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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

〈戦前の思考〉から 8  文学批判? 

2022-12-30 19:45:51 | 日記
A.戦争への道が再来するのか?
 歴史を振り返ってみると、満洲事変(旧字体: 滿洲事變)は、1931年(昭和6年、民国20年)9月18日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍がポーツマス条約により大日本帝国に譲渡された南満洲鉄道の線路を爆破した事件 (柳条湖事件)に端を発し、関東軍による満洲(中国東北部)全土の占領を経て、1932年3月満州国建国。1933年(昭和8年)5月31日の塘沽協定成立に至る。中国側の呼称は九一八事変。関東軍は約6か月で満洲全土を占領した。それから、1937年の日中戦争(日本側のいう支那事変)にすすみ、太平洋の対米英戦開始の1941年12月真珠湾攻撃まで、ほぼ10年。日本軍国主義の膨張はとどまることを知らなかった。
 柄谷行人は、この『〈戦前〉の思考』のなかで、湾岸戦争が起きた1991年を、昭和史に反復させると、満州事変にあたるといっていた。つまり戦前の日本が本格的に対外侵略戦争をはじめた年である。それから10年で世界大戦に突入した歴史からすると、1991年の10年後は2001年。この年、アメリカは9.11同時多発テロが起き、米軍主導のアフガニスタン侵攻となるが、幸いにも、2001(平成13)年の日本は、森喜朗から小泉純一郎に首相が変わり、ブッシュ米大統領と会談したが、そこではまだ自衛隊を戦地のアフガンに送るようなことにはならなかった。憲法9条の抑止はかろうじて効いていた。

 「ぼくは前から明治=昭和の反復説を唱えていて、それで見ると、1991年は、満州事変の年にあたるのです。別に客観的根拠はないけど、不思議によく当たっている(『終焉をめぐって』福武書店、1990年)。あの年表を延長していくと、今世紀末には、中国をめぐって日米の深刻な対決が生じることになる。湾岸戦争はその発端だったということが、将来はっきりするでしょう。その意味で、今度の戦争における日本の選択は重要だと思うんです。たとえば、日米の対立は、今後避けられない。どんなに湾岸戦争でアメリカに協力しようが、それは避けられない。
 アメリカは、米をふくめて、市場自由化を要求しています。それに対しては、アメリカの要求に従うべきだと思います。一方、軍事的な要求は拒否すべきです。単純にいって、それは石橋湛山以来の「自由主義」あるいは「小日本主義」の原理に立つことです。ところが、日本の政府はちょうど反対のことをやっています。戦前の歴史を反復したくないなら、日本は今の段階で、その原理的選択を表明しておくべきだと思う。しかし、そうしない。このボタンの掛け違いは、今後において、尾を引くだろうと思います。
 ぼくが平和憲法のことをいうものだから、奇怪に思う人もいますけどね。しかし、最初にいったように、反戦・平和とかいっても、それが現実的にわれわれの選択の問題になったのははじめてなんです。日本の平和は、現実的には、アメリカの傘の下にあることであり、また「平和勢力」はソ連の傘に入ればよいと考えていただけです。ぼくがこの憲法の意味を考えるようになったのは、「歴史の終焉」という議論が出てきたときからですね。フランシス・フクヤマは、コジェーヴのヘーゲル読解を使って、ソ連の崩壊とアメリカの自由・民主主義の勝利において歴史が終焉したといったわけです。今度の湾岸戦争は、経済的利害によるだけでなく、やはり「理念」の問題だと思っています。1989年の事態は、アメリカにとって、西洋の自由と民主主義の勝利に終わる「歴史の終焉」だった。湾岸でやっていることは、その総仕上げといったものでしょう。
 しかし、ヘーゲルはどうにでも読めるのです。たとえば、コジェーヴ自身がたえず世界史の解釈を変えています。ところで、同じようにヘーゲルを使いながら、世界史が日本とアメリカの決戦となり、日本の勝利に終わるだろうという見通しをもっていた戦略家が日本にいました。関東軍の参謀で満州事変を計画した石原莞爾です。彼の予測では、1960年頃に日米戦争が起こるはずでした。しかし、戦争は彼が考えていたより早く起こり、しかも日本が負けた。石原は戦後に永久平和主義を唱えました。戦前に「世界最終戦争」を考えた彼のような人間には、次の戦争などということはもうありえなかったのです。
 日本は第二次大戦を「最終戦争」として経験した。事実、それはそれ以後「世界戦争」を不可能にするような核戦争でした。その上で、あの憲法の「戦争放棄」の条項がある。ぼくはヘーゲル主義的な言い方が嫌いなのですが、西洋人がヘーゲルを使って、西洋の理念による歴史の終焉をいうのなら、本当は、日本の戦後憲法にこそ「歴史の終焉」が実現されているといってもいいんです。戦争放棄という理念はカント以来の西洋の理念であり、しかも、彼らが日本の憲法にそれを書き込んでしまったのです。それがヘーゲルのいう「理性の狡知」です。
 ぼくは、これまで平和憲法を唱えていた人たちとは、違った経路からこの問題を考えるようになったわけです。ぼくの考えでは、左翼にとって、平和憲法は、別の「目的」(終り)のための手段だったと思います。今、左翼は黙ってしまった。自分の言行を支えてきたものが崩壊して、何もいえなくなった。「社会民主主義ならいい」とか、「人間の顔した社会主義ならいい」とか、いろいろ修正してもだめなんですよ。ソ連圏の崩壊というのは、その程度の修正で収まるような事態ではない、決定的な事態です。それを認めた人は黙るし、まだ認めない人は相変わらず修正している。しかし、そんなものが信用されないのは当然です。「終り(目的)の終り」ということから出立しないような思考はだめだと思う。
 江藤淳は、戦後文学、あるいは「戦後の言説空間」を、憲法との関係において見ようとしてきました。結論は反対ですが、ぼくはその見方に同意する。日本人は戦後憲法の問題を本気で考えたことはなかったと思うからです。しかし、戦後時間が経って、忘却されてきたのは、占領軍の隠された戦略的意図などではなく、日本人の「最終戦争」をやった経験ではないかと思うのです。それは、むしろ左翼にはなかった。彼らはすぐに別の「終り」に飛びついたからです。
 しかし、たとえば、折口信夫は、敗戦後「神は破れたり」と歌い、神道の世界宗教化を考えました。これは、ある意味で、ユダヤ教がバビロンの捕囚の経験のなかから出てきたのと似ている。ふつうの宗教では、神は戦争に負けたら捨てられる。ユダヤ教の独創は、信仰者を敗北させ不幸にあわせるような神を意味づけたことにあると思います。折口もそう考えたと思うのです。やはり、これは絶対的な戦争をやった経験からきている。折口を読む人も、こういうことは忘れています。また、橋川文三は、日本には超越神も超越性もないが、この戦争の体験がそれをもちうる契機たらしめられるのではないかと考えました。それは、この戦争が、彼らにとって、絶対的な最終戦争であったからです。
 そして、これは、多くの日本人にとってけっして克服されない精神的な外傷(トラウマ)となっています。しかし、それは当然であり、そこから癒える必要はありません。歴史において、最初から予定されたものはない。ヨーロッパでは、長い残酷な宗教戦争のあとで、「寛容」を承認した。どんな宗教でも「信仰の自由」など説かれてはいません。それを生みだしたのは、歴史的経験であり、その精神的外傷です。
 ぼくにかんして、戦後派の観念に戻ったのではないかという人たちがいます。しかし、ぼくは、むしろ「戦前」の意識、今後に来るであろう「戦争」の前に立っているという意識なんです。昭和のマルクス主義者は大正デモクラシーや自由主義を軽蔑しました。たしかに、そこには軽蔑すべきものがあります。しかし、1930年代において、転向したマルクス主義者の多くは自由主義にさえも踏みとどまらなかった。つまり、多くは国家主義に転向したのです。そして、戦後はまた民主主義者に転向しました。
 戦後民主主義は、ある意味で大正デモクラシーに似ています。それは大正デモクラシーが日露戦争の「戦後」の産物であるように、「戦後」の産物です。それは、一時的に国際的緊張からまぬかれたときに成立するものです。それは試されたものではない。試されるのはむしろこれからです。
 われわれが今「戦前」に立っているのだとすれば、それに対して何ができるのかが問われているはずです。戦後民主主義を軽蔑しそれを乗り超えるという連中は、まだ「戦後」の意識のなかにとどまっていたいんでしょう。ぼくには、「戦後」の意識はまったくありません。ぼくの書いたもの、たとえば「批評とポストモダン」を見ればわかりますが、大体1984年ぐらいから「戦前」の意識をもっており、だからまた戦前、つまり1930年代の問題をずっと考えてきたのです。

