A.バロックの到達点
フーコーやデリダといったフランスの現代思想がひとつの流行となって、日本の頭のよさを競いたい若い学生にとり憑いたのは1980年代だったと思う。その前はもっぱらマルクス主義、それもソ連や中国の教条的マルクシズムではなく、それを「人間的」に批判した「新左翼」になんとなく共感したような気になっていた連中が、これからはこっちのほうがスマートでカッコよさそうだと「ディコンストラクシオン」とか「ディスクール」とか、フランス語を得意そうにしゃべりだした。それはそれで構わないとぼくは思ったが、フランスの現代思想には英語やドイツ語文献にはあまりないくせのある高等的というか衒学的な形容詞をちりばめた文体があり、それをさらに翻訳する人びとが輪をかけて言葉を飾るのが好きな人たちだったので、むやみに詩的な修飾をほどこした文章を書き、慣れていないと何がいいたいのかわからなくなる。
フランスの哲学はパスカル、デカルト以来、明晰さを至上のものとして書かれたが、同時に論理だけでなくきらきらした色あいを散りばめる「仏文的」文体も秘めていたと思う。ドイツ語の文献を苦労して読んでいたぼくは、そこがどうも抵抗があった。ドイツ語は一般に正確を期すために、次々と文節を連ね難解をもいとわず長い文を作るのだが、フランス語のほうは、読むものに飛翔するイメージを喚起するように、新しい形容詞を創り出して飾るために長くなる。レンブラントを語る次の文も、論旨の核は四行くらいで足りることも、延々比喩的表現を重ねる。
「これらの男たち、これらの女たちは、夜というものを識ったのであり、われらのほうに、より稠密な媒質によって、押し返されたというよりは押し留められて、立ち帰って来る。記憶に借りてきた光にどっぷりと浸った彼らは、彼ら自身を自覚するに至ったのである。彼らが今姿を現したのは、そこに、つまり自然の臓腑の底と同じく芸術家の心のなかに生産と再生産の力が眠っているほかならぬその場所に、反響を呼び覚ますためなのである。虚無へと向かう道の途中で、彼らは振りかえったのだ。(……)レンブラントの油彩画や銅版画から立ち昇るあの極めて特殊な雰囲気もそこに由来する。すなわち、あの夢の雰囲気、何かしら夢現の境に沈み、閉じ込められ、沈黙したもの、言わば夜の腐食、夜と葛藤し、われらの見ている前で、涯限もなくその腐食作用を続けているような一種の精神的な酸度とも言うべきものである。この偉大なオランダ画家の芸術は、もはや、直接的な世界の丹念な肯定、現実の領域への想像力の侵入、われらの五官に差し出された祝祭、一瞬の歓喜と色彩の永続化などではない。それはもはや、見つめるべき現在時ではなく、追想することへの招待である。言わば、画家は、彼自身が後になって表層と直接的な世界の彼方へと企てる旅において、彼のモデルの仕草、態度、隣人との間に結ぶ調停などの一つ一つに付き従っていくのであり、その旅は、涯限もなく先へと延びて、その終わるところは、輪郭であるよりは振動であるような旅なのである。」 (ポール・クローデル『オランダ絵画序説』渡邊守章訳、朝日出版社1980年)
こういう文章は魅力があるので、一度入り込むと伝染してくる。小林氏の文章も、これほどではないがしばしば言葉が言葉を呼んで飛び回るようなところがある。ただ、論理と論旨は外すことはない。
「17世紀がまさに光学の時代であったことが一目瞭然。すなわち、光というものが、たとえば神学的、神話的な一切の文化的、メタファー的な表象を離れて、それそのもの、つまり物理的実体として理解されようとしていたわけです。そして重力、力についても、あるいは熱についても、同様な事態が進行していた。もちろん、このようなことがある時点で一挙に成立したなどということはないのですが、一言で言えば、自然科学またそれと相補的な関係にある科学技術がこの時代に実証的な普遍性という基準に依拠したまったく新しい確固たる世界観を形成しつつあったということをよく理解しておかなければなりません。これは決定的に重要です。われわれが現在生きている世界はこの時代を通してはっきりと姿を現してきた「科学革命」に基礎を置いていると言うことができるからです。そして、絵画という世界の表象にもっとも直接にかかわる(これこそ「絵画」の本質的な規定です)活動はこの革命とはけっして無関係であることはできない。そこに絵画というジャンルの奥深さがあるわけです。
であれば、絵画と光学とのこの密接な関係を端的に呈示してくれるのが、カメラ・オブスキュラ(camera obscura)と呼ばれた光学装置ということになるのは当然かもしれません。真っ暗な部屋の一方の壁にピン・ホールをあけると、それを通して入ってきた光が反対側の壁に外の光景の上下逆転したイメージを結ぶというもの。その最初の図が、日食の観測という事例ですが、オランダの数学者で天文学者であったライネルス・ヘンマ・フリシウスの書物『天文学と地理学の基本』(1558年)に載っていると言われている。」小林康夫『絵画の冒険 表象文化論講義』東京大学出版会、pp.96-97.
