A.保田與十郎
保田 與重郎(やすだ よじゅうろう、1910年(明治43年)4月15日 - 1981年(昭和56年)10月4日)は、日本の文芸評論家。多数の著作を刊行した。この人は、いまは忘れられているが、日本が太平洋で戦争していたころは、多くの若者が心酔してその本を読んでいたという人。左翼ではないから弾圧された転向インテリではなく、保田は日本浪漫派と呼ばれた流れの代表だった。
「この保田(註・保田與十郎」の態度は、それほど奇怪なものではありません。竹内好は、「保田の果たした思想的役割は、あらゆるカテゴリーを破壊することによって思想を絶滅することにあった」と書いていますが、これはドイツ・ロマン派からくる「イロニー」に特徴的なものです。肝心なのは、それが「弁証法」に敵対するものだということです。つまり、何かを積極的に実現するという考えへの敵対です。たぶん、それが彼がこの「近代の超克」という会議に出席しなかった理由だと思います。
しかし、なぜ保田の「イロニー」が、ある人々(三島由紀夫をふくむ)を魅了したのかといえば、何かを実現しようとする者には必ずインタレストがつきまとうからです。したがって不純であり、「美的」でないからです。具体的にいえば、軍部の統制派は、処刑された皇道派に対して不純であり、インタレストがらみです。この戦争で死ぬべく運命づけられた青年たちは、この戦争が大義名分がどうであろうと、現実には独占資本のインタレストにかかわるものだということを知っていましたから、日本浪漫派は、一つの抵抗であること、美的抵抗であることを意味したわけです。ついでにいえば、1960年代に、三島由紀夫が全共闘に共感を表明し、保田與十郎が中国文化革命における紅衛兵を称讃したのも、そのことと関係しています。彼らは、全共闘や紅衛兵に、利益や何かを積極的に実現することへの無関心を見いだしたわけです。
多分、現実的なインタレストを捨てざるを得ないのは、死が不可避的なときです。芥川龍之介は「末期の眼」ということをいい、これを川端康成は大きく取り上げました。「末期の眼」に映った風景は美しい。なぜなら、そこには生きる可能性があるかぎり生じるようなインタレストがありえないからです。いってみれば、保田與十郎にとって、「美」は、積極的に何かを実現することを断念するところにしかありえないのです。
現実的矛盾に対する、もう一つの態度があります。それは西田幾多郎の「無の論理」です。簡単にいうと、それは、ヘーゲルのように矛盾を闘争によって乗り越えていくということを否定するものです。人が矛盾として見いだすものは、実は浅薄な見方によるもので、根底的に、それは「絶対矛盾的自己同一」として統合されているというわけです。この論理によって、あらゆる矛盾が「止揚」されてしまいます。しかし、これも「美学」的なものです。
すでに、これは岡倉天心の『東洋の理想』にうかがわれます。彼は「アジアは一つである」と書き出すのですが、このonenessは、東洋の美術にかんしていわれています。つまり、経済、政治、あるいは宗教においては、アジアの同一性を見出せないからです。その場合、彼は、矛盾を軸とするヘーゲルの弁証法を批判して、アジアにアドヴァイタ(不二元論)という原理を見いだします。それは、矛盾するものの同一性ということです。西洋史が発展的であってもたえまない闘争にもとづくのに対して、東洋は停滞的であっても平和であり「愛」にもとづくということになります。保田與十郎も、この岡倉の「美学」を論拠にしています。
しかし、この不二元論は、西田幾多郎が「絶対矛盾的自己同一」といったものと同じです。いいかえると、西田の哲学は美学的なのです。西田の弟子であった戸坂潤は、西田哲学がロマン派的、美学的であることを鋭く指摘しています。
――もっとも最近の西田哲学はロマン派的、美学的な外的色彩をやや失ったように見えるが、それはかえってロマン派的美学的な方法が確立されたからであって、そしてそれはとりもなおさず左右田博士によって『西田哲学』と呼び始められたものだったのである。重ねていうが、西田哲学は決して封建的な、ゴチック的な方法によるものではない。むしろ近代的な、浪漫的な本質のものである。現代文化人の文化的意識を裏付ける、これほど適切なものを見ない。現代人の近代資本主義的教養はこの哲学のうちに自分の文化的自由意識の代弁者を見出す。そこでこれは、経済的政治的自由主義に対して文化的自由主義の哲学の代表者となるわけである。ここに西田哲学の人気があるのだ。 (「無の論理は論理であるか」『日本イデオロギー論』)
