はてなキーワード: 明治32年とは
以下、ごちゃまぜという意味の言葉は「ちゃんぽん」、料理のほうは「チャンポン」と表記する。
まず辞書では、
1 2種類以上のものをまぜこぜにすること。また、そのさま。「日本酒とウイスキーをちゃんぽんに飲む」「話がちゃんぽんになる」
たいていは先に書かれるほうが古い用法なので、ごちゃまぜの「ちゃんぽん」のほうが先にあったということだろう。
しかしWikipediaで「ちゃんぽん」を調べると、いくつかの語源説が出てくる。
なかでも「攙烹」説「吃飯」説「喰飯」説などは、明らかに料理が前提にあるので、「チャンポン」が先でないとおかしいように感じる。
ざっと検索したかぎり、「どちらが先にあったか」を明言しているところがほとんどなかったので、ちょっと調べてみた。
「ちゃんぽん」は江戸時代からあった言葉で、三好一光『江戸語事典』や、
ちゃんぽん 交互、又は両天秤にかけるをいう。
ちゃんぽん ①彼と此と入り混じること。まぜこぜ。ごちゃまぜ。文政五年・花街鑑 下「芸者の滑稽、チリツンテン、ちやんぽんの大さはぎ」②交互。かわるがわる。文政九年・契情肝粒志 二上「何時でも下馬一枚を棒組とちやんぽんで」
ただ、前者は「鉦」が中国の楽器、「鼓」が日本の楽器だから、という説明がくっつくことがある。
また後者は、中国人を「ちゃんちゃん坊主」などと言ったのは「鉦の音」に由来するというので、この2説は薄っすらとつながっていることになる。
一方、料理の「チャンポン」が生まれたのは明治30年代だとされる。
長崎で明治32年に創業した「四海樓」という中華料理店の「陳平順」という人が中国人留学生向けに作ったというのが定説である。
ちゃんぽんのルーツは福建料理の『湯肉絲麺(とんにいしいめん)』である。湯肉絲麺は麺を主体として豚肉、椎茸、筍、ねぎなどを入れたあっさりしたスープ。これに四海樓の初代 陳平順(ちんへいじゅん)がボリュームをつけて濃い目のスープ、豊富な具、独自のコシのある麺を日本風にアレンジして考案したものが『ちゃんぽん』である。
今日では缶詰や冷凍など保存技術の発達により食材が年中あるが、当時は、そういうわけにもいかず苦労していた。そこで長崎近海でとれる海産物、蒲鉾、竹輪、イカ、うちかき(小ガキ)、小エビ、もやし、キャベツを使い、ちゃんぽんの起こりとなった。
ただ、これもなかなか難しいところで、「支那うどん」と呼ばれる同種の料理は他にもあったらしい。
四海樓でも当初は「支那うどん」という料理名で出されていて「チャンポン」とは呼ばれていなかったという。
以下、チャンポンや支那うどんに関する、明治末から大正にかけての記述を並べてみる。
「チヤポン」(書生の好物)
今は支那留学生の各地に入込めるが故珍しきことも有らざるべし。市内十数個所あり。多くは支那人の製する饂飩に牛豚雞肉葱を雑ゆ故に甚濃厚に過ぐれば慣れざるものは、厭味を感ずれども。書生は概して之を好めり
「チャンポン」ではなく「チャポン」になっているのは誤字なのかわからないが、後述の「吃飯」説の傍証としてよく引き合いに出される。
明治41年『中學文壇』では「支那うどん=チャンポン」であり、長崎固有の料理だと言っている。
明治41年『ホトトギス』でも同じく「支那うどん=チャンポン」。やはり「チャポン」は誤字だったのではないか…?