 ――「文學界」新年号に、「ナショナリズムとしての文学」(本書の「帝国とネーション」)を書かれたが、あれは、湾岸戦争を意識しておられたわけでしょうか。
 あれは昨年アメリカの大学でやった講演で、たしかに湾岸危機を意識していました。しかし、はじめにいったように、それが戦争になるとは思いませんでした。それ以前から、ソ連や中欧、あるいは世界各地で、ナショナリズムの問題が露呈していますし、もう一つ、ヨーロッパ共同体のように近代のネーションの枠を超えようとする動きがある。そして、それらは別々のものではない。つまり、ボーダーレスといわれる世界資本主義の運動が、従来の国家の枠とは別のネーションを生み出しているわけです。この現象を、旧来の言語で考えると理解できない。民主主義・民族主義・帝国主義・ファシズムなどといった概念を、根本的に考え直さないといけないと思ったのです。ただし、それは遠い過去に遡ることではなくて、むしろ身近な過去に遡ることです。
 ふつうナショナリズムというと、血と大地、あるいは言葉というものがいわれる。しかし、ネーションとは近代に作られた「想像の共同体」(アンダーソン)なのであり、ただそこにおいて地と大地というような実体化、あるいは古代への遡及がなされるようになっただけです。ネーション=ステートは、はじめヨーロッパ帝国のなかで形成されたわけですが、これもあまり古く遡って考えてはいけないと思います。特に1870年前後に形成されたといったほうがよい。普仏戦争におけるプロシャの勝利がそれを代表していると思う。それまでは、イギリスやフランスには国家があったけれども、ネーションという意識はなかったのです。18世紀のアダム・スミスだって、ネーションあるいは国民経済のことを考えていません。また、フランスにナショナリズムが出てくるのは、1870年以後、つまり、プロシャにやられてからです。
 ついでにいうと、1871年にパリ・コミューンがありましたが、これで、アナーキスト的なインターナショナリズムは終わるんです。あとは、ドイツ社会民主党のような、国家資本主義と対応するような社会主義が支配するようになります。ニーチェが『反時代的考察』で、ドイツや「社会主義」、あるいは反ユダヤ主義を批判した「時代」とは、そういうものです。彼は、自分のことを「ドイツ人」ではなく「ヨーロッパ人」と呼んでいました。
 こういう世界史的文脈に、アメリカの南北戦争も、日本の明治維新あるいは西南戦争もふくまれるんですね。このネーション=ステートは、資本主義がプロシャ型の国家資本主義に転化したことと結びついています。それらは、まもなく帝国主義に転化します。そして、この帝国主義が、非西洋の旧帝国のなかに、反作用としてナショナリズムを生み、ネーション=ステートを構成していくわけです。これはむしろ20世紀の話であって、少しも古い話ではない。ところが、ネーションは、どこでもそれ自身を古い起源をもつものとして想像=創造してしまう。
 たとえば、ハンナ・アーレントがいうように、反ユダヤ主義は、ユダヤ資本が強かったから生じたのではなく、19世紀後半に国家資本主義的経済が形成されるにつれて出てきた。ユダヤ資本が弱まるとともに、反ユダヤ主義が強まったわけです。ところが、人は、反ユダヤ主義の起源を中世から古代へと遡る。ユダヤ人自身もそうしてしまう。たとえば、イスラエルに国家を作ったシオニズムは、19世紀後半のヨーロッパのネーション=ステートに対応しているのです。ヨーロッパで国家主義が強まるなかで、ユダヤ人も国家をもたねばならないという状況があった。ところが、そのことに、旧約聖書に書かれているからイェルサレムへ戻ろうというような意味づけを与えたのがシオニズムです。本当は、イスラエルでなくてもよかったんですよ。ところが、イスラエルが建国されると、アラブとの対立は、古代から存続する宗教的な対立のように見なされてしまう。しかし、そこではそれまで宗教的紛争はなかったのです。
 湾岸戦争を宗教戦争として見る見方はまったくまちがっている。ネーションは、親族や宗教と別であり、それらが崩壊あるいは衰弱したのちに形成されるものです。そもそもオスマン・トルコ帝国の時代には、イスラム教徒とユダヤ教徒の争いなんてなかった。大体、キリスト教でも仏教でも歴史をとって考えたら何もわかりません。「帝国」時代の宗教と、近代国家における宗教はまったく異質です。
 現在のアラブの問題は、オスマン・トルコの「帝国」が、西洋の帝国主義によって解体されたところからはじまっている。ぼくは、この地域に、ネーション=ステートが十分に成立していると思わない。英仏が勝手に線を引いて分割しただけですから。クウェートなんか一部族に過ぎない。イラクにして見れば、幕府が長州征伐したようなものじゃないでしょうか。もともとイラクのバース党は非宗教的です。それが「イスラム」を唱えるのは、汎アラブ主義に訴える戦略にすぎない。実は、それはイラクのナショナリズムと矛盾する。イラクのナショナリズムはむしろ古代バビロニア、たとえばネブカドネザル王なんてものをもちだしたほうがいい。すると、今度はイスラム普遍主義が成立しなくなる。
 とにかく宗教戦争なんてものはない。たとえば、スリランカやインドで宗教紛争が続いていますが、根本はナショナリズムです。というよりも、経済的な格差が原因で、それが民族の対立、あるいは宗教の対立という古代的な意匠を動員するのです。そうして殺し合っている間に、それが何千年も続いてきたかのように思いこまれる。スリランカの場合は、1960年代からはじまったにすぎません。イスラム原理主義にしても、古来からあるのとはまったく意味が違う。ぼくがいいたいのは、何か根源的に遡行して考えようとすることが、実際には、身近な過去の転倒をおおい隠し、また、現実的な解決を不可能にしてしまうということです。日本の天皇制にかんしても同じことです。それは明治国家の産物であって、中世・古代に遡ることはそれをおおい隠すことになる。
――ネーションとは、『日本近代文学の起源』においていわれた「風景」のようなものですね。
その通りです。ぼくは『日本近代文学の起源』を書いた段階では、まだ近代文学をネーションの問題として考えていませんでしたが、今はそう思っています、「たとえば、風景は昔からあったけれども、われわれがいうような風景をそれ以前の人たちは見ていなかった。それは近代文学のなかで構成されたものです。そして、それがあまりにも自然になって、昔から人がそうしたように見なしてしまう。「民族」もそうですね。本当は、ネーションは、そういう地縁・血縁といった部族的・共同体的差異を超えたところに形成されたのに、あたかもネーションが昔から存在していたかのように思われる。
 しかも、その場合に最も強く働いているのは近代文学です。たとえば、日本の文学といえば、源氏から芭蕉、近松、西鶴などというけれども、これは近代文学のなかで作られた過去です。もともとあったにしても、われわれが見るようなかたちであったのではない。それは、もともと風景があったとしても、われわれが見るようなかたちで見られていなかったというのと同じです。ネーションもそうです。のみならず、文学、風景、ネーションという、この三つは相互に結びついているのです。
 ぼくは、ナショナリズムの中核は言文一致的な近代文学にあると思います。それは、文字どおりナショナリスト的であるかどうかとは関係がない。むしろそうでないほうがネーションを喚起しうるのです。19世紀ドイツの場合、「ドイツ民族」を作ったのはロマン派の文学なのです。なぜなら、ドイツは国家としては小邦に分裂したままだったからです。日本でいえば各藩に別れていたようなものです。ドイツの統一は、文学的にのみ実現されていたわけです。しかし、これは現在でも起こっています。たとえば、グルジアでもウクライナでもクロアチアでも、みなそうです。文学がナショナリズムの中核にある。
 日本のナショナリズムが昂揚するのは、日清戦争のあたりですが、そのあとに、言文一致が急速に実現され、「近代文学」ができあがる。同時に、「日本文学史」もできあがった。たとえは、この戦争の後、日本人は中国を軽蔑しはじめたわけです。長い間、特に江戸時代、中国の文学や思想でみんなやっていたのが、突然逆転してしまった。朝鮮に対してももちろんそうです。日本の朱子学は朝鮮朱子学だから、それまで尊敬していた。そういうのを一挙に否定したのが日清戦争です。つまり福沢諭吉のいう「脱亜」です。その結果として、過去が再構成された。
 日本人と朝鮮人、あるいは日本と韓国やアジアとの関係といったときに、ぼくはやっぱりネーションの問題ということからやらないと駄目だと思うんです。近代のネーションが過去を構成しているのだということに気づくべきだと思う。たとえば日本人が「神功皇后が朝鮮に行った、秀吉が行った……」というのは、日本ナショナリズムが構成する歴史ですが、「秀吉にやられた」とか韓国側も同じことをいうわけです。しかし、それは、近代以前の「帝国」時代の話です。過去をいいだせば、朝鮮半島に古代からありとあらゆる民族(エスニック)が来ているのだから話にならない。朝鮮は清朝の属国であり、それが原因で日清戦争も起こっている。
 要するに、朝鮮というネーションも、日本というネーションと同じく極めて新しいものなのです。というより、それは日本の占領下で形成されたのです。ところが、ネーションは古いものに訴える。そこに錯誤が生じる。そして、そういう過去を組織・構成するのに最も重要な役割を果たすのが近代文学だと思います。今でもそれは反復・強化されている。
 人々は、国家の問題をもっと現実的に考えるべきだといっています。しかし、近代国家を動かしているのは、実は文学です。だから「文学批判」が重要なのです。文学と無縁の政治家や実業家は、ナイーヴに文学的なんですよ。すると、文学者は何をなしうるか。文学者だけが「文学批判」をなしうるのです。」柄谷行人『〈戦前〉の思考』文藝春秋、1994年、pp.231-241. 

 明治以降の日本がネーションとして意図して構成してきた「近代」は、西洋覇権国家を追いかけながら、みずからのナショナリズムを過去に投影して美化し、近隣アジア、とくに中国と朝鮮を遅れた国、劣った民族として軽蔑する視線をつくりあげたのは、「文学」だったというここでの強調点は、忘れてはならないことだと思う。


B.年末の寒さ
 2022年が間もなく終わる。昨日が去ってあしたが来るだけなのだが、このコロナに翻弄された時代も3年。安倍晋三は銃撃されて世を去ったけれど、この国の政治は何も変わらないどころか、国会にも国民にも目を向けず、丁寧な説明といいながら、実は独断の閣議決定で、これまでの基本政策を大転換してしまう自公政権とは、いったい何なのだろう?すべてはアメリカのご意向に従っているからなのか、それとも、こういうシナリオをずっと書いている黒幕がいるのか?

 「本音のコラム: 去年今年を貫く棒  北丸雄二
 「絶対安定多数」を31も超える291議席を有していて何でも好きに決められる自公与党なのに、岸田さんはどうしてその「国権の最高機関=国会」を経ずにいろんな重要事案を閣議決定で既定路線化するんでしょうか?▼安倍さんの時もそうでした。集団的自衛権の憲法解釈変更も閣議でとっとと決められた。その安倍さんの国葬義も閣議決定で強行したせいで異論噴出。新規建設や運転期間延長という原発政策大転換も信念に閣議決定ですよ。何より反撃能力(敵基地攻撃能力)の保有とか防衛費GDP2%とか、専守防衛路線大転換の安保三文書もまるで閣議で片付いたかのよう▼閣議とは本来、首相や多数派の独断をけん制する集団指導体制の機能も持ちます。中曽根内閣時代、イ・イ戦争での自衛隊ペルシャ湾派遣に後藤田正治官房長官が猛反対し閣議決定が見送られたこともありました。でも今じゃみんな上に倣えだもんなあ▼国会だって結局は数で押し切るから閣議決定でも同じさというのは訳知り顔の屁理屈です。国会論議が報じられることで世論は熟したり変わったりするから。なるほどそれが怖いから国会を経ない、世論を経ない?有無を言わさぬ閣議で国民ではなく党内大派閥の意向を先行させる限り、この内閣の支持率凋落ぶりは新年でも旧年から「貫く棒の如きもの」となるはずです。(ジャーナリスト)」東京新聞2022年12月30日朝刊17面。
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 〈戦前の思考〉から 7 湾岸戦争1990年の転機 

2022-12-27 21:00:27 | 日記
A.あそこから9条無視が始まった?
「湾岸戦争」は、1990年8月2日のイラクによるクウェート侵攻をきっかけとした戦争。国際連合による撤退要求と経済制裁ののち、1991年1月17日より米軍を中心とする34か国からなる多国籍軍が空爆を開始、2月24日からは地上戦も開始された。約1か月の戦闘の後イラク軍は敗走し、4月6日に和平条件を規定した国連安保理決議を受諾した。湾岸諸国から大量の原油を購入していた日本に対して、アメリカ政府は同盟国として戦費の拠出と共同行動を求めた。日本政府は軍需物資の輸送を民間の海運業者に依頼した。全日本海員組合はこれに反対したが、政労協定を締結し、2隻の「中東貢献船」を派遣した。さらに当時の外務大臣の中山太郎が、外国人の看護士・介護士・医師を日本政府の負担で近隣諸国に運ぼうとした際にも、日本航空の労働組合が近隣諸国への飛行を拒否したため、やむなくアメリカのエバーグリーン航空機をチャーターしてこれに対応した。さらに、急遽作成した「国連平和協力法案」は自民党内のハト派や、社会党などの反対によって廃案となった。なお、時の内閣は第二次海部内閣の改造内閣であった。 鶴見俊輔や自動車雑誌『NAVI』編集者鈴木正文などの文化人は、多国籍軍によるイラクへの攻撃に対して、攻撃開始前の時点から「反戦デモ」を組織して、柄谷行人、中上健次、津島佑子、田中康夫らは湾岸戦争に反対する文学者声明を発表した。(以上は主にWikipediaによる記述)。
 当時のブッシュ米大統領は、イラクのフセイン政権を存続させたことを恨み、のちに9.11後の大量破壊兵器の保有を理由にイラク侵攻を強引にすすめてフセインを倒すことになる。日本にとっては、憲法の規定から湾岸戦争に自衛隊を出さず、戦費の拠出と軍需物資の輸送だけにしたことが、のちに対米関係で引け目のトラウマ化し、小泉政権での自衛隊海外派遣(ただし、戦闘行為の行われていないPKOに限る、という言い分で)をすることになった。ここが、それまでの日本の専守防衛という安全保障上のスタンスを、「海外の戦争への参加」に変える転換点になった。
 このときの「文学者による声明」についても、柄谷氏はこの『〈戦前〉の思考』のなかでインタビューに答えている。

