A.負けた戦争へのもやもや
この8月の「戦争回顧の日々」でも、とくに原爆をめぐってその悲惨とともに「戦争はしてはいけない」という決まり文句が、何か空しく響いた。世界の趨勢は戦争に向かっているのかもしれないということと、それとは別に、ハワイの真珠湾にある国立記念公園の戦争記念施設と広島の平和記念公園とが、姉妹協定を結んだという報道があり、太平洋の戦争が開始された場所と終わった場所が「姉妹協定」を結ぶことへの疑問が被爆者の一部から出されたという。確かに素直に喜べる話とも思えない。パールハーバーの記念館の展示は、日本への非難に始まり最後の勝利をもたらした米軍を称えるものであり、それはアメリカ人には当然の輝かしい歴史になる。しかし、日本側の広島平和記念館の展示は、米軍を加害者として糾弾するという色彩は薄く、ただ被害者としての市民、死者・被爆者の苦しみを思い追悼する、という展示になっている。こういう形で戦争が終わったという事実を確認し、そのことに対してどう決着をつければよいか、日米の落差は大きい。
戦後の日本国内での言論を、右翼対左翼と単純化するのはあまりにも大雑把だけれども、ある時期まで負けた戦争への態度は正反対だった。左翼は基本的に15年の戦争はアジアへの侵略戦争だったと捉え、まちがった選択を反省せよと言っていた。右翼は逆に負けはしたが西洋白人の植民地から解放させるという大義があったのだと言う。戦後生まれのぼくは公平に見て、右翼の正義の戦いだったという理屈は、いかにも嘘っぽく、左翼の侵略戦争論のほうに分があると思った。ただこれだと戦争で死んだ人々はみな不幸な犠牲者・被害者になってしまい、軍国主義者だけを悪人にして自分は良心的だなどといいかねない。たぶん日本人の多くは、はじめパール・ハーバーの勝利に拍手喝采し、本気で戦争に身を捧げようと思ったろうが、だんだん負けが込んで最期は空襲で家を焼かれ肉親を失うまでになった。これはたまらん、もうこりごりだと思うのは当たり前の感情だ。しかしそれだけだと、自然災害と変わらないように、責任も反省もあいまいになる。佐伯啓思氏もぼくと同い年で、戦後の生まれだから直接の体験も責任もないわけで、だからこそ戦争の意味について、社会科学的にちゃんと考える義務はあると思う。
「丸山(眞男)や清水(幾太郎)の世代、もっといえば、いわゆる戦後進歩的知識人として活躍する世代は、そのまわりに幾多の死者を見てきた世代である。仲間が死に、近親者が死に、友人が死ぬ。そうした中で、生き残るということ。このことが、ある種の「負い目」を残さないはずはない。生き残ったという事実こそが、彼らの「誇り」を傷つけている。
むろん、そのことは特に自覚されることではないだろうし、実際には「誇り」を傷つけられるようなことでもない。にもかかわらず、あの戦争において、決して軍国主義者ではない多くの者が、時局の中で自ら志願し、また徴用されて戦地で死んでいったという事実のもつ意味はあまりに大きな心的外傷を与えずにはおかないであろう。同世代の者の多くが戦地に散っていったにもかかわらず自分は生き残ったという事実。「負い目」はここに発する。いかに「あの戦争は誤った戦争だった」といったとしても、誰も、この死者たちを「謝った戦争で犬死した」というわけにはいかないのである。その意味では、彼らもまた戦争をともに遂行した」ことは間違いない。そして死者たちを前にすれば、あの戦争に対して何らかの意義づけをせざるをえないにもかかわらず、戦後、あの戦争を侵略戦争とみなしてそのいっさいを断罪したとき、死者たちを見捨てることになる。そこに「負い目」が生じる。これが「誇りを傷つける」ものの正体なのではないのだろうか。
私は、むろん、彼らに批判の言葉を投げつけ、糾弾しようとしているのではない。そのような資格は私にはないし、「あの戦争」が、戦後生まれの私などには想像もつかないような、とてつもない体験であったろうと推測するだけである。その時代に直面し、その体験をかいくぐってきた者の個人的な内面に踏み込むようなことはしたくないし、まして彼らの戦争責任云々などという気は全くない。
私が、ここで述べているのは、「戦後」という時代精神の底によどんでいるある種の不透明感についてなのである。戦争そのものをすべきではなかった、という心情は十分に推察できる。それはそれでよい。それを「戦争は間違っていた」と表現するのもわからなくはない。だが、そのしごく当然の帰結であるかのように、戦後民主主義や平和主義へとなだれ込んでしまうという「戦後精神」にはあるやましさがつきまとうのではなかろうか。
戦前ときれいさっぱり決別して整地された「戦後」というきれいな時空には、何か割り切れぬものがついてまわるのだ。戦後知識人がいくらきれいごとの「理想」を説いてもどうしても宙に浮いてしまい、嘘っぽく聞こえる。その陥穽を突くかのようにいわゆる右派が戦前の再評価を求める。そして、そうなればなるほど、さらに戦後知識人は民主主義や平和主義の「絶対的な正しさ」を唱え、「あの戦争」を誤った戦争と断じる。