大正3年『長崎一覧』には「支那饂飩の元祖は三角亭だ」と書かれている。
支那うどんも亦長崎名物の一つである 名の如く支那より伝つたうどんである 日本人の初めて製造せし人は大波止三角亭の上田百十郎氏である。氏は初め今の九州日の出新聞の所で飲食店を営んで居た、支那うどんを創めたのは明治三十二年であつて、創めた当時はあまり歓迎せられなかつた
大波止の三角亭は大正年間に「支那うどんノ元祖ハ大波止角三角亭」という広告をあちこちに出していたようだ。創業年の明治32年は四海樓と同じ。
大正7年『漫画巡礼記』の著者は「近藤浩一路」という人で静岡育ち東京住まいらしいが「支那うどんについては皆さんご存知だろう」という書きぶりである。
長崎名物のうちにチヤンポンといふがある。チヤンポンとは支那うどんの異名と聞いたら何だつまらないといふかもしれぬがこれが仲々莫迦に出来ない代物である。エビ豚、牛肉、蒲鉾、ねぎ其他種々のものがチヤンポンに煮込んであるから其名が起つたのであらう、先祖支那うどんと銘うった家が長崎市中到る処に見られるが、これが皆なチヤンポンだから驚く
また四海亭(四海樓のことか)の紹介もある。
しかし其中でも支那町の突当りにある四海亭が最も代表的なチヤンポンを食はせるといふので我等はK君の案内で此四海亭に始めてチヤンポンなるものにお目通りしたのである。見た所は他の支那うどんと大差はあるまいが、何せい材料と料理法が違ふ。
ちなみにWikipediaには「明治初年には既に長崎人の本吉某が長崎市丸山で、支那饂飩をちゃんぽんの名で売り出していたともいう」と書かれているが、これは昭和13年『長崎談叢』がソースらしい。
チャンポンの濫觴は明治の初年我が長崎人本吉某が丸山にて支那饂飩をチャンポンと名づけて開業したるものにして終にチャンポンは支那饂飩の固有名詞となり了りぬ。
総合して、
といったあたりが気になる。
いずれも確証はなく「発音が似ているから関係があるかもしれない」程度の話に尾鰭がついただけのようだ。
「吃飯」説だけは、四海樓が主張しているという点において説得力があるが、それにしたって確証はなさそうである。
以上。
「ちゃんぽん」と「チャンポン」に関係があるかどうか、については結論が出なかったが、普通に関係がない可能性もあるということがわかったので、とりあえず良かった。
Wikipediaの説明がまさにそうだが、「ちゃんぽん」の語源説と「チャンポン」の語源説がごちゃまぜになっている、つまりちゃんぽんになりがちなので、そこだけは気をつけたいところである。
「上澄み」とはもともと、液体中の不純物が下層に沈んだあとの、上層に近い綺麗な部分のことを言う。そこから比喩的に「全体における良い部分」のことを指すようになった。
ところが、そうした用法は近年広まった誤用である、という主張がある。「上澄み」はネガティブな意味で使われるべきだ、というのである。
上澄みをさらう(すくう)、といった慣用表現があり、それは「表面的な理解」といった意味と認識していた。
用例:そんな上澄みをさらった程度で○○を理解できたと思うなよ
しかし最近よく聞く誤用なのか拡張なのか…逆の意味で使われているのをよく見る。
用例:葬送のフリーレンのクヴァールって、序盤に戦ったキャラなのに実はめちゃくちゃ強かったんだな。こいつ魔王軍の中でも上澄み中の上澄みだね。
「クヴァール 上澄み」で検索するとめちゃくちゃ出てくるこの用法。
強さの評価で上澄み、と言われると表層に位置する浅い存在、すなわち弱い存在のように感じたのだが、明らかに上澄み=みんな気づかなかった強いヤツ、みたいな意味で使われている。
おそらく字面のイメージで澄=よいこと、上=位置的に上、つまり上位であることという意味でポジティブに使われている。
液体の上澄みは、底に沈澱したものがあり、それを本質と捉えて「上澄み=表層的な浅い理解」と喩えた慣用表現だったはずが、完全に逆転してしまっている。
