を否定していると思う。暴力や沈黙に訴えないで、全知全能をしぼって言葉を投げかける。それはそもそも偶然の出会いにはじまる恋愛の出発点にあったはずだ。アメリカ人はいつも「愛してるよ!君は最高だ」と気軽に口にするのに対して、日本人は「愛してる」などと言うこと自体わざとらしく、黙って空気を読めよ、になっている、日本人は愛情表現が下手だと言われる。でも、アメリカ人だろうが日本人だろうが、言葉を使うことに自覚的であるかどうかは、その人の言葉の能力によるのだと思う。同じことを言うにもさまざまな言い方があって、相手の心に響くような工夫が必要なのだ。
 夫婦や親子という自明な関係が成立していて、日常の中で事改めて言葉で説明したり、議論したりするのを面倒だと思ってしまう人は、たぶんアメリカ人にもフランス人にもいるだろう。そういう緊張は確かにエネルギーが要るし、疲れる努力だから。でも、この映画のジェシーとセリーヌのように、夜中だろうが、早朝だろうが、納得いくまで言葉でやりあう努力はやっぱり恋愛という相互行為の中核にあるものだと思う。



B.『恋愛論』の視点と視野
 スタンダールの「結晶作用」は、ザルツブルクの塩抗に小枝を投げ込むと結晶がつくという化学作用の話になっているが、実はザルツブルクの塩抗にはそんな事実はなかったという。それに続けて『恋愛論』発表時にも「結晶作用」の比喩はわかりにくかったという批判がある。

 「なぜわかりにくい概念とされたのか。理由のひとつに、もしも恋愛が「錯誤」にすぎないのなら、本能がみずから好んで「錯誤」を犯す理由が説明されていない(ドニ・ド・ルージュモン『愛について』1939)、ということがある。人間が元来備えているはずの理性や批判精神はどこへ行ったのか。スタンダールが別の場所で、恋の快楽よりも苦痛の中により多くの喜びを感じると書いているのも、彼が拠っている唯物論的思考(快楽を求め苦痛を避けるのが人間の本性であるとする、エルヴェシウス以降の感覚論の流れ)からすれば理屈の合わないことである、とルージュモンは指摘する。さらにオルテガ・イ・ガセットも、すばらしい美点を実際にそなえた相手が目の前にいるのに、それがわれわれの想像力が相手の上に投影する幻影にすぎないというのは、十九世紀ヨーロッパ特有の「観念論とペシミズム」のなせる病理であり、真に愛したり愛されたりしたことのない人間のいうことだ、とまで主張する(「愛について――スタンダールの愛」1941)。恋愛を虚像と考えることによって、スタンダールは本来、愛の頂点であるはずのものを愛の終局と考えており、そのあとには情熱の破綻と幻滅しか残らないのだ、と。
 オルテガは、スタンダールの理論はまちがった恋愛体験のうえに築かれており、スタンダール自身、ひとりの人間の精神がたちまち他の人間に魅せられ、永久にそこに帰属しつづけるような真の愛の形を知らなかったのだと主張する。たしかにマティルデへのかなわぬ恋を糧として書かれたことを思い出すなら、その理論がひとりよがりな、一方通行の愛を前提としていることにも、恋の喜びよりも苦しみに価値を見出す苦痛主義の色を帯びていることにも納得がいく。」杉本圭子「訳者解説」(スタンダール『恋愛論』(上)岩波文庫、杉本圭子訳2015.所収)同書pp.429-430.

 「歴史家のリュシアン・フェーブルは、『恋愛論』の歴史書としての側面に注目し、「ベール(スタンダールの本名)のあらゆる著作のなかで、「歴史」にたいするベールの立場をもっともよく表し、またベールがいかにして、なぜ、「歴史」に寄与したかという点をもっともよく説明している作品はまちがいなく『恋愛論』である」と述べている(『ミシュレとルネッサンス』1992)。フェーブルによれば、ここではスタンダールの歴史的変遷の感覚がいかんなく発揮されており、スタンダールが活力にあふれた情熱的な生を求めてフランスからイタリアへ、さらに十五世紀、十六世紀のイタリアへと至り、近代の歴史家たちに先立って「ルネサンス」の概念を発見するさまが見てとれるという。『イタリア絵画史』や『ローマ、ナポリ、フィレンツェ(1817)』とも読み合せる必要があるが、『恋愛論』第41章には、謀略や奸計がはびこり、人々が日常的に危険にさらされていた十六世紀のイタリアが、情熱恋愛に不可欠な活力を生むのに最適な土壌であったことが記されている。スタンダールは後年、ローマで偶然に入手した十六世紀の古文書をもとに、長編小説『パルムの僧院』(1839)や、『イタリア年代記』としてまとめられる短編小説の中で、情熱的な生を生きる人物たちの物語をつむぐことになる。
 気候、風土、政体、宗教、気質などの要素と関連させて民族や国民の特性を論じる相対主義的な思考は、モンテスキューをはじめとする十八世紀の思想家たちに顕著に見られ、スタンダールもこれを受けついでいる。スタール夫人(『ドイツ論』)やのちのロマン派の作家たち(ユゴー、ネルヴァル‥‥‥)が北方に魅せられたのとは逆に、スタンダールはイタリアやスペインなどの南方の国々に惹かれた。『恋愛論』でも温暖な気候のもと、聖書の教えや道徳観にしばられずに、感受性のおもむくままに生きる人々の幸福がたたえられている。とくにイタリアは「〔恋愛という〕植物が自由に育つ唯一の国」(第40章)とされ、虚栄心や礼儀作法にがんじがらめにされているフランスとしばしば対比される。そこは「オレンジの木の祖国」(第24章)、幸福の棲む国である。」杉本圭子「訳者解説」(スタンダール『恋愛論』(上)岩波文庫、杉本圭子訳2015.所収)同書pp.431-433.

