A.最高の女を最高の男が落とす?
邦題は「危険な関係」となっているが、原作のラクロ(Pierre Ambroise François Choderlos de Laclos,1741-1803)が1782年に書いた書簡体小説の題名は、Les Liaisons dangereuses 危険なリエゾン(複数)で、フランス語のliaisonは①(通信・交通機関による)連絡、②(事物の間の)つながり;連結、③(人との)関係;愛人関係と3番目に男女の「関係」が出てくるが、文法用語として➃連音(単独では発音しない語末の子音字を次語の母音とつなげて発音する)、⑤(料理でソースの)とろみづけ;つなぎもリエゾンを使う。ラクロはフランス・アミアン出身の砲兵士官で、スペイン系ユダヤ人。南部フランスの駐屯地で観察した貴族たちの生活をモチーフにこれを書いた。当時のアンシャン・レジームと呼ばれた貴族社会の道徳的退廃と風紀の紊乱を活写した内容は、上梓当時は多くの人の顰蹙を買いつつも広く読まれた。フランス大革命の始まりを1789年7月のバスチーユ襲撃とすると、その7年前に出た「危険な関係」の描いていた貴族社会はまもなく大揺れに揺れて破壊されるわけだ。
これまで「危険な関係」は何度も映画化され、前回ふれたロジェ・ヴァディム監督ジェラール・フィリップ、ジャンヌ・モロー主演版のほか、フランス、アメリカ、そして日本でも作られている。振り返ると…。
*華麗な関係(1976年、フランス) 再びヴァディム監督で映画化。主演はシルヴィア・クリステル、ジョン・フィンチ、ナタリー・ドロン。
*危険な関係(1978年、日本) 藤田敏八監督が舞台を日本に置き換え映画化。主演は三浦洋一、宇津宮雅代。
*危険な関係(1988年、アメリカ) ハリウッドで映画化、出演はグレン・クローズ、ジョン・マルコビッチ、ミシェル・ファイファー、キアヌ・リーブスほか、アカデミー脚色賞などを受賞している。
*恋の掟(1988年、イギリス・フランス合作) 監督はミロス・フォアマン、主演はアネット・ベニング、コリン・ファース。
*クルーエル・インテンションズ(1999年、アメリカ) 舞台を現代のアメリカに移し、登場人物も高校生中心に置き換えた。
*スキャンダル(2003年、韓国) 主演はペ・ヨンジュンで、舞台を李氏朝鮮後期の両班社会に置き換えたもの。
*危険な関係(2012年、中国・韓国) 監督はホ・ジノ、出演はチャン・ドンゴン、チャン・ツィイー、セシリア・チャン。舞台は1930年代の上海に置き換えられた。
映画化以外にも1986年にクリストファー・ハンプトンにより戯曲化されている。ロンドン、ニューヨークなどで上演。日本では1988年に初演、1993年に再演されている(演出:デイヴィッド・ルヴォー、主演:麻実れい)。ドイツの劇作家ハイナー・ミュラーが『四重奏』の題名で戯曲化している。日本では1994年、演出家渡邊守章が自ら女形を演じ、東京都墨田区にある劇場シアターΧで上演した。2017年には、ハンプトンの芝居をリチャード・トワイマン演出、主演は玉木宏で上演された(東京・シアターコクーン / 大阪公演・森ノ宮ピロティホール)。さらに1997年に宝塚歌劇団雪組で『仮面のロマネスク』のタイトルでミュージカル化された(主演:高嶺ふぶき・花總まり)。後、2012年宙組で大空祐飛・野々すみ花主演、2016年花組で明日海りお・花乃まりあ主演、2017年花組で明日海りお・仙名彩世主演で再演された。
2005年には、アダム・クーパーの演出・振付・主演でバレエ化されたという。
このけしからぬ宮廷遊戯恋愛ドラマが、なぜ200年後の20世紀後半の人々の興味をかくも惹きつけたのかは、考えるに値する。とりあえず、1988年の映画版を見てみよう。
■ スティーブン・フリアーズ監督「危険な関係」1988