注意しておきたいのは、西田において、むろん、京都学派においてはなおさらのことですが、この「論理」が、現実的な矛盾を「論理的」に乗り超えるものとして活用されたことです。例えば、国家統制経済は、自由主義と共産主義、あるいは個人主義と全体主義の両方を乗り超える「協同主義」(三木清)として「解釈」されます。また、大東亜共栄圏は、近代国家とソ連型国際主義の両方を乗り超えるものとして「解釈」されます。つまり、どんな矛盾があろうと、それは「すでに」止揚されているわけです。この「論理」は、あらゆる既成事実を肯定することになります。頭のなかでは、それはすばらしく美化されるのです。
したがって、戸坂潤がいったように、こうした「論理」は美学的なものです。すると、先にいったように、「文學界」グループが批判しようとしたのは、たんに「哲学」なのではなくて、「美学」だといわねばなりません。ところが、それに対抗した小林秀雄もやはり「美学」によっているのです。
哲学者の立場といふものも解らぬ事はないのです。さつき歴史哲学といふより寧ろ美学だといふ話になりましたが、僕は別に美学といふやうな事を勉強したわけではないが、今迄僕に一番影響を与へた美学は、ベルグソンの美学です。尤も、あの人は美学について特に書いてやしないけれども。何故僕に面白かつたかといふと、外の哲学者の書いてゐる美学の様な曖昧さがない処なのです。例へば具体的普遍と言った様な曖昧な言葉が一切ない、非常に明瞭に書いてゐる。(中略)歴史人や社会人を仮面的なものと見て、純粋な知覚の分析から、まつすぐに形而上学をつくつて行くやり方。ベルグソンは一時流行したが、もう一度真剣に読まれる時が、わが国で屹度来ると考へてゐます。果敢ない夢だね。われわれ近代人が頭に一切詰め込んでゐる実に膨大な歴史の図式、地図、さういふやうなものは或る実在に達しやうとする努力の側から観ると、破り捨てねばならぬ悪魔だね。
たとえば、エレア学派以来、「アキレスは亀に追いつけない」とか「飛ぶ矢は飛ばない」というパラドックスがあり、それが哲学を動かしてきたといえます。ヘーゲルは、たとえば、矢は飛んでいると同時に静止しているという「矛盾」にあり、この矛盾が運動を生み出すと考えた。それに対して、ベルグソンは、それが矛盾と見えるのは、時間を空間化して分析的に見るからだというわけです。時間は「持続」であり、「今」とは点ではなく多様体である。ベルグソンは、大体こういうふうに考えた人です。
小林秀雄は、「実在」に触れるためには、「具体的普遍」というような「美学」ではなく、われわれの思考につきまとっている制約をすてて、そこに参入しなければならないということをいいます。つまり、ヘーゲル的な目的論的歴史やプログラムを斥け、かつ同時に、現実的な矛盾を「美的」な姿勢によって乗り超えようとするわけです。それは未来と過去において融合しているような「持続」としての「現在」を肯定するものです。むろん、小林の考えも「美学」です。実は、小林がいうことは、西田幾多郎が『善の研究』で「純粋経験」と呼んだものに近いのです。彼が否定したのは西田の言葉使いです。
小林秀雄は、大東亜戦争の意味づけ(解釈)を斥けます。《歴史といふものはわれわれ現代人の現代的解釈などびくともするものではない―ーといふことがだんだん解つて来たのです。さういふ所に歴史の美しさといふものを僕は、はじめて認めたのです》。「歴史の美しさ」という言葉を使っていることに注意して下さい。大東亜戦争は、いかなる理屈によって解釈するのでなく、それを「運命」として参入することによってのみ「美」となるわけです。それはすでに「末期の眼」で見られています。
小林秀雄は、「文學界」を作った時点では抵抗の可能性を考えていたけれども、この時点では、もう諦念に達していました。彼は、ただ京都学派をふくむ戦争イデオローグを批判し、この戦争で死ぬほかないような人々の立場に立って、何とかそこに「自由」を見いだそうとしていたのだ、ということができます。
