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憲法を更新する? 9 終わらない憲法  沖縄の現実

2021-06-09 19:28:02 | 日記
A.あとがきのつづき
 ここで読んできた『憲法の無意識』で、柄谷行人氏が言っていることを読んで、ああそうか、日本人の無意識に憲法九条があるんだから、いくら自民党や維新の会などが改憲を企んでも、改正なんてできないのだ、安心した、と護憲派が思うとしたら、それは一種の誤読だろう。20年前の20世紀末ならばそれでよかったかもしれない。東アジアに差し迫った戦争の危機や諸国間の力関係のアンバランスがなかったからだ。しかし、この数年顕著になった中国の膨張主義とアメリカの動揺的政策に、日本の政府がどう対応しているかを見ると、以前とは違った思考が必要だ、と柄谷は言っている。憲法の条項が一字一句変わることがなくても、九条が持つ意味のほうは変わってくるということだ。
 巻末のあとがきで、著者はこの現在時点の新たな課題を繰り返し述べている。1991年の講演「自主的憲法について」(『<戦前>の思考』講談社学術文庫に収録)の一部を引用したあとに続く文章。

「あとがき(続き) 以上のように話してから、すでに25年経っています。実は、私がこの講演を読み直したのは、本書をほぼ書き終えた後です。私は第一章で書いた問題が、すでにそこで論じられているのを見てやや驚きました。しかし、同時に、私は以下の二つの点で、不満をおぼえました。
第一に、ここでは、外的な強制が自発的なものとなる仕組みが十分に説明されていないということです。また、それが憲法九条とどうつながるのかが不明です。内村鑑三の場合、キリスト教入信を強制する上級生たちへの抵抗があった。では、なぜそれが結果的に、彼のキリスト教信仰を強固なものにしたのでしょうか。私は、彼のキリスト教への抵抗は武士道から来るものだと思います。彼は最後にキリスト教を受け入れた。が、それによって武士道が消えたのではない。逆に、内村自身が言うように、彼においてキリスト教が「武士道的キリスト教」となったのです。
一方、憲法九条に関していえば、戦後の日本人は占領軍の押しつけに抵抗したわけではありません。にもかかわらず、占領軍が再軍備を要請したとき、それを拒んだ。九条はいつの間にか「自発的」なものになっていたのです。第一章で、私はそれを、フロイトの「超自我」という概念から説明しました。超自我は、社会的規範が内面化されたようなものとは違って、「死の欲動」、いいかえれば「内部」から来るものです。それは外的な強制とは別です。その意味で、「自発的」なのです。が、通常の意味での自発性とは違って、自らの内からくる強迫的な衝動に根ざすものです。したがって、日本で憲法九条が存続してきたのは、人々が意識的にそれを維持してきたからではなく、意識的な操作ではどうにもならない「無意識」(超自我)があったからです。
 すると、これは内村鑑三に関して述べたこととはまるで違うように見えます。しかし、つながる点があるということに気づきました。私が第二章で論じたのは、むしろそのことではないか、と思うのです。戦後日本に九条が存在したのは、それが新しいものではなく、むしろ明治以後に抑圧されてきた「徳川の平和」の回帰だったからではないか。だから、こういってもいいのではなか、と思います。内村におけるキリスト教が武士道の高次元での回帰であったように、戦後の憲法九条はいわば「徳川の平和」の高次元での回帰であった、したがって、それは強固なものになったのだ、と。
 第二に、読み返して感じたのは、私が九〇年代初期に考えていた状況認識には欠陥があるということです。たとえば、私はそのころ「歴史の反復」について考えていました。そして、資本主義における歴史的文脈は約60年の周期で反復される、という仮説を立てていました。だから、90年代以降は一九三〇年代を反復することになるだろう、と予測したのです。しかし、1995年に、私はこの考えを放棄しました。ただ、「歴史の反復」という考え自体を放棄したのではなく、ただその周期を60年からその倍の120年に変更すればよいと考えたのです。それについては、第四章で論じています。
