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カント『判断力批判』の美学論 4 個人の自由と功利主義の批判  民間軍事会社が登場した!

2023-07-30 19:05:40 | 日記
A.実存主義・幸福主義・精神分析
 道徳を主題とした『実践理性批判』は、人間の他者とのかかわりを問う中に、自由と倫理、選択と責任という問題を超越論的に解き明かす試みだった。そこから結局は「個人主義」あるいは個人の決断が肝心、といったような主体主義・実存主義が出てきたとすれば、それはカントの勝手な誤読、あるいは主体と構造という従来の構図を読み直しただけのものである、と柄谷は言う。すべては因果のなかに収まっているという決定論を否定したくて決断する主体をもってきても、それはある理論を括弧に入れることなしには成立せず、しかもどこかで括弧を外すことをしなければ、倫理も構造も成立しない。カントはそう読むべきだと。

 「カントの倫理性は、道徳論においてのみ見てはならない。理論的であることと同時に実践的であること、この超越論的な態度そのものが倫理的なのだ。われわれは、ここで、戦後のフランスで生じた実存主義、構造主義、ポスト構造主義という変遷を別の観点から見てみよう。たとえば、実存主義者(サルトル)は、人間が構造論的に限定されていることを認めながら、なお、自由があることを主張した。それはある意味で「実践的」観点である。一方、構造主義者が主体を疑いそれを構造の「効果」(結果)として見たとき、「理論的」な態度をとったのである。彼らがスピノザに遡行したのは無理もない。先に述べたように、カントの第三アンチノミーにおける正命題は、スピノザの考え――すべてが原因によって決定されており、人が自由だと思うのは、原因があまりに複雑であるからだ――に帰着する。そうした自然必然性を超える自由意志や人格神は想像物であり、それこそ自然的、社会的に規定されている。ただし、その原因はけっして単純ではない。そこではしばしば原因は結果によって遡及的に構成されている。アルチュセールがスピノザに関して「構造論的因果性」と呼んだものも、あるいは「重層的決定」(overdetermination)と呼んだものも、広い意味で決定論である。
 だが、このような考えに驚くべきではない。それは一つの括弧入れによって生じる「理論的」立場に固有のものである。実存主義と構造主義、あるいは主体と構造というかたちで問われた問題は、すこしも新しくない。それはカントが第三アンチノミーとして語った事柄の変奏にすぎない。構造主義的な視点に対して、主体を強調すること、あるいはそこに主体を見いだそうとすることは無意味である。なぜなら、それを括弧に入れることによってのみ、構造論的決定論が見出されるのだから。逆に、構造論的な決定を括弧に入れた時点で、はじめて主体と責任の次元が出現する。ポスト構造主義者が道徳性を再導入しようとしたのは、当然である。しかし、それが何か新たな思想でもあるわけではない。実存主義、構造主義、ポスト構造主義という通時的過程に眼を奪われている者は、それが理論的な態度と実践的な態度の交替にすぎないことを見落とす。カントが明らかにしたのは、この二つの姿勢を同時にもたねばならないということである。わかりやすくいえば、われわれは括弧に入れると同時に、括弧を外すことを知っていなければならないのだ。
 カントが『実践理性批判』で最も批判したのは、「幸福主義」(功利主義)である。彼が幸福主義を斥けるのは、幸福がフィジカルな原因に左右されるからだ。つまり、それは他律的だからだ。その意味で、自由はメタフィジカルであり、カントが目指す形而上学の再建とはそのこと以外にない。しかし、カントが他律的と見なしたのは、幸福主義だけではない。たとえば、ヘーゲルは、カントが当時支配的であった幸福主義を批判したことを先ず評価し、だが彼が個人主義にとどまったことを批判している(『小論理学』)。しかし、当時支配的だったのはむしろ、家族、共同体、教会などが強いる習慣的な道徳であり、イギリス由来の幸福主義(個人主義)はむしろそれを破壊するものとして攻撃されていたのである。ヘーゲルは、カントの幸福主義批判を認め、さらに客観的道徳(人倫)の優位を説くことによってカントを批判した。それは、家族、共同体、国家を回復することである。むしろ、その意味でなら、カントは経験論的な「幸福主義」をあえて支持するだろう。だが、幸福主義から普遍的な道徳法則を導くことはできない。

  われわれは幸福の原理を、確かに格率たらしめることができる。しかし我々が普遍的幸福を我々の〔意志の〕対象とする場合でも、幸福の原理を意志の法則として使用に堪えるような格率たらしめることはできない。幸福の認識は、まったく経験的事実にもとづくものであり、また幸福に関する判断は各人の臆見に左右され、そのうえこの臆見なるものが、また極めて変わり易いものだからである。それだから幸福の原理は、なるほど一般的な規則を与えることはできるが、しかし普遍的規則を与えることはできない。(『実践理性批判』同前)

 この一般性と普遍性の違いに注目すべきである。カントは道徳法則を、現に存するさまざまな道徳から抽出したのではない。確かに彼は道徳を形式化したが、それは一般的なものを取り出すためではない。彼の考えでは、道徳的領域は「自由であれ」という命令(義務)において存する。道徳法則は、自由であれということ、同時に、他者をも自由として扱えということにつきる。先に述べたように、カントが義務に従うことに自由を見出したことは、多くの誤解を生んだ。それは、共同体や国家の課す義務に従うことと混同されてしまいがちである。しかし、くりかえすが、カントは道徳性を、善悪にではなく、「自由」において見ようとした。われわれが自然的・社会的因果性によって動かされている次元において、善悪はありえない。しかも、実際には、自由(自己原因)などない。あらゆる行為は原因に規定されている。しかし、自由は、自分がやったことをすべて自己が原因である「かのように」考える所に存する。たとえば、カントが世界を現象(自然)と物自体(自由)に分けたことを非難したニーチェは、つぎのようにいっている。

  「然り」〔Ja〕への私の正しい道。――私がこれまで理解し生き抜いてきた哲学とは、生存の憎むべき厭うべき側面をみずからすすんで探求することである。(中略)「精神が、いかに多くの真理に耐えうるか、いかに多くの真理を敢行するか?」――これが「私には本来の価値尺度となった。〔中略〕この哲学はむしろ逆のことにまで徹底しようと欲する――あるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択したりすることなしに、ディオニソス的に然りと断言することにまで――〔中略〕このことにあたえた私の定式が運命愛〔amor fati〕である。(『権力への意志』原佑訳、「全集」第12巻、理想社)

 ニーチェは『道徳の系譜学』や『善悪の彼岸』において、道徳を弱者のルサンチマンとして批判した。しかし、この「弱者」という言葉を誤解してはならない。実際には、学者として失敗し梅毒で苦しんだニーチェこそ、端的に「弱者」そのものなのだから。彼がいう運命愛とは、そのような人生を、他人や所与の条件のせいにはせず、あたかも自己が創り出したかのように受け入れることを意味する。それが強者であり、超人である。が、それは別に特別な人間を意味しない。運命愛とは、カントでいえば、諸原因(自然)に規定された運命を、それが自由な(自己原因的な)ものであるかのように受け入れるということにほかならない。それは実践的な態度である。ニーチェがいうのは実践的に自由な主体たらんとすることにほかならず、それは現状肯定的(運命論的)態度とは無縁である。ニーチェの「力への意志」は、因果的決定を括弧に入れることにおいてある。しかし、彼が忘れているのは、時にその括弧を外して見なければならないということである。彼は弱者のルサンチマンを攻撃したが、それを必然的に生み出す現実的な諸関係が存することを見ようとしなかった。すなわち、「個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである」という観点を無視したのである。
 さらにいうと、アドルノは、カントのいう義務を社会的な規範として理解し、フロイトにもとづいて批判しようとした。カントは道徳哲学から発生的契機を除去し、その埋め合わせとしてそれにヌーメナルな性格を与えたと、彼はいう。

 カントは形式主義を助けにして、道徳の経験的相対性を排除した。この形式主義に意義を唱え、〔道徳の〕内容に依拠してそうした相対性を証明しようとしたカント解釈は、いずれも近視眼的である。法則は、その最も抽象的な形態においても、生成したものである。そうした抽象性がわれわれに与える苦痛とは、法則のうちに沈殿した内容、すなわち、同一性という標準形式に切り詰められた支配なのである。カントの時代の心理学がまだ知らなかったもの、それゆえカントがことさら気にかける必要がなかったもの、すなわちカントが分析せずに無時間的に英知的なものとして賞賛したものの経験的発生を、今日の心理学は遅ればせながら具体的に獲得することになった。フロイト学派は、その興隆期において、自我とは異質なもの、つまり真に他律的なものとしての超自我への容赦ない批判を要求した(この点では、もうひとりのカント、すなわち啓蒙主義のカントと軌を一にしている)。フロイト学派は超自我を、社会的強制の盲目的で無意識的な内面化として見抜いていたのである。(『否定弁証法』)木田元他訳、作品社)

 だが、これは端的に誤解である。フロイト自身が「快感原則の彼岸」以後、超自我に対する見方を修正している。彼は、超自我が社会的規範に根ざすというこれまでの見解を原則的に否定しないが、同時に、超自我が、死の欲動あるいは外に向けられた攻撃欲動が内向してくることによって形成されると考えた。フロイトは、ここで、一種の「自立性」を見いだしている。それは、死の欲動に由来する超自我が死の欲動を制する、ということである。そして、死の欲動は、フロイト自身が認めざるを得ないように、メタフィジカルな概念である。しかし、同じ本の中で次のようにいうとき、アドルノはメタフィジカルではないのか。

  永遠に続く苦悩は、拷問にあっている者が泣き叫ぶ権利を持っているのと同じ程度には、自己を表現する権利を持っている。その点では、「アウシュヴィッツのあとではもはや詩は書けない」というのは、誤りかもしれない。だが、この問題と比べて文化的度合いは低いかもしれないが、けっして誤った問題ではないのは、アウシュヴィッツのあとではまだ生きることができるのかという問題である。偶然に魔手を逃れはしたが、合法的に虐殺されていてもおかしくなかった者は、生きていてよいのかという問題である。彼が生きていくためには、冷酷さを必要とする。この冷酷さこそは市民的主観性の根本原理、それがなければアウシュヴィッツそのものも可能ではなかった市民的主観性の根本原理なのである。それは殺戮を免れた者につきまとう激烈な罪科である。その罪科の報いとして彼は悪夢に襲われる。自分はもはや生きているのではなく、1944年にガス室で殺されているのではないか、現在の生活全体はたんに想像のなかで営まれているにすぎないのではないか、つまり二十年前に虐殺された人間の狂った望みから流出した幻想ではないのかという悪夢である。(『否定弁証法』同前)