これは原作の通り、18世紀のパリの貴族をそのまま登場させた時代劇である。ただし登場人物は全部英語で話す。カツラをつけ着飾った衣装で宮殿を歩き回るジョン・マルコヴィッチがヴァルモン子爵、まだ若いキアヌ・リーブスがセシル(ユマ・サーマン)の恋人ダンスニ、貫禄のメルトゥイユ侯爵夫人がグレン・クローズ、貞淑未亡人トゥールベルがミシェル・ファイファーである。ロココの派手な衣装や化粧が本格的だが、冒頭の着付けのアップで侯爵夫人の肌が大写しになる。どんなに豪華な衣装を着、高価な化粧品で装っても肌のシミは見苦しいほどだ。西洋白人の目鼻立ちと体格は確かに一般的に立派だが、肌の美しい人は少ない。女性はとくに20歳を過ぎると荒れてアップに耐えない人が多い。この点では、東洋の女性の肌は宝石のごとく素晴らしいといっていい。それに映画ではわからないが、たぶんロココの貴婦人はあまり風呂に入らないで強い香水を振りかけるから体臭も相当きついはずだ。正直言っていくらお金持ちでも、あんまり近寄りたくない。物語とは関係ないが、いきなりそんなことを感じてしまった。人間は生きているだけで、身体から臭い、呼吸、音、排泄物、体液などを頻繁に発散する動物だ、ということがわかる。
傲慢で少々欲求不満のメルトイユ侯爵夫人は、彼女の恋人バスティード伯爵が若い娘と結婚するらしいという噂を耳にしたことから、かつての愛人であり、社交界きっての遊び人として名高いヴァルモン子爵を使って、当のボランジュ夫人の娘である美しき処女セシルの純潔を踏みにじろうともちかける。ヴァルモンにとっては若く恋に無知な娘をたぶらかすだけのこんな軽い遊びは簡単すぎてつまらない。それよりも、美しく身持ちの堅い清楚な淑女トゥールベルを誘惑してわがものにすることに命を懸けるほどの喜びを感じる。
本命に冷たく避けられ、半分やけっぱちでセシルを誘惑して簡単に我がものにしてしまう。しかし、本命のトゥールベルも手練手管を駆使してようやく落とし、公爵夫人に自慢しようと仮面の愛を注いでいるつもりだったのに、次第に彼は自分のやっていることを懐疑し、欺かれていたことに気づいたダンスニに決闘で殺される。プライドが高く自分にできないことはないと思っている傲慢な男には、この世で最高の偏差値の高い女をものにするほど生きがいを感じる行為はないのだが、いつの間にか、ヴァルモンはプレイボーイの枠を踏み外して、純粋純潔恋愛にはまり込んでいた。
すべてを巧みに操っていたつもりのメルトゥイユ侯爵夫人は、ヴァルモンに裏切られ陰謀を暴露されて窮地に立たされる。結局この場合も、因果応報の罰当たりである。
さて、このヴァルモンという女たらしの男をどう描くか、それが「危険な関係」の主要な焦点になる。彼を扇動して虚栄と無知に溺れる女たちを見下し、愚かな男たちも支配しようとする女帝メルトイユは、退廃した貴族社会の中年悪女、の象徴としておけばすむ。だが、ヴァルモンをただの歩く生殖器、美女を誑し込んで手に入れれば捨てて次に行くだけの男にすると、17世紀以来プレイボーイの代名詞として語られるスペインのドンファンDon Juan伝説をなぞって、悪徳遍歴の結末として神の罰を受けて破滅することになる。この映画も、ヴァルモンは若い音楽家ダンスニの剣に刺されて死ぬ。しかし、彼は聖女トゥールベルを汚したことを恥じて自己否定と彼女への愛を語りながら死ぬ、ということにしてある。
「危険な関係」の読者にとって、とくに20世紀の観客大衆にとって、モテすぎるエリート男というイメージに対しては羨望と嫉妬が湧き上がる。彼がみんなが認める極上の美女に厚い壁を突破して彼女を落とす、というゲームに全力を注ぐのを、そしてついに抱かれる彼女の姿を実は見たくてたまらないのだ。男にとっても女にとっても、自分には手の届かない危険でヤバい世界だからこそ、隠微な欲望をくすぐられる。つまり、ここに描かれる「恋愛」は、上流階級の特権的な遊びの物語であり、結婚制度や世間の表層道徳を超えた恋のかけひきに並外れた能力を示すエリートのドラマなのだ。ただそれがそのまま肯定されたのでは、そんな世界に生きていない大衆には、空虚な夢物語か、特権貴族の鼻持ちならない自慢話だから不愉快になってしまう。そこで、話はヴァルモンとメルトイユを破滅に落とすことでバランスを取る。
しかし、スタンダール『恋愛論』の文脈では、これはどうなるんだろう?