このあと、カメラ・オブスキュラを使ったと思われるフェルメールの絵の読み解きにいって、最後にやっとレンブラントにくるが、その最高傑作といわれる「夜警」は「迂回」して、あまり知られていない作品でバロックの到達点について解説している。
「だから、ここではあえて《夜警》(1642年)を迂回して、別の作品を一瞥しておくことにしましょう。
実は、これは、(私事になりますが)最近たまたま立ち寄ったダブリンの美術館で、不意打ちのようにわたしをその前に釘付けとさせた作品《エジプト逃避途上の休息》(1647年)なのです。
主題はもちろん聖書から採られている。だが、ここでも聖書に送り返して読解するべき要素は何もありません。マリアもヨセフも幼児イエスの顔もはっきりとは見えるわけではない。エジプトへの逃避行の一夜、川岸の崖の下、羊飼いの少年が熾した焚き火の傍らで身を寄せ合って休息している聖家族、それを「鏡」のような水を隔てた遠くから見ている絵画の眼差し。焚き火には羊や牛も集まってきていて、さらには奥へと続く道には別の動物の群れを率いる男の姿も見え、カンテラの明かりがかすかに灯っている。遠くの丘の上には廃墟だろうか、城の輪郭が浮かんでおり、彼方には、渦巻く雲のあいだから月光が差し込むのだろう、薄らと光を放つ夜空が拡がっているという風景。
挿し込む月光と焚火の明かり――わたしがコメントする必要はないでしょう。冒頭に掲げた詩人ポール・クローデルの詩的なテクストを静かに読み返すだけでいいのではないでしょうか。絵画はもはや「バロックの館」、その「カメラ」のなかにはとどまってはいない。それは「バロック」というものがもつ「ヴィジョン」の力を広大なコスミックな次元において展開していると言うべきなのだと思います。
美術史家は、この作品が17世紀初頭の別の画家アダム・エルスハイマーの油彩銅版画の意匠を引き継いでいることを指摘しています。確かに月光も焚き火も川面の反映も共通している。しかしエルスハイマーの作品が畢竟、夜の光景のなかの聖家族の表象にとどまるのに対して、レンブラントの作品は、もはやそれがどこで、そこに誰が「休息」しているのかはどうでもよい。ただ広大な空間のもとで身を寄せ合う「生」の集まりがあり、その「生」の煌めきが、いま、絵の具という夜の物質となって波打ちながら周囲の空間へと拡がっていく、その幽き、そして愛おしき波動そのものがそこにあるという次元へと到達しているとわたしには思われる。宇宙のなかの人間の生、そう、絵画はとうとう人間という存在の明証へと到達するのです。
では、レンブラントなら、われわれが「バロックの館」の二つの階層に住み込ませたあの「若い女」をどのように描いたでしょうか? そんな不躾な架空の問いへの答えになると思われるのが、やはり聖書の題材(「スザンナ」)を描いたものであると同時に、画家の当時の内縁の妻であったヘンドリッキュの姿とも言われている《水浴する女》(1654年)。ほとんど荒々しいと言っていいような筆のタッチからどんな繊細な感覚が立ち昇ってくるか――「腐食する夜」のなか静かに水に身体を沈めていこうとしている女の姿には、もはや「愉悦」あるいは「悔悛」というような「強い意味」には還元できない、しかし紛れもない「生」の実質としての「振動」が波打ち、響いているようではありませんか。
光は、そう、単に粒子であるだけではなく、波動でもある、とこの時代の「光学」は後に告げることになることを思い出しておかなければなりません。
レンブラントほど自画像を描いた画家はいないでしょう。若い時から死の直前までかれはみずからの姿を描き続けた。もはやコメントを加える余裕はありませんが、この講義を貫く密かな通奏低音のならわしに従って、ここでもその膨大な自画像のなかから、その最後の作品を掲げておくだけにします。生を見続けた画家が人生の最後に見たみずからの生の姿です。