 ヤスパースなら、このような責務感を道徳的責任と区別して、形而上学的責任と呼ぶだろう。つまり、道徳的責任は間接的であれ何らかの悪に関与したことによって生じ、形而上学的責任は特に何もしていないにかかわらず生じる。しかし、アドルノも、ヤスパースもそれぞれ違った意味においてであるが、このような例を出すことによって、カントの道徳論を超えたつもりでいるなら、間違っている。カントにとって、道徳性はつねに形而上学的(メタフィジカル)である。その意味では、共同体の道徳(善悪)はフィジカル(自然的)なのだ。アドルノが右のようにいうとき、実は、カントが道徳性を考えた地点に近づいているのである。
 カントにおいて道徳的領域は、「自由であれ」という命令によって生じると私は述べた。この命令が共同体や国家や宗教から来るものではないことはいうまでもない。だが、それは「内に」あるのでもない。やはり、それは「外」から来るのだ。たとえば、デリダは、責任(respondability)という観点から考えた。責任は他者に対する応答としてあらわれる。むしろ他者への応答ということが、人を「自由」の次元に追い込むのだ。アドルノの場合、他者とはアウシュヴィッツで死んだ人たちである。彼には現実的に何の罪もない。彼自身も被害者なのだから。しかし、アドルノが死者たちに責任を感じるのは、死者を手段にして生き延びたと感じるからである。それは、カントでいえば、「君の人格ならびにすべての他者の人格における人間性を、けっしてたんに手段としてのみ用いることなく、つねに同時に目的として用いるように行為せよ」という命法に従うときにのみ、生じる責任である。
 アドルノがアウシュヴィッツの死者たちに感じる責任は、「内から」来るようにみえる。しかし、それはやはり「外から」、つまり他者から来るのだ。他者というとき、それは必ずしも現存する他者である必要はない。他者――自分と規則を共有しない者――には、いまここに存在もしていない人々、未来の人間や死者がふくまれる。というよりも、むしろ彼らこそが他者の典型である。倫理学は一般的に、生きている他者、しかも、同じ共同体の他者しか考えていない。しかし、他者を物自体として見るカントの倫理学には、未来と過去にわたる他者が導入されているのである。
 アングロサクソン系の哲学では、カントを否定し、功利主義的な立場に戻って倫理学を構築しようとしてきた。一方、ハーバーマスは、公共的合意あるいは間主観性によって、カント的な倫理学を超えられると考えてきた。しかし、彼らは他者を、いまここにいる者たち、しかも規則を共有している者たちに限定している。死者や未来の人達が考慮に入っていないのだ。たとえば、今日、カントを否定し功利主義の立場から考えてきた倫理学者が、環境問題に関して、或るアポリアに直面している。現在の人間は快適な文明生活を享受するために大量の廃棄物を出すが、それを将来の世代が引き受けることになる。現在生きている大人たちの「公共的合意」は成立するだろう、それがまだ西洋や先進国の間に限定されているとしても。しかし、未来の人間との対話や合意はありえない。また、過去の人間との対話や合意もありえない。彼らは何も語らない。では、われわれはなぜ責任を感じなければならないのか。実際、何の責任も感じない人たちがいる。国家や共同体に関して「道徳的」な人たちが特にそうである。」柄谷行人『トランスクリティーク カントとマルクス』岩波書店、2010.pp.176-185.

 20世紀の思想家は、カントをいろいろと読み込んで批判しようとしたが、ニーチェ、フロイト、ヤスパース、サルトル、アルチュセール、そしてアドルノにハーバーマスとみなカントを超えた、あるいは超える地点に到達したと思ったけれど、カントが敵とみなしたアングロ・サクソンの功利主義哲学ほどにも、人間の本質を見通したとは言えないかもしれない。それは、幸福主義・功利主義がシンプルな倫理原則を立てているのに対し、さまよえる20世紀思想は、カントの「自由」を目指しては別の場所に行ってしまったのかもしれない。


B.戦争の民営化
 戦争は武器を持った兵士が戦うもので、その兵士は国家の命令で戦場に送りこまれた若者で、その戦争を命じるのは国家だというのが、近代国民国家の作り出した常識だった。国家の栄誉として戦死者は讃えられ葬られてきた。でも、民間軍事会社というものが現に存在して、国家だろうが企業だろうが営利を目的に契約を結んで戦争をする組織が登場した。こんなことは従来、想定されていない。もしこれを認めると、国家とか戦争とか軍隊とかというものの概念が変わってしまうほどの、恐ろしい現実がすでにあるのだ。

「論壇時評 下がる開戦のハードル:民間軍事会社と戦争の民営化  中島 岳志 
 六月後半、ロシア情勢が緊迫した。プリゴジンの反乱により、、「ワグネル」というロシアの民間軍事会社に注目が集まった。彼らは、これまでシリア内戦やアフリカ諸国で軍事オペレーションに従事し、ウクライナ戦争では、プーチン政権と一体化して戦場で活動してきた。「ワグネル」とはいったい、いかなる存在なのか。
 そもそも、ロシアでは傭兵の存在が禁じられている。ロシア憲法・刑法からみても、民間軍事会社は違法と言わざるを得ない。
 袴田茂樹は「ロシア民間軍事会社の行方」(日本国際フォーラムHP、6月30日)の中で、プーチンの矛盾を指摘する。ワグネルは違法であるにもかかわらず、プーチン政権は資金を提供し、軍事活動の中に組み込んできた。「プーチンに、憲法秩序を語る資格があるのか。プーチンはプリゴジンの事件に懲りて、彼自身がこれまで利用してきた民間軍事会社を、事件後は本当になくそうとしているのか」
 袴田の見解では、これまで民間軍事会社の存在を容認し、時に支援までしてきたプーチンが、突如として憲法や警報を順守する可能性は低い。1990年代、ソ連崩壊後のロシアでは、秩序の混乱の中、無法状態が放置され、財閥や政治家などは「クリーシャ」(屋根=庇護組織)を雇っていた。これはもともと武装した犯罪組織だったものが警備会社に衣替えしたもので、警備を請け負う企業として地位を確立した。警察やKGB組織は、これを取り締まるどころか、自らも「商売としてのクリーシャ稼業に励むという状況さえ生まれた」という。このような延長上で、現在のロシアでも、エネルギー企業ガスプロムなどは、自らの企業活動の警護と称して三つの民間武装組織を有しているといわれている。
 プーチンにとって、ワグネルのようなこのような延長線上で、現在のロシアでも、エネルギー企業ガスプロムなどは、自らの企業活動の警護と称して三つの未完武装組織を有しているといわれている。
 プーチンにとって、ワグネルのような民間軍事会社はリスクを伴う存在である。国会外の存在が軍事力うぉじすることを認めると、プリゴジンの反乱のような軍事クーデターの可能性が出てくる。民間軍事会社は、自らの政治的地位を脅かしかねない危険な存在なのだ。
 にもかかわらず、プーチンはワグネルを都合よく利用してきた。それは、リスクを上回るメリットがあると見なされてきたからである。民間軍事会社の活動は非公式なものであるため、その部隊から戦死者が出ても、公式な「戦死者」にカウントされない。よろんのはんぱつなどで正規軍の兵士を戦地に送れない場合などは、その代替として利用できる。
 小泉悠は「ワグネル プーチンの秘密軍隊」(東京堂出版、2023年)の「解説」の中で、「ワグネル」誕生の瞬間に迫る。
 小泉が注目をするのは、2010年、サンクトペテルブルクで開催された経済フォーラムである。民間軍事会社「エグゼクティブ・アウトカム」(EO)の設立者イーベン・バーロウがスピーチしたが、この後「参謀本部の直轄下に民間軍事会社を設置し、対外的に明らかにできない秘密作戦に従事させてはどうか」と提案したとされる。
 ロシア参謀本部にとって、「自らの関与を否定できる非公然介入部隊を設立することは好都合」だった。その結果、ワグネルの設立が進み、14年のウクライナ侵略に利用された。当時、ロシア政府はウクライナへの派兵を否定していたため、「ワグネル」の存在は「まさにおあつらえ向きだったのだろう」。
 ここで考えなければならないのは、戦争の民営化という事態である。民間軍事会社を利用することで、捕虜の虐待をはじめとした戦争の責任を問われない。民間軍事会社の戦死者にも責任を負わなくてもよい。
 これは、明らかに戦争を始めやすい状態を生み出している。戦争の民営化は、戦場での戦闘行為を民間軍事会社に委ねることによって、戦争責任をアウトソーシングする。国家指導者は戦争を始める権限を持ちながら、戦場での責任を問われない。そうなれば当然、国家指導者にとって戦争を始めるハードルは下がる。
 プリゴジンの反乱が収束したことでワグネルへの関心が収束しつつあるが、戦争の民営化という側面を問わなければ、問題の本質を見過ごすことになるだろう。 (なかじま・たけし=東京工業大教授)」東京新聞2023年7月25日夕刊、5面。
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カント『判断力批判』の美学論 3  「カスハラ」って?

2023-07-27 11:41:19 | 日記
A.美学の古典主義とロマン主義
 18世紀が西洋思想史では「啓蒙の世紀」、その18世紀末に起きたフランス革命とナポレオン戦争後の19世紀は「資本主義と帝国主義の時代」だといわれた。なにかが大きく変わったのは社会と経済だけでなく、人びとの考え方も大きく変わった。それをドイツ哲学は総括してカント、ヘーゲルの観念論哲学を確立したと教科書的にはいわれている。ただカントは啓蒙主義以来の知性の認識能力を問題にして、三つの批判書を書いて、『純粋理性批判』では知性・悟性の結果である科学や学問を批判し、『実践理性批判』では道徳の形成に働く人間の善悪決定の倫理を問い、三番目の『判断力批判』では何を美とするかというアートの問題を取扱った。とくに美学という領域は、そもそも理性とは別の主観的仮象だという見解はずっとあって、それが学問になるのか?というところから問題になった。カントは『判断力批判』で、全二著とは異なる、それらの間にあって人間の認識を形成する独自の領域と考えて批判を加えた。
 18世紀のちょうど真ん中、1750年に出たA.G.バウムガルテンの「美学aethetica」は、カントに影響を与えたと言われる。
 19世紀はじめの時代、美術や音楽で登場したような新古典派とロマン派の対立、という構図をどう見るか。柄谷行人は、カントの藝術論の視角とその後の展開をまずは簡単に要約している。

「ここであらためて、カントの芸術論について述べてみる。カント以前の古典主義者は、芸術性が客観的な形態にあると考えており、カント以後のロマン主義者は芸術性が主観的感情にあると考えた。しばしば、カントはロマン主義の先行者と見なされるが、実際には、彼はその二つの「間」で考えたのである。それは彼が経験論者と合理論者の「間」で考えたというのとまったく同じである。むろん、彼はそれらを折衷したのではない。彼は、認識を認識たらしめる根拠を問うたように、芸術を芸術たらしめる根拠を問うたのだ。あるものが芸術であるか否かは、それに対する他の関心を括弧に入れることによってのみ決まる。それが自然物であろうと、機械的複製品であろうと、日常的使用物であろうと、関係がない。それらに対する通常の諸関心を括弧に入れて見るということ、そのような態度変更が或る物を芸術たらしめるのだ。カントの美学が主観的だというのは、ある意味で正しい。しかし、それはロマン派的な主観性とは違っている。カントにおける主観性は、超越論的な括弧入れを行う「意志」なのだ。古典主義美学やロマン主義美学が古くさくなっても、カントの「批判」は少しも古びていない。たとえば、デュシャンが「泉」と題して便器を美術展に提示したとき、彼は芸術を芸術たらしめるものが何であるかをあらためて問うたのだが、それはまさにカントが提起したポイントの一つであった。すなわち、物をそれに対する日常的諸関心を括弧に入れて見ること。もう一つのポンとは、美的判断には普遍性が要求されるにもかかわらずそれがありえないということ、われわれが普遍的と見なすものは歴史的に形成された「共通感覚」にもとづいているということである。
 カントが美的判断に関して考えたこれらの事柄は、実際は第三の「批判」として最後に書かれたにもかかわらず、科学認識と道徳に関する彼の考察に先立って存在したといわねばならない。というのは、以上の二つのポイントは、たんに美学に固有の問題ではなく、あらゆる領域に通底するからである。あらゆる領域、と私はいったが、そもそもカントが提起したのは、「領域」そのものが超越論的還元(括弧入れ)によって存在するということである。彼は一方で、芸術性が客観的な対象にあることを疑い、他方でそれが主観性(感情)にあることを疑っている。彼がもたらす主観性は、むしろこの疑いにあり、それはたえず規範化される芸術を、芸術たらしめる原初の場に戻すのだ。カントが認めないのは、美的領域が、客観的であれ主観的であれ、それ自体で存在するという考えである。
 近代科学は、道徳的・美的な判断を括弧に入れるところに存在する。そのとき、はじめて「対象」があらわれるのだ。しかし、それは自然科学だけではない。マキャベリが近代政治学の祖となったのは、道徳を括弧に入れることによって政治を考察したからである。重要なのは、ほかならぬ道徳に関してもそういえるということである。道徳的領域はそれ自体で存在するのではない、われわれは物事を判断するとき、認識的(真か偽か)、道徳的(善か悪か)、そして、美的(快か不快か)という、少なくとも三つの判断を同時にもつ。それらは混じり合っていて、截然と区別されない。その場合、科学者は、道徳的あるいは美的判断を括弧に入れて事物を見るだろう。その時にのみ、認識の「対象」が存在する。美的判断においては、事物が虚構であるとか悪であるとかいった面が括弧に入れられる。そして、そのとき、芸術的対象が出現する。だが、それは自然になされるのではない。人はそのように括弧に入れることを「命じられる」のだ。しかし、それになれてしまうと、各戸に入れたこと自体を忘れてしまい、あたかも科学的対象、美的対象がそれ自体存在するかのように考えてしまう。道徳的領域に関しても同じである。
 道徳は客観的に存在するかのように見える。しかし、そのような道徳はいわば共同体の道徳である。そこでは、道徳的規範は個々人に対して超越的である。もう一つの観点は、道徳を個人の幸福や利益から考える見方である。前者は合理論的で、後者は経験論的であるが、いずれも「他律的」である。カントはここでもそれらの「間」に立ち、道徳を道徳たらしめるものを超越論的に扱う。いいかえれば、彼は道徳的領域を、共同体の規則や個人の感情・利害を括弧に入れることによってとりだすのだ。
 カントが道徳は快・不快の感情や幸福によって基礎づけられないというのは、そもそも彼のいう道徳が後者を括弧に入れて見出だされたものだからである。念のためにいうが、それは道徳に快・不快の感情が伴うということを否定するものではないし、また道徳がそれらを否定してしまうものでもない。括弧に入れることは否定することではないからだ。カントはむしろ他の次元を犠牲にする厳格な道徳家を否定している。彼にとって、道徳は善悪よりもむしろ「自由」の問題である。自由亡くして、善悪はない。自由とは、自己原因的であること、自発的であること、主体的であることと同義である。しかし、そのような自由がありうるだろうか。『純粋理性批判』で、カントは次のようなアンチノミーを提示する。