とりあえず葬送のフリーレンのクヴァールについて語る人以外では見たことがないのだが、クヴァールについて語る人はみんなポジティブな文脈で上澄み上澄み言ってるので気になっている。
この用法はすでに定着しているのでしょうか?— た介 (@BigotVinus) November 19, 2023
しかし、たとえば酒造や製油などにおいて「上澄みをすくう」のは、多くは底に沈む不純物を除くためであって、不純物を得るほうが目的だということは少ないだろう。その語源を考えれば、「上澄み」をポジティブな意味で捉えるほうが自然だと思うのだが。
実際にどういう使われ方をしてきたのか気になったので、比喩的な意味で「上澄み」を使っている古い用例を探してみた。
古人の名作 皆な下習いが有る 紫式部の源氏物語も 家筋だけに一体能文のうえ 日記も作り 歌の詞書もし 其外文や雑文に筆を練り 学は元より日本記の局と呼るる程までなり 其の上澄が彼の大作となッたのだ
調べたかぎりでは最も古い用例。上澄みが「良い部分」を指している用法だが、文章全体では上澄みを生むための「下習い」の重要性を説く。
アア世間は泥なるかな泥なるかな、吾独り澄めりと云う者も、矢張り泥の中の上澄を吸うの人なるのみ
上澄み自体は「良い部分」を指すが、文意としては「綺麗な上澄みも所詮は泥の一部にすぎない」といったところ。
明治39年 虚心窟主人『酔醒禅』
同じく泥と上澄みに喩えた用法。
然るに学期を分ち、試験を行い、小刀細工に類する形式的堀割を通して、之を流し込もうとすれば、肝腎な熱流の熱が失せ、有益なる含有物は途中に沈殿してしまって、児童の頭に這入るものは、ただ水のような上澄ばかりとなる。
翻訳書。上澄みよりも沈殿物のほうが有益だというので、明確に上澄みを「悪い部分」としている用法である。
常時百余名という寄宿制も、実は変らぬところは六七十人の堕落書生で、濁った水の上澄を酌むように、余の三四十人は、毎日新陳代謝、だまされて入社し、裸になって退社する者等を総称して見た話して、頭数は百でも二百でも其中に書籍を読む者は、只の一人もないので、只稼いで喰って寝て居るのと、只喰うや喰わずに寝起して居るのと、人の物を盗って喰って居るのと、夫等が下方の沈殿物で、入社即退社が上水の澄んだ所なのだ。
沈殿物が酷すぎるが、上澄みが優れているという書き方でもない。どちらかというと「上層は流動的・下層は停滞的」というイメージか。
快楽の上澄をのみ飽まで飲んで、渣滓の苦きには吸い至らず、花婿の其当夜に死んだ彼は永久に花婿である、彼を人生の最も幸福な者というも、強ち不当でない。
「美味しいところだけ味わって死んだ」という話で、やや皮肉めいた書きぶりだが、上澄みを「良い部分」とした用法ではある。
極端な理想主義と極端な現実主義の上澄みを取る、という話で、ちょっと独特の用法な感じがする。「良い部分」ではあるか。
苗字もなく、生きて居るのさえうんざりした者達の集って居る、暗い罪悪にまみれて居る世界では、そのような事は何でもない。三面記事にさえ、載せきれない「彼らのいがみ合い」の一つとして、世の中の上澄みは、相変らず、手綺麗に上品に、僅かの動揺さえも感じずに、総てが、しっくり落付いて居たのである。
上層は綺麗で上品で落ち着いているが、それは下層の濁りが上層まで伝わらないからだ、という用法。
単なる表層・深層の言い換えだが、「上層は流動的・下層は停滞的」のイメージが入っているかも。
とりあえずこのあたりで。
以上から考えるに、「上澄み」の用法はさらに4つに分類できる。
1. 上澄みは全体のなかの「良い部分」である。
1-a. 上澄みは「悪い全体」のなかの「良い部分」である。
2. 上澄みは全体のなかの「悪い部分」である。
3. 上澄みは全体のなかの「流動的な部分」である。