だがその態度のもつほとんど強迫的で神経症的な性急さの背後にあるものは何なのだろうか。ものごとを「断じる」ということは、そこで判断を打ち切るだけでなく、そのことを他者にも強要することである。そして、私が「戦後民主主義者」や「進歩的知識人」なるものに対する不信感を払拭できないのは、まさに、自らを「正義」と主張するこの原理主義的なやり方が、民主主義や平和主義の精神と本質的に相反するからなのである。
この自己矛盾を平然と犯して、戦後思想の「正義」を唱えて恥じない性急さの裏には、何か屈折したものがあると考えざるをえない。それがこの種の「負い目」なのではなかろうか。この「負い目」を覆い隠すために、戦後思想は、戦争責任をことさら一部の軍事的指導者に押し付け、彼らにだまされていたという方便で、自らの潔白を証明しようとする。「国民」なるものはだまされていたためにその責任を免れた。責任を免れた「国民」は、戦後の「民主」と「平和」という正義の旗を掲げて恥じない。しかも便利なことに、りそうはいつまでたっても実現しない。したがって、永遠に「民主」と「平和」という「正義」を唱え続けておれば、この自己欺瞞の舞踏は永遠に続く。
丸山眞男は、生き残った戦中世代の知識人をさして、戦後だいぶたってから「悔恨共同体」と呼んだ(「近代日本の知識人」)。「謝った戦争」を食い止めることができなかったという「悔恨」がこの世代の知識人を結びつけている、というのである。たとえば多くの知識人が戦後、共産党に入党したり、そのシンパになっていった。それは戦時中に戦争反対を表明できなかったという意味で、彼らが共産党に「負い目」を感じているからだという「悔恨」は「負い目」を背景にしている。しかし、これはいささか都合のよい「悔恨」であるように思われる。むろん、戦後のある時点から振り返ってそのようにいうことは可能かもしれないが、それによって隠匿されるものがある。少なくとも、この「共同体」は、丸山世代としても決して一般的なものではなかろう。
人によっては「悔恨」は、戦争阻止に失敗した点にあるのではなく、、むしろ敗北した点にある、ということにもなる。先にもあげたが、決して「本来のインテリ」さえも、丸山のいう「悔恨共同体」に落ち着くはずはないのである。彼らの多くもまた、戦争に「勝つ」つもりで戦ったからである。そこに、もうひとつの「共同体」ができる。竹内洋はそれを「無念共同体」と呼んでいるが、確かに、戦争に敗北したことを無念と考える人々がいる。彼らは八・一五は、「終戦記念日」ではなく「敗戦の日」だと考える。「敗北」したために日本は、GHQに「骨抜き」にされ、戦後という長い混迷の中に突入していった、というのである。丸山の「悔恨」が隠蔽したものは、この「無念共同体」の存在であった。
こうして、「悔恨共同体」と「無念共同体」がちょうど張り合わせになった形で、戦争の精神的外傷は戦後へある種の不透明さをもたらした。この両者は、相容れないのだが、また、先ほどの左翼と保守のように、相互に相手に寄りかかりあっているともいえるであろう。
だが、実は、この背後にもうひとつの「共同体」があるように思われる。それは、けっして「謝った戦争を阻止できなかった」という悔恨の言葉をつぶやくのでもなく、また、「敗北したことが無念だ」と涙をかみしめるのでもない。戦争が仮に誤ったものだとしても、そして敗北することは必定だったとしても、むしろそうであればこそ突き刺さってくるある種の「負い目」あるいは「疚しさ」というべきものだ。
それこそが上に述べた「死者たちに申し訳ない」という心情から発するある種の「負い目」「疚しさ」ではないだろうか。これは、「悔恨共同体」でも「無念共同体」でもなく、しかもその両者の奥底に共通に流れている心情だと思われる。丸山は「悔恨共同体」は共産党に対する「負い目」をもたらしたという。確かにその面はあっただろう。だが、そのようにいうことによって、本質にある「負い目」は隠されてしまう。死者に対する負い目である「死者に対して申し訳ない」¥という心情は、その後の戦後が今日あるように、おそるべき勢いで繫栄(虚の繫栄)を続けていけばいくほど、そこに埋没することの「疚しさ」を感じることになるであろう。それを「疚しさ共同体」とでも呼んでおこう。戦後の時空を支配するある種の不透明感、割り切れぬ感覚、その基底にある「負い目」はこのようなものではなかろうか。
