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 〈戦前の思考〉から 3  ロマン派の本質とは? 大衆の原像

2022-12-15 09:28:11 | 日記
A.保田與十郎
 保田 與重郎(やすだ よじゅうろう、1910年(明治43年)4月15日 - 1981年(昭和56年)10月4日)は、日本の文芸評論家。多数の著作を刊行した。この人は、いまは忘れられているが、日本が太平洋で戦争していたころは、多くの若者が心酔してその本を読んでいたという人。左翼ではないから弾圧された転向インテリではなく、保田は日本浪漫派と呼ばれた流れの代表だった。

「この保田(註・保田與十郎」の態度は、それほど奇怪なものではありません。竹内好は、「保田の果たした思想的役割は、あらゆるカテゴリーを破壊することによって思想を絶滅することにあった」と書いていますが、これはドイツ・ロマン派からくる「イロニー」に特徴的なものです。肝心なのは、それが「弁証法」に敵対するものだということです。つまり、何かを積極的に実現するという考えへの敵対です。たぶん、それが彼がこの「近代の超克」という会議に出席しなかった理由だと思います。
 しかし、なぜ保田の「イロニー」が、ある人々(三島由紀夫をふくむ)を魅了したのかといえば、何かを実現しようとする者には必ずインタレストがつきまとうからです。したがって不純であり、「美的」でないからです。具体的にいえば、軍部の統制派は、処刑された皇道派に対して不純であり、インタレストがらみです。この戦争で死ぬべく運命づけられた青年たちは、この戦争が大義名分がどうであろうと、現実には独占資本のインタレストにかかわるものだということを知っていましたから、日本浪漫派は、一つの抵抗であること、美的抵抗であることを意味したわけです。ついでにいえば、1960年代に、三島由紀夫が全共闘に共感を表明し、保田與十郎が中国文化革命における紅衛兵を称讃したのも、そのことと関係しています。彼らは、全共闘や紅衛兵に、利益や何かを積極的に実現することへの無関心を見いだしたわけです。
 多分、現実的なインタレストを捨てざるを得ないのは、死が不可避的なときです。芥川龍之介は「末期の眼」ということをいい、これを川端康成は大きく取り上げました。「末期の眼」に映った風景は美しい。なぜなら、そこには生きる可能性があるかぎり生じるようなインタレストがありえないからです。いってみれば、保田與十郎にとって、「美」は、積極的に何かを実現することを断念するところにしかありえないのです。
 現実的矛盾に対する、もう一つの態度があります。それは西田幾多郎の「無の論理」です。簡単にいうと、それは、ヘーゲルのように矛盾を闘争によって乗り越えていくということを否定するものです。人が矛盾として見いだすものは、実は浅薄な見方によるもので、根底的に、それは「絶対矛盾的自己同一」として統合されているというわけです。この論理によって、あらゆる矛盾が「止揚」されてしまいます。しかし、これも「美学」的なものです。
 すでに、これは岡倉天心の『東洋の理想』にうかがわれます。彼は「アジアは一つである」と書き出すのですが、このonenessは、東洋の美術にかんしていわれています。つまり、経済、政治、あるいは宗教においては、アジアの同一性を見出せないからです。その場合、彼は、矛盾を軸とするヘーゲルの弁証法を批判して、アジアにアドヴァイタ(不二元論)という原理を見いだします。それは、矛盾するものの同一性ということです。西洋史が発展的であってもたえまない闘争にもとづくのに対して、東洋は停滞的であっても平和であり「愛」にもとづくということになります。保田與十郎も、この岡倉の「美学」を論拠にしています。
 しかし、この不二元論は、西田幾多郎が「絶対矛盾的自己同一」といったものと同じです。いいかえると、西田の哲学は美学的なのです。西田の弟子であった戸坂潤は、西田哲学がロマン派的、美学的であることを鋭く指摘しています。

 ――もっとも最近の西田哲学はロマン派的、美学的な外的色彩をやや失ったように見えるが、それはかえってロマン派的美学的な方法が確立されたからであって、そしてそれはとりもなおさず左右田博士によって『西田哲学』と呼び始められたものだったのである。重ねていうが、西田哲学は決して封建的な、ゴチック的な方法によるものではない。むしろ近代的な、浪漫的な本質のものである。現代文化人の文化的意識を裏付ける、これほど適切なものを見ない。現代人の近代資本主義的教養はこの哲学のうちに自分の文化的自由意識の代弁者を見出す。そこでこれは、経済的政治的自由主義に対して文化的自由主義の哲学の代表者となるわけである。ここに西田哲学の人気があるのだ。 (「無の論理は論理であるか」『日本イデオロギー論』)

 注意しておきたいのは、西田において、むろん、京都学派においてはなおさらのことですが、この「論理」が、現実的な矛盾を「論理的」に乗り超えるものとして活用されたことです。例えば、国家統制経済は、自由主義と共産主義、あるいは個人主義と全体主義の両方を乗り超える「協同主義」(三木清)として「解釈」されます。また、大東亜共栄圏は、近代国家とソ連型国際主義の両方を乗り超えるものとして「解釈」されます。つまり、どんな矛盾があろうと、それは「すでに」止揚されているわけです。この「論理」は、あらゆる既成事実を肯定することになります。頭のなかでは、それはすばらしく美化されるのです。
 したがって、戸坂潤がいったように、こうした「論理」は美学的なものです。すると、先にいったように、「文學界」グループが批判しようとしたのは、たんに「哲学」なのではなくて、「美学」だといわねばなりません。ところが、それに対抗した小林秀雄もやはり「美学」によっているのです。

 哲学者の立場といふものも解らぬ事はないのです。さつき歴史哲学といふより寧ろ美学だといふ話になりましたが、僕は別に美学といふやうな事を勉強したわけではないが、今迄僕に一番影響を与へた美学は、ベルグソンの美学です。尤も、あの人は美学について特に書いてやしないけれども。何故僕に面白かつたかといふと、外の哲学者の書いてゐる美学の様な曖昧さがない処なのです。例へば具体的普遍と言った様な曖昧な言葉が一切ない、非常に明瞭に書いてゐる。(中略)歴史人や社会人を仮面的なものと見て、純粋な知覚の分析から、まつすぐに形而上学をつくつて行くやり方。ベルグソンは一時流行したが、もう一度真剣に読まれる時が、わが国で屹度来ると考へてゐます。果敢ない夢だね。われわれ近代人が頭に一切詰め込んでゐる実に膨大な歴史の図式、地図、さういふやうなものは或る実在に達しやうとする努力の側から観ると、破り捨てねばならぬ悪魔だね。

 たとえば、エレア学派以来、「アキレスは亀に追いつけない」とか「飛ぶ矢は飛ばない」というパラドックスがあり、それが哲学を動かしてきたといえます。ヘーゲルは、たとえば、矢は飛んでいると同時に静止しているという「矛盾」にあり、この矛盾が運動を生み出すと考えた。それに対して、ベルグソンは、それが矛盾と見えるのは、時間を空間化して分析的に見るからだというわけです。時間は「持続」であり、「今」とは点ではなく多様体である。ベルグソンは、大体こういうふうに考えた人です。
 小林秀雄は、「実在」に触れるためには、「具体的普遍」というような「美学」ではなく、われわれの思考につきまとっている制約をすてて、そこに参入しなければならないということをいいます。つまり、ヘーゲル的な目的論的歴史やプログラムを斥け、かつ同時に、現実的な矛盾を「美的」な姿勢によって乗り超えようとするわけです。それは未来と過去において融合しているような「持続」としての「現在」を肯定するものです。むろん、小林の考えも「美学」です。実は、小林がいうことは、西田幾多郎が『善の研究』で「純粋経験」と呼んだものに近いのです。彼が否定したのは西田の言葉使いです。
 小林秀雄は、大東亜戦争の意味づけ(解釈)を斥けます。《歴史といふものはわれわれ現代人の現代的解釈などびくともするものではない―ーといふことがだんだん解つて来たのです。さういふ所に歴史の美しさといふものを僕は、はじめて認めたのです》。「歴史の美しさ」という言葉を使っていることに注意して下さい。大東亜戦争は、いかなる理屈によって解釈するのでなく、それを「運命」として参入することによってのみ「美」となるわけです。それはすでに「末期の眼」で見られています。
 小林秀雄は、「文學界」を作った時点では抵抗の可能性を考えていたけれども、この時点では、もう諦念に達していました。彼は、ただ京都学派をふくむ戦争イデオローグを批判し、この戦争で死ぬほかないような人々の立場に立って、何とかそこに「自由」を見いだそうとしていたのだ、ということができます。

 以上で、彼らの差異や対立が、根本的に「美学」的なものであるということが明らかだと思います。そして、そこにいわば、フランスとドイツ、あるいは文学と哲学の争いが見られるわけです。しかし、すでにいったように、「ヨーロッパ」はドイツ・イタリアなどのファシスト勢力によって統一されており、それらはまた、日本と同盟をむすんでいたのですから、純粋に日本の敵であるのは英米です。しかし、この会議で一様に、ヨーロッパの「深さ」について考察している彼らが、敵である英米にかんしては、無視またはまったく軽視しています。それはぞこに「美学」的なものがないからです。
 先に、「美学」は、現実的な矛盾を想像的に超え統合するものだといいましたが、逆にいえば、「美学」は、現実的な矛盾を現実的に乗り超えることが出来ないところにおいて、支配的になるのです。
もともと近代美学は18世紀にシャフツベリーやバークのようなイギリス人によってはじまっているにもかからわず、、イギリスにおいてその後美学が発展しなかった理由もそこにあります。一方、すでにいったように、ドイツ観念論は根本的に「美学」的です。同様に、日本の近代哲学は「美学」的です。
 この「近代の超克」という会議は「文学的自由主義」を最大限に実現しています。あらためていうけれども、それは同時代に書かれた(今は読むに堪えない)無数のがらくたのようなイデオローグの著作とは違います。にもかからわず、それは「美学」のなかでの議論以上ではなかったのです。この会議では、下村寅太郎や物理学者を例外として、技術に対する軽視が目立っています。そのかわりに、「文化」や「精神」が深刻に議論されています。しかし、このことは、小林秀雄・河上徹太郎・中村光夫などがヴァレリーを読んでいたことから見ると、奇怪に思われます。
 たとえば、ヴェレリーが今世紀初めに書いたエッセイに、「精神の危機」というのがあります。彼はこの中で「ヨーロッパとは何か」と問うて、こんなことを書いています。彼は、自分がヨーロッパを意識したのは、1894年の日清戦争と1898年の米西戦争においてであるというのです。それまでは、ヨーロッパは「世界」であって、そのなかにフランスとかドイツとかがあった。ヨーロッパが一つの世界でしかないということを思い知らされたのは、日清戦争と米西戦争だというのです。ヨーロッパから見てファー・イーストの日本と、ファー・ウェストのアメリカ。しかも、そのいずれもが、ヨーロッパから流出したテクノロジーを駆使して勝った。こうして、日米が、ヨーロッパから出て行ったものを利用して、逆にヨーロッパに立ち向かってきたときに、彼は、ヨーロッパがもはや一世界に過ぎないことを痛切に感じさせられたというのです。
 言い換えると、ヨーロッパが一世界であることを痛感させたのは、ヨーロッパにとって異質な世界があるからではない。実は、ヨーロッパ自身が生み出したものがヨーロッパに敵対してきたということです。それは何か。技術(テクノロジー)です。ヴァレリーは、ヨーロッパを、「文化」あるいは「精神的な深さ」において考えていない。彼はそれを「技術」において見ている。だから、それはその外に応用可能であり、逆にヨーロッパを追いつめるものなのです。事実、それはのちに、アメリカを追いつめ、やがては、日本をも追いつめるものとなるでしょう。それは、技術が応用可能だからです。もしそれがヨーロッパが生み出したものだとすれば、かりにそれによってヨーロッパが滅亡したとしても、なおヨーロッパが世界を制覇したことになるわけです。
 ヴァレリーが、19世紀末に、アメリカと日本をとりだしたことは、驚くべき予見性だと思います。それは現在の世界三極構造にまで及ぶものだからです。そして、この洞察力は、彼がいわば「美学」を斥けたことと関係しています。彼が批評家として考えたのは、「詩学」ポエティックス)であり、つまり「技術」の問題だったからです。この会議で、河上徹太郎は、ヴァレリーを「機械のミスティク:と呼んで批判していますが、もちろんヴァレリーは神秘主義者ではなくて、神秘的と見える創作過程そのものを意識化することからはじめた人です。いいかえると、あらゆる神秘的なものを技術的な形態において見ようとしたのです。
 ところで、この会議においてやや異色なのは、映画評論家の津村秀夫の発言です。彼は、アメリカニズムを最大の脅威と見ています。津村が、他の人々と違っているのは、映画をやっていたからです。《映画はいふまでもなく近代の終焉と共に始まった芸術形式である》。つまり、映画そのものにポストモダンなものがあるということです。そして、それはテクノロジーの問題と切り離せないものです。」柄谷行人『〈戦前〉の思考』文藝春秋、1994年。pp.111-119. 


B.“大衆の原像”ってあったな 
 ぼくのような団塊の世代と呼ばれたジジイにとって、大学生の頃の“学園紛争”の記憶と“吉本隆明”という名は強く結びついている。仲間内で吉本の本を読んでいないと、話にならないアホとみなされた。吉本氏はあちこちで講演会などをやっていたから、ぼくも話を聴こうと行くと、若い大学生がつめかけて中に入れず、階段で声だけ聴いたこともあった。なんであんなに人気があったんだろう。たぶん、その本の中身より、その決然とした言い回し、小林秀雄的な文章で共産党をはじめ既成左翼や、もちろん右翼や政府自民党をけっとばす痛快さを感じたからだろう。その吉本が語った言葉のひとつに、「大衆の原像」というのがあった。彼は、東京下町に生まれ、本など読まない庶民のなかに暮らして、超インテリでありながらインテリなどクソのようなものだと言って、ただ市井に生きていることが価値があると言った。同世代のこの人も、そういう木文の中で生きてきたんだろう、と思う。

 「土曜訪問:余計なことはしない 老いても普通に「ただ生きる」を実践 勢古 浩爾さん
 「定年後も働こう」「地域とつながる」「いつまでも若々しく」。書店にはシニア向けに生き方を指南する人気本が並んでいる。「世界一周旅行」や「ゼロから学ぶ英語」というのもある。そんな中で、勢古浩爾さん(75)の最新刊のタイトルが異彩を放っている。『ただ生きる』(夕日新書)。帯でも、余計なことはしない、と言い切っている。
 「私にとっての老いの楽しみとは、何ということのない、ごく一般的な普通の生活のことです」ときっぱりの勢古さん。「生きる意味や意義も、生きがいや目的も、とくに年をとってからは必要ありませんよ」
 勢古さんの一日はこんな感じだ。昼近くに起床して食事を取る。リュックを背負って帽子を被り、自転車で近所の図書館か喫茶店へ。歩いて行く日もある。半日外で過ごした後、きれいな夕日に出合えたらデジカメでパチリ。海外旅行は面倒なので行かないし、友達ともほとんど会わない。
 「そんな気の抜けたビールのような生活をして何が面白い、という人がいるかもしれませんが、私は全然気にしません。ただ生きているだけで十分です」
 といっても、無為無気力な生き方ではなく、ほんの少しの前向きな気持ちが伴っている。まさに自分サイズの意欲と言えるだろう。「余計なことをしない。余計なことは欲しない。そして何が余計かは自分の判断」。これが「ただ生きる」の極意だ。
 世の中は無意味なもの、余計なものであふれていると感じている。文明は利器を作り出した半面、不要なもの、過剰なものも作り出した。要不要の線引きがあいまいになっている。勢古さんは連絡用にパソコンで電子メールを使うし、映像作品を鑑賞するためにユーチューブも見ているが、「携帯電話は全く不要」。スマートフォンはもちろん、ガラケーも持たない。
 「夢を持つのに遅すぎることはない、と金言のようにいわれるが、それは本当に自分の夢なのだろうか、と問うことも必要ではないでしょうか。世間の判断、世間の価値ではないだろうか、と」
 1947年生まれの団塊の世代。洋書輸入会社に勤務しながら執筆活動を続けた。評論や評伝、人生論など数多く手がけたが、いつも念頭にあったのは、現代を生きる市井の人間の心の芯に言葉を届けることだ。
 転機は二十代前半、友人に勧められて読んだ思想家・吉本隆明だった。〈結婚して子供を生み、そして、子供に背かれ、老いてくたばって死ぬ(中略)そういう生活の仕方をして生涯を終える者が、一番価値ある存在なんだ〉(『敗北の構造』)
 「『世間の人は、日常や普通の生活をばかにしすぎている』ということを言っていた。『日常には修羅もすべてある』と。そして『普通に生きている人間が一番偉いんだ』と断言していました」
 吉本の言葉に触れ、目を見開かされた勢古さん。以来、とっぴなこと、特殊で派手なことにはいっさい興味がなくなった。何をするにしても「普通」がいい。自分の生きるペースができたという。
 一年前に出したエッセー『自分がおじいさんになるということ』で、「元素」という言葉を、独自の意味を込めて使った。自然や言語、文化などそれぞれの分野の、善良な要素を指す。「自然元素」で言えば、人間なら誰しも美しさや心地よさを覚える「夕日」「花」「雨」「河」である。「当然、こんな理想とは正反対の現実があり、こんな考えは軟弱すぎる思想だと批判されることでしょう。しかし、あえてそれを求め、そういう世界で生きていきたい」
 老いとは、自分にとって気持ちのいい元素だけで生きていける時期と教えてくれた勢古さん。気心の知れた人とだけ付き合い、好きな趣味だけをし、美しい自然や言葉を愛でる。現役でいる時は、何かとしがらみやら義務やらで無理だけれど、自分もいつかは、元素を集めて「ただ生きて」みたい。老いるのが待ち遠しくなってきた。 (栗原淳)」東京新聞2022年12月10日夕刊、5面。
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 〈戦前の思考〉から 2 第2外国語  追悼一柳さん 

2022-12-12 16:33:00 | 日記
A.英米派と大陸派
 昔の話になるが、大学に入った時、はじめの教養課程で二年、第二外国語を選択して履修しなければならなかった。英語が第一外国語の場合、第二外国語として用意されていたのは、フランス語、ドイツ語、スペイン語、中国語の4つだった。どれをとってもよいのだが、周りの学生たちがいうのは、フランス語やドイツ語は英語よりだいぶ難しいから、スペイン語か中国語がおすすめだという。とくに中国語は漢字だし、先生もそんなに厳しくないらしいという噂で、中国語を選ぶ者が一番多かった気がする。でも、どうせ週一回の授業で、はじめての外国語学習だから初歩だけで終わり、そんなに難しいわけがない。ぼくはフランス語を選んだ。シャンソンが歌えたら楽しいだろう程度の興味だったが、授業はほんとに「ラ・メール」を歌ったりして楽しく、単位を取ってからもうちょっと身につけたくて、アテネ・フランセに半年通った。結局ものにはならなかったが、大学院の入試の第二外国語をフランス語で受けて合格する程度にはなった。
 大学生にどうして英語のほかにフランス語やドイツ語が必要なのかは、あまり考えてなかった。スペイン語や中国語はおもに話者の数が多く、実用的な言語だからだろうと思ったが、フランス語やドイツ語を実際に使う機会はふつうはほぼない。簡単な会話程度ならヨーロッパだって英語でなんとかなる。しかし、専門の勉強をしてみると、とくに社会科学の文献・原書はフランス語やドイツ語も多く、専門用語はフランス語やドイツ語がたくさん出てくる。なるほど、明治以来海外の文献を読むことが学問の入口だった名残なのだな、と納得した。やがて、30歳過ぎてドイツに行くことになって、今度はドイツ語を1年ほどかなり勉強した。でも、日常会話はできたが、論文をドイツ語で助けなしに書いて通用するところまでは無理だった。

 「明治以来の日本は「西洋化」されてきたといわれるのですが、一般的に「西洋」というと紛らわしいところがあります。それを英米、フランス、ドイツというふうに分けて考えてみたいと思います。特に、知識人をみると、その差異がはっきりします。明治初期の代表的な思想家、福沢諭吉は英米派です。実際問題として、英語は学校教育において必須語として取り入れられています。ところが明治国家は、ビスマルク・ドイツを模範としたので、法律や医学・哲学など国家的な言説においては、ドイツ語が不可欠でした。日本の「哲学」は、井上哲次郎以来、ドイツ観念論を中心とするようになったわけです。一方、明治後半になってくると、フランス語が文学的言語として中心になってきます。たとえば自然主語や白樺派になると、フランス一辺倒です。
 ここで、これらの間に、夏目漱石を置いてみます。彼はいうまでもなく英文学をやった人ですが、明治33年に文部省からイギリス留学を命ぜられたとき、「英文学」ではなく「英語」を研究せよといわれたわけです。彼は、上田万年のところへ、それでは英文学をやってはいけないのか、と問い合わせに行った。もちろんそんな厳密なことではなく、「多少自家の意見にて変更しうるの余地ある事を認め得たり」ということになったわけです。これは『文学論』の序文に書いてあります。というより、漱石はわざわざこれを書かずにいられなかったのです。しかし、なぜ彼が英語を研究して来いといわれたのか。そのことは、漱石の『文学論』という仕事に大きく関係するものです。
 ドイツ語は「国家」の言語であり、英語は、経済的で実用的な言語でした。そのことは学校で英語が必須となっていることから明らかです。当時、英語は、大英帝国およびアメリカの範囲に通用する世界的な言語でした。しかし、まさにその理由で、英語は文学の言語にはなりにくかった。カントは、美学的な判断においては、インタレスト(利益・関心)が廃棄されねばならないといっています。英語にはインタレストがありすぎるのです。現在でも英文学をやることは、英語をやることですから、あとで役立ちます。英文科に行く数多い学生のなかで、文学をやるために行く者は少数です。しかし、仏文科に行く学生は違います。大学を出ても、フランス語で食うことは難しい。例えば、英語を習得するためだけに留学する人は数多くいますが、フランス語だけを習得するために留学する人はまずありえない。フランスに行く人は、彼らは文学や哲学あるいは料理やファッションなどを習得するためです。しかも、それらは広い意味で「美的」なものに関係しています。
 ところで、実は、漱石が留学する時点では、すでにそういう雰囲気があったのです。日本においてだけでなく、イギリスにおいても、フランス文学が支配的になっていた。つまり、この時点では、文学をやることが、第一に国家に対して対立すること、第二に経済的な利益を放棄することを意味するようになっていたのです。しかし、英文学をやっていた漱石には、「文学」はさほど明瞭ではなかった。それは実利的あるいは道徳的、あるいは知的なものと簡単に切り離せない。『文学論』は、「文学」とは何かを根底から問おうとするものです。しかし、彼がもし英文学をやっていなかったならば、そういう疑問をもたなかっただろうと思います。同時代にフランス文学をやったりドイツ哲学をやっている者は、もっと気楽です。イギリスの文学も哲学も、そこから見ると、経験論的で、深みがなく、まとまりもないように見えるのです。
 しかし、18世紀において近代社会が最も発展していたのはイギリスです。それはブルジョワ経済においても、政治形態においても、みずからの経験の中から独自のものを生み出していました。漱石の言葉でいえば、「内発的」な発展を遂げていたのです。たとえば、漱石はイギリスで18世紀のスウィフトやスターンを好み研究しました。しかし、それはフランス文学の影響を受けた同時代のイギリスでは、非文学的だと思われていました。同様に、漱石が『吾輩は猫である』を書いたとき、それはフランス系自然主義の文壇からは非文学的だと思われたのです。というのは、そこには、政治・経済・科学から文明批評にいたる、ありとあらゆる考察が混じっているからです。
 イギリスが「内発的」だとすれば、その他の地域は「外発的」です。例えば、フランスの啓蒙主義者は、イギリスの経験を理念化し、さらに、ドイツの知識人はそれをもっと観念的な形態においてつかんだということができます。この場合、イギリス・フランス・ドイツという区別は重要ではありません。むしろ、イギリス的なもの、ドイツ的なもの、フランス的なものと呼ぶべきです。それらは、精神的な姿勢の三つのタイプを原型的にあらわしています。
 たとえば、マルクスの思考は、ドイツ(哲学)、フランス(社会主義)、イギリス(経済学)からなるとよくいわれます。しかし、マルクスは、ドイツからフランスへ、さらにイギリスへと移動していったわけで、もともと、彼のイデオロギー批判は、具体的に何もないところで観念としてのみ「問題」が把握され、「超克」までされてしまうことへの批判としてあったのです。日本で、ドイツやフランスの哲学が受け入れられたのは、その理由によります。実質的に近代社会がないところで、それが観念的に把握され、且つ「超克」されさえしたわけです。
 たとえば、「自由」という思想も、本来哲学から来たのではなく、経済から来たものです。戸坂潤は『日本イデオロギー論』(昭和10年)のなかで、こういっています。《自由主義は、まず最初は経済的自由主義として発生した。重商主義への国家的な干渉に対して、重農派及びその後の古典経済学による抵抗がこの自由主義の出発であった。この自由貿易と自由競争との経済政策理論としての経済的自由主義はやがて政治的自由主義を生み、またはこれに対応していく。市民の社会的身分としての自由平等、それに基づく特定の政治観念であるデモクラシー、ブルジョワ民主主義とがこの政治的自由主義の内容をなしている。》
 たとえば、日本の経済的自由主義者としては、石橋湛山を挙げることができます。彼の大正初期の論文、『大日本主義の幻想』は、朝鮮とか台湾といった植民地を放棄せよと主張しています。大日本である必要は何もない、小日本でよい。自由貿易でやればよろしい、と。さらに、自主的に植民地を解放すれば、朝鮮や台湾も積極的に日本と協同的にやるだろう、と。これはアダム・スミスにもとづいた自由主義です。石橋湛山自身はその後もこの思想を貫いていきますが、当然少数派です。夏目漱石は「私の個人主義」という講演が示すように、いわばイギリス的な自由主義者です。彼の哲学的立場はたぶんヒュームだといってもいいでしょう。
 しかし、日本の知識人の系譜においては、このような人たちはきわめて少数であり軽視されがちです。たとえば、大正デモクラシーといわれる人たちでも、石橋湛山に比べると、すでに「政治的自由主義」でしかありません。彼らは植民地を自明の前提にしていました。しかし、昭和期に入って、「政治的自由主義」すらも可能性が絶たれたとき見いだされる「自由主義」は、どのようになるでしょうか。
 戸坂潤はこういっています。《だが、こうした経済的・政治的自由主義から、あるいはこれに基づいて、あるいはこれに対応すべく第三の自由主義の部面が発生する。便宜上、これを文化的自由主義と呼ぶことにしよう》(『日本イデオロギー論』)。戸坂潤は、「この自由主義の意味そのものが文学的であって、政治行動上の自由主義、それは必然的にデモクラシーの追及にまで行くはずだが、そういう政治行動上の自由主義からは決定的に仕切られている自由主義でなくてはならない。政治上の自由主義としても、ここでは全く超政治的な文学概念としての自由主義でしかない。ところで、こうした文学的自由主義は一見、意外にもファシズムに通じる道を持っている」といっています。これはとても重要な分析だと思います。
 私が先に「美学」といったのは、そういう「文学的自由主義」です。「文學界」という雑誌が代表していたのは、左翼の運動が壊滅し、さらに、政治的・経済的自由主義自体が追いつめられていく、その状況下で「文化的自由主義」に依拠する立場であるということができます。「近代の超克」の会議は、人が読みもせずにいっているほど、悪質なものではありません。むしろ、戦争中にこのような発言が可能であったことに驚くほどです。いいかえると、「文學界」という雑誌は、唯一といっていいほど、言論の「自由」を保持しようとしているのです。
 昭和10年頃には、「近代の終焉」という言葉が流行していました。それは、今日「歴史の終焉」ということが言われるのと類似しているのですが、それというのも、当時、マルクス主義の運動が完全に弾圧されていたからです。小林秀雄が作った「文學界」は、左翼が壊滅した後に、自由主義をベースに知識人の抵抗の拠点を目指していたといえます。事実、そこにはマルクス主義者三木清などが参加し、また断られたとはいえ、小林秀雄が熱心に中野重治を同人に誘った事実があります。しかし、「文學界」が、自由主義の拠点にならざるをえないということこそ、この時期の自由主義が文学的自由主義でしかありえないことを意味しているのです。つまり、ここでの「自由」は、現実的な自由主義がまったくないところでそれを想像的に実現するもので、まさに「美学」的であるほかないのです。
 美的判断は、カントがいったように、感覚と理念の矛盾を乗り超えて統合する「判断力」(構想力)にもとづいています。カントにおいては、それはついに仮象でしかありません。ところが、カント以後のロマン派においては、この美的判断が、一切の判断の規定におかれる。こうして「美学」が哲学の基底となります。ロマン背後においては、哲学とは美学なのです。
 もっと具体的にいいますと、日常的あるいは政治的にさまざまな矛盾があるとき、その矛盾を乗り超えてしまうのが「美学」です。どんな矛盾か? たとえば、私的なものと共同的なもの、あるいは個人主義的なものと全体主義的なものです。これは資本制経済のなかで必ず出てきます。それは、政治的にいえば、自由主義経済と国家介入的経済(社会主義)の対立です。あるいはアジアへの帝国主義的侵略と、アジアを西洋の帝国主義から解放する闘争との矛盾です。
 竹内好は、こういっています。《「近代の超克」は、いわば日本近代史のアポリア(難関)の凝縮であった。復古と維新、尊王と攘夷、鎖国と開国、国粋と文明開化、東洋と西洋という伝統の基本軸における対抗関係が、総力戦の段階で、永久戦争の解釈をせまられる思想課題を前にして、一挙に問題として爆発したのが「近代の超克」であった》。
 しかし、これらの現実的アポリアを「思想」的に乗り超えるのは「美学」のみです。もちろん、美学にもいくつかのタイプがあります。一つはヘーゲル的な弁証法です。つまり、矛盾を実践的に止揚していくという弁証法です。それがなぜ美学的なのかというと、矛盾する二項が本来同一的であるということが想定されているからです。いわゆるマルクス主義は、ヘーゲル主義の亜流です。しかし、このような弁証法は、少なくとも、たえず前提に実現すべき目的をもつことになります。また、現実的な変革や進歩を唱えることになります。
 ところが、このようなマルクス主義が壊滅した後に出てきた「美学」は、もはや何かを積極的に実現すること自体を斥けます。カントは、美はインタレスト(利害・関心)を離れたときに成立するといっているのですが、いわばロマン派以後の「美学」は、現実艇なインタレストの拒否こそ美を実現するのに不可欠だとみなすわけです。保田與十郎のいう「ロマンティシェ・イロニー」とは、そういうものです。保田にとっては、現実的な矛盾を現実的に乗り超えていく「弁証法」こそ否定されなければならない。彼にとって「弁証法」とははじめマルクス主義を意味していましたが、しかし、彼はもっと根本的に「文明開化」そのものを否定します。彼にとって、マルクス主義は「文明開化」の最後の段階にすぎません。
 要するに、保田のいう「弁証法」とは何かを現実に達成しようとする姿勢であり、それに対抗するのが「イロニー」です。むろん、彼はそれを日本の戦争に対しても振り向けます。彼にとっては、さまざまなイデオロギーがいう戦争の目的や実現は、否定さるべきものです。彼にとっては、日本が戦争に負けても構わない。ただ、詩がそこに実現されるならば。現実的なものは、詩あるいは美の「機会原因」でしかない。これは好戦的な態度とは違っています。たとえば、保田は、日露戦争で非戦論を唱えた内村鑑三を称讃しているのです。また、事実、保田は国家当局から危険人物のリストに入れられていたといわれています。」柄谷行人『〈戦前〉の思考』文藝春秋、1994年。pp.103-111. 

 これは戦争中に開かれた座談会「近代の超克」(雑誌「文學界」に掲載されて話題になった)について論じられた部分。対米戦争が始まったところで、当時の高名な哲学者、文学者などが参加して行われた「近代の超克」は、戦争を正当化するものだったと戦後は批判を浴びた。しかし、柄谷行人はもっと違う見方ができるといっている。ただ、出席者の大半はフランスやドイツに留学したりその文献に通じた大陸派で、英米派がいなかったというのは、なるほどと思う。


B.音楽の前衛
 ずいぶん前だが、一柳慧さんにぼくは会って話を聴いたことがある。それは楽器業界の依頼で現代音楽の最新情報を聴くという企画だったのだが、楽器業界の人たちは、エレキギターで儲けることしか考えていなかったので、参加者が数人しかいなくて困ったらしく、ぼくにもお声がかかったのだ。一柳慧がどういう人か知っている人もあまりいなかった。アメリカでジョン・ケージに師事した現代作曲家だということぐらいはぼくは知っていたので、行ってみると5人くらいの小さな部屋で、一柳さんはまだ40代くらいの小柄な人で、これからの音楽と楽器のお話をしながら不思議なおもちゃのような器具を見せて、それが触ると電子的な音が出るんですよと楽しそうに手渡してくれた。でも、結局誰も現代音楽がどういうものかよくわからなかった。

 「惜別:10月7日死去(誤嚥) 89歳 作曲家・ピアニスト 一柳 慧 さん 
 枠超え紡いだ 出会いと作品 
 世を去った翌日、自ら企画した舞台「浜辺のアインシュタイン」が横浜で初日を迎えた。核戦争後の廃墟を思わせる乾いた空間で音楽、舞踊、演劇が対等に睦み合い、フィリップ・グラスのミニマルなリズムが柔らかな人間の鼓動を奏でる。この非日常を日常に変えてしまうのが戦争なんですよ。そんなつぶやきがきこえた気がした。
 大戦中、大好きなピアノを禁じられた。その苦しさが、幼い心に戦争への憎しみとともに焼き付いた。高校で作曲法を学び始めると、禁じ手の多さに反発を覚え、19歳で前衛の坩堝の米国へ。生涯の師となったジョン・ケージとの交流は「あなたの音楽は時間にも何にも縛られていない」と伝えたことがきっかけで始まった。舞踊家、建築家、作家。分野の枠を超えた出会いの連鎖に身を投じた。
 「『自分らしさ』は他者との関係性のなかから生まれてくるもの。「だからAIじゃなく、いろんな世界の人間で作る芸術が大切なのです」と語り、東南アジアやアフリカといった非西欧の響きとの共存を言論と創作の両輪で訴えた。「曲だけじゃなく、人々が集う『場』も一柳さんの創造物でした」と作曲家の権代敦彦さん(57)は語る。
 「共感できる相棒あってこそ怖い者知らずになれる」と三味線の本條秀慈郎さん(38)ら、若手の挑戦状ならぬ新作委嘱を喜んで受けた。「全く手加減してくれないんですよ。僕をいくつだと思っているのか」。ぼやく口調が嬉しそうだった。
 よく褒めた。人の話に本気で驚き、本気で感心した。新作初演の現場でも、評判は二の次で、もう次の作品のことを話していた。その好奇心のスピ-ドには誰も追いすがれなかった。最先端をひた走りながらのあっという間の旅立ちすら、実は「作品」だったのではないかと思わずにいられないほどに。 (編集委員・吉田純子)」朝日新聞2022年12月10日夕刊5面。
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 <戦前>の思考・再考  1 終焉から奈落へ  核の冬に日本は餓死?

2022-12-09 22:43:57 | 日記
A.「戦前」こそ今か?
 柄谷行人の講演集である『<戦前>の思考』という本が出たのは、1994年2月、今から思えば28年も前である。たまたま書棚にあったこの本をひっぱりだすと、その「あとがき」にこうあった。

 「ここ数年来、「共産主義が終わった」、「五五年体制が終わった」というふうに、「終わり」が強調されてきた。しかし、そのようにいうとき、われわれは実は〈戦前〉に立っているのではないかと思う。実際、戦前においても、共産主義の終焉、自由主義の終焉、西洋の終焉、近代の終焉、そして世界最終戦争というふうに「終わり」のみが語られた。たぶん、人が「終わり」を口にするのは、じつは何かの「事前」に立っていることを直感しているからだろう。
 ただし、私が「〈戦前〉の思考」と呼ぶのは、そういう予感とは別のものである。わたしは本書のなかで、ものを考えるためには極端なケースから出発しなければならないと述べているのだが、「〈戦前〉の思考」とは、そのような思考実験である。実際に戦争があろうとあるまいと、自分を〈戦前〉において考えること。そのとき、文字通り戦前の思考が意味をもつ。それをたんに否定するのは不毛である。戦前を反復しないためには、「〈戦前〉の思考」が必要なのである。
 本書において、私は、将来の見通しとか解決策について語っていない。けっして「終わる」ことのありえない諸条件・諸矛盾を明確にしようとしただけである。それは解決の提示ではまったくない。しかし、今後においてどのような「解決」(終り)が唱えられようと、それが欺瞞でしかありえないことを示しえたと思う。わたしは悲観論者ではない。ただ、認識すること以外にオプティミズムはありえないと考えている。
 もちろん本書は(加筆したとはいえ)講演録だから、平易であるかわりに一種の単純化をまぬかれていない。本当は、もっと緻密に書かなければならないと思う。しかし、たぶん講演という機会がなければ、こういうことを発言しなかっただろう。また、それを活字にする機会がなければ、このような本は成り立たなかっただろう。その意味で、文藝春秋の吉安章氏に感謝したい。吉安氏は「文学界」編集部にいたころからこれらの講演のほとんどにつきあって、それを本にするように強く勧めてくれた。私は、講演においてと同様、本書を、専門的知識がないとしても真摯な知的・実践的関心をもつ読者に向けて出すことに決めた。1993年12月1日 」柄谷行人『〈戦前〉の思考』文藝春秋、1994年。pp.242-243. 

 今ぼくたちが生きている2022年の世界は、もはやすべてが一度終わった「戦後」ではなく、ウクライナで始まった戦争が、単なる局地的な、二国間の紛争に終わるものではなく、1940年代のような大きな戦争に突き進んでいくような予感がしてしまう。だとすれば、<戦前>の思考なるものは、今現在のぼくたちが見ている現実の危機にとって、参照すべきものがきっとあると思う。

「いわゆる冷戦構造、資本主義と共産主義の二元構造が決定的に終焉する以前から、われわれは、一つの相反する動きを目撃してきました。一つは、ソ連や東欧におけるナショナリズムの興隆であり、もう一つは、ヨーロッパ共同体のように一国単位のナショナリズムの興隆であり、もう一つは、ヨーロッパ共同体のように一国単位ナショナリズムを超えようとする動きです。まず、ナショナリズムは、これまで「共産主義」という理念によってネーション=ステートを超えてきたはずの地域に爆発的に起こっています。1990年の6月、私はサンフランシスコで文学者の世界会議に出席したのですが、そのとき、東南アジアの作家は当然としても、ソ連・東欧の文学者が露骨に示すナショナリズムにやや驚きました。それは、ウクライナで十数年も投獄されていたという作家が叫んだ言葉に代表させることができます。《私は人類である前にウクライナ人である》。これは、十八世紀後半にドイツのロマン派、ヘルダーがいった言葉と同じなのです。この作家はウクライナの文学がいかに古い起源をもつかを語りつづけました。
それに対して、フランス代表の一人、クリスティーヴェのいった言葉も印象的でした。彼女は、われわれは、個人よりもフランス人を、フランス人よりもヨーロッパ人を、ヨーロッパ人よりも人類を上位に置いたモンテスキューの精神に帰るべきだといったのです。いうまでもなく、彼女は「ヨーロッパ統合」に代表されるような理念、たかだか近代の産物に過ぎないネーション=ステートを超えるべきだという理念に立っています。すると、驚くべきことに、われわれは、1990年において、西欧の十八世紀後半の啓蒙主義者とロマン主義者の対立が変奏されている光景を目撃しているわけです。この対立は、「ヨーロッパ統合」論のなかにも見ることができます。たとえば、対話によって普遍性を確立しうるというハーバーマスと、多様な言語ゲームの工作しかないというリオタール。
しかし、現在生じていることは、こういう言葉で語られているものとは微妙に違っています。確かに、ウクライナやグルジアのナショナリストは、十九世紀のロマン派と同じ言葉で語っていますが、実は、そこに違った要素があり、「ヨーロッパ共同体」派がいうことと反対のように見えながら、むしろ相互につながっているのです。
たとえば、チェコ・スロバキアやユーゴスラビアが分解したりする場合、それらがマルクス主義的な「インターナショナリズム」の観念によって強制的に統合されていたからだと説明されています。しかし、それでは、イギリスでスコットランドが、イタリアで北部が、スペインでカタロニアが独立しようとする運動があるのはなぜでしょうか。これは、それらの国家がヨーロッパ共同体に属することによって、ネーション=ステートとしての統合を必要としなくなったからです。チェコやユーゴも同様だというべきでしょう。
他方、ヨーロッパ共同体にかんしていえば、それが実際に目指しているのは、労働力をふくめた共同市場の形成です。これは、暗黙に、アメリカと日本に対する市場防衛と、さらに、非ヨーロッパ系労働者の排除を意図するものです。むろん、これは一方的な動きではありえず、アメリカおよび東アジアにもそれに対する反動としての動きを生み出します。というより、ヨーロッパ共同体そのものがすでに、外部への一つの反動として構想されてきたのです。
 こうした事態を引き起こしているのは、トランスナショナルな資本主義の発展です。トランスナショナルという言葉は、インターナショナルとは別です。インターナショナルは、まずネーションがあって、それらが交差・交通することです。たとえば、国際連合はインターナショナルです。しかし、トランスナショナルは、ネーションの区別なしに交差・交通することです。近代の産業資本主義は、アダム・スミスがその著書を『諸国民の富』と題したように、「国民経済」として発展してきました。産業資本主義がネーション=ステートと結びついていることは、重要です。他のどの地域でも、産業資本主義はナショナリズムの運動、すなわちネーション=ステートの形成なくしてありえなかったのです。
 しかし、資本そのものはべつにナショナルではありません。たとえば、商人資本はトランスナショナルです。どこからでも差額としての利潤が得られればよいわけですから、江戸時代の商人もそうです。こういう商人資本的なブルジョアしかいないところでは、ブルジョア革命をやるのはブルジョアではなく、ナショナリストです。日本の場合は、武士がブルジョア革命をやった。第三世界では、多くの場合、社会主義的な軍人がそのような国民経済を保護し、育成しようとしてきました。そもそも「共産主義」と呼ばれるものもそのような国家資本主義の形態です。
 しかし、資本そのものの本質はトランスナショナルです。それは利潤(差額)が得られるのであれば、自国でよりも、他国で工場をつくるでしょう。つまり、資本主義は、本来的にトランスナショナルであるにもかかわらず、なおどこかの「国民経済」に根をおろしていなければならないという矛盾をもっているのです。八〇年代に顕在化してきたのは、こうしたトランスナショナルな資本主義の網目の拡大です。それは、一国単位で考えられるような経済を実質的に無効にしています。」柄谷行人『〈戦前〉の思考』文藝春秋、1994年。pp.8-11.

 28年前は、まだ世界はEUのような国家を超えたグローバル、つまりトランスナショナルな国際秩序が形成される方向と、それと並行して狭い地域や民族のナショナリズムを主張する動きが活発化していた。しかし今はどうも、資本主義的なトランスナショナルな交通が阻害され、偏狭なナショナリズムの言説が表に出て過激化する兆候があちこちで見られる。だからこそ<戦前>の思考を、考えてみる意味がある。


B.日本人は餓死で全滅という試算!
 核戦争の後の地球がどうなるか、これまでもさまざまな研究で恐ろしい事態が予測されるといわれてきた。しかし、それが当時国のみならず、周辺地域に悲惨な結果を生むのは間違いない。しかし、仮にヨーロッパで核兵器が使われるか、米ロ間で核攻撃が交わされても、日本はどちらにも遠い位置にあるので、戦争に関わらなければ、生き残るのではないかと漠然と思っていたが、それは現実を見ない甘い予想で、食糧や資源が絶たれたら、全員餓死の可能性が高いという。

 「米など研究チーム 「核の冬」最悪なら日本のほぼ全員餓死 核戦争による環境試算
 核戦争後に起きるとされる環境変動「核の冬」による食糧不足で、最悪の場合、世界で50億人以上が餓死する可能性があるとする試算を、米国などの研究チームが発表した。核爆発による被害を避けることができても、その後の気候変動による影響は地球規模に及び、人類は壊滅的な打撃を受けるという。食糧自給率の低い日本への影響は特に深刻だと警告する。
 核戦争による被害の試算は、冷戦時代から様々な研究がなされてきた。使われる核兵器の数などに不確実性が多いが、爆発によって大気中に待った粉じんが太陽光を遮り、地球規模で気温が下がる「核の冬」の到来が予想されている。
 研究チームは、核戦争のシナリオとして、インド―パキスタンによる局地戦と、米ロによる各国を巻き込んだ世界大戦の2パターンを想定。各地で起きる気温低下と農作物や漁獲量への影響などを分析した。
 前者の想定では、使われる核兵器の数や種類の違いで粉じんの量を500万~4700万㌧の5段階に設定。米路線では、広島型原爆の5~6倍の威力にあたる100トン級の核兵器が4400発使われる「最悪ケース」を想定した。
 その2年後の世界の食料生産を試算すると、局地戦ではカロリー換算で7~48%減少、米ロ戦では同80%以上も減った。
 世界的な食料危機で国際取引が停止されると、餓死者は最小でも2億5千万人、米ロ戦では50億人を超えると見積もった。試算した米ラトガース大のリリ・シア助教は「核戦争は防がなければならない。紛争に巻き込まれた国だけでなく、誰もが影響を受けることになる」としている。
 食料自給率の低い日本は、特に被害が深刻だ。
 試算によると、粉じんが最も少ないケースでも、国際取引が止まれば年後に人口の約6割にあたる7千万人が餓死するという。この条件では食料自給率が高いと餓死者がない国も多く、日本だけで世界の約3割を占めることになる。
 さらに、米ロ戦が起きた場合は、日本の人口のほぼすべてが餓死するという。ラトガース大のアラン・ロボック特別教授は「分析結果は、日本が核兵器禁止条約を批准し、米国の『核の傘』への依存をやめる必要があることを示している。もし使われることがあれば、日本にとって自殺行為になる」とコメントした。 (小林哲)」朝日新聞2022年12月8日夕刊4面、エコ&サイエンス。
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日本は戦争をするのか 6 自衛隊制服組は何を考えている? アメリカの公式

2022-12-06 20:59:30 | 日記
A.日本軍への断絶と郷愁
 日本の旧帝国陸海軍の軍人だった人はもうほとんど亡くなっている。日本陸海軍が、昭和に入って政治の中枢に関与し、軍人あるいは退役軍人が大臣や政府要職に就き、破滅的な大戦争に突入して敗北消滅したことは誰でも知っている事実。軍人が国家を牛耳って戦争にまい進する結果なにが起こるか、戦後の日本はこれを教訓として、日本はもう軍備軍隊は持たない、持たなければ戦争はできないという憲法9条を受け入れた。しかし、東西冷戦の対立から朝鮮半島で戦争が起こり、旧軍の復活を企む右翼勢力と日本を戦争に協力させたいアメリカの意向もあり、警察予備隊、そして自衛隊という軍隊(のようなもの)ができた。ただ憲法9条があるので、自衛隊は軍隊ではない、他国が侵略していた場合に国土国民を守るだけ(個別的自衛権)の武力を用意するのだと理屈をつけた。その後しばらく自衛隊は国民からなにか昔の日本軍を連想する人にはいかがわしい存在(税金泥棒などと言われたこともあった)、旧軍を知らない若者にも戦争ごっこをするだけの頼りない存在で、あまり人気はなかった。ぼくが高校生の頃は、防衛大学志望とか自衛隊への入隊を考える人はいたが、そんなのやめとけと言われるか、おまえ右翼か、と白い目で見られた。
 しかし、いま自衛隊は立派な仕事をしている公務員だと国民一般の評価を高めている。それは、大震災をはじめ各地で被害甚大な災害が起こると、駆けつけて被災者を援ける姿が報道され、警察や地域行政では手に負えそうもない救援復興を、まさに泥にまみれてやっているのが自衛隊だと思っているからだ。自衛隊がいなかったら確かに被害は拡大するだろう。しかし、災害の救助・復興は、自衛隊本来の活動任務ではない。戦争に活用する飛行機、艦艇、銃砲等装備を備え、それらを操る自衛隊員を養成訓練しているのは、いざという時、つまり戦争するために防衛費を費やしているのだ。では、自衛隊の幹部、つまり旧軍でいえば陸軍では参謀本部・陸軍省、海軍では軍令部・海軍省といった中枢の軍人にあたる人たちは、現在の自衛隊をどう考えているのだろう?
 旧陸海軍が国政を壟断して戦争になった過去を反省し、いまの自衛隊はあくまで政治的決定や防衛政策に直接関わらない国家の道具であって、文民である政府官僚の統制下にある「シビリアンコントロール」を原則としてきた。しかし、制服組は自分たちに指示を与える政府与党の政治家や官僚のことを信頼しているのだろうか。そのへんを防衛大学という場所からみると、興味深い。

 「自衛隊のエリート幹部はどのように生まれるのだろうか。
 神奈川・三浦半島の東南端、小原台。東京湾を見おろす絶好の場所に将来の幹部自衛官を養成する防衛大学校がある。卒業生は約二万五千人。旧軍出身者が定年退官した後、陸海空各自衛隊のトップである幕僚長は防衛大学校卒業生が独占してきた。一般大学の卒業者では東大卒以外、将官にさえなれない。
 太平洋戦争で旧日本軍の侵略行為を正当化する論文を公表し、2008年十月に更迭された田母神俊雄航空幕僚長は第十五期生の一人だった。翌月、日本防衛学界の研究大会が防衛大学校で開かれ、シンポジウムで「田母神問題」が取り上げられた。
 森本敏拓殖大学教授(防大九期)は「文民統制への信頼をつぶした」と批判し、竹河内捷次元統合幕僚会議議長(同)は「歴史や社会現象は単純ではない」と苦言を呈したが、自衛隊の「教育」に言及する意見はなかった。
 毎年、入学する防大生に配られる「必読資料集」には歴代校長の講話が採録されている。第四代校長だった土田国保氏(元警視総監)が1984年入学の三十二期生に行った講和のテーマは「愛国心」だった。
 終盤、唐突に「戦後の精神的な空白のすき間に、突出してきたのがマルクス・レーニン主義であります」と語る。階級なき社会をつくり、国家を消滅させる思想と断定し、「こういう見方が日教組(日本教職員組合)を中心に、戦後の教育界に大きな影響をもたらし、現在でもその尾を引いている」と続く。
 愛国心が薄いのは教育や日教組に原因がある、との主張である。幹部自衛官が「国民の愛国心」を語るときの論法と見事に一致している。
 2003年7月、航空自衛隊幹部の登竜門である幹部学校幕僚課程の選抜第一次試験があった。論文のテーマは「愛国心」だった。
 試験後の所見で、主任試験官の一等空佐は「ごく一部の受験生において、戦後のいわゆる自虐史観教育による影響から抜け切れず、その考え方を是とした者がいたのは極めて残念であった」とした。この所見から「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」(1995年「戦後五十年の終戦記念日にあたって」、『村山談話』)との歴史認識を背景にした答案は低い評価を受け、合否に影響したのではないかとの疑念を抱かせる。
 選抜第二次試験で主任試験官の別の一佐は「防衛問題(専守防衛、攻勢作戦、武器輸出三原則など)は高等教育を授かった受験者ほど、従来の枠組みの中での発想しか見られず、意気込みを感じることが少なかった」と評した。
 憲法九条や国是に沿った「従来の枠組み」に基づく答案は評価されず、専守防衛を否定し、武器輸出三原則の見直しを主張するような答案が高い評価を受けた可能性がある。
 自衛隊の教育は「現場任せ」である。過去の侵略戦争を正当化し、今の憲法は不自由だと不満をいう防大出身の幹部は少なくない。安倍首相の主張と幹部自衛官たちの考えに共通項が多いのだとすれば、憲法解釈を変更し、海外で武力行使することに共鳴する幹部が出てきたとしてもおかしくない。
 自衛隊が暴走せず、むしろ自重しているように見えるのは、歴代の自民党政権が自衛隊の活動に憲法九条のタガをはめてきたからである。その結果、国内外の活動は「人助け」「国づくり」に限定され、高評価を積み上げてきた。政府見解が変われば、自衛隊も変わる。冷戦後、国内外の活動を通じて力を蓄えた自衛隊を生かすも殺すも政治次第である。

 安倍晋三首相が解禁を目指す集団的自衛権の行使について、防衛省の官僚や幹部自衛官はどう考えているのだろうか。
 防衛政策を担当する背広組の一人は「これまで自衛隊と憲法の問題が議論されたときには、具体的な自衛隊の海外活動が予定されていた。例えばカンボジアのPKO参加とか、イラク派遣とか。今回は予定される行動がなく、極めて分かりにくい議論になっている」という。「尖閣諸島の問題など、身近で可能性が高いことで自衛隊の活動に穴がないか、検証すべきではないか」とも話す。
 制服組には賛否両論がある。「自衛隊法に国際平和協力活動があるのだから、日本が他国の軍隊並みの活動をするのは当然のこと」という賛成派もいれば、「これまで地道に積み上げてきた武力を使わない国際貢献策に磨きをかけるべきだ」との反対派もいる。
 人数を数えたわけではないが、海外で武力行使することによる自衛隊内部への影響を心配する声は多い。「良質な若者が集まらなくなるのでは」「自衛隊がどう変化するのか想像もつかない」との声は複数から出た。不安は「当事者」だからである。
 しかし、安倍政権において安全保障問題で主導権を握るのは防衛省ではなく、外務省である。新設された日本版NSCの谷内正太郎局長、集団的自衛権行使を議論する有識者懇談会(安保法制懇)の柳井俊二座長の二人は外務事務次官を経験している。首相の有力ブレーンの北岡伸一国際大学長は外務省の有識者会議の座長を務め、国連代表部次席大使にもなった外務省寄りの人物である。
 外務省と防衛省との対立は国連平和維持活動(PKO)協力法が制定された1991年当時から続く。自衛隊の海外活動を通じて、日本の国際的な評価を高め、国連安全保障理事会の常任理事国入りをめざす外務省に対し、防衛省は「外務省の道具ではない」と反発してきた。
自衛隊初の「戦地覇権」となったイラクへの派遣では、部隊の安全確保のために外務省所管の「草の根無償資金協力(ODAの一つ)」を使いたい防衛省が外務省に現地事務所の設置を求めた。陸上自衛隊サマワ宿営地の一角に「外務省在サマワ連絡事務所」が置かれ、五人の外務省職員が常駐した。
 それでも外務省がカネを出し渋るとみるや、サマワから佐藤正久(現参院議員)が直談判のため、ひそかに一時帰国したこともあった。
 阪田雅裕元内閣法制局長官は「集団的自衛権の行使を認めろ、というのは霞が関で外務省だけ」という。その外務省と安倍首相が相思相愛の仲なのである。
 首相は2013年8月27日、ソマリア沖の海賊対処のための海上自衛隊の拠点があるアフリカのジブチを訪れた。外務省が組んだ日程は滞在わずか三時間。この中に大統領との会見、日本の「すしざんまい」社長の表敬などを入れたため、海上自衛隊の拠点では昼食と視察だけで終わった。海賊対処の現場まで行きながら、護衛艦やP3C哨戒機に乗って自衛隊の活動をその目で見ようとはしなかった。
 現地に行っただけ、まだましかもしれない。イラク派遣を命じた小泉純一郎首相は、「非戦闘地域」にいるはずの自衛隊を視察することは一度もなかった。米国、英国、韓国のそれぞれの大統領や首相は、いずれも複数回、激励のため部隊を訪問している。
 日本のある防衛相などは三度、イラクの部隊訪問を計画して、三度とも出発のその日にドタキャンした。首相官邸のスタッフは「『いってもいいでしょうか』となぜか、その都度、聞いてきた。『だめだ』と言ってほしかったのでしょうね」と苦笑する。三度目には、ヘリコプターを用意していた米軍から「お前の国の政治家は何なんだ」と陸上自衛隊が文句を言われるはめになった。
 安倍晋三首相について、忘れられない出来事がある。2007年9月、私は海上自衛隊による米艦艇への洋上補給を取材するため、アラブ首長国連邦にいた。すると「大変です」と一等海佐がホテルの部屋に駆け込んできた。
 テレビには、視線を落とし、首相辞任を表明する安倍首相。米大統領と会って給油活動の継続を約束し、記者団に「対米公約というより対外公約だ。それだけ私の責任は重い」と言い切ってから、わずか四日後の出来事だった。
 参院選挙に民主党に惨敗して小沢一論代表に会談を拒否され、政権を放り出したのである。のちに持病の悪化と説明したが、それならなおさら、退陣直前に「対外公約」などするべきではなかった。
 補給艦乗員の落胆ぶりは気の毒なほどだった。「みんなショックを受けた」「現場で議論しても仕方ない」。活動は続いたが補給量はみるみる減少。民主党政権になって終了した。
 自衛隊は政治家が統制する「シビリアンコントロール」を受けている。最高指揮官は首相、防衛相が統括する。首相や防衛相にその覚悟と責任感はあるのだろうか。海外へ送り出すことには熱心でも「後はよきに計らえ」が日本のシビリアンコントロールである。
 集団的自衛権の行使に踏み切っても、犠牲になるのは自衛官であって政治家ではない。「人命軽視」「責任回避」は旧日本軍の専売特許だったが、現代の政治家にも当てはまるのかも知れない。」半田 滋『日本は戦争をするのか ――集団的自衛権と自衛隊』岩波新書、2014年、pp.195-203.

 田母神俊雄元航空自衛隊幕僚長が、旧軍の侵略行為を否定するような論文を発表して罷免されたとき、ああやはり自衛隊制服組の幹部には、戦前の軍人に共感を寄せ、日本のやった戦争まで正当化しようと考える人がいるんだな、と驚いた。田母神氏はぼくと同年齢で、ぼくらが高校3年生だった時代の雰囲気の中で、防衛大学に進学した人だから、戦後民主主義的な言説に嫌悪や反発を感じていたのだろうと思う。自衛隊幹部がみなそう考えているとも思わないが、「国家の武力道具」としてだけの肩身の狭い自衛隊の存在に不満を持つ自衛官には、安倍晋三という政治家は寄り添ってくれる人に見えただろうし、その防衛政策は自衛隊を太らせてきた。しかし、いまの自衛隊は、国家国民を守るといいながら、半分はアメリカのために働いていて、仮に台湾有事の際には、米軍と一緒に海外で戦争をする可能性がある。それは明らかに憲法にも自衛隊法にも想定されていない事態だ。安倍政治を引き継ぐ岸田政権は、そこまでやる覚悟があるのか。「敵基地攻撃能力」を自衛隊が持てば、軍隊ではない「自衛」隊が、自衛でない戦争をやることになり、自衛隊員は死ぬこともあるのだ。日本人はそこまで考えて自衛隊をつくったとは思えない。


B.この国はなんのためにあるのか?
 近代国民国家、ネーション=ステートというものは、自然発生的にできたわけではなく、昔からあるものでもない。ヨーロッパで王や教会といった中世以降のさまざまな地域権力のありようが、深刻な危機や崩壊に直面して、共同体を超えた「想像上の共同体」として民族や国家という観念が、まずは文化的に提起され、それがナショナリズムというロマン派的情念を帯びて19世紀初めにできあがったのが近代国民国家、だとすると、日本の場合も、江戸時代は全国は三百余りの幕藩制統治権力のもとにあって、ひとつの国民的統一国家ではなかった。それが帝国主義列強の侵略の脅威が現実になった時に、尊王攘夷という文化的ロマン主義的イデオロギーが登場して、薩長勢力が幕府を倒し明治国家が誕生した。しかし、日本はたしかにそれから50年ほどでいちおう近代国民国家にはなったけれど、この国はなんのためにあるのか?明確な「戦略思考」を立てたことはあっただろうか?ただ、天皇の名の下に周辺民族を侵略し併合し、西欧帝国主義の真似をして富国強兵で領土の拡大に走っただけではないか。でもそれは、日本だけではなくほとんどの国が、ただなんとなく過去の伝説や歴史物語を捏造して、自己中心的なナショナリズムを鼓舞していただけではないか。ただし、アメリカ合衆国だけは、過去を持たない人工国家として独立宣言や建国の父の発言が残っていて、これは神話や伝説とは違って、つねに参照できる。こういう国は珍しいと内田樹氏は書いている。

 「アメリカの原点 :神戸女学院大学名誉教授・凱風館館長 内田 樹 
 私の主催する学塾凱風館で米国を主題に一年間ゼミをした。そこでの私の発言をまとめて一冊本にした。十七年前にも同じようにして「街場のアメリカ論」という本を出したが、二つを比べると一番変わったのは、今回はもっぱら米国の「戦略思考」に焦点化して論じたという点である。
 「戦略思考」とは聞きなれない言葉だと思うが、その国のありようを深層で規定している根源的な趨向性のことである。トルコの国際政治学者アメフト・ダウトオールは一国のふるまいを理解するためには「地理的歴史的深みの次元」に達することが必要だと説いている。そして、ある集団が何を感じ、何を考え、どうふるまうかを決定する「地理的歴史的深みの次元」を「戦略思考」と名づけた。
   ◇    ◇    ◇ 
 ロシア人は「ロシアはいかにあるべきか」を考え、中国人は「中国はいかにあるべきか」を考え、米国人は「米国はいかにあるべきか」を考える。当たり前の話だが、米国が例外的なのは、長い年月をかけてゆっくり形成された国ではなく、「こういう国をつくる」という明確な意志を持った人々が建設した国だということである。三百年ほど歴史を遡るだけで、私たちは「米国の原点」にたどり着き、「建国の父たち」に出会い、彼らの起草した「米国はかくあるべき」という文書を読むことができる。
 こんなことができる国は他にない。ロシア人に「建国者」は誰かと訊けば、ある人はピョートル大帝だと答え、ある人はエカテリーナ二世だと答え、ある人はレーニンだと答え、プーチンだという人だっているかも知れない。中国人に同じ質問をしたら、尭舜と答える人もいるだろうし、武帝だ、高祖だ、チンギスハンだという人もいるだろう。いや孫文だ、毛沢東だという人もいるかも知れない。全員が一致することはまずない。それが普通である。でも、米国は違う。米国にはワシントンやフランクリンやジェファソンのような固有名を持った「建国の父」がおり、彼らの建国の素志を述べた独立宣言があり、憲法制定過程の議論を詳述した『ザ・フェデラリスト』のような文書まである。米国はどのような国であるべきかを論じるときに常に立ち帰ることのできる「原点」が存在するのである。
  ◇   ◇   ◇ 
 もちろん原点があっても、それだけで国民の意見が一致し、幸福な和解が成立するということはない。けれども、国民が分断された時、国難的時局に遭遇した時、そのつど帰趨的に参照することのできる「米国はどうあるべきか」を示す原点的文書が残っているということの利点はまことに大きいと思う。米国には「独立宣言なんか空語だ」とか「憲法は現実と乖離しているから会見しろ」(事実、合衆国憲法八条十二項は「常備軍を持たない」と規定している)というようなことを言う人がいない。探せばいるかも知れないけれど、彼らが社会的影響力を持ったことは過去にもなかったし、これからもないだろう。
 「戦略思考」が明文化されていること、それが米国の国力の源泉だと思うという話を米国論に書いた。
 「戦略思考」と呼べるほどに鮮やかな輪郭を持った指向性を持たない日本人から見ると、率直に言って本当に羨ましい。」東京新聞2022年12月4日朝刊5面、「時代を読む」欄。
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日本は戦争をするのか  5 公明党の変質  戯画を演じる議員

2022-12-03 19:54:51 | 日記
A.もはや「平和の党」などではない
 自民党の保守政治とは一線を画し、反戦平和を唱えていたかつての公明党は、長く続いた自公政権の与党暮らしですっかり原点も理念も喪失したようだ。2020年8月に、公明党の山口那津男代表は、「政府は敵基地攻撃能力は持たないと一貫し述べてきた。大変慎重に議論しなければならない」と強調していたのに、今回は大きな異論も出さずに自民党に同調して敵基地攻撃能力保持の軍拡に同意した。新聞報道では、党幹部には慎重論があったが、若手・中堅を中心に容認に動いたという。支持母体である創価学会も「国民に不安が広がっている」としてこの動きに理解を得られるとした。結局、池田大作氏以来、法華経と日蓮の精神で人々の平和と幸福をもたらそうという公明党の理想は捨て去られた。もはや権力の座に味を占めた公明党の若手・中堅議員には、あの戦争中に軍国主義に抵抗して投獄された第2代会長戸田城聖の不屈の戦いなど、知る由もない時代になっているのだろう。公明党だけの話ではない。多くの国民も政治家も、北朝鮮や中国が明日にもミサイルを飛ばして日本に襲いかかるという妄想に、現実の国際関係や軍事情勢を冷静に省みる余裕を喪失して、ただ自衛隊をもっと強くしなければ、という自公政権(+維新、国民民主など)の声高な主張に同調している。この流れはもはや押しとどめられないのか?どうしてこんな時代になってしまったのか?

 「朝鮮半島危機から今日(*本書の2014年時点)までに、北朝鮮は三回の核実験を実施し、長距離ミサイルの発射試験にも成功した。このタイミングで安倍首相は集団的自衛権の行使容認に踏み切ろうとしている。仮に米国が北朝鮮攻撃を行うとすれば背中を押すことになる。米国からミサイル防衛システムを導入したことも北朝鮮からのミサイル攻撃を食いとめられるとの口実になるので米国にとって好都合に違いない。
 では、日本は北朝鮮攻撃を一度たりとも考えたことがないのだろうか。敵の出撃、発信拠点を目指し、これを攻撃するのは「敵基地攻撃」と呼ばれ、国会で何度も議論されてきた。専守防衛でも可能な攻撃の形態で、以下のような国会答弁がある。
 「わが国に対して急迫不正の侵害が行われ、その侵害の手段としてわが国土に対し、誘導弾等による攻撃が行われた場合、座して自滅を待つべしというのが憲法の趣旨とするところだというふうには、どうしても考えられないと思うのです。そういう場合には、そのような攻撃を防ぐのに万やむを得ない必要最小限度の措置をとること、たとえば、誘導弾等の基地をたたくことは、法理的には自衛の範囲に含まれ、可能であるというべきものと思います」(1956年2月29日衆議院内閣委員会、鳩山一郎首相答弁船田中防衛庁長官代読)
 発射が差し迫った弾道弾(ミサイル)基地を攻撃する能力を持つのは自衛の範囲で可能との趣旨である。1990年代以降、北朝鮮による弾道ミサイルの発射が繰り返されるたび、国会で敵基地攻撃能力の保有が議論になった。自衛隊は弾道ミサイルを撃ち落とすミサイル防衛システムを備えているが、100%の迎撃は望めない。迎撃の網から外れた地域は丸裸も同然である。「座して自滅を待つ」よりは打って出ようというのだ。
 だが、敵基地攻撃能力の保有には、いくつもの問題点がある。そのひとつは専守防衛のもと、防衛力整備、すなわち武器購入を続けてきた自衛隊は攻撃的な武器体系になっていない点にある。他国の基地を攻撃するのは、もっぱら米軍の打撃力を期待することになっている。
 それでも防衛省は一度だけ、本格的に北朝鮮のミサイル基地攻撃を検討したことがある。1993年、北朝鮮東岸からノドン一発が発射され、日本海に落下したときのことだ。日本列島全域を射程圏に収めることから危機感を持った運用担当の背広組、制服組が集められ、極秘に攻撃の可否を検討した(「北朝鮮基地攻撃を研究93年のノドン発射後、防衛庁 能力的に困難と結論」2003年5月8日『東京新聞』『中日新聞』朝刊)。
 その結果、F1支援戦闘機とF4EJ改戦闘機に五百ポンド爆弾か、地上攻撃用に改造した空対艦ミサイル(ASM)を搭載することで限定的な攻撃が可能との意見が示された。だが、①地対空ミサイルを撹乱する電子戦機がない、②F1支援戦闘機は航続距離が短く、攻撃後、操縦士が日本海で緊急脱出するしかない。③F4EJ改戦闘機についても航続距離を考えると石川県の小松基地しか使えない――などの結果、戦闘機と操縦士を失う可能性が極めて高いことが分かった。
 米国を参戦させるには、犠牲を払ってでも攻撃に踏み切る覚悟がいるとの意見もあったが、検討会では「北朝鮮の基地を攻撃するのは困難」と結論づけ、極秘の検討会は解散した。以後、具体的な敵基地攻撃の検討は行われていない。
 だが、あきらめたわけではない。その後、航空自衛隊は敵戦闘機を監視する早期警戒管制機(AWACS)や自衛隊の戦闘機が長距離を飛行するための空中給油機を保有した。精密爆撃はGPSやレーザー光線で正確に目標に命中する精密誘導爆弾(JDAM)の配備も始めている。相手国の防空レーダーを無力化する電子妨害装置の開発も進み、F15戦闘機に搭載する計画が進む。専守防衛の看板を掲げながら、攻撃的な兵器体系を持ちつつあることは間違いない。
 敵基地攻撃に必要な能力とは何だろうか。2003年3月26日の参院外交防衛委員会で守屋武昌防衛庁防衛局長は、①敵のレーダー破壊能力、②航空機の低空進入能力、③空対地誘導弾又は巡航ミサイル、④敵基地に関する正確な情報収集能力の四つを必要とする、と答弁している。
 自衛隊が保有していない巡航ミサイルとは、精密誘導ミサイルのことで、艦艇や航空機から発射され、目標に性格に命中する。地形を読み取りながら飛ぶため、偵察衛星からの地形情報を通信衛星などを通じて入手する必要がある。日本は偵察衛星を四基保有しているが、巡航ミサイルを誘導できるほどの精度は持っていない。自衛隊が巡航ミサイルを保有するには高い壁がある。
 そもそも北朝鮮の大半の軍事施設が地下化しており、ミサイル基地も例外ではない。日本を射程に収めるノドン、西日本の一部にまで届くスカッドCとも、車載された移動式で発射のために引っ張りだされるまでは、どこに隠されているのか知りようがない。④の「正確な情報収取能力」は不可能ということになる。巡航ミサイル、偵察衛星を保有するため、巨額の防衛費を投じても、効果をあげる保証はどこにもない。
 日本が巡航ミサイルを保有すれば、専守防衛から先制攻撃へと防衛政策の軸足を移したとみなされ、中国、韓国など周辺国は日本への対抗措置を迫られることになる。日本を起点とする「軍拡のドミノ倒し」である。米国も日本が地域の緊張を高める事態を歓迎するだろうか。
 1993年の北朝鮮による核拡散防止条約(NPT)脱退の表明に対し、米国が計画した寧辺の核開発施設への空爆。日本は「集団的自衛権の行使は禁止されている」として米側から求められた1059項目の対米支援を断った。これにより日米関係は悪化、双方の官僚らが主導して1996年に日米安保共同宣言をまとめ、翌年のガイドラインにこぎつけた。 
 その総仕上げが1999年5月の周辺事態法の制定である。日本周辺で戦争が起こり、「そのまま放置すれば我が国に対する直接の武力攻撃に至るおそれのある事態」を周辺事態と称し、対米支援を可能にした。「守り」に徹した自衛隊による「K半島事態対処計画」と異なり、「攻め」への意識が表面化したといえる。
 朝鮮半島で戦争する米軍を、どうすれば憲法の枠内で支援できるのか。「憲法の番人」と呼ばれる内閣法制局が生み出した概念が「非戦闘地域」である。自衛隊による米軍支援を地域で区切ることにより、合憲とする考え方だった。
 周辺事態法は自衛隊の活動する地域を「後方支援地域」と名付け、その後方支援地域について、「我が国領域並びに現に戦闘行為が行われておらず、かつ、そこで実施される活動の期間を通じて戦闘行為が行われることがないと認められる我が国周辺の公海(海洋法に関する国際連合条約に規定する排他的経済水域を含む。以下同じ。)及びその上空の範囲をいう」(周辺事態法第三条三項)と規定した。
 米国を支援できるのは後方支援地域、つまり「日本の領域と日本周辺の非戦闘地域」とされ、自衛隊は非戦闘地域で米軍への補給、輸送、修理及び整備、医療などが実施できるようになった。地方自治体や民間も「港湾・空港の使用」「公立・民間病院への患者受け入れ」などで協力を求められることになっている。
 周辺事態法の規定をみると、戦争遂行に必要な支援項目が並んでいる。禁止されている活動として、武器・弾薬の提供、戦闘作戦行動のために発進準備中の航空機に対する給油及び整備を明記しているのは、「武力行使との一体化」を慎重に避けたからである。
 しかし、国際常識に照らせば、戦争中の米軍への補給、輸送は地域に関係なく武力行使との一体化そのものと言える。米国と戦争をする相手国が日本を攻撃する必要かつ十分な理由になり得るだろう。
 自衛隊は周辺事態法の成立を受けて、演習を開始した。 
 それまでロシア(旧ソ連)を仮想敵とし、感染や航空機による洋上決戦の訓練を繰り返してきた海上自衛隊は1999年9月、初めて「周辺事態」に備えた大規模な図上演習(CPX)に踏み切った。図上演習は、部隊を動かすことなく、上級幹部の判断力を養い、四季の訓練に役立つため、各国の軍隊でとり入れられている。
 東京・目黒の海上自衛隊幹部学校に海上幕僚監部、自衛艦隊、地方総監部などの幹部自衛官約三百人が集まり、四日間にわたって行われた。北朝鮮が軍事境界線を越えて韓国に侵攻し、米軍と韓国軍が応戦を開始。国会が「周辺事態」を認定し、自衛隊の活動を承認したとのシナリオで始まった。
 「周辺事態」の発動を受けた部隊の運用は多岐にわたり、まず大型輸送艦「おおすみ」や護衛艦が神奈川・横須賀基地、京都・舞鶴基地などから、韓国からの邦人輸送に出発。イージス護衛艦が弾道ミサイル探知のため日本海で待機する一方、日本近海にまかれた機雷を除供するため掃海艇も出動した。
 さらに不審船の登場で海上警備行動が発動されたとの想定も加わり、北朝鮮に向かう外国船舶に対する船舶検査も実施した。日本海に進出した米空母キティホークをはじめとする米海軍第七艦隊への物資輸送や洋上補給も盛り込まれた。
 演習最終日には「周辺事態」の終了が宣言され、演習も終了。ソ連海軍に対し、海上自衛隊の「勝ち」で終わるのが慣例だった往年の洋上決戦型の演習と違って、勝敗のない幕切れに戸惑う参加者もいたとされる。
 翌十月の実働演習は、図上演習の成果を踏まえ、邦人救出や米軍支援が日本海などで実施された。政府は「地理的な概念ではなく、事態の性質に着目した」と説明したが、「周辺事態」とは朝鮮半島有事であることがあらためて証明されたのである。
 周辺事態を想定した演習には、日本への侵攻に対抗する従来の戦闘型の訓練と違って、ミサイルや大砲は登場しなかった。緊張段階とはいえ周辺事態は平時だからである。海上自衛隊幹部の中から「海上自衛隊本来の戦闘訓練でなくていいのか」と不満の声もあったが、別の幹部は「肝心なのは周辺事態という応用問題を解く柔軟性を身につけることだ」と話し、邦人輸送や機雷掃海、米軍支援といった同時進行する事態に対処することの重要性を強調してみせた。
 陸上自衛隊は海上自衛隊から四カ月遅れて2000年2月、朝鮮半島有事が発生し、国内に潜入した武装ゲリラを掃討するという想定の大規模な図上演習を実施した。周辺事態か否かとは別に、自衛隊法の「治安出動」を根拠に出動したが、「十分な対処が困難」(陸上自衛隊幹部)なことは分かりきっていた。
 陸上事例体の狙いは、朝鮮半島有事が発生し、政府が「周辺事態」と認定した場合、国内に武装ゲリラが侵入する可能性が大きいと判断して「領域警備」の法制化論議の加速を政治家に突きつける狙いがあったのである。
 図上演習は、「陸上自衛隊演習」と呼ばれ、十日間にわたり、陸上幕僚監部、各方面隊や各駐屯地で幹部自衛官約4500人が参加して行われた。
 シナリオはこうだ。北朝鮮が軍事境界線を越えて韓国に侵攻し、朝鮮半島有事が発生。弾道ミサイルが九州、中国地方に撃ち込まれる一方、武装ゲリラが日本国内に潜入した。陸上自衛隊は首相の治安出動命令を受け、武器を持って出動した……。
図上演習では、原子力発電所など重要施設を占拠したり、市街地にひそむ武装ゲリラをどのように一掃するかも課題となった。武装ゲリラに対する訓練は防衛出動時の補給処襲撃などに備えて行われてきたが、治安出動時を想定するのは初めて。本来、治安出動は国内の騒乱防止が目的で、武装勢力への対処を想定していないためだ。
 図上演習では、自衛隊法で定められた「治安出動時の権限」を受けて武器使用を正当防衛と緊急避難に限定し、相手の武器に相当する武器で対処する「警察比例の原則」も適用した。姿を見せない武装ゲリラの武器を特定することが困難なうえ、「今の法律では陣地をつくれず、穴ひとつ掘れないという不備を認識した中で訓練しないといけない」(磯島恒夫陸上幕僚長)という制約があることをあらためて確認した。
 陸上自衛隊には、平時に領土領海を守る「領域警備」の制度化論議を活発化させたい思惑があった。彼らにしてみれば、蓋然性が高い危機に対応するため、必要な策を示したに過ぎない。しかし、「領域警備」は政治家が決断する防衛出動や治安出動と異なり、事前に権限を与えられた制服組の判断で活動できるため、国会では「シビリアン・コントロールに反する」との慎重論が強かった、結局、問題提起は空振りに終わった。
実は第二次安倍政権こそが制服組の考えを受けとめている。安倍首相は自らが人選し、解釈改憲の関東を命じた私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(安保法制懇)」の2月4日の会合であいさつし、検討すべきテーマとして以下を支持した。
①我が国に対する武力攻撃が発生した事態でなければ、防衛出動による自衛権の発動としての武力の行使はできない。
②他方、例えば、潜水航行する外国潜水艦が領海に進入してきて、退去の要求に応じない場合や、本土から離れた離島や海域で警察や海上保安庁だけでは速やかに対応することが困難な侵害など、いわゆる「グレーゾーン」の事態への対応の必要性が認識されている。
③自衛隊が十分な権限でタイムリーに対応できるかといった面で法整備によって埋めるべき「隙間」がないか、十分な検討が必要である。」半田 滋『日本は戦争をするのか ――集団的自衛権と自衛隊』岩波新書、2014年、pp.151-162.
 

B.なにも反省などするはずがない
 選挙で選ばれる議員が、みんな高い知識と品格を持ち、国民と国家のために誠実に政治活動に励んでいる、と思う人はあまりいないだろう。選挙で当選するには、一通りの学歴や経歴と政治理念のごときものを公表し、有力政党の推薦を受けて選挙区内の有力者につながり、選挙運動を手伝ってくれる支持者を増やす必要がある。親代々の地盤がある候補なら、それに乗って自分をアピールすればいいが、何も実績のない新人候補は、なにを売りにするか。気まぐれな無党派層から票を得るには、知識や品格など選挙では無用だし、政策の公約だってあまり聞いてはもらえない。とくに比例区の名簿に載って当選した議員というのは、所属する大政党の幹部の御威光だけが頼りになる。
 政治家としてなんの実績もなかった杉田水脈という女性が当選できたのは、安倍晋三とその周辺にいる権力者たちに気に入られた言動のゆえだったと推測される。いま問題になっている女性やマイノリティへの差別や、左翼リベラルへの嫌悪、極右的心情を語って恥じない女、という点が安倍氏には魅力的に映ったのだろう。男性議員がそのような言動をすれば、メディアをはじめ一般世論からも、囂々たる非難が起こることは彼らも知っている。いかにも古臭いオヤジの発言は、森喜朗氏に代表されるマイナスイメージを喚起するのだが、杉田氏は見た目もまだ若そうな女性である。それがフェミニズムを目の仇に攻撃する姿は、自民党内で喝采される。彼女はなぜそうした考えを抱くに至ったのか?それはそれなりに個人的な経緯があるのだろうとは思う。しかし、彼女はそれを唱えることで議員になれたのだから、もうこの路線しかないのだ。そしてそれは、初めから時代とはズレている。

 「社説:かばう首相も問われる 杉田政務官
 過去の差別発言の一部を謝罪、撤回したとはいえ、大臣の支持によるものだ。本心から反省しているとは、とても見えない。政府の職を担う資質の欠如は明らかだ。かばい続ける岸田首相の姿勢が厳しく問われる。
 松本剛明総務相が昨日の記者会見で、杉田水脈総務政務官に対し、就任前の二つの発言について、傷つけた方々におわびし、撤回するよう指示したと明らかにした。杉田氏はその後の参院予算委員会で、「内閣の一員として、指示に従い、謝罪、取り消す」と答弁した。
 女性差別撤廃に関する2016年の国連総会で、参加した在日コリアンらを「チマ・チョゴリやアイヌの民族衣装のコスプレおばさんまで登場」とした自身のブログへの書き込みと、月刊誌への18年の寄稿で、同性カップルを念頭に「子供をつくらない、つまり『生産性』がない」と評した部分である。
 人権感覚を著しく欠き、多様性を尊重しようという社会の流れにも逆行する。国会議員としての適格性も疑われる発言だ。
 2日前の同じ参院予算委では、ブログについて「当時は一般人で、このような感想を持つことは仕方がない」と開き直っていた。生産性発言も、後に「不適切な記述」と認めたが、謝罪や撤回はしてこなかった。
 今になって態度を一変させたのは、国会質疑で野党の厳しい追及が続いたことから、火消しを急ぐ政権の意向に従っただけなのだろう。女性差別の存在を否定したり、男女共同参画を批判したりした別の発言などは撤回しておらず、これで批判をかわせると思ったら大間違いだ。
 そもそも杉田氏を起用した首相の判断が間違いだったと言うほかないが、いまだに擁護しているのが信じがたい。きのうも「職責を果たす能力を持った人物と判断した」と述べ、、過去の発言については、政治家として説明責任を果たしてほしいと、本人任せの姿勢に終始した。
 杉田氏はジャーナリストの伊藤詩織さんから、ツイッター上の中傷投稿に「いいね」を押され、名誉感情を傷つけられたとして訴えられている。先日、東京高裁から賠償命令を出され、上告中だ。ネットでの中傷対策を担う総務省のナンバー3にふさわしいとも思えない。
杉田氏を自民党に引き入れたのは安倍元首相やその周辺だ。過去2度の衆院選では、政党名で投票する比例中国ブロックの名簿で優遇され、当選を重ねた。首相には杉田氏の処遇で、党内外の保守層にアピールする狙いがあったのかもしれない。しかし、このままでは、「多様性のある包摂社会」という主張も看板倒れになるだろう。」朝日新聞2022年12月3日朝刊。
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