 今は鉄道や車で半日もあれば行かれる隣国のフランスとイタリアだが、19世紀にはそう簡単に往復できる距離ではなかっただろう。スタンダールはイタリアに憧れ、イタリア人の恋愛に期待したようだ。でも、イタリア人はこう、フランス人はこう、という言い方は乱暴で、考察は粗雑になる。司馬遼太郎も長州人はこう、薩摩人はこうという言い方をするが、恋愛論はやっていないんじゃなかろうか。
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恋愛映画の夢の幻2 before Sunset 結晶作用?

2018-12-25 15:42:02 | 日記
A.スタンスは恋愛におく
    映画の批評や評論といったものは山のようにあるし、たんなる感想文ならネット、ブログに溢れている。その多くは話題のある新作や古今に知られた大ヒット名作についてのもので、それも出ている有名俳優の話題や映画の中身とは関係の薄いエピソードとか、制作費や興行収入といった金銭の額や、過去の出演作や監督作の名前を並べただけの紹介で終るか、やたら素晴らしい出来と褒めまくるか、逆に期待に反してつまんなかったとか、ばっさり○×採点して終わる。そもそもちゃんと映画を観たかどうかあやしい文章もある。
淀川長治氏を筆頭に昔から映画評論家という人もいたが、ほとんどは映画会社、配給会社の宣伝広報を役割にしたものか、新聞TVメディアの映画欄担当者かタレントで、新作の試写会などに呼ばれてお客を呼びそうなヨイショコメントを述べるのが仕事だった。映画の研究がそういう形を離れて、日本で本格的に行われるようになったのは、欧米よりも遅れて映画批評誌ができた1970年代後半くらいからではないだろうか。しかしそれも、映像技術のテクニカルな側面、キャメラワークとか、照明とか、撮影・編集の職人技とかに注意が向いて、作品そのものが時代に対して創造したもの、あるいは観客に与えた影響を考える批評は、ないわけではないが多くはないと思う。
     ここでぼくが書いてみようと思うのは、映画の俳優論や監督論や映像技術論ではなくて、ある時代、ある社会でその映画がどういうメッセージを発し、観客はそれをどう受け取ったのか、という問題であって、それを「恋愛映画」に限定することでなにか発見があればそれでよい、と思う。とりあえず、前回の「ビフォア・サンライズ」1995に続く、同じカップルのその後を描いた「ビフォア・サンセット」2004である。
 
■ リチャード・リンクレイター監督「ビフォア・サンセット」2004 
     前作「ビフォア・サンライズ」の続編。9年前のウィーンで出会い短い間恋をした男女がパリのセーヌ河畔で再会し、再び語り合うというラヴ・ストーリー。実際9年前に作られた映画で若い恋人を演じた同じカップルで、再びその続編を撮った。この監督はがちゃがちゃロック学園もの「スクール・オブ・ロック」を撮った人でもあるのだが、ユーロトレインに乗って偶然出会ったアメリカ青年(イーサン・ホーク)とフランス女子学生(ジュリー・デルヴィー)が恋に落ちる前作は、ベルリン映画祭の銀熊賞を取った。アメリカ人もヨーロッパの風景の中ではしみじみ落ち着いた気分になるのか、若かった2人も分別と苦味を知る大人になり……などとしみじみ癒し系をやりたいらしい。
作家として成功したかつての青年ジェシーは、翻訳出版された小説の宣伝に招かれてパリにやってくる。そこで9年前、偶然旅で恋に落ち半年後にウィーンで再会しようと約して別れたソルボンヌの女子学生セリーヌに出会う。結局、約束のウィーンに彼女は現れなかったのだ。お互いに年齢を重ねジェシーには子どももいて、もう昔の若い学生ではないが、かつての華やぐ想いがじわじわ蘇ってパリを歩き会話を続ける。しかし、ジェシーは数時間後にはアメリカに帰る飛行機に乗らなければならない。制限時間つき4時間ほどの焼けボックイ恋のデートを、パリのロケで撮っていく。しかも、ためらったり喜んだり、その後の自分を率直に披露しながら、学生時代の一瞬の光芒を懐かしむ無限に続くような会話。
