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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

「絵を読む」9 レンブラントの闇 農業と地方再生

2018-10-30 16:12:33 | 日記
A.バロックの到達点
 フーコーやデリダといったフランスの現代思想がひとつの流行となって、日本の頭のよさを競いたい若い学生にとり憑いたのは1980年代だったと思う。その前はもっぱらマルクス主義、それもソ連や中国の教条的マルクシズムではなく、それを「人間的」に批判した「新左翼」になんとなく共感したような気になっていた連中が、これからはこっちのほうがスマートでカッコよさそうだと「ディコンストラクシオン」とか「ディスクール」とか、フランス語を得意そうにしゃべりだした。それはそれで構わないとぼくは思ったが、フランスの現代思想には英語やドイツ語文献にはあまりないくせのある高等的というか衒学的な形容詞をちりばめた文体があり、それをさらに翻訳する人びとが輪をかけて言葉を飾るのが好きな人たちだったので、むやみに詩的な修飾をほどこした文章を書き、慣れていないと何がいいたいのかわからなくなる。
  フランスの哲学はパスカル、デカルト以来、明晰さを至上のものとして書かれたが、同時に論理だけでなくきらきらした色あいを散りばめる「仏文的」文体も秘めていたと思う。ドイツ語の文献を苦労して読んでいたぼくは、そこがどうも抵抗があった。ドイツ語は一般に正確を期すために、次々と文節を連ね難解をもいとわず長い文を作るのだが、フランス語のほうは、読むものに飛翔するイメージを喚起するように、新しい形容詞を創り出して飾るために長くなる。レンブラントを語る次の文も、論旨の核は四行くらいで足りることも、延々比喩的表現を重ねる。

 「これらの男たち、これらの女たちは、夜というものを識ったのであり、われらのほうに、より稠密な媒質によって、押し返されたというよりは押し留められて、立ち帰って来る。記憶に借りてきた光にどっぷりと浸った彼らは、彼ら自身を自覚するに至ったのである。彼らが今姿を現したのは、そこに、つまり自然の臓腑の底と同じく芸術家の心のなかに生産と再生産の力が眠っているほかならぬその場所に、反響を呼び覚ますためなのである。虚無へと向かう道の途中で、彼らは振りかえったのだ。(……)レンブラントの油彩画や銅版画から立ち昇るあの極めて特殊な雰囲気もそこに由来する。すなわち、あの夢の雰囲気、何かしら夢現の境に沈み、閉じ込められ、沈黙したもの、言わば夜の腐食、夜と葛藤し、われらの見ている前で、涯限もなくその腐食作用を続けているような一種の精神的な酸度とも言うべきものである。この偉大なオランダ画家の芸術は、もはや、直接的な世界の丹念な肯定、現実の領域への想像力の侵入、われらの五官に差し出された祝祭、一瞬の歓喜と色彩の永続化などではない。それはもはや、見つめるべき現在時ではなく、追想することへの招待である。言わば、画家は、彼自身が後になって表層と直接的な世界の彼方へと企てる旅において、彼のモデルの仕草、態度、隣人との間に結ぶ調停などの一つ一つに付き従っていくのであり、その旅は、涯限もなく先へと延びて、その終わるところは、輪郭であるよりは振動であるような旅なのである。」 (ポール・クローデル『オランダ絵画序説』渡邊守章訳、朝日出版社1980年)

 こういう文章は魅力があるので、一度入り込むと伝染してくる。小林氏の文章も、これほどではないがしばしば言葉が言葉を呼んで飛び回るようなところがある。ただ、論理と論旨は外すことはない。

 「17世紀がまさに光学の時代であったことが一目瞭然。すなわち、光というものが、たとえば神学的、神話的な一切の文化的、メタファー的な表象を離れて、それそのもの、つまり物理的実体として理解されようとしていたわけです。そして重力、力についても、あるいは熱についても、同様な事態が進行していた。もちろん、このようなことがある時点で一挙に成立したなどということはないのですが、一言で言えば、自然科学またそれと相補的な関係にある科学技術がこの時代に実証的な普遍性という基準に依拠したまったく新しい確固たる世界観を形成しつつあったということをよく理解しておかなければなりません。これは決定的に重要です。われわれが現在生きている世界はこの時代を通してはっきりと姿を現してきた「科学革命」に基礎を置いていると言うことができるからです。そして、絵画という世界の表象にもっとも直接にかかわる(これこそ「絵画」の本質的な規定です)活動はこの革命とはけっして無関係であることはできない。そこに絵画というジャンルの奥深さがあるわけです。
 であれば、絵画と光学とのこの密接な関係を端的に呈示してくれるのが、カメラ・オブスキュラ(camera obscura)と呼ばれた光学装置ということになるのは当然かもしれません。真っ暗な部屋の一方の壁にピン・ホールをあけると、それを通して入ってきた光が反対側の壁に外の光景の上下逆転したイメージを結ぶというもの。その最初の図が、日食の観測という事例ですが、オランダの数学者で天文学者であったライネルス・ヘンマ・フリシウスの書物『天文学と地理学の基本』(1558年)に載っていると言われている。」小林康夫『絵画の冒険 表象文化論講義』東京大学出版会、pp.96-97.

 このあと、カメラ・オブスキュラを使ったと思われるフェルメールの絵の読み解きにいって、最後にやっとレンブラントにくるが、その最高傑作といわれる「夜警」は「迂回」して、あまり知られていない作品でバロックの到達点について解説している。

 「だから、ここではあえて《夜警》(1642年)を迂回して、別の作品を一瞥しておくことにしましょう。
 実は、これは、(私事になりますが)最近たまたま立ち寄ったダブリンの美術館で、不意打ちのようにわたしをその前に釘付けとさせた作品《エジプト逃避途上の休息》(1647年)なのです。
 主題はもちろん聖書から採られている。だが、ここでも聖書に送り返して読解するべき要素は何もありません。マリアもヨセフも幼児イエスの顔もはっきりとは見えるわけではない。エジプトへの逃避行の一夜、川岸の崖の下、羊飼いの少年が熾した焚き火の傍らで身を寄せ合って休息している聖家族、それを「鏡」のような水を隔てた遠くから見ている絵画の眼差し。焚き火には羊や牛も集まってきていて、さらには奥へと続く道には別の動物の群れを率いる男の姿も見え、カンテラの明かりがかすかに灯っている。遠くの丘の上には廃墟だろうか、城の輪郭が浮かんでおり、彼方には、渦巻く雲のあいだから月光が差し込むのだろう、薄らと光を放つ夜空が拡がっているという風景。
 挿し込む月光と焚火の明かり――わたしがコメントする必要はないでしょう。冒頭に掲げた詩人ポール・クローデルの詩的なテクストを静かに読み返すだけでいいのではないでしょうか。絵画はもはや「バロックの館」、その「カメラ」のなかにはとどまってはいない。それは「バロック」というものがもつ「ヴィジョン」の力を広大なコスミックな次元において展開していると言うべきなのだと思います。
 美術史家は、この作品が17世紀初頭の別の画家アダム・エルスハイマーの油彩銅版画の意匠を引き継いでいることを指摘しています。確かに月光も焚き火も川面の反映も共通している。しかしエルスハイマーの作品が畢竟、夜の光景のなかの聖家族の表象にとどまるのに対して、レンブラントの作品は、もはやそれがどこで、そこに誰が「休息」しているのかはどうでもよい。ただ広大な空間のもとで身を寄せ合う「生」の集まりがあり、その「生」の煌めきが、いま、絵の具という夜の物質となって波打ちながら周囲の空間へと拡がっていく、その幽き、そして愛おしき波動そのものがそこにあるという次元へと到達しているとわたしには思われる。宇宙のなかの人間の生、そう、絵画はとうとう人間という存在の明証へと到達するのです。
では、レンブラントなら、われわれが「バロックの館」の二つの階層に住み込ませたあの「若い女」をどのように描いたでしょうか? そんな不躾な架空の問いへの答えになると思われるのが、やはり聖書の題材(「スザンナ」)を描いたものであると同時に、画家の当時の内縁の妻であったヘンドリッキュの姿とも言われている《水浴する女》(1654年)。ほとんど荒々しいと言っていいような筆のタッチからどんな繊細な感覚が立ち昇ってくるか――「腐食する夜」のなか静かに水に身体を沈めていこうとしている女の姿には、もはや「愉悦」あるいは「悔悛」というような「強い意味」には還元できない、しかし紛れもない「生」の実質としての「振動」が波打ち、響いているようではありませんか。
 光は、そう、単に粒子であるだけではなく、波動でもある、とこの時代の「光学」は後に告げることになることを思い出しておかなければなりません。
レンブラントほど自画像を描いた画家はいないでしょう。若い時から死の直前までかれはみずからの姿を描き続けた。もはやコメントを加える余裕はありませんが、この講義を貫く密かな通奏低音のならわしに従って、ここでもその膨大な自画像のなかから、その最後の作品を掲げておくだけにします。生を見続けた画家が人生の最後に見たみずからの生の姿です。
最後に一言付け加えておきたいことがあります。フェルメールやレンブラントの生涯について書かれたものを読んでいると、経済的な事柄が重要なファクターとして浮かび上がってくる。両者ともただ絵を描くだけではなく、みずから絵を買ったり、絵に投資したりしていることがわかります。それゆえに破産したりもする。すなわち、絶対王政に仕えたベラスケスのような画家とは異なってかれらは、市場の原理のなかに生きているのです。しかもその市場はオランダ共和国の体制のもとで世界大の交易とも密接に結びついていました。この時代、冒頭に指摘したように自然科学の確立があり、それと同時に、現在のわれわれの生存の条件にもつながる資本主義的な市場原理も発展してきている。そして絵画はその両者ともけっして無関係ではなかった。ミシェル・フーコー流に言うなら、そうした大変動のなかから、理念としての「人間」が生まれてこようとしていたわけです。そして、絵画は何よりもその「人間」の存在そのものに眼差しをむけたのです。」小林康夫『絵画の冒険 表象文化論講義』東京大学出版会、pp.103-106.