 正命題――自然法則に従う原因性は、世界の現象がすべてそれから導来せられ得る唯一の原因性ではない。現象を説明するためには、そのほかになお自由による原因性をも想定する必要がある。
 反対命題――およそ自由というものは存しない、世界における一切のものは自然法則によってのみ生起する。(『純粋理性批判』)中、同前)

 この反対命題は、近代科学の因果性ではなく、スピノザ的な決定論を意味していると見るべきである。スピノザの考えでは、すべてが必然的に決定されているが、因果性があまり複雑であるために、われわれは自由や偶然を措定してしまうにすぎない。カントはこの命題を承認する。すなわち、われわれが自由意志だと思うことは、さまざまな因果性によって決定されているのだということを。《私は私の行為する時点において、決して自由ではないのである。それどころかたとえ私が自分の現実的存在の全体は、なんらかの外来の原因(神のような)にまったくかかわりがないと思いなしたところで、従ってまた私の原因性の規定根拠はおろか私の全実在の規定根拠すら、私のそとにあるのではないとかんがえてみたところで、そのようなことは自然必然性を転じて自由とするわけにいかないだろう。私はいかなる時点においても、依然として〔自然〕必然性に支配され、私の自由にならないものによって、行為を規定されているからである。それにまた私は、すでに予定されている〔自然必然的な〕秩序に従って出来事の無限の系列――すなわち〈a parte priori(その前にあるものから)〉つぎつぎに連続する系列をひたすら追ていくだけで、私自身が或る時点にみずから出来事を始めるというわけにいかないのである。要するに一切の出来事のこういう無際限な系列は、自然における不断の連鎖であり、従ってまた私の原因性は決して自由ではないのである》(『実践理性批判』波多野精一他訳、岩波文庫)。
 しかし、他方で彼は、人間の行為の自由をいう正命題を承認する。そして、つぎのように述べている。

 例えば、或る人が悪意のある嘘をつき、かかる虚言によって社会に或る混乱をひき起こしたとする。そこで我々は、まずかかる虚言の動因を尋ね、次にこの虚言とその結果の責任とがどんなあんばいに彼に帰せられるかを判定してみよう。第一の点に関しては、彼の経験的性格をその根源まで突きとめてみる、そしてその根源を、彼の受けた悪い教育、彼の交わっている不良な仲間、彼の恥知らずで悪性な生まれ付き、軽佻や無分別などに求めてみる。この場合に我々は、彼のかかる行為の機縁となった原因を度外視するものではない。このような事柄に関する手続は、およそ与えられた自然的結果に対する一定の原因を究明する場合とすべて同様である。しかし我々は、彼の行為がこういういろいろな事情によって規定されていると思いはするものの、しかしそれにも拘らず行為者自身を非難するのである。しかもその非難の理由は、彼が不幸な生れ付きをもつとか、彼に影響を与えた諸般の事情とか、或いはまたそればかりでなく彼の以前の状態などにあるのではない。それは我々が、次のようなことを前提しているからである。即ち――この行為者の以前の行状がどうあろうと、それは度外視してよろしい、――過去における条件の系列は、無かったものと思ってよい、今度の行為に対しては、この行為よりも前の状態はまったく条件にならないと考えてよい、―-要するに我々は、行為者がかかる行為の結果の系列をまったく新らたに、みずから始めるかのように見なしてよい、というようなことを前提しているのである。行為者に対するかかる非難は、理性の法則に基づくものであり、この場合に我々は、理性を行為の原因と見なしているのである、つまりこの行為の原因は、上に述べた一切の経験的条件にかかわりなく、彼の所業を実際とは異なって規定し得たしまた規定すべきであったとみなすのである。(『純粋理性批判』中、同前) 

 ここで注目すべきなのは、カントが、行為の自由を、事前にではなく、事後的に見ていることだ。事前において、自由はない。確かにカントは「自らの格率が普遍的な法則に合致するように行動せよ」と述べた。ここから、カントの倫理学は主観的なものだという批判、動機の純粋のみを重視してその結果を省みないという批判が出てくる。しかし、カントが「私は私が行為する時点において決して自由ではない」というアンチテーゼを保持していることを忘れてはならない。たしかに、カントは、「自らの格率が普遍的な法則に合致するように行動せよ」といったが、そのように思うことと実際に行動することとは別の話である。ウィトゲンシュタインは「規則に従っていると信じていることは、規則に従っていることではない」といった(『哲学探究』)。われわれは、そのつもりでいても違ったことをやってしまうし、意志したことがそのとおり実現されることなどめったにない。だが、その場合でも、われわれがそのことに責任をもつのは、現実に自由ではなくても、自由であったかのように見なす時である。カントが「行為者がかかる行為の結果の系列をまったく新らたに、みずから始めるかのように見なしてよい」というのは、そのことを意味する。たとえば、われわれはそれが罪であることを知らずにやってしまうことがある。では、無知ならば責任はないのか。事後的にそれを知りうる能力をもつ者であるならば、責任があるといわねばならない。
 カントは先に引用した第三アンチノミーとして知られる、相反する二つの命題についてそれらはともに両立するという。世界に始まりがあるか否かといった説がアンチノミーによっていずれも虚偽であることが示されるのに対して、なぜこの第三アンチノミーにおいては両方の説が共に成立するのか。そのことは「括弧入れ」を考えれば、別に難解ではない。正命題は、自然的因果性を括弧に入れて行為を見ることであり、反対命題は人々が自由だと思うことを括弧に入れて行為の因果性を見ることだ。だから、それらは両立しうるのである。われわれは前者を「実践的」立場、後者を「理論的」立場と呼ぶことにしよう。理論的領域と実践的領域がそれ自体としてあるのではない。それらは、理論的あるいは実践的立場によって存在するのだ。
 『純粋理性批判』は、「理論的」な立場において、自己や主体や自由を証明する議論を形而上学として論駁することを目指している。一方、『実践理性批判』は、自然必然性が括弧に入れられた位相において、自己・主体・自由がいかにしてあるかを問うものである。実際には、われわれは行為において様々な選択をすることができる。それがどこまで自然必然性によって強いられているのかわからない。その結果、ある程度原因による決定を認め、ある程度自由意志を認めることになる。たとえば、ここに一人の犯罪者がいる。彼の犯罪にはさまざまな原因――社会的なものもふくめて――がある。それらの原因を数え上げていけば、彼は自由な主体ではなく、したがって、責任はないということになるだろう。人々はそのような弁護・弁明に憤激し、その犯罪者に選択の自由があったはずだと考える。即ち、人間がさまざまな因果性に規定されていることを認め、他方で自由な意志を認めるというのが常識的な考えで。ある。
 しかし、カントはそのような中途半端な考え方を斥けている。むしろ、われわれは自由意志などないと考えなければならない。われわれが自由な選択だと考えるものは、原因に規定されていることが十分にわからないからにすぎない。そう考えたとき、はじめて、「自由」はいかに可能かということが問われるのだ。原因を問うという「理論的な」観点からは、自由も責任も出てこない。では、自由も責任もないのか。カントの考えでは、その犯罪者の自由と責任は、因果性を括弧に入れたときに生じる。彼に事実上自由はなかった。にもかかわらず、自由であるとみなさなければならない。これは「実践的な」観点である。
 カントは、自由は義務(命令)に対する服従にあるといった。これは人を躓かせるポイントである。なぜなら、命令に従うことは自由に反するように見えるから。したがって、あとで述べるように、多くの批判がここに集中する。しかし、カントがこの義務を共同体が課す義務と見なしていないことは明白である。もし命令が共同体のものであるならば、それに従うことは他律的であり、自由ではないからだ。では、いかなる命令に従うことが自由なのか。それは「自由であれ」という命令である。そう考えると、この言葉になんら矛盾はない。カントがいう「当為であるがゆえに可能である」という言葉にも謎はない。それは、自由が「自由であれ」という義務以外のところから生じない(不可能である)という意味にすぎない。
 しかし、この命令はどこからくるのか。それは共同体からではないし、神からでもない。(カントの)超越論的態度そのものから来るのである。超越論的態度は暗黙に「括弧に入れよ」という命令をふくんでいる。たとえば、私は先にデュシャンが便器を美術展に展示したことについてふれた。その場合、彼はそれを芸術として見ること、つまり、日常的関心を括弧に入れることを命じてはいない。しかし、それが美術展に置かれているということが、人にそれを美術として見ることを「命令」しているのであり、そのことに人は気づかないのだ。同様に、超越論的な視点がそのような「命令」をはらんでいることが忘れられている。のみならず、超越論的な視点そのものが一つの命令に促されているということが。そのことは、超越論的な視点そのものはどこから来るのかと問うときに、明らかになる。それは根本的に「他者」にかかわっている。超越論的視点そのものが倫理的なのだ。
 この「自由であれ」という義務は、むしろ、他者を自由な存在として扱えという義務にほかならない。カントがいう道徳法則とは、「君の人格ならびにすべての他者の人格における人間性を、けっしてたんに手段としてのみ用いるのみならず、つねに同時に目的(=自由な主体)として用いるように行為せよ」(『純粋理性批判』)ということである。だが、つぎのことに注意すべきであろう。それは他者の人格(主体)が人格としてあらわれるのは、このような「義務」によってのみであるということだ。理論的な態度においては、私の人格のみならず他者の人格も存在しない。私の人格と他者の人格(自由)が出現するのは、実践的な態度においてのみである。だから、カントの道徳法則は実践的であれということと同義である。」柄谷行人『トランスクリティーク カントとマルクス』岩波書店、2010.pp.165-175.

