A.バロックの闇と光
西洋美術史上で17世紀といえば「バロック」の時代とされる。ただ、17世紀の作品でもバロックの特徴である劇的で奔放な明暗を強調した絵ばかりではなく、フランスのプッサンやクロード・ロランのような画家はルネサンスの規範から逸脱するどころか、むしろルネサンスを踏襲する古典的な志向を持っていた。なにがバロック的かを考えるとき、イタリアのカラヴァッジョで考えるか、スペインのベラスケスで考えるか、フランドルのルーベンスで考えるか、オランダのレンブラントで考えるか、共通点よりは相違点の方がいろいろ上がるだろう。
「17世紀の危機」という言葉があって、世界史教科書的に見れば、16世紀が宗教改革と大航海時代の拡大時代(人口も増えた)なのに対し、17世紀ヨーロッパは小氷期の到来により気候が寒冷化したことで、農作物の不作が続いて経済が停滞したことを指す。これに伴い戦争も相次ぎ、魔女狩りをはじめとする社会不安が増大する。さらにペストの流行で人口が減に転じ、今までの封建的なシステムは崩れ、資本制が広がるようになる。宗教対立が激化したために、王室は財政難の打開を目的に中央集権を進めたが、これに貴族が反発、農民も一揆を起こすようになる。とくに三十年戦争の疲弊の影響は大きく、ほとんどの国が争い合った。結果、ヨーロッパのほぼ中央に位置する神聖ローマ帝国の土地は荒廃し、ウェストファリア条約が結ばれて以降、神聖ローマ帝国の権威と実質は消滅し、ウェストファリア体制と呼ばれる勢力均衡が支配する社会となり、各国は相互内政不干渉の原則で、王権を集中させ絶対主義体制が確立する次の18世紀を準備する。
17世紀中、小規模のものも含めて戦争のなかった時期はわずか4年しかなかったとされる。17世紀の戦争と革命を並べてみると、オランダ独立戦争(八十年戦争)(1568年~1609年)にはじまり、ヨーロッパ全土にわたる宗教戦争である三十年戦争(1618年~1648年)、イギリスのピューリタン革命(1642年~1649年)、フランスの貴族反乱であるフロンドの乱(1648年~1653年)、植民地・海外利権をめぐる第1次英蘭戦争(1652年~1654年)第2次英蘭戦争(1665年~1667年)第3次英蘭戦争(1672年~1674年)で覇権がオランダからイギリスに移る。フランスとスペインの争ったネーデルラント継承戦争(1667年~1668年)、オランダ侵略戦争(1672年~1678年)、イギリスの名誉革命(1688年~1689年)、そしてルイ14世のフランスが膨張侵攻を続けたあげくの大同盟戦争(1688年~1697年)は、北米やインドの植民地にまで波及した。
こうしてみると、バロック美術の担い手たちも、それぞれの国地域のあちこちで王様貴族が戦争をする中、宮廷に雇われたり市民ブルジョアのご注文に応えて制作に励んでいたわけだ。16世紀ルネサンスに比べて、画面に暗い影が覆ったのも純粋にアート的技巧だけの問題でもないのかな。
「だが、バロックとは何か?この言葉、前講で扱った「マニエリスム」以上に複雑であるだけではなく、射程が広い。われわれの講義はいわゆる美術史上の「様式」の変遷をつぶさに扱うことを目指してはいないし、あらかじめ確固たる「様式」が事実としてあるという臆見からできる限り遠ざかっていたいというのが前提ではあるのだが、「バロック」には立ち止まらざるをえない。もともと「真珠などのいびつな形」を指すポルトガル語の「barrocco」からはじまったこの言葉が、19世紀以降、次第に、いわばルネサンスの比例的な、合理的な構築からはみ出た「いびつな」、「不規則的な」形態を特徴とする17世紀の美術に適用されるようになる。