丸山がいくら「悔恨共同体」といっても悔恨から解脱することはできないように、いくら「疚しさ共同体」といっても、それから逃れることはできない。「負い目」を清算することはできないであろう。「民主」と「平和」というお題目だけが宙を待っている間にも現実は進行してゆく。冷戦体制のもとで、日本はアメリカの政治・軍事的圏域にすっぽりと収められ、価値観の上においてもアメリカに従属してゆく。「民主」などといっても、自主自立した民主的市民などどこにも存在せず、「平和」といっても、米軍によって保護された平和という変則的事実は覆い隠しようもない。
そうだとすれば、あの戦争において、あたかも「犬死」であるかのように扱われた死者たちへの鎮魂はどうなるのか、という問いが繰り返し脳裏をよぎるであろう。戦後というのっぺりとした時空の中で、表面的には民主主義がにぎやかで騒々しい大衆的政治を実現し、ありあまるほどの国民的資産を何に投資してよいのかわからずに呆然としている今日の「日本人」を見たとき、この平和と繁栄を、戦前の「過ち」を改めたからというだけで礼賛できるだろうか。それでわれわれは「死者」への責任を果たしたことになるのだろうか。そうはいえまい。こうしてわれわれは「死者」への責任を果たしたことになるのだろうか。そうはいえまい。こうして事態の顕在的側面で太平楽の戦後が進行するにつれて、意識の潜在的側面で「負い目」は増幅するだろう。
その「負い目」をみずから告白して意識の前面に押し出したのが三島由紀夫であった。彼は、死ぬべきはずが生き残ってしまった世代にある。その「負い目」が『英霊の声』を書かせる。三島は、いわば生き残った者の務めとして死者の声を代弁しようとする。
今から四十年ほども前に書かれたこの特異な小説は、あまりに三島独特の美学に覆われてはいるが、この小説の中で三島が述べていることは、その外観ほど異形なことではない。
三島は、この作品の中で、ある神帰の会で体験した、若い戦死者たちの語りを描いている。彼らは海軍特攻として海の藻屑と消えた英霊である。神がかりの歌は、まず、戦後日本の精神的な堕落を詠嘆する。「……外国の金銭は人らを走らせ、もはや戦いを欲せざる者は卑劣をも愛し……いつわりの人間主義をたつきの糧となし……偽善の団欒は世をおおい……なべて痴呆の笑いは浸潤し……ただ金よ金よと思いめぐらせば、人の値打ちは金よりも卑しくなりゆき……大ビルはたてども大義は崩壊し……」。
もはや説明を要さないであろう。少し背筋が寒くなる思いである。まさしく今日の日本の姿だからだ。作家の感性の鋭さといってもよいし、四十年たっても事態は少しも全く変わっていないといってもよい。だが、ひとつ大きく変わった点がある。それは次のような三島の言い方である。今日の日本のこの醜態をもたらしたものは、天皇という絶対的なもの、つまり神を失ったからだ、と三島は最後にいうのである。四十年前にはまだ三島のこの言い方は、いささか奇矯に響いたにしても、決して時代錯誤でもなければ、無意味な言説ではなかった。それこそが「戦後」を特徴づけるものだからであったからである。しかし今日、このような言い方はあまりに時代錯誤に響く。この四十年で何か変わったのだろうか。
敗戦によって、天皇の「神聖」は剥奪される。天皇が人間となったとき、戦後の堕落は決定づけられた。「実は朕は人間であった」と天皇自らが述べたとき、天皇の名において死した特攻の霊は決して救われることがなくなった。天皇はそのために死した至純の英霊を見捨てたわけである。「などてすめろぎは人となりたまいし……」と英霊は呪詛に満ちた声で繰り返す。
このいわば「天皇」を擁護するために手厳しい天皇批判をするという独特の思想的作品の要点は、しかし、決して特異なものでも、三島的美学によってむりやりに装飾されたものでもない。三島が述べていることは明解でわかりやすいことであった。
日本は、あの戦争において、天皇=神という絶対的なものを基軸にすえていた。この軸があって初めて、人はその死に意味を与えることができた。つまり、人間は、人間を超えた絶対的価値に対して全面的に奉仕することによって、その行動に意味を与えることができたわけである。ところが、天皇が神ではなくなり人間になったとき、人間以上の価値をもつ者はいなくなった。価値とは人間が奉仕するものではなく、自分自身にほかならない。
ここに、戦後の人間中心定な快楽主義、生命至上主義、平和の礼賛が繚乱のごとくたち現れる。自己を全面的に奉仕する絶対的価値を失ったとき、人は、自己を律する倫理の源泉を失い、ただ放縦と気紛れと、その場しのぎの快楽に生を委ねる。真の価値が失われ、その代理として金銭が価値の中心に座る。
こうしたことは決してわかりにくいことではない。三島は問いかける。戦争に敗れるのはよい、戦後の社会改良もよい、敗戦の負い目を追って生きるのもよい、しかしなぜ天皇は人間となってしまったのか、という。それではこの「戦後」の空間において、あの戦争において、天皇のために殉じた死者の魂が安らぐ場所はないではないか、という。」佐伯啓思『日本の愛国心 序説的考察』中公文庫、2015年。pp.209-217.