 ここではたとえばデュシャンの「泉」を例に、芸術作品が人にある超越論的な視点を触発することが、「他者」にかかわって、「自由」の問題に展開することを指摘する。だが、これは『実践理性批判』の問題であって、芸術にかんする『判断力批判』の論点とは少しずれてくるのではないか。そのへんももう少し読んでみる。


B.カスハラをどうすればいい?
 商品購入者としてのカスタマーが、商店などで職員に過剰な要求や賠償を求める行為は、以前からクレーマーなどとして問題になっていたが、それが人格を傷つける抗議や謝罪の暴力になっているハラスメント行為を「カスハラ」と呼び、これがストーカーと類似した傾向にあるという記事。

「犯罪心理学から見る「カスハラ」 ストーカーと類似点「法整備で被害防止を」 元科捜研・研究員桐生教授
 従業員が客から高圧的な態度や攻撃的な言動で嫌がらせを受ける「カスタマー・ハラスメント(カスハラ)」が社会問題となっている。分析・対策にかかわってきた元山形県警科学捜査研究所(科捜研)研究員で東洋大の桐生正幸教授(犯罪心理学)が6月、「カスハラの犯罪心理学」(インターナショナル新書)を出版した。なぜカスハラは生まれるのか、対策はどうあるべきなのかを聞いた。 (山田祐一郎)
 「カスハラによってストレスを感じたり心身の不調を訴えるケースが相次いでいる。被害者がいるということは犯罪なんです」。約二十年間、科捜研の研究員として活動した経験を持つ桐生さん。カスハラの深刻さをこう指摘する。
 科捜研では犯罪者プロファイリングを担当。「事件発生後、容疑性が高い人物が出る前の現場で情報収集し、犯人の行動を分析して絞り込む」と説明する。カスハラの分析にかかわるようになったきっかけは約十年前、企業や団体の消費者関連部門の担当者らでつくる団体に、クレーマー問題についての講演を依頼されたことだ。「各企業に多くの被害事例がある。実際にデータを集めて分析し、対策を考えることが必要と考えた」と研究を始めた。
 事例を分析する中で「カスハラにはストーカーと似た加害者心理がある」と感じた。孤独感が問題行動をひき起こし、感情のコントロールが難しく攻撃的になる、執拗につきまとうなど、ストーカー行為の特徴はカスハラにも当てはまるという。2000年にストーカー規制法が施行されるまでは、何がストーカー行為なのかグレーな部分が多かった。カスハラも線引きが難しいという点で同様だ。
 労働組合「UAゼンセン」が17年に実施した調査では、75%を超える人が被害経験があると回答。業種や性別によって「暴言」「返品要求」「土下座強要」など多様な被害が出ていることが判明した。被害を訴えた約四万人のうち、「精神疾患になったことがある」と答えたのは375人に上った。「現場のレジ打ちや接客の従業員が被害を受けている実態がまざまざと見え、対策が急務であることが露見した」と強調する。
 一方の加害者はどのような人なのか。20年実施のウェブ調査に約二千人が回答し、加害経験があると答えたのは45%だった。多かったのは45~59歳の世代で、職業では営業担当や経営者、自営業が多く、世帯年収が一千万円を超えると割合が増えた。「嫌な思いをさせることへの共感がなく、攻撃行動を抑えるブレーキが利かない、偏った信念を通す頑固さが重なり合っている」とみる。
 新型コロナによる自粛生活がカスハラにも大きな影響を与えた。コロナ対策に非協力的な客やマスク着用徹底を過剰に求める「マスク警察」などトラブルが多発。20年のUAゼンセンの調査では、ドラッグストア関連の67%で被害の解答があった。「コロナによって問題が顕在化した」
 厚生労働省は昨年、カスハラに対応するための企業向けのマニュアルを公表。事業主に対し、被害防止のために必要な措置を求めるが、カスハラの判断基準については「企業ごとに違いが出てくる可能性がある」として明確に定義していない。本の出版後、企業や団体から問い合わせや相談が寄せられているといい、「カスハラの被害を放置することは、企業の大きな損失になることに気付く必要がある」と訴える。
 その上で被害者の立場に立った各種ハラスメントを防止するための法整備を求める。「法律で何がハラスメントに当たるかを規定し、犯罪行為であることを明文化する必要がある。」東京新聞2023年7月23日朝刊20面、特報欄。
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カント『判断力批判』の美学論 2 ヒューム人性論 忘却の皇軍 

2023-07-24 11:17:37 | 日記
A.普遍性universalityと一般性generality
 カントの『純粋理性批判』は、英国の哲学者ディヴィッド・ヒュームの『人性論』に大きな示唆を得て書かれたという。『人性論』A Treatise of Human Natureは、1739年に世に出た著作で、本書の内容はもともとは、5つのテーマつまり、知性/悟性(understanding)、情念/情緒/感情(passions)、道徳(morals)、政治(politics)、文芸/趣味判断(criticism)が論じられる計画だったという。しかし、結果的に政治、趣味判断に関する論述は盛り込まれずに、第1篇知性について、第2篇情念について、第3篇道徳についてという3篇から構成された。これらは既にジョン・ロックによって論じられていたが、ヒュームは当時の自然科学の発展に伴って価値が認められた実証的方法を人間学の領域に適用することにより、ロックの経験論の立場を受け継ぎながら、あるがままの人間本性を対象とした哲学を構築することを試みている。
 「啓蒙の世紀」と呼ばれた18世紀西洋哲学も、フランスなどの大陸合理論とイギリスの経験論では、色合いが異なっていたので、後者の代表であるロックやヒュームの経験・実証重視の哲学は、自然科学の進展を背景に説得力を強めるのと同時に、フランスやドイツでは批判も沸いた。カントは、そうした問題について『人性論』のうち、知性悟性を『純粋理性批判』でとりあげ、道徳や政治を『実践理性批判』でとりあげ、ヒュームがとりあげなかった趣味判断、つまりアートの問題を『判断力批判』で論じたと考えることもできる。しかしもちろん、カントはドイツでもともと形而上学から出てきたのだから、ヒュームの経験論的実証的立場はとらない。

「あらためていえば、『判断力批判』が『純粋理性批判』や『実践理性批判』と異なるのは、そこに複数の主観があらわれることである。カントはここでは、意識一般や一般的主観のようなものを想定しない。複数の主観の間で、しかも「何かあるものを美と認めることを強要するような規則」のないところで、どのような合意が成立するかを論じているといってもよい。この点に注目したハンナ・アーレントは、『判断力批判』を政治学の原理として読もうとしたし(『カント政治哲学講義』)、また、リオタールは「メタ言語の設定なしでの諸言語ゲーム間の調停」を見ようとした(『熱狂』)。それは事実上ヒュームに回帰することであり、普遍性をたかだか「共通感覚」にすぎないと見なすことである。だが、カントに『純粋理性批判』から『判断力批判』への移行を見いだすことは正しくない。『純粋理性批判』はすでに文芸批評が与えた困難を踏まえて書かれているからだ。われわれがなすべきなのは、『純粋理性批判』をその観点から読み直すことである。
 カントが普遍性を一般性と峻別したことは、コペルニクス以後の近代科学がもたらした問題に発している。それはベーコンに代表されるような実証・帰納の重視とは違う。そもそもコペルニクスの地動説は、容易に実証できない問題なのだ。コペルニクス主義者として宇宙論を出版しようとしたデカルトは、ガリレイ裁判に直面したため、それを避けて『方法序説』を書いた。それは仮説を立てることの優位性を強調することである。彼はけっして思弁的だったのではない。仮説を立て、その後に当人または他人による実験によってそれを証明する方法を提示したのである。しかし、実験によって仮説の真理性を証明することができるだろうか。経験的なものの帰納から法則を、つまり、単称命題から全称(普遍的)命題を取り出すことはできない。だが、仮説を先行させても同じである。全称(普遍的)命題は連言命題の無制限の拡張であるが、無限の要素命題を検証することはできないのである。ヒュームの懐疑論は、全称命題は成り立たず、ついに法則は慣習的でしかないというものである。しかし、全称命題は積極的に検証されないが、積極的に反証される可能性をもつ。そして、反証されない限りにおいて、全称命題は真であると仮定される。たとえば、カール・ポパーは、命題の普遍性は、命題が反証可能なかたちで提起されていて、それに対する反証が出てこない限りにおいてであると考えた。そして、彼はカントの中にそのような思想が潜在していることを評価したが、カントが主観的考察に終始したことを批判した。ある命題が普遍的であるのは、それを反証するかもしれない「他者」を現在および将来に想定することによってのみである。しかるに、カントはそれを考えず、あたかも普遍性がア・プリオリな規則によって保証されるかのごとく考えている、とポパーはいう。しかし、カントは『純粋理性批判』において、「他者」を導入している。それが物自体として語られているのである。ポパーがそのことを見落としたのは、物自体があくまで「物」だと考えていたからである。私はこの点について後に詳しく論じるが、先ず知っておくべきことは、カントが『純粋理性批判』を書いたのは、趣味判断、すなわち複数の言語ゲームにおける普遍性の問題に直面したのちだということである。
 『純粋理性批判』において、カントはたしかに一つの主観からはじめる。しかし、それは他の主観を無視したからではなく、他の主観との合意あるいは共同主観性が普遍性をもたらさないと考えていたからである。自身科学者であったカントにとって、「ア・プリオリな綜合判断」が容易でないことも、同時代にさまざまな仮説がしのぎあっていることも自明のことであった。他者との合意はいかに多数であっても普遍性を保証しない。合意は、たんに「共通感覚」の中でなされ、またそれを強化するだけである。もし普遍性があるとすれば、それはそのような「共通感覚」を超えるものでなければならない。
 いうまでもなく、ポパーの主張は科学哲学の文脈で批判された。トーマス・クーンは、反証可能な命題も反証されないことがある、なぜなら証明そのものがパラダイムによって規定されているからだ、と主張したのである。さらに、ファイアアーベントにいたって、科学認識の真理性は、言説のヘゲモニーに依存すると見なされるようになる。ポパー自身も、科学の発展を進化論的に考えるようになった。つまり、「強い」理論が生き延びるというのである。だが、このような展開によって、カントの「批判」が葬り去られるだろうか。ここで明らかなのは、クーンがいうパラダイムが、カントのいう「共通感覚」にほぼ対応することである。サラニイエバ、クーンがパラダイム・シフトをなしとげた者として論じたのは、コペルニクス、ニュートン、アインシュタインのような「天才」だけである。カントが共通感覚や天才を芸術の領域に限定したために、また、新カント派(リッケルト)が自然科学と文化科学を峻別してきたために、クーンはそのような符号を夢にも思わなかっただろう。しかし、彼の本意に反して、パラダイム概念が広範囲に受けいれられたのは、それが狭義の自然科学に限定されない問題だったからである。いいかえれば、それが「文芸批評」的だったからだ。
この観点から見れば、現代の科学哲学者は、カントが『判断力批判』で開いた境地に近づいていることになる。だが、カントは『純粋理性批判』を書き始めた時点で、すでにそのようなことを考慮していたというべきである。『純粋理性批判』には、他者(他の主観)は出てこない。それは内省に終始している。たんなる内省(モノローグ)によって、科学の基礎を問うことができるのか。それがカントを批判するものが口をそろえていうことである。確かに、カントは他者の同意を前提していない。どれほど他者の合意があろうと、それは普遍的な命題(全称命題)を保証しないからだ。しかし、実は、カントは物自体によって、反証してくるような未来の他者を含意している。未来の他者がいるから、われわれの認識は普遍的でありえない、というのではない。逆に、それを想定しなければ普遍性は成立しないのである。要するに、カントは他者を無視しているのではなく、ある形で「他者」を導入したのだ。それは哲学史上において初めてのことである。