   17世紀はオランダの世紀ともいえるほど、この小さな共和国が世界中に交易網を広げ、多くの富を集めた。ある時代に最も経済的に成功した国には、必ずと言っていいほどその時代精神を体現した優れたアートとアーティストが出現する、というのがぼくの仮説なのだが、レンブラントはまさにその実例といってもいいと思う。



B.持続可能な農業・地方再生の希望
 江戸時代は米を基幹産業とした農業社会の秩序を維持して、全国諸地域は分権的な農村共同体の自立性を経済的というより思想的に大事にしていたと思う。しかし、江戸時代の中盤以降、商業資本が成長しコメを基盤とする各藩の財政は疲弊し、開国による幕藩制の解体と再編で富国強兵路線を走りだした明治国家は、それでも農林漁業を国民の生活基盤として保護育成しようとして、第二次大戦後まで農業に従事する人口は一定程度維持され、米作農家への保護は保守政党の政治基盤でもあった。しかし、都市化工業化を推進力とした高度経済成長は第1次産業の衰退を招き、農業の後継者は激減し、地方はじわじわと衰弱し、いまや人口減少と高齢化で日本の地方には希望はない、という見方は“常識”として語られる。しかし、現実の方がすでに変わりつつあるのかもしれない。

 「波聞風問:持続可能な農業 若者が採用枠に集まる意味は 編集委員 多賀谷克彦
 就職活動ルールの是非論が飛び交うなか、来春春に就職する学生の就活が山場を越えた。さて、今年の応募状況はどうだっただろうか、と前から気になる企業があった。
 イオングループの農業法人イオンアグリ創造(千葉市)である。全国21か所の直営農場を運営する。本社を含む社員は約650人、平均年齢は30歳前後と若い。100人以上が働く大農場もある。
 2014年に定期採用を始め、15年には大卒の採用に踏み切った。この年、驚いたのは採用担当者だけではない。グループ幹部も「本当か」と数字を疑った。数十人の採用枠に4千人もの応募があり、倍率はイオングループで最高の約100倍に達したのだ。
 翌年からは採用枠を絞り、説明会場を減らしたが、1500人規模の応募が続いた。急に農場を広げたり、増やしたりすることも難しく、今年は採用枠を1桁台にしたが、応募者は500人に上った。
 この数字は何を意味するのか。15年の農業就労人口は半世紀前の6分の1の210万人、60歳以上が8割を占めるまでになり、持続可能性が問われている。
 だとすれば、この現象は家業の農業を継ぐ人材は少なくても、働く条件を整えれば、農業に従事したいという人材は少なからずいるということではないか。その条件とは何か。例えば、新規就業者の実態調査では、ほぼ半数が課題として挙げたのが「所得の少なさ」であり「休暇取得の難しさ」だった。
 労働基準法では、仕事が天候に左右される農林漁業者には、労働時間、休憩、休日に関する規定が除外される。つまり、農業法人でも一般企業のような法定労働時間は適用されず、時間外給与は支払わなくてもいい。これでは彼らの将来不安は解消されない。
 イオンアグリ創造はグループの就業規則を基本に、農業の実態にあう働き方を追求している。時間外給与の支給、出産・育児休業はもちろん、雨続きで農作業ができない日が続く週には休日を多くし、翌週以降に就業時間を振り替えるようにした。いまは年2回5日以上の連続休暇を取得しようと呼びかけている。
 社長の福永庸明さんは「農業を産業化するのが我々の役目」という。
 農業法人が一斉に一般企業並みの労働条件に改めるのは難しい。ただ、新鮮な農作物を食べ続けるために、食に携わる企業は若い人たちに魅力ある農業とは何かを追い続けるべきだろう。
 イオン宇都宮農場でキャベツを担当する杉山啓祐さん(25)は学生時代、途上国でのボランティア活動で食糧の重要性を知り、農業を志したという。「小さな苗がキャベツに育つ喜び。収益も見える化されているのでやりがいもある」と話す。
 若い人たちは職業としての農業に魅力を感じていない。まずは、この定説から疑ってもいいのではないか。」朝日新聞2018年10月30日朝刊7面経済欄。

 いま衰弱しつつあるのはかつて経済成長をけん引した第2次産業で、IT化や情報化による再生が必要だといわれながら、大学生の就職はモノ作りの製造業ではなく玉石混交の第3次産業に向いている、と思われていた。しかし、見捨てられたような地方と農業こそ、条件さえ整えればこれまでとは質の違った希望に満ちた働き方ができるかもしれない、という可能性が語られるようになりつつある。

 「新庄南高金山校で講演「都会より金山」
「里山資本主義」の著者で知られる藻谷浩介・日本総合研究所主席研究員が27日、金山町の新庄南高校金山校の創立70周年の記念行事で講演した。さまざまな統計から「金山町では後期高齢者は減少し始めていて、高齢者福祉に代わって子育て支援に予算を回せるようになる」と予測。高校生たちに対し、金山で過ごすことで見える未来への希望を説いた。
 藻谷さんは講演で「多くの大人たちが『東大に行けば100%就職できる、日本で犯罪は増えている、田舎には仕事がない』と信じているが、どれも事実ではない」と指摘した。仙台や東京の人口が増えていることについても、「都会で増えているのは75歳以上で、現役世代は減っている。仙台や東京で就職すると、あなたの払う税金は、保育所よりも高齢者福祉のために使われるだろう」と語った。
 金山町については、高齢化など「東京の20年後」を先取りしているとしつつ、「70歳を過ぎても田んぼや畑、山で働くことができ、高齢者の生活保護も少ない。これから高齢者福祉に使うお金が頭打ちになる分、子育て対策に支出できるようになる」と話した。」朝日新聞2018年10月30日朝刊、24面第2山形欄。

 しかし、これにはもう少し時間がかかるのも確かだと思う。高齢化はあと20年くらいは進行する。外国人労働者を大量に導入するか、高齢者への福祉予算を大きく削るかしない限り、産業の構造転換は簡単には進まない。しかし、だからこそすでに高齢社会の先が見えている地方の方が、若者を疲弊させ使い捨てる大都市より大きな可能性があるという考えは、根拠のない嘘ではないだろう。

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「絵を読む」8 ラス・メニーナス どこまで読むか?

2018-10-28 14:36:45 | 日記
A.Sujet
 明治以来、西洋語を日本語に翻訳することで、ぼくたちは近代の哲学も理解可能なものと考えてきたのだが、ひとつの単語でもその意味が文脈や文体で複数あるということは、日本語でも同様だ。日常語と専門用語でかなり違った使い方があることも知っている。しかし、ときにまるきり違うように思われる概念が同じ単語で表わされるような場合がある。母語としてその成り立ちを体感している場合は、あまり考えなくても問題はないが、外来の翻訳語だと誤解してしまうおそれもある。
 Subjectは主体、objectは客体と訳して対義になり、subject to~は他動詞なら服従させるという意味で、object to~だと異議を唱える、反抗するといった意味だが、形容詞だと逆にsubjectは服従する、指示を受けるという意味になる。文法上はsubjectが主語、objectは目的語という関係になり、その限りでとくに混乱はない。とりあえず英和辞典ではこうなっていた。

 Subject:1.a主題、問題;題目;演題:画題:《楽》テーマ;《美術》題材
b《教授すべき》学科、《試験の》科目
c《文法》主語、主部;《論》主語、主辞;《哲》主体、主観、自我、我〈opp, object〉;実体、実質、物自体.
        d起因、たね、対象
        e素質者、患者;本人
      2.臣、家来;臣民《共和国ではcitizen》
      3.解剖[剖検]用死体;被験者.
動詞subject:-a1.服従する、従属する、
       2.受ける、受けやすい、こうむりやすい(…になりやすい)
       3.(承認などを)受けなければならない、ただし…を必要とする (to)  
      —vt 1a服従[従属]させる;(人をいやなめに)あわせる(to)
          b《廃》下に置く
  2さらす、当てる、かける;《まれ》前に置く、提示する

 日本国憲法成立をめぐってこのsubject toを日本のアメリカへの従属と絡める意見もあるが、主体と従属という日本語のうえでは対立のイメージが、同じsubjectという語で語られるのは、なんだかすっきりとは入ってこない。とにかくここでは、スペイン・バロックの巨匠、ベラスケスの名画「ラス・メニーナス」のお話である。