戦後リベラル知識人の代表としての丸山眞男が、69年の東大闘争で全共闘の学生に、自分の研究室を破壊され「ナチスでもこんなことはしなかった」と嘆いたことで、結局自分は恵まれた安全地帯にいて、そこから政府批判の言説を垂れるインテリは、信用できないと学生たちは思い、それよりは単身全共闘との討論会にやってきて共感を示す三島由紀夫のほうがまだましだ、と思った人もいた。やがて三島が自衛隊で自決したとき、その主張は右翼的でおかしなものだったけれど、記憶には刻まれた。でも、丸山眞男をそう簡単に否定などできない。
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B.雰囲気を読み忖度で動く日本
ジャニーズ性加害問題が、いかに人々には無関心だったか、を考えると改めて恐ろしい。もしこれが、AKBとか宝塚だったら、即座に許しがたいセクハラ事件としてマスメディアは大騒ぎし、加害者は処罰されたにちがいない。権力をタテに女性に性暴力を働くことは、もはや弁解の余地のない犯罪だとみんな思うから。しかし、同様のことが男の子に対して行われていたのに、それは大したことではない、と男も女も思っていたふしがある。それは大手マスメディアにほぼ共通していた。ジャニーズは人気者であり、ケンカすれば自分たちにも火の粉がかかる、と思ったのだろうか。
「ジャニーズに依存してきたマスメディア 横並び脱却と相互監視を 上里達博
故ジャニー喜多川氏による性被害問題は、日本社会を動揺させている。 (中略) BBCには複数のチャンネルがあり、「Two」は日本で言えばNHK・Eテレ(教育テレビ)にあたる。番組では、ジャーナリストのモビーン・アザー氏が東京を訪れて取材を重ね、ジャニー喜多川氏による性加害の実態と、それがあたかも存在しないかのように扱われてきたことの重層的な背景に、迫っていく。
この番組は、まず3月7日に英国のプライムタイムで、さらに3月18日には「BBCワールドニュース」で日本でも、放送された、だがこの段階ではまだ、週刊文春など一部のメディアが反応するにとどまった。
この問題が本格的に注目を集めたのは、元ジャニーズJr.であるカウアン・オカモト氏が4月12日、日本外国特派員協会でみずからの性的被害を直接訴えたことによる。その日のうちに朝日新聞デジタル版に記者会見の詳細が掲載され、また翌日にはNHKが地上波のニュースおよびウェブメディアでこのことを伝えた。
決定的だったのが、5月17日のNHK「クローズアップ現代」、「誰も助けてくれなかった 告白・ジャニーズと性加害問題」の放送だろう。その3日前には、ジャニーズ事務所社長(当時)、藤島ジュリー景子氏が自社のウェブサイトを通じて、性加害問題についての見解などを発表している。民法を含む、多くのメディアが報じるようになったのは、この時期だ。「タブー」が解けたのだ。
また同事務所は5月26日に、「外部専門家による再発防止チーム」を設置すると発表した。そして8月末、この特別チームによる報告書の公表と記者会見が行われた。
この頃から一部の企業は広告における「ジャニーズ断ち」を模索し始める。確かに、取引先に対しても人権侵害がないことを確認する「人権デューデリジェンス(DD)」は、今や世界の常識だ。だが本来の人権DDでは、まずは関与を続けて相手企業を改善していくことが求められる。取引停止は最後の手段なのだ。
ともかく、今は大手企業の今後の対応に注目が集まっているようだ。自社CMでの契約見直しの流れが続けば、スポンサーという「現実」に駆動される形で、民法各局も「縁切り」を始めるのだろううか。
だが、そんな形でこの問題を終わらせて良いはずがない。そもそも、そのような態度は「ケガレ」を忌避しているに過ぎないのではないか。人権DDを隠れ蓑に、この社会の古層に残留する前近代的な慣習を再演しているようにも見えるのだ。
この問題の第一義的な責任がジャニー喜多川氏と同事務所にあるのは明白だ。だが、ここで改めて問うべきは、なぜ私たちの社会が、この重大な人権侵害を約70年もの間、事実上、放置してきたのか、である。
先述のように、「ジャニー喜多川氏の性加害問題」をアジェンダに設定したのは、日本のメディアではなく、英国のBBCだった。しかし、だからと言って、BBCが絶対的に優れていて、日本のメディアがそうでなかった、という整理もまた粗雑だろう。というのも、BBC自身が約10年前に、とても似たタイプの醜聞を経験しているからだ。それはBBCの人気司会者だったジミー・サビル氏による性的虐待事件である。
すでにジャニーズ問題に触発される形で報じられているためご存じの方も多いだろう。この事件もサビル氏の死後に発覚した。また被害者は子どもを中心に数百人にのぼる可能性もあるという。しかも、当初BBCの幹部が彼の犯行を隠蔽しようとした疑いがある。最初に罪を暴いたのは、民放・ITVの特集だった。
マスメディアの重要な役割の一つは、当然、権力の監視である。しかし、喜多川氏やサビル氏のように、メディア・システムの内部に一度、強すぎる立場ができてしまうと、それを排除することは相当に難しい。かといって政治権力のメディアへの干渉を許せば、民主主義の根幹が損なわれる。では、どうすべきか。