 「実は、ぼくは湾岸戦争がはじまる三週間ほど前にアメリカから帰国したのです。その時点では、戦争はないと思っていました。だから、戦争の勃発には驚いたのです。経済制裁で十分というのが支配的な世論でしたから。それに、アメリカの不況はすごくて、戦争どころではないという感じでした。しかし、いったん戦争がはじまると、アメリカ人が熱狂的に昂揚しているらしい。これはわずか三週間前を考えると信じがたいくらいです。しかし、こんなものは長続きしません。いずれ、アメリカの「現実」を直視しなければならないだろうから。だから、ぼくは、この討論集会で、アメリカ政府を批判するとかいったことに関心はありませんでした。そんなことはアメリカ人に任せておけばよいのです。
 僕が何かをやらずにいられないと思ったのは、この戦争において、日本が「参戦」するということが(たとえ金だけだとしても)起こったからです。戦後に反戦運動がありました。しかし、それは米ソの対立のなかにあったもので、日本人が「反戦」を唱えようと、何のコミットメントにもならないのです。しかし、湾岸戦争において、われわれははじめて「参戦」を経験している。そのことが、これまでその種の運動と無縁だった人に危機感を与えたのです。つまり、われわれははじめて「反戦運動」を体験しつつあるのです。
 署名にしても、集会にしても、非常に億劫な気分がある。ぼく自身にたぶん最もそれがあった。ところが、それではもうすまないような気持もある。これは何なのか。集会に来た人、署名した人が共有していたのは、そういう両価的な感情だったと思います。事実、参加したのは、これまでそんなことをやったことのない人がほとんどだったからです。そのこと自体、湾岸戦争が日本人にとって戦後はじめての体験であることを示しています。たぶん、これが冷戦構造が終わったということなんでしょう。しかし、われわれは、まだそれに対応する言葉を見いだしていない。
 集会は、計九時間にわたるもので、席上、いくつもの意見がありました。この戦争の解釈を述べる人、あるいはいわゆる反戦の人もいた。しかし、最も議論されたのは、なぜ「文学者」なのか、なぜ共同の声明(署名)なのか、ということだったのです。ぼくはむしろそのことを議論する場所として、この集会を考えていたわけです。結果的に声明を出したけれども、ぼくは、別にそれを期待していませんでした。だから、報道も最後までことわっていました。意見がまとまらなかったからではないんです。まとめるつもりなんかないんだから。それじゃ、何のためにやっているのかといわれるだろうが、この討論会は、まさにそれを自問するような場だったのです。
 --それが文学批評の場だということですね。

 そうです。たとえば、集会としての決議ではなく、個々人が署名する形式をとったんですが、その文章をめぐって激論があった。そのとき、高橋源一郎が「私は、日本国家が戦争に加担することに反対します」という文句を提唱しました。「文学者」としてみれば、本当はこういう短い陳腐な表現のなかに入れられてしまうのは嫌なわけでしょう。だから、この文の後に、それぞれの意見を述べた文を付帯するという提案があった。しかし、高橋源一郎は、そんなことを断念することが署名するということなのだといった。ぼくは、それこそ「文学者」の行為なのだ、と思いました。
 なぜ「文学者」の討論集会なのか。「文学者」が社会的に偉くて影響力があるからそうするのか。もちろん、全然違います。こんなものが何の力もないことは自明です。では、なぜ「文学者」なのか。それは「文学者」しか「文学批判」ができないからです。たとえば、世の中で「詩的」と呼んでいるものがありますね。大概ロマンティックというような意味です。しかし、現代の詩人は少しも「詩的」ではない。その逆です。「文学的」というのも同じです。われわれから見れば、文学はいつも「文学的なもの」への批判としてしかありえない。
 僕には、このような集会や署名に反対する人の考え方が了解できます。ぼく自身がかつてそういうことをいっていたのだから。たとえば、十年くらい前に文学者の反核署名という運動があった。反核は「人類の義務」であるから署名せよという文書が送られてきたけど、ぼくは署名しなかった。「反核」という一般的命題に対して誰も文句はいえない。しかし、それに署名すれば、必ず米ソの二項対立の片側に行くようになっていたと思います。ぼくは、あの当時、その後に顕在化したように、あの運動の背後にソ連と西ドイツの結託を感じていた。うまり、何をしようと、必ず「二項対立」に巻き込まれる構造があったのです。その場合、この構造のどちらも拒否しそれらを無化していく立場、いわば「第三の道」をとろうとする。
 「革命」といおうと「反戦」といおうと、この二元構造のなかにいる以上、空疎であるにきまっているのです。とすれば、この構造を理論の上で解体していくほかない。吉本隆明のいう「自立」にしても、そういうものです。かつて、こうした志向は少数派であり、インパクトがありました。一見すると違うようだけれども、デリダのディコンストラクションもそういうものですね。これは形而上学的な二項対立をディコンストラクションするというもので、形式的にはプラトンまで遡ったりしますから深遠そうに見えますけど、実は、これは戦後の二項対立(冷戦構造)と完全に対応しています。アメリカにもつかず、ソ連にもつかず、そして、そのような対立そのものを無効化してしまうこと。それはまた「文学」の優位でもありました。なぜなら、「第三の道」とはいわば「想像力の革命」なのですから。
 しかし、1980年代の半ばには、それはすでに意味を無くしていたと思う。ソ連邦の崩壊はそれを決定的にしただけです。大切なのは、戦後の二元的構造(冷戦構造)が崩壊したとき、「第三の道」も崩壊せざるをえないということです。「文学」に特別の意味はもうありません。文学が、現実的に無力だとしても、そうだからこそ何かをなしうるのだというような思いこみは、もう成り立ちません。それはたんに無力である。署名を拒否することに積極的な意味を与えることにも意味がない。今や、それはあらゆる行動を嘲笑するシニシズムにしかならい。ぼくが集会や署名に踏み切ったのは、それを拒否することが何事かであるような時代が終わっていることを露出させるためです。
 要するに、日本は米ソ二項対立の陰に隠れていたいのに、今度の戦争で無理やり露出させられた。決断を保留したいのに決断してしまった。あるいは、決断してしまったのに、まだ保留した気持でいる。それは、文学者も同じです。まだ「文学」が第三の道として可能だと思っている連中がいる。
 ――「第三の道」といえば、「第三世界」もそうですね。

 戦後の二元構造が終わると、「第三世界」は「世界」としての意味を失った。それはもう1980年代半ばに終わっていたのですが、もともと「第三世界」とは理念上の同一性なので、それを失うと、ただの後進国になる。それまで、この「第三世界」は、米ソに支配されながら、もう一つの「世界」を作っていたわけです。彼らも、ある意味でこの対立を利用しながらやることができた。たとえば、イラクの武器を見ると、ソ連・中国や英米仏のものがいり交じっている。ソ連につくぞ、アメリカにつくぞと脅しながら軍備を拡張してきたわけです。また、かつてはマオイズム(毛沢東主義)のような連帯の論理もあった。しかし、今や第三世界は、その「同一性」を失って、完全に資本主義国のジョイント・コントロールのなかにある。ブッシュがいう「世界新秩序」とは、そういうことです。今度の湾岸戦争は、端的にそれを示しています。イラクはアラブの連帯を訴えるが、それさえ機能しない。まして、他の第三世界からの連帯は得られません。
 ぼくは1989年秋、東欧崩壊のさなかに、浅田彰らと「朝日ジャーナル」別冊特集のために座談会をしたとき、冷戦構造の解体は平和をもたらすものではなく、かえって次に中東で戦争が起こるだろうといったんです。そのとき、もう一ついったのは、南北問題において、後進国の闘争は「造反有理」のようなものになるだろうということです。なぜなら、それは勝利した西洋の「理性」に反するものだからです。当時考えていたのは、たとえば、パナマのノリエガ将軍ですね。彼はアメリカにコカインを密輸していた。ある意味では、これはアメリカの資本によって農業が崩壊させられた、ラテン・アメリカの「抵抗」なのです。しかし、どう見ても、ノリエガが正義だとはいえない。
 この意味で、イラクのフセインは、ノリエガとよく似ています。ノリエガを育てたのは、アメリカだし、イラク・イラン戦争でフセインを応援したのはアメリカです。だから、今更彼らを非難するのもおかしい。アメリカは、パナマを急襲して、ノリエガを捕まえた。あれは、まったく主権侵害で無茶苦茶な行為です。だからといって、ノリエガを擁護することも難しい。アメリカのジャーナリズムも沈黙しました。湾岸戦争はそれによく似ています。ブッシュははじめからイラクを粉砕してフセインを捕獲するつもりなのですから。  
 フセインは狂気だという人が多い。しかし、今「北」に対抗しようとすれば、非理性(狂気)のように見えざるをえないだろうと思うのです。湾岸戦争は広い意味で南北問題です。そして、今後も「南北問題」は、ああいう形で出てくると思うんです。それは単純ではないと思います。それは、たとえば、移住労働者や難民というかたちで、先進国に「南」から押し寄せるというかたちをとるかもしれない。たとえば、クウェートなどは、大半の労働力をアジア人やパレスチナ人、エジプト人といった外国人労働者で賄っている。こういう階級問題の実態が今度の戦争で露呈し、かつ隠蔽されている。今度の戦争で一番困ったのは、外国人労働者であり、その国でしょう。また、世界経済の不況や環境汚染で最もダメージを受けるのは、「南」です。「南北問題」は今後ますます深刻になると思います。しかも、「南」はたんに外にあるのではなく、先進国の内部にもあるわけです。
 「南」も黙ってはいない。しかし、彼らの抵抗は「狂気」として片づけられてしまうでしょう。先進国が西洋の「対話的理性」でやるとしたら、それ以外のものは非理性でしかないからです。それから、今度の戦争で思ったのは、西洋諸国がソ連という敵のかわりに、イスラムを敵として見いだしたということです。非西洋であるわれわれが、それに加担する理由はありません。」柄谷行人『〈戦前〉の思考』文藝春秋、1994.pp.224-231.  

 自衛隊というものをどう位置付けるか、海外へも出ていく軍隊になるのか、1990年の湾岸戦争までは、ぼくたちはそれが現実的な問題になるとは思っていなかった。しかし、その後の海外派遣の常套化、憲法無視の安全保障政策の閣議決定だけの変更、そしていまや、大幅な防衛費の拡大と敵基地攻撃能力へのシフト、という1990年には考えられなかった事態が、なしくずしに現実となっている。そして国民はそれに対してもはやデモも反対声明も出ない沈黙になるとしたら、日本は実質的に強力な軍事国家になってしまったと考えられる。情けない世界が今ある。


B.防衛費増額への警鐘  
 防衛費大幅増額をめぐる議論で、元海上自衛隊司令官香田氏へのインタビュー。制服組、昔で言えば海軍の幹部軍人の言葉は、軍事のプロとして今回の政府決定に疑問を呈する。
「身の丈を超えていると思えてなりません。反撃能力の確保に向けた12式ミサイルの改良、マッハ5以上で飛ぶ極超音速ミサイルの開発・量産、次期戦闘機の開発、サイバー部隊2万人、多数の小型人工衛星で情報を集める衛星コンステレーションなど、子どもの思いつきかと疑うほどあれもこれもとなっています。全部本当にできるのか、やっていいことなのか、の検討結果が見えず、国民への説明も不十分です。絵に描いた餅にならないか心配です」
「予算に無駄があれば、防衛力にとってもマイナスです。新しい研究を始めると、途中でやめることはなかなかできず、人も張り付きます。多くの装備品は、実はローン払いで後年度負担があり、維持費も相当にかかります。これらの選択肢を誤ると、将来本当に必要な防衛力にお金や人材を投入できないことさえなるのです」
ん~ん、昔の軍人が権力を握って軍事国家になった反省で、自衛隊は「文民統制」つまり制服組は、政治家の指示に従う原則だが、どうも今の自民党議員は戦争ごっこをやりたい子どもじみた人ばかりで、制服組幹部の方が現実を知って賢い選択を考える人がいるのかもしれない、と思ってしまう。

