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以前「夏目漱石「月が綺麗ですね」の元ネタを遡る」という記事を書いたのだが、いろいろ追記することがあったので改めて整理しなおそうと思う。
大雑把に言えば、この「夏目漱石が I love you を月が綺麗ですねと訳した」という話は、
に分解できる。ひとつずつ追っていこう。
まず、夏目漱石は「I love youは日本語にない表現である」と書き残している。これは漱石のイギリス留学時代である1901年から1902年にかけて書き留められたメモ書きの一つで、ジョージ・メレディスの『Vittoria』という小説に言及したものである。ただし、この台詞はヴィットリア(Vittoria)がラウラ夫人(Signora Laura)に向けて言った台詞なので、恋愛の「I love you」ではなく親愛の「I love you」である。
formula ノ差西洋日本 “I will excuse myself to you another time,” said Vittoria. “I love you, Signora Laura.”――Vittoria p. 113. 此 I love you ハ日本ニナキ formula ナリ.
1908年の『明治学報』に掲載された、上田敏の「予の観たる欧米各国」という講演の書き起こしにも、同様に「I love youは訳せない」というような記述がある。上田敏は高名な英文学者で「山のあなたの空遠く幸住むと人のいふ」や「秋の日のヴィオロンのためいきの」などの詩訳で知られる。漱石よりは年下だが、同時期に東京帝国大学で教鞭をとっていたこともあり、文学論を語り合う仲だった。
日本では「我汝を愛す」と云ふことは言へない、日本では何と云ふかと云ふと、「私アナタに惣れました」と云ふ、それでは「アイ、ラブ、ユー」と云ふことに当らない、「我汝を愛する俯仰天地に愧ず」それはどう云ふたら宜いか、(笑声起る)、所が「私はアナタに惣れました」といふことは日本語ではない、さういふ日本語は昔からないです、だから日本ではそれをパラフレーズするか、或はペリプラスチック、言廻はして、「誠にアナタはよい人だ」とか何とか云ふ工合に云ふより外言ひ方はない、「私はアナタが好です」と云ふと何だか芝居が好きだとか、御鮨が好だとか云ふやうになつて悪いです
同じく1908年に劇作家の益田太郎冠者という人物も次のように書いている。
欧羅巴人にはアイ・ラブ・ユーといつた、美しい詞があり、此の詞の中には、女の身上を刺激する意味が十分に含まれて居るが、日本人には斯ういふ詞が無く、その上「言はぬは言ふにいや優る」などといふ事が古来から上品としてあつて、万事詞が引込み思案になつて居るのです。
やや遅れるが、1922年に刊行されて当時のベストセラーになったという厨川白村『近代の恋愛観』にも、同様の主張が書かれている。厨川白村は漱石の教え子で、恋愛観について議論を交わしたこともあったという。
日本語には英語の『ラブ』に相當する言葉が全く無い。『戀』とか『愛』とか云ふ字では感じがひどくちがう。" I love you" や "Je t'aime" に至つては、何としても之を日本語に譯すことが出來ない。さう云ふ英語や佛蘭西語にある言語感情が、全く日本語では出ないのある。『わたしあなたを愛してよ』、『わたしや、あなたにいろはにほの字よ』では、まるで成つて居ない。言葉が無いのは、それによつて現はさるべき思想が無いからだ。
以上からすると、夏目漱石が最初に言い出したかどうかはともかく、この時期にさまざまな人が「I love youは日本語に訳せない」と主張していたことは確かなようである。
そしてこの「I love youは訳せない」という話から「月が綺麗ですね」が派生する。いまのところ見つけられたかぎりでは、1927年の『帝人タイムス』に掲載されたコラム「東方へ」での記述が最も古かった。
西洋デハ人ノ表情ガ露骨デアツテ 例ヘバ恋ヲ囁クニモ 真正面カラ アイラヴユー ト斬込ムガ 日本デハ 良イお月デスネー ト言フ調子デ 後ハ眼ト素振リニ物ヲ言ハス
1935年刊行の笠間杲雄『沙漠の国』にもそうした表現がある。元になった記事が雑誌に掲載されたのは1926年ごろのようなので帝人タイムスの記事より早いかもしれない。
第一、欧米人にとつては一生の浮沈を定める宿命的な宣言『アイ・ラヴ・ユウ』の同意語すら、日本語には無い。(中略)斯ういう意味を外国人に答へると、然らばあなた方日本人は、初めて男なり女なりを愛する場合に、どんな言葉で意志を通ずるのかと、必ず二の矢の質問が飛ぶ。私は答へる。我々は「いい月ですね」と言つても、「海が静かね」といつても、時としては「アイ・ラブ・ユウ」の翻訳になるのだと。
以降も「月が綺麗ですね」という話は散見される。たとえば1950年の雑誌『英語研究』。
月下に若い男女が語らい合つている. 男が女に愛の言葉をささやくとして, この場合の純日本的な表現は今夜はいい月ですねえ!ということであり, 女がほんとうにいい月ですこと!といつたとすれば, それは男の愛を受け入れたことになる.