 たとえばパリのセーヌ川の観光船には、世界中から来ている観光客があふれている。その中のある人たちは、偶然の出会いから運命的な恋をするかもしれない。確かにそう考えただけでも、うきうき楽しい。実際にそれを期待してたくさんの日本の女性がやってくる。でも、フランス語もできないし、1人で歩き回る時間も勇気もないから、そんな夢みたいなことはまず起きない。まして、昔の恋人とばったり再会して、短く懐かしく心ときめく会話を交わして切なくバイバイなんて、やっぱメルヘンやわ。
 この旅の途中で恋に落ちる、というコンセプトは日本人にはよっぽど魅力的らしく、無理やり仕組んで一部始終を編集して流すフジテレビのTV番組「あいのり」というのがあった。これは、恋をしてみたい若者たちに人気だったが、見ているとここまで全部シチュエーションをお膳立てしてあげても、そう簡単に恋なんて成立しないこともよくわかる。参加する若者たちは、「恋をする」ことを自己目的化しているために、真剣になればなるほど表現がこわばってかえって「恋」を成立させることが難しくなる。
 この映画があえて作っている旅のメルヘンの基本法則は次のような設定である。むかし短期間つきあってお互いにいい感じのまま分かれた恋人、というのが第一条件、ずっと時間が経って偶然ばったり出会うがゆっくり話す時間もない、というのが第二条件、そして、映画は彼女の部屋に行ってコーヒーを飲み、時間は大丈夫?うん、まだ間に合うから大丈夫と微笑んで終わりである。最後は俳句みたいな気分になってしまうが、この恋は昇華されている。もしこういう恋が可能なら、男と女、いや男と女に限らないが、人と人が二人だけで相手を見つめながら自分を語ることの心の高揚と幸福感は至上のものになる。これが可能なのは、数時間の時間制限とお互いの生きる場所が遠く離れているということだ。つまり、この再開の偶然性は繰り返されないし、この奇跡的な楽しい時間も二度と再現されない、と思うことが必要なのだ。「一期一会」と言ってしまえば簡単だが、そこでまた言葉の勝負が決め手になる。
 4時間あればこの恋には十分だが、次を約束したり飛行機をキャンセルして時間制限を延長したりするのはルール違反で、ましてベッドに行ったり駆け落ちしたりしては台無しなのである。一期一会を覚悟して、制限時間の中で思い切り相手への想いを語り尽そうとする真剣さが恋を恋たらしめる。これは音楽の演奏に似ている。どんな名手の演奏でも、いつ終わるとも知れず1時間も2時間もやられたら誰だって飽きてしまうし、たった一人の聴き手でも今この時しか聴いてもらえないというチャンスには、そこで出す30秒の音が自分の生きる意味だと信じて演奏しなければ想いは伝わらない。
 でも、30歳くらいの人生上げ潮で素敵なカップルがこれをやるからいいので、若い自分たちを振り返るにしろ、今の相手を見つめるにしろ、幻滅の要素はあまりない。現実的なことを言ってしまえば、高校の同級生と久しぶりに会って、おお!いい感じの大人になったじゃん、昔より魅力的だぜ、と思えたのは35歳までだったな。たまに会う人はなおさら、歳を取ってくると自分を棚に上げて眺めて、悲しいがどうしてもくたびれが目立ってくる。50歳を過ぎて昔の恋人に会うのは勇気がいるだろう。それは単に見た目のことに過ぎないのだが、話して中身の方もやっぱり制度疲労・減価償却していたりすると、ああ会わないでおけばよかった、と思う。もちろん例外はあるんですがね。



B.スタンダール『恋愛論』第二章 恋の誕生について
 そこでスタンダール「恋愛論」の続き、有名な「結晶作用」が出てくる部分を読んでみる。

「心の中では次のようなことが起こる。
 一、賛嘆。
 ニ、「あのひとにキスをし、されたらどんなにうれしいだろう」などと思う。
 三、希望。
 相手の美点を観察する。女が肉体の快楽を最大限に味わおうと思ったら、この時点で身をまかせるべきであろう。どんなに控えめな女でも、希望を抱く瞬間には目が血走る。情熱は激しく、快楽は大きいので、恋は明らかなしるしで表に出てしまう。
 四、恋の誕生。
 恋するというのは美しい相手、自分を愛してくれる相手をできるだけ近くで見て、触れて、あらゆる感覚を通して感じる喜びを味わうことである。
五、第一の結晶作用が始まる。
 男はその愛情が確かだと思う女を無数の美点で飾り立てて楽しみ、ひとり悦に入って幸福を事細かに描く。それはつまり天から降ってきたすばらしい財産、よくはわからないけれども確実に自分のものである財産を誇張して考えることである。
 恋する男の頭を二十四時間にわたって働かせておくと、次のような現象が起こる。