「インタビュー 元海上自衛隊自衛艦隊司令官 香田 洋二 さん 
 来年度から5年間の防衛費を、従来の1.5倍にあたる43兆円に増やす計画を政府が決定した。歴史的な増額を自衛隊の関係者は歓迎しているかと思いきや、海上自衛隊現場トップの自衛艦隊司令官を務めた香田洋二さんは「身の丈を超えている」と警鐘を鳴らす。防衛費の増額が持論の香田さんが、そう訴える理由を聞いた。
 ――今後5年間で整備する防衛力の内容と総額が決まりました。
 「今回の計画からは、自衛隊の現場のにおいがしません。本当に日本を守るために、現場が最も必要で有効なものを積み上げたものなのだろうか。言い方は極端ですが、43兆円という砂糖の山に群がるアリみたいになっているんじゃないでしょうか」
 ――防衛費を増やすべきではないということですか。
 「違います。私は防衛費が足りないとずっと言ってきた人間です。10年ほど予算も担当しましたが、GDP比1%という枠に抑えられ、必要な艦船や航空機をそろえると、とても弾薬まで十分には買えませんでした。老朽化する隊舎の耐震工事でさえ、目をつぶらざるを得なかった。台湾情勢、北朝鮮のミサイル発射、ロシアのウクライナ侵攻という中で、弾薬など継線能力の大幅な拡充や、他国に遅れないための装備品の開発・調達には相当のお金が必要です」
 -―では、何が問題なのですか。
 「身の丈を超えていると思えてなりません。反撃能力(敵基地攻撃能力)の確保に向けた12式ミサイル(地対艦誘導弾)の改良、マッハ5以上で飛ぶ極超音速ミサイルの開発・量産、次期戦闘機の開発、サイバー部隊2万人、多数の小型人工衛星で情報を集める衛星コンステレーションなど、子どもの思い付きかと疑うほどあれもこれもとなっています。全部本当にできるのか、やっていいことなのか、その検討結果が見えず、国民への説明も不十分です。絵に描いた餅にならないか心配です」
 「例えば、12式ミサイルは射程を200㌔から1千㌔に延ばしますが、搭載燃料を5倍にしてエンジンを含めて再設計することが不可欠で、簡単にできるとは思えません。米国製巡航ミサイルのトマホークとの使い分けはどうするのでしょう。極超音速ミサイルは米国が2兆円かけても配備計画に至らず、衛星コンステレーションは米国もやろうとしています。防衛産業の基盤が厚く、同盟国である米国との共同開発・運用を、効率と効果の面から選択肢とするべきではないでしょうか。サイバー部隊も、人員確保に悩む自衛隊で他の部隊の能力を維持したまま2万人も集められるのか疑問です。
 -―なぜ、こんなことになっているのでしょうか。
 「自衛隊の積み上げではないからだと考えます。私の経験では、新しい計画を作る場合、各自衛隊は5年程度の時間をかけます。世界中の事例を見ながら、導入する装備品や量を決め、各自衛隊の積み上げの結晶として、何兆円という規模になるのです。当時はGDP比1%の枠があり、ほとんど増えない中でもそうだったのです。ところが、今回はいきなりGDP比2%という数字があり、砂糖の山が現れたわけです。当時の私だったら、いきなりそんなに増やせと言われても、新たな事業を短期間で出せなかったんじゃないかと思う規模感です」
 -―ただ、北大西洋条約機構(NATO)の加盟国も、国防費はGDP比2%以上が目標です。
 「その目標を、米国の要請でNATOがつくったのは2014年です。10年近く前からそうとうに準備している中で、ロシアのウクライナ侵攻があり、ドイツなどが明確にかじを切ったわけです。日本は急ぎすぎた上に、内容も身の丈を超えたものになっています」
 -―防衛費は多ければいいということでもないのですか。
 「予算に無駄があれば、防衛力にとってもマイナスです。新しい研究を始めると、途中でやめることはなかなかできず、人も張り付きます。多くの装備品は、実はローン払いで後年度負担があり、維持費も相当にかかります。これらの選択肢を考えると、将来本当に必要な防衛力にお金や人材を投入できないことにさえなるのです」
 -―敵基地攻撃能力については、どう考えますか。
 「方向性には同意します。日本が『盾』だけでなく、米国が担っている『矛』を補完することは抑止力に資するでしょう。周辺国はミサイル技術を高度化させており、変則軌道で飛ぶ大量のミサイルが発射された場合、今の日本の防衛網では対応しきれません」
 「ただ、奇襲攻撃の着手に対し、政府がどう存立危機事態を認定し、防衛出動をかけるのかが、明確ではありません。『矛』の役割を日米で担うわけですから、有効に機能させるためには、NATOや韓国軍・在韓米軍のように統一した指揮系統も必要です。24時間365日対応するために、新たな部隊編成も求められます。こうした運用面を国民合意のもとで事前にはっきりさせておかなければ、実効性を持たないばかりか、現場の自衛隊がしわ寄せを受けることになりかねません」
 -―防衛費増額は自民党からの要請が強かったわけですが、政治との関係はどう考えますか。
 「文民統制はきわめて重要ですが、政治は大きな方針を決め、具体的な内容は自衛隊が考えるべきです。かつて米国はベトナム戦争で、『ベスト・アンド・ブライテスト(最良で最も聡明)』と呼ばれた閣僚や大統領補佐官たちが攻撃目標まで指示し、泥沼化して敗れました。その反省を踏まえた湾岸戦争で、米国の政治はイラクのフセイン政権に勝利するという大きな方針だけを示し、勝ったのです」
 「防衛省・自衛隊が自民党に示す資料には、不都合なことが書かれていないと思うことがあります。議員が防衛相・自衛隊に情報を出させ、専門的な知識で厳しくチェックすることは必要です。ただ、内容に立ち入りすぎるのは禁物です。陸上から海上へ、大型艦を小型化へと二転三転するイージスシステムは、まさに政治的な迷走の象徴です。
 「今回、2%のかけ声が先行し、政治家があれもこれもやるべきだという声も強かったのではないでしょうか。防衛費増額は私もOBとしてありがたいと思いますが、それに悪乗りしている防衛相・自衛隊の姿が見えるのです。本当の意味での積み上げが重要で、その結果、5年後の時点ではまだ1.5%ということもあり得たと思います。もちろん、2%超になることもありますが、そこでは財政当局や政治の査定が入ります」
 -―防衛増税については賛否が割れています。財源はどう考えますか。
 「国民負担という痛みがあるからこそ、本当に必要な防衛力が積み上がります。国債という麻薬のようなものを平時に使えという主張があることは信じられません。歴史的にも、いまのウクライナやロシアもそうですが、本当の有事では政府は嫌でも大量の借金をしなければいけません。平時は、歳出改革以上の分は税金で支えていただくしかないのです。でも、だからこそ1円たりとも無駄にしてはいけないし、後ろ指をさされることがないように、国民への説明責任を果たさないといけません」
 「戦前、海軍の平時予算が日露戦争時の予算より大きくなったことに危機感を高めた加藤友三郎・海軍大将(後に首相)は『国防は軍人の専有物にあらず』と言って、まわりの反対を押し切り、1922年にワシントン海軍軍縮条約に調印しました。今年7月に地方の自衛隊幹部が、社会保障費なども必要な中で防衛費だけが特別扱いされるのは無条件では喜べない、という発言をしてたたかれましたが、国の財政や経済という広い視野から発言をした幹部がいることを、誇りに思います」
 -―防衛費増額そのものに反対する人も少なくありません。
 「賛成も、反対もある。それが正常な民主主義社会です。防衛省が世論誘導工作の研究を始めるという一部報道がありました。心理戦や情報戦への対抗手段はあっていいと思いますが、国民の意識を一定方向にもっていくようなことは絶対にやってはいけませんし、戦後生まれの自衛隊がそのようなことを企てることは断じてないはずです。自衛隊が守っているのは民主主義なのですから」
 「私は現役時代、自衛隊は悪だという世間の視線を時に感じながら過ごした世代です。20代の時、北海道沖で暗夜、私の乗る護衛艦が突然ソ連軍艦から照明弾を発射され、大砲を向けられたことがありました。命の危険を初めて感じ、自衛隊員の服務宣誓にある『事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め、もって国民の負託にこたえる」の意味を実感しました。命をかける自衛隊を国民に支えてもらいたいという思いはあるし、古巣に私が厳しく言うのは、多くの国民が支えたいと思う組織であってほしいからなのです』 (聞き手・西尾邦明)」朝日新聞2022年12月23日朝刊、13面オピニオン欄。
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 〈戦前の思考〉から 6  言文一致をめぐって タゴールの言葉

2022-12-24 17:14:43 | 日記
  1. 民族解放という視点
 昨日の新聞の片隅に、柄谷行人氏がバーグルエン哲学・文化賞を受賞したという記事があった。この賞は、急速に変化していく世界のなかでその思想が人間の自己理解の形成と進歩に大きく貢献した思想家に毎年授与されており、賞金は100万米ドル。その著作の多くが、英語に訳されて海外でよく読まれていることが背景にあると思うが、柄谷氏はアジア人初の受賞者として、その評価はさらに高まるだろう。慶賀すべきことだと思う。それはともかく、日韓文学者会議の報告草稿の続き。
 韓国で漢字を使わずにハングルだけで書く文学が登場し定着させていったのは、4・19世代と呼ばれる人たちだったというところから、同世代である日本の柄谷氏は、近代化のなかでのナショナリズムと書き言葉の変革、とくに日本の明治の言文一致体の成立とハングル文の進展とを同じ方向の動きとみている。