最後に一言付け加えておきたいことがあります。フェルメールやレンブラントの生涯について書かれたものを読んでいると、経済的な事柄が重要なファクターとして浮かび上がってくる。両者ともただ絵を描くだけではなく、みずから絵を買ったり、絵に投資したりしていることがわかります。それゆえに破産したりもする。すなわち、絶対王政に仕えたベラスケスのような画家とは異なってかれらは、市場の原理のなかに生きているのです。しかもその市場はオランダ共和国の体制のもとで世界大の交易とも密接に結びついていました。この時代、冒頭に指摘したように自然科学の確立があり、それと同時に、現在のわれわれの生存の条件にもつながる資本主義的な市場原理も発展してきている。そして絵画はその両者ともけっして無関係ではなかった。ミシェル・フーコー流に言うなら、そうした大変動のなかから、理念としての「人間」が生まれてこようとしていたわけです。そして、絵画は何よりもその「人間」の存在そのものに眼差しをむけたのです。」小林康夫『絵画の冒険 表象文化論講義』東京大学出版会、pp.103-106.
17世紀はオランダの世紀ともいえるほど、この小さな共和国が世界中に交易網を広げ、多くの富を集めた。ある時代に最も経済的に成功した国には、必ずと言っていいほどその時代精神を体現した優れたアートとアーティストが出現する、というのがぼくの仮説なのだが、レンブラントはまさにその実例といってもいいと思う。
B.持続可能な農業・地方再生の希望
江戸時代は米を基幹産業とした農業社会の秩序を維持して、全国諸地域は分権的な農村共同体の自立性を経済的というより思想的に大事にしていたと思う。しかし、江戸時代の中盤以降、商業資本が成長しコメを基盤とする各藩の財政は疲弊し、開国による幕藩制の解体と再編で富国強兵路線を走りだした明治国家は、それでも農林漁業を国民の生活基盤として保護育成しようとして、第二次大戦後まで農業に従事する人口は一定程度維持され、米作農家への保護は保守政党の政治基盤でもあった。しかし、都市化工業化を推進力とした高度経済成長は第1次産業の衰退を招き、農業の後継者は激減し、地方はじわじわと衰弱し、いまや人口減少と高齢化で日本の地方には希望はない、という見方は“常識”として語られる。しかし、現実の方がすでに変わりつつあるのかもしれない。
「波聞風問:持続可能な農業 若者が採用枠に集まる意味は 編集委員 多賀谷克彦
就職活動ルールの是非論が飛び交うなか、来春春に就職する学生の就活が山場を越えた。さて、今年の応募状況はどうだっただろうか、と前から気になる企業があった。
イオングループの農業法人イオンアグリ創造(千葉市)である。全国21か所の直営農場を運営する。本社を含む社員は約650人、平均年齢は30歳前後と若い。100人以上が働く大農場もある。
2014年に定期採用を始め、15年には大卒の採用に踏み切った。この年、驚いたのは採用担当者だけではない。グループ幹部も「本当か」と数字を疑った。数十人の採用枠に4千人もの応募があり、倍率はイオングループで最高の約100倍に達したのだ。
翌年からは採用枠を絞り、説明会場を減らしたが、1500人規模の応募が続いた。急に農場を広げたり、増やしたりすることも難しく、今年は採用枠を1桁台にしたが、応募者は500人に上った。
この数字は何を意味するのか。15年の農業就労人口は半世紀前の6分の1の210万人、60歳以上が8割を占めるまでになり、持続可能性が問われている。
だとすれば、この現象は家業の農業を継ぐ人材は少なくても、働く条件を整えれば、農業に従事したいという人材は少なからずいるということではないか。その条件とは何か。例えば、新規就業者の実態調査では、ほぼ半数が課題として挙げたのが「所得の少なさ」であり「休暇取得の難しさ」だった。
労働基準法では、仕事が天候に左右される農林漁業者には、労働時間、休憩、休日に関する規定が除外される。つまり、農業法人でも一般企業のような法定労働時間は適用されず、時間外給与は支払わなくてもいい。これでは彼らの将来不安は解消されない。