私見だが、結局、マスメディアが相互監視を徹底させるよりないのではないか。餅屋は餅屋、マスメディアの「痛い所」を衝けるのは、やはりマスメディアなのだ。
また、どのキー局も横並びでジャニーズのタレントに依存してきたことが、明らかに加害の発覚を遅らせた。仮に、社の方針で「うちではジャニーズは使わない」というところが一つでもあってなら、問題はもっと早く解決に向かっただろう。それは不可能だったと関係者は言うかもしれない。だが、視聴者・読者の多くはすでに、紋切り型・横並びのマスメディアに飽き飽きしている。多様化の加速は、喫緊の課題なのだ。
これを機に、徹底的に自己変革を進めよう。さもなくば日本のマスメディアに、明るい未来は訪れない。」朝日新聞2023年9月27日朝刊13面オピニオン欄。月刊安心新聞+。
この8月の「戦争回顧の日々」でも、とくに原爆をめぐってその悲惨とともに「戦争はしてはいけない」という決まり文句が、何か空しく響いた。世界の趨勢は戦争に向かっているのかもしれないということと、それとは別に、ハワイの真珠湾にある国立記念公園の戦争記念施設と広島の平和記念公園とが、姉妹協定を結んだという報道があり、太平洋の戦争が開始された場所と終わった場所が「姉妹協定」を結ぶことへの疑問が被爆者の一部から出されたという。確かに素直に喜べる話とも思えない。パールハーバーの記念館の展示は、日本への非難に始まり最後の勝利をもたらした米軍を称えるものであり、それはアメリカ人には当然の輝かしい歴史になる。しかし、日本側の広島平和記念館の展示は、米軍を加害者として糾弾するという色彩は薄く、ただ被害者としての市民、死者・被爆者の苦しみを思い追悼する、という展示になっている。こういう形で戦争が終わったという事実を確認し、そのことに対してどう決着をつければよいか、日米の落差は大きい。
戦後の日本国内での言論を、右翼対左翼と単純化するのはあまりにも大雑把だけれども、ある時期まで負けた戦争への態度は正反対だった。左翼は基本的に15年の戦争はアジアへの侵略戦争だったと捉え、まちがった選択を反省せよと言っていた。右翼は逆に負けはしたが西洋白人の植民地から解放させるという大義があったのだと言う。戦後生まれのぼくは公平に見て、右翼の正義の戦いだったという理屈は、いかにも嘘っぽく、左翼の侵略戦争論のほうに分があると思った。ただこれだと戦争で死んだ人々はみな不幸な犠牲者・被害者になってしまい、軍国主義者だけを悪人にして自分は良心的だなどといいかねない。たぶん日本人の多くは、はじめパール・ハーバーの勝利に拍手喝采し、本気で戦争に身を捧げようと思ったろうが、だんだん負けが込んで最期は空襲で家を焼かれ肉親を失うまでになった。これはたまらん、もうこりごりだと思うのは当たり前の感情だ。しかしそれだけだと、自然災害と変わらないように、責任も反省もあいまいになる。佐伯啓思氏もぼくと同い年で、戦後の生まれだから直接の体験も責任もないわけで、だからこそ戦争の意味について、社会科学的にちゃんと考える義務はあると思う。
「丸山(眞男)や清水(幾太郎)の世代、もっといえば、いわゆる戦後進歩的知識人として活躍する世代は、そのまわりに幾多の死者を見てきた世代である。仲間が死に、近親者が死に、友人が死ぬ。そうした中で、生き残るということ。このことが、ある種の「負い目」を残さないはずはない。生き残ったという事実こそが、彼らの「誇り」を傷つけている。
むろん、そのことは特に自覚されることではないだろうし、実際には「誇り」を傷つけられるようなことでもない。にもかかわらず、あの戦争において、決して軍国主義者ではない多くの者が、時局の中で自ら志願し、また徴用されて戦地で死んでいったという事実のもつ意味はあまりに大きな心的外傷を与えずにはおかないであろう。同世代の者の多くが戦地に散っていったにもかかわらず自分は生き残ったという事実。「負い目」はここに発する。いかに「あの戦争は誤った戦争だった」といったとしても、誰も、この死者たちを「謝った戦争で犬死した」というわけにはいかないのである。その意味では、彼らもまた戦争をともに遂行した」ことは間違いない。そして死者たちを前にすれば、あの戦争に対して何らかの意義づけをせざるをえないにもかかわらず、戦後、あの戦争を侵略戦争とみなしてそのいっさいを断罪したとき、死者たちを見捨てることになる。そこに「負い目」が生じる。これが「誇りを傷つける」ものの正体なのではないのだろうか。
私は、むろん、彼らに批判の言葉を投げつけ、糾弾しようとしているのではない。そのような資格は私にはないし、「あの戦争」が、戦後生まれの私などには想像もつかないような、とてつもない体験であったろうと推測するだけである。その時代に直面し、その体験をかいくぐってきた者の個人的な内面に踏み込むようなことはしたくないし、まして彼らの戦争責任云々などという気は全くない。