 「先に述べたように、私は、韓国の4・19世代と同じ世代です。この三〇数年の間、私たちはお互いに知らないままでやってきました。しかし、私たちには一つの共通点があります。韓国の4・19世代の文学者は、「ハングル世代」と名乗りました。それは、戦前以来の知識人の形態からのある「切断」を意味しています。私たちもまた、日本の文脈において、同様です。そうすると、たとえ形式において、1970年代以降の韓国の文学・批評が、戦後日本の「政治と文学」に類似していようと、そこには日本のそれとは異質なものがある、それはむしろわれわれと同時代的なものである、と思うのです。
 たとえば、私は、日本の言文一致運動の根底に「漢字の廃止」という動機があったと書きました。それは実行されなかった。しかし、実行されなくとも、言文一致は、本質的に「漢字の廃止」なのです。ところで、それを文字どおり実行したのが戦後の韓国です。そして、そのようなシステムのなかで育ってきたのが「ハングル世代」です。この世代が過去からのラディカルな「切断」をなしえたのは、たぶんそのためだと思います。しかし、私はこう期待しているのです。ハングル世代は、まさにそうであるがゆえに、そのことの「起源」を問い得る最初の世代でもあるだろう、と。
 私は、この論文において、別に漢字・漢文学に戻れといっているのではありません。そんなことは不可能だし、無意味です。問題は、「言文一致」がもたらした自明性を疑うことです。それは、自由・民主主義といったものの自明性を疑うことと同義です。というのは近代文学を形成した装置は、いわばネーションを構成した装置でもあるからです。(ここで私はネーションという概念をあえて日本語に翻訳しないで使います。)
 70年代において、私は言文一致の問題をネーションと結びつけて考えていなかった。それを考えるようになったのは、また、日本の言文一致の問題をもっと広い視点で考えるようになったのは、かなり近年のことです。近代のネーションは、ヨーロッパの場合、ラテン語に対して、俗語で書くこと、すなわち言文一致によってはじまっています。それは各国によって時差があります。最も早いのは、ダンテでしょう。ダンテはイタリア語で書いたのではなく、彼の選んだ俗語で書かれた文章がイタリア語になったのです。同様に、ルターが訳した聖書の文章がドイツ語の規範となり、デカルトの書いた文章がフランス語の規範となりました。つまり、話されていた言葉が書かれたのではなく、むしろラテン語を俗語に翻訳することによってできあがった「文」が、その後に話されるようになったのです。
 このことは、いくつかの事柄を示唆します。それは、この新しいエクリチュールにおいて、はじめて、文字あるいは書くことが、内面的あるいは身体的なものと密接につながったということです。第二に、それがネーションとしての同一性を生みだしたということです。それまで、西ヨーロッパは一つの「帝国」であり、唯一の言語は書かれるものとしてのラテン語でした。このことは中国を中心とする東アジアの文化圏にあてはまります。ラテン語がアルファベットで、漢字が表意文字だというような差異は、このレベルでは重要ではありません。問題は、「書く」ことと「話す」ことという異質なものが結びつけられたということであり、また、それが「帝国」のなかで、それぞれネーションを作りだしたということです。
 日本では、18世紀後半に、本居宣長に代表される国学者が、漢字を斥け、仮名で書かれた古代の文学や歴史に「日本人」の本来性を見ようとしていました。それが日本のナショナリズムの萌芽です。しかし、彼らは、自分たちがふだん使っている俗語には何の関心ももっていなかったのです。したがって、日本の言文一致運動は、明治二〇年頃に起こったというべきです。しかも、それは小説家によってはじめられました。二葉亭四迷の『浮雲』がその最初の作品だということになっています。しかし、本当に影響を与えたのは、江戸の文学を引きずった『浮雲』ではなく、彼のロシア文学の翻訳の文章です。それはある重要な問題を含んでいます。つまり、言文一致は、言を文にすることではなく、ある種の「文」の創出だったということ、そしてそれが翻訳によってもたらされたということです。たとえば、ダンテやデカルトも、ラテン語から翻訳によって文章を作りだしたのです。
 私の知る限りでは、中国の言文一致運動は日本へ留学した大量の留学生によって開始され、また、韓国の言文一致は、日本の支配下ではじまっています。しかし、ここで言っておきたいのは、問題はどこではじまったかという「起源」ではないということです。なぜなら、日本も「起源」ではないからであり、また、ヨーロッパにおいても、その「起源」は隠蔽されているからです。むしろ、どこであろうと、この「起源」が隠蔽され、あたかも表現されるべき「内面」が最初からあり、またネーションが大昔からあるかのごとく考えられてしまうのです。それはきわめて近い過去に生じたものです。ところが、それをわれわれは、はるか以前に投射してしまいます。しかし、「起源」は決って近いところにあるのです。
 ここで、この問題を考えるために、ありうべきいくつかの誤解を取り除く必要があります。今回の会議に提出された韓国側の論文を読んで、いくつかの点に気づきました。それは、民族および家族に関わる問題です。洪廷善さんは、戦前、たぶん、今日においても、韓国のマルクス主義者が儒教に根ざしていることを指摘しています。つまり、私的であるよりも「社会的人間」として行動することを価値とする心性がそこにある、と。そうした性格は、戦前の、そして戦後の日本のマルクス主義にも少なからずあったということができます。
 しかし、基本的に、日本では、儒教は一つの建て前であって、家族制度を含む日本の社会に定着したものではなかったというべきです。それは、朴恵徑(パクヘキヨン)氏が「韓国の伝統的な大家族」について述べておられる事柄と比較するとはっきりすることですが、伝統的に、日本の大多数の家族においては、家父長的な形態は希薄でした。むしろ、明治以後の近代化のなかで、「儒教」的な家族=国家観が要請され、また民法として家父長制が法律化されたのです。したがって、日本の自然主義的作家が「家との格闘」を主題化したとしても、それはむしろ近代の資本主義によって強化されてきた家父長制との格闘であって、必ずしも「伝統的」なものではありません。
 注意しておきたいのは、江戸時代の国学がそうであるように、日本のナショナリズムは、むしろ反儒教としてあらわれるということです。したがって、マルクス主義者が、戦前においても戦後においても転向するときは、そうしたハードで規範的な思想を、外来的・家父長的なものとして拒否し、日本的「自然」へ回帰するというかたちをとります。それは、いわば「母」なるもの、あるいは「母」なる言語への回帰です。文学でいえば、それが回帰するのは、和歌であり、あるいは『源氏物語』のような古典文学です。いうまでもなく、それらは仮名で書かれたものであり、中国的=儒教的なものを拒否するところに成立したものです。
 洪廷善氏は、戦前の韓国のプロレタリア文学についてこういっています。《表面に現れた諸現象から見たとき、韓国のプロレタリア文学は、日本のそれとすこぶる酷似しているが、その裏面を支配していた心理的なモチーフの側面から見たら、明らかに異なっていた。なによりも韓国のプロレタリア文学がもっている民族解放闘争の性格からその点を見出すことが出来る。またこの民族解放闘争という名分があるからこそ、プロレタリア文学は他の文学を圧倒することが出来たのである。当時のプロレタリア運動に参加したかなりの人が彼らの心理の底辺では、この文学運動に先行する民族解放的な運動だという意味を無意識のうちに秘めていた》(洪廷善「韓国の進歩的文学思想」)。
 日本と韓国の、左翼あるいは知識人の決定的な違いの一つは、ここにあります。戦前の日本の左翼は、弾圧された時、民族あるいは天皇の名のもとに転向しました。日本の左翼には「民族解放」という課題はなかった。あるとしたら、彼らのナショナリズムは、コミンテルンの支配に対する反撥としてあらわれています。それが、彼らを、天皇、あるいは「母」なる「自然」への転向に導いたのです。同時に、彼らは、アジアにおける日本の侵略戦争が、西洋の植民地支配からアジアの人々を解放することだという正当化を信じようとしました。重要なのは、左翼・知識人が真剣にそう考えたということです。
 日本の知識人の問題は、戦後の出発点において、戦争期においてほとんどすべての左翼や知識人が転向したにもかかわらず、再び共産主義者・民主主義者としてあらわれたことにあるのです。彼らは、たんにファシズムの暴力によって転向を強いられただけだという。しかし、戦後の批評において最も重要な課題は、なぜ自由主義者・民主主義者がいわば「ネーション」としての幻想に、やすやすと、しかも積極的に屈服したかを明らかにすることにありました。むろん、それは、今後の問題でもあります。
 このように、日本の知識人においては、「民族」はつねにネガティヴなものとしてあります。それはけっして素直には使えない言葉です。日本では「民族」はつねに「右翼」のイメージをともなっているといってもいいでしょう。たぶん例外の一つは、日本共産党です。1960年代まで、共産党は、アメリカの植民地支配に対する民族解放路線を掲げ、あらゆる運動を反米闘争に従属させようとしました。1950年代後半に新左翼の運動が出てきた理由の一つは、そこにあります。当時のわれわれの考えでは、日本国家と資本主義は、たとえ政治的・軍事的にアメリカの傘の中にあろうと、十分に復活していたからです。そして「民族」概念が、新たな形態であろうとも、再び日本のアジアへの帝国主義的進出を支える観念になるだろうと思ったからです。
 1950年代の日本で、民族を重視したもう一つの例外として、中国文学者であり批評家であった竹内好を挙げることができます。竹内は、民族を捨象して階級から考えることは、白樺派以来の普遍主義・近代主義であって、逆にそのことが「転向」をもたらしたのだと考えました。しかし、竹内がそういったのは、アメリカからの民族独立を主張するためではなく、日本の知識人が戦前への単純な否定として、アジアに関係すること全体を否定してしまったということへの批判としてです。たしかに、このことは現在までも続いている問題です。たとえば、これまで日韓の間でこうした会議をやることができなかった理由の一つも(日本側では)そこにあります。しかし、同時に、それは、今後われわれが議論を深めるためには、この「民族」の問題について理論的にはっきりさせていかねばならないことを意味しています。
 旧来のマルクス主義は民族問題を軽視してきたといわれます。竹内好の議論にもそういう視点があります。しかし、民族は、竹内が考えたように実体的なものだろうか。つまり、言語や血のつながりといったものだろうか。私は、民族がそのように表象されて現存することを否定しませんが、そのような自明性を疑ってみる必要があると思うのです。それは「近代文学」の自明性を疑うことと同じことです。
 一方、韓国において、民族という言葉が肯定的な意味においてあったことは、理解できることです。戦前は日本の植民地下にあり、戦後も米ソによる分割下にあったからです。しかし、それと同時に、「民族」が「家族」と同様に、血のつながりとして表象されているという印象を否定できません。
 ネーションという概念は、日本語でも翻訳が困難で、エスニックという意味での民族との混同を避けるために、国民と訳されていますが、それでも不十分です。というのも、それは「国家」をもたなくてもありうるからです。ネーションは、エスニックという意味での民族とは違って、いわば「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン)であり、近代において構成されたものです。また、それは今も構成されています。ユーゴスラビアを見てもわかるように、それは民族(エスニック)的同一性と無関係です。かといって、宗教の同一性によるのでもない。
 われわれは、ネーションが、それ以前の国家や家族システムとまったく異質なものであることに注意しなければなりません。近代のナショナリズムは、それ以前の封建的身分や部族的な差異を超えた同一性を実現するものであり、そのかぎりで、「民族解放」は同時にブルジョア的な革命をはらんでいます。したがって、これまでの韓国において「民族」という言葉が革命的な意味を帯びていたことは当然です。また、左翼こそがネーションを実現するものであったことも。なぜなら、明治維新がそうであるように、後進国においてブルジョア革命を達成するのは、ブルジョアジー自体ではないからです。
 しかし、韓国において、民主化が達成され高度な産業資本主義の段階に入った今後においても、「民族」がこれまでのような肯定的な意味をもつという保証はないと思います。なぜなら、現実に、韓国の資本主義経済は、アジア諸国との関係において存在しているからであり、そこで「民族」の同一性を主張することは排外主義になるほかないからです。日本やアメリカを相手にしているときに意味をもつ「民族」概念は、東南アジア人を相手にしたときは差別的なものになるでしょう。かつて進歩的な意味をもったものが反動的な意味に転化するのです。
 日本のナショナリズムは、日清戦争後において反動的な意味に転化しています。私が近年に気づいたのは、それがまさに「近代文学」の形成とつながっていることです。ネーションは、古い宗教や身分や血縁・地縁といった共同性ではなく、むしろそれらが実質的に崩壊した後に想像的に形成されたものです。そして、それは他の何よりも「文学」によってなされたのです。というのも、国家装置が与えるイデオロギーでは、人びとをいわば魂からゆすぶるような同一性をもたらすことができないからです。
 先に、私は、日本では、人が文学に無関心になったといいましたが、別の観点からいえば、それは、まさに「文学」があらゆるレベルに浸透したということです。「文学」と無縁な人たちのほうが、はるかに恥ずかしいほどに「文学的」なのです。たとえば、彼らは、「日本人」や「日本語」にかんして、まったく「文学的」観念をもっています。しかも、しばしばそれは科学的な言葉で語られるのです。たとえば、歴史学者は、たかだか王朝史にすぎない過去を「日本市」として論じ、言語学者は「日本語の起源」を論じている。こうして、ネーションとしての「日本人」が千年百年も前から存在したかのような教育が、日々、いたるところでなされているわけです。それは韓国においても同じです。
 そうすると、文学者に可能であり且つなすべき仕事は何だろうか。それは「文学」に対して自覚的であることです。それは批評的であり、政治的なことです。「文学と政治」という問題は、したがって、決して消滅していない。というのも、文学的であることは、高度に政治的であることだからです。」柄谷行人『〈戦前〉の思考』文藝春秋、1994.pp.213-222. 