決定的なのは、ハインリヒ・ヴェルフリンの『美術史の基礎概念』(1915年)でしょう。かれは、デューラーとレンブラントを例に採りながら、16世紀の絵画から17世紀の絵画への変化の不連続線を五つの指標で説明しています。それは、①線的から絵画的へ、②平面的から深奥的へ、③閉じられた形式から開かれた形式へ、➃多数的から統一的へ、⑤対象の絶対的明瞭性から対象の相対的明瞭性へ、の発展・変化です。①の「絵画的へ」という表現や誤解を招くかもしれませんが、ここでヴェルフリンが考えているのは、対象の輪郭がくっきりと切り出されてある、(かれの言い方だと)「彫塑的」な絵画から、対象の輪郭を通して対象を再現するのではなく、たとえばレンブラントの《夜警》のように光のグラデーションを通じて表象空間そのものが統一的に表現されている絵画への変化のことなのです。しかしそれにしても、絵画の変化を論じて対の一方を「絵画的」と名づけるのはカテゴリー・ミスかもしれません。ヴェルフリンは大家なので誰もあえてそんなことはしないのですが、わたしとしてはこの「ミス」を勝手に訂正して言い換えておきたい。すなわち、「彫塑的絵画」から「演劇的絵画」へのラディカルな転換である、と。
すなわち、バロックという様式において決定的なのは、その演劇的な性格だということです。そのことを端的に示しているタブローをまず見てみましょう。まさに1600年の転換点頃に描かれたカラヴァッジョ(1571-1610年)の《聖マタイの召命》(1508-1601年)です。
バロックの起点はローマです。そのローマのサン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂コンタレッリ礼拝堂の3対の作品のひとつ。場面は、ローマ帝国の徴税吏であったレビ(のちのマタイ)のところに現れたイエスが「われに従え」と召した瞬間。イエスが画面右端の手指を差し伸べた人物であることは当然として、レビはどの人物なのか、について論争もあったらしいのだが、イエスの後ろから画面を斜めに切り裂くように差し込む強い光がはっきりと語っているように、テーブルに俯いて硬貨を数えている左端の青年であることは疑いない。かれは商人たちから徴収したお金を数えている。そこに忽然とイエスが現れて「われに従え」と言う。その言葉を聞いた瞬間にレビの動きがぴたっと止まり、その言葉に従うという回心が今、起ころうとしている、というわけです。
重要なのは、イエスの言葉です。極端に言えば、ここで「描かれている」のは「われに従え」という言葉の響き。画面の外から差し込む光線とともに、その言葉が空間に響きわたっている。あたかも舞台上でそれが言われたかのように。実際、すべてはまるで舞台を観ているかのようではないでしょうか。光は自然の光ではありません。背景は奥行きを欠いて、書き割りのような壁が一面に立っているだけ。画面は上下に完全に二分されていて、前面の狭い表象空間のなかに、イエスからマタイへと人物群の姿がつくりだすリズム感のある「襞」の流れがつながっています。明暗が織りなすその流れが重要なので、聖人であるイエスの身体は何と、別の人物によってほとんど隠されてしまっています。場面の全体はまるでローマの場末の路地であるかのような現実感。登場する人物も遠い聖書の時代の人物というよりは当時の庶民の日常の形姿に重なっています。すなわち、ここでは絵画は非現実の事物を現実であるかのように「表象」するのではなく、現実的な空間と人物を用いてある劇的な出来事を「演出」しているのだと言ったほうがいいでしょう。
ついでに指摘しておくならば、背景になっている装飾のない壁に描かれた窓。それがぴったりと閉ざされていることに、われわれは「歴史」の回転扉がまわった印象を深くしないでしょうか。そう、ルネッサンスの時代であれば、画面のなかにこのような窓はかならず向こう側に開いていて、そこに遠くまで続く風景が拡がっていたはず。その時「窓」は何よりも「絵画」のメタファーでもあったのですが、ここでは「窓」は閉じています。つまり、それはその奥にもうひとつわれわれには見えない屋内の空間があることを示しているのです。前面の目に見える空間にもう一つの目に見えない空間がぴったりと隣接し、接合しているのです。」小林康夫『絵画の冒険 表象文化論講義』東京大学出版会、2016.pp.74-76.