ザルツブルクの塩抗で、うち捨てられた高山の奥深くに、冬に葉の落ちた木の枝を放りこんでおき、二か月か三か月のちに引きあげてみると、枝がきらきらと輝く結晶で覆われている。シジュウカラの脚ほどの太さもない小さな枝も、ゆらゆらとゆらめく無数のダイヤモンドで飾られている。もとの枝はもう見分けられない。
 私が結晶作用と呼ぶのは、目の前にあらわれるものの全体から、愛する相手が新たな美点をそなえているという発見を引き出す精神の作用のことである。
ひとりの旅人が焼けつくような夏の時期の、ジェノヴァの海辺にあるオレンジの林の涼しさを語ったとする。するとこの涼しさを恋人とともに味わえたらどんなに楽しいだろう、と考える。
 友人のひとりが狩りで腕を骨折したとする。すると愛する女の手当てを受けられたらどんなにうれしいだろう、と想像する。いつもいっしょにいて自分を愛してくれる女の姿をたえず見ていられるなら、痛みだって祝福したいくらいだろう。そうして恋する男は友人の腕の骨折から出発して、恋人の天使のような優しさをもはや疑わなくなる。つまりある美点を思うだけで、愛する女の中にそれを実際に見るようになる。
 私があえて結晶作用と呼ぶこの現象は、快楽を感じるように促し脳に血液を送りこむ人間の本性と、快楽は愛する女の美点とともに増すという認識、そしてあのひとは自分のものだという考えに端を発する。未開人は最初の一歩から先へ踏み出す余裕がない。快楽は感じるが、脳の活動は森に逃げ込む鹿を追いかけることに費やされ、その肉を食べて一刻も早く体力を回復せねばならない。さもなくば敵の斧に打ち倒されてしまう。
  文明のもう一方の極では、愛情深い女はまちがいなく、愛する男のそばでないと肉体的な快楽を見出さない段階にまで達しているはずだ*。未開人の逆である。だが文明国の女には暇がある。未開人は仕事に追われているため、女を家畜のように扱わざるをえない。人間よりも多くの動物のめすのほうがまだ幸福なのは、おすの生活がもっと保護されているからだ。
 *この特徴が男にあらわれないのは、男には一瞬のために羞恥心を捨てねばならないということがないからだ。
 しかし森を離れてパリに戻ろう。情熱にとらわれた男は愛する女の中にあらゆる美点を見出す。それでもなお注意力が散漫になることがある。なぜなら心は単調なものには飽きてしまうからで、完璧な幸福についても同じだ*。
 *すなわち単調な生活のもたらす完全な幸福は一瞬で終わるのに対し、情熱にとらわれた男の状態は一日に十回も変化するということだ。
そこで注意力をひきつけようとして次のようなことが起こる。
 六、疑念が生まれる。
 幾度となく交わされる視線や、それとは別に、一瞬で終わることも数日間続くこともある一連のそぶりを通じて、恋する男がまずは希望を与えられ、次にその確証を与えられると、男は最初の驚きから覚めて幸福になれてしまうせいか、あるいは尻軽な女だけを念頭においた、ありがちな例ばかりを基につくられた理論に引きずられてしまうためか、女の側にもっと確かな保証を求め、幸福を先に進めようとする。
 もし男があまりに自信ありげにふるまったりすると、女は無関心を装ったり*、冷淡になったり、怒ったりすることもある。フランスだと「すっかり安心していらっしゃるのね」というような皮肉な調子がともなう。女がそのようにふるまうのは、一時の陶酔から覚め、慎みに欠けることをしたのではと恐ろしくなって慎みに従うためか、単なる用心や媚によるものである。
 *十七世紀の小説がひとめぼれと呼んだ、主人公と恋人の運命を決する心の動きは、無数の三文文士の筆によって台無しにされはしたが、まぎれもなく自然の中に存在する。ひとめぼれはここで述べたような防御のふるまいができないときに生じる。恋する女は自ら抱いている感情にあまりに多くの幸福を覚えると、本心を偽ることができなくなる。慎重にふるまうことに飽きて、いっさいの用心を忘れ、なりふりかまわず恋する幸せに身をまかせる。警戒心はひとめぼれを不可能にする。
  恋する男は確かだと思っていた幸福を疑うようになる。期待する根拠はあると思い込んでいたのに、それも厳しい目で見るようになる。
人生の他の楽しみで埋め合わせようとしても、そんなものはなくなってしまっていることに気づく。恐ろしい不幸に見舞われるのではないかという懸念にとらわれ、同時に深い注意力が生じる。