 「おそらくベラスケスのこの絵のなかには、古典的表象の表象、そしてそれが開く空間の定義のようなものがある。実際、そこでは、そのいくつものイメージ、それがみずからに与えるいくつもの眼差し、それが見えるようにしているいくつもの顔、それを生み出しているいくつもの身振りとともに――自分自身を表象しようと企んでいるのだ。ところが、そこでこの表象がそのすべてを取り集め、繰り広げているこの散乱のなかには、ある本質的な空虚が、あらゆる方面から有無を言わせぬ仕方で指し示されているのだ。すなわち、古典的表象を基礎づけるものの消滅―-つまり表象がそれに類似しているものと、その眼に表象が類似でしかないものの必然的な消滅である。この主体そのもの(le sujet même)―-〈同じもの〉(le même)である主体が、省略されてしまったのだ。そのことによって、主体というこの束縛の関係からついに自由になった表象は、とうとうみずからを純粋な表象として提示することができるようになるのである。 (ミシェル・フーコー『言葉と物』1966.小林康夫訳)」

 ここでフーコーのいう「主体そのもの(le sujet même)―-〈同じもの〉(le même)である主体が、省略され」「主体というこの束縛の関係からついに自由になった表象は、みずからを純粋な表象として提示する」とはどういうことなのか?すっきりとは頭に入ってこない。小林康夫はこれにこう説明をつけている。

 「すなわち、フーコーによれば、このタブロー(引用者註:ベラスケスの「ラス・メニーナス(侍女たち)」1656年)は、表象が「それを見る主体の束縛から自由になってみずからを純粋な表象として提示できる」ことを提示している、というか、「表象して」いるというわけです。つまり、「表象の表象」です。そして、そのような「純粋な表象」が生まれるということが、「表象」が、それを生み出したり見たりする人間主体の「秩序」からも、またそれが「似ている」(「同じもの」)とされる対象の「秩序」からも独立した独自の「秩序」を持つようになる歴史的な変動の徴候なのだ、ということです。フーコーはこの変動を、17世紀のフランスのいわゆる古典主義時代の表象システムの完成のうちに見ます。ポール=ロワイヤルの「一般文法」或いは博物学における分類学の完成、つまり「言葉」に関しても「物」に関しても「表象」そのものの「秩序」が「一般性」として確立されるという事態です。一言付け加えておくなら、われわれが知っているような「自然科学」はこのような「純粋な表象」の独自な「秩序」という根本的な基盤なしには成立することはできません。これは、そのくらい決定的な出来事なのです。
 フーコーの『言葉と物』は美術や絵画を対象にしたものではありません。その副題は「人間(人文)科学のアルケオロジー」でした。「人間」を対象とする「科学」すなわち「表象の秩序」の誕生とその「近い将来の死」までの「歴史」を展望することがそこでは目指されていました。
その膨大な仕事のいわば序曲として17世紀スペインの国王フェリーペ4世に仕える宮廷画家ベラスケスが描いた1枚のタブローが、「表象」が持つ「本質的要素のすべて」を内包した「表象の表象」として召喚されたわけです。
 では、われわれも、とても急ぎ足にならざるをえませんが、「本質的要素」とフーコーが呼ぶものをこの作品の画面のなかで確認しておきましょうか。
1) 画面の全体は王宮内の画家のアトリエ。左端のこちらに裏を見せる大きなカンヴァスの前に絵筆をもって立つのが画家ベラスケス。胸の赤い十字章はサンティアーゴ騎士団のもので、画家が最晩年にそれに叙されたときにあとから描き加えられたものであることがわかっている。
2) その画家の姿から右側へと続いていく一連の人物群の中心が、幼いマルガリータ王女。そのまわりの侍女たちや廷臣たち、右端の2人の小人の道化たちと犬、画面奥の階段口にいる(画家の縁者といわれる)執事に至るまで、書かれた人物はすべて同定されて名前も分かっている(なお、ついでに言えば、背後の壁のタブローもピーテル・パウル・ルーベンス(1577-1640年)の《パラスとアラクネ》、ヤーコプ・ヨルダーンス(1593‐1678年)の《アポロンとマルシアス》の模写であることが判明している)。
3) だが、画面の中心を占めるのは、実は、背後の壁の「鏡」。そこにはカンヴァスの前でポーズしている国王と王妃の姿が映りこんでいる。その「鏡」に映った人物たちにこそ、画面の多くの人物の視線が向けられていることは明らかだ。しかも言うまでもなく、それは、同時に、この絵を観る者が位置する場所と同じことになる。

 フーコーの読解のポイントは最終的に、この「王(と王妃)」の場所が「本質的な空虚」なのだということにあります。その場所は、この作品の表象のすべてがそこからはじまる絶対的な出発点でありながら、しかしそれが「省略」され、「不在」化されている。「鏡」によるそのぼんやりとした出現は、むしろその「不在」を「表象」しているのだ、ということです。
 そしてこの議論はすぐさま、観る者へも反転的に適応される。つまり、ここでは、観る者は、この絵の前に立ってそれを見ているのではなく、自らも絵の空間のなかにいると感じる。なかに取り込まれる、と言ったらいいでしょうか。実際、歴史的にも、19世紀のフランスの詩人テオフィル・ゴーティエがこの絵を前にして、「絵はいったいどこにあるのか?」と叫んだという有名なエピソードがあるくらいなのです。
 もちろん、そのためにはこのタブローが大きいということが決定的に重要です。318×276センチメートル――すべての形象はほぼ等身大です。そしてわれわれが決してその「表」の画像を観ることができない画面のなかで裏を見せるタブローもまた、ほぼ同じくらいに大きいのです。」小林康夫『絵画の冒険 表象文化論講義』東京大学出版会、2016.pp.85-87.

 たとえばフーコーのいう「古典的表象」を、ルネサンスの美術は創造主である神こそsubjectだとする世界から、人間を秩序を体現する「主体」の表象として実現したものと考えるなら、ダヴィデ像にせよ「ピエタ」にせよ、神が主体の宗教画から人間のほうに中心が移行し、それは遠近法や比例秩序という形で画面に統一を与えたということになる。そして、この「ラス・メニーナス」がやっていることは、そのような「近代の視線」、現世の秩序を完成させる表象を、あえて拡散し裏返し、この絵の現場である王宮の中心にいる王と王妃を鏡の中に閉じ込めて、「空虚」の中に解き放つ、ということになる。さて、そのように読むのが正解かどうか?
 ぼくもマドリッドのプラド美術館で、この絵の実物は見ている。大きな絵だが、恥ずかしながらこういうことは考えなかった。



B.解説の重要性について
 いまさら言うまでもなく、新聞はいち早くニュースを伝えるという仕事だけではなく、読者にその出来事や人物の背景と意味について正確な情報をつけて解説することに、大きな役割がある。速報性の方は、ネットやテレビにかなわないが、的確にして簡潔な報道とはこの解説の能力にかかっているし、それを書く記者の力量が問われることはいうまでもない。フェイクニュースがまき散らされる状況は、やはり新聞がしっかり確実な情報を提供し、読者の思考をうながすことが重要だ。そしてそのためには、ある事件や問題について書かれた各紙を比較し点検する作業も必要だが、それはある意味プロの仕事でもある。

 「わかりにくい「中距離核」:池上彰の新聞ななめ読み
アメリカのトランプ大統領が「中距離核戦力(INF)全廃条約」を破棄する方針を表明しました。軍拡競争が再開されるのでしょうか。衝撃的なニュースです。当然10月22日朝刊各紙は1面トップで扱っている‥‥‥と思ったら、読売新聞は左肩に押しやられています。被爆国の日本に住む私たちにとって気がかりなニュースを上まわる大ニュースとは、何なのか。
       §    §     §
 それは、北海道地震で起きた広範囲の停電「ブラックアウト」について、「検証委員会の原案が21日、判明した」という記事でした。
 これは、特ダネだという意識なのでしょうね。たしかに他紙には出ていませんから「独自ネタ」ではあるのでしょうが、中間報告ではなく、その「原案」がわかったというもの。こう言っては失礼ですが、読者があっと驚く情報ではありません。
 新聞社として、他紙が知らない情報を得たら大きく扱いたいという気持ちになるのは当然でしょう。私も特ダネ競争をしていた記者経験があるので、よくわかります。でも、核開発競争が再開されそうだというニュースを上回るものでしょうか。
 読売の記事は、扱いが小さいせいでしょうか、中身も薄いものです。問題の条約について、「米国と旧ソ連が、射程500~5500㌔の中距離核ミサイルを全廃し、恒久的に放棄することを定めた条約。1987年、当時のレーガン米大統領とソ連共産党のゴルバチョフ書記長が調印し、東西の緊張緩和や冷戦終結につながった」と説明しています。これはこれでまとまっていますが、そもそも中距離核ミサイルはなぜ「射程500~5500㌔」という定義になっているのか、読者の疑問に十分答えるものになっていません。
       §    §     §
 朝日はどうか。同日朝刊2面にこう記しています。
 〈INF全廃条約は、1970年代にソ連が欧州に照準を合わせた新型の中距離核ミサイル「SS20」を配備し始めたことに端を発する。米国は対抗策として新型の地上発射式巡航ミサイルを欧州に配備し、両陣営の緊張が高まった。転機は85年、中距離核戦力の全廃を決めた画期的な条約を結び、緊張緩和に大きな役割を果たした〉
 この条約が、いかに大きな意味を持つものだったかが、これでわかります。それだけにトランプ大統領の破棄表明は衝撃的だったのです。
 この記事で、なぜ「中距離」の名前がついているのかもわかります。旧ソ連圏から発射してイギリスやフランス、西ドイツに届くミサイルだったからですね。
       §    §     § 
 ちなみに読売の記事で出てくる5500㌔という数字は、5500㌔以上の射程を持つミサイルは、アメリカからソ連、ソ連からアメリカへと大陸を越えて飛ぶ大陸間弾道ミサイルに分類されるからです。
 ただ、なぜアメリカが条約を破棄しようとしているのかは、毎日の記事がわかりやすくなっています。
 〈条約締結当時、条約が禁じる射程500~5500㌔の地上発射型の弾道・巡航ミサイルを保有する国は限られ、米ソ2大国が加入すれば事足りた。だが時代は多極化へと変わった。ミサイル輸出や技術拡散により、現在は中国やインド、パキスタンに加え、北朝鮮やイランもこれらのミサイルを保有する。条約に縛られる米露だけがこの種のミサイルを保有しないという皮肉な状況が続いていた〉
 これでアメリカ側の事情もわかりますが、毎日の記事は続けて、こう書いています。
 〈一方で、米国のINF条約離脱の効果は「限定的」との見方が米専門家に根強い。条約は地上発射型だけを禁止しており、潜水艦を含む海上艦船や航空機から発射するミサイルは対象外。米国はこれらの兵器をすでに大量保有しているため、現状でも十分に危機に対応できると見る向きが多い〉
 なんだ、中距離ミサイルを大量に持っているではないか。軍拡競争は続いていたのです。」朝日新聞2018年10月26日朝刊