カラバッジョ「聖マタイの召命」のイエスの手は、システィーナ礼拝堂天井画のミケランジェロ「アダムの創造」から借用されている、とか、姿が見えないようにイエスの手前にいる人物を誰と考えるか、とか、小林氏の「窓」の考察だけでなく、これは謎解きの種に事欠かない絵だ。しかし、時間の順序からすれば、盛期ルネサンスの遺産をマニエリスムが歪め、さらにバロックが変形させたというけれど、カラヴァッジョはルネサンスの伝統とひと繋がりの人でもあり、そこに強烈なカラヴァッジョ様式を作り出したわけで、それ以後の画家はイタリアへ行ってレオナルド、ミケランジェロ、ラフェエロを、そしてカラヴァッジョをじっくり見ていなければ画家とはいえないようになった。ルーベンスはまさにそうやって巨匠になったが、スペインの支配を脱して独立したオランダ共和国のアムステルダムにいて、一度もイタリア詣でをしなかったレンブラントは、世界帝国の隆盛と衰弱のなかで市民のための絵を描いた。これもバロック的だとはいえる。
B.流言飛語ではなくデマによる煽動
ネットに流した情報が世界を瞬時にかけめぐるような環境が誰にもアクセス可能になったのは、21世紀になった頃からだろう。それ以前は、怪しい情報や偽ニュースを意図的に流そうとしても、影響力のある大手の出版、放送、広告業界では厳しくチェックして載せないのが常識だったし、口コミの伝播力はたかが知れていた。しかし、今は誰もが瞬時にSNSに投稿し、それに即反応返信できるのが当たり前だから、人々の意識や感受性にむけてある特定の方向に傾斜したフェイクニュースを大量に流せば、短期間に世論を動かすこともできるかもしれない。
ヒトラーの宣伝相ゲッペルスはネットもテレビもない時代に、新聞と映画を統制し、無知な大衆に受けのよい作為的な思想宣伝と敵へのヘイト・ニュースを流してナチスの権力を支えた。戦後のマス・メディアの拡大と多様化は、政府権力が情報統制や諜報機関を強化したとしても、外からの情報を完全に遮断するのは難しくなって、社会主義国は崩壊した。だが、ネットが普及して昔のように都合の悪い情報を「流さないように」統制するのはほとんど不可能になったが、逆にどんな情報でも山のように出せる(しかも匿名でどんな場所からも)という条件を悪用して、組織的にフェイクニュースを流すことで大統領選挙のようなものまで左右できる時代になっている。
「フェイクニュースの影にロシアの世論工作:ネットが民主主義の敵に 津田大介さん
2016年の米大統領選で、虚偽の情報を基にトランプ候補を支持し、クリントン候補を攻撃するブログ記事が、ソーシャルメディア上で大量に流通した。その発信源の多くが欧州の小国・マケドニアのヴェレスという町の若者たちだった。広告費目当てでフェイクニュースを発信していたことは世界的な話題となったが、ここにきて実は単なる若者の小遣い稼ぎではなく、政治的な背景が報道されるようになってきている。
米バズフィードは18年7月18日、フェイクニュースを利用した一連のマケドニアの若者の小遣い稼ぎの背後には、ロシアのエージェントや米国の極右ニュースサイトと親交のあるトラシェ・アルソフ弁護士がいることを報道した。記事によれば、アルソフ氏は自らのフェイスブックで、FOXニュースやブライトバートなどの極右メディアのニュース記事を積極的に拡散。また、米国の極右ニュースメディアの創設者たちや、ロシアゲート疑惑をめぐってモラー特別検察官が捜査対象にしているロシアのエージェント、アンナ・ボガチェフ氏とも交友関係があるという。
当初は金儲け目的の若者だけと見られていたマケドニアのフェイクニュース産業の影にロシアの世論工作活動が見えてきたということだ。まだ疑惑の段階だが、マケドニアのフェイクニュース産業にも今後も注視し続ける必要がありそうだ。
国際人権監視NGOの「フリーダムハウス」が昨年11月に発表したリポート「ネットにおける自由(Freedom on the Net)」によれば、ソーシャルメディアを利用した世論工作は世界二十カ国で確認されているという。その多くは、政権批判や反政府活動の妨害、フェイクニュースの拡散などだ。