B.有閑階級の愉しみ
人間がおのれの生存と安全のために、環境と戦い必死で働き食べて寝ることにほとんどの時間を費やす生産力の低い時代には、動物一般がするように生殖の欲求だけを残して精神の文化的充足など望むべくもなかった。そういう唯物史観に立てば、人類が「恋愛」などという行為を理念として肯定しはじめたのはいつからだったのか?おそらく、王権と分業が成立し、労働から解放されたごく一部の権力者が言葉と精神の遊びを追求する余裕を獲得したときだろう。もっとささやかに、もっと堅固に生命の使い方を「野蛮に」「素朴に」短く死んでいった大多数の人間を、奴隷としてあるいは下僕として踏みつけながら、自分たちは高貴で優雅な優れた人間なのだと自負していた人間だけが、「恋愛小説」を書くことができた。
「危険な関係」は、そのような傲慢な世界を、いっぽうで仰ぎ見、他方で心から侮蔑するフランス革命直前の啓蒙主義かぶれの軍人が書いたモダン小説だった。ナポレオンが切り拓いた新しい時代の申し子、しかもナポレオンの没落をみずからの没落として自己同一した奇妙な作家スタンダールは『危険な関係』を読んで、そこで展開する過剰に退廃的でどこか優美な虚栄恋愛、趣味恋愛を自分もやってみたいと確かに思ったのだ。でも、スタンダールが実際の人生で経験したミラノの「恋愛のようなもの」は、限りなく滑稽でなにひとつ報われない愚劣なコミックだった。でも、さすがに彼はそれを自覚していた。
「恋の情熱においてもっとも驚くべきはその第一歩であり、人間の頭の中でおこる変化のすさまじさである。
華やかな宴のくりひろげられる社交界は、この第一歩を助けるという意味で恋愛に役立つ。
第一歩はまず、単なる賞讃(第一段階)を優しい賞賛(第二段階)に変える。「彼女にキスをしたらどんなにうれしいだろう」、などなど。
無数のろうそくの灯りに照らされたサロンにかかるテンポの速いワルツは、若者の心を陶然とさせ、内気さを鎮め、力の自覚を高め、最終的に恋する大胆さを授ける。というのも、相手の愛想の良さだけでは十分でないからだ。逆に、女の愛想のよさも極端になると、繊細な心の持ち主は勇気をくじかれる。相手が自分に恋している姿とはいわないまでも、少なくとも威厳を捨て去ったところを見る必要があるからだ。むこうから言い寄ってくるのでなければ、だれが女王に恋しようなどと思うだろうか。
*1 作為に端を発する情熱が可能なのはこのためである。以下の例、そしてベネディクトとビアトリスの例(シェイクスピア)。
*2 ブラウンの『北方の宮廷』におけるストルーエンセの情事を参照のこと。
したがって倦怠に満ちた孤独と、ごくたまの、長いこと待ち望まれていた舞踏会との組み合わせほど、恋の発生に有利なものはない。未婚の娘を抱えるよき家庭の母はそのように仕組む。
かつてのフランス宮廷で見られたような真の社交界*3は、1780年以降はもはや存在しない*4と私は考えているのだが、そこは結晶作用の働きに欠かせない孤独と余暇とを不可能にするという意味において、実は恋愛にはあまり向いていなかった。
*3 デュ・デファン婦人、レスビナス嬢の『書簡集』、ブザンヴァル、ローザン、デピネ夫人の『回想録』、ジャンリス夫人の『礼儀作法字典』、ダンジョーやホレース、ウォルポールの『回想録』を見よ。
*4 おそらくペテルスブルクの宮廷以外では。
宮廷生活ではたくさんの微妙な差異を認め、実践する習慣がつく。ほんのわずかな差異が、感嘆や恋の情熱の端緒になりうるからだ*5。
*5 サン=シモンとウェルテルを参照のこと。孤独な男は、どれほど感じやすく繊細であっても、心は虚ろである。想像力の一部を、社交界の情勢を見極めることに費やすからである。気骨こそ、真に女性的な心をもった女をもっともひきつける魅力のひとつである。謹厳実直な青年将校たちが成功を収めるのはそのためだ。女は、自分でも潜在的に感じている。そうした男の情念の激しさと、気骨とを区別する術を十分に心得ているが、どれほどすぐれた女でも、この種の話ではときにいかさまにひっかかるものだ。女の結晶作用が始まったことに気づいたらすぐさま、男はなんの懸念もなく、そうしたいかさまを用いることができる。
恋愛に特有の不幸が他の不幸(あなたの恋人が、あなたが当然持っていてしかるべき誇りや名誉や個人的尊厳の感情を傷つけた場合の虚栄心の不幸、あるいは健康上、金銭上の不幸、政治的迫害による不幸、などなど)と混じりあっている場合、こうした思いがけない不運によって恋が増幅されたように思えても、それは見かけにすぎない。それにより、想像力は他のことに費やされるので、有望な恋愛においては結晶作用が妨げられ、両想いの恋においては小さな疑念の発生が妨げられる。そうした不幸が去ると、恋の喜びや狂気が戻ってくる。
注目すべきは、軽薄な男、あるいは鈍感な男においては、不幸が恋の誕生を助けるということ。それ以外の人生の局面が陰気なイメージしかもたらさないのにうんざりした想像力が、全力を傾けて結晶作用を押し進めようとするからである。」スタンダール『恋愛論』(上)岩波文庫、杉本圭子訳2015.pp. 62-65.
