どう逃げた家康 生涯最大の危機は奈良が救った? 通説に異論

徳川家康の生誕地、愛知県岡崎市に建てられている家康の銅像=同市提供
徳川家康の生誕地、愛知県岡崎市に建てられている家康の銅像=同市提供

 NHK大河ドラマ「どうする家康」(2023年1~12月放送)で描かれた戦国武将、徳川家康(1542~1616年)。その天下人が生涯最大のピンチを脱した際の逃亡ルートについて、在野の研究者が通説に異論を唱えている。通説には登場しない大和の国(奈良県)を経由したというのだ。さあ、どう逃げた家康?

 家康は死後に神格化され「神君(しんくん)」とも称される。武田信玄に大敗を喫した三方ケ原の戦い(1572年)などの窮地のうち、最も危なかったとされるのが江戸幕府の史書「徳川実紀」に「生涯艱難(かんなん)の第一」と記された「神君伊賀越(いがご)え」だ。

 神君伊賀越えは、明智光秀が織田信長を襲って自刃させた「本能寺の変」(1582年)の直後、関西に滞在していた家康が生誕地であり本拠地の三河(愛知県東部)の岡崎まで逃亡したことを指す。同盟関係の信長が亡くなり、家康は命を狙われる立場にあった。光秀を討とうにも当時はわずかな供の者しかいなかったため、岡崎で態勢を整えようとしたとされる。

この記事は有料記事です。

残り1428文字(全文1866文字)

あわせて読みたい

この記事の筆者

アクセスランキング

現在
昨日
SNS

スポニチのアクセスランキング

現在
昨日
1カ月