このリポートの発表後、リポートの正しさを裏付けるように、国家による世論工作事例が次々に明らかになった。韓国の聯合ニュースは18年10月15日、李明博政権時の10年2月から12年4月にかけて、警察が情報系の警察官約千五百人を動員し、政府と警察に好意的な世論を形成することを目的として、ニュースのコメント欄やツイッターに約3万7800件の投稿を行なっていたことを報じた。
ロヒンギャ問題に揺れるミャンマーでも政府が関与する大規模な世論工作が発覚した。米ニューヨーク・タイムズは18年10月15日、ミャンマー国軍がフェイスブックにロヒンギャへの危機感を煽るプロパガンダ記事を組織的に投稿していたことを報道した。ミャンマーでは、数年前からこのような活動が行われており、国軍関係者ら最大約七百人が関与。その中にはロシアで研修を受けた人間もいたという。
これらの事実が示すのは、多くの国でインターネットが民主主義の敵になりつつあるという残念な事実だ。日本においても先日投開票が行われた沖縄県知事選でフェイクニュースの氾濫が大きな問題となった。日本でも同様の現実があることを認め、ネットを使った世論工作に対抗していく手段を考えなければいけない。」東京新聞2018年10月25日朝刊4面「視点」。
関東大震災時の朝鮮人虐殺に関連して、かつて清水幾太郎はアメリカの社会心理学を応用した「流言飛語」という本を書いた。社会が一時的に混乱した非常時に、誰かが根拠のない噂を流すとそれが瞬く間に広がって人々を行動に駆りたて、予想できない事態が出現してしまうという現象を説明していた。今のネットを使った極右的世論工作は、偶然起こる流言飛語ではなく、ある目的のために誤った情報を意図的に流す政治的操作であるから、これがはびこることは、ヒトラーの時代どころではない恐ろしい結果を、すばやく実現してしまいかねない。ネット社会はメリットも大きいが、こういうデメリットはなんとかしないと…。
西洋美術史上で17世紀といえば「バロック」の時代とされる。ただ、17世紀の作品でもバロックの特徴である劇的で奔放な明暗を強調した絵ばかりではなく、フランスのプッサンやクロード・ロランのような画家はルネサンスの規範から逸脱するどころか、むしろルネサンスを踏襲する古典的な志向を持っていた。なにがバロック的かを考えるとき、イタリアのカラヴァッジョで考えるか、スペインのベラスケスで考えるか、フランドルのルーベンスで考えるか、オランダのレンブラントで考えるか、共通点よりは相違点の方がいろいろ上がるだろう。
「17世紀の危機」という言葉があって、世界史教科書的に見れば、16世紀が宗教改革と大航海時代の拡大時代(人口も増えた)なのに対し、17世紀ヨーロッパは小氷期の到来により気候が寒冷化したことで、農作物の不作が続いて経済が停滞したことを指す。これに伴い戦争も相次ぎ、魔女狩りをはじめとする社会不安が増大する。さらにペストの流行で人口が減に転じ、今までの封建的なシステムは崩れ、資本制が広がるようになる。宗教対立が激化したために、王室は財政難の打開を目的に中央集権を進めたが、これに貴族が反発、農民も一揆を起こすようになる。とくに三十年戦争の疲弊の影響は大きく、ほとんどの国が争い合った。結果、ヨーロッパのほぼ中央に位置する神聖ローマ帝国の土地は荒廃し、ウェストファリア条約が結ばれて以降、神聖ローマ帝国の権威と実質は消滅し、ウェストファリア体制と呼ばれる勢力均衡が支配する社会となり、各国は相互内政不干渉の原則で、王権を集中させ絶対主義体制が確立する次の18世紀を準備する。