1957年の雑誌『産業と産業人』の対談記事「ニッポン居よいか住みよいか」。
三宅 その言葉が昔からないんだね。向うはアイ・ラブ・ユウ、実に簡単ですよ。ところが日本はそういう表現はない。「ああいい月ですな」というのが、ほれたと翻訳しなきゃならんのだ。(笑)
大山 「いい月ですね」ってそのくらいのことは言われたような気がしますけど……。(笑)
1961年の早川東三『じゃぱん紳士周遊記』。こちらは「月が青いですね」である。
ドイツ人学生が日本の女の子に夢中になった。日本語で愛の告白は何と言うのだい、と切なそうに聞くから、「われわれは皆んな詩人だからね、イヒ・リーベ・ディヒ(わたしはお前を愛する)なんて散文的なことは言わない。月が青いですねと言うんだ」と教えてやったが、ご使用に及んだかどうかは知らない。
1962年『日本人の知恵』。これは朝日新聞に連載された記事をまとめたものらしい。
さらにいえば、日本の社交の基本は「見る」ことで成立する。若い男女の恋人同士が愛の告白をするとき、西洋人のように、
「私はあなたを愛しています(I love you)」
などとはけっしていわない。そんなことばを口に出さなくとも、満月を仰ぎ見て、
「いいお月さんですね」
そして、二人でじっと空を見上げるだけで、意思は十分通じるのだ。
以上のように、戦後にも「I love youは訳せない」や「月が綺麗ですね」はそれなりに広まっていたと思われるが、しかし、この時点ではまだ夏目漱石とは結びついていなかった。
それらの話を夏目漱石と結びつけたのは、おそらくSF作家の豊田有恒だろう。たとえば1978年の『SF文迷論入門』(雑誌掲載は1977年)では以下のように書かれているが、他のいくつかの著作でも同様のことを書いており、いわゆる「持ちネタ」のようなものだったことが窺える。
明治時代に、夏目漱石が、学生に、I love you を、どう訳すか、質問した。学生は、明治時代だから、我なんじを愛すというようなことを答えた。漱石は、怒って、一喝した。おまえら、日本人か? 日本人は、そんな、いけ図図しいことは言わないんだ。I love you というのは、日本語では、月がとっても蒼いなあ、と、こう訳すものだ、って言ったろ。
ほぼ同時期に、つかこうへいが小田島雄平との対談で同様のエピソードを語っているが、こちらの記事の初出は1978年なので豊田有恒よりも後ではある。つかこうへいが豊田有恒の記述を読んだのか、それとも共通の元ネタがまだどこかにあるのか。
古くは夏目漱石が I love you はどう訳せるかって言ったという有名な話がありますよね。生徒たちがそれは「愛してます」って訳すると言ったら、夏目漱石が教壇からばかやろうとどなりつけて、「月がとっても青いから」って訳すのだと言った話がありますけど、そういう翻訳のリアリティーっていいますか、それは、時代とともにいろいろ変わっていってるんでしょうね。
以降の流れは「月が綺麗ですね・死んでもいいわ」検証に詳しい。
ツルゲーネフの『片恋』における「Yours」という台詞を二葉亭四迷が「死んでも可いわ…」と訳したという話を、「二葉亭四迷がI love youを死んでもいいわと訳した」に変形させた犯人探しも行われているが、それはおそらく土岐善麿だろう。1957年の『ことば随筆』にこう書かれている。
「アイ・ラブ・ユウ」を日本語に直訳すれば「われ、なんじを愛す」であろうが、二葉亭四迷はそれを「死んでもいいわ」と表現したことがある。ツルゲーネフの「あいびき」の中にあるのを読んで、その訳しぶりのすばらしさにおどろいた記憶がある。
この記述は、のちに金田一春彦がいくつかの著書で引用しており、そのあたりから広がっていったのだろう。たとえば金田一春彦の1975年『日本人の言語表現』ではこういった具合だ。
土岐善麿氏によると、二葉亭四迷は、トゥルゲーネフのある小説で女性の言うI love you.を訳すのにはたと困ったそうだ。何でも相愛の男女が愛を確かめあうクライマックスの場面であるが、男がI love you.と言い、女もそれに答えてI love you.と言う。男のせりふの方は「ぼくはあなたが好きだ」で簡単だ。が女の方はそうはいかない。もし、「私もあなたが好きです」とでも言ったら、それは教養のないあばずれ女ということになる。女のI love you.を日本語で何と訳すべきか、二葉亭は、二日二晩考えた末、今も名訳として伝わっている日本語を思いついた。それは「死んでもいいわ」という文句という文句だという。
スゴーイデスネ!ニッポン!
最近、やたらと「日本車はガソリン車やハイブリッド車(HEV)で儲け続けることが正しい」とかいう風潮に持っていこうとする人をみかける。
それなのに、シュリンクする内燃機関技術に固執し、いまだに「ウチらが正義」みたいな態度を取るのは、日本を礼賛しているように見えて、実は衰退に追いやる悪魔だと思う。
そんな情報が流れれば、慌ててスタンドに並んで、結局無駄な時間を費やす人たちがどっと増えるわけだよ。ガソリンスタンドに長蛇の列を作って余計な渋滞を生み出しながらね。
EVユーザーからすると、自宅の基礎充電環境でまったく問題ないので、泣きながら給油している姿を見ると正直虚しいと感じるわ。
この無意味な時間を浪費する構図が、いまのガソリン依存の滑稽さを象徴していないか?「EVはまだ高い!」とか「充電環境が~」って言い訳をし続けて、結局はたっかいランニングコストを支払い続け、自己防衛的な悪循環に陥ってるわけだ。
海外はもうEVや再生可能エネルギーに真剣にコミットし、技術の進歩と市場拡大を同時進行で進めている。中国なんか、一時期は粗削りなEVだらけで「質が微妙」と笑われてた時期もあったが、今や急速に進化して世界を席巻する勢い。テスラと肩を並べ、EVインフラを整えながら、次世代バッテリー技術の覇権争いをしている。
一方日本はどうか?「EVシフトは減速してる」とか「EVは終わりだ」みたいな印象操作をし、「だからこそ新型エンジン開発が正義なんだ!」と豪語する。
最近は水素エンジンやら新型エンジンで市場を牽引しようみたいな話ばかり。
電気自動車も進んでるって?
でも実のところ、彼らの手元には基礎研究段階の特許ばかりが積み上がっていて、量産化の目途は立たないという現実。
何年経っても量産段階に進めず、実際の市場投入が遅れる。その間に世界はどんどん先に行ってしまう。
プリウスが登場した時代には、確かにトヨタは新技術の先駆者だったかもしれない。
世界がEVに傾く中、トヨタは「EVはまだ未成熟」と言わんばかりの態度を取り、内燃機関にこだわった。
結果的にEVシフトから取り残され、アメリカや中国勢に後塵を拝している。
これってまさに「ガソリン・HEVで稼ぐことが正義」と思い込んで、変化への適応を拒んだツケなんじゃないのか?
さらに、この「ガソリン・HEVこそ正義」的な精神構造は、日本の産業界、政治、そして一般的なメディア・国民性にまで根強く染みついているように思える。
「日本車が世界を席巻している」という昔の栄光に固執し、未来を見据えた大胆な技術投資や市場戦略ができないまま、ズルズルと衰退の道を下っているのが今の姿。
はっきしいって国内市場はめちゃくちゃ小さいし、頼みの海外市場での存在感も低下する中で、ガソリンやHEVでしがみつくことは本当に合理的なのか?
いま日本で売られているテレビって、純国産ブランドはどれほど残っている?
シャープは鴻海(ホンハイ)、東芝はハイセンス、パナソニックはTCL。
携帯電話だって、かつてP(パナソニック)、N(NEC)、F(富士通)、D(三菱)、T(東芝)、S(ソニー)、H(日立)がひしめいていたが、いまはほとんど姿を消してしまった。
結局、昔は世界をリードしていたはずの日本企業が軒並み海外勢に買収され、ブランド名こそ残っていても実質的には外国資本下で動く状況が増えている。
しかも、今の自動車業界の戦場は、もはや内燃機関vsEVではなく、自動運転ができるかどうかだ。
「EVはバッテリーが~」とか「材質が~」とハード面だけで戦うと思い込んでる奴は、完全に時代錯誤。いまはソフトが主戦場だよ。
中国のシャオミやファーウェイがEV参入しているし、あのアップルは結局自動車参入で敗北したと言われている。
日本にGoogle傘下のWaymoが入るというニュースまで出ている。
さらに、アンチEVのアメリカ次期大統領トランプにうまく取り入ったイーロン・マスクが、FSDを自動運転レベル4として認めさせようとする動きさえある。
こんな世界の流れに全くキャッチアップできず、ハードの旧技術に固執して「ウチらが正義」なんて言ってる風潮を作った奴らは、本当に悪魔だろ。
このままじゃ、日本は世界から「いつまで古いクルマ文化にしがみついてるの?」「結局ブランドだけで中身は空っぽじゃん」と笑われるだけ。
ガソリン・HEV依存を「正義」と称えることで、日本が得るものはもう何もない。
未来への投資を渋り、EVシフト、さらには自動運転やソフトウェア戦略への適応を遅らせることは、結局のところ日本自身を蝕む悪魔的な選択だと言わざるを得ない。そろそろ目を覚ますべきだろう。
「ガソリン・HEVこそ正義」という呪縛、そしてハード志向の化石思考から抜け出さないと、この国は家電、携帯電話、そして自動車の分野でも完全に世界の周回遅れになる。
例えば、理科の授業で植物の構造を学ぶ。花の花弁がどうこう、葉緑体の構造がどうこう、毛細の仕組みがどうこう。
そこに、「ある花は綺麗で、ある花は醜い!」とか「日本古来愛されてきた桜の構造だけ学べばよくて他の木は適当でいい!」みたいな価値判断は普通入らない。
社会の授業で、世界の国々の様子を学ぶ。アメリカの選挙制度はどうこう、ロシアの大きさはどうこう、世界の人口はどうこう。
そこで、社会の授業という枠組みで「アメリカの政治制度は正しく、中国は間違ってる!(逆も)」とか「北方領土!竹島!日本の国土!」という授業を何時間も続けるということは異常である。少なくとも社会科の枠組みではない。
性教育はどうか。
性器の構造。精通や生理。妊娠と出産。これらは理科的・生物学的側面といえる。
一方で、「成人するまでセックスを我慢しよう(逆にどんどんセックスをしよう)」とか「セックスの前に合意をしよう。その合意は空気ではなく口頭で行うべきで~」とか「堕胎の是非」とかは思想的な問題である。
だが、性教育は前者と後者が混然と一体になり、しかも数多くの自称専門家が、その政治思想の左右を問わず好き勝手言い合うことが平然と行われている分野である。
これらにカリキュラム的な問題が合わさり、「外部の『専門家』を学校に呼んで特別授業を行う」という他の分野ではほとんど見られない現象が生じ、ますます事実とそれ以外の混入に拍車がかかっている。
それも、たとえば修学旅行前の平和授業なら、目の前にいるのが被爆者の語り部であり個人的な経験を語っているということは、子供ながらでもわかる形となっている(そしてこれは社会科の枠組みではないはずである)。
だが性教育の出張授業になると、途端に目の前にいるのは実際の業績が不明で、科学的なことを語るはずが事実と思想の分別がつかない言動をする教授や医者のいうことを、子供たちは鵜呑みにさせられることになる。
実際、私の時は、女医が学校に来て、そういう教育を受けた。しかもその女医は「そんなんじゃ女の子にモテないよ」式の言動をテコに性教育を行うタイプの人間であった。
もちろん、学校という現場だけの問題であるとは言わない。文科省。公立・私立。地域や家庭。色々な問題が絡んでいる。
個人差が大きく、急激に変貌する個々人の身体。「初めての生理が来たら赤飯を焚いて…」という風習に代表されるような、事実・思想以前の地域的な性のあり方。
だが、それにしても、である。
仮の話、私が「全世界フリーセックス!」「0歳児でも100歳の老人でもみんなセックスセックスセックス!」と子供たちに教えることも、究極的には、性教育になる、ということである。それで私は学位も実績も無しに専門家を名乗れるということである。
何をバカなことを、とみんな思うだろうが、この逆の立場の「純潔教育」は堂々と行われてきたし、今も行っているところがある。
以前、母親たちが自発的に性教育の授業を行う取り組みが「ニッポンの性教育 セックスをどこまで教えるか」というタイトルでドキュメンタリー番組として放映されていた。
その番組では、2000年代のいわゆる性教育に対するバックラッシュにも触れられており、自民の山谷えり子議員に直撃取材も行っていた。
番組としては、明記などはされないが、母親たちが先進的かつ真摯であり、バックラッシュに加担した山谷は後進的かつ不誠実であると描写したいようだった。
だが、性教育の「教育」を考えるとき、無論山谷の行為には旧来の「寝た子を起こすな」式の問題があったとしても、前述の母親たちの行っている授業が果たしてどこまで「教育」なのか、その側面には触れられているようには見えなかった。
以下、ごちゃまぜという意味の言葉は「ちゃんぽん」、料理のほうは「チャンポン」と表記する。
まず辞書では、
1 2種類以上のものをまぜこぜにすること。また、そのさま。「日本酒とウイスキーをちゃんぽんに飲む」「話がちゃんぽんになる」
たいていは先に書かれるほうが古い用法なので、ごちゃまぜの「ちゃんぽん」のほうが先にあったということだろう。
しかしWikipediaで「ちゃんぽん」を調べると、いくつかの語源説が出てくる。
なかでも「攙烹」説「吃飯」説「喰飯」説などは、明らかに料理が前提にあるので、「チャンポン」が先でないとおかしいように感じる。
ざっと検索したかぎり、「どちらが先にあったか」を明言しているところがほとんどなかったので、ちょっと調べてみた。
「ちゃんぽん」は江戸時代からあった言葉で、三好一光『江戸語事典』や、
ちゃんぽん 交互、又は両天秤にかけるをいう。
ちゃんぽん ①彼と此と入り混じること。まぜこぜ。ごちゃまぜ。文政五年・花街鑑 下「芸者の滑稽、チリツンテン、ちやんぽんの大さはぎ」②交互。かわるがわる。文政九年・契情肝粒志 二上「何時でも下馬一枚を棒組とちやんぽんで」
ただ、前者は「鉦」が中国の楽器、「鼓」が日本の楽器だから、という説明がくっつくことがある。
また後者は、中国人を「ちゃんちゃん坊主」などと言ったのは「鉦の音」に由来するというので、この2説は薄っすらとつながっていることになる。
一方、料理の「チャンポン」が生まれたのは明治30年代だとされる。
長崎で明治32年に創業した「四海樓」という中華料理店の「陳平順」という人が中国人留学生向けに作ったというのが定説である。
ちゃんぽんのルーツは福建料理の『湯肉絲麺(とんにいしいめん)』である。湯肉絲麺は麺を主体として豚肉、椎茸、筍、ねぎなどを入れたあっさりしたスープ。これに四海樓の初代 陳平順(ちんへいじゅん)がボリュームをつけて濃い目のスープ、豊富な具、独自のコシのある麺を日本風にアレンジして考案したものが『ちゃんぽん』である。
今日では缶詰や冷凍など保存技術の発達により食材が年中あるが、当時は、そういうわけにもいかず苦労していた。そこで長崎近海でとれる海産物、蒲鉾、竹輪、イカ、うちかき(小ガキ)、小エビ、もやし、キャベツを使い、ちゃんぽんの起こりとなった。
ただ、これもなかなか難しいところで、「支那うどん」と呼ばれる同種の料理は他にもあったらしい。
四海樓でも当初は「支那うどん」という料理名で出されていて「チャンポン」とは呼ばれていなかったという。
以下、チャンポンや支那うどんに関する、明治末から大正にかけての記述を並べてみる。
「チヤポン」(書生の好物)
今は支那留学生の各地に入込めるが故珍しきことも有らざるべし。市内十数個所あり。多くは支那人の製する饂飩に牛豚雞肉葱を雑ゆ故に甚濃厚に過ぐれば慣れざるものは、厭味を感ずれども。書生は概して之を好めり
「チャンポン」ではなく「チャポン」になっているのは誤字なのかわからないが、後述の「吃飯」説の傍証としてよく引き合いに出される。
明治41年『中學文壇』では「支那うどん=チャンポン」であり、長崎固有の料理だと言っている。
明治41年『ホトトギス』でも同じく「支那うどん=チャンポン」。やはり「チャポン」は誤字だったのではないか…?
大正3年『長崎一覧』には「支那饂飩の元祖は三角亭だ」と書かれている。
支那うどんも亦長崎名物の一つである 名の如く支那より伝つたうどんである 日本人の初めて製造せし人は大波止三角亭の上田百十郎氏である。氏は初め今の九州日の出新聞の所で飲食店を営んで居た、支那うどんを創めたのは明治三十二年であつて、創めた当時はあまり歓迎せられなかつた
大波止の三角亭は大正年間に「支那うどんノ元祖ハ大波止角三角亭」という広告をあちこちに出していたようだ。創業年の明治32年は四海樓と同じ。
大正7年『漫画巡礼記』の著者は「近藤浩一路」という人で静岡育ち東京住まいらしいが「支那うどんについては皆さんご存知だろう」という書きぶりである。
長崎名物のうちにチヤンポンといふがある。チヤンポンとは支那うどんの異名と聞いたら何だつまらないといふかもしれぬがこれが仲々莫迦に出来ない代物である。エビ豚、牛肉、蒲鉾、ねぎ其他種々のものがチヤンポンに煮込んであるから其名が起つたのであらう、先祖支那うどんと銘うった家が長崎市中到る処に見られるが、これが皆なチヤンポンだから驚く
また四海亭(四海樓のことか)の紹介もある。
しかし其中でも支那町の突当りにある四海亭が最も代表的なチヤンポンを食はせるといふので我等はK君の案内で此四海亭に始めてチヤンポンなるものにお目通りしたのである。見た所は他の支那うどんと大差はあるまいが、何せい材料と料理法が違ふ。
ちなみにWikipediaには「明治初年には既に長崎人の本吉某が長崎市丸山で、支那饂飩をちゃんぽんの名で売り出していたともいう」と書かれているが、これは昭和13年『長崎談叢』がソースらしい。
チャンポンの濫觴は明治の初年我が長崎人本吉某が丸山にて支那饂飩をチャンポンと名づけて開業したるものにして終にチャンポンは支那饂飩の固有名詞となり了りぬ。
総合して、
といったあたりが気になる。
いずれも確証はなく「発音が似ているから関係があるかもしれない」程度の話に尾鰭がついただけのようだ。
「吃飯」説だけは、四海樓が主張しているという点において説得力があるが、それにしたって確証はなさそうである。
以上。
「ちゃんぽん」と「チャンポン」に関係があるかどうか、については結論が出なかったが、普通に関係がない可能性もあるということがわかったので、とりあえず良かった。
Wikipediaの説明がまさにそうだが、「ちゃんぽん」の語源説と「チャンポン」の語源説がごちゃまぜになっている、つまりちゃんぽんになりがちなので、そこだけは気をつけたいところである。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/pmazzarino.blog.fc2.com/blog-entry-451.html
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コメント 258
ID | コメント |
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santo | 言葉の力 |
secseek | こうやって冷静に検討されてみると事件そのものもひどいですが、まわりの反応による二次被害が看過し難いですね |
bell_ring | この問題は庇う芸能人と一般人の思う常識に差があると感じさせられる。人気&力のある芸能人は何をやっても自分は許されると勘違いしてる節がある。自分の姉妹や娘が同じ扱いを受けても許せるのか考えたらいいのに。 society |
macplus2 | あとからでもダマす意図があったことを証明できれば罪を問えるんです。重要なのは合意があったかどうかではなく、合意の中身と合意に至った状況です。/被害者に寄り添った大切な視点 |
taraxacum_off | 松本人志を擁護するような人たちの精神・思考構造を、この著者はよく知っているようだ / ここでの指摘は、芸能界の性暴力にとどまらない、日本社会全体の問題にもおよんでいると言える |
yamasamayukisama | この件でここまできっちり理詰めで問題点を指摘している記事には他に出会った記憶がないし、内容的にも同意できるが、こういう指摘の仕方に違和感をおぼえる人は一定数いるだろうなとも推測できる。 世の中 |
f_d_trashbox | “芸人のみなさんは河原者に戻りたいのですか?”/これについては消費する側も彼らの倫理的「埒外さ」を楽しんでいた部分もある。“芸のためなら女房も泣かす”は完全DVだ。それらを楽しんでいながら平等を謳う欺瞞 |
eye4u | 狭い論理でぐうの音も出ない感じに正義で封じ込める手法。アメリカの赤狩り、カトリックの坊さんとか、ヤクザの論理、カルトの論理だと思うな。取り扱う正義が物凄く範囲が狭い中で緻密というのが一致している。 |
ken530000 | 冤罪の問題点は2つで、真犯人を逃すことと無実の人を苦しめること。後者を無視してるのは何故?それ以外の部分は概ね同意だけど、いささか自身の推測を過信しているきらいがあるな。 |
norinorisan42 | 近しい人が擁護派に回る気持ちはわかるが告発者にはやはり寄り添うべきだと思うし、同時に松っちゃんを叩かないは両立するとは思う/争点以外の部分ではすべての立場が告発者ファーストであるべきなのかなと思ったり |
tribird | “今田さんが文春をヒドいと批判するのは筋違いです。自分の絶対的な地位を利用して後輩に女衒めいた役目を強要していた松本さんこそがもっともヒドい人であり、今田さんが批判すべき対象は、松本さんなんですよ。” |
toya | 「大目に見る感覚は昭和くらいまでは庶民感覚としてありましたけど、それは庶民が芸人にやさしかったからじゃありません。差別です。江戸時代に芸人が河原者(河原乞食)だった時代の名残り」 芸能 |
metamix | 要は「裁判結果なんて待てない、先っぽだけでもいいでしょ?」てことだろ?一行でまとめられることをベラベラと。どこまで丁寧に語ろうