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 〈戦前の思考〉から 2 第2外国語  追悼一柳さん 

2022-12-12 16:33:00 | 日記
A.英米派と大陸派
 昔の話になるが、大学に入った時、はじめの教養課程で二年、第二外国語を選択して履修しなければならなかった。英語が第一外国語の場合、第二外国語として用意されていたのは、フランス語、ドイツ語、スペイン語、中国語の4つだった。どれをとってもよいのだが、周りの学生たちがいうのは、フランス語やドイツ語は英語よりだいぶ難しいから、スペイン語か中国語がおすすめだという。とくに中国語は漢字だし、先生もそんなに厳しくないらしいという噂で、中国語を選ぶ者が一番多かった気がする。でも、どうせ週一回の授業で、はじめての外国語学習だから初歩だけで終わり、そんなに難しいわけがない。ぼくはフランス語を選んだ。シャンソンが歌えたら楽しいだろう程度の興味だったが、授業はほんとに「ラ・メール」を歌ったりして楽しく、単位を取ってからもうちょっと身につけたくて、アテネ・フランセに半年通った。結局ものにはならなかったが、大学院の入試の第二外国語をフランス語で受けて合格する程度にはなった。
 大学生にどうして英語のほかにフランス語やドイツ語が必要なのかは、あまり考えてなかった。スペイン語や中国語はおもに話者の数が多く、実用的な言語だからだろうと思ったが、フランス語やドイツ語を実際に使う機会はふつうはほぼない。簡単な会話程度ならヨーロッパだって英語でなんとかなる。しかし、専門の勉強をしてみると、とくに社会科学の文献・原書はフランス語やドイツ語も多く、専門用語はフランス語やドイツ語がたくさん出てくる。なるほど、明治以来海外の文献を読むことが学問の入口だった名残なのだな、と納得した。やがて、30歳過ぎてドイツに行くことになって、今度はドイツ語を1年ほどかなり勉強した。でも、日常会話はできたが、論文をドイツ語で助けなしに書いて通用するところまでは無理だった。

 「明治以来の日本は「西洋化」されてきたといわれるのですが、一般的に「西洋」というと紛らわしいところがあります。それを英米、フランス、ドイツというふうに分けて考えてみたいと思います。特に、知識人をみると、その差異がはっきりします。明治初期の代表的な思想家、福沢諭吉は英米派です。実際問題として、英語は学校教育において必須語として取り入れられています。ところが明治国家は、ビスマルク・ドイツを模範としたので、法律や医学・哲学など国家的な言説においては、ドイツ語が不可欠でした。日本の「哲学」は、井上哲次郎以来、ドイツ観念論を中心とするようになったわけです。一方、明治後半になってくると、フランス語が文学的言語として中心になってきます。たとえば自然主語や白樺派になると、フランス一辺倒です。
 ここで、これらの間に、夏目漱石を置いてみます。彼はいうまでもなく英文学をやった人ですが、明治33年に文部省からイギリス留学を命ぜられたとき、「英文学」ではなく「英語」を研究せよといわれたわけです。彼は、上田万年のところへ、それでは英文学をやってはいけないのか、と問い合わせに行った。もちろんそんな厳密なことではなく、「多少自家の意見にて変更しうるの余地ある事を認め得たり」ということになったわけです。これは『文学論』の序文に書いてあります。というより、漱石はわざわざこれを書かずにいられなかったのです。しかし、なぜ彼が英語を研究して来いといわれたのか。そのことは、漱石の『文学論』という仕事に大きく関係するものです。
 ドイツ語は「国家」の言語であり、英語は、経済的で実用的な言語でした。そのことは学校で英語が必須となっていることから明らかです。当時、英語は、大英帝国およびアメリカの範囲に通用する世界的な言語でした。しかし、まさにその理由で、英語は文学の言語にはなりにくかった。カントは、美学的な判断においては、インタレスト(利益・関心)が廃棄されねばならないといっています。英語にはインタレストがありすぎるのです。現在でも英文学をやることは、英語をやることですから、あとで役立ちます。英文科に行く数多い学生のなかで、文学をやるために行く者は少数です。しかし、仏文科に行く学生は違います。大学を出ても、フランス語で食うことは難しい。例えば、英語を習得するためだけに留学する人は数多くいますが、フランス語だけを習得するために留学する人はまずありえない。フランスに行く人は、彼らは文学や哲学あるいは料理やファッションなどを習得するためです。しかも、それらは広い意味で「美的」なものに関係しています。
 ところで、実は、漱石が留学する時点では、すでにそういう雰囲気があったのです。日本においてだけでなく、イギリスにおいても、フランス文学が支配的になっていた。つまり、この時点では、文学をやることが、第一に国家に対して対立すること、第二に経済的な利益を放棄することを意味するようになっていたのです。しかし、英文学をやっていた漱石には、「文学」はさほど明瞭ではなかった。それは実利的あるいは道徳的、あるいは知的なものと簡単に切り離せない。『文学論』は、「文学」とは何かを根底から問おうとするものです。しかし、彼がもし英文学をやっていなかったならば、そういう疑問をもたなかっただろうと思います。同時代にフランス文学をやったりドイツ哲学をやっている者は、もっと気楽です。イギリスの文学も哲学も、そこから見ると、経験論的で、深みがなく、まとまりもないように見えるのです。
 しかし、18世紀において近代社会が最も発展していたのはイギリスです。それはブルジョワ経済においても、政治形態においても、みずからの経験の中から独自のものを生み出していました。漱石の言葉でいえば、「内発的」な発展を遂げていたのです。たとえば、漱石はイギリスで18世紀のスウィフトやスターンを好み研究しました。しかし、それはフランス文学の影響を受けた同時代のイギリスでは、非文学的だと思われていました。同様に、漱石が『吾輩は猫である』を書いたとき、それはフランス系自然主義の文壇からは非文学的だと思われたのです。というのは、そこには、政治・経済・科学から文明批評にいたる、ありとあらゆる考察が混じっているからです。
 イギリスが「内発的」だとすれば、その他の地域は「外発的」です。例えば、フランスの啓蒙主義者は、イギリスの経験を理念化し、さらに、ドイツの知識人はそれをもっと観念的な形態においてつかんだということができます。この場合、イギリス・フランス・ドイツという区別は重要ではありません。むしろ、イギリス的なもの、ドイツ的なもの、フランス的なものと呼ぶべきです。それらは、精神的な姿勢の三つのタイプを原型的にあらわしています。
 たとえば、マルクスの思考は、ドイツ(哲学)、フランス(社会主義)、イギリス(経済学)からなるとよくいわれます。しかし、マルクスは、ドイツからフランスへ、さらにイギリスへと移動していったわけで、もともと、彼のイデオロギー批判は、具体的に何もないところで観念としてのみ「問題」が把握され、「超克」までされてしまうことへの批判としてあったのです。日本で、ドイツやフランスの哲学が受け入れられたのは、その理由によります。実質的に近代社会がないところで、それが観念的に把握され、且つ「超克」されさえしたわけです。
 たとえば、「自由」という思想も、本来哲学から来たのではなく、経済から来たものです。戸坂潤は『日本イデオロギー論』(昭和10年)のなかで、こういっています。《自由主義は、まず最初は経済的自由主義として発生した。重商主義への国家的な干渉に対して、重農派及びその後の古典経済学による抵抗がこの自由主義の出発であった。この自由貿易と自由競争との経済政策理論としての経済的自由主義はやがて政治的自由主義を生み、またはこれに対応していく。市民の社会的身分としての自由平等、それに基づく特定の政治観念であるデモクラシー、ブルジョワ民主主義とがこの政治的自由主義の内容をなしている。》
 たとえば、日本の経済的自由主義者としては、石橋湛山を挙げることができます。彼の大正初期の論文、『大日本主義の幻想』は、朝鮮とか台湾といった植民地を放棄せよと主張しています。大日本である必要は何もない、小日本でよい。自由貿易でやればよろしい、と。さらに、自主的に植民地を解放すれば、朝鮮や台湾も積極的に日本と協同的にやるだろう、と。これはアダム・スミスにもとづいた自由主義です。石橋湛山自身はその後もこの思想を貫いていきますが、当然少数派です。夏目漱石は「私の個人主義」という講演が示すように、いわばイギリス的な自由主義者です。彼の哲学的立場はたぶんヒュームだといってもいいでしょう。
 しかし、日本の知識人の系譜においては、このような人たちはきわめて少数であり軽視されがちです。たとえば、大正デモクラシーといわれる人たちでも、石橋湛山に比べると、すでに「政治的自由主義」でしかありません。彼らは植民地を自明の前提にしていました。しかし、昭和期に入って、「政治的自由主義」すらも可能性が絶たれたとき見いだされる「自由主義」は、どのようになるでしょうか。
 戸坂潤はこういっています。《だが、こうした経済的・政治的自由主義から、あるいはこれに基づいて、あるいはこれに対応すべく第三の自由主義の部面が発生する。便宜上、これを文化的自由主義と呼ぶことにしよう》(『日本イデオロギー論』)。戸坂潤は、「この自由主義の意味そのものが文学的であって、政治行動上の自由主義、それは必然的にデモクラシーの追及にまで行くはずだが、そういう政治行動上の自由主義からは決定的に仕切られている自由主義でなくてはならない。政治上の自由主義としても、ここでは全く超政治的な文学概念としての自由主義でしかない。ところで、こうした文学的自由主義は一見、意外にもファシズムに通じる道を持っている」といっています。これはとても重要な分析だと思います。
 私が先に「美学」といったのは、そういう「文学的自由主義」です。「文學界」という雑誌が代表していたのは、左翼の運動が壊滅し、さらに、政治的・経済的自由主義自体が追いつめられていく、その状況下で「文化的自由主義」に依拠する立場であるということができます。「近代の超克」の会議は、人が読みもせずにいっているほど、悪質なものではありません。むしろ、戦争中にこのような発言が可能であったことに驚くほどです。いいかえると、「文學界」という雑誌は、唯一といっていいほど、言論の「自由」を保持しようとしているのです。
 昭和10年頃には、「近代の終焉」という言葉が流行していました。それは、今日「歴史の終焉」ということが言われるのと類似しているのですが、それというのも、当時、マルクス主義の運動が完全に弾圧されていたからです。小林秀雄が作った「文學界」は、左翼が壊滅した後に、自由主義をベースに知識人の抵抗の拠点を目指していたといえます。事実、そこにはマルクス主義者三木清などが参加し、また断られたとはいえ、小林秀雄が熱心に中野重治を同人に誘った事実があります。しかし、「文學界」が、自由主義の拠点にならざるをえないということこそ、この時期の自由主義が文学的自由主義でしかありえないことを意味しているのです。つまり、ここでの「自由」は、現実的な自由主義がまったくないところでそれを想像的に実現するもので、まさに「美学」的であるほかないのです。
 美的判断は、カントがいったように、感覚と理念の矛盾を乗り超えて統合する「判断力」(構想力)にもとづいています。カントにおいては、それはついに仮象でしかありません。ところが、カント以後のロマン派においては、この美的判断が、一切の判断の規定におかれる。こうして「美学」が哲学の基底となります。ロマン背後においては、哲学とは美学なのです。
 もっと具体的にいいますと、日常的あるいは政治的にさまざまな矛盾があるとき、その矛盾を乗り超えてしまうのが「美学」です。どんな矛盾か? たとえば、私的なものと共同的なもの、あるいは個人主義的なものと全体主義的なものです。これは資本制経済のなかで必ず出てきます。それは、政治的にいえば、自由主義経済と国家介入的経済(社会主義)の対立です。あるいはアジアへの帝国主義的侵略と、アジアを西洋の帝国主義から解放する闘争との矛盾です。
 竹内好は、こういっています。《「近代の超克」は、いわば日本近代史のアポリア(難関)の凝縮であった。復古と維新、尊王と攘夷、鎖国と開国、国粋と文明開化、東洋と西洋という伝統の基本軸における対抗関係が、総力戦の段階で、永久戦争の解釈をせまられる思想課題を前にして、一挙に問題として爆発したのが「近代の超克」であった》。
 しかし、これらの現実的アポリアを「思想」的に乗り超えるのは「美学」のみです。もちろん、美学にもいくつかのタイプがあります。一つはヘーゲル的な弁証法です。つまり、矛盾を実践的に止揚していくという弁証法です。それがなぜ美学的なのかというと、矛盾する二項が本来同一的であるということが想定されているからです。いわゆるマルクス主義は、ヘーゲル主義の亜流です。しかし、このような弁証法は、少なくとも、たえず前提に実現すべき目的をもつことになります。また、現実的な変革や進歩を唱えることになります。
 ところが、このようなマルクス主義が壊滅した後に出てきた「美学」は、もはや何かを積極的に実現すること自体を斥けます。カントは、美はインタレスト(利害・関心)を離れたときに成立するといっているのですが、いわばロマン派以後の「美学」は、現実艇なインタレストの拒否こそ美を実現するのに不可欠だとみなすわけです。保田與十郎のいう「ロマンティシェ・イロニー」とは、そういうものです。保田にとっては、現実的な矛盾を現実的に乗り超えていく「弁証法」こそ否定されなければならない。彼にとって「弁証法」とははじめマルクス主義を意味していましたが、しかし、彼はもっと根本的に「文明開化」そのものを否定します。彼にとって、マルクス主義は「文明開化」の最後の段階にすぎません。
 要するに、保田のいう「弁証法」とは何かを現実に達成しようとする姿勢であり、それに対抗するのが「イロニー」です。むろん、彼はそれを日本の戦争に対しても振り向けます。彼にとっては、さまざまなイデオロギーがいう戦争の目的や実現は、否定さるべきものです。彼にとっては、日本が戦争に負けても構わない。ただ、詩がそこに実現されるならば。現実的なものは、詩あるいは美の「機会原因」でしかない。これは好戦的な態度とは違っています。たとえば、保田は、日露戦争で非戦論を唱えた内村鑑三を称讃しているのです。また、事実、保田は国家当局から危険人物のリストに入れられていたといわれています。」柄谷行人『〈戦前〉の思考』文藝春秋、1994年。pp.103-111. 