17世紀中、小規模のものも含めて戦争のなかった時期はわずか4年しかなかったとされる。17世紀の戦争と革命を並べてみると、オランダ独立戦争(八十年戦争)(1568年~1609年)にはじまり、ヨーロッパ全土にわたる宗教戦争である三十年戦争(1618年~1648年)、イギリスのピューリタン革命(1642年~1649年)、フランスの貴族反乱であるフロンドの乱(1648年~1653年)、植民地・海外利権をめぐる第1次英蘭戦争(1652年~1654年)第2次英蘭戦争(1665年~1667年)第3次英蘭戦争(1672年~1674年)で覇権がオランダからイギリスに移る。フランスとスペインの争ったネーデルラント継承戦争(1667年~1668年)、オランダ侵略戦争(1672年~1678年)、イギリスの名誉革命(1688年~1689年)、そしてルイ14世のフランスが膨張侵攻を続けたあげくの大同盟戦争(1688年~1697年)は、北米やインドの植民地にまで波及した。
こうしてみると、バロック美術の担い手たちも、それぞれの国地域のあちこちで王様貴族が戦争をする中、宮廷に雇われたり市民ブルジョアのご注文に応えて制作に励んでいたわけだ。16世紀ルネサンスに比べて、画面に暗い影が覆ったのも純粋にアート的技巧だけの問題でもないのかな。
「だが、バロックとは何か?この言葉、前講で扱った「マニエリスム」以上に複雑であるだけではなく、射程が広い。われわれの講義はいわゆる美術史上の「様式」の変遷をつぶさに扱うことを目指してはいないし、あらかじめ確固たる「様式」が事実としてあるという臆見からできる限り遠ざかっていたいというのが前提ではあるのだが、「バロック」には立ち止まらざるをえない。もともと「真珠などのいびつな形」を指すポルトガル語の「barrocco」からはじまったこの言葉が、19世紀以降、次第に、いわばルネサンスの比例的な、合理的な構築からはみ出た「いびつな」、「不規則的な」形態を特徴とする17世紀の美術に適用されるようになる。
決定的なのは、ハインリヒ・ヴェルフリンの『美術史の基礎概念』(1915年)でしょう。かれは、デューラーとレンブラントを例に採りながら、16世紀の絵画から17世紀の絵画への変化の不連続線を五つの指標で説明しています。それは、①線的から絵画的へ、②平面的から深奥的へ、③閉じられた形式から開かれた形式へ、➃多数的から統一的へ、⑤対象の絶対的明瞭性から対象の相対的明瞭性へ、の発展・変化です。①の「絵画的へ」という表現や誤解を招くかもしれませんが、ここでヴェルフリンが考えているのは、対象の輪郭がくっきりと切り出されてある、(かれの言い方だと)「彫塑的」な絵画から、対象の輪郭を通して対象を再現するのではなく、たとえばレンブラントの《夜警》のように光のグラデーションを通じて表象空間そのものが統一的に表現されている絵画への変化のことなのです。しかしそれにしても、絵画の変化を論じて対の一方を「絵画的」と名づけるのはカテゴリー・ミスかもしれません。ヴェルフリンは大家なので誰もあえてそんなことはしないのですが、わたしとしてはこの「ミス」を勝手に訂正して言い換えておきたい。すなわち、「彫塑的絵画」から「演劇的絵画」へのラディカルな転換である、と。
すなわち、バロックという様式において決定的なのは、その演劇的な性格だということです。そのことを端的に示しているタブローをまず見てみましょう。まさに1600年の転換点頃に描かれたカラヴァッジョ(1571-1610年)の《聖マタイの召命》(1508-1601年)です。
バロックの起点はローマです。そのローマのサン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂コンタレッリ礼拝堂の3対の作品のひとつ。場面は、ローマ帝国の徴税吏であったレビ(のちのマタイ)のところに現れたイエスが「われに従え」と召した瞬間。イエスが画面右端の手指を差し伸べた人物であることは当然として、レビはどの人物なのか、について論争もあったらしいのだが、イエスの後ろから画面を斜めに切り裂くように差し込む強い光がはっきりと語っているように、テーブルに俯いて硬貨を数えている左端の青年であることは疑いない。かれは商人たちから徴収したお金を数えている。そこに忽然とイエスが現れて「われに従え」と言う。その言葉を聞いた瞬間にレビの動きがぴたっと止まり、その言葉に従うという回心が今、起ころうとしている、というわけです。