 左翼の転向が民族解放と結びつかずに、自然=天皇回帰になってしまった日本と、プロレタリア文学や左翼が、民族解放と儒教的な精神に結びついた韓国との違い、という論点は大変に興味深い。ネーションにつながるさまざまな表象は、歴史の現実からくるのではなく、近代化のなかで意図的に捏造されたものだ、ということと、それがどういう方向をとるのか、という点で、日本と朝鮮の文化的差異というのは、確かにあると思う。


  1. タゴールの言葉 
 「詩聖」という言葉は、あまり使わないが、インドの詩人タゴールには必ず冠せられる。タゴール(ラビンドラナート・タゴール、1861~1941)は、コルカタ生まれのインドの詩人 、思想家、作曲家。詩聖として非常な尊敬を集めている。1913年には『ギタンジャリ』によってノーベル文学賞を受賞した。これはアジア人に与えられた初のノーベル賞でもあった。 インド国歌の作詞・作曲、およびバングラデシュ国歌の作詞者で、タゴール国際大学の設立者でもあった。

 「射影の森から: 「侮辱された人間」の勝利待つ歴史  福島 申二 
 百年ほど前、インドの詩聖タゴールが来日した。滞在中に作った短詩や警句を集めた詩集「迷える子鳥」(藤原定訳)に、こんな詩句がある。
 「人間の歴史は、侮辱された人間が勝利する費を、辛抱強く待っている」
 侮辱された人間とは、虐げられた人たち、すなわち支配や差別を受ける民族やマイノリティーであろう。その人たちの勝利とは、自由と平等の獲得にほかならない。人間がつくる歴史への詩人のまなざしが胸にしみてくる。
 先日、アメリカで、同性婚の権利を保障する連邦法が大統領の署名によって成立した。そのニュースを聞いて映画「イミテーション・ゲーム」(2014年、英、米)を想起した。第2次大戦中、解読不可能といわれたドイツ軍の暗号「エニグマ」に、イギリスの天才数学者アラン・チューリングが挑む、実話に基づいた話である。
 しかしそれだけではない。映画はまた、同性愛のために人生を葬られた人物の物語でもある。チューリングの生きた時代、英国で同性愛行為は犯罪とされていた。1952年に有罪判決を受け、失意のうちに命を絶った。この天才もまた、タゴールの言うところの「侮辱された人間」なのだった。
  •     *    * 
 やがて時代は移る。2009年、当時の英首相がチューリングへの扱いを公式に謝罪した。そして昨年、天才は新しい50㍀紙幣の肖像にもなった。かつての「犯罪者」が名誉を回復して紙幣を飾る――人間の歴史はそのどきを辛抱強く待っていたに違いない。
 アメリカにおける同性愛も、長い間偏見に満ちた視線を浴びてきた。
 筆者が米駐在の記者だった2004年、マサチューセッツ州が米史上初めて、同州最高裁の判断に応じて同性婚を認めた。受け付け初日に地元の市庁舎で取材したのを思い出す。前日まで新郎・新婦となっていた名前の記入欄が新しい届け出用紙では「当事者A」と「当事者B」に変わっていた。
 届け出た女性カップルの一人はこう言っていた。「今日はきっと、この国にはびこる同性愛嫌悪に終わりを告げる記念日になるでしょう」
 しかし、このことは保守層の反感を招き、世論は一時逆に振れた。その後はじわじわと容認の世論が高まり、今回、超党派の賛同を集めて国レベルの権利保障法が成立したのだった。
 あらためて「イミテーション・ゲーム」を観て、映画パンフレットをめくると、チューリング役の主演ベネディクト・カンバーバッチがこう述べている。「個人個人の違いを尊重すること、差別して恐れるよりも共通点を探すことを(映画から)学ぶべきだ」
 「平均的人間というものに出会ったことがありますか?」
 これはドイツの児童文学者ミヒャエル・エンデの問いかけだ(「エンデのメモ箱」田村都志夫訳から)。人は誰もそれぞれの属性や「でこぼこ」を抱えて生きている。エンデの問いは、とかく私たちを縛りがちな「普通」という概念への言い得て妙な疑問だろう。
 「普通」がやっかいなのは、それがしばしば「集団的な正しさ」とでもいうべき鎧をまとうからだ。優位な立場にあるものの保身の壁にもなる。そうした鎧や壁が、少数者や虐げられた人の勇気あるチャレンジによって破られてきたのが「人間の歴史」でもある。
 米国にはかつて異人種間の結婚を禁じる法律が複数の州にあった。1967年、それらをすべて違憲とする画期的な判決を連邦最高裁は下す。州法違反として有罪にされた白人と黒人の夫婦が異議を申し立てた結果だった。
 人種間の壁を破ったこのできごとは夫婦の姓から「ラビング(Loving=「愛」の意味もある)訴訟」として象徴的に知られる。世界はてごわい。だが世界は変えられるのだ、と思う。」朝日新聞2022年12月23日夕刊3面。

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 〈戦前〉の思考から 5 日韓文学シンポジウム  日本の幸福?

2022-12-21 23:14:58 | 日記
  1. 韓国と日本の文学
 柄谷行人『<戦前>の思考』1994の終わりの方の章「韓国と日本の文学」は、冒頭の説明によれば、1993年9月に韓国済州島で行われた、第二回日韓文学者シンポジウムで発表された草稿(提出されたのは『日本稀代文学の起源』所収の「内面の発見」)をもとに書かれたという。この会議を構想したのは中上健次で、前年に第一回が東京で開かれた。これは基本的に個人の任意参加で、日韓それぞれの文学者を「代表」するような形ではないという。1993年の韓国は、軍事政権時代が終り、民主化をすすめた盧泰愚時代から、文民政権の金泳三大統領が発足したところで、文学者・詩人たちが表現の自由を獲得した時期であり、柄谷氏は、日韓を比較し違いを述べるのではなく、東アジア文化圏のなかで近代文学をつくってきた共通点を、言葉の問題として捉える。つまり、日本では明治の言文一致運動から漢字かな交じり文体ができ、それが戦後の多様な文学を可能にしたように、韓国ではハングル化、つまり漢字を使わずにハングルだけで小説や詩を書く運動になったという点に注意を促す。

 「今回の日韓文学シンポジウムに私が提出した論文「内面の発見」は、1980年に出版した『日本近代文学の起源』という本の第二章の抜粋です。それを書いたのは、1970年代半ばです。現在の私はそれにかんして違う考えをもっています。しかし、私は、これをたんに否定するつもりはありません。その当時考えた以上の問題が、ここに含まれているのではないかと思っているのです。近年において、私自身、そこに書いたことを別の視点から再検討しています。
 この本は、「近代文学」を一つの歴史的な制度として、その「起源」を系譜学的に明らかにするものでした。なぜ1970年代の半ばに、「近代文学」の根本的な批判を企てることが必要だったのか、そのことは説明しにくいことですが、それはこれからしゃべることで、ある程度おわかりいただけると思います。ことわっておきますが、私はフーコーやデリダの影響のもとにそういう仕事をしたのではありません。それは、文学的にも思想的にも、直接的に日本の歴史的文脈から来るものです。この本は最近アメリカで出版されましたが、西洋人よりも、韓国の文学者たちにとって、もっと理解しやすいものだと思っています。
 たとえば、洪廷善(ホンジョンソン)氏は、1970年代の韓国で中心となった二つの対立しあう文学グループ、『創造と批評』派と『文学と知性』派について書いておられます。それは、私の印象では、戦後日本の1960年代までの二派に類似しています。実際、洪廷善氏は、平野謙らの「近代文学」派に言及していますから、そこから、『文学と知性』がどのような姿勢をもっていたかを想像しても見当違いにはならないと思います。私は、日本の「近代文学」派の批評をよく読んでいました。
 ところが、私が先に述べたような仕事をしたのは、まさにこうした「政治と文学」の問題機制(プロブレマティック)そのものが失効した時期なのです。それがどういう意味かをいうためには、やはり戦後日本の左翼運動の歴史にふれる必要があります。その点にかんして、私は、あなた方との間に共有できる歴史的な指標を一つもっています。私が昨年はじまったこの会議に関心をもったのは、『文学と知性』や『創造と批評』グループの人たちが、1960年の4・19世代であるということです。実は、私は、1960年の同じ頃、日米安保改定をめぐる政治闘争において学生運動の中にいたのです。私は、その当時華々しく報道された韓国の4・19革命に並々ならぬ関心をもっていました。たぶん、あなたがたには、われわれの運動にかんしてほとんど情報を与えられなかったでしょう。私が気になっていなのは、そこにいた学生たちがその後にどうしたのかということです。それにかんしては、日本にはまったく伝えられなかったのです。昨年の会議において、私は、韓国側の多くのメンバーが私とほぼ同年齢であることに気づき、また彼らが4・19世代であることを知りました。私が、ひひょうかとしてものをかくようになったのは1969年ですから、その意味でも、私は、これらの人々と同世代です。
 いうまでもなく、われわれが属していた文脈は違います。日本は少なくとも、言論の自由があり、したがって、マルクス主義にかんしても公然と議論がされていました。したがって、日本で左翼・知識人において生じた事柄は、権力による弾圧といった外的な理由によってごまかしえないものです。この1960年の安保闘争と呼ばれる事件は、日本において、画期的な意味をもっています。というのは、ここにおいて、戦前以来の左翼およびそれに拘束された知識人が、はじめて現実的な運動において乗り超えられたからです。私が、「政治と文学」という問題機制を本質的に受け入れられなかった理由は、そこにあります。なぜなら、「政治」はそれまで「共産党」を意味したからです。
 こうした新左翼の運動は、大きくいえば、米ソの二元的構造のなかで、「第三の道」を追求するものです。いうまでもなく、それは1960年代後半から70年代の学生運動において拡大していきました。しかし、それは挫折したのです。それにかんしては、韓国におけるように、当局の弾圧に帰することはできません。それは、むしろ新左翼に内在していた問題が露出したのだというべきです。その結果、再び、「政治と文学」という問題機制が出てきました。もちろん、そのような言葉で語られたのではありませんが、実は同じものです。一口でいうと、反政治的で内面的な場所に閉じ込もるという姿勢があらわれたのです。一切の権力から「自立」する拠点としての内面へ。しかし、それは現状を肯定することです。現状とは、高度資本主義とともにあらわれる消費社会です。
 70年代半ばに、私が「近代文学」の批判をはじめたときあったのは、簡単にいうと、そういう状況です。私が考えたのは、「政治と文学」という対置のなかで言われている、「政治」も「文学」も、実は「文学」であり、それ自体が歴史的に成立した一つの制度ではないか、ということです。日本の近代文学は、明治二〇年代に、自由民権運動の挫折のなかで成立しています。「近代文学」に固有な「内面」や「近代的自我」は、すでに政治的挫折のなかで、ひとつの「転倒」として成立している。それは、何よりも、政治的なものの消去として現れたものです。私は、それ以来、同じことが反復されていると思いました。
 そうであれば、その「起源」に遡行する必要がある。「近代文学」のなかで、何が論じられていようと、それは「近代文学」という装置自体を疑問に付すことを忘れている。つまり、「近代文学の起源」は隠蔽されているのです。私は、近代文学の物質的な装置の一つとして、言文一致あるいは文字の問題をとりあげました。それが、ここに提出した論文です。その他に、わたしは近代文学において自明とされているさまざまなもの、たとえば、風景、告白、病気、などといったものがいかなる転倒において形成されたかを明らかにしています。
 なぜ私は「近代文学」を根柢から疑おうとしたのか。近代を疑うということはいくらでもなされています。戦前の日本では「近代の超克」が唱えられたほどです。しかし、それはたんに観念のレベルでしかなかった。たとえば、どんな反近代的な文学作品も、すでに近代文学の装置のなかでなされているのです。しかし、私が「近代文学」を根底から疑うということをはじめたとき、そのときは気づかなかったけれども、実は、1970年代の半ばにおいて、日本の「近代文学」は事実上終わっていたのです。当時、すでに「文学」がそれまでもっていた意味あるいは権威が失われつつあったのです。マルクスは「人間が立ち向かうのはいつも自分が解決し得る課題だけである」と言っていますが、それは私の企てにもあてはまります。
 私のような世代の者は、小説や詩が、哲学や社会科学や宗教よりも強いインパクトをもっていた時期を経験しています。いわば、「文学」には一切合切がふくまれていました。60年代までは「文学」は、そのようにありました。現在ではまったく違っています。ここに来る前に、東京で打ち合わせの会合を一度やったのですが、その時、詩人の藤井貞和がこんなことをいった。韓国に一度行ったとき、本屋の詩のコーナーに人が群がり、詩を書き写している者さえいたことに驚いたというのです。それは、日本ではありえないことです。いや、かつてはあった光景です。それは日本の現代詩人にとって羨望すべき事態です。
 それは、小説にかんしても同じです。たとえば、ここに参加した日本の作家たちは、本の出版部数をいわないほうがいい、ということを冗談で警告されたのです。本当のことをいえば、馬鹿にされてしまうおそれがある、と。もちろん、日本には大量に売れている作家も少数はいますが、かつて「文学」がもったような意味で読まれているわけではありません。また、ここに来ている日本の作家は、目立って売れていない訳ではなくて、ある程度売れているほうです。一般的に、人は「文学」に対して無関心なのです。それは、作家の才能が不足しているとか、作家が情熱を失っているとか、現実との格闘を避けているとかいうことでもありません。また、それが「文学の死」を意味するのでもありません。たんに「文学」は、それまでそこに付与されていた過剰な意味を失ったのです。
 この「無関心」ということに注意してほしい。それは弾圧とか排除ではありません。もし文学が危険なものとして排斥されるなら、いわば「呪われた詩人」として復活することができるでしょう。しかし、文学はそれ自体無力だとしても、想像力によって逆転するという論理はもう通用しません。人は今や文学にたんに無関心なのです。「無関心」indifferentというのは、差異がないことということです。文学者にとっては、おそらくこの無関心ほどにこたえるものはありません。何をどうしようと、差異がないのですから。
 これは異常な事態なのだろうか。たしかに、近代文学以後においては異常な事態です。しかし、「文学」がこれほどに力を帯びた時期のほうが、歴史的にはむしろ異常な事態ではなかったでしょうか。しかも、これは日本でのみ起こった現象ではありません。のみならず、90年代に書かれた韓国の文芸評論(安宇植氏が訳した)を読むと、今述べたような事態が既に起こっているような気がするのです。たとえば、商業主義的であり、大衆文化的な状況に応じた文学があらわれている。こういう新しい現象に対して、これまでの「政治と文学」ではとらえられず、それに対してどう見るかというところで、議論がなされているように見えます。つまり、韓国の文学・批評も、ある意味で「近代文学」の終わりに直面しつつあるように感じます。
 しかし、私が70年代後半に「近代文学」の批判を目指したのは、別に、現在のような状態を招くためではありません。また、現在の状況で、文学者の役割が無くなってしまったといいたいのではありません。「近代文学の批判」は、このような不可避的な状況に立ち向かうためにこそ必要ではないかと思うのです。むしろ、今後においてこそ、「政治」も「文学」もその本来的な意味があらわれてくるだろうといいたいのです。私が70年代に書いた論文を提出したのは、それが韓国の現状況にある程度当てはまるのではないかと考えたからでもありますが、同時に、そこに、私自身70年代に考えていたこと以上の問題がふくまれていると思うからです。それは、たとえば、現在、日韓の文学者が自発的にこうした会合をもつということ自体において象徴されている問題です。」柄谷行人『〈戦前〉の思考』文藝春秋、1994.pp.207-213. 