イオンアグリ創造はグループの就業規則を基本に、農業の実態にあう働き方を追求している。時間外給与の支給、出産・育児休業はもちろん、雨続きで農作業ができない日が続く週には休日を多くし、翌週以降に就業時間を振り替えるようにした。いまは年2回5日以上の連続休暇を取得しようと呼びかけている。
社長の福永庸明さんは「農業を産業化するのが我々の役目」という。
農業法人が一斉に一般企業並みの労働条件に改めるのは難しい。ただ、新鮮な農作物を食べ続けるために、食に携わる企業は若い人たちに魅力ある農業とは何かを追い続けるべきだろう。
イオン宇都宮農場でキャベツを担当する杉山啓祐さん(25)は学生時代、途上国でのボランティア活動で食糧の重要性を知り、農業を志したという。「小さな苗がキャベツに育つ喜び。収益も見える化されているのでやりがいもある」と話す。
若い人たちは職業としての農業に魅力を感じていない。まずは、この定説から疑ってもいいのではないか。」朝日新聞2018年10月30日朝刊7面経済欄。
いま衰弱しつつあるのはかつて経済成長をけん引した第2次産業で、IT化や情報化による再生が必要だといわれながら、大学生の就職はモノ作りの製造業ではなく玉石混交の第3次産業に向いている、と思われていた。しかし、見捨てられたような地方と農業こそ、条件さえ整えればこれまでとは質の違った希望に満ちた働き方ができるかもしれない、という可能性が語られるようになりつつある。
「新庄南高金山校で講演「都会より金山」
「里山資本主義」の著者で知られる藻谷浩介・日本総合研究所主席研究員が27日、金山町の新庄南高校金山校の創立70周年の記念行事で講演した。さまざまな統計から「金山町では後期高齢者は減少し始めていて、高齢者福祉に代わって子育て支援に予算を回せるようになる」と予測。高校生たちに対し、金山で過ごすことで見える未来への希望を説いた。
藻谷さんは講演で「多くの大人たちが『東大に行けば100%就職できる、日本で犯罪は増えている、田舎には仕事がない』と信じているが、どれも事実ではない」と指摘した。仙台や東京の人口が増えていることについても、「都会で増えているのは75歳以上で、現役世代は減っている。仙台や東京で就職すると、あなたの払う税金は、保育所よりも高齢者福祉のために使われるだろう」と語った。
金山町については、高齢化など「東京の20年後」を先取りしているとしつつ、「70歳を過ぎても田んぼや畑、山で働くことができ、高齢者の生活保護も少ない。これから高齢者福祉に使うお金が頭打ちになる分、子育て対策に支出できるようになる」と話した。」朝日新聞2018年10月30日朝刊、24面第2山形欄。
しかし、これにはもう少し時間がかかるのも確かだと思う。高齢化はあと20年くらいは進行する。外国人労働者を大量に導入するか、高齢者への福祉予算を大きく削るかしない限り、産業の構造転換は簡単には進まない。しかし、だからこそすでに高齢社会の先が見えている地方の方が、若者を疲弊させ使い捨てる大都市より大きな可能性があるという考えは、根拠のない嘘ではないだろう。
フーコーやデリダといったフランスの現代思想がひとつの流行となって、日本の頭のよさを競いたい若い学生にとり憑いたのは1980年代だったと思う。その前はもっぱらマルクス主義、それもソ連や中国の教条的マルクシズムではなく、それを「人間的」に批判した「新左翼」になんとなく共感したような気になっていた連中が、これからはこっちのほうがスマートでカッコよさそうだと「ディコンストラクシオン」とか「ディスクール」とか、フランス語を得意そうにしゃべりだした。それはそれで構わないとぼくは思ったが、フランスの現代思想には英語やドイツ語文献にはあまりないくせのある高等的というか衒学的な形容詞をちりばめた文体があり、それをさらに翻訳する人びとが輪をかけて言葉を飾るのが好きな人たちだったので、むやみに詩的な修飾をほどこした文章を書き、慣れていないと何がいいたいのかわからなくなる。