私が、ここで述べているのは、「戦後」という時代精神の底によどんでいるある種の不透明感についてなのである。戦争そのものをすべきではなかった、という心情は十分に推察できる。それはそれでよい。それを「戦争は間違っていた」と表現するのもわからなくはない。だが、そのしごく当然の帰結であるかのように、戦後民主主義や平和主義へとなだれ込んでしまうという「戦後精神」にはあるやましさがつきまとうのではなかろうか。
戦前ときれいさっぱり決別して整地された「戦後」というきれいな時空には、何か割り切れぬものがついてまわるのだ。戦後知識人がいくらきれいごとの「理想」を説いてもどうしても宙に浮いてしまい、嘘っぽく聞こえる。その陥穽を突くかのようにいわゆる右派が戦前の再評価を求める。そして、そうなればなるほど、さらに戦後知識人は民主主義や平和主義の「絶対的な正しさ」を唱え、「あの戦争」を誤った戦争と断じる。
だがその態度のもつほとんど強迫的で神経症的な性急さの背後にあるものは何なのだろうか。ものごとを「断じる」ということは、そこで判断を打ち切るだけでなく、そのことを他者にも強要することである。そして、私が「戦後民主主義者」や「進歩的知識人」なるものに対する不信感を払拭できないのは、まさに、自らを「正義」と主張するこの原理主義的なやり方が、民主主義や平和主義の精神と本質的に相反するからなのである。
この自己矛盾を平然と犯して、戦後思想の「正義」を唱えて恥じない性急さの裏には、何か屈折したものがあると考えざるをえない。それがこの種の「負い目」なのではなかろうか。この「負い目」を覆い隠すために、戦後思想は、戦争責任をことさら一部の軍事的指導者に押し付け、彼らにだまされていたという方便で、自らの潔白を証明しようとする。「国民」なるものはだまされていたためにその責任を免れた。責任を免れた「国民」は、戦後の「民主」と「平和」という正義の旗を掲げて恥じない。しかも便利なことに、りそうはいつまでたっても実現しない。したがって、永遠に「民主」と「平和」という「正義」を唱え続けておれば、この自己欺瞞の舞踏は永遠に続く。
丸山眞男は、生き残った戦中世代の知識人をさして、戦後だいぶたってから「悔恨共同体」と呼んだ(「近代日本の知識人」)。「謝った戦争」を食い止めることができなかったという「悔恨」がこの世代の知識人を結びつけている、というのである。たとえば多くの知識人が戦後、共産党に入党したり、そのシンパになっていった。それは戦時中に戦争反対を表明できなかったという意味で、彼らが共産党に「負い目」を感じているからだという「悔恨」は「負い目」を背景にしている。しかし、これはいささか都合のよい「悔恨」であるように思われる。むろん、戦後のある時点から振り返ってそのようにいうことは可能かもしれないが、それによって隠匿されるものがある。少なくとも、この「共同体」は、丸山世代としても決して一般的なものではなかろう。
人によっては「悔恨」は、戦争阻止に失敗した点にあるのではなく、、むしろ敗北した点にある、ということにもなる。先にもあげたが、決して「本来のインテリ」さえも、丸山のいう「悔恨共同体」に落ち着くはずはないのである。彼らの多くもまた、戦争に「勝つ」つもりで戦ったからである。そこに、もうひとつの「共同体」ができる。竹内洋はそれを「無念共同体」と呼んでいるが、確かに、戦争に敗北したことを無念と考える人々がいる。彼らは八・一五は、「終戦記念日」ではなく「敗戦の日」だと考える。「敗北」したために日本は、GHQに「骨抜き」にされ、戦後という長い混迷の中に突入していった、というのである。丸山の「悔恨」が隠蔽したものは、この「無念共同体」の存在であった。
こうして、「悔恨共同体」と「無念共同体」がちょうど張り合わせになった形で、戦争の精神的外傷は戦後へある種の不透明さをもたらした。この両者は、相容れないのだが、また、先ほどの左翼と保守のように、相互に相手に寄りかかりあっているともいえるであろう。
だが、実は、この背後にもうひとつの「共同体」があるように思われる。それは、けっして「謝った戦争を阻止できなかった」という悔恨の言葉をつぶやくのでもなく、また、「敗北したことが無念だ」と涙をかみしめるのでもない。戦争が仮に誤ったものだとしても、そして敗北することは必定だったとしても、むしろそうであればこそ突き刺さってくるある種の「負い目」あるいは「疚しさ」というべきものだ。
それこそが上に述べた「死者たちに申し訳ない」という心情から発するある種の「負い目」「疚しさ」ではないだろうか。これは、「悔恨共同体」でも「無念共同体」でもなく、しかもその両者の奥底に共通に流れている心情だと思われる。丸山は「悔恨共同体」は共産党に対する「負い目」をもたらしたという。確かにその面はあっただろう。だが、そのようにいうことによって、本質にある「負い目」は隠されてしまう。死者に対する負い目である「死者に対して申し訳ない」¥という心情は、その後の戦後が今日あるように、おそるべき勢いで繫栄(虚の繫栄)を続けていけばいくほど、そこに埋没することの「疚しさ」を感じることになるであろう。それを「疚しさ共同体」とでも呼んでおこう。戦後の時空を支配するある種の不透明感、割り切れぬ感覚、その基底にある「負い目」はこのようなものではなかろうか。