 これは戦争中に開かれた座談会「近代の超克」(雑誌「文學界」に掲載されて話題になった)について論じられた部分。対米戦争が始まったところで、当時の高名な哲学者、文学者などが参加して行われた「近代の超克」は、戦争を正当化するものだったと戦後は批判を浴びた。しかし、柄谷行人はもっと違う見方ができるといっている。ただ、出席者の大半はフランスやドイツに留学したりその文献に通じた大陸派で、英米派がいなかったというのは、なるほどと思う。


B.音楽の前衛
 ずいぶん前だが、一柳慧さんにぼくは会って話を聴いたことがある。それは楽器業界の依頼で現代音楽の最新情報を聴くという企画だったのだが、楽器業界の人たちは、エレキギターで儲けることしか考えていなかったので、参加者が数人しかいなくて困ったらしく、ぼくにもお声がかかったのだ。一柳慧がどういう人か知っている人もあまりいなかった。アメリカでジョン・ケージに師事した現代作曲家だということぐらいはぼくは知っていたので、行ってみると5人くらいの小さな部屋で、一柳さんはまだ40代くらいの小柄な人で、これからの音楽と楽器のお話をしながら不思議なおもちゃのような器具を見せて、それが触ると電子的な音が出るんですよと楽しそうに手渡してくれた。でも、結局誰も現代音楽がどういうものかよくわからなかった。

 「惜別:10月7日死去(誤嚥) 89歳 作曲家・ピアニスト 一柳 慧 さん 
 枠超え紡いだ 出会いと作品 
 世を去った翌日、自ら企画した舞台「浜辺のアインシュタイン」が横浜で初日を迎えた。核戦争後の廃墟を思わせる乾いた空間で音楽、舞踊、演劇が対等に睦み合い、フィリップ・グラスのミニマルなリズムが柔らかな人間の鼓動を奏でる。この非日常を日常に変えてしまうのが戦争なんですよ。そんなつぶやきがきこえた気がした。
 大戦中、大好きなピアノを禁じられた。その苦しさが、幼い心に戦争への憎しみとともに焼き付いた。高校で作曲法を学び始めると、禁じ手の多さに反発を覚え、19歳で前衛の坩堝の米国へ。生涯の師となったジョン・ケージとの交流は「あなたの音楽は時間にも何にも縛られていない」と伝えたことがきっかけで始まった。舞踊家、建築家、作家。分野の枠を超えた出会いの連鎖に身を投じた。
 「『自分らしさ』は他者との関係性のなかから生まれてくるもの。「だからAIじゃなく、いろんな世界の人間で作る芸術が大切なのです」と語り、東南アジアやアフリカといった非西欧の響きとの共存を言論と創作の両輪で訴えた。「曲だけじゃなく、人々が集う『場』も一柳さんの創造物でした」と作曲家の権代敦彦さん(57)は語る。
 「共感できる相棒あってこそ怖い者知らずになれる」と三味線の本條秀慈郎さん(38)ら、若手の挑戦状ならぬ新作委嘱を喜んで受けた。「全く手加減してくれないんですよ。僕をいくつだと思っているのか」。ぼやく口調が嬉しそうだった。
 よく褒めた。人の話に本気で驚き、本気で感心した。新作初演の現場でも、評判は二の次で、もう次の作品のことを話していた。その好奇心のスピ-ドには誰も追いすがれなかった。最先端をひた走りながらのあっという間の旅立ちすら、実は「作品」だったのではないかと思わずにいられないほどに。 (編集委員・吉田純子)」朝日新聞2022年12月10日夕刊5面。
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