フランスの哲学はパスカル、デカルト以来、明晰さを至上のものとして書かれたが、同時に論理だけでなくきらきらした色あいを散りばめる「仏文的」文体も秘めていたと思う。ドイツ語の文献を苦労して読んでいたぼくは、そこがどうも抵抗があった。ドイツ語は一般に正確を期すために、次々と文節を連ね難解をもいとわず長い文を作るのだが、フランス語のほうは、読むものに飛翔するイメージを喚起するように、新しい形容詞を創り出して飾るために長くなる。レンブラントを語る次の文も、論旨の核は四行くらいで足りることも、延々比喩的表現を重ねる。
「これらの男たち、これらの女たちは、夜というものを識ったのであり、われらのほうに、より稠密な媒質によって、押し返されたというよりは押し留められて、立ち帰って来る。記憶に借りてきた光にどっぷりと浸った彼らは、彼ら自身を自覚するに至ったのである。彼らが今姿を現したのは、そこに、つまり自然の臓腑の底と同じく芸術家の心のなかに生産と再生産の力が眠っているほかならぬその場所に、反響を呼び覚ますためなのである。虚無へと向かう道の途中で、彼らは振りかえったのだ。(……)レンブラントの油彩画や銅版画から立ち昇るあの極めて特殊な雰囲気もそこに由来する。すなわち、あの夢の雰囲気、何かしら夢現の境に沈み、閉じ込められ、沈黙したもの、言わば夜の腐食、夜と葛藤し、われらの見ている前で、涯限もなくその腐食作用を続けているような一種の精神的な酸度とも言うべきものである。この偉大なオランダ画家の芸術は、もはや、直接的な世界の丹念な肯定、現実の領域への想像力の侵入、われらの五官に差し出された祝祭、一瞬の歓喜と色彩の永続化などではない。それはもはや、見つめるべき現在時ではなく、追想することへの招待である。言わば、画家は、彼自身が後になって表層と直接的な世界の彼方へと企てる旅において、彼のモデルの仕草、態度、隣人との間に結ぶ調停などの一つ一つに付き従っていくのであり、その旅は、涯限もなく先へと延びて、その終わるところは、輪郭であるよりは振動であるような旅なのである。」 (ポール・クローデル『オランダ絵画序説』渡邊守章訳、朝日出版社1980年)
こういう文章は魅力があるので、一度入り込むと伝染してくる。小林氏の文章も、これほどではないがしばしば言葉が言葉を呼んで飛び回るようなところがある。ただ、論理と論旨は外すことはない。
「17世紀がまさに光学の時代であったことが一目瞭然。すなわち、光というものが、たとえば神学的、神話的な一切の文化的、メタファー的な表象を離れて、それそのもの、つまり物理的実体として理解されようとしていたわけです。そして重力、力についても、あるいは熱についても、同様な事態が進行していた。もちろん、このようなことがある時点で一挙に成立したなどということはないのですが、一言で言えば、自然科学またそれと相補的な関係にある科学技術がこの時代に実証的な普遍性という基準に依拠したまったく新しい確固たる世界観を形成しつつあったということをよく理解しておかなければなりません。これは決定的に重要です。われわれが現在生きている世界はこの時代を通してはっきりと姿を現してきた「科学革命」に基礎を置いていると言うことができるからです。そして、絵画という世界の表象にもっとも直接にかかわる(これこそ「絵画」の本質的な規定です)活動はこの革命とはけっして無関係であることはできない。そこに絵画というジャンルの奥深さがあるわけです。
であれば、絵画と光学とのこの密接な関係を端的に呈示してくれるのが、カメラ・オブスキュラ(camera obscura)と呼ばれた光学装置ということになるのは当然かもしれません。真っ暗な部屋の一方の壁にピン・ホールをあけると、それを通して入ってきた光が反対側の壁に外の光景の上下逆転したイメージを結ぶというもの。その最初の図が、日食の観測という事例ですが、オランダの数学者で天文学者であったライネルス・ヘンマ・フリシウスの書物『天文学と地理学の基本』(1558年)に載っていると言われている。」小林康夫『絵画の冒険 表象文化論講義』東京大学出版会、pp.96-97.
