平素より「はてなハイク」をご利用いただき、ありがとうございます。 「お題でつながるミニブログ」としてご利用いただいていた「はてなハイク」は、2019年3月27日をもちまして、サービスの提供を終了させていただきました。 これまでご利用いただきましたユーザーの皆さまに深く感謝いたします。 誠にありがとうございました。 詳しくは下記をご覧ください。 http://labo.hatenastaff.com/entry/2018/11/19/113653 株式会社はてな
で、例年通りデモについて述べたいのですが、小生は今年不調の極みでもあり、十分な取材も出来ず、特に手持ちの画像が事実上上掲一枚しかありません。そんなわけで雑駁ではありますが、一応書いておきます。 なお、デモの速報が革非同公式ブログに掲載されておりますので、そちらもご参照下さい。写真が複数枚あります。 ・非モテダイジェスト 号外 また、デモを見学された方が写真をアップして下さっています。こちらの写真は質量とも豊富です。更に動画も・・・。 ・2010クリスマス粉砕デモ行進 渋谷 革命的非モテ同盟 さて、デモの詳細ですが、今年も幸い例年通り20名程度の方が集まられ、新顔の方も何人も見えられたのは幸いでした(集まった人全員がデモ隊だったわけではなく、沿道からの撮影や観察に専念した方もおられました)。もっとも新顔の方がおられたのに人数変わらない、というのは、お馴染みの方で来られなかった方もいたわけです
取り敢えず本日聖地にて不埒者どもがデモをすると聞いて巡礼も兼ねてヲチしてきたけどよくよく考えたら肝心の巡礼の方をきちんとできてないんで単にヲチしに行ったと言う方が適切かもしれない,と前置きを書いて始めます。ちなみに連中の「行動」をヲチしたのは実はこれが初めてです(これまで,胸糞が悪くなるので映像は殆ど見てこなかったので)。なのでヲチヴェテランの方から見れば「ああ,またか」な事象に過敏に反応している向きがあるかもしれないですがそこはご容赦下さい。また,一々記録を取っていたわけではなく,記憶を頼りに書いているのと,そのデモの全貌を観察し得たわけでもないことから,以下の記述には事実関係の誤りや時系列の混乱,曖昧な内容が含まれている可能性があります。 僕が連中の集合場所に着いたのは,連中が指定した集合開始時間と同じくらいでした。けれど,集合場所である秋葉原公園には既に日の丸や旭日旗,Z旗などを持っ
まず「そうだ 京都、行こう」と 最初はそう決めました。理由なんて後付で。実際デモに参加するかしないかは現地行って決めればいいやと。とりあえず見とけと。決定的に怒られるかもしれまんが「在特会側のデモに参加して」彼らを直接観察しようかとも考えました。あわよくば彼らの本音を直接見聞きできるいい機会でもあるだろうと。何ならば縦読み仕込んだプラカードを用意してとか。が「やっぱりそれは無い」と精神的に自分にはムリと判断。きっと心の底から捻くれている自分の事だろうから、在特会連中に混ざっている間は適当にウヨク回路エミュレーション機能を発揮して(彼らの感覚において)普通に会話できるだろうと想像するわけですよ。さほど複雑なロジックは要らないだろうから。脳みそに負荷は恐らく掛からない。「日本人だからって善人もいれば悪人もいるのだから、外国人だからって悪人ばかりとは限らないとは私も思ってるんですけどねーそうは言
外国人排斥を許さない6・13緊急行動 http://613action.blog85.fc2.com/ ブログ旗旗 » いよいよ本日!蕨市の少女追い出しデモを忘れてはいけない - 旗旗 http://bund.jp/md/wordpress/?p=2122 ◆プロローグ まず今日のデモが見えざる所で思わぬ敵と戦うところから始まったことを告白しなければなりません。 そう、戦いは勇気を振り絞って朝おきる所から始まったのです。 気がついた時点ですでに10時。過ぎ去りし起床時間!! 11時スタートだとあれほど確認していたのにすでに10時。この意味がおわかりか。 普段の自分なら、もうここで寝ている! 諦めたら二度寝が最高だよ! だがしかしここから起きて着替えてパン食べて自転車こいでデモに参加した今日の自分をぜひほめたい。 曇り空で雨が降りそうで天気予報が午後から雨だという新聞紙面の情報戦に攪乱されて
革命的非モテ同盟跡地 そもそも批判者と主催者側で「デモ」の概念設定が完全にずれていて、(主催側含め)誰もその溝を埋めようとしていないところに問題があると思う。批判者側は「デモ」を旧来(代表的なタームで説明するならば「シアトル以前」ということになるだろうか)の「デモ」として認知したまま、その論理設定や運営方法を批判しているように見える。 一方で、今回の「デモ」(というより、ここ何年かの間に若者主体で行われているデモの大半)は、まず旧来型の組織的な「デモ」に対する否定から想起されたものだということを理解する必要がある。 一応、この辺の文脈に関する参照文献として、毛利嘉孝氏の『文化=政治』とポール・キングノース氏の『ひとつのNo!たくさんのYES!』を挙げておく。別にここに書かれていることを肯定する必要はないけれど、今回の「デモ」の意義を問うのであれば、まずこの概念を共有しておかないと話にならな
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