じつはスタンダール『恋愛論』のなかにラクロ『危険な関係』に触れた箇所がある。ということは当然スタンダールはこの本を読んでいたわけだが、それは『恋愛論』の中でも比較的長い記述のある第26章「羞恥心について」である。
「男の目から眺めると、羞恥心には九つの特徴があるように思う。
一、女はわずかなものを得るのに多くを賭けている。したがって極度に控えめになり、しばしば気取りに陥る。たとえば、最高におもしろいものでも笑わないことなど。だから羞恥心をちょうど必要な分だけもつためには、多くの才知が必要なのである。それゆえ、女は内輪の集まりではそれほど羞恥の念をもたないことが多い。より正確に言えば、男から聞かされる話に十分なヴェールがかけられていなくともよしよしとし、話を聞いて陶酔や熱狂がおこるにつれ、徐々に話のヴェールがはぎとられていくのも大目に見る
〔中略〕
大部分の女が男のうちに評価するものが厚かましさをおいてないというのは、羞恥心と、羞恥心によって多くの女性が必然的に強いられている死にたくなるほどの退屈の結果なのだろうか。あるいは彼女たちが、厚かましさを気骨ととりちがえているのだろうか。
ニ、第二の法則。羞恥心のおかげで、恋人は私のことを一層尊敬してくれるようになるだろう。
三、どんなに情熱的な瞬間にも、習慣の力がものを言う。
四、女の羞恥心が恋人にもたらす喜びは、その自尊心を大いにくすぐる。男はそれを通じて、相手が自分のためにどれほどの掟を侵しているかを感じるからである。
五、そして女にはいっそううっとりするような喜びをもたらす。そうした喜びは強力な習慣でも破らせてしまうので、心の中にさらなる動揺を生む。ヴァルモン伯爵が夜中にとある美女の寝室にいたとして、そんなことは彼には毎週あることだが、彼女にとっては二年に一度のことだろう。したがって、珍しさと羞恥の念が女にいっそう激しい喜びを用意するにちがいない*。
* 憂鬱質を多血質と比べたときの話である。貞淑な女性――たとえそれが宗教の説く欲得ずくの美徳(天国で百倍になって返ってくるごほうびとひきかえの美徳)の持ち主であってもよいのだが――と、すれっからしの四十歳のならず者とを眺めてみるとよい。『危険な関係』のヴァルモンはまだそこまでは達していないが、トゥールヴェル法院長夫人は小説全体を通じてヴァルモンよりも幸せである。著者はあれほど才気のある人であったが、さらなる才気があれば、このことを彼の傑作の教訓としたことだろう。
六、羞恥心の不都合な点は、たえずうそをつかせることである。
七、度をこした羞恥心と厳格さは、感じやすく臆病な女が恋をする勇気を失わせる。まさにこうした女こそ、恋の喜びを与えたり感じたりするのに向いているのだが。」スタンダール『恋愛論』(上)岩波文庫、杉本圭子訳2015.pp. 119-122.
このあと八、九とまだ続くのだが、こんな文章を追ってみても現実の恋愛を理解したことにはならないし、自分の私的恋愛になにか役に立つことも全然ないことは明白だ。第一ヴァルモンは伯爵ではなく子爵だったというようなど~でもいいことは措いておいて、20世紀の後半には、グローバル資本主義の経済成長は少なくとも地球上の3分の1の社会では、とにかくごく普通の家庭に生まれた庶民の若者でも、自分はいずれ素晴らしい運命の相手に出会い、世界で一番幸福な愛される夢の瞬間を生き、誰よりも意味のある人生を生きると、たとえ嘘でも信じられると思った。それは、雲の上の哲学的な高尚な真理なのではなくて、ごく普通のどこにでもある俺ら、あたしんたちの現実なのだと思わせたのは、映画というメディアの20世紀的威力なのだった。文化の地下水脈の威力を、この世の権力を握っていると思い込んでいる政治家、財界金融企業幹部、中央官僚、大手メディアや保守的アカデミーのボスたちは、浮草のようなたわ言として無視する。それはそれでぼくはただくすんだモノクロの風景として眺める。