このあと、カメラ・オブスキュラを使ったと思われるフェルメールの絵の読み解きにいって、最後にやっとレンブラントにくるが、その最高傑作といわれる「夜警」は「迂回」して、あまり知られていない作品でバロックの到達点について解説している。
「だから、ここではあえて《夜警》(1642年)を迂回して、別の作品を一瞥しておくことにしましょう。
実は、これは、(私事になりますが)最近たまたま立ち寄ったダブリンの美術館で、不意打ちのようにわたしをその前に釘付けとさせた作品《エジプト逃避途上の休息》(1647年)なのです。
主題はもちろん聖書から採られている。だが、ここでも聖書に送り返して読解するべき要素は何もありません。マリアもヨセフも幼児イエスの顔もはっきりとは見えるわけではない。エジプトへの逃避行の一夜、川岸の崖の下、羊飼いの少年が熾した焚き火の傍らで身を寄せ合って休息している聖家族、それを「鏡」のような水を隔てた遠くから見ている絵画の眼差し。焚き火には羊や牛も集まってきていて、さらには奥へと続く道には別の動物の群れを率いる男の姿も見え、カンテラの明かりがかすかに灯っている。遠くの丘の上には廃墟だろうか、城の輪郭が浮かんでおり、彼方には、渦巻く雲のあいだから月光が差し込むのだろう、薄らと光を放つ夜空が拡がっているという風景。
挿し込む月光と焚火の明かり――わたしがコメントする必要はないでしょう。冒頭に掲げた詩人ポール・クローデルの詩的なテクストを静かに読み返すだけでいいのではないでしょうか。絵画はもはや「バロックの館」、その「カメラ」のなかにはとどまってはいない。それは「バロック」というものがもつ「ヴィジョン」の力を広大なコスミックな次元において展開していると言うべきなのだと思います。
美術史家は、この作品が17世紀初頭の別の画家アダム・エルスハイマーの油彩銅版画の意匠を引き継いでいることを指摘しています。確かに月光も焚き火も川面の反映も共通している。しかしエルスハイマーの作品が畢竟、夜の光景のなかの聖家族の表象にとどまるのに対して、レンブラントの作品は、もはやそれがどこで、そこに誰が「休息」しているのかはどうでもよい。ただ広大な空間のもとで身を寄せ合う「生」の集まりがあり、その「生」の煌めきが、いま、絵の具という夜の物質となって波打ちながら周囲の空間へと拡がっていく、その幽き、そして愛おしき波動そのものがそこにあるという次元へと到達しているとわたしには思われる。宇宙のなかの人間の生、そう、絵画はとうとう人間という存在の明証へと到達するのです。
では、レンブラントなら、われわれが「バロックの館」の二つの階層に住み込ませたあの「若い女」をどのように描いたでしょうか? そんな不躾な架空の問いへの答えになると思われるのが、やはり聖書の題材(「スザンナ」)を描いたものであると同時に、画家の当時の内縁の妻であったヘンドリッキュの姿とも言われている《水浴する女》(1654年)。ほとんど荒々しいと言っていいような筆のタッチからどんな繊細な感覚が立ち昇ってくるか――「腐食する夜」のなか静かに水に身体を沈めていこうとしている女の姿には、もはや「愉悦」あるいは「悔悛」というような「強い意味」には還元できない、しかし紛れもない「生」の実質としての「振動」が波打ち、響いているようではありませんか。
光は、そう、単に粒子であるだけではなく、波動でもある、とこの時代の「光学」は後に告げることになることを思い出しておかなければなりません。
レンブラントほど自画像を描いた画家はいないでしょう。若い時から死の直前までかれはみずからの姿を描き続けた。もはやコメントを加える余裕はありませんが、この講義を貫く密かな通奏低音のならわしに従って、ここでもその膨大な自画像のなかから、その最後の作品を掲げておくだけにします。生を見続けた画家が人生の最後に見たみずからの生の姿です。