以上で、彼らの差異や対立が、根本的に「美学」的なものであるということが明らかだと思います。そして、そこにいわば、フランスとドイツ、あるいは文学と哲学の争いが見られるわけです。しかし、すでにいったように、「ヨーロッパ」はドイツ・イタリアなどのファシスト勢力によって統一されており、それらはまた、日本と同盟をむすんでいたのですから、純粋に日本の敵であるのは英米です。しかし、この会議で一様に、ヨーロッパの「深さ」について考察している彼らが、敵である英米にかんしては、無視またはまったく軽視しています。それはぞこに「美学」的なものがないからです。
先に、「美学」は、現実的な矛盾を想像的に超え統合するものだといいましたが、逆にいえば、「美学」は、現実的な矛盾を現実的に乗り超えることが出来ないところにおいて、支配的になるのです。
もともと近代美学は18世紀にシャフツベリーやバークのようなイギリス人によってはじまっているにもかからわず、、イギリスにおいてその後美学が発展しなかった理由もそこにあります。一方、すでにいったように、ドイツ観念論は根本的に「美学」的です。同様に、日本の近代哲学は「美学」的です。
この「近代の超克」という会議は「文学的自由主義」を最大限に実現しています。あらためていうけれども、それは同時代に書かれた(今は読むに堪えない)無数のがらくたのようなイデオローグの著作とは違います。にもかからわず、それは「美学」のなかでの議論以上ではなかったのです。この会議では、下村寅太郎や物理学者を例外として、技術に対する軽視が目立っています。そのかわりに、「文化」や「精神」が深刻に議論されています。しかし、このことは、小林秀雄・河上徹太郎・中村光夫などがヴァレリーを読んでいたことから見ると、奇怪に思われます。
たとえば、ヴェレリーが今世紀初めに書いたエッセイに、「精神の危機」というのがあります。彼はこの中で「ヨーロッパとは何か」と問うて、こんなことを書いています。彼は、自分がヨーロッパを意識したのは、1894年の日清戦争と1898年の米西戦争においてであるというのです。それまでは、ヨーロッパは「世界」であって、そのなかにフランスとかドイツとかがあった。ヨーロッパが一つの世界でしかないということを思い知らされたのは、日清戦争と米西戦争だというのです。ヨーロッパから見てファー・イーストの日本と、ファー・ウェストのアメリカ。しかも、そのいずれもが、ヨーロッパから流出したテクノロジーを駆使して勝った。こうして、日米が、ヨーロッパから出て行ったものを利用して、逆にヨーロッパに立ち向かってきたときに、彼は、ヨーロッパがもはや一世界に過ぎないことを痛切に感じさせられたというのです。
言い換えると、ヨーロッパが一世界であることを痛感させたのは、ヨーロッパにとって異質な世界があるからではない。実は、ヨーロッパ自身が生み出したものがヨーロッパに敵対してきたということです。それは何か。技術(テクノロジー)です。ヴァレリーは、ヨーロッパを、「文化」あるいは「精神的な深さ」において考えていない。彼はそれを「技術」において見ている。だから、それはその外に応用可能であり、逆にヨーロッパを追いつめるものなのです。事実、それはのちに、アメリカを追いつめ、やがては、日本をも追いつめるものとなるでしょう。それは、技術が応用可能だからです。もしそれがヨーロッパが生み出したものだとすれば、かりにそれによってヨーロッパが滅亡したとしても、なおヨーロッパが世界を制覇したことになるわけです。
ヴァレリーが、19世紀末に、アメリカと日本をとりだしたことは、驚くべき予見性だと思います。それは現在の世界三極構造にまで及ぶものだからです。そして、この洞察力は、彼がいわば「美学」を斥けたことと関係しています。彼が批評家として考えたのは、「詩学」ポエティックス)であり、つまり「技術」の問題だったからです。この会議で、河上徹太郎は、ヴァレリーを「機械のミスティク:と呼んで批判していますが、もちろんヴァレリーは神秘主義者ではなくて、神秘的と見える創作過程そのものを意識化することからはじめた人です。いいかえると、あらゆる神秘的なものを技術的な形態において見ようとしたのです。
ところで、この会議においてやや異色なのは、映画評論家の津村秀夫の発言です。彼は、アメリカニズムを最大の脅威と見ています。津村が、他の人々と違っているのは、映画をやっていたからです。《映画はいふまでもなく近代の終焉と共に始まった芸術形式である》。つまり、映画そのものにポストモダンなものがあるということです。そして、それはテクノロジーの問題と切り離せないものです。」柄谷行人『〈戦前〉の思考』文藝春秋、1994年。pp.111-119.