今の日本の地方都市の、ごく平凡な風景として素朴で善良な若い少年少女の夢見ている世界に、ポジティヴな未来構想としてある選択肢。それは、巨大なモンスターの跋扈する東京に出て一発自分の可能性をチャレンジしてみるか、自分にはそんな冒険をする能力はなく自分の生まれ育ったこの場所で、なにができるかを現実的に実践する以外にない。さて、そこで「恋愛」という誰もがある時期に直面せざるをえない試験に、どういう答えを出すのか?それは東京というセンターの傲慢に本拠のあるぼくからすれば、「恋愛」こそが自律した個の衰弱したこの国に活力を与える鍵であるのに、若者たちは男も女も恋愛に真剣に向き合うことにひどくためらっている。スタンダール『恋愛論』の80%は、自分勝手なステレオタイプな女性蔑視を基本に書かれているバカな本だと思うのだが、恋愛の喜びをこの世に生きる人間の最上の喜びとして語って飽きない情熱だけは、未来に繋がるポジティヴな価値を示唆していると言おう。
邦題は「危険な関係」となっているが、原作のラクロ(Pierre Ambroise François Choderlos de Laclos,1741-1803)が1782年に書いた書簡体小説の題名は、Les Liaisons dangereuses 危険なリエゾン(複数)で、フランス語のliaisonは①(通信・交通機関による)連絡、②(事物の間の)つながり;連結、③(人との)関係;愛人関係と3番目に男女の「関係」が出てくるが、文法用語として➃連音(単独では発音しない語末の子音字を次語の母音とつなげて発音する)、⑤(料理でソースの)とろみづけ;つなぎもリエゾンを使う。ラクロはフランス・アミアン出身の砲兵士官で、スペイン系ユダヤ人。南部フランスの駐屯地で観察した貴族たちの生活をモチーフにこれを書いた。当時のアンシャン・レジームと呼ばれた貴族社会の道徳的退廃と風紀の紊乱を活写した内容は、上梓当時は多くの人の顰蹙を買いつつも広く読まれた。フランス大革命の始まりを1789年7月のバスチーユ襲撃とすると、その7年前に出た「危険な関係」の描いていた貴族社会はまもなく大揺れに揺れて破壊されるわけだ。
これまで「危険な関係」は何度も映画化され、前回ふれたロジェ・ヴァディム監督ジェラール・フィリップ、ジャンヌ・モロー主演版のほか、フランス、アメリカ、そして日本でも作られている。振り返ると…。
*華麗な関係(1976年、フランス) 再びヴァディム監督で映画化。主演はシルヴィア・クリステル、ジョン・フィンチ、ナタリー・ドロン。
*危険な関係(1978年、日本) 藤田敏八監督が舞台を日本に置き換え映画化。主演は三浦洋一、宇津宮雅代。
*危険な関係(1988年、アメリカ) ハリウッドで映画化、出演はグレン・クローズ、ジョン・マルコビッチ、ミシェル・ファイファー、キアヌ・リーブスほか、アカデミー脚色賞などを受賞している。
*恋の掟(1988年、イギリス・フランス合作) 監督はミロス・フォアマン、主演はアネット・ベニング、コリン・ファース。
*クルーエル・インテンションズ(1999年、アメリカ) 舞台を現代のアメリカに移し、登場人物も高校生中心に置き換えた。
*スキャンダル(2003年、韓国) 主演はペ・ヨンジュンで、舞台を李氏朝鮮後期の両班社会に置き換えたもの。
*危険な関係(2012年、中国・韓国) 監督はホ・ジノ、出演はチャン・ドンゴン、チャン・ツィイー、セシリア・チャン。舞台は1930年代の上海に置き換えられた。
映画化以外にも1986年にクリストファー・ハンプトンにより戯曲化されている。ロンドン、ニューヨークなどで上演。日本では1988年に初演、1993年に再演されている(演出:デイヴィッド・ルヴォー、主演:麻実れい)。ドイツの劇作家ハイナー・ミュラーが『四重奏』の題名で戯曲化している。日本では1994年、演出家渡邊守章が自ら女形を演じ、東京都墨田区にある劇場シアターΧで上演した。2017年には、ハンプトンの芝居をリチャード・トワイマン演出、主演は玉木宏で上演された(東京・シアターコクーン / 大阪公演・森ノ宮ピロティホール)。さらに1997年に宝塚歌劇団雪組で『仮面のロマネスク』のタイトルでミュージカル化された(主演:高嶺ふぶき・花總まり)。後、2012年宙組で大空祐飛・野々すみ花主演、2016年花組で明日海りお・花乃まりあ主演、2017年花組で明日海りお・仙名彩世主演で再演された。
2005年には、アダム・クーパーの演出・振付・主演でバレエ化されたという。
このけしからぬ宮廷遊戯恋愛ドラマが、なぜ200年後の20世紀後半の人々の興味をかくも惹きつけたのかは、考えるに値する。とりあえず、1988年の映画版を見てみよう。
■ スティーブン・フリアーズ監督「危険な関係」1988