 七、第二の結晶作用
 そうすると第二の結晶作用が始まり、ダイヤモンドが生じて次の考えに確証が与えられる。
彼女は私のことを愛している。
 疑念の発生につづく夜、ひどく不幸なひとときが過ぎると、恋する男は十五分ごとにつぶやく。「そうだ、彼女は私のことを愛している。」すると結晶作用が始まり、新たな魅力の発見へと向かう。だがやがて血走った目をした疑念にとりつかれ、ふと立ち止まる。彼の胸は呼吸することも忘れ、こうつぶやく。「いったい彼女は私のことを愛しているのだろうか。」はり裂けるような思いと恍惚が交錯するうちに、あわれな恋人はひしひしと感じる。「この世で彼女だけが与えられる喜びを、彼女は私に与えてくれる。」
 こうした疑いようもない真実があり、いっぽうの手で完璧な幸福にふれながら、ぞっとするような崖っぷちの道を歩くからこそ、第二の結晶作用は、第一の結晶作用よりもはるかに優れているのだ。
 恋人はたえず次の三つの考えのあいだを揺れ動く。
 一、彼女はあらゆる美点をそなえている。
 ニ、彼女は私のことを愛している
 三、彼女からもっとも確実な愛のあかしを得るにはどうしたらよいか。
 初々しい恋愛でもっとも痛ましい瞬間は、恋人が自分の思いに気づき、結晶全体をこわさなくてはならないと悟ったときである。
人は結晶作用そのものまで疑うようになる。」スタンダール『恋愛論』(上)岩波文庫、杉本圭子訳2015.pp.26-31.

 スタンダールの文章は、19世紀フランスの男の視点で書かれているから、そこでの「恋愛」も「幸福」も男が女に対して抱く精神のありよう以外のものではなく、しかも一般庶民大衆の男女のあいだに現実にあった関係ではない。それは、フランス革命でいったん破壊されはしたものの、生活に余裕のある上流階級やブルジョアの社交場を想定する特殊な「恋愛」、啓蒙に続く近代的人間の理念的な「幸福」の形として「恋愛」を考察する。とくに彼の分類でいえば「趣味恋愛」と「虚栄恋愛」になる。彼は多くの事例を挙げてこの遊戯的・作為的恋愛を讃美するよりは侮蔑しつつも、盲目的情熱に囚われた「情熱恋愛」やエロスに偏した「肉体恋愛」は病であり狂気だと考える。
 「ビフォア・サンセット」の二人が味わうのは、21世紀的な状況の中での限定された「趣味恋愛」が、そのやりとりの交錯のなかに雑念のない「情熱恋愛」を醸し出す可能性である。それは時間限定の言語ゲームであることで、何かを目的とした「恋愛」、何かを獲得したり奪ったりする「恋愛」から免れている。結晶作用は男が女に妄想的な価値付与をするだけでなく、女も男にそれを行おうとして、その相互作用が結晶を別のものに変える。それは肉体ではなくて言葉であり、目の前にいる相手の現前によって自分自身が更新されるような体験になっているということだろう。スタンダールも感知しているように、これはルネサンス以降の近代アートが創りだしたものであり、ラブストーリーの描き方次第で人は自分の生を「恋愛」として意味づけることを習う。
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恋愛映画の夢の幻1:before Sunrise スタンダール恋愛論冒頭

2018-12-23 02:43:10 | 日記
 新シリーズ 『恋愛映画考』
:1 新シリーズとして「恋愛映画」というものを10本ほどとりあげて書いてみたいと思う。
 いまさら恋愛なんて時代にあわねえ話題だろう、というのが今の日本である。とはいえ、まだ映画という世界では、テーマとしてのラブストーリーは死んでいない。かつては恋愛Loveというのは、人類に男と女の2種類があって、その間に種の再生産・生殖という神の予定調和的な道が厳然とあるとなんとなく思われていたのだが、21世紀の地球ではそれはまあ、そ~いうことでもいいけども、人間だからもっと違った関係もあっていい、という方向にきている。たとえばLGBTもあり、という提案が選択肢だとメディアにも登場する段階に来ている。それに対して伝統保守派は、いまいましく思ってももう昔のように、けしからん論外だと拒否するだけでは世論の支持を得られないことを知るようになっている。セクシュアリティやエロスという問題は、個人の嗜好に丸投げされて無害化されることで、逆に性愛やジェンダーの社会的矛盾から隠蔽される。そのことをなんかおかしい、と感知するのは圧倒的に女性である。