重要なのは、イエスの言葉です。極端に言えば、ここで「描かれている」のは「われに従え」という言葉の響き。画面の外から差し込む光線とともに、その言葉が空間に響きわたっている。あたかも舞台上でそれが言われたかのように。実際、すべてはまるで舞台を観ているかのようではないでしょうか。光は自然の光ではありません。背景は奥行きを欠いて、書き割りのような壁が一面に立っているだけ。画面は上下に完全に二分されていて、前面の狭い表象空間のなかに、イエスからマタイへと人物群の姿がつくりだすリズム感のある「襞」の流れがつながっています。明暗が織りなすその流れが重要なので、聖人であるイエスの身体は何と、別の人物によってほとんど隠されてしまっています。場面の全体はまるでローマの場末の路地であるかのような現実感。登場する人物も遠い聖書の時代の人物というよりは当時の庶民の日常の形姿に重なっています。すなわち、ここでは絵画は非現実の事物を現実であるかのように「表象」するのではなく、現実的な空間と人物を用いてある劇的な出来事を「演出」しているのだと言ったほうがいいでしょう。
ついでに指摘しておくならば、背景になっている装飾のない壁に描かれた窓。それがぴったりと閉ざされていることに、われわれは「歴史」の回転扉がまわった印象を深くしないでしょうか。そう、ルネッサンスの時代であれば、画面のなかにこのような窓はかならず向こう側に開いていて、そこに遠くまで続く風景が拡がっていたはず。その時「窓」は何よりも「絵画」のメタファーでもあったのですが、ここでは「窓」は閉じています。つまり、それはその奥にもうひとつわれわれには見えない屋内の空間があることを示しているのです。前面の目に見える空間にもう一つの目に見えない空間がぴったりと隣接し、接合しているのです。」小林康夫『絵画の冒険 表象文化論講義』東京大学出版会、2016.pp.74-76.
カラバッジョ「聖マタイの召命」のイエスの手は、システィーナ礼拝堂天井画のミケランジェロ「アダムの創造」から借用されている、とか、姿が見えないようにイエスの手前にいる人物を誰と考えるか、とか、小林氏の「窓」の考察だけでなく、これは謎解きの種に事欠かない絵だ。しかし、時間の順序からすれば、盛期ルネサンスの遺産をマニエリスムが歪め、さらにバロックが変形させたというけれど、カラヴァッジョはルネサンスの伝統とひと繋がりの人でもあり、そこに強烈なカラヴァッジョ様式を作り出したわけで、それ以後の画家はイタリアへ行ってレオナルド、ミケランジェロ、ラフェエロを、そしてカラヴァッジョをじっくり見ていなければ画家とはいえないようになった。ルーベンスはまさにそうやって巨匠になったが、スペインの支配を脱して独立したオランダ共和国のアムステルダムにいて、一度もイタリア詣でをしなかったレンブラントは、世界帝国の隆盛と衰弱のなかで市民のための絵を描いた。これもバロック的だとはいえる。
B.流言飛語ではなくデマによる煽動
ネットに流した情報が世界を瞬時にかけめぐるような環境が誰にもアクセス可能になったのは、21世紀になった頃からだろう。それ以前は、怪しい情報や偽ニュースを意図的に流そうとしても、影響力のある大手の出版、放送、広告業界では厳しくチェックして載せないのが常識だったし、口コミの伝播力はたかが知れていた。しかし、今は誰もが瞬時にSNSに投稿し、それに即反応返信できるのが当たり前だから、人々の意識や感受性にむけてある特定の方向に傾斜したフェイクニュースを大量に流せば、短期間に世論を動かすこともできるかもしれない。
ヒトラーの宣伝相ゲッペルスはネットもテレビもない時代に、新聞と映画を統制し、無知な大衆に受けのよい作為的な思想宣伝と敵へのヘイト・ニュースを流してナチスの権力を支えた。戦後のマス・メディアの拡大と多様化は、政府権力が情報統制や諜報機関を強化したとしても、外からの情報を完全に遮断するのは難しくなって、社会主義国は崩壊した。だが、ネットが普及して昔のように都合の悪い情報を「流さないように」統制するのはほとんど不可能になったが、逆にどんな情報でも山のように出せる(しかも匿名でどんな場所からも)という条件を悪用して、組織的にフェイクニュースを流すことで大統領選挙のようなものまで左右できる時代になっている。
「フェイクニュースの影にロシアの世論工作:ネットが民主主義の敵に 津田大介さん
2016年の米大統領選で、虚偽の情報を基にトランプ候補を支持し、クリントン候補を攻撃するブログ記事が、ソーシャルメディア上で大量に流通した。その発信源の多くが欧州の小国・マケドニアのヴェレスという町の若者たちだった。広告費目当てでフェイクニュースを発信していたことは世界的な話題となったが、ここにきて実は単なる若者の小遣い稼ぎではなく、政治的な背景が報道されるようになってきている。
米バズフィードは18年7月18日、フェイクニュースを利用した一連のマケドニアの若者の小遣い稼ぎの背後には、ロシアのエージェントや米国の極右ニュースサイトと親交のあるトラシェ・アルソフ弁護士がいることを報道した。記事によれば、アルソフ氏は自らのフェイスブックで、FOXニュースやブライトバートなどの極右メディアのニュース記事を積極的に拡散。また、米国の極右ニュースメディアの創設者たちや、ロシアゲート疑惑をめぐってモラー特別検察官が捜査対象にしているロシアのエージェント、アンナ・ボガチェフ氏とも交友関係があるという。
当初は金儲け目的の若者だけと見られていたマケドニアのフェイクニュース産業の影にロシアの世論工作活動が見えてきたということだ。まだ疑惑の段階だが、マケドニアのフェイクニュース産業にも今後も注視し続ける必要がありそうだ。
国際人権監視NGOの「フリーダムハウス」が昨年11月に発表したリポート「ネットにおける自由(Freedom on the Net)」によれば、ソーシャルメディアを利用した世論工作は世界二十カ国で確認されているという。その多くは、政権批判や反政府活動の妨害、フェイクニュースの拡散などだ。
このリポートの発表後、リポートの正しさを裏付けるように、国家による世論工作事例が次々に明らかになった。韓国の聯合ニュースは18年10月15日、李明博政権時の10年2月から12年4月にかけて、警察が情報系の警察官約千五百人を動員し、政府と警察に好意的な世論を形成することを目的として、ニュースのコメント欄やツイッターに約3万7800件の投稿を行なっていたことを報じた。
ロヒンギャ問題に揺れるミャンマーでも政府が関与する大規模な世論工作が発覚した。米ニューヨーク・タイムズは18年10月15日、ミャンマー国軍がフェイスブックにロヒンギャへの危機感を煽るプロパガンダ記事を組織的に投稿していたことを報道した。ミャンマーでは、数年前からこのような活動が行われており、国軍関係者ら最大約七百人が関与。その中にはロシアで研修を受けた人間もいたという。
これらの事実が示すのは、多くの国でインターネットが民主主義の敵になりつつあるという残念な事実だ。日本においても先日投開票が行われた沖縄県知事選でフェイクニュースの氾濫が大きな問題となった。日本でも同様の現実があることを認め、ネットを使った世論工作に対抗していく手段を考えなければいけない。」東京新聞2018年10月25日朝刊4面「視点」。
関東大震災時の朝鮮人虐殺に関連して、かつて清水幾太郎はアメリカの社会心理学を応用した「流言飛語」という本を書いた。社会が一時的に混乱した非常時に、誰かが根拠のない噂を流すとそれが瞬く間に広がって人々を行動に駆りたて、予想できない事態が出現してしまうという現象を説明していた。今のネットを使った極右的世論工作は、偶然起こる流言飛語ではなく、ある目的のために誤った情報を意図的に流す政治的操作であるから、これがはびこることは、ヒトラーの時代どころではない恐ろしい結果を、すばやく実現してしまいかねない。ネット社会はメリットも大きいが、こういうデメリットはなんとかしないと…。