 まず、トランプ大統領のINF中距離核全廃条約の破棄というテーマを、記事の扱い(紙面のスペース)から入ってその条約成立の経緯と効果にふれ、次に「中距離(500~5500㌔)」のもつ意味にどういう説明をするか、さらに今回の破棄がどのような影響を今後世界に及ぼすのか?これをちゃんと書いているのは毎日だけという結果である。そこまでいかないと、一般の読者はトランプという乱暴な大統領が勝手に核の歯止めを外し、核戦争の危険が高まったと考える人は多いと思われる。ものごとは単純化した方がわかりやすくなるが、同時に肝心なことが見えなくもなる。INFは地上から発射する中距離ミサイルをやめようというだけの話で、しかも米ソだけが持っていた時代は終わり、あちこちに核兵器があるから、条約の効果は「限定的」だということ、となれば海や空から核兵器が発射される場合は野放しに近いというのが現実だ、ということをここまで読んでぼくも初めて知った。やっぱり新聞の解説の深みというものは重要で、それは記者がどこまで問題の本質と現実を知っているかにかかっている。
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「絵を読む」7 カラバッジョの視線 巨砲?虚報 

2018-10-26 18:24:34 | 日記
A.バロックの闇と光
 西洋美術史上で17世紀といえば「バロック」の時代とされる。ただ、17世紀の作品でもバロックの特徴である劇的で奔放な明暗を強調した絵ばかりではなく、フランスのプッサンやクロード・ロランのような画家はルネサンスの規範から逸脱するどころか、むしろルネサンスを踏襲する古典的な志向を持っていた。なにがバロック的かを考えるとき、イタリアのカラヴァッジョで考えるか、スペインのベラスケスで考えるか、フランドルのルーベンスで考えるか、オランダのレンブラントで考えるか、共通点よりは相違点の方がいろいろ上がるだろう。
「17世紀の危機」という言葉があって、世界史教科書的に見れば、16世紀が宗教改革と大航海時代の拡大時代(人口も増えた)なのに対し、17世紀ヨーロッパは小氷期の到来により気候が寒冷化したことで、農作物の不作が続いて経済が停滞したことを指す。これに伴い戦争も相次ぎ、魔女狩りをはじめとする社会不安が増大する。さらにペストの流行で人口が減に転じ、今までの封建的なシステムは崩れ、資本制が広がるようになる。宗教対立が激化したために、王室は財政難の打開を目的に中央集権を進めたが、これに貴族が反発、農民も一揆を起こすようになる。とくに三十年戦争の疲弊の影響は大きく、ほとんどの国が争い合った。結果、ヨーロッパのほぼ中央に位置する神聖ローマ帝国の土地は荒廃し、ウェストファリア条約が結ばれて以降、神聖ローマ帝国の権威と実質は消滅し、ウェストファリア体制と呼ばれる勢力均衡が支配する社会となり、各国は相互内政不干渉の原則で、王権を集中させ絶対主義体制が確立する次の18世紀を準備する。
17世紀中、小規模のものも含めて戦争のなかった時期はわずか4年しかなかったとされる。17世紀の戦争と革命を並べてみると、オランダ独立戦争(八十年戦争)(1568年~1609年)にはじまり、ヨーロッパ全土にわたる宗教戦争である三十年戦争(1618年~1648年)、イギリスのピューリタン革命(1642年~1649年)、フランスの貴族反乱であるフロンドの乱(1648年~1653年)、植民地・海外利権をめぐる第1次英蘭戦争(1652年~1654年)第2次英蘭戦争(1665年~1667年)第3次英蘭戦争(1672年~1674年)で覇権がオランダからイギリスに移る。フランスとスペインの争ったネーデルラント継承戦争(1667年~1668年)、オランダ侵略戦争(1672年~1678年)、イギリスの名誉革命(1688年~1689年)、そしてルイ14世のフランスが膨張侵攻を続けたあげくの大同盟戦争(1688年~1697年)は、北米やインドの植民地にまで波及した。
 こうしてみると、バロック美術の担い手たちも、それぞれの国地域のあちこちで王様貴族が戦争をする中、宮廷に雇われたり市民ブルジョアのご注文に応えて制作に励んでいたわけだ。16世紀ルネサンスに比べて、画面に暗い影が覆ったのも純粋にアート的技巧だけの問題でもないのかな。

 「だが、バロックとは何か?この言葉、前講で扱った「マニエリスム」以上に複雑であるだけではなく、射程が広い。われわれの講義はいわゆる美術史上の「様式」の変遷をつぶさに扱うことを目指してはいないし、あらかじめ確固たる「様式」が事実としてあるという臆見からできる限り遠ざかっていたいというのが前提ではあるのだが、「バロック」には立ち止まらざるをえない。もともと「真珠などのいびつな形」を指すポルトガル語の「barrocco」からはじまったこの言葉が、19世紀以降、次第に、いわばルネサンスの比例的な、合理的な構築からはみ出た「いびつな」、「不規則的な」形態を特徴とする17世紀の美術に適用されるようになる。
 決定的なのは、ハインリヒ・ヴェルフリンの『美術史の基礎概念』(1915年)でしょう。かれは、デューラーとレンブラントを例に採りながら、16世紀の絵画から17世紀の絵画への変化の不連続線を五つの指標で説明しています。それは、①線的から絵画的へ、②平面的から深奥的へ、③閉じられた形式から開かれた形式へ、➃多数的から統一的へ、⑤対象の絶対的明瞭性から対象の相対的明瞭性へ、の発展・変化です。①の「絵画的へ」という表現や誤解を招くかもしれませんが、ここでヴェルフリンが考えているのは、対象の輪郭がくっきりと切り出されてある、(かれの言い方だと)「彫塑的」な絵画から、対象の輪郭を通して対象を再現するのではなく、たとえばレンブラントの《夜警》のように光のグラデーションを通じて表象空間そのものが統一的に表現されている絵画への変化のことなのです。しかしそれにしても、絵画の変化を論じて対の一方を「絵画的」と名づけるのはカテゴリー・ミスかもしれません。ヴェルフリンは大家なので誰もあえてそんなことはしないのですが、わたしとしてはこの「ミス」を勝手に訂正して言い換えておきたい。すなわち、「彫塑的絵画」から「演劇的絵画」へのラディカルな転換である、と。
 すなわち、バロックという様式において決定的なのは、その演劇的な性格だということです。そのことを端的に示しているタブローをまず見てみましょう。まさに1600年の転換点頃に描かれたカラヴァッジョ(1571-1610年)の《聖マタイの召命》(1508-1601年)です。
 バロックの起点はローマです。そのローマのサン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂コンタレッリ礼拝堂の3対の作品のひとつ。場面は、ローマ帝国の徴税吏であったレビ(のちのマタイ)のところに現れたイエスが「われに従え」と召した瞬間。イエスが画面右端の手指を差し伸べた人物であることは当然として、レビはどの人物なのか、について論争もあったらしいのだが、イエスの後ろから画面を斜めに切り裂くように差し込む強い光がはっきりと語っているように、テーブルに俯いて硬貨を数えている左端の青年であることは疑いない。かれは商人たちから徴収したお金を数えている。そこに忽然とイエスが現れて「われに従え」と言う。その言葉を聞いた瞬間にレビの動きがぴたっと止まり、その言葉に従うという回心が今、起ころうとしている、というわけです。
 重要なのは、イエスの言葉です。極端に言えば、ここで「描かれている」のは「われに従え」という言葉の響き。画面の外から差し込む光線とともに、その言葉が空間に響きわたっている。あたかも舞台上でそれが言われたかのように。実際、すべてはまるで舞台を観ているかのようではないでしょうか。光は自然の光ではありません。背景は奥行きを欠いて、書き割りのような壁が一面に立っているだけ。画面は上下に完全に二分されていて、前面の狭い表象空間のなかに、イエスからマタイへと人物群の姿がつくりだすリズム感のある「襞」の流れがつながっています。明暗が織りなすその流れが重要なので、聖人であるイエスの身体は何と、別の人物によってほとんど隠されてしまっています。場面の全体はまるでローマの場末の路地であるかのような現実感。登場する人物も遠い聖書の時代の人物というよりは当時の庶民の日常の形姿に重なっています。すなわち、ここでは絵画は非現実の事物を現実であるかのように「表象」するのではなく、現実的な空間と人物を用いてある劇的な出来事を「演出」しているのだと言ったほうがいいでしょう。
 ついでに指摘しておくならば、背景になっている装飾のない壁に描かれた窓。それがぴったりと閉ざされていることに、われわれは「歴史」の回転扉がまわった印象を深くしないでしょうか。そう、ルネッサンスの時代であれば、画面のなかにこのような窓はかならず向こう側に開いていて、そこに遠くまで続く風景が拡がっていたはず。その時「窓」は何よりも「絵画」のメタファーでもあったのですが、ここでは「窓」は閉じています。つまり、それはその奥にもうひとつわれわれには見えない屋内の空間があることを示しているのです。前面の目に見える空間にもう一つの目に見えない空間がぴったりと隣接し、接合しているのです。」小林康夫『絵画の冒険 表象文化論講義』東京大学出版会、2016.pp.74-76.