最後に一言付け加えておきたいことがあります。フェルメールやレンブラントの生涯について書かれたものを読んでいると、経済的な事柄が重要なファクターとして浮かび上がってくる。両者ともただ絵を描くだけではなく、みずから絵を買ったり、絵に投資したりしていることがわかります。それゆえに破産したりもする。すなわち、絶対王政に仕えたベラスケスのような画家とは異なってかれらは、市場の原理のなかに生きているのです。しかもその市場はオランダ共和国の体制のもとで世界大の交易とも密接に結びついていました。この時代、冒頭に指摘したように自然科学の確立があり、それと同時に、現在のわれわれの生存の条件にもつながる資本主義的な市場原理も発展してきている。そして絵画はその両者ともけっして無関係ではなかった。ミシェル・フーコー流に言うなら、そうした大変動のなかから、理念としての「人間」が生まれてこようとしていたわけです。そして、絵画は何よりもその「人間」の存在そのものに眼差しをむけたのです。」小林康夫『絵画の冒険 表象文化論講義』東京大学出版会、pp.103-106.
17世紀はオランダの世紀ともいえるほど、この小さな共和国が世界中に交易網を広げ、多くの富を集めた。ある時代に最も経済的に成功した国には、必ずと言っていいほどその時代精神を体現した優れたアートとアーティストが出現する、というのがぼくの仮説なのだが、レンブラントはまさにその実例といってもいいと思う。
B.持続可能な農業・地方再生の希望
江戸時代は米を基幹産業とした農業社会の秩序を維持して、全国諸地域は分権的な農村共同体の自立性を経済的というより思想的に大事にしていたと思う。しかし、江戸時代の中盤以降、商業資本が成長しコメを基盤とする各藩の財政は疲弊し、開国による幕藩制の解体と再編で富国強兵路線を走りだした明治国家は、それでも農林漁業を国民の生活基盤として保護育成しようとして、第二次大戦後まで農業に従事する人口は一定程度維持され、米作農家への保護は保守政党の政治基盤でもあった。しかし、都市化工業化を推進力とした高度経済成長は第1次産業の衰退を招き、農業の後継者は激減し、地方はじわじわと衰弱し、いまや人口減少と高齢化で日本の地方には希望はない、という見方は“常識”として語られる。しかし、現実の方がすでに変わりつつあるのかもしれない。
「波聞風問:持続可能な農業 若者が採用枠に集まる意味は 編集委員 多賀谷克彦
就職活動ルールの是非論が飛び交うなか、来春春に就職する学生の就活が山場を越えた。さて、今年の応募状況はどうだっただろうか、と前から気になる企業があった。
イオングループの農業法人イオンアグリ創造(千葉市)である。全国21か所の直営農場を運営する。本社を含む社員は約650人、平均年齢は30歳前後と若い。100人以上が働く大農場もある。
2014年に定期採用を始め、15年には大卒の採用に踏み切った。この年、驚いたのは採用担当者だけではない。グループ幹部も「本当か」と数字を疑った。数十人の採用枠に4千人もの応募があり、倍率はイオングループで最高の約100倍に達したのだ。
翌年からは採用枠を絞り、説明会場を減らしたが、1500人規模の応募が続いた。急に農場を広げたり、増やしたりすることも難しく、今年は採用枠を1桁台にしたが、応募者は500人に上った。
この数字は何を意味するのか。15年の農業就労人口は半世紀前の6分の1の210万人、60歳以上が8割を占めるまでになり、持続可能性が問われている。