丸山がいくら「悔恨共同体」といっても悔恨から解脱することはできないように、いくら「疚しさ共同体」といっても、それから逃れることはできない。「負い目」を清算することはできないであろう。「民主」と「平和」というお題目だけが宙を待っている間にも現実は進行してゆく。冷戦体制のもとで、日本はアメリカの政治・軍事的圏域にすっぽりと収められ、価値観の上においてもアメリカに従属してゆく。「民主」などといっても、自主自立した民主的市民などどこにも存在せず、「平和」といっても、米軍によって保護された平和という変則的事実は覆い隠しようもない。
そうだとすれば、あの戦争において、あたかも「犬死」であるかのように扱われた死者たちへの鎮魂はどうなるのか、という問いが繰り返し脳裏をよぎるであろう。戦後というのっぺりとした時空の中で、表面的には民主主義がにぎやかで騒々しい大衆的政治を実現し、ありあまるほどの国民的資産を何に投資してよいのかわからずに呆然としている今日の「日本人」を見たとき、この平和と繁栄を、戦前の「過ち」を改めたからというだけで礼賛できるだろうか。それでわれわれは「死者」への責任を果たしたことになるのだろうか。そうはいえまい。こうしてわれわれは「死者」への責任を果たしたことになるのだろうか。そうはいえまい。こうして事態の顕在的側面で太平楽の戦後が進行するにつれて、意識の潜在的側面で「負い目」は増幅するだろう。
その「負い目」をみずから告白して意識の前面に押し出したのが三島由紀夫であった。彼は、死ぬべきはずが生き残ってしまった世代にある。その「負い目」が『英霊の声』を書かせる。三島は、いわば生き残った者の務めとして死者の声を代弁しようとする。
今から四十年ほども前に書かれたこの特異な小説は、あまりに三島独特の美学に覆われてはいるが、この小説の中で三島が述べていることは、その外観ほど異形なことではない。
三島は、この作品の中で、ある神帰の会で体験した、若い戦死者たちの語りを描いている。彼らは海軍特攻として海の藻屑と消えた英霊である。神がかりの歌は、まず、戦後日本の精神的な堕落を詠嘆する。「……外国の金銭は人らを走らせ、もはや戦いを欲せざる者は卑劣をも愛し……いつわりの人間主義をたつきの糧となし……偽善の団欒は世をおおい……なべて痴呆の笑いは浸潤し……ただ金よ金よと思いめぐらせば、人の値打ちは金よりも卑しくなりゆき……大ビルはたてども大義は崩壊し……」。
もはや説明を要さないであろう。少し背筋が寒くなる思いである。まさしく今日の日本の姿だからだ。作家の感性の鋭さといってもよいし、四十年たっても事態は少しも全く変わっていないといってもよい。だが、ひとつ大きく変わった点がある。それは次のような三島の言い方である。今日の日本のこの醜態をもたらしたものは、天皇という絶対的なもの、つまり神を失ったからだ、と三島は最後にいうのである。四十年前にはまだ三島のこの言い方は、いささか奇矯に響いたにしても、決して時代錯誤でもなければ、無意味な言説ではなかった。それこそが「戦後」を特徴づけるものだからであったからである。しかし今日、このような言い方はあまりに時代錯誤に響く。この四十年で何か変わったのだろうか。
敗戦によって、天皇の「神聖」は剥奪される。天皇が人間となったとき、戦後の堕落は決定づけられた。「実は朕は人間であった」と天皇自らが述べたとき、天皇の名において死した特攻の霊は決して救われることがなくなった。天皇はそのために死した至純の英霊を見捨てたわけである。「などてすめろぎは人となりたまいし……」と英霊は呪詛に満ちた声で繰り返す。
このいわば「天皇」を擁護するために手厳しい天皇批判をするという独特の思想的作品の要点は、しかし、決して特異なものでも、三島的美学によってむりやりに装飾されたものでもない。三島が述べていることは明解でわかりやすいことであった。
日本は、あの戦争において、天皇=神という絶対的なものを基軸にすえていた。この軸があって初めて、人はその死に意味を与えることができた。つまり、人間は、人間を超えた絶対的価値に対して全面的に奉仕することによって、その行動に意味を与えることができたわけである。ところが、天皇が神ではなくなり人間になったとき、人間以上の価値をもつ者はいなくなった。価値とは人間が奉仕するものではなく、自分自身にほかならない。
ここに、戦後の人間中心定な快楽主義、生命至上主義、平和の礼賛が繚乱のごとくたち現れる。自己を全面的に奉仕する絶対的価値を失ったとき、人は、自己を律する倫理の源泉を失い、ただ放縦と気紛れと、その場しのぎの快楽に生を委ねる。真の価値が失われ、その代理として金銭が価値の中心に座る。
こうしたことは決してわかりにくいことではない。三島は問いかける。戦争に敗れるのはよい、戦後の社会改良もよい、敗戦の負い目を追って生きるのもよい、しかしなぜ天皇は人間となってしまったのか、という。それではこの「戦後」の空間において、あの戦争において、天皇のために殉じた死者の魂が安らぐ場所はないではないか、という。」佐伯啓思『日本の愛国心 序説的考察』中公文庫、2015年。pp.209-217.