 だから、2019年を迎えようとする現在に、「恋愛映画」を俎上に載せて語るのもまんざら無意味とはいえないだろうと、ぼくは思ってこれを書く。ただ、補助線が要る。恋愛というものを現象学的に捉えるとすれば、とりあえず戦略的にある男とある女の排他的な存在論的関係を出発点にすることは避けられない。このことをしっかり考えていくには、恋愛に関する20世紀的な、あるいはもっと遡って19世紀以来の近代思想のなかで、「恋愛」がどういう意味を与えられてきたか、を考えなければならない。それで、とりあえず第一回として、とりあげるのは「ビフォア・サンライズ」(R・リンクレイター監督1995)である。

■リチャード・リンクレイター監督「ビフォア・サンライズ」Before Sunrise 1995
 気ままなヨーロッパ旅行をしているアメリカ人学生が、偶然乗り合わせた列車でパリのソルボンヌの女子学生に声をかけ、ウィーンで一緒に降りて翌日までの短い時間を共に過ごす。そういえば昔、ぼくも夏のウィーンの街をうろうろ歩いたことがある。変化に富んだ綺麗な町だが気温はかなり暑かった。
 見ず知らずの男女が偶然出会って恋に落ちる、行きずりの恋などと言うけれど、恋愛を成立させるにはかなりの精神的エネルギーが必要だ。とりあえず言葉。見た目で気に入って追いかけたとしても、自分という人間に興味を持ってもらうには、熱心に語りかけ言葉の力で振り向かせなければならない。自分がどんなにユニークな人間か、自分と一緒に時を過ごすことがどんなに愉快な経験になるか、この機会を逃したら一生の損だよ、というくらい圧倒的な言葉の銃弾を連発しないといけない。語りかける役割は一般に男ということになっているので、男は気力を振るって気に入った女に言葉を投げつける。相手を振り向かせながら、心の中身を探る言葉の技。それでもたいていは失敗する。
 彼女が見ているのは、言葉の中身ではなくこの男がどこまで真剣に、自分に熱意を持って汗をかいてくれているか、だけだ。自信のない女は、自分に語りかけてくれただけで素朴に喜んでしまうが、自分を恃む女はちやほやされたくらいでは気を許さない。そのへんの恋の駆け引きに意欲を燃やす男は、いるだろうと思うが、同時にこのような精神のバトルに耐えられないソーシャル・スキルの乏しい男もいるだろうと思う。でも、英語やドイツ語のような言語は、まず相手に何かを伝えるための言葉として構築的で、異質な者の間に橋を渡すことを目的にレトリックも成り立つ。でも、日本語は気分をそよがせるだけで、シンボルを共有できれば合意したと空想する言語である。このへんが実に対極にある。
例えば、この映画で最初に出会った2人が食堂車に行って交わす会話:
 「例えば・・“作家になる”と言ったら父は、「記者になれ」と、野良猫を世話すると言えば“獣医になれ”、女優になると言えば“テレビのニュースキャスターがいい”私の気まぐれな夢を、父はいつもお金を稼げるものに変える。――僕は子供のころ他人のウソが見破れたんだ。高校のときにはしっかり決めてた。人が僕に望む職業とは、逆のことをしようと決めた。僕のためといいながら、他人の野心を押し付けられるのはイヤだ。―-ひいおばあさんが死んだ時、お袋が初めて死について話してくれた。僕はまだ3歳、葬式のために家族でフロリダへ。僕が裏庭で遊んでいたら、水を撒いていた空に虹が見えた。おばあちゃんは虹になったって」次は夜のウィーンの街で、
「もしある島があるとして、女が99人と男がたった一人いた場合、1年後産まれる赤ん坊は99人。でも男が99人で女が1人だったら、翌年生まれる赤ん坊は1人だけ。
― でもね、99人の男のうち残るのは43人くらいよ。1人の女をめぐって殺し合うから。それともうひとつ、99人の女と赤ちゃんの島に男はいない。女たちが男を生きたまんま食べちゃうの・・。―確かにそうだ、女は男を滅ぼすことなんかへっちゃらだ。」
「別れた恋人と町を歩いていた時―4人の不良っぽい男たちの横を通り過ぎた。奴らが言った。“いいケツの女だ”でも僕は“怒るまい ほっとこう”と思った。相手は4人だし・。そうさ、でも彼女が“ふざけんな!くたばれ!”と叫んだ。まずい、奴らがブン殴るのは彼女じゃない。やられるのは僕だ。女は男に保護されるのを嫌がるくせにーこんな時だけ“腰抜け男!”とバカにする。 ―でもあたしは女は男を破滅させようなんて思ってないと思う。うまくいかないと思う。むしろ男が女を滅ぼす方がずっと簡単。もうこんな話イヤだわ。」