 哲学は内省から始まる。しかし、カントが『純粋理性批判』で示した内省は独特のものである。なぜなら、それは内省自体の批判であるから。その点で、注目に値するのは、カントがホームの『批評の原理』がドイツ語で出版されたころに書いた『形而上学の夢によって解明されたる霊能者の夢』(1766年)である。ジャーナリズムの要請で書かれたこの奇妙なエッセイの背景には、1755年11月11日のリスボンの大地震がある。ヨーロッパですべての聖人たちを祭るこの日、まさに信者が教会で礼拝していたときに起こったため、この地震は神の恩寵に対する疑いを巻き起こした。それは大衆的なレベルに留まらず、全ヨーロッパの知的世界を文字通り震撼させた。地震は、いわば、ライプニッツにおいてたんに連続的な段階にあった感性と悟性の間に決定的な「地割れ」を生み出したのである。カントの「批判」はこのような「危機」と切り離すことができない。
 たとえば、ヴォルテールは数年後に『カンディード』を書いてライプニッツ的予定調和の観念を嘲笑し、ルソーも、地震が人間が自然を忘れたことへの裁きであると書いた。しかし、カントは、1756年にリスボンの地震についての三つの研究報告を書き、地震について一切の宗教的な意味はないこと、それがまったく自然的原因によることを強調し、さらに地震発生につての仮説と耐震対策を説いた。経験論的な立場に立つ者さえ、この出来事に何らかの「意味」を見出したのに対して、カントがまったくそれを否定したことに注意すべきである。だが、この経験論的な極端さは、他方で彼が或る極端なかたちをとった合理論(形而上学)を肯定したことと両立するのである。砂和紙、彼は地震を予言した視霊者スウェーデンボルグの「知」に惹きつけられたのだ。彼はスウェーデンボルグの奇蹟能力について調査しただけでなく、直接本人に手紙を書き、また面会することを望んでいた(「シャルロッテ・フォン・クノーブロッホ宛書簡」1763年8月10日、門脇卓爾訳、「全集」第17集、思想社)。
 カントは視霊についても、基本的に、「自然的原因」という考え方を貫いている。つまり、視霊という現象を「夢想」あるいは「脳病」の一種と見なしている。視霊はたんに思念にすぎないのに、それが外から感官を通して来たかのように受けとめられているだけである。ところが、彼はスウェーデンボルグの「知」を否定することができない。霊という超感性的なものを感官において受けとることは、多くの場合たんに想像(妄想)でしかないが、中には、それを妄想として片づけられない場合がある。特に、スウェーデンボルグは「精神錯乱」とはほど遠い一級の科学者であり、彼の「予知」能力には確かな証拠があったからである。カントはそれを認めざるをえなかった。だが、同時にそれを否定せざるをえなかった。
 彼はそのいずれの態度をも決定できない。それを精神錯乱と読んだにもかかわらず、「視霊者の夢」を真面目に扱わずにはいられない。同時に、そのことを自嘲せずにもいられない。《読者が、視霊者をもう一つの世界の半市民と見なす代わりに、簡単にそして立派に彼らを入院候補者として片づけ、それによってそれ以上の一切の探索をまぬがれるとしても、私は決して読者をそのことで恨みはしない》(『視霊者の夢』川戸好武訳、同前)。それは「視霊者の夢」にかぎらない、形而上学も同じことではないかと、カントはいう。なぜなら、形而上学は、何ら経験に負わない思念をあたかも実在するかのように扱っているからである。その意味で、このエッセイは、「視霊者の夢によって解明されたる形而上学の夢」であると言ってよい。《しかし、極まるところを知らない哲学と一致点にもち来たらせられ得ないような、いかなる種類の愚事が存するであろうか?》(同前)。つまり、この意味では、「形而上学の夢」もまたこの上ない「愚事」であり、「精神錯乱」なのである。ひとが形而上学の夢に固執することは、視霊者の夢に固執することと大差はない。このとき、カントは、形而上学的問題に固執するとすれば、そのこと自体が狂気の沙汰であること、しかしなお、それを求めざるを得ないことを認めている。すなわち、このエッセイで、カントは、視霊者について語りながら、形而上学者について語っているのである。そして、形而上学者とは、ヒュームに出会うまでのカント自身のことである。
 『純粋理性批判』において、彼はこう記している。《今日では、形而上学にあらゆる軽蔑をあからさまに示すことが、時代の好尚となってしまった》(『純粋理性批判』上、同前)。しかし《実際、人間の自然的本性にとって無関心でいられないような対象に関する研究に、どれほど無関心を装ったところで無益である。自分は形而上学に対して無関心であると称する人達が、いくら学問的な用語を通俗的な調子に改めて、自分の正体をくらまそうとしてみたところで、とにかく何ごとかを考えるかぎり、彼らがいたく軽蔑していたところの形而上学的見解に、どうしても立ち戻らざるをえないのである》(同前)。これは『視霊者の夢』においてカント自身の分裂としてあった問題である。彼はそこでは、スウェーデンボルグあるいは形而上学を肯定すると同時に、肯定する自分を嘲笑するというような書き方をしている。『純粋理性批判』において、これは、理性が自らの限界を越えて知を拡張することを否定すると同時に、理性がそのようにせざるをえない「欲動」を認めざるをえないという形になっている。『視霊者の夢』におけるサタイア的な自己批評は、『純粋理性批判』において「理性による理性の批判」になっている。すなわち、カントは、それを自己の問題として扱うのではなく、「理性の自然的本性が理性に課した問題」として扱っている。それが「超越論的批判」である。
 『視霊者の夢』から『純粋理性批判』への移行はこのように明白である。にもかかわらず、後者を読むためには、前者を参照しなければならない。カントの独特の「反省」の仕方が『視霊者の夢』にあらわれているからだ。《以前には私は一般的人間悟性を単に私の悟性の立場から考察した、いま私は自分を自分のでない外的な理性の位置において、自分の判断をその最もひそかなる動機もろとも、他人の視線から考察する。両方の考察の比較はたしかに強い視差を生じはするが、それは光学的欺瞞を避けて、諸概念を、それらが人間性の認識能力に関して立っている真の位置におくための、唯一の手段でもある》(『視霊者の夢』同前)、ここでカントがいっているのは、自分の視点から見るだけでなく、他人の視点からも見よ、ということではない。そのようなことならありふれている。なぜなら、「反省」とは他人の視線で自分を見ることであり、哲学の歴史はそのような反省の歴史なのだから。しかし、ここでカントがいう「他人の視点」はそのようなものではない。それは「強い視差parallax」においてしかありえない。そのことを考えるには、カントの時代にはなかった或るテクノロジーを例に取る必要がある。
 反省はいつも、鏡に自らを映すというメタファーで語られる。鏡は「他人の視線」で自分の顔を見ることである。それゆえ、ここで、鏡と写真を比較してみよう。写真が発明された当初、自分の顔を見た者は、テープレコーダーで初めて自分の声を聞いた者と同様、不快を禁じ得なかったといわれる。鏡による反省には、いかに「他人の視点」に立とうと共犯性がある。われわれは都合のいいようにしか自分の顔を見ない。しかも、鏡は左右が逆である。一方、肖像画はたしかに他人が描いているが、もしそれが不快なものであれば、それは画家の主観(悪意)によると見なすことができる。だから、他人がどう描いても、私には響かない。しかるに、写真にはそれらと異質な「客観性」がある。誰かがそれを写したにせよ、肖像画の場合と違って、その主観性をいうことができないからである。奇妙なことだが、われわれは自分の顔(物自体)を見ることができない。鏡に映った像(現象)としてしか。しかし、そのことを知るのは、写真によってである。むろん、写真も像にすぎない。そして、人はまもなく写真に慣れる。つまり、写真に写ったものを自分の顔と見なすようになる。しかし、重要なのは、人が初めて写真を見てそう感じたような「強い視差」なのだ。
 もう一つの例をとれば、デリダは、意識とは「自分が‐話すのを‐聞く」ということだといっている(『声と現象』)。その場合、ヘーゲルならば、実際に発話してみることによって、自己が客観化(外化)されるというだろう。しかし、このように客観化された声(外声)は、実のところ、客観的ではない。それは「私の視点」なのだ。その証拠に、われわれはテープで初めて自分の声を聞いたときにあるおぞましさを覚える。それはそこにまさしく「他人の視点」があらわれるからだ。私は「他人の視点」で初めて自分の顔を見、自分の声を聞く。そのとき、私は「これは私の顔ではない、私の声ではない」と思う。それはフロイトでいえば患者の「抵抗」である。むろん、写真やテープなら、私は事実を受けいれざるをえないし、受けいれることができる。そして、まもなくそのことに慣れていく。しかし、哲学的反省においてはそのようなことは決して起こらない。哲学は内省=鏡によって始まりそこにとどまる。いかに「他者の視点」を入れてもそれは同じである。そもそも哲学はソクラテスの「対話」にはじまっている。対話そのものが鏡の中にあるのだ。人々は、カントが主観的な自己吟味にとどまったことを批判し、またそこから出る可能性を、多数主観を導入した『判断力批判』に求めようとする。しかし、哲学史における決定的な事件は、内省にとどまりながら、同時に内省のもつ共犯性を破砕しようとしたカントの『純粋理性批判』にある。われわれは、そこに旧来の内省=鏡とは違った、或る客観性=他者性の導入を見いだすことができる。」柄谷行人『トランスクリティーク カントとマルクス』岩波書店、2010.pp.65-75.


 クーンのパラダイム論とポパーの反証主義をめぐる議論は、ぼくも1960年代はじめのドイツ社会学会での「実証主義論争」を通じていろいろ読んだ。カント由来の「批判理論」に立つフランクフルト学派のアドルノとポパーがぶつかり、これを受けて続くハーバーマスと批判的合理主義のH・アルバートの間で戦われた論争は、社会科学の方法論をめぐる基本的な対立的立場を問うものだったが、どちらかに軍配が上がったわけではない。趣味判断を主題とする『判断力批判』が前のふたつの『批判』の発展とか解決とかなどではない、という指摘はたしかに重要だな。

B.「忘れられた皇軍」も忘れられた?
 1960年ごろ松竹ヌーヴェルヴァーグと呼ばれた若い映画監督たちが登場して、それまでにない映画を作った。しかし、彼らは弾けすぎて会社からにらまれ、喧嘩して飛び出して自前の映画を作ろうとしたが、結局作りたい映画製作の道は閉ざされ、細々自主制作でやっていきながら、テレビドキュメンタリーなどで食いつなぐことになった。トップランナーの大島渚は、この時期いくつかテレビで注目すべきドキュメンタリーを撮っている。なかでも傑作とされたのが「忘れられた皇軍」で、当時まだ街頭で見かけた「傷痍軍人」を追いかけたもので、この戦争の犠牲者たちの多くが韓国籍であったことに大島は注目した。ぼくは、当時テレビでこれを見て、かなり衝撃を受けた記憶がある。いまはこんな番組が放映されたことも忘れられている。

「ドキュメンタリー覚書 File23  宮田 仁  加害者であること
 戦後ある時期まで、各地の街頭に白装束の「傷痍軍人」が立っていた。戦争で身体に欠損を負った人々。1963年終戦記念番組の題材を探す大島渚は彼らの多くが韓国籍であることを知る。祖国が植民地となり、日本兵として戦い。傷ついた者が、日本の敗戦後、52年サンフランシスコ講和条約(占領の終わり)で(すべての在日同胞とともに)日本国籍を奪われた。独立した日本は軍人恩給を復活し様々な戦後補償法をつくるが、対象は日本人のみ。東京五輪の前年、高度経済成長へ向かう社会からはじかれた「元日本軍韓国人」(シナリオの最初のタイトル)の姿をお茶の間に突きつけたのがテレビドキュメンタリーの金字塔『忘れられた皇軍』だった。
 アフリカ系米国人の魂を込めたアート・ブレイキーのジャズドラムをバックに白装束の集団が国会議事堂前を横切り、補償請願に首相官邸や外務省へ行って拒絶され、韓国代表部へ行っても拒絶される。キャメラは時にアップで、この異形のデモ行進だけでなく、傍観する戦後十八年の日本人たちの顔をも記録した。クライマックスはデモ後の宴会。一人が酔って暴れ黒眼鏡を取り目元を晒す。「徐洛源。眼のない眼からも涙がこぼれる」(大島が狙いに狙ったナレーション)。このとき大島は躊躇する撮影者の尻をけってアップを撮らせた。「キャメラというのはむしろ加害者じゃないか、相手から何かを盗み取るために行くんだということを、取る側は意識しなきゃいけない」と気づきドキュメンタリーに開眼したと語る(『月刊イメージフォーラム』83年4月増刊)。
 以前取り上げた63年の大島論文「戦後日本映画の状況と主体」では戦後日本の被害者意識が批判されていた。『忘れられた皇軍』で問われているのはまさに日本人の加害者性であり、だからこそラストの徐洛源のアップに、次のナレーションがなげかけられる。
 「日本人たちよ、私たちよ、これで、いいのだろうか」 (みやた・まさし=書籍編集者)」東京新聞2023年7月23日朝刊20面特報欄。
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 カント『判断力批判』の美学論 1 不人気な政策