 120年周期という観点からふりかえると、1991年の湾岸戦争が何を意味していたかも見えてきます。当時は、アメリカの圧倒的優位、自由・民主主義の最終的勝利、したがって、「歴史の終焉」というようなことが語られていました。しかし、もちろんそんなことはまったくの幻影です。湾岸戦争とはむしろ、それらの破綻の最初の兆候でした。そのとき日本で憲法九条の問題が浮上したことも、徴候的です。
 第四章で詳述したように、1990年以降に世界資本主義は「帝国主義的」段階に入りました。ここ25年の間に、それが徐々に進展し深刻化してきました。戦争が切迫していることを、昨今多くの人々がひしひしと感じているのも当然です。が、それを1930年代になぞらえて、ファシズムの到来をいったりするのは的外れです。つねづね主張していることなのですが、それは、帝国主義時代、すなわち、日本でいえば日清戦争から日露戦争にいたる時期と比べてみるべきです。
 現在、世界中で資本主義経済の危機とともに戦争の危機が迫っていることは、まちがいありません。どの国もこの危機的状況において、それぞれに対策を講じています。そして、それが相互に感染し、恐怖、敵対心が増幅されるようになっています。その中で、日本で急激に推進されたのは、米国との軍事同盟(集団的自衛権)を確立するという政策です。それは戦争が切迫した現状の下では、リアリスティックな対応であるように見えます。
 しかし、各国の「リアリスティックな」対応のせいで、逆に、思いがけないかたちで、世界戦争に巻き込まれる蓋然性が高いのです。第一世界大戦はまさにそのようなものでした。ヨーロッパの地域的な紛争が、軍事同盟の国際的ネットワークによって、極東の日本まで参加するような世界戦争に転化していったのです。しかしまた、その結果として、国際連盟が生まれ、パリ不戦条約が成立しました。日本の憲法九条が後者に負うことはいうまでもありません。
 したがって、防衛のための軍事同盟あるいは安全保障は、なんら平和を保障するものではありません。ところが、それがいまだにリアリスティックなやり方だと考えられているのです。そして、日本ではそれを実現するために、何としても「非現実的な」憲法九条を廃棄しなければならないということになります。
 この25年間(それ以前も同じでしたが)、憲法九条を廃棄しようとする動きが止んだことはありません。にもかかわらず、それは実現されなかった。今や保守派の中枢は、なぜ改憲できないのかはわからないままながら、たぶん改憲をあきらめているのでしょう。そのかわりに、安保法案のような法律を作る、あるいは、憲法に緊急事態条項を加えるなどで、九条を形骸化する方法をとろうと画策しています。
 ゆえに、護憲派は当面、九条がなくなってしまうのではないかということを恐れる必要はありません。問題はむしろ、護憲派のあいだに、改憲を恐れるあまり、九条の条文さえ保持できればよいと考えているふしがあることです。形の上で九条を護るだけなら、九条があっても何でもできるような体制になってしまいます。護憲派の課題は、今後、九条を文字通り実行することであって、現在の状態を護持することではありません。
 ただ、私は憲法九条が日本から消えてしまうことは決してないと思います。たとえ策動によって日本が戦争に突入するようなことになったとしても、そのあげくに憲法九条をとりもどすことになるだけです。高い代償を払って、ですが。憲法九条は非現実的であるといわれます。だから、リアリスティックに対処する必要があるということがいつも強調される。しかし、最もリアリスティックなやり方は、憲法九条を掲げ、かつ、それを実行しようとすることです。九条を実行することは、おそらく日本人ができる唯一の普遍的かつ「強力」な行為です。」柄谷行人『憲法の無意識』岩波新書、2016.pp.193-198. 