 戦後の日本で、ある時期まで「「文学」がこれほどに力を帯びた時期のほうが、歴史的にはむしろ異常な事態ではなかった」か、という柄谷さんの感慨は、ぼくも同様に感じる。小説家や詩人という存在が、ただ社会の片隅で文章を書いているだけでも、人びとに精神的な影響を与え、人びとも現在の人間のありようをその作品を読むことで知ることができる、と期待の目をもって眺めていた時代があったことを知っている。そして今はもう、そんなことはないし、小説や詩が話題になることはあっても、それはたんなるエンタメ消耗品ぐらいの扱いしか受けない。「近代文学の批判」がなされたからそうなったのではなく、また作家詩人たちが怠慢で無能になったからでもなく、もっと大きな状況の変化、文学が成立する社会のあり方が変わってしまった、というしかないのか。


  1. 老人たちは怒っているが…若者は?
 戦後まもなく生まれたぼくのような「団塊の世代」は、きわめて幸運だった。戦争に行くこともなく、武器や爆弾など見たこともなく、地震や台風や自然災害はあったけれど、軍靴で侵攻され逃げ惑ったり、戦火を避けて亡命したり、政府に反対したから処罰され獄につながれる(そういう人がいなかったわけではないが)ような体験もしないですんだ。世界の多くの国や地域では、こんな安全で平和な生活を長い人生で味わうことは、なかなか難しい。だからニッポンいい国!と賛美するのもどうかとは思うが、このところの日本政府・自公政権がすすめようとしている政治の方向は、どうやら今までの平和と安全から、遠ざかるようなものにみえる。
 このような状況に、老人たちは怒っているのだが、老人になっていない人たち、とくに10代20代の人たちは、いっこうに怒っているようには見えない。怒ったってしょうがない、と考えるからなのか、どうやって怒るのか、やり方がわからないのか。それとも、戦争をやれるようにするのは必要なことだ、と政府を応援しようと思っているのか? 老人は怒るだけじゃなくて、若者にどうしてこれまでの日本が、戦争をしないでこられたのかを、よくわかるように体験を含めて伝えることが必要だと思う。ぼくらは戦争体験者から戦争がいかにひどいものだったかは聞いたけれど、戦後の日本がどうして平和を維持できたのか、よく考えて伝えるためには、やはり歴史を学び直さなければ、と思う。

「本音のコラム: 戦争と原発の再稼働 鎌田慧 
 老人たちは怒っている。戦後、貧しかったけど希望があった。「もう戦争はない」との解放感は、戦場から帰った若者や戦災に焼け出された家族に共通していた。戦死者や被爆者や空襲などの犠牲者は膨大だった。
 が、とにかく生き延びた人たちは、緊張して解放のラジオ放送を聞いた。こくみんがっこういち年生の私は疎開先にいた。そして、戦争はしないと誓った憲法が発布された。
 敗戦から七十七年。殺したり、殺されたりした戦争の時代の悲惨を感じられないにしても、人びとへの想いが足りないままに、中央、地方の権力者の二世、三世が首相や大臣になる時代が続いている。自己の権力維持だけが最大の関心なのか、シモジモの苦しみなどなんのその、身内大事のしたい放題。
 突然思い出したのは、敗戦後、日本の反原爆感情に「フォーピース」を掲げ、ヒロシマに原発を建設しようとした、米原子力委員会の野望。
 さすがにそれは中止になった。が、いままた脱炭素を掲げた「革新原子炉」の開発計画が発表された。実現は無理でも行きがけの駄賃。どさくさ紛れに、老朽原発六十年以上稼働の陽動作戦。
 首相はヒロシマを売り物にするリベラル「宏池会」会長だが「敵基地」のミサイル恐怖を煽りながら、日本海沿岸に並べたてた原発を動かして、リベラルに安眠できるのか。(ルポライター)」東京新聞2022年12月20日朝刊21面。
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〈戦前の思考〉から 4  憲法の自主性とは? 責任はどっち。

2022-12-18 23:21:03 | 日記
A.「押しつけ憲法」論の無理
 岸田政権は、基本的に安倍晋三内閣のすすめた右翼路線、新自由主義による不平等格差の放置、対米従属の安保軍拡政策、左派言論への抑圧、そして改憲という方向に、いっそう強硬な態度で歩を進めている。安倍氏は自分が総理であるうちに改憲を実現したいと願っていただろうが、っそれはできなかった。ただし、自民党政治の実を握ったまま改憲までプッシュを続けるつもりだったろう。とにかくそれは、不幸な死去によって潰えた。しかし、岸田政権はその遺言を引き継いで改憲にもっていくべく、準備を進めている。外堀は埋められたのかあも知れない。しかし、改憲論の出発点にある、この憲法は敗戦後の占領下でアメリカの押し付けでできたもので、日本人の積極的な総意を反映したものではない、という意見は当初から保守勢力にあった。自民党はこれを党是としてはいたが、そう簡単に改憲はできず、また悲惨な戦争を経験した国民の多数が、この憲法がうたう不戦、軍備による戦争の拒絶、平和的手段で世界への貢献という理念に反対するものは少なかったから、経済成長を続ける限り、自民党が長期政権を続けても、改憲の主張は現実のものとはならなかった。
 しかし、これを覆し憲法9条を変えようとする極右勢力は、虎視眈々と改憲への世論誘導を準備していた。それが表に出てきたのが安倍政権だった。しかし、「押しつけ憲法論」には、では押しつけでない自主憲法とは、いかなるものかという具体案になると、いきなり復古的な戦前の大日本帝国憲法や帝国陸海軍のイメージになるのは、やはり国民の望む憲法とは違うだろう。そもそも「押しつけ」でない憲法などというものは、日本人が作れたためしはない、というのが以下の論だろう。

 「西洋においても、他の地域においても、世界宗教が受け入れられるというときには、必ず、こうした強制と抵抗が起こっています。竹内好は、日本人が西洋化に「抵抗」を示さなかったのは自己がないからだといったのですが、実は「自己」(主体)は、強制と抵抗のなかで形成されるのです。それは精神分析でいうと、「去勢」ということです。去勢が「自己」を作ります。しかし去勢が「排除」されることがあり、その場合は、分裂病的になります。私は、日本人のケースは、それに妥当すると思っています。西洋だけでなく、アジアの諸国においても、竹内好がいうように「自己」があります。しかし、それは外来的なものの強制を一度受け入れた(去勢された)からです。
 私は、この問題を、漢字仮名交用という形態において考えてみたことがあります。たとえば、外来的な観念を漢字や片仮名の表記によって受け入れることは、それを拒否することでもないし、それを内面化してしまうことでもない。外的な異質なものが入ってくるとき、それに抵抗もしないし、内面化もしないような装置が歴史的に形成されたのです。八世紀以来の漢字仮名交用という表記法こそ、この装置ではないか、と考えます。たとえば、「和魂」とはテニヲハであり、「洋才」とは漢字です。
 つまり、外発的なものは、いつまでも外発的なものとしてとどまっています。日本人に「自己」が無いということは、外発的なものが徹底的に内面化されたことが無いということです。「超越性」が無いということは、いわば去勢を「排除」してきたということです。むろん、これが可能だったのは、事実上の外的な強制が、この極東の島国には無かったからです。適当に外的なものを「自主的に」取捨選択することができた。それは韓国と比べると、対照的です。たとえば、現在、そこでは儒教が根強いだけでなく、キリスト教徒も国民の四分の一以上を占めています。