2023-07-21 15:57:48 | 日記
A.文芸批評と超越論的批判
 哲学者カント(Immanuel Kant 1724~1804)は、プロイセンの哲学者であり、ケーニヒスベルク大学の哲学教授。「啓蒙の時代」18世紀の最後に登場し、『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらしたといわれる。晩年の1789年に勃発したフランス大革命を知り、ジャコバン派独裁を経て過激化し変質していった革命も、カントは啓蒙の実現として歓迎したといわれる。ヨーロッパ政治の激動に呼応するかのように、「理論では正しいかもしれないが実践の役には立たないという俗言について」(1793)や『永遠平和のために』(1795)、『人倫の形而上学』「第一部・法論の形而上学的定礎」などで共和制と国際連合について論じた。
 カントの三批判書のうち、第一の『純粋理性批判』が認識能力のうち悟性・科学を、第二の『実践理性批判』が道徳を基礎づけるものであるのに対し、第三の『判断力批判』Kitik der Urteilskraftは、感性の問題、つまり芸術をどう位置づけるかがテーマとなっていて、当時の形而上学のうち論理学が対象としていなかった感性の認識をとりあげ、「美学」を提唱したバウムガルテン(Alexander Gottlieb Baumgarten1714~1762)に影響を受け、カント独自の見解を樹立したといわれている。『判断力批判』について、現在でも多くの論評・検討があるようなので、いくつか読んでみて、とくに柄谷行人の『トランスクリティーク カントとマルクス』岩波書店、2010.のカントの部分を読んでみる。
 
 「カントの三批判は、それぞれ、科学認識、道徳、芸術(および生物学)を対象としている。そして、カントはそれぞれの領域の特異性とそれらの関係構造を明らかにしている。しかし、彼以後の人びとが忘れてしまったのは、それらの区分がもともとあったものとは違って、カントの「批判」によって見出されたものだということである。たとえば、コペルニクス以前にも以後にも太陽はある。それは東に昇り、西に沈む。しかし、コペルニクス以後の太陽は、計算体系から想定されたものである。つまり、同じ太陽でありながら、われわれは違った「対象」をもっているのである。カント以前と以後において、科学認識、道徳、芸術といった区分は根本的に変わっている。したがって、われわれはそれらの区分にもとづいてカントの書物を読むのではなく、それらの区分そのものをもたらしたカントの「批判」を読まなければならない。
 カントの『判断力批判』は三つの「批判」の最後に来て、前の二つの批判においてあった問題を解決するもの、すなわち芸術を認識と道徳、自然と自由を媒介するものとして位置づけるものと見なされている。この判断力は、認識において、感性と悟性を媒介する構想力と相同的である。カントの考えでは、芸術は、概念から出発しないが潜在的に概念を実現している。いいかえれば、芸術は、認識あるいは道徳が達成すべきことを直感的(感性的)に実現するものである。こうした芸術の位置づけは、ロマン主義以後の哲学者に、重大なヒントを与えた。彼らは、芸術こそが本来の「知」であり、科学も道徳もそこに派生するのだと考える。芸術において、「綜合」がすでになされている。ヘーゲルは哲学を芸術の上におくが、それは既に哲学が美学化されているからである。ハイデガーも「存在と時間」から「時間と存在」への転向において、芸術を(詩)を根源に位置せしめる、
 カントが科学、道徳、芸術の関係を明示したことは確かである。しかし、カントが、第一批判、第二批判において示した「限界」を、第三批判において解決したと考えるのはまちがっている。彼が示したのは、これらの三つが構造的なリングをなしているということである。それは、現象、物自体、超越論的仮象がどれ一つを除いても成立しないような、ラカンのメタファーでいえば、「ボロメオの環」をなすということと対応している。だが、こうした構造を見出すカントの「批判」は、第三批判で芸術あるいは趣味判断を論じることで完成したのではない。カントの「批判」はそもそも、芸術の問題から来ているといっていいのである。カントの批判がどこから来たかについては、ギリシャに遡る様々な語源的詮索ががある。しかし、語源的遡行はしばしば身近な起源を隠蔽するものである。私はむしろ、カントの批判は文字通り批評から、つまり、アリストテレスにもとづく古典的美学が通用しない、商業的ジャーナリズムにおいて成立する批評、つまり誰も決着をつけられないような評価をめぐる「アリーナ」(闘技場)から来たと考える。
 カントは、ライプニッツやヴォルフの形而上学の下にあった自分を「独断論のまどろみから覚醒させた」のは『人性論』のヒュームであると書いている(『プロレゴメナ』)。それは事実であろう。しかし、それは必ずしもカントに「批判」の態度をもたらしたのではない。浜田義文によれば、ハンス・ファイヒンガーは、カント自身は言及していないにもかからわず、カントを「覚醒」させたのは、スコットランドの思想家ヘンリー・ホームの『批評の原理』Element of Criticismであると言っている(浜田義文『カント倫理学の成立』勁草書房、1981年)。ヴァイヒンガーの考えでは、カントがこの本を興味をもって読んだことは、1782年ごろの講義ノートをもとに出版された『論理学』「緒論」の中のつぎの言葉から知られる。《ホームが美学を批判と名づけたのは正しい。美学は判断を十分規定する先天的規則を与えないからである》。この箇所は、カントの「批判」の用語がホームの前掲書に由来することを示している。「理性批判」の語がカントの著作中に最初に現れるのは、『1766年冬学期講義案内』の中である。そこではそれは広義の論理学を意味するものとして、美学を意味する「趣味批判」と「素材の極めて近い類似性」を有するとされて、並列されている。ここからも、カントの「批判」の用語がホームの書物とのつながりをもつと推定しうる。
 カントがホームから学んだものは、「趣味批判」、すなわち美学的趣味判断の可能性についての反省とその根拠の研究であった。ホームは趣味判断の普遍性、つまり美醜の基準を求めて、それを人間本性に内在する原理から導出しようと努め、美醜に関する人間の感受性の先天性を主張する立場にあったが、同時に彼は古今の文芸のあらゆる領域から多種類で広範な素材を蒐集し整理することによって、経験的機能的に趣味の一般規則を発見するという仕方をも併用した。ホームは批評に従事するに際していかなる特定原理をも無反省に前提せず、批評の根本原理ないし確実な基準そのものを問うことを自らの仕事としたのである。浜田義文によれば、カントは、その「批評」の語を人間の理性能力自体の根本的吟味を意味する独自の「批判」の概念へと捉え直して、自らの用語として用いたのである(浜田義文『カント倫理学の成立』同前)。
 イギリスにおいてホームが「批評の原理」を考えねばならなかったのは、二つの原理が衝突していたからである。一つは、古典主義的な考えであり、文学芸術に一定の経験的な規範をもってくるものである。他方はいわばロマン主義的な考えであり、各自の自由な感情表出を優先させるもの。ホームは、基本的に後者の態度に立ちながら、なおそれが「普遍的」でありうるゆえんを探ろうとしたのである。カントがそれに感銘を受けたことは明瞭である。『判断力批判』において、カントは暗黙にこのテーゼとアンチテーゼに対処している。彼もまた、基本的に、趣味判断が一方で主観的(個人的)でなければならないということを認めながら、なおそれが普遍的でなければならないと考える。その場合、彼は普遍性と一般性を区別する。

 或る人がありとあらゆる感官的享楽を与えるような快適な事物をもって、自分のお客たちを供応し、満座の人たちに快いようにもてなすすべを心得ていれば、我々は彼を評して『あの人は趣味がある』と言うのである。しかしこの場合における〔適意の〕普遍性なるものは、比較的な意味しかもたない、つまりそこにあるのは一般的(general)規則(経験的規則は、すべてこのようなものである)にすぎないのであって、普遍的universal)〔即ちア・プリオリな〕規則ではない。しかし美に関する趣味判断が確立しようとするところのものは、まさにこの普遍的規則なのである(『判断力批判』上、篠田英雄訳、岩波文庫)。

 経験から帰納される一般的規則は、普遍的ではありえない。アリストテレス以来の美学は、その自然学(フィジックス)と同様に「一般的」であって、「普遍的」ではない。たとえば、古典主義は、これまで傑作とされてきたものからその規則を見いだし、それを規範とするものである。カントはいう。《何か或るものを美と認めることを強要するような規則はあり得ない》(同前)。しかし、たんなる快適と区別される趣味判断は、普遍的でなければならない。つまり、「すべての人の同意を要求する(ansinnen)」のである。

  趣味判断そのものはすべての人の同意を要請する(postulieren)だけである。そしてこのような事例に関しては、判断の確証を概念に求めるのではなくて、他のすべての人達の賛同に期待するのである。それだから普遍的賛成は一個の理念にほかならない。(同前)

 念のためにいえば、postulierenとは自明のこととして仮定するという意味であり、ansinnenとは、むしろ不当に要求するという意味である。趣味判断において、人を強要するような規則はない。ここで、カントは「共通感覚」をもちだしてくるのだ。それは歴史的・社会的に形成される慣習である。たとえば、ヴィーコは、共通感覚(senso commune)を、ある階級・ある民族・ある国家・人類の全員が共有する、いささかの反省をも伴わない判断力、と見なしている(『ヴィーコ』清水純一・米山喜晟訳、「世界の名著33」、中央公論社)。
 だが、ここにまだ問題が残っている。共通感覚が歴史的に変わっていく社会的慣習であるなら、それは趣味判断の普遍性を保証するものではない。共通感覚は、歴史的にも現在的にも複数的である。もし普遍性があるなら、そのような多数の共通感覚を超えるものでなければならない。では、カントは普遍性の要求を断念したのだろうか。普遍性は他の領域で見いだされるから、芸術においては共通感覚で満足すべきだというのだろうか。むろん、このような見方はまちがっている。確かに、カントは自然科学・道徳性・芸術を区別する。が、彼はそのどこにおいても、普遍性を「要求」しているのである。たとえば、『純粋理性批判』や『実践理性批判』において、彼は経験的なものにもとづく「一般的な」規則に対して、普遍的な法則を求めている。では、科学認識や道徳にそれがあるが、芸術にはないということになるだろうか。否、美的判断において普遍性が疑わしいのであれば、他の領域においてもそうなのだ。少なくとも、カントはそこから出発した。彼の「批判」がラディカルなのは、とりあえずすべてを趣味判断において出会うような問題から考え直したということにあったのだ。
 『純粋理性批判』では、カントは主観性を悟性の自発的能動性に見いだしている。ところが、『判断力批判』では、彼はごく日常的な意味で、主観的・客観的という言葉を用いている。むしろ感性的なものが主観的と見なされる。多数の個別的な主観は、それゆえに、快・不快の感情のレベルであらわれる。悟性としての主観性は、個人的なものではないア・プリオリな能力――事実上言語的な能力――として考えられているので、個々の主観は出てこないからだ。だが、カントが快・不快の感情から出発して多数の個別的主観を論じているとしても、それは必ずしも趣味判断に限定される問題ではない。たとえば、趣味判断の場では、誰もが自分の判断の普遍性を主張するが、それを証明することはできない。逆にいって、人々が認識においてその真理性を証明できないとき、それはしばしば趣味判断に擬される。結局、それは好みの問題だ、と人はいうだろう。あらゆる判断は、分析的判断をのぞけば、究極的にそこに帰着する。
 しかし、カントは趣味判断を快・不快あるいは快適から区別している。快適は個別的であるが、趣味判断は普遍的であることを「要求」される。つまり、他人がその判断を受け入れるようなものでなければならない。ウィトゲンシュタインの言葉でいえば、快適は「私的言語」であるが、趣味判断はすでに共同的な言語ゲームに属している。カントが共通感覚というのは、それである。だが、問題はこれらの言語ゲームが多数あるということだ。趣味判断における普遍性は、したがって、異なった規則体系を所有する者の間でのコミュニケーションの問題である。趣味判断に関して普遍性を「要求」することは、あらゆる綜合的判断に通底する問題である。したがって、カントが芸術にだけ固有の特殊な問題を見出したということはありえない。むしろ彼は趣味判断における「批評」から、すべての問題を見ようとしたのである。
 さらに、カントは美が対象に対する没関心性において見出されるといっている。それはいわば、関心を括弧に入れることである。いかなる関心か?知的・道徳的関心である。われわれはある対象に対して、真か偽か、善か悪か、快か不快かという、少なくとも三つの領域で同時にそれを受けとめる。通常、それらは渾然と錯綜している。或るものが芸術作品となるのは、他の関心を括弧に入れてそれを享受することによってである。しかし、カントが趣味判断の特性としたことは、認識に関しても道徳に関してもあてはまる。近代の科学では、対象認識において、道徳的・美的判断は括弧に入れなければならない。同様に、カントは道徳に関しても「純粋化」を試みる。道徳的領域は快や幸福を括弧に入れることによって存在するのである。むろん、それらを括弧に入れることはそれらを否定することではない。
 そうすると、カントが第三アンチノミーを両立可能だとする解決は何ら驚くべきことではない。すべての事柄が自然原因によって決定されるという考えは、自由を括弧に入れるという態度によってもたらされる。逆に、自然原因による決定を括弧に入れるとき、自由ということが生じる。どちらが正しいのかは問題ではない。問題は、われわれは道徳的・美的次元を括弧に入れることによって認識的領域を獲得するのだが、その括弧はいつでも外されなければならないということにある。同じことが道徳的領域や美的領域に関してもいえる。一つの立場からすべてを説明しようとするとき、アンチノミーに出会うのだ。私は最後に、カントの倫理学について語るだろう。しかし、ここで一つだけいっておきたいのは、認識的・道徳的・美的領域はある態度変更(超越論的還元)によって確定されることであり、それらがあらかじめ存在するのではないということである。だからまた、どの領域においても同じ問題が出現する。たとえば、『実践理性批判』においては「他者」の問題があらわれる。だが、それは実は『純粋理性批判』においてもあらわれているのだ。あとで述べるように、「物自体」とは「他者」のことである。しかし、そのことを明らかにするには、ほかならぬ美的判断から始めなければならない。
 あらためていえば、『判断力批判』が『純粋理性批判』や『実践理性批判』と異なるのは、そこに複数の主観があらわれることである。カントはここでは、意識一般や一般的主観のようなものを想定しない。複数の主観の間で、しかも「何かあるものを美と認めることを強要するような規則」のないところで、どのような合意が成立するかを論じているといってもよい。この点に注目したハンナ・アレントは、『判断力批判』を政治学の原理として読もうとしたし(『カント政治哲学講義』)、また、リオタールは「メタ言語の設定なしでの諸言語ゲーム間の調停」を見ようとした(『熱狂』)。それは事実上ヒュームに回帰することであり、普遍性をたかだか『共通感覚』にすぎないと見なすことである。だが、カントに『純粋理性批判』から『判断力批判』への移行を見いだすことは正しくない。『純粋理性批判』はすでに文芸批評が与えた困難を踏まえて書かれているからだ。われわれがなすべきなのは、『純粋理性批判』をその観点から読み直すことである。」柄谷行人『トランスクリティーク カントとマルクス』岩波書店、2010.pp.56-66.