 と言う具合に、散歩しながら気楽に交わされる会話だが、語りかける男も答える女も知恵比べのように工夫して手が込んだ言葉の遊戯だ。こんな会話が交わせる相手は、それだけで十分恋に落ちる価値がある。これはどこかで訓練するものだろうか。それとも先天的才能だろうか。はじめからこんな言葉が自然に出てくる子どもはいない。文学的教養とは、こういう能力のことを言うのかもしれない。ただ本を読むだけではだめで、この種の教養を鍛えるには、それだけの知識とセンスを備えた他人とたくさん言葉を交わすことが必要だ。洒落た会話は、鍛えられた言語的能力の成果だろう。
 そう思って日本のドラマを見ると、やっぱり瞬間芸的な言葉遊びしかなくて、フロ、メシ、ネルの昔の親父は論外だとしても、感情と気分を短い単語の瞬発力で発しているだけの台詞がなんと多いことか。考えてみれば、周囲の若者同士の会話を聞いていても、だいたい単語にして300、話題にして20くらいでまかなっている。感動の表現は「スッゴーい」、不快の表現は「チョーむかつく」、好感の表現は「カワイーイ」、危機の表現は「ヤバッ」で事足りているので、丁寧に相手に言葉で何かを伝える工夫も技術もない。
 たった一日の恋の時間の中で、ふたりは溢れるほどの言葉を交わす。濃密な時間は夜になり、深夜になり、朝になる。いくら若くてもこんなに同じ時間を向き合って語り合ったらさすがに疲れるはずだが、そこは制限時間があることで緊張は緩まない。出会った時から翌朝の駅で2人は別々の方向に別れることが予定されている。制限時間はきわめて短いが、次はもうないから全身全霊で言葉を紡ぎだす。飽きる暇がないように。
 こんな風に生きる瞬間があったらいいな、と見る者は思う。旅に出て、誰かに出会って、至福の時間を過ごして別れる。なるほど。でも、とりあえず英会話ができないと駄目だな。フランス人だろうがドイツ人だろうがアメリカ青年は英語しかしゃべらないから。
 

B. フランスの小説家、スタンダールStendhal(1783~1842、フランス人の発音はステンダールに近い、本名はMarie Henri Beyleでスタンダールはペンネーム)は、『赤と黒』『パルムの僧院』などの長編小説が有名だが、論文集というか随筆集といった『恋愛論』でも知られている。1822年という時点で世に出たものだから、もう200年も昔のフランス(イタリアの話題も多い)の書物だから、これが現代の日本の恋愛についてなにか参考になる、と考える人はほとんどいないだろう。しかし、恋愛というものをまともに議論の俎上にのせた古典として、たぶんこれ以上のものはないかもしれない。冒頭の部分は恋愛の4分類として知られている。

 「私は、その真摯な展開がことごとく美の性格を帯びている、この情熱について解き明かそうと思う。
 恋愛には四つの種類がある。
一、 情熱恋愛。ポルトガル修道女の恋、エロイーズのアベラールにに対する恋、ヴェゼルの大尉の恋、チェントの憲兵の恋。
二、 趣味恋愛。1760年頃にパリで流行していた恋愛。クレビヨン、ローザン、デュクロ、マルモンテル、シャンフォール、デピネ夫人ら、この時代の回想録や小説にみられる。
 趣味恋愛は陰影の部分も含め、すべてがばら色でなくてはならない一枚の絵であり、いかなる理由であれ不快なものが入り込んではならない。さもないと、しきたり、上品さ、洗練などにもとることになる。生まれのよい男は、この種の恋愛のさまざまな段階でとるべき態度や目にするふるまいを、あらかじめすべて知り抜いている。趣味恋愛は激情や意外性とは無縁で、真の恋愛よりも洗練されていることが多いが、それはこの恋愛がつねに機知にあふれているためだ。カラッチ兄弟の絵に比べたときの、美しく冷ややかな細密画のようなものである。情熱恋愛がわれわれをあらゆる利害をこえたところにまで運び去るのに対し、趣味恋愛はつねにそれと折り合いをつけることができる。実際、この貧弱な恋愛から虚栄心を取り去ってしまえば、微々たるものしか残らない。そしていったん虚栄心を抜き取られてしまうと、足を引きずって歩くのがやっとの、弱った病み上がり同然である。
