これまたややこしんだけど、たとえば東浩紀氏は萱野氏のこういう意見に違和感を示すわけでしょう?ところが東氏の南京事件に対する態度を批判する人が、萱野氏(およびそれに賛同するhamachan氏)に対しても批判を向ける。それってどうなの?つまり、「南京大虐殺は無かった」とか言っちゃう人がごろごろしていることを許すことと、移民とかホームレスのような、「われわれ」とは違っているとされる人たちがひどい目にあっても平気でいられることとが、同じ問題の表れに見える人と、単に別の問題に見えてる人がいるってこと?新しい年とナショナリズム先日のエントリでも書いたが、『「公共性」をどう構想するか』という観点を欠いたまま、「歴史修正主義」とか「ナショナリズム」という言論/概念/思想自体の是非を論じることにどれほどの意味があるのだろうか。私の意見としては、そこにこそ、問題の根があるように思える。例えば、上記のエントリで