 たとえば経験科学、地球物理学というものなら、地球や月や天体の動きを観測してデータから整合的な法則を導く。あるいは実験装置を作って理論を確認する。これが論理的に悟性で納得される結果なら真理とする。また、ある人の行為が正しいものか、善であるか悪であるかを決めるのは、実践理性が要請する道徳的問題になる。そこには他者の問題がかかわってくる。しかし、芸術作品たとえばある絵画や音楽が、美的だと感じる判断力は、純粋理性でも実践理性でもなく「趣味」の問題、つまり判断力の問題として区別される。そして、カントはこれを三番目の「批判」として展開する。
 

B.少子化対策の不人気
 時の政府が、国民の支持をとりつけようと予算をつけ名前をつけて、政策をアピールする。それが有権者に歓迎されれば、支持率はあがり選挙にも有利に働く。ある意味当然だが、国民もバカではないから、それが本当に国民生活に必要で有効な政策なのか考える。岸田内閣が打ち出している政策のうち、「異次元の少子化対策」と「マイナンバーカード」は、ひどく評判が悪い。それもそのはず、少子化をなんとかしないと大変だ、というのはみんな知っているけど、いまの日本社会で子どもを産んで育てることがいろいろ考えると大きなコストと考える若い人が増え、それを政府の支援策ぐらいでなんとかなるわけがない、という実感があるからだ。また、行政事務を効率化するために、ITカードに一本化するという趣旨はわからないことはないが、いま起きているのはその性急な実施が、現実的なトラブル続出でほんとに今早急にやる必要があるのか、みんな疑問を抱いている。しかし、こうした問題は、国民生活の現実を考える材料として日常的にわかることだ。もっと問題なのは、防衛費増大や武器輸出といった問題は、そういうふうにぼくたちの生活の現実とはかけはなれた、ある意味で「空想」するしかない問題なことだ。憲法問題も含め、政府自民党の政治家が考えていることは、ほんとにやりたいことをごまかして、目先の政策で受けを狙っているということがみえみえではないか。

「政府方針に低評価 少子化対策 真価これから: 政治部 阿部 彰芳 
 ある官邸スタッフが落ち込んていた。岸田政権が打ち出した「異次元の少子化対策」の評判がすこぶる悪い。政府は来年度以降に取り組む対策を「子ども未来戦略方針」として6月13日に閣議決定したが、6月の朝日新聞社の世論調査では、73%が少子化問題の改善は「期待できない」と答えた。他社も似た傾向だ。
「これだけ思い切った政策がなぜ評価されないのか」。実施前だというのに、その低評価ぶりを嘆く姿に、北野武監督の映画「キッズ・リターン」のセリフが頭に浮かんだ。「俺たちもう終わっちゃったのかな」「バカヤロー、まだ始まっちゃいねぇよ」
こども未来戦略方針に記されているのは、来年度以降に始める対策と財源の考え方。理念は三つで、若い世代の所得を増やす▽社会全体の構造・意識を変える▽すべてのこども・子育て世帯を切れ目なく支援する。その理念の実現を目指すための、思い切った対策が確かに含まれている。
例えば、男性の育児休業。民間で直近14%の取得率を2030年までに85%にする。取得を促すため、出産から一定期間出る育休給付金を引き上げる。いまは手取り8割相当。それを両親ともに育休を撮れば10割相当にする。ほかにも、時短勤務を選びやすくするよう、子どもが2歳未満なら、時短勤務で減った賃金を補う給付も創設する。
対策が始まれば、利用者の恩恵は少なくなさそうだ。だが、世間の期待感が乏しい理由もわかる。
岸田文雄首相が「異次元の少子化対策」を打ち出したのは年明けの記者会見。そこから半年足らずで一気に中身を決めた。児童手当の所得制限撤廃や、出産費用の公的保険の適用など、賛否のある内容まで。
官邸主導の力業だが、公開の場で丁寧に議論を積み上げていないぶん、そのメニューになった理由や個々の対策の妥当性が見えづらい。一方、財源の負担は幅広く求めていくという。子育て世帯はいま2割に満たない。それ以外の世帯には負担が目につきやすい。
 日本は異次元の少子化社会に突入している。国立社会保障・人口問題研究所の将来人口推計では、出生率が低いシナリオで40年後に65歳以上の割合が40%を超す。少子化対策の真価はこれから問われる。取材にあたる記者として、効果の検証はもちろん、対策をはぐくむ視点も持ちたい。政府には、多くの人々が「我がごと」の問題と思えるような発信や工夫を望みたい。」朝日新聞2023年7月19日夕刊5面 NEWS+α  取材考記
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 20世紀美術の回顧 8  終章 憂国の情

2023-07-18 15:20:56 | 日記
A。「芸術」の意味
先日、上野の美術館で開催中の「マティス展」に行った。2200円という、美術展としては高い料金を払うたくさんの老若男女がつめかけていて、みな熱心に作品を見、なかにはノートを広げてメモを取る人もいた。日によっては入場予約や制限をすることもあるという。これはマティスが高名な画家だからというだけでなく、美術館に行って美術を鑑賞するという行為を日常的に楽しみたいと思う人が、たくさんいるということであり、それを提供する機会が東京にはたくさんある、ということになる。でも、だから現在の日本では、芸術がかつてないほど隆盛を極めているといえるだろうか?美術に限らず、現代社会においてアートは、人の生活にとって不可欠なものだろうか?むしろそれは、なくても困らない「余白」のようなものになってしまっているのではないか、という疑問が高階秀爾先生のこの本の、末尾に語られている。