これは原作の通り、18世紀のパリの貴族をそのまま登場させた時代劇である。ただし登場人物は全部英語で話す。カツラをつけ着飾った衣装で宮殿を歩き回るジョン・マルコヴィッチがヴァルモン子爵、まだ若いキアヌ・リーブスがセシル(ユマ・サーマン)の恋人ダンスニ、貫禄のメルトゥイユ侯爵夫人がグレン・クローズ、貞淑未亡人トゥールベルがミシェル・ファイファーである。ロココの派手な衣装や化粧が本格的だが、冒頭の着付けのアップで侯爵夫人の肌が大写しになる。どんなに豪華な衣装を着、高価な化粧品で装っても肌のシミは見苦しいほどだ。西洋白人の目鼻立ちと体格は確かに一般的に立派だが、肌の美しい人は少ない。女性はとくに20歳を過ぎると荒れてアップに耐えない人が多い。この点では、東洋の女性の肌は宝石のごとく素晴らしいといっていい。それに映画ではわからないが、たぶんロココの貴婦人はあまり風呂に入らないで強い香水を振りかけるから体臭も相当きついはずだ。正直言っていくらお金持ちでも、あんまり近寄りたくない。物語とは関係ないが、いきなりそんなことを感じてしまった。人間は生きているだけで、身体から臭い、呼吸、音、排泄物、体液などを頻繁に発散する動物だ、ということがわかる。
傲慢で少々欲求不満のメルトイユ侯爵夫人は、彼女の恋人バスティード伯爵が若い娘と結婚するらしいという噂を耳にしたことから、かつての愛人であり、社交界きっての遊び人として名高いヴァルモン子爵を使って、当のボランジュ夫人の娘である美しき処女セシルの純潔を踏みにじろうともちかける。ヴァルモンにとっては若く恋に無知な娘をたぶらかすだけのこんな軽い遊びは簡単すぎてつまらない。それよりも、美しく身持ちの堅い清楚な淑女トゥールベルを誘惑してわがものにすることに命を懸けるほどの喜びを感じる。
本命に冷たく避けられ、半分やけっぱちでセシルを誘惑して簡単に我がものにしてしまう。しかし、本命のトゥールベルも手練手管を駆使してようやく落とし、公爵夫人に自慢しようと仮面の愛を注いでいるつもりだったのに、次第に彼は自分のやっていることを懐疑し、欺かれていたことに気づいたダンスニに決闘で殺される。プライドが高く自分にできないことはないと思っている傲慢な男には、この世で最高の偏差値の高い女をものにするほど生きがいを感じる行為はないのだが、いつの間にか、ヴァルモンはプレイボーイの枠を踏み外して、純粋純潔恋愛にはまり込んでいた。
すべてを巧みに操っていたつもりのメルトゥイユ侯爵夫人は、ヴァルモンに裏切られ陰謀を暴露されて窮地に立たされる。結局この場合も、因果応報の罰当たりである。
さて、このヴァルモンという女たらしの男をどう描くか、それが「危険な関係」の主要な焦点になる。彼を扇動して虚栄と無知に溺れる女たちを見下し、愚かな男たちも支配しようとする女帝メルトイユは、退廃した貴族社会の中年悪女、の象徴としておけばすむ。だが、ヴァルモンをただの歩く生殖器、美女を誑し込んで手に入れれば捨てて次に行くだけの男にすると、17世紀以来プレイボーイの代名詞として語られるスペインのドンファンDon Juan伝説をなぞって、悪徳遍歴の結末として神の罰を受けて破滅することになる。この映画も、ヴァルモンは若い音楽家ダンスニの剣に刺されて死ぬ。しかし、彼は聖女トゥールベルを汚したことを恥じて自己否定と彼女への愛を語りながら死ぬ、ということにしてある。
「危険な関係」の読者にとって、とくに20世紀の観客大衆にとって、モテすぎるエリート男というイメージに対しては羨望と嫉妬が湧き上がる。彼がみんなが認める極上の美女に厚い壁を突破して彼女を落とす、というゲームに全力を注ぐのを、そしてついに抱かれる彼女の姿を実は見たくてたまらないのだ。男にとっても女にとっても、自分には手の届かない危険でヤバい世界だからこそ、隠微な欲望をくすぐられる。つまり、ここに描かれる「恋愛」は、上流階級の特権的な遊びの物語であり、結婚制度や世間の表層道徳を超えた恋のかけひきに並外れた能力を示すエリートのドラマなのだ。ただそれがそのまま肯定されたのでは、そんな世界に生きていない大衆には、空虚な夢物語か、特権貴族の鼻持ちならない自慢話だから不愉快になってしまう。そこで、話はヴァルモンとメルトイユを破滅に落とすことでバランスを取る。
しかし、スタンダール『恋愛論』の文脈では、これはどうなるんだろう?