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B.“大衆の原像”ってあったな
ぼくのような団塊の世代と呼ばれたジジイにとって、大学生の頃の“学園紛争”の記憶と“吉本隆明”という名は強く結びついている。仲間内で吉本の本を読んでいないと、話にならないアホとみなされた。吉本氏はあちこちで講演会などをやっていたから、ぼくも話を聴こうと行くと、若い大学生がつめかけて中に入れず、階段で声だけ聴いたこともあった。なんであんなに人気があったんだろう。たぶん、その本の中身より、その決然とした言い回し、小林秀雄的な文章で共産党をはじめ既成左翼や、もちろん右翼や政府自民党をけっとばす痛快さを感じたからだろう。その吉本が語った言葉のひとつに、「大衆の原像」というのがあった。彼は、東京下町に生まれ、本など読まない庶民のなかに暮らして、超インテリでありながらインテリなどクソのようなものだと言って、ただ市井に生きていることが価値があると言った。同世代のこの人も、そういう木文の中で生きてきたんだろう、と思う。
「土曜訪問:余計なことはしない 老いても普通に「ただ生きる」を実践 勢古 浩爾さん
「定年後も働こう」「地域とつながる」「いつまでも若々しく」。書店にはシニア向けに生き方を指南する人気本が並んでいる。「世界一周旅行」や「ゼロから学ぶ英語」というのもある。そんな中で、勢古浩爾さん(75)の最新刊のタイトルが異彩を放っている。『ただ生きる』(夕日新書)。帯でも、余計なことはしない、と言い切っている。
「私にとっての老いの楽しみとは、何ということのない、ごく一般的な普通の生活のことです」ときっぱりの勢古さん。「生きる意味や意義も、生きがいや目的も、とくに年をとってからは必要ありませんよ」
勢古さんの一日はこんな感じだ。昼近くに起床して食事を取る。リュックを背負って帽子を被り、自転車で近所の図書館か喫茶店へ。歩いて行く日もある。半日外で過ごした後、きれいな夕日に出合えたらデジカメでパチリ。海外旅行は面倒なので行かないし、友達ともほとんど会わない。
「そんな気の抜けたビールのような生活をして何が面白い、という人がいるかもしれませんが、私は全然気にしません。ただ生きているだけで十分です」
といっても、無為無気力な生き方ではなく、ほんの少しの前向きな気持ちが伴っている。まさに自分サイズの意欲と言えるだろう。「余計なことをしない。余計なことは欲しない。そして何が余計かは自分の判断」。これが「ただ生きる」の極意だ。
世の中は無意味なもの、余計なものであふれていると感じている。文明は利器を作り出した半面、不要なもの、過剰なものも作り出した。要不要の線引きがあいまいになっている。勢古さんは連絡用にパソコンで電子メールを使うし、映像作品を鑑賞するためにユーチューブも見ているが、「携帯電話は全く不要」。スマートフォンはもちろん、ガラケーも持たない。
「夢を持つのに遅すぎることはない、と金言のようにいわれるが、それは本当に自分の夢なのだろうか、と問うことも必要ではないでしょうか。世間の判断、世間の価値ではないだろうか、と」
1947年生まれの団塊の世代。洋書輸入会社に勤務しながら執筆活動を続けた。評論や評伝、人生論など数多く手がけたが、いつも念頭にあったのは、現代を生きる市井の人間の心の芯に言葉を届けることだ。
転機は二十代前半、友人に勧められて読んだ思想家・吉本隆明だった。〈結婚して子供を生み、そして、子供に背かれ、老いてくたばって死ぬ(中略)そういう生活の仕方をして生涯を終える者が、一番価値ある存在なんだ〉(『敗北の構造』)
「『世間の人は、日常や普通の生活をばかにしすぎている』ということを言っていた。『日常には修羅もすべてある』と。そして『普通に生きている人間が一番偉いんだ』と断言していました」
吉本の言葉に触れ、目を見開かされた勢古さん。以来、とっぴなこと、特殊で派手なことにはいっさい興味がなくなった。何をするにしても「普通」がいい。自分の生きるペースができたという。
一年前に出したエッセー『自分がおじいさんになるということ』で、「元素」という言葉を、独自の意味を込めて使った。自然や言語、文化などそれぞれの分野の、善良な要素を指す。「自然元素」で言えば、人間なら誰しも美しさや心地よさを覚える「夕日」「花」「雨」「河」である。「当然、こんな理想とは正反対の現実があり、こんな考えは軟弱すぎる思想だと批判されることでしょう。しかし、あえてそれを求め、そういう世界で生きていきたい」
老いとは、自分にとって気持ちのいい元素だけで生きていける時期と教えてくれた勢古さん。気心の知れた人とだけ付き合い、好きな趣味だけをし、美しい自然や言葉を愛でる。現役でいる時は、何かとしがらみやら義務やらで無理だけれど、自分もいつかは、元素を集めて「ただ生きて」みたい。老いるのが待ち遠しくなってきた。 (栗原淳)」東京新聞2022年12月10日夕刊、5面。