戦後リベラル知識人の代表としての丸山眞男が、69年の東大闘争で全共闘の学生に、自分の研究室を破壊され「ナチスでもこんなことはしなかった」と嘆いたことで、結局自分は恵まれた安全地帯にいて、そこから政府批判の言説を垂れるインテリは、信用できないと学生たちは思い、それよりは単身全共闘との討論会にやってきて共感を示す三島由紀夫のほうがまだましだ、と思った人もいた。やがて三島が自衛隊で自決したとき、その主張は右翼的でおかしなものだったけれど、記憶には刻まれた。でも、丸山眞男をそう簡単に否定などできない。
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B.雰囲気を読み忖度で動く日本
ジャニーズ性加害問題が、いかに人々には無関心だったか、を考えると改めて恐ろしい。もしこれが、AKBとか宝塚だったら、即座に許しがたいセクハラ事件としてマスメディアは大騒ぎし、加害者は処罰されたにちがいない。権力をタテに女性に性暴力を働くことは、もはや弁解の余地のない犯罪だとみんな思うから。しかし、同様のことが男の子に対して行われていたのに、それは大したことではない、と男も女も思っていたふしがある。それは大手マスメディアにほぼ共通していた。ジャニーズは人気者であり、ケンカすれば自分たちにも火の粉がかかる、と思ったのだろうか。
「ジャニーズに依存してきたマスメディア 横並び脱却と相互監視を 上里達博
故ジャニー喜多川氏による性被害問題は、日本社会を動揺させている。 (中略) BBCには複数のチャンネルがあり、「Two」は日本で言えばNHK・Eテレ(教育テレビ)にあたる。番組では、ジャーナリストのモビーン・アザー氏が東京を訪れて取材を重ね、ジャニー喜多川氏による性加害の実態と、それがあたかも存在しないかのように扱われてきたことの重層的な背景に、迫っていく。
この番組は、まず3月7日に英国のプライムタイムで、さらに3月18日には「BBCワールドニュース」で日本でも、放送された、だがこの段階ではまだ、週刊文春など一部のメディアが反応するにとどまった。
この問題が本格的に注目を集めたのは、元ジャニーズJr.であるカウアン・オカモト氏が4月12日、日本外国特派員協会でみずからの性的被害を直接訴えたことによる。その日のうちに朝日新聞デジタル版に記者会見の詳細が掲載され、また翌日にはNHKが地上波のニュースおよびウェブメディアでこのことを伝えた。
決定的だったのが、5月17日のNHK「クローズアップ現代」、「誰も助けてくれなかった 告白・ジャニーズと性加害問題」の放送だろう。その3日前には、ジャニーズ事務所社長(当時)、藤島ジュリー景子氏が自社のウェブサイトを通じて、性加害問題についての見解などを発表している。民法を含む、多くのメディアが報じるようになったのは、この時期だ。「タブー」が解けたのだ。
また同事務所は5月26日に、「外部専門家による再発防止チーム」を設置すると発表した。そして8月末、この特別チームによる報告書の公表と記者会見が行われた。
この頃から一部の企業は広告における「ジャニーズ断ち」を模索し始める。確かに、取引先に対しても人権侵害がないことを確認する「人権デューデリジェンス(DD)」は、今や世界の常識だ。だが本来の人権DDでは、まずは関与を続けて相手企業を改善していくことが求められる。取引停止は最後の手段なのだ。
ともかく、今は大手企業の今後の対応に注目が集まっているようだ。自社CMでの契約見直しの流れが続けば、スポンサーという「現実」に駆動される形で、民法各局も「縁切り」を始めるのだろううか。
だが、そんな形でこの問題を終わらせて良いはずがない。そもそも、そのような態度は「ケガレ」を忌避しているに過ぎないのではないか。人権DDを隠れ蓑に、この社会の古層に残留する前近代的な慣習を再演しているようにも見えるのだ。
この問題の第一義的な責任がジャニー喜多川氏と同事務所にあるのは明白だ。だが、ここで改めて問うべきは、なぜ私たちの社会が、この重大な人権侵害を約70年もの間、事実上、放置してきたのか、である。
先述のように、「ジャニー喜多川氏の性加害問題」をアジェンダに設定したのは、日本のメディアではなく、英国のBBCだった。しかし、だからと言って、BBCが絶対的に優れていて、日本のメディアがそうでなかった、という整理もまた粗雑だろう。というのも、BBC自身が約10年前に、とても似たタイプの醜聞を経験しているからだ。それはBBCの人気司会者だったジミー・サビル氏による性的虐待事件である。
すでにジャニーズ問題に触発される形で報じられているためご存じの方も多いだろう。この事件もサビル氏の死後に発覚した。また被害者は子どもを中心に数百人にのぼる可能性もあるという。しかも、当初BBCの幹部が彼の犯行を隠蔽しようとした疑いがある。最初に罪を暴いたのは、民放・ITVの特集だった。
マスメディアの重要な役割の一つは、当然、権力の監視である。しかし、喜多川氏やサビル氏のように、メディア・システムの内部に一度、強すぎる立場ができてしまうと、それを排除することは相当に難しい。かといって政治権力のメディアへの干渉を許せば、民主主義の根幹が損なわれる。では、どうすべきか。
私見だが、結局、マスメディアが相互監視を徹底させるよりないのではないか。餅屋は餅屋、マスメディアの「痛い所」を衝けるのは、やはりマスメディアなのだ。
また、どのキー局も横並びでジャニーズのタレントに依存してきたことが、明らかに加害の発覚を遅らせた。仮に、社の方針で「うちではジャニーズは使わない」というところが一つでもあってなら、問題はもっと早く解決に向かっただろう。それは不可能だったと関係者は言うかもしれない。だが、視聴者・読者の多くはすでに、紋切り型・横並びのマスメディアに飽き飽きしている。多様化の加速は、喫緊の課題なのだ。
これを機に、徹底的に自己変革を進めよう。さもなくば日本のマスメディアに、明るい未来は訪れない。」朝日新聞2023年9月27日朝刊13面オピニオン欄。月刊安心新聞+。