 私が漢字仮名交用という形態に注目するのは、それは具体的な制度としてあるからです。「日本人の心理」などというものはよくわかりません。また、「超越者」といわれてもよくわかりません。私が重視するのは、ある物質的なかたちをとったものだけです。私は、日本人は一度も「去勢」されたことがないといいました。正確にいえば、去勢を「排除」する装置を持っている、と。しかし、実は、明らかに「去勢」が一度あったのです。それは第二次大戦の敗戦であり、その結果としての戦後憲法です。それは真理とか心性とかいったものではなく、書き込まれた制度としてあるものです。
 日本には超越性がないという丸山眞男の認識を、その弟子である橋川文三は真剣に考えていました。そして、彼は、第二次大戦の体験をそのような軸たらしめようとしたのです。彼の場合には、同世代で戦場で死んだ多くの死者がいました。たとえば、映画『ゆきゆきて、神軍』の奥崎謙三にも、そのような死者たちがつきまとっています。しかし、死者は語りません。こうした生存者の記憶には鮮明に生きているでしょうが、彼らが死ねばそれで終わりです。それを次の世代に伝えることはできません。のみならず、それは日本の思想に超越的な軸を与えるものとはなりません。
 しかも、死者は、語らないがゆえに、どんな「代理人」も許します。あの戦死者たちは、「大東亜共栄圏」という尊い使命をもって戦い死んだのだ、彼らの死をたんに犬死にしていいのか、彼らを真にとむらうのは、彼らが果たそうとした使命、日本を真に独立した国家たらしめることを実現しなくてはならない、と説くような代弁者が出てきても、死者たちは黙っています。死者を盾にすることはできません。すなわち橋川文三のような考えでは、あの戦争体験を、国民共同のものにすることはできないのです。
 もちろんあの戦争で死んだのは日本人だけではありません。日本の侵略で死んだアジアの人たちも語りませんが、生き残った人たちは語ります。しかし、生きている人たちは、日本の経済援助が必要ならば、語ることをやめたりもするでしょう。すると、それで終わってしまいます。彼らが忘れてくれるなら、それで片づいてしまいます。したがって、そのような外国の他者がいるというだけではだめです。それは超越性にはなりません。その逆に、超越性こそが、そのような他者、あるいは死者を決して忘れないようにするのです。
 この超越性は、西洋には神があるが、日本にはないというような問題ではありません。それは、先にいった「去勢」の問題と関係しています。たとえば、戦後憲法の九条にかんして、それがアメリカ占領軍によって強制されたものだということは確実です。だから、ある者たちは、これで日本人は去勢されたのだというわけです。したがって、一人前に(男らしく)なるためには、われわれは自発的に憲法を作りなおさねばならない、と。しかし、精神分析的にいえば、「男らしさ」こそ「去勢」の産物なのです。
 先にいったように、死者たちは語りません。代弁者が好きなように語るだけです。神もまた語りません。代弁者が好きなように語るだけです。もし第二次大戦の体験がこうした法(文)のかたちで残らなかったら、どのようなかたちで残ったでしょうか。まったく残らなかったでしょう。
 たとえば、十八世紀末にカントは「恒久平和」の理念について考えました。それは、それまでの戦争の体験から来ています。しかし、のちに国際連盟や国際連合としてあらわれたこの理想は、つねに挫折してきました。それは、彼らの「自発的」意志によっていたからです。だから、ヘーゲルは『法権利の哲学』のなかでカントを嘲笑しました。それは抽象的な主観性にすぎない、と。
 国際法には、その違反に対する処罰の手段がなく、強制力がありません。現在、「国連主義」に従えとかいわれていますが、国連にはそういう強制力はありません。実際のところ、国連の名のもとに、アメリカなどが国家的意志をつらぬいているだけです。しかも、アメリカも、どの国も、戦争放棄などということは夢にも考えていない、他の国の戦争を放棄させること以外は。それまでは、戦争の用意をするのです。
西洋人が歴史的経験から考えだした「恒久平和」の理念には、たんに強制力がないというよりも、いわばそれを実行させる超越者がいないのです。たとえば、神は戦争を禁じていません。つまり、世界史において、戦争を放棄せようという超越者はかつてなかったのです。この「恒久平和」という理念は、それを自発的に考えた人々の理念にすぎなかった。しかし、それを嘲笑することができるでしょうか。
憲法九条は、アメリカの占領軍によって強制された。この場合、日本の軍事的復活を抑えるという目的だけでなく、そこにカント以来の理念が入っていたことを否定できません。草案を作った人たち(すべてでないとしても)が自国の憲法にそう書き込みたかったものを、日本の憲法に書き込んだのです。これは日本人に対する強制です。日本人はそのような憲法が発布されず、多くの点で、明治憲法とあまり変わらないものとなったでしょう。ソ連を理想化していた社会主義者も、憲法九条のようなとてつもないものを考えるわけがありません。それより日本に「赤軍」を作ろうとしたでしょう。
しかし、まさに当時の日本の権力にとって「強制」でしかなかったこの条項は、その後、日本が独立し簡単に変えることができたにもかかわらず、変えられませんでした。それは、大多数の国民の間にあの戦争体験が生きていたからです。しかし、死者たちは語りません。この条項が語るのです。それは死者や生き残った日本人の「意志」を超えています。もしそうでなければ、何度もいうように、こんな条項はとうに廃棄されているはずです。
 これは外的強制によるものです。そして、強制した当のアメリカ国家は、まもなく当初の戦略を改めて日本に改憲を要求してきたのですが、日本人はそれに従いませんでした。そのため、当時の政権はあいまいなかたちで自衛隊をつくったわけです。ここで、内村(鑑三)のケースを考えてみて下さい。彼に入信を強制した先輩たちが棄教して、内村のところにあらわれ、あれはまちがっていた、君もやめたほうがいい、そんな非現実な信仰などやめろ、といいにきたとしたら。
 彼らにそんな権利があるでしょうか。彼らは、自分が内村を作ったと思うかも知れないが、内村の信仰は、もはや先輩たちには何の関係もないのです。橋川文三がいう、戦争体験から超越者を日本の思考に持ち込むことは、実は、この九条というマテリアルな形態にこそあるのです。死者たちが語るというなら、そこでのみ語っているのです。この九条は、あとから日本人によって「内発的」に選ばれたものです。「あとから」ということが、大切です。「最初からであれば、それはとうに放棄されています。私が主体的とか自発的という言葉を信用しないのは、このためです。
 それなら、明治憲法はどうであったか。幕末において、まずアメリカの黒船の脅し(強制)によって、徳川幕府は(不平等)条約を結んで開国します。他の人々が気づく前に日本はすでに条約を結んでいたのです。それに対して、尊王攘夷の運動が起こります。しかし、この攘夷運動の人たちは、途中で意見を変え開国派にまわるのです。これはまさに転向です。国粋主義者からみれば許しがたい転向です。さらに、幕府から見ても、それは裏切りです。なぜなら、幕府はたんに開国のポーズで切り抜けるつもりでいたのに、この新たな開国派は本気で開国、西洋化を考えていたからです。
 こうして出てきた開国派が明治の権力となったのですが、彼らのどこに「自発性」があったでしょうか。結局、彼らはアメリカ海軍の強制による開国と条約、すでになされていた「去勢」を、「あとから」積極的に受け入れたのですから。戦後の国民が自己欺瞞的であるというならば、そのようにいう人たちが理想化する明治維新の志士たちを見なければならない。彼らこそ「去勢」されたのです。事実、島崎藤村の「夜明け前」では、こうした転向者に絶望して、発狂してしまう国学派の男が書かれています。たぶんアジア諸国ではそうした主体的な「抵抗者」が多すぎたのです。
 要するに、明治憲法が自発的で、戦後憲法が自発的でないなどというのはバカげています。明治憲法は、べつに「国民」によってつくられたものではありません。憲法もないような野蛮国では、対外的にやっていけない、不平等条約も変えられない、といった外的強制、というより「皮相上滑り」の模倣という動機から作られたのです。しかも、この憲法を作ったのは、元老として権力を維持しようとする連中であって、彼らは議会創設に備え、軍を握るために天皇の統帥権を設定しました。そうした元老がいなくなったのちに、この統帥権条項が一人歩きし、昭和時代における軍部の独断専行の根拠になったのです。
 明治憲法は、伊藤博文らがドイツ憲法をモデルにして作った「作文」です。しかし、彼らがはさみこんだ天皇の統帥権の一行は、その後絶対的なものとして働きました。あるいは、憲法外の教育勅語などが憲法以上に働きました。ただの「作文」がのちには至上の原理となった。したがって、作るときには任意のように見えるものも強制力をもち、ある意図で作られても別の意味に解釈できるようになるのが、法律です。この「物質性」を軽視することはできません。ここから考えるべきことが二つあります。
 第一に、私は、憲法九条を「自主的に」改正すべきだと思っているのです。それは、これを「原理」とするためです。今のままであれば、日本国家がやっていることは、外国にとって理解できません。現に巨大な軍事力があるのに、一切の戦力の放棄を唱える憲法がある。日本のなかでは、これをあいまいにしておくことができます。しかし、対外的にはそういかないのです。アメリカだけでなく、アジア諸国もそれを注視しているからです。
 先にいった幕末では、徳川体制は最高の権力をもっていたにもかかわらず、形式的には、古代以来の律令制の下にありました。将軍は、依然として、律令制化の征夷大将軍でした。水戸学派はそれを理論化し、尊王思想を唱えた。つまり、幕府のイデオローグが尊王思想を確立したのです。したがって、尊王を唱えて幕府を打倒するということは、尊王思想から来るものではありません。彼らはただ思想を借用し利用したのです。彼らにとって、天皇はどうにでも使える「玉」でしかなかった。事実、そう公言していたのです。
 しかし、こうした政体の二重性が露出したのは、外国と関係したことによってです。この二重性、というより交用性は外国には通用しなかった。幕府が外国と条約を結んだならば、その背後に天皇がいようと、日本国家が結んだのです。日本の内部で通用していたこのあいまいな交用性が通用しないことが判明したのは、このときです。「主権」というものは、外国を相手にしたときにのみ意味をもつのです。人民主権であろうが、君主主権であろうが、対外的には区別がありません。律令制なのか、武家政権なのかあいまいなままでやってきた状態が、この時点で決着を迫られた。
 同じことが憲法九条についていえると思います。それがあることは誰も知っており、またそれは事実働いているのですが、現状を見ると、まったく憲法に反しているのです。原理は原理のままにしておいて、それは問わないですまそうとしている。しかし、これ以上、これをあいまいなままですますことはできません。そのことが近年の事態ではっきりしてきました。
 第二に、現実に憲法に反することを、憲法に従うといいくるめるような状態は異常であり、外国に通用しないだけでなく、国内的にも危険です。憲法上存在し得ないはずの自衛隊が法律上存在するならば、憲法は何も決定しないことになる。法体系そのものが「決定不能」になる。いいかえれば、憲法外の力が優越することになる。具体的にいえば、自衛隊(軍隊)を抑えるものが法的に存在しなくなってしまい、海外派兵であろうと何であろうと、既成事実を追認していくことになってしまいます。こういう状態は危険です。自衛隊を文字どおり「自衛」に限定されたものとして憲法上確認すべきだと思います。いうまでもなく、それは現憲法を「原理」として確立するためです。
 私が考えているのは、憲法九条を日本の「原理」として再確定することであり、政府がそれを対外的にはっきりと表明することです。これは、日本人が歴史的にもつ唯一の普遍的な原理です。何度もいうように、それが「強制」によることこそがその普遍性を証明するのです。たんにわれわれの意志が作ったものであるならば、いつでも廃棄されます。この憲法が「自主的」でないということこそ、重要なのです。もしそれを外来的なものとして斥けるならば、日本人はいずれすべてを失うでしょう。」柄谷行人『〈戦前〉の思考』文藝春秋、1994年。pp.191-203. 

 これは1994年の本だが、柄谷行人はその後も憲法論を発表していて、改憲論の欠点を指摘するだけでなく、仮に改憲の国民投票までもっていったとしても、日本人は賛成多数になることはないだろうと予測している。改憲の国民投票で否定されたら、自民党はもう二度と改憲を言い脱すことができなくなる。それはめでたいことかもしれない。


B.こちらも押しつけ
 防衛費大幅増額も、その財源を増税で賄うという案も、首相が自民党のなかで提示しているだけで、その意味や必要性について、野党にも国民各層にもちゃんとした説明はしていない。こんなやり方がまかり通る政治は、とても民主主義とはいえない。

 「使途示さず結論「押しつけ」 「国民の責任」→「われわれの責任」修正したが・・・
 防衛費増額の財源に充てるための増税を巡り、岸田文雄首相が「今を生きる国民の責任」と発言したとする自民党の説明に対し、反発が広がっている。国政選挙で公約に掲げることなく、具体的な使途に関する説明も不十分なまま、打ち出した方針にもかかわらず、負担を受け入れて当然という響きを持っていたからだ。交流サイト(SNS)からも問題視する声が出た。党側は十四日、実際の発言が「今を生きるわれわれの責任」だったと修正した。
 自民党の茂木敏充幹事長は十三日の党役員会後の記者会見で、首相が増税に関して「いま議論しているのは新たな脅威に対し、日本人の暮らしと命を守り続ける話。責任ある財源を考えるべきで、いまを生きる国民が自らの責任としてその重みを背負って対応すべきだ」と語ったと明らかにした。
 だあが、党ホームページに掲載した会見録で発言内容を修正。「国民」を「われわれ」とすることで、政府の責任とも読めるようにする狙いがあるとみられる。
 当初、発表された首相の発言内容は、国民に増税という結論だけすまるようなものと受け止められ、ツイッターなどに「なんでもかんでも自己責任なら、政府も政治家も要らなくなる」「国同士のいさかいが起きたら、それは外交の失敗だ」といった投稿が相次いだ。
 松野博一官房長官は十四日の記者会見で「私たちの世代が未来の世代に責任を果たすため、協力をお願いする趣旨」と説明したが、自民党内からも「国民の命を守るのは政治の責任で、国民に押しつける話ではない」(三原じゅん子参院議員)と疑問の声が出た。
 反発が広がった背景には、自民党が今夏の参院選公約で防衛費の大幅増を掲げた一方、財源は明記せず、増税に関する記述もなかったことがある。首相は十日の記者会見で、増税の是非を問うための衆院解散・総選挙を否定している。 (大野暢子・生島章弘)」東京新聞2022年12月15日朝刊1面。
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