私には正義とは何なのかよくわからない。
世の中には「多数派の意見(世間の風)」と正義を同一視しているかのような
橋下弁護士のごとき人もいる。私はその手の「世間主義」にはまったくうんざりしているけれど、「それならお前の考える正義とは何だ」と問われてもうまく説明できない。
以前の記事で「弁護団への懲戒請求殺到問題」について書いた。その問題に深く関わる「光氏母子殺害事件」差し戻し控訴審で被害者遺族が意見陳述を行った。
中国新聞ニュース:「供述が真実とは思えない」 遺族に無念と怒り 光市母子殺害事件の弁護団と、本村洋さんは二十日の公判後、広島市内で記者会見し、五月から三回の集中審理を振り返った。弁護側は「主張が証拠に基づくものと立証できた」と評価し、本村さんは「死刑判決を出してほしいという思いを新たにした」と述べた。
弁護団は中区の弁護士会館で記者会見。弁護団長の本田兆司弁護士は「事実を証明するために弁護してきたが、主張が証拠に基づき立証できた」と自信を見せた。
被告を死刑にするよう求めた本村さんの意見陳述に対し、安田好弘主任弁護人は「前提の事実が違う。真実が何かもう一度、知ってほしい」と説明。立証の自信を問われると「100%の立証はできたが、300%の立証ができないと裁判所は認定してくれない。さらに理解を求める」と述べた。
被告と面会を重ねた今枝仁弁護士は「異常とも言える注目を受け、非難や偏見にさらされ正直つらかった」と心境を吐露。「遺族を傷つけたならおわびしたいが、真実を明らかにするため全力でやってきたことは信じてほしい」と言うと泣き崩れた。
一方、本村さんは市内のホテルで会見。「被告は水に描くがごとくの発言ばかりで、真実を話しているとは思えない」と疲れた表情をみせた。
涙を交え謝罪と弁解を繰り返した被告に対し、「検察官の質問には敵意をあらわにし、心から改心している人間と思えない。死刑判決を出してほしいという思いを新たにした」と力を込めた。
被告が法廷で「生きて償いたい」と訴えたことについては「生きたいと思うのは当然。それでもなお命で償わなければいけない罪の大きさを知ってほしい」と述べた。
被告が罪と向き合い反省することを常に望んできた本村さん。「二人の命をあやめてまだ反省できないのかと思うと非常に残念。私の気持ちが伝わっていないのかなと思う」と無念さをにじませた。(鴻池尚、門戸隆彦)
私は事件と裁判について語る言葉を持たない。
事実がどこにあるのか、被告に更正の余地があるのか、適切な量刑はどのあたりか、詳しい情報を持たないし正直に言って知りたくもない。おぞましい事件の詳細を追及し判断を下す苦行は司法の専門家たちに任せたい。事実に基づいた厳正な判決が下され、それが被害者遺族と被告の双方が納得できるものであることを願う。
気になるのは「被害者遺族の意見陳述」報道だ。
私の見た限りでは20日のテレビ朝日系「報道ステーション」と日本テレビ系「NEWS ZERO」(ニュースゼロ)がトップニュースとして取り上げていた。特にNEWS ZEROは本村氏の意見陳述を中心に長時間をかけ、最後にはスタジオのタレントが涙ぐんでみせるという演出まで付いていた。「弁護団への懲戒請求殺到」に表れたように世の中には本村氏に強く感情移入している人が多いようである。日本テレビの番組構成はまさに視聴者が望むとおりのものだったのかもしれない。
私にはワイドショーまがいのあざとい視聴率稼ぎに見えた。
あらためて言うまでもなく私は意見陳述を行った被害者遺族を批判しているのではない。あくまでもマスコミの扇情的な報道とそれを受け入れる「世間」のあり方に疑問を抱き、恐れている。
これまでこの裁判について知ることを意識的に避けてきた。知ったところで嫌な気持ちになるだけだし、どうしても知る必要があるとも思えなかった。だが、「弁護団への懲戒請求殺到」事件が起きて「この裁判の周辺でおかしなことが起きているようだ」と思いはじめ、意識してニュースを見ることにした。これまでは「光氏母子殺害事件」のテロップや本村氏の顔が画面に映るとすぐにチャンネルを変えていた。本村氏の話す姿をテレビ画面でじっくり見たのはほとんど初めてである。
これまで本村氏がマスコミを積極的に利用して被害者感情をアピールする姿を見てきて、いや、「見る」というよりは「遠くの視界の隅に入れる」くらいの見方なのだが、ぼんやりした印象を持つようになった。「この人は妻と子のために復讐の鬼になることを選んだのだな」というのがその印象である。本村氏の会見を見てその印象が変わることはなかった。
本村氏がどういう人物なのかは知らない。ヒーローとして
心酔する意見も、亡き妻の尊厳を傷つけていることを
批判する意見も読んだが、そのどちらが実像なのかわからない。
本村氏がどのような人であるかとは別に、この事件、この裁判において彼は復讐の鬼となることを選んだのだと私は思っている。そしてそれを批判するつもりはない。あれほど無残なやり方で妻子の命を奪われた男が復讐を決意するのは当然だ。私だって本村氏の立場であればそうするかもしれない。
本村氏の行動を批判はしないけれど、彼の意のままに動いているようなマスコミのあり方はどうかしていると思う。NEWS ZEROのような報道はあまりにも感情移入が強すぎて客観性を失っている。裁判で争われるのはまず何をおいても事実であり、法律であり、判例であるはずだ。被害者を無視すべきだとは言わないが、被害者感情の吐露が過半を占める裁判報道が適切とは思えない。
以下は一般論として書く。
犯罪の被害者(遺族)が犯人に怒りを燃やし復讐の鬼となるのは個人の自由だ。権利とさえ言っていい。
だが、報道や世論が「鬼」と化した被害者(遺族)に過剰に感情移入し英雄視する必要があるのだろうか。それが社会の倫理を高め良い方向に導くのだろうか。私にはそうは思えない。
光市の事件だけではなく、北朝鮮による拉致事件でもイラク人質事件でも「被害者(家族)を絶対化する」傾向が一部にあり、嫌な感じがしていた。拉致事件やイラク人質事件の場合は絶対化しようとする勢力に対して反対する勢力があり歯止めとなったが、光氏母子殺害事件の場合は「世間」の被害者遺族への同情・共感・一体化・賞賛・英雄視にとめどがない。
戦後社会はリベラルになり価値相対化され「善と悪」「味方と敵」の区別がしだいにあいまいになった。「日本は常に正義である」とか「自分の仲間(会社・業界・組合)以外は敵だ」といった考え方を維持するのは困難だし、そういった意見を公表すると偏狭と批判される。
だが、光市事件(北朝鮮拉致事件、イラク人質事件)のような「かよわい被害者と凶悪な加害者」の構図は別だ。被害者はあくまでも被害者であり、加害者は加害者である。けっして両者の立場が入り混じることはない。
無関係な第三者(観客)にとって「正義」や「味方」を信頼するよりも「被害者」に同情するほうが安全だ。「正義」はいつ仮面が落ちて醜い正体が明らかになるかわからないし、「味方」は裏切るかもしれない。だが殺人事件や拉致事件の被害者が「実は加害者だった」といったことはまず起こらない。
被害者はいつまでも被害者であり、それに同情する「私たち」(世間)は心優しい人間であり、被害者に同情しない(ように見える)連中は人間の心を失った悪党であり、それを糾弾する「私たち」(世間)は正義の味方なのである。実にすがすがしく単純明快だ。
この明快さ、自らの正しさを疑わない人たちの純粋さが私には恐ろしい。
被害者はあくまでも被害者であり、人々から同情されるべきである。とりあえずそのことに疑問はない。
だが、無関係な第三者が被害者に同情し一体化することによって「正義」をわがものにするメカニズムは恐い。誰がいつそんな力を与えたのかと聞いてみたくなる。あなたたちはもともと単なる観客じゃなかったのか。
例として適当かどうかわからないが、経済における信用創造のメカニズムを連想する。
信用創造 - Wikipedia
銀行は預金を受け入れ、その資金を誰かに貸し出す。その過程で信用創造は発生する。以下は、そのプロセスの例である。
A銀行は、X社から預金1000円を預かる。
A銀行は、1000円のうち900円をY社に貸し出す。
Y社は、Z社に対して、900円の支払いをする。
Z社は、900円をB銀行に預ける。
この結果、預金の総額は1900円となる。もともと1000円しかなかった貨幣が1900円になったのは、Y社が900円の債務を負い返済を約束することで900円分の信用貨幣が発生したことになるからである。この900円の信用貨幣(預金)は返済によって消滅するまでは通貨(支払手段)としても機能する。このことはマネーサプライ(現金+預金)の増加を意味する。
さらに、この後B銀行が貸出を行うことで、この仕組みが順次繰り返され、貨幣は増加していく。このように、貸出と預金を行う銀行業務により、経済に存在する貨幣は増加する。
信用創造のメカニズムを「正義」の創造に置き換えてみる。
「世間」の善良なる市民は被害者に「共感」のかたちで資本を貸与する。
被害者は資本を「世間」に還流する(吸収される場合もあり、本村氏のように積極的に増幅する場合もある)。
「世間」と被害者は資本(共感)を行き来させることによって何倍にも増幅させる。正のフィードバックだ。
巨大化した資本(共感)はやがて自らの論理で動きだす。
金が集まるのは価値がある証拠であり、共感が集まるのは絶対的な正しさを意味する。
金で買えないものはないし、被害者への共感は常に正義である。
それを疑うものは資本主義社会への反逆者であり、「人として許せない」異常な連中なのだ。
経済学に無知な私には無から有を生み出す魔法あるいはインチキのように思えるが、信用創造のメカニズムは活発な経済活動のため不可欠なものであるらしい。同じように社会において共感を増幅させて「正義」を創造するメカニズムは必要である。誰もが自分のことにしか関心を持たないようでは社会は成り立たない。
だが、信用創造もやりすぎればバブルになるように、共感による「正義」の創造も限度を超えると危険だ。自分たちで作り出した「空気」にやがて縛られることになる。第三者が「当事者の気持ちになって」客観性を失えば合理的な判断をするのは難しい。
さらに共感や「空気」を絶対視するようになると、冷静な態度をとる人を「人の心がない」と罵倒するようになる。こうなると信仰集団と紙一重だ。
20年ほど前に「無から有を生み出した」かのごときバブル景気に浮かれた日本社会は、やがて祭りの後の虚しさを痛感し甘い汁の後の苦汁をなめることになる。現代の「善良なる市民」たち、マスコミやネットで誰かが煽った「共感」をインフレートさせ「正義」の信用創造に手を貸している人たちが先人の失敗(20年前だけでなく70年前にもあったことだ)に学んで現実を見失わず限度を超えないように願う。