B.有閑階級の愉しみ
人間がおのれの生存と安全のために、環境と戦い必死で働き食べて寝ることにほとんどの時間を費やす生産力の低い時代には、動物一般がするように生殖の欲求だけを残して精神の文化的充足など望むべくもなかった。そういう唯物史観に立てば、人類が「恋愛」などという行為を理念として肯定しはじめたのはいつからだったのか?おそらく、王権と分業が成立し、労働から解放されたごく一部の権力者が言葉と精神の遊びを追求する余裕を獲得したときだろう。もっとささやかに、もっと堅固に生命の使い方を「野蛮に」「素朴に」短く死んでいった大多数の人間を、奴隷としてあるいは下僕として踏みつけながら、自分たちは高貴で優雅な優れた人間なのだと自負していた人間だけが、「恋愛小説」を書くことができた。
「危険な関係」は、そのような傲慢な世界を、いっぽうで仰ぎ見、他方で心から侮蔑するフランス革命直前の啓蒙主義かぶれの軍人が書いたモダン小説だった。ナポレオンが切り拓いた新しい時代の申し子、しかもナポレオンの没落をみずからの没落として自己同一した奇妙な作家スタンダールは『危険な関係』を読んで、そこで展開する過剰に退廃的でどこか優美な虚栄恋愛、趣味恋愛を自分もやってみたいと確かに思ったのだ。でも、スタンダールが実際の人生で経験したミラノの「恋愛のようなもの」は、限りなく滑稽でなにひとつ報われない愚劣なコミックだった。でも、さすがに彼はそれを自覚していた。
「恋の情熱においてもっとも驚くべきはその第一歩であり、人間の頭の中でおこる変化のすさまじさである。
華やかな宴のくりひろげられる社交界は、この第一歩を助けるという意味で恋愛に役立つ。
第一歩はまず、単なる賞讃(第一段階)を優しい賞賛(第二段階)に変える。「彼女にキスをしたらどんなにうれしいだろう」、などなど。
無数のろうそくの灯りに照らされたサロンにかかるテンポの速いワルツは、若者の心を陶然とさせ、内気さを鎮め、力の自覚を高め、最終的に恋する大胆さを授ける。というのも、相手の愛想の良さだけでは十分でないからだ。逆に、女の愛想のよさも極端になると、繊細な心の持ち主は勇気をくじかれる。相手が自分に恋している姿とはいわないまでも、少なくとも威厳を捨て去ったところを見る必要があるからだ。むこうから言い寄ってくるのでなければ、だれが女王に恋しようなどと思うだろうか。
*1 作為に端を発する情熱が可能なのはこのためである。以下の例、そしてベネディクトとビアトリスの例(シェイクスピア)。
*2 ブラウンの『北方の宮廷』におけるストルーエンセの情事を参照のこと。
したがって倦怠に満ちた孤独と、ごくたまの、長いこと待ち望まれていた舞踏会との組み合わせほど、恋の発生に有利なものはない。未婚の娘を抱えるよき家庭の母はそのように仕組む。
かつてのフランス宮廷で見られたような真の社交界*3は、1780年以降はもはや存在しない*4と私は考えているのだが、そこは結晶作用の働きに欠かせない孤独と余暇とを不可能にするという意味において、実は恋愛にはあまり向いていなかった。
*3 デュ・デファン婦人、レスビナス嬢の『書簡集』、ブザンヴァル、ローザン、デピネ夫人の『回想録』、ジャンリス夫人の『礼儀作法字典』、ダンジョーやホレース、ウォルポールの『回想録』を見よ。
*4 おそらくペテルスブルクの宮廷以外では。
宮廷生活ではたくさんの微妙な差異を認め、実践する習慣がつく。ほんのわずかな差異が、感嘆や恋の情熱の端緒になりうるからだ*5。
*5 サン=シモンとウェルテルを参照のこと。孤独な男は、どれほど感じやすく繊細であっても、心は虚ろである。想像力の一部を、社交界の情勢を見極めることに費やすからである。気骨こそ、真に女性的な心をもった女をもっともひきつける魅力のひとつである。謹厳実直な青年将校たちが成功を収めるのはそのためだ。女は、自分でも潜在的に感じている。そうした男の情念の激しさと、気骨とを区別する術を十分に心得ているが、どれほどすぐれた女でも、この種の話ではときにいかさまにひっかかるものだ。女の結晶作用が始まったことに気づいたらすぐさま、男はなんの懸念もなく、そうしたいかさまを用いることができる。
恋愛に特有の不幸が他の不幸(あなたの恋人が、あなたが当然持っていてしかるべき誇りや名誉や個人的尊厳の感情を傷つけた場合の虚栄心の不幸、あるいは健康上、金銭上の不幸、政治的迫害による不幸、などなど)と混じりあっている場合、こうした思いがけない不運によって恋が増幅されたように思えても、それは見かけにすぎない。それにより、想像力は他のことに費やされるので、有望な恋愛においては結晶作用が妨げられ、両想いの恋においては小さな疑念の発生が妨げられる。そうした不幸が去ると、恋の喜びや狂気が戻ってくる。
注目すべきは、軽薄な男、あるいは鈍感な男においては、不幸が恋の誕生を助けるということ。それ以外の人生の局面が陰気なイメージしかもたらさないのにうんざりした想像力が、全力を傾けて結晶作用を押し進めようとするからである。」スタンダール『恋愛論』(上)岩波文庫、杉本圭子訳2015.pp. 62-65.