「以上の諸章において、私は、「分離」ないしは「分化」と、それに伴う「強調」こそが現代芸術の大きな特質であると述べた。さまざまの要素が複雑にからみ合い、組み合って成り立っている造形芸術において、その中のある特殊な要素を他の要素から「分離」して自立させ、その表現の可能性を追求したのが二十世紀の美術であった。その結果、多くの要素が重層的に渾然と一体になっている古典的芸術世界像は分裂して、その代り、ある特殊な要素、ある特殊な面が大きくクローズ・アップされる芸術世界が生み出された。色彩、形態、線のような造形要素とか、マティエールや動きのような表現手段とか、さらには主題、モティーフ等の表現内容にいたるまで、それぞれが芸術王国における自主独立の市民権を主張し、その権利がどこまで認められるかを徹底的に追い求めようとしたのが二十世紀美術の歴史だと言ってもよい。
 したがって当然そこには、誇張もあれば、大げさな身振りもある。あるいは、激越さや強烈さにも欠けてはいない。だがその激しさは、何ものにも妨げられることなく、わがもの顔に自己増殖する培養基の中の病原体の活動の激しさに似ている。現実のさまざまの諸条件から切り離されていればこそ、それは思い切って激越になることもできたのである。
 しかしそう言えば、現代においては、美術をも含めて芸術そのもののあり方が、培養基の中の病原体の活動に似ている。「分離」と「強調」の原理は芸術の内部で大きく作用していると同時に、芸術そのものの社会におけるあり方にも同じように作用している。芸術は社会から「切り離される」ことによってはじめて、自己の「純粋さ」と「力強さ」を保ち続けることができたからである。
 オックスフォード大学教授のエドガー・ウィントは、そのような現象を、十九世紀以来芸術が人間の生活の中から追放されてわずかに生活の「余白の部分」を占めるにすぎなくなったことの結果であると説明している。たしかに、現代におけるほど、芸術が生活の中の小さな部分としか関わり合いを持たなくなった時代は、歴史上その例を見出すのが困難であると言えるかもしれない。
 と言えば当然、いや今日におけるほど芸術が広く一般の生活の中に浸透している時代はないという反論が提出されるであろう。なるほど、一見現代人ほど芸術に取り巻かれて生活している人種もそうざらにないように思われる。古今東西の美術の遺品を集めた展覧会はほとんど息つく暇も与えぬほど立て続けに開催され、音楽界のプログラムはこれまたありとあらゆる種類の音楽を即座に提供してくれる。展覧会や演奏会がない時には、機械技術の粋をこらした複製画やレコードが望みとおりの「芸術」をいつでも好きなだけ供給してくれるし、文学においても、世界のあらゆる時代のあらゆる種類の名作を手もとに揃えるために、考えられる限りの便宜が図られている。表面的に見れば、芸術は生活から「切り離されている」どころか、現代生活とわかち難く結びついているように思われる。少なくとも、われわれが享受することのできる芸術の種類が他のどのような時代よりも豊富であることだけは認めなければなるまい。
 しかし、問題はその享受の仕方である。
 優れた指揮者であった故クーセヴィッキーは、「音楽はいくら多くあってもあり過ぎることはない」と語っている。今日の演奏会や、レコードヤ、ラジオ、テレビ等の発達を考えれば、クーセヴィッキーももって瞑すべしと言ってよいであろう。だがそれらの多量の音楽は、多くの場合、ただ単に「聞かれる」だけである。音楽が生活の中にはいりこんでいると言っても、それはもっぱらおとなしく聞いているだけの――あるいは場合によっては何かほかのことをしながら聞き流しているだけの――音楽が多くなったということであって、かつて古代人たちの労働歌がそうであったように、生活に直結した場所で自分たちがそれを歌い、演奏する音楽が増えたわけではない。
 元来、音楽は、舞踊と並んでもっとも古くからある芸術形式のはずである。アランをはじめ、多くの美学者が指摘するように、芸術はおそらく、祭祀、ないしは呪術的なものと結びついた舞踊から生まれた。それは、単にダンスというだけではなく、「ものまね」、すなわち演劇の要素をも含んだものであって、それはいわばさまざまな芸術のジャンルをすべていっしょにしたような複雑な内容を持っていた。やがてそこから、音楽、舞踊、演劇という独立した芸術形式が生まれた。演劇や舞踊の舞台のためには装置や書き割りが必要であり、また呪術的意味を担わされた仮面や神々の像が要求され、それが絵画や彫刻を生み出すこととなった。大ざっぱに言って、ここでもわれわれは「分化」の原理が作用しているのを見ることができる。あらゆるジャンルの芸術が潜在的に含まれているような呪術的舞踊から、各種のジャンルは、ひとつひとつ「切り離され」て独立した存在を与えられる。モニュメンタル芸術についてみても、やはりおそらくは呪術的、ないしは宗教的意味をもっていたと思われる建物から、壁画や装飾彫刻が次第に独立したものとなって行く。絵画や彫刻という一つのジャンルの内部で、色彩とか、形態とかの造形要素が「分化」して行く現代美術の動向は、もしかしたら原始時代以来の大きな「分離的動向」のいちばん最後に位置づけるべきものであるのかもしれない。
 そのような芸術の諸ジャンル、またはその表現要素の分化と並んで、社会的にはさらにいっそう重要な意味をもつ別種の分化が同時に進行していた。それは芸術家と観客(聴衆)、すなわち芸術を創造するものと享受するものとの分化である。
 言うまでもなく、古代のあの呪術的な舞踊は、すべての人がそれに参加すべきものであって、およそ傍観を許さないものであった。今日でもまだ地方に名残りをとどめている民俗舞踊は、そのもっとも卑俗な形式である盆踊りを見ても明らかなように、演ずる者(踊る者)と見る者との区別のまだ明瞭になっていない世界である。だが現在では、その民俗舞踊や盆踊りですら、どうかすると劇場の舞台で何百人もの「何もしない」観客を前にして演じられるものとなってしまった。
 芸術家と観客とのこのような分離の中間段階を示す適切な例として、われわれは古代ギリシャの演劇を考えることができる。ギリシャ演劇が古代祭祀と深い関係にあることはジェイン・ハリソン女史が見事に証明した通りであり、またそれが今日われわれの言う芸術としての「演劇」の祖先であることは言うまでもないことだが、すべての人が参加する「祭儀」と、縁者と観客のはっきりと別れている「演劇」との中間段階であるギリシャ演劇は、形式としても、両者のちょうど中間に位置する。そしてそのことを何よりもはっきりと物語るのは、あの合唱隊の存在である。
 合唱隊は、それが「合唱」隊であるというその事実によって、ギリシャ演劇が実はまだジャンルとして音楽と未分化のものであったことを示すが、それと同時に、ドラマを演ずる者と見る者との中間の存在という役割をも引き受ける。事実ギリシャ演劇の合唱隊は舞台の上にありながらそこで進行する事件に対しては、ほとんどの場合、単なる見物人である。(ギリシャ演劇の歴史において、合唱隊のドラマに対する役割の重要性が、古い時代ほど大きいということは、この意味ではなはだ興味深いことであろう)つまり、舞台の主要な登場人物たちに対しては観客であり、一般の観客に対しては舞台上の人物であるという二重の性格が合唱隊の本質なのである。それは、舞台と見物席、すなわち演ずる者と見る者との分離をまだ辛うじてつなぎとめているヘソの緒のようなものと言ってもよいかもしれない。やがてそのヘソの緒はぷっつりと切れて、舞台と客席とは完全に「分離」してしまうのである。
 同様のことは、音楽においても、文学においても、そして建築や造形芸術においても指摘し得るであろう。ホメロスの時代は、文学というものは読まれるものではなくて語られるものであった。語り手と聞き手の関係は、もちろん今日の小説家と読者の関係よりもはるかに密接である。聞き手は、単に聞くのみではなく、時にみずから語り手に加わったかもしれない。少なくとも、語る者と聞く者とのあいだには、打てば響くような緊密な連帯感があったに相違ない。だが今日では、小説や詩の作者と読者とのあいだに、そのような連帯感のあることはきわめて稀となった。作者は誰とも顔も知らぬ不特定の読者のために書き、読者は作者から遠く離れた別の世界でそれを受け取る。ティボーデが、「ギリシャ人の知らなかった楽しみ」として、煙草と並んで小説を挙げたのは、その意味でも正当であったと言える。
 ウィント教授が指摘するように、芸術が二十世紀において生活の中心から「余白の部分」に追いやられてしまったということは、創造者と享受者とのこのような分離と無関係ではない。しかも、享受者の側にとって、創造者がいよいよ遠い存在になるとすればなおさらのことである。それは、もはや生活の「余白の部分」しか占めていないゆえにいよいよ遠い存在となったと同時に、それがいよいよ遠い存在になったゆえに、ますます「余白の部分」に追いやられるという結果をももたらす。「ながら族」というような言葉が端的に示すように、今日においては、芸術を享受するということが、生活の本質とはかかわりのない片手間の仕事となってしまったからこそ、われわれはこんなにも多くの芸術にとりまかれてしかも平気でいられるのであって、もし、あとからあとから登場するさまざまの種類の芸術に、かつての古代人たちのようにひとつひとつ本気でつき合っていたら、とても生きてはいけまい。
 とすれば、芸術がこれほどまで華やかに生活を飾り立てているように見えるのも、実は芸術に対するわれわれの反応がそれだけ鈍くなったからだと言ってもよいであろう。いささか逆説的ながら、現代の華やかな芸術の隆盛は、われわれの芸術に対する無関心によって支えられているのである。
 そのような状況のなかにあっては、創造的芸術家が、かつてのような、ともに創造する仲間としての観客を期待しえないことは容易に理解できるであろう。彼らの創造活動が、しばしば誇張された激しさをともなうのも、むしろ当然のことであるかもしれない。現代美術におけるスキャンダリズムも、それなりに必然性を持っている。それは、自分を顧みない大人たちの関心を引くために大声で泣き叫ぶ子供に似ている。さもなければ、子供と大人のあいだのつながりは、永遠に断たれてしまうかもしれないのである。
 なるほど、現代のようにあらゆる種類の伝達の手段が発達した時代においては、人間同士のあいだのコミュニケーションはまことに安全に確保されているように思われるかもしれない。しかし、今日の驚くべきコミュニケーションの手段の発達が、主として――というよりほとんど完全に――合理主義的機械文明のたまものであることを思えば、かならずしもそれほど安心しているわけにはいかない。ウィント教授の指摘する通り、現代において芸術を生活の中心から追い出してそのあとに居座ったのは、ほかならぬ機械文明の生みの親である科学だからである。つまり、現代のコミュニケーション手段は、ある種の情報伝達には完璧に近い機能を発揮するが、他の種類の伝達についてはおよそ無力であるような、そのような領域においてこそ、芸術は本来その機能を果たさなければならないのである。そのことが、単に「手段」だけの問題ではなく、その「内容」とも深いかかわりがあることは言うまでもない。」高階秀爾『20世紀美術』ちくま学芸文庫、1993 ,pp.252-259.

 ぼくは子どもの頃、絵を描いて暮らしていかれればいいな、と思っていたが、それが現実的にはかなり難しい道だということを知って、アーティストになるという希望は諦めた。アートの創造という行為は、他の活動に比べて喜びや楽しみに満ちているけれど、それはあくまで「趣味の領域」であって、非生産的な「余白の行為」だとされてしまう。でも、そうなったのは近代化の進行のなかで起きたことだったのだ。


B.憂国の真情
 富国強兵をまたこの国はやろうとしている。その結果どうなるか、過去に学ぶことを放棄した政治の愚かさは亡国を招く。というシンプルな論説。池内氏もぼくも、その悲惨な結末を見る前にあの世に逝ってしまうだろうが、おれのほうが正しかったというアリバイ作りのためではなく、まだまだこの世に生きていく若い人たちのために、今ここで考えてほしいと言うのだ。

「現代版富国強兵政策 「新たな敗戦」迎えるか  池内 了
 近代化した西洋の後を追って、明治政府は産業を起こして経済力の増強を図り(富国)、これを基礎にして強い軍隊をつくり(強兵)、欧米列強に対抗しようとした。以来、富国によって稼いだ金を軍事力の強化に使い、強兵によってアジアの植民地化を推し進めて国を富ませることに努めた。このような富国と強兵が一体化した政策の帰結として戦争をする国へと突き進み、ついに1945年の悲惨な敗戦へと導かれたのであった。
 敗戦後の日本は、憲法によって強兵を抑制する一方、ひたすら富国の道を追求して産業勃興を追い求め、いったん世界第二の経済大国にまでのし上がった。と言っても、歴代の保守政府は強兵の道を探りつつ、米国の軍事力に依存した防衛政策を展開してきた。こうして、いったんは富国と強兵を切り離すことによって、日本は経済的成功を収めたのである。
 そのまま富国の道を歩み続ければよかったのだが、ジャパン・アズ・ナンバーワンなどとおだてられて有頂天になったためか、営々と築き上げた実業を軽視し、虚業のバブルに狂奔してしまった。当然バブルは弾け、日本は富国の基礎である産業競争力を失って空白の三十年が過ぎ、国力が少しづつ衰えて国際的な存在感が薄れる一方となった。このままでは日本は危ういとの焦燥感から、再び富国と強兵を一体化した「現代版富国強兵政策」を浮上させたのが安倍内閣であった。以後の日本の政治はこの路線を辿っている。
 この政策の手法は、大企業の法人税を下げて大量の内部留保を許容し、株価を高値に維持するという、大企業や富裕層を優遇しての富国の策である。それらの儲けがいずれ庶民にもしたたり落ちる(トリクルダウン)という気楽な経済理論で、これをアベノミクスと言う。結局、ごく少数の富裕層と大多数の貧困層の格差を大きくしただけであって、決して富国にはならなかった。そこで焦って強調したのが「イノベーション(経済発展のための技術革新)」で、「総合科学技術・イノベーション会議」「科学技術・イノベーション基本計画」「科学技術・イノベーション基本法」など国家政策としてイノベーションを奨励し、予算の大盤振る舞いをして「戦略的イノベーション創造プログラム」とか、「イノベーション創出強化研究推進事業」を立ち上げ、国を挙げてのイノベーション花盛りとなった。今や、イノベーションという言葉を聞かない日はないくらいだ。
 とはいえ、イノベーションはそう簡単に進まず国富は実現しないから、強兵と結びつけることにした。ただい強兵のような露骨な言葉ではなく、「安全保障」という用語とする。そうすれば軍事力増強はスンナリ受け入れられるからだ。企業における武器の生産・輸出を奨励・拡大するために武器輸出三原則を「防衛装備移転三原則」に言い換え、さらに「国家安全保障戦略をぶち上げて防衛予算を大増額し、軍拡を推し進める口実とした。最近成立した「防衛装備品生産基盤強化法(防衛産業強化法)」によって、軍需企業の支援に乗り出し、武器輸出をさらに緩和して「死の商人国家」となり、富国に尽くそうというわけだ。
 このように富国と強兵が一体となって進行する現代版富国強兵政策は、まさに「新しい戦前」を招き寄せているかのようである。ならば、この動きの帰結として、日本は「新たな敗戦」を迎えるのであろうか。 (いけうち・さとる=総合研究大学院大名誉教授)」東京新聞2023年7月14日夕刊3面。
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