「上澄み」という語のイメージは「良い部分と悪い部分が上下に分離している」といったものであり、単純には1の用法なのだが、1-aの用法だと「実は悪い部分が底に隠れている」「実は沈んだ部分のほうが本質である」という逆張り的な文意になることが多いため、次第に「上澄み」自体に「うわべだけで本質的でない」ような印象がついていった、ということだろう。それが極まったのが2の用法。3の用法だけは独自な感じ。
最初の話に戻ると、
というのは2の用法であるが、これが「本来の用法」「正しい用法」であるとは言い難いと思われる。少なくとも、さらに古くから「上澄み=良い部分」とした用法は存在してきたわけで、今となってはどちらの用法も定着していると考えるべきだろう。
石井閘門 - 宮城県石巻市。北上川にある閘門。1880年(明治13年)に完成した、日本初の西洋式の本格的な閘門。現在日本国内で稼動する閘門の中では最古のものであり、国の重要文化財に指定されている。
脇谷閘門 - 宮城県石巻市。1931年12月竣工。北上川本川と旧北上川間の船の通行のために、脇谷洗堰に併設された。
見沼通船堀 - 埼玉県さいたま市。見沼代用水と芝川とを結ぶ閘門式運河である。昭和初期以降から使用されておらず、現在はさいたま市緑区にその復元された遺構が残る。1982年(昭和57年)、国の史跡に指定された。
荒川ロックゲート - 東京都江戸川区小松川。東京都を流れる荒川と旧中川を結ぶ。大震災時などの災害時に水上交通が有効であることから改めて水路が見直されることになり、2005年10月に供用開始された比較的新しい閘門。
扇橋閘門 - 東京都江東区猿江一丁目。1976年(昭和51年)完成。小名木川に設置されている。
中島閘門 - 富山県富山市。1934年(昭和9年)8月完成。富山駅北側付近から富山湾の河口まで南北に続く、富岩(ふがん)運河中流にあるパナマ運河式閘門。現在も運用されており、観光船が運行し往来できる(冬季運休)。国の重要文化財に指定されている。
牛島閘門 - 富山県富山市。中島閘門と同時着工し1934年(昭和9年)8月に同時完成。富岩運河最上流部(南端)の富岩運河環水公園(旧 船溜まり)内にあり、並行するいたち川とを結ぶ現在も運用可能なパナマ運河式閘門。国の登録有形文化財に登録されている。
松重閘門 - 愛知県名古屋市中川区。堀川と中川運河とを結んでいた。1968年に閉鎖され、現在は閘門としては使用されていない。名古屋市の有形文化財、1993年(平成5年)には名古屋市の都市景観重要建築物等に指定されている。
船頭平閘門 - 愛知県愛西市立田町福原。木曽川と長良川の間をつなぐ。1899年(明治32年)に着工、1902年(明治35年)に完成した。1994年(平成6年)にはそれまでの手動から電動への近代化・改修工事が行われた。2000年(平成12年)5月には明治期に建設されて現在でも使用されている貴重な閘門であるということで重要文化財に指定された。冬季を除き、木曽川上流の葛木港より観光船が運航。一般には無料での往来解放がされている。
三栖閘門 - 京都府京都市伏見区。宇治川と濠川を結ぶ伏見港に1929年(昭和4年)に建設された。いまは遺構が三栖閘門資料館として開放されている。
毛馬閘門 -大阪府大阪市北区。淀川と旧淀川(大川)を隔てる閘門。明治40年(1907年)8月に完成した旧第一閘門は1976年(昭和51年)まで使用され、現在は重要文化財に指定されている。
尼崎閘門(尼ロック) - 兵庫県尼崎市西海岸町地先。日本初のパナマ運河式。物流機能としての運河を今なお支える船舶の重要な玄関口となっている。
下関漁港閘門 - 山口県下関市の本土と彦島を隔てる小門海峡(関門海峡小瀬戸)にあるパナマ運河式水門。1936年の設置以来、現在も稼動中。
三池港閘門 - 福岡県大牟田市。1908年(明治41年) 完成。2008年機械遺産に指定。2015年世界文化遺産に認定された明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業構成資産の1つ。