学生生活に期待を膨らませながら入学式場に向かう新入生たち=2日午前10時10分ごろ、仙台市太白区の市体育館 東北最大の私大、東北学院大の入学式が2日、仙台市太白区の市体育館であった。大学院と6学部の新入生合わせて2913人が、学生生活のスタートを切った。 松本宣郎学長はあいさつで「東日本大震災から4年がたったが、復興の道は厳しい。研究成果や就職で復興に関わってほしい」と励ました。 新入生を代表して教養学部の小原裕生さん(18)=泉区=が「大学で学び、これからの故郷を支える礎となるために努力したい」と決意を述べた。 工学部に入学した佐藤龍晟(りょうせい)さん(18)=宮城県利府町=は「津波で行方不明になった家族を捜す被災者を取り上げたテレビ番組を見て、何か力になりたいと思った。手掛かりを発見するロボットなどの研究に携わりたい」と抱負を語った。 講義は8日から泉、多賀城、土樋の各キャン
Springer Science+Business MediaとJiscが、オープンアクセスの所有権と購読にかかるコストを削減するモデルに合意したと発表しています。英国の学術機関が、ハイブリッドOAの費用や管理にかかるコストを大幅に減らし、持続可能な形でのOAへの移行を支援することを目的とした合意とのことです。 Springer社の購読誌へのフルアクセスのために英国の高等教育機関が支払う購読料に上限を設け、また、英国高等教育助成会議(HEFCE)のResearch Excellence Framework(REF)、英国研究会議(RCUK)のOA方針など主要な資金提供者のOA方針に適合した形で、その機関の研究者の論文をそれらの雑誌でOAとするという合意が提案されているようです。 Springer and Jisc reach agreement on a model to reduce t
(出典[1][2]) 大阪市生まれ。本名・乕雄(とらお)。父・安治郎は実業家で、のち東海生命保険専務取締役。 関西学院中学校、同志社中学校を経て1910年3月桃山学院中学校卒業。同年同志社神学校進学。1911年京都帝国大学英文科選科に移り、上田敏、新村出(言語学)、藤井乙男(国文学)、吉沢義徳(国語学史)、鈴木虎雄(中国文学)、藤代禎輔(独文学)らに学び、1914年卒業。京都大学在学中の1913年、処女詩集『祈祷』を上梓[3]。 1915年夏、渡米。同年10月イェール大学神学部に入学するが翌1916年に退学し、ニューヨークに出てブルックリン博物館で東洋美術の管理助手として勤務。同年、日米協会の講演会で、当時コロンビア大学の英文学の教授だったジョン・アースキンに出会う。翌1917年からコロンビア大学で英文学を学び、1919年6月、同大学から文学修士(M.A)の学位を得た[注 1]。 1920
オレンジ文庫の「お坊さんとお茶を」(作者:新堂樹)を読みましての続き。 本の何に対してお金を払っているか。 食卓に上がった食事がどうやってできたか、考えた上で感謝して食事を口にしましょう、という、禅に限らず一般道徳的にも、日本全国のご飯の作り手に対して皆が抱かねばならない有難いお言葉です。食事は魔法のようにぽんっとどこからか出てくるものじゃなくて、その工程工程を誰かが担って食卓に上がってる、という。 「五観の偈」の第一、”功の多少を計り彼の来所を量る”についてまだ考えています。これってきっと本のことだけじゃないよなと。 卑近な例でいえば、先月振り込まれた給料。これは自分の何の実績や貢献に対して支払われたものか、とか。あとは冬の間にたるんだ気がする二の腕。これは自分のどういう怠慢がもたらしたものか、とか(ひぃ!!) 結果を因数分解して、それぞれの要素について思考することを意識できれば、今まで
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