じつはスタンダール『恋愛論』のなかにラクロ『危険な関係』に触れた箇所がある。ということは当然スタンダールはこの本を読んでいたわけだが、それは『恋愛論』の中でも比較的長い記述のある第26章「羞恥心について」である。
「男の目から眺めると、羞恥心には九つの特徴があるように思う。
一、女はわずかなものを得るのに多くを賭けている。したがって極度に控えめになり、しばしば気取りに陥る。たとえば、最高におもしろいものでも笑わないことなど。だから羞恥心をちょうど必要な分だけもつためには、多くの才知が必要なのである。それゆえ、女は内輪の集まりではそれほど羞恥の念をもたないことが多い。より正確に言えば、男から聞かされる話に十分なヴェールがかけられていなくともよしよしとし、話を聞いて陶酔や熱狂がおこるにつれ、徐々に話のヴェールがはぎとられていくのも大目に見る
〔中略〕
大部分の女が男のうちに評価するものが厚かましさをおいてないというのは、羞恥心と、羞恥心によって多くの女性が必然的に強いられている死にたくなるほどの退屈の結果なのだろうか。あるいは彼女たちが、厚かましさを気骨ととりちがえているのだろうか。
ニ、第二の法則。羞恥心のおかげで、恋人は私のことを一層尊敬してくれるようになるだろう。
三、どんなに情熱的な瞬間にも、習慣の力がものを言う。
四、女の羞恥心が恋人にもたらす喜びは、その自尊心を大いにくすぐる。男はそれを通じて、相手が自分のためにどれほどの掟を侵しているかを感じるからである。
五、そして女にはいっそううっとりするような喜びをもたらす。そうした喜びは強力な習慣でも破らせてしまうので、心の中にさらなる動揺を生む。ヴァルモン伯爵が夜中にとある美女の寝室にいたとして、そんなことは彼には毎週あることだが、彼女にとっては二年に一度のことだろう。したがって、珍しさと羞恥の念が女にいっそう激しい喜びを用意するにちがいない*。
* 憂鬱質を多血質と比べたときの話である。貞淑な女性――たとえそれが宗教の説く欲得ずくの美徳(天国で百倍になって返ってくるごほうびとひきかえの美徳)の持ち主であってもよいのだが――と、すれっからしの四十歳のならず者とを眺めてみるとよい。『危険な関係』のヴァルモンはまだそこまでは達していないが、トゥールヴェル法院長夫人は小説全体を通じてヴァルモンよりも幸せである。著者はあれほど才気のある人であったが、さらなる才気があれば、このことを彼の傑作の教訓としたことだろう。
六、羞恥心の不都合な点は、たえずうそをつかせることである。
七、度をこした羞恥心と厳格さは、感じやすく臆病な女が恋をする勇気を失わせる。まさにこうした女こそ、恋の喜びを与えたり感じたりするのに向いているのだが。」スタンダール『恋愛論』(上)岩波文庫、杉本圭子訳2015.pp. 119-122.
このあと八、九とまだ続くのだが、こんな文章を追ってみても現実の恋愛を理解したことにはならないし、自分の私的恋愛になにか役に立つことも全然ないことは明白だ。第一ヴァルモンは伯爵ではなく子爵だったというようなど~でもいいことは措いておいて、20世紀の後半には、グローバル資本主義の経済成長は少なくとも地球上の3分の1の社会では、とにかくごく普通の家庭に生まれた庶民の若者でも、自分はいずれ素晴らしい運命の相手に出会い、世界で一番幸福な愛される夢の瞬間を生き、誰よりも意味のある人生を生きると、たとえ嘘でも信じられると思った。それは、雲の上の哲学的な高尚な真理なのではなくて、ごく普通のどこにでもある俺ら、あたしんたちの現実なのだと思わせたのは、映画というメディアの20世紀的威力なのだった。文化の地下水脈の威力を、この世の権力を握っていると思い込んでいる政治家、財界金融企業幹部、中央官僚、大手メディアや保守的アカデミーのボスたちは、浮草のようなたわ言として無視する。それはそれでぼくはただくすんだモノクロの風景として眺める。
今の日本の地方都市の、ごく平凡な風景として素朴で善良な若い少年少女の夢見ている世界に、ポジティヴな未来構想としてある選択肢。それは、巨大なモンスターの跋扈する東京に出て一発自分の可能性をチャレンジしてみるか、自分にはそんな冒険をする能力はなく自分の生まれ育ったこの場所で、なにができるかを現実的に実践する以外にない。さて、そこで「恋愛」という誰もがある時期に直面せざるをえない試験に、どういう答えを出すのか?それは東京というセンターの傲慢に本拠のあるぼくからすれば、「恋愛」こそが自律した個の衰弱したこの国に活力を与える鍵であるのに、若者たちは男も女も恋愛に真剣に向き合うことにひどくためらっている。スタンダール『恋愛論』の80%は、自分勝手なステレオタイプな女性蔑視を基本に書かれているバカな本だと思うのだが、恋愛の喜びをこの世に生きる人間の最上の喜びとして語って飽きない情熱だけは、未来に繋がるポジティヴな価値を示唆していると言おう。