目次 「会話のための順番交替の組織 ― 最も単純な体系的記述」 (H. サックス,E. A. シェグロフ,G. ジェファソン) 「会話における修復の組織 ― 自己訂正の優先性」 (E. A. シェグロフ,G. ジェファソン,H. サックス)
目次 「会話のための順番交替の組織 ― 最も単純な体系的記述」 (H. サックス,E. A. シェグロフ,G. ジェファソン) 「会話における修復の組織 ― 自己訂正の優先性」 (E. A. シェグロフ,G. ジェファソン,H. サックス)
◆アンスコム「行為・意図・『二重結果』」(1) 毎度おなじみ流浪の和訳練習シリーズ第二弾ということで、アンスコムの1982年の講演“Action, Intention and ‘Double Effect’”を訳出していく予定。 (なおこれは、ウッドワード編集の二重結果論アンソロジーにも採録されてますが、訳出にあたってはアンスコムの論文集Human Life, Action and Ethics (Imprint, 2005), pp. 207-226に収められたものを底本としています。以下はそのうち、207頁から210頁下段にかけての部分。) ********************************************************* 英国等で主流の哲学において「行為の哲学」が問題となる場合、「行為」や「行為者性」という語に制約を加える慣わしがあります。そのた
今回は本辞典の記述のなかから発話行為にかかわる情報について、今までと同じく、G(2007年第4版)、W(2007年第2版)、O(2008年発行)の3つの辞書の記述と比較しながら解説したいと思います。 発話行為(speech acts)は哲学起源の比較的新しい概念で、これを使うと従来の文法範疇をいわば横断的にカバーすることができます。たとえば、「窓をあけてください」という文は、“Open the window.” “Will you open the window?” “I’d like you to open the window.”などと表現することができますが、これらはそれぞれ、命令文、疑問文、平叙文、と文の形式が異なり、説明するにはその形式からはじめる必要があります。発話行為の観点からみると、これらを一括して「要請(request)」を表す表現とまとめることができます。また、文法の上
(承知済みだったとはいえ)前回の記事があまりにひどかったことに後から反省。きちんとした解説はid:optical_frogさんが訳した「レカナティ「語用論と意味論」」を読んでください。以下はあくまで私的見解としてお読みください。ちなみに、最近はやる気がないのでブログの更新は(めったにしそうにもないが)たとえしたとしてもこの程度のメモぐらいがやっとだと思います。 オースティンとグライスとの差異 とりあえず手元にある文献から思いつくところを適当に引用してみます トラヴィスは、私が言う二つの「哲学的構図」を、自然言語における発話の意味論とはいかなるものかをめぐる相異なる見解として提起する。一つは(ポール・グライスに代表される)「古典的」見解、そして―よりなじみの薄い―もう一つはウィトゲンシュタインおよびオースティンに帰せられる「発話状況に敏感な意味論」である。(p.127-8) 私の知り合いのあ
だらだらと。 キャッチコピーの「!」の数と、物件の良さは反比例する。 →本当に良い物件は、上品なイメージを出したいので!を付けたりしないです。 「日当たり良好」は「ほめるところがない」という意味。 →賃貸はもちろん。一戸建でも、南道路なら「南道路」と書きます。 「閑静な住宅街」は「本当にほめるところがない」という意味。 →日当たり良好とさえ書くのが憚られる場合に。 「××駅徒歩圏」は「具体的に書くとちょっとアレ」な距離。 →徒歩2,3分なら、売りになるので数字書きますって。 徒歩15分とか、ま、歩けなくもないですしねえ。 「室内キレイです」は「リフォームしてません」という意味。 →リフォーム済ならリフォーム済と(ry 「状態良好」は「まあ、現況で住めなくもないですよ」という意味。 →室内キレイとさえ書くのが(ry この前、会社の人が「北向きなので、とても明るいです!」というキャッチコピーを
本年7月1日、『英語談話表現辞典』を刊行いたしました。完成までには長い時間がかかりましたが、幸いなことにその間、類書の出版はなく、国内外通じてはじめてのユニークな辞書となりました。 そのタイトルの決定は最後まで迷いました。いただいた先輩、友人からのコメントのなかにも「談話」よりは「会話」のほうがよかったのではないかとのご意見もありました。「会話」を避けたのは、「英語会話表現辞典」となるとこれまでにたくさん出ている類書と内容が同じであるとの印象を与えるのではないかと思ったからです。それともうひとつ、以前から気にかかっていることがありました。つまり、「会話」とは「二人あるいは少人数で、向かいあって話しあうこと、また、その話」(『広辞苑』)ですが、通例「日本語会話」とは言いません。「英会話」は日本語として定着していますが、その英語、‘English conversation’は使用域が限定されて
id:gyodaikt:20040611さんのところの議論を受けて、言語行為論についてメモの走り書き。 もうちょっと丁寧に考える時間がほしいところだが、いつになるかわからんし。 発語内行為と発語媒介行為は、ある動作(motion)を行為(act)としてどう記述するかの区別である。 単一の動作を発語内行為/発語媒介行為いずれかに相互排他的に包摂するようなかたちの行為カテゴリーではない。 つまり、「あぶない!」という音声を発すること(発語行為)は、聞き手に警告するという発語内行為として記述しうると同時に、車をよけさせる(あるいは逆に驚かせてよけ損ねさせる)という発語媒介行為としても記述しうる。 単一の動作(出来事)がもちうる別の行為アスペクト(aspect)といいかえてもよいだろう。 単一の物体を、形というアスペクトで記述しうると同時に、色というアスペクトでも記述しうるのと、同じことだ。 ただ
1 表現の自由の価値 内心における思想や信仰は、外部に表明され、他者に伝達されてはじめて社会的効用を発揮する。その意味で、表現の自由はとりわけ重要な権利である。 表現の自由を支える価値は二つある。一つは、個人が言論活動を通じて自己の人格を発展させるという、個人的な価値(自己実現の価値)である。もう一つは、言論活動によって国民が政治的意思決定に関与するという、民主政に資する社会的な価値(自己統治の価値)である。表現の自由は、個人の人格形成にとっても重要な権利であるが、とりわけ、国民が自ら政治に参加するために不可欠の前提をなす権利である(芦部信喜「憲法 第三版」p.162) 第12回<「表現の自由」はなぜ大事? http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/12.html 「表現の自由」、「知る権利」は私たちの政治にとって不可欠であり、民主政治にとって重大な意味を
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