 ぼくも以前から柄谷60年回帰説は読んでいたから、通俗的ではあるが、近年の日本を覆う右翼的言説の蔓延と改憲派の跳ね上がりを、1930年代の状況に重ねてみる視点に思わず同調する気分になっていた。しかし、120年説に回帰する説明は、たしかになるほどとも思う。少なくともフロイトの無意識論を援用して、「徳川の平和」の無意識をもってくる、ちょっと突飛な発想の転換よりは、説得力があると思った。とにかく、九条改憲を阻止すると言っているだけではダメで、九条を現実政治の場で行動に結びつけなければいけない、それが現在の国際的課題になる、ということだな。


B.既成事実化と既定方針の固守
 普天間返還問題を辺野古移設で解決するという決定が、どういうプロセスで行われたかよく知らないが、沖縄の基地問題を、本土のぼくたちは軍事的経済的な議論は考えても、沖縄住民の生存権や性犯罪の危険の問題と認識しているとはいえない。観光地・リゾート地としてしか沖縄を見ていない人も多い。でも、これは復帰以前も以後もほとんど変わっていない状況なのだと、沖縄で暮らす人、とくに基地周辺で暮らす人には痛いほどの現実なのだ。

 「復帰50年へ:証言 普天間返還  繰り返される性犯罪 今も  元沖縄市長 東門美津子さん
 実現していないものは普天間返還だけではありません。当時から変わっていないことがあります。米軍人・軍属らによって女性たちが受ける性的被害です。
 今年1月にも、那覇市内で米兵による強制わいせつ事件がありました。1995年9月の少女暴行事件の4か月前にも、20代の女性が米兵に殴られ殺害される事件が起きています。私には娘が2人いますが、もし自分の娘だったらと、考えるだけで頭がおかしくなりそうです。女性が受ける被害は、表面化しないことが多い実態もあります。
 こうした事件が繰り返されるのは、過重な基地負担が変わっていないからです。その負担を減らすために25年前、日米が普天間返還に合意しましたが、それさえ実現していません。
 4月の日米首脳会談で菅義偉首相は「自由、民主主義、人権の普遍的価値を共有する」と語っていましたが、怒りを禁じ得ませんでした。辺野古の埋め立ての是非を問う2019年の県民投票一つとっても、7割が反対の意思表示をしました。それでも工事を強行している。民主主義や人権はどこにあるのでしょうか。
 私の勝手な解釈ですが、沖縄は本土から離れている、そこでいろんなことが起っても、本土の人たちには知られないですむ。そんなふうに、日本政府は思っているのではないでしょうか。沖縄では、政治も、行政も、基地問題に振り回され続けています。女性や子供の貧困など、やらないといけない課題がたくさんあるのに。
 いまは、米国側にアプローチしたほうがいいとすら思っています。米国側から日本へ辺野古以外の案を逆提案してもらうために。笑う人がいるかもしれませんけど、米側の総領事や議員とも何度も話をしてきた経験があります。基地内で20年間、米軍家族に日本語を教えてもいましたから、米国に教え子たちもいます。
 米国のシンクタンクの報告書を読んだりしていると、「辺野古じゃなくてもいいんじゃないか」という声が米国側からあがってもおかしくないと感じています。 (聞き手=国吉美香)

 普天間基地を県内名護市の辺野古に移設することにしたのは、別に米軍や米国の意志ではない。市街地に囲まれた普天間の危険性が非常に高いので、日本側が移設を望み、ではどこに移すか?で、県外を含めいつくか候補地があがり、徳之島など他県の南西諸島も考えられたが、日本政府は沖縄県民の意向を無視して辺野古に決めたが、その工事はいまだ問題が多く完成しない。普天間基地はアジア各地に広範に展開する海兵隊の拠点で、沖縄に近いことが米軍の条件だというが、アメリカ側としては辺野古でなくても構わない。現地住民と立地条件が最適な場所があれば、それを決めるのは日本政府と住民の問題だということになり、つまりは、日本政府与党が沖縄を道具と見て人権を保障する気がない、ということになる。
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