 カラバッジョ「聖マタイの召命」のイエスの手は、システィーナ礼拝堂天井画のミケランジェロ「アダムの創造」から借用されている、とか、姿が見えないようにイエスの手前にいる人物を誰と考えるか、とか、小林氏の「窓」の考察だけでなく、これは謎解きの種に事欠かない絵だ。しかし、時間の順序からすれば、盛期ルネサンスの遺産をマニエリスムが歪め、さらにバロックが変形させたというけれど、カラヴァッジョはルネサンスの伝統とひと繋がりの人でもあり、そこに強烈なカラヴァッジョ様式を作り出したわけで、それ以後の画家はイタリアへ行ってレオナルド、ミケランジェロ、ラフェエロを、そしてカラヴァッジョをじっくり見ていなければ画家とはいえないようになった。ルーベンスはまさにそうやって巨匠になったが、スペインの支配を脱して独立したオランダ共和国のアムステルダムにいて、一度もイタリア詣でをしなかったレンブラントは、世界帝国の隆盛と衰弱のなかで市民のための絵を描いた。これもバロック的だとはいえる。



B.流言飛語ではなくデマによる煽動
 ネットに流した情報が世界を瞬時にかけめぐるような環境が誰にもアクセス可能になったのは、21世紀になった頃からだろう。それ以前は、怪しい情報や偽ニュースを意図的に流そうとしても、影響力のある大手の出版、放送、広告業界では厳しくチェックして載せないのが常識だったし、口コミの伝播力はたかが知れていた。しかし、今は誰もが瞬時にSNSに投稿し、それに即反応返信できるのが当たり前だから、人々の意識や感受性にむけてある特定の方向に傾斜したフェイクニュースを大量に流せば、短期間に世論を動かすこともできるかもしれない。
ヒトラーの宣伝相ゲッペルスはネットもテレビもない時代に、新聞と映画を統制し、無知な大衆に受けのよい作為的な思想宣伝と敵へのヘイト・ニュースを流してナチスの権力を支えた。戦後のマス・メディアの拡大と多様化は、政府権力が情報統制や諜報機関を強化したとしても、外からの情報を完全に遮断するのは難しくなって、社会主義国は崩壊した。だが、ネットが普及して昔のように都合の悪い情報を「流さないように」統制するのはほとんど不可能になったが、逆にどんな情報でも山のように出せる(しかも匿名でどんな場所からも)という条件を悪用して、組織的にフェイクニュースを流すことで大統領選挙のようなものまで左右できる時代になっている。

 「フェイクニュースの影にロシアの世論工作:ネットが民主主義の敵に 津田大介さん
 2016年の米大統領選で、虚偽の情報を基にトランプ候補を支持し、クリントン候補を攻撃するブログ記事が、ソーシャルメディア上で大量に流通した。その発信源の多くが欧州の小国・マケドニアのヴェレスという町の若者たちだった。広告費目当てでフェイクニュースを発信していたことは世界的な話題となったが、ここにきて実は単なる若者の小遣い稼ぎではなく、政治的な背景が報道されるようになってきている。
 米バズフィードは18年7月18日、フェイクニュースを利用した一連のマケドニアの若者の小遣い稼ぎの背後には、ロシアのエージェントや米国の極右ニュースサイトと親交のあるトラシェ・アルソフ弁護士がいることを報道した。記事によれば、アルソフ氏は自らのフェイスブックで、FOXニュースやブライトバートなどの極右メディアのニュース記事を積極的に拡散。また、米国の極右ニュースメディアの創設者たちや、ロシアゲート疑惑をめぐってモラー特別検察官が捜査対象にしているロシアのエージェント、アンナ・ボガチェフ氏とも交友関係があるという。
 当初は金儲け目的の若者だけと見られていたマケドニアのフェイクニュース産業の影にロシアの世論工作活動が見えてきたということだ。まだ疑惑の段階だが、マケドニアのフェイクニュース産業にも今後も注視し続ける必要がありそうだ。
 国際人権監視NGOの「フリーダムハウス」が昨年11月に発表したリポート「ネットにおける自由(Freedom on the Net)」によれば、ソーシャルメディアを利用した世論工作は世界二十カ国で確認されているという。その多くは、政権批判や反政府活動の妨害、フェイクニュースの拡散などだ。
 このリポートの発表後、リポートの正しさを裏付けるように、国家による世論工作事例が次々に明らかになった。韓国の聯合ニュースは18年10月15日、李明博政権時の10年2月から12年4月にかけて、警察が情報系の警察官約千五百人を動員し、政府と警察に好意的な世論を形成することを目的として、ニュースのコメント欄やツイッターに約3万7800件の投稿を行なっていたことを報じた。
 ロヒンギャ問題に揺れるミャンマーでも政府が関与する大規模な世論工作が発覚した。米ニューヨーク・タイムズは18年10月15日、ミャンマー国軍がフェイスブックにロヒンギャへの危機感を煽るプロパガンダ記事を組織的に投稿していたことを報道した。ミャンマーでは、数年前からこのような活動が行われており、国軍関係者ら最大約七百人が関与。その中にはロシアで研修を受けた人間もいたという。
 これらの事実が示すのは、多くの国でインターネットが民主主義の敵になりつつあるという残念な事実だ。日本においても先日投開票が行われた沖縄県知事選でフェイクニュースの氾濫が大きな問題となった。日本でも同様の現実があることを認め、ネットを使った世論工作に対抗していく手段を考えなければいけない。」東京新聞2018年10月25日朝刊4面「視点」。

 関東大震災時の朝鮮人虐殺に関連して、かつて清水幾太郎はアメリカの社会心理学を応用した「流言飛語」という本を書いた。社会が一時的に混乱した非常時に、誰かが根拠のない噂を流すとそれが瞬く間に広がって人々を行動に駆りたて、予想できない事態が出現してしまうという現象を説明していた。今のネットを使った極右的世論工作は、偶然起こる流言飛語ではなく、ある目的のために誤った情報を意図的に流す政治的操作であるから、これがはびこることは、ヒトラーの時代どころではない恐ろしい結果を、すばやく実現してしまいかねない。ネット社会はメリットも大きいが、こういうデメリットはなんとかしないと…。
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「絵を読む」6 マニエリスムって? ヘイト言説に

2018-10-24 19:16:30 | 日記
A.マニエリスムって?
 美術を解説するのに一番お手軽なのは、美術史上の様式名称でこの画家は~の巨匠、こっちは~派の代表、というようにやってしまえば、いちおう何となく「そうなのかあ」と分かったような気になる。でも、その~様式、~イズム、~派って他とどこが違って、なにを追求したのかをきちんとことばで説明するのは簡単ではない。とりあえずある時代に支配的だった画法・様式があって、同時代の多くの画家や彫刻家はその共通理解の上に作品を作っていた、と仮定する。そしてその様式は次の時代には流行らなくなり、古いものとみなされて今度は、新しいスタイルが登場し画家も彫刻家もみんなそっちの方に行った、かのように説明する。
 西洋美術史の場合、ローマ帝国にキリスト教が定着する4世紀くらいからはじめ、東方のビザンティン美術(7~8世紀)、ロマネスク(11世紀前後)、ゴシック(13~14世紀)、そして14世紀あたりからルネサンスになって、それが16世紀に最盛期を迎え、北方フランドルなどまで広がった。しかし、16世紀半ばにルネサンスのイタリアの中から出てきたちょっと変わった一群の画家を「マニエリスム」と呼ぶようになった。しかしこれはまもなくバロック美術となって17世紀に支配的になり、以下18世紀のロココ、そして新古典主義というふうに推移したのだ、というのが教科書的な美術史である。
 でも、「マニエリスム」が美術様式として定着したのは、比較的新しいらしく、たんにルネサンスの亜流のようにみなされた時代もあったし、次のバロック美術ともどこがどう違うのか、作品に即して丁寧に見ていかないと素人にはわからない。「マニエリスム」という言葉は、そもそもイタリア語の「マニエラ」(様式・手法という意味)に由来し、17世紀に入った頃にはいわゆるマンネリ、月並みという否定的な意味として使われた。それはミケランジェロを手本とした「型」の踏襲と反復だけで創造性に欠けたものを意味した。しかし20世紀に出てきた美術研究・評論の提起した積極的肯定的な「マニエリスム」は、盛期ルネサンスの特徴であった「自然らしさと自然離れのつり合い」が崩れて、自然を超えた洗練、芸術的技巧、観念性が追求されたとみる。

 「フランチェスコ・マッツオーラ、またの名を人呼んで「イル・パルミジャニーノ」といったパルマ生まれの男が、1523年、凸面鏡を前にして、一幅の奇怪な自画像を描いた。時あたかも、マニエリスムの名をかちえた、新しい、一世を風靡する様式習俗の初頭にあたっていた。以来150年間、この先端芸術は、ローマからアムステルダムにいたるまで、マドリードからプラーハにいたるまで、時代の精神的社会的生活を決定することになったのである。仮面美を思わせるマッツオーラの少年の貌は、なめらかで、測り難く、謎めいている。表面の分解を通じて、それはほとんど抽象的な印象さえ喚起するのである。凸面鏡による遠近法の歪曲の中で、画面の前景を、一個の巨人症的な、解剖学的には、もとより不可解な手が占めている。部屋は眩暈を起こさせるような痙攣的な動きの中に展開する。窓はそのごく一部分だけが、わずかに、やはり歪んだ形で見えていて、それが弧状の長辺三角形をかたちづくっており、光と影がそこに異様なしるしを、驚異を喚び起こす象形文様を生みなしているように見える。このメダル上の形をした画面は、機略縦横の才智を生む定式の解説図の用をなしている。それは、当時の概念を援用していうなら、才気煥発の綺想体(Concetto)すなわち視覚的形態における、鋭敏な尖端絵画である。内容的にも形式的にも、ここには、1520年から1650年の間、当時のヨーロッパの芸術と文学において、近代的であるためにはぜひとも顧慮しておく必要のあった諸規定がふくまれている。 (グスタフ・ルネ・ホッケ『迷宮としての世界』緒言)種村季弘・矢川澄子(訳)、岩波文庫、2010年。」

 「マニエリスムという言葉は「手法」(maniera)という言葉に由来するのだから、もともとはミケランジェロというルネッサンスの頂点以降、衰退して、様式化されたミケランジェロ的手法の模倣に堕した芸術を指し示していたらしい。ところが、この「衰退」が、時代を経るにつれて、むしろ古典的な規範への異議申し立て、あるいはそこからの意図的な逸脱・逃走、さらには理性的な計算には還元できないもうひとつの世界=迷宮の開示という肯定的な原理として解釈し直され、再評価されるようになるわけです。この再評価が起こるのは20世紀、二つの世界大戦という危機の深さが、宗教改革と反宗教改革とが激しくぶつかり合った16世紀の危機の表象を再発見させたのです。ここでは詳述できませんが、マックス・ドヴォルシャックの『精神史としての美術史』(1924年)以来、ホッケの師であったエルンスト・ローベルト・クルティウスのあの大作『ヨーロッパ文学とラテン的中世』(1948年)をはじめとして、ヴァルター・フリートレンダー『マニエリスムとバロックの成立』(1957年)やアーノルド・ハウザー『マニエリスム』(1965年)など多くの研究書が続々と生み出されます。歴史的な対象とは、はじめから与えられていて、一意的に決まっているのではなく、それぞれの時代が、時間的距離という一元的な尺度を超えて求め、欲望し、そうして構成するものであるという根本的な原理を、20世紀のマニエリスム研究ほどよく見せてくれるものはないのですが、しかしその原理こそ、マニエリスムの本質にほかならないのです。表象されていることと表象することとがよじれてメビウス状につながっているような感覚です。
 (中略)
 こうしてマニエリスム的であるとは、「見えるもの」と表象とが、「自然に」ということは、誰にでも共通に成立する合理性において一致するという公約を、表象する者(=国家)の身体性あるいは主観性において突破することになります。綺想、驚異、気取り、優美、逸脱、グロテスク、畸形といったマニエリスム的特徴として数え上げられるものは、合理性という共通基盤が脅かされるときに、それを個人の特異な美意識によって突破しようとする努力の結果です。それゆえに、マニエリスムの作品は、それを見た瞬間にその内容が誰にも即座に理解できるというようにはなりません。そこには、読みとくべき秘密の象形文字のような迷宮的世界が広がっている。同時に、その「迷宮」には、世界の共通の土台がもはや信じられなくなった不安や憂鬱や恐怖の感情が流れているのでもあるのです。」小林康夫『絵画の冒険 表象文化論講義』東京大学出版会2016.pp.61-63.

 マニエリスムに分類された画家として、上記のパルミジャニーノのほか、ポントルモやロッソ・フィオレンティーノ、ティントレットそしてエル・グレコなどが含まれる。その特徴をあげれば、コントラポスト(身体姿勢のゆるやかな流れのポーズ)を極端にした捩じれ、人体のウェイトルウィウス的比例秩序を逸脱した極端な長身とか長い首、冷たく鮮やかな色調、表面の滑らかな仕上げ、短縮法や遠近法の誇張、非合理的空間表現などがある。たとえばグレコの宗教画などを見れば、異様に引き延ばされた身体ややや病的と言えるほど強調された色彩は、誰が見てもわかる。しかし、マニエリスムといっても、レオナルドにつながるコレッジオもあれば、ヴェネチアのティンレットなどは次のバロックを導くような要素が強いから、それらをひとまとめに「マニエリスム」と呼んでいいかは、ん~ん…という気もする。ただ、20世紀の理論家たちがあえて「マニエリスム」の積極的側面を打ち出したのは、ルネサンスへの反動ではなく、時代の変化を敏感に彼らの画面に反映させたことに注意を向けたかったのだろう。その時代の変化とは何か?少なくとも17世紀は前半にルターの宗教改革が始まり、ロヨラのイエズス会ができ、最後にスペインの無敵艦隊がイギリスに敗れて、キリスト教世界の大きな構図が変わっていく過渡期である。マニエリスムがそれを無視して技巧に走ったのではなく、むしろ16世紀とは様変わりした時代の風を、画風そのものの中に落とし込んだと考えるのだろう。 

    

B.排外主義的「反日」言説はほんとに広がっているのか?
 『新潮45』のヘイト論文掲載とそれに続く休刊をめぐっての騒動が、今の日本の言論状況をいかばかりか反映していると多くの読書人が感じたことは確かだろう。ぼくも右派系雑誌に派手に載っている反韓・反中論者のむちゃくちゃな話は読む気も起きないし、それが本屋の台に平積みされていた風景が、最近は少し減ったような気はする。しかし、いったいこういう論文とも言えない感情的なヘイト言説は、いったいどういう人が発信していて、それを指示するひとがどの程度広がっているのか、なんとなく「みんな言ってるよ」「けっこう周りにもいるよ」という根拠の怪しい推測じゃなくて、確かなところが知りたいと思うと同時に、ネトウヨ的言説の支持者が何人、何%いるかということとは別に、その言論の拠って立つ根拠と中身の変化に注目したいと思う。

「憎悪の言動 広がる理由[耕論] 1%の極端な発言 存在感:大阪大学准教授 辻大介さん 
 「ネット右翼」と呼ばれる人たちはどのような政治的意識や属性を持っているのか。2007、14、17年と3回にわたり、ネット利用者を対象に調査しました。愛国や差別、排外主義の言動を過激に行なう集団として、無視できない存在となったからです。
調査では、嫌韓・嫌中を訴える、靖国参拝指示など保守的政治志向を持つ、ネットで意見発信するの3項目すべてを満たす人をネット右翼としました。結果、「貧しい若者がネットでうっぷんを晴らしている」イメージとは異なり、特定の年齢層や年収レベルとの関連性は見えませんでした。そしてネット利用者に占めるネット右翼の割合は、一貫して1%ほどに過ぎません。発信しない潜在的シンパ層を含めても6%程度です。
1%が大きな存在感を示すのは、ネットの世界では「誰が発言しているか」が見えにくいからです。会議場に100人が集まり議論すれば「発言した人は少数で、うち1人が極端な発言を繰り返していた」という実態が、誰の目にも明らかです。しかしネット上では、一握りの人が繰り返し書くのを見ることで「多くの人がそう考えている」という錯覚が起こります。
昨年の調査では、「外国人や少数民族の人たちは、平等の名のもとに過剰な要求をしている」という項目を初めて盛り込みました。「そう思う」と答えた人の割合は、一般利用者では9.7%でしたが、ネット右翼層では52.9%。「まあそう思う」も含めると、75.3%が「過剰な要求」と感じていたのです。
ここに表れている意識は、欧米で「現代的レイシズム(人種差別)」として注目されているものです。特定の人種について能力や品性が劣っているとみなすのが古典的レイシズムだとすれば、現代的レイシズムは「人種差別は改善されたのに、少数派は『平等』を掲げて不当に権利を要求している」と主張します。多数派である自分たちの権利が少数派によって踏みにじられている、と訴えるのです。
調査では、客観的な収入レベルより、「自分は恵まれていない」という主観的な意識の方が差別的言動につながる可能性も示唆されました。
LGBTに税金を投入していいのかと訴えた杉田水脈衆院議員の発言も、現代的な性差別の例です。LGBTは差別されていないと強調しつつ、支援する必要があるのかと訴える内容だからです。「不当な要求をする連中だ」というまなざしは、容易に「我々の敵だ」という認定に転じます。
1%の言動に注意は必要ですが、新聞やテレビ、雑誌がそれを過剰に意識しすぎないことも大事だと思います。 (聞き手 編集委員・塩倉裕)

ネットユーザーに対する調査をどういう手法でされたのか、ここでは分からないけれど、いちおう統計的に有為なデータをもとに出ている数字だとすれば、過激な発言をしている発信者は1%、しかしそれを継続して見て、しだいに排外主義的な考えがかなり有力な世論となっていると思い込む受容者も6%くらいはいる、という結果をどう考えるか。大手出版社の発行する論壇誌なら、常識的な判断力や知識を持つ人の目にも触れるから、『新潮45』のような批判も起こるが、ネット空間は同質的な人間の同好会になりやすいから、そこでどんな変なことを言っていても、批判には晒されないで熟成してしまう。

「真実」が主観で争われる:社会学者 倉橋耕平さん
日本によるアジア侵略の否定など、歴史修正主義を中心とする右派の言説は、1990年代以降、雑誌を舞台に広まりました。インターネットの普及が社会の右傾化を招いたとよく語られますが、技術が現状を作り上げたわけではありません。ネットはこのような言説を多くの人々の目に触れさせ、瞬時に拡散させているに過ぎないのです。
91年にソ連が崩壊すると、右派メディアは攻撃の対象を中国や韓国、北朝鮮に向けるようになりました。それと同時に、雑誌のつくり方も変えていきました。
月刊「正論」は、投稿コーナーを拡充し部数を伸ばしました。漫画家小林よしのり氏の「ゴーマニズム宣言」も、「慰安婦」問題などで読者の意見を募る読者参加型としました。「メディア知識人」とも呼ぶべき執筆者たちは、大学教授であっても、多くは歴史家ではありません。
 つまりそこは「真実」が主観で争われる世界であって、歴史学などの学術的方法論や手続きにのっとった場ではありません。歴史修正主義者の活動は「真実」の探求ではなく、むしろ右派イデオロギーの発露であると言えます。
日本の書籍・雑誌の売り上げは96年をピークに以後、落ち込みます。こうした中、「歴史」を取り上げた右派雑誌は救世主でした。売れればいい、という商業主義の中で存在感を高めたと言えます。
「新潮45」の休刊を「言論弾圧だ」と主張する人がいますが、それは違います。今回の内容には、小説家や新潮社内の編集者らも強く批判しました。権力が介入したわけではなく、自浄作用が起きたのです。これ以上、差別の言論を流通させないよう、対策が講じられたと考えるべきでしょう。これは言論界の良心的な態度だったと思います。
理想を言えば、いきなり休刊するのではなく、なぜあのような原稿を載せたのかを検証し、杉田水脈衆院議員の主張についても、賛否を論じ合えばよかったと思います。しかし今回の編集部にそれができたかは、大いに問題です。
極端な主張を載せ、センセーションを巻き起こして部数を伸ばす。差別を売り物にして排外主義をあおる。最近では伝統ある大手出版社までも、韓国や中国をののしる本を出すようになりました。出版環境がますます厳しくなる中、こうした「炎上」と「批判」の循環を「商品」にする環境が続いてしまうこと自体を問題化しなくてはいけません。
正確な知識に基づかない主張や特定の属性への憎悪の言葉を広げることは、差別に加担することに他なりません。こうした媒体は買わない、アクセスしない、執筆しない、広告を出さない。今回の騒動は、「不買運動」も有効な手であることを教えてくれました。(聞き手・桜井泉)」朝日新聞2018年10月24日朝刊15面オピニオン欄。

 安酒に酔って騒いでいる人たちに、良識とか常識とか言っても通じないとしても、大手メディアがこういうおかしな言論を載せたら売れなくなると思えば、ヘイト言論の表面化、世論化は防げるかもしれない。でも、ネット内の憎悪にみちた悪態は、そこに飛び込んで根拠のたしかな反論をするしかない。でも、これは相当面倒で報われない努力なので、あえてそれをする人は少ないだろうし、たまにそういう真面目な書き込みをしている人をみると偉いなあ、と思う。
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「絵を読む」5 レオナルドの時代..軍縮から軍拡へ?

2018-10-22 21:19:56 | 日記
A.フィレンツェの天才バトル
 イタリア・ルネッサンスの代表的画家といえば、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)がまずあげられ、代表的彫刻家といえばミケランジェロ・ブオナロッテイ(1475-1564)があげられる。この二人は23歳ほど歳の開きがあるが、16世紀の初めの数年間、フィレンツェという町でそれぞれの制作活動をしていた。20代の闘志に燃える新進作家ミケランジェロは、すでに巨匠とされていたレオナルドを旧世代の衰えた老人扱いしたといわれ、レオナルドは若い芸術家に対抗意識をむき出しにして仕事をしたようだ。ヴァザーリなどの記録をもとにレオナルドの一生をドラマ仕立てにしたイタリア製のテレビシリーズ『レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯』が、日本でNHKによって放映されたのは1972年だった。イタリア放送協会の制作で、当時の建物や服装などを復元した再現ドラマのなかに、現代のスーツを着た解説者が登場して観客に説明する独自のスタイルは、当時ぼくも非常に印象深く見ていた。
 レオナルドもミケランジェロも後世の専業化した画家や彫刻家という枠をはるかに超えて、建物や都市の設計、武器や城塞など戦争の道具を開発し、とくにレオナルドはさまざまな対象を研究し発明をして後の自然科学者や発明家の先駆けともいえる仕事をした。たとえば人体の探求としての解剖を自ら繰り返し、飽くことがなかった。

 「裸体が存分に振舞う姿勢や身振りを、十分に描くことのできる画家に不可欠のことといえば、神経、骨、筋肉および腱の解剖学に精通することである。すなわち、いろいろな運動、筋肉の表現において、どの神経、どの筋肉がその運動の原因であるかに精通し、それらの部位だけを突出させ、あるいは拡大して示しても、全体的に他の部位には及ぼさないほうがいい。多くの画家がそれを全体に及ぼしているのは、粗描の大家を装って、裸体を材木のごとくに表し、優美さを失い、そのために一見してそれは人体の表皮を見るというより、むしろクルミをいれた袋を見るときのように、あるいは裸体の筋肉というより、むしろ蕪の束を見る思いがするであろう。(カルロ・ペドレッティ「ウルビーノのレオナルドと『絵画の書』」加藤球磨枝訳、『ユリイカ』2007.3)

 15~16世紀のイタリアは、小さな領邦国家や都市共和国などに分かれていて、戦乱と不安定な政治が常態化していた。日本の戦国時代にも比せられるが、フィレンツェ近郊のヴィンチ村に生れたレオナルドは、メディチ家の支配するフィレンツェに出てベロッキオの工房で修業し、やがて独り立ちしてミラノに行って「最後の晩餐」など多くの作品を描き、ミラノがフランス軍に占領されると難を避けてベネツィア、ローマなどと移動してフィレンツェに戻った。

 「1498年フィレンツェにおいて、ドミニコ会修道士であったジローラモ・サヴォナローラが絞首刑のあと火刑に処せられる。かれはメディチ家支配を打ち倒して共和制となったフィレンツェの政治顧問として神権政治を行うが、人文主義的な虚栄を断罪して、絵画などを「焼却」するセレモニーを実施。最後には反対派の反発を招いて、共和国によって自らが火に投ぜられる。ボッティチェリはこのサヴォナローラにきわめて近いところにいたことになっている。実際、かれは、その後はキリスト教的神秘主義の傾向を強め、きわめて特異な絵画作品《神秘の降誕》(1501年)を残しているが、零落の晩年を送ったらしい。
 この「火」に対するもうひとつの「火」。
 1600年今度はローマにおいて、ドミニコ会修道士でもあったが、コペルニクスの地動説を支持するなど、新プラトン主義と自然哲学とを融合した新しい宇宙論を展開した哲学者のジョルダーノ・ブルーノが異端審問の結果、火刑に処せられる。
 16世紀という「危機」の時代は、この二つの「火」の境界によって区切られています。火の方向はかならずしも同じではないが、ここでは、観念的には「神」、社会的には法王を中心とするこれまでの宗教的な秩序と、観念的には「人間」を中心とする「自然」の秩序とが真っ向から対抗し、ほとんど全面戦争の状態を呈していることが確かめられればよいでしょう。自然世界を知的に理解することがどれほど危険でもあったか、また、その危険が芸術の表現として決して無関係ではないということを理解しなければなりません。
 個の全面的な「危機」に対して、芸術の側からの最初のマニフェストは、もちろん「人間」の「自然」としての「肉体」でした。「歴史」は、ときおりみずからのダイナミズムの驚くべきイコンを残さないではいない。16世紀の幕があがるや否や、フィレンツェの共和政のシンボルとしてあの若々しい、巨大な大理石の《ダヴィデ》像が立ち上がってくるということに、われわれはいささか感動しないわけにはいかないのです(制作の契約は1501年、歓声は04年)。ミケランジェロ・ブオナローティ(1475-1564年)、わずか25歳の作品です。」小林康夫『絵画の冒険 表象文化論講義』東京大学出版会、2016.p.51. 

 ミケランジェロの《ダヴィデ》像は、7mもある大理石の立像で、これをどこに置くかを決めるための会議まで開かれた。芸術と政治という問題も、レオナルドがミラノ公に自分を売り込むのに画家ではなく軍備戦争技術者として役に立てると言ったように、君主の総合アドヴァイザー的な役割を彼らは担っていた。そして政治はついにこのレオナルドとミケランジェロをひとつの建物の中で、勝負させようとした。

「1503年、フィレンツェの共和国は、レオナルドに政庁舎に建築中の大評議会室(「500人の間」)の一面の壁に、フィレンツェがミラノと戦った1440年のアンギアーリの戦闘場面を描くように委嘱。翌1504年、共和国はミケランジェロに同じホールの反対側の壁に今度は、1364年のピサとのカッシーナの戦いの場面を描くように委嘱。こうして50代のレオナルドと20代のミケランジェロのあいだに「二つの戦いの戦い」がセットされる。だが、この両者とも最終的には、作品が残らない。レオナルドの作品のほうは、1505年末に使用した亜麻仁油のせいで修復不能なほどダメージを受ける。また、ミケランジェロは壁一面の下絵を完成しただけで法王の呼び出しを受けてローマに旅立つ。セルジュ・ブランリの記述によれば、「ミケランジェロの下絵とレオナルドの絵の無傷な部分とは、それぞれ法王の間と大評議会室とに長いあいだ展示されることになる。(‥‥‥)『二つの戦いの戦い』が予告されるやいなや、これらの作品から教えを得ようと、イタリア中の工房から美術家たちがフィレンツェに押し寄せた」という。だが、ミケランジェロの下絵は1512年の暴動のなかで破壊され、レオナルドの壁画の残りも、1560年頃、その上にヴァザーリによる別の戦争画が描かれて覆われることになった。《アンギアーリの戦い》については、ピーテル・パウル・ルーベンス(1577-1640年)がそのカルトン(原寸大粗描)を模写したものが残っていますが、一目見ただけでは何人の兵士と何頭の馬が描かれているのかが見分けがつかないほど一体となった戦闘場面、もはや人間的なものを超えて、ほとんど不気味な怪物的残酷さそのものと化した光景です。また《カッシーナの戦い》については、さいわいミケランジェロの部分的なデッサンが残っているが、そこではすでに水浴中に敵に襲われて、上半身を後方に「捻じって」いる戦士の姿が描かれています。
 だが、原作は決定的に失われてしまいました。16世紀の幕があき、とりあえずのこととしては「ルネッサンス」と呼ばれてもよい絵画表象を「人間」と「自然」の秩序のもとに組み替える長いあいだの継続的な努力が完成したその瞬間に、しかしその表象空間の安定性は、一挙に、「力」と「運動」の方へと突き動かされる。16世紀の最初の数年間にその後の絵画の運命を決定するような力戦がくっきりと痕跡を残しているのです。」小林康夫『絵画の冒険 表象文化論講義』東京大学出版会、2016.pp.56-57.

 もしレオナルドが通常のテンペラやフレスコ画で描いていれば、「アンギアーリの戦い」は「最期の晩餐」のように後世に残っていただろうし、ミケランジェロがローマ法王に呼び出されていなければ「カッシーナの戦い」は完成されていただろう、そして20世紀にそれは世界の名作が並ぶイタリア最高の文化財観光地となっていたはずだ、などといってもそれは後の祭りだ。だが、芸術作品の価値など、その時代に生きていた人たちには実はよく分っていない、ということでもある。音楽は譜面で残り、文学は文字で残るが、美術作品はどこかへ運べる板やキャンバスに描いた絵なら持ち運んで人に見せられるが、建物の壁に描いた絵は、動かせないから都合が悪い。
 美術品は保存が悪いと劣化して、もとの輝きは失われる。そうでなくても、権力交替や戦争が当たり前の時代は、サヴォナローラのように美術や彫刻を敵視して「焼いてしまえ」という権力者が現れると、せっかくの作品は地上から消えてしまう。デジタル画像情報として保存される現代美術は、そういう意味では現物が失われても再現できるかもしれないし、コピーもいくらでもできる。これだけは進歩したが、逆に唯一の文化財の価値も変わってしまったのかもしれない。



B.軍縮から軍拡へ
 かつて「軍縮の時代」があった。第1次世界大戦後の世界は、疲弊したヨーロッパをいかに再建するか、国際聯盟を作り新たな秩序構築を目指した。短い平和と安定の後、さらに1929年の世界大恐慌は、各国の経済に打撃を与え軍備に予算を費やす余裕などなくなった。ロンドン、ワシントン、ジュネーヴなどで軍縮のための国際会議が開かれ、英仏米独日などは海軍のリニューアルに伴う軍艦の保有比率を決め、条約を結んで軍備予算を抑えた。日露戦争後、順調な成長を歩んだ日本も先進国入りして、陸海軍の拡大より国内産業の充実に関心が向いていた大正時代、軍人はあまり若者に人気のある仕事ではなかったという話もある。軍備にはお金がかかり、限られた予算を何に使うかを決めるのは政治家、そして政治家の背後にある国民世論である。昭和も始めの頃は、国際協調と軍縮という方向は、表立って反対しにくい雰囲気がまだ残っていた。しかし、1931年柳条湖事件からはじまる満洲建国、さらに1937年盧溝橋事件からはじまる日中戦争で、戦争はどんどん拡大し、軍縮路線は排され軍国主義が力を得る時代になった。転換点といえば、1930(昭和5)年はひとつの目安だろう。
 トランプ大統領が中距離核全廃条約を破棄すると表明した。有力な核保有国の間の話し合いで核兵器をやめていくというこれまでの合意は、座礁し各国が思いのままに軍拡をすすめることもあり、という状況は、軍縮から軍拡へという大きな転換点になるかもしれない。

 「米、中距離核全廃 破棄へ:「ロシアが条約違反」主張
 トランプ米大統領は20日、訪問先の米ネバダ州で記者団に対し、冷戦時代に米国と旧ソ連が核軍縮を念頭に結んだ中距離核戦力(INF)全廃条約を破棄する方針を表明した。トランプ氏はロシアが条約に違反していると指摘した。ロシアなどから強い反発が出ており、軍拡競争が加速する恐れがある。
 トランプ氏は同日、「ロシアは長年、条約違反をしてきた。我々は合意を破棄する」と明言した。ボルトン米大統領補佐官(国家安全保障担当)が近くロシアを訪問し、トランプ氏の意向を伝える見通しだ。
 条約で禁止された核弾頭も搭載可能な地上発射型の中距離ミサイルについて、トランプ氏は「我々はこれらの兵器の開発をしなければならない」と強調した。
 1987年に結ばれたINF全廃条約をめぐって、米国は近年、ロシアが条約で禁止された兵器を開発していると批判。さらに中国が条約に加わっておらず、自由に開発を続けていることを問題視してきた。トランプ米政権は今年2月に発表した核政策の指針「核戦略見直し(NPR)」の中で、「米国が核兵器を削減する一方、ロシアや中国は逆の方向に向かっている」と強い不満を表明。トランプ氏は20日、「ロシアと中国が(INF全廃条約で禁止された)兵器開発をするならば、我々は合意の順守を受け入れられない」と語った。
 トランプ政権が条約の破棄によって目指すのが、新たな兵器開発だ。米誌ニューヨーク・タイムズ(電子版)は19日、国防総省は核兵器の開発に着手していると伝えた。
 米国が米ソ間の軍縮条約を破棄するのは、2002年にブッシュ政権が弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約から脱退して以来となる。(ワシントン=園田耕司)」朝日新聞10月22日朝刊1面。
 
「【解説】競合する大国 敵視:トランプ政権によるINF破棄表明は、「核なき世界」を目指したオバマ前政権からの方針転換にとどまらない。冷戦期再来のような軍拡競争の「歯止め」が利かなくなる恐れもある。
 87年に当時のレーガン米大統領とソ連のゴルバチョフ書記長が結んだINFは「冷戦終結のきっかけとなった極めて重要な条約」だ。米ロだけでなく、核搭載可能な中距離ミサイルを保有するインド、中国、イランをも巻き込んだ多国間条約に発展させようとの機運もあった。
 オバマ前政権はロシアのINF違反を批判しつつも、話し合いで妥協点を探ろうとしたが、トランプ政権は「核戦略見直し(NPR)」で、ロシアや中国といった競合する大国を敵視する方針に転じている。
 米ロは、戦略核弾頭や運搬手段の総数の上限を定めた新START(新戦略兵器削減条約)の期限(21年)延長交渉も控える。
 ロシア側は5年の延長に応じる姿勢だったが、米国がINF破棄を表明したことで態度を硬化させるのは必至で、先行きは見通せなくなった。(核と人類取材センター・田中井雅人)」朝日新聞10月22日朝刊2面総合欄。   

 戦前の軍縮は、軍艦や師団数の削減のような軍事予算や装備の合理化でもあったが、核はまだなかった。核兵器を基幹とする現代の軍縮は、最終的に核兵器を廃絶するという目標を設定した。北朝鮮のような小国でも核開発ができるとすると、技術以前に国家本位の国際政治に核への誘惑を断ち切る思想が必要であり、もしトランプやプーチンが相互不信で軍拡に戻ろうとすれば、地球上でとりかえしのつかない破壊に接近する。世界がそういう愚かな方向に向かっているのなら、恐ろしい。
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