だとすれば、この現象は家業の農業を継ぐ人材は少なくても、働く条件を整えれば、農業に従事したいという人材は少なからずいるということではないか。その条件とは何か。例えば、新規就業者の実態調査では、ほぼ半数が課題として挙げたのが「所得の少なさ」であり「休暇取得の難しさ」だった。
労働基準法では、仕事が天候に左右される農林漁業者には、労働時間、休憩、休日に関する規定が除外される。つまり、農業法人でも一般企業のような法定労働時間は適用されず、時間外給与は支払わなくてもいい。これでは彼らの将来不安は解消されない。
イオンアグリ創造はグループの就業規則を基本に、農業の実態にあう働き方を追求している。時間外給与の支給、出産・育児休業はもちろん、雨続きで農作業ができない日が続く週には休日を多くし、翌週以降に就業時間を振り替えるようにした。いまは年2回5日以上の連続休暇を取得しようと呼びかけている。
社長の福永庸明さんは「農業を産業化するのが我々の役目」という。
農業法人が一斉に一般企業並みの労働条件に改めるのは難しい。ただ、新鮮な農作物を食べ続けるために、食に携わる企業は若い人たちに魅力ある農業とは何かを追い続けるべきだろう。
イオン宇都宮農場でキャベツを担当する杉山啓祐さん(25)は学生時代、途上国でのボランティア活動で食糧の重要性を知り、農業を志したという。「小さな苗がキャベツに育つ喜び。収益も見える化されているのでやりがいもある」と話す。
若い人たちは職業としての農業に魅力を感じていない。まずは、この定説から疑ってもいいのではないか。」朝日新聞2018年10月30日朝刊7面経済欄。
いま衰弱しつつあるのはかつて経済成長をけん引した第2次産業で、IT化や情報化による再生が必要だといわれながら、大学生の就職はモノ作りの製造業ではなく玉石混交の第3次産業に向いている、と思われていた。しかし、見捨てられたような地方と農業こそ、条件さえ整えればこれまでとは質の違った希望に満ちた働き方ができるかもしれない、という可能性が語られるようになりつつある。
「新庄南高金山校で講演「都会より金山」
「里山資本主義」の著者で知られる藻谷浩介・日本総合研究所主席研究員が27日、金山町の新庄南高校金山校の創立70周年の記念行事で講演した。さまざまな統計から「金山町では後期高齢者は減少し始めていて、高齢者福祉に代わって子育て支援に予算を回せるようになる」と予測。高校生たちに対し、金山で過ごすことで見える未来への希望を説いた。
藻谷さんは講演で「多くの大人たちが『東大に行けば100%就職できる、日本で犯罪は増えている、田舎には仕事がない』と信じているが、どれも事実ではない」と指摘した。仙台や東京の人口が増えていることについても、「都会で増えているのは75歳以上で、現役世代は減っている。仙台や東京で就職すると、あなたの払う税金は、保育所よりも高齢者福祉のために使われるだろう」と語った。
金山町については、高齢化など「東京の20年後」を先取りしているとしつつ、「70歳を過ぎても田んぼや畑、山で働くことができ、高齢者の生活保護も少ない。これから高齢者福祉に使うお金が頭打ちになる分、子育て対策に支出できるようになる」と話した。」朝日新聞2018年10月30日朝刊、24面第2山形欄。
しかし、これにはもう少し時間がかかるのも確かだと思う。高齢化はあと20年くらいは進行する。外国人労働者を大量に導入するか、高齢者への福祉予算を大きく削るかしない限り、産業の構造転換は簡単には進まない。しかし、だからこそすでに高齢社会の先が見えている地方の方が、若者を疲弊させ使い捨てる大都市より大きな可能性があるという考えは、根拠のない嘘ではないだろう。