三、 肉体的恋愛
狩りの途中で、美しくみずみずしい農家の娘が森に逃げ込むところを見かける。この種の快楽から生じる恋愛のことはだれでも知っている。どんなに冷淡で不幸な性格の男でも、十六歳にもなればここから始めるものだ。
四、 虚栄恋愛
 フランスにおいてはとくに、大多数の男は美しい馬でももつように、若者に必要なぜいたく品として流行の女をもちたがり、手に入れる。多少なりとも虚栄心をくすぐられたり、傷つけられたりすると、陶酔が生まれる。時には肉体的恋愛が生じることもあるが、いつもそうとは限らない。肉体の喜びすらない場合も多い。平民の男にとって、侯爵夫人はいつでも三十歳にしか見えない、とショーヌ侯爵夫人は言った。そしてあの公正なオランダ王ルイの宮廷にかつて出入りした者は、公爵や王族に魅力を感じずにはいられなかったハーグの美女のことを、いまだに愉快に思い出す。ただし君主制の原則に忠実だった彼女は、王族が宮廷にやってくると公爵のほうを追い払った。彼女は外交団にとっての勲章のようなものであった。
 この陳腐な関係で最も幸福なケースは、肉体の快楽が習慣によって増す場合である。すると昔の思い出がこの関係を少々恋愛に似通わせる。恋人に去られると自尊心が傷つけられ、悲しみが生じる。小説じみた考えが喉をしめつけ、自分は恋していて、憂鬱な気分になっていると感じる。というのも虚栄心はいつでも大恋愛をしていると思いたがるものだからだ。確かなのは、いかなる種類の恋愛による快楽であろうと、心が高揚したとたんに快楽は強くなり、その思い出も魅惑を増すことである。おおかたの情熱とは逆に、恋という情熱においては、失ったものの思い出はきまって将来期待しうるものに勝るように思える。
 ときに虚栄恋愛では習慣や、これ以上いい相手は見つかるまいという絶望感が引き金となって、友情のなかでももっとも魅力に欠ける、ある種の友情が生まれることがある。そうした友情は堅固さなどを誇ったりする。
 肉体の快楽は自然にかなったものなので皆に知られているが、優しく情熱的な魂の持ち主にとっては一段劣った快楽でしかない。それゆえ、こうした人たちはサロンで笑いものにされたり、社交界の陰謀によってたびたび不幸な目にあったりもするが、そのかわり、見栄や金銭のことでしか胸が高鳴らない人たちが決して体験することのない楽しみを知っているのである。
 貞淑で愛情深い女の中には、肉体の快楽がどういうものかをほとんど理解できない女たちがいる。彼女たちがいわばそのようなものに身をさらす機会はめったになかったのだし、あったにせよ、そのときには情熱恋愛の陶酔が肉体の快楽をほとんど忘れさせてしまっていたからだ。
 男の中には極度の高慢さ、アルフィエーリ流の高慢さのえじきとなり、これに操られる者がいる。こうした輩はおそらくネロと同様、あらゆる人間を自分の心を基準に評価し、始終恐れているせいで冷酷になるのだろうが、こうした輩が肉体の快楽に到達するためには、そこに自尊心のかぎりない満足が伴うこと、すなわち快楽をともにする相手に対して冷酷な仕打ちをすることが必要なのである。『ジュスチーヌ』のおぞましい行為の数々はここから生まれる。ここまでしないと彼らは確信を持てない。
  さらに言えば、恋愛を四つに区分するかわりに、八つか九つの微妙な差異を認めることもできよう。おそらく人間には、ものの見方と同じくらいたくさんの感じ方が存在する。ただし分類法の違いによって以下の論証がなんら異なってくるわけではない。この世のすべての恋愛は同じ法則にしたがって生まれ、生き、死に、あるいは不滅にまで高まるのだから。」スタンダール『恋愛論』(上)、岩波文庫版、2015.杉本圭子訳、pp.21-25.


世界の名著といわれ広く知られた書物の多くは、実はちゃんと通読されることは稀だといわれる。スタンダール『恋愛論』もそうした長ったらしい記述がだらだら書いてある本で、この最初の部分から読み始めてふむふむと思っても、数十ページで放り出してしまうだろう。論文というにはあまりに散漫で19世紀前半のナポレオン没落時代のフランスや西欧社会に興味がある人以外は、上下2巻の文庫本を通して読むことはない。ぼくも全部を読む気はないが、「恋愛映画」の考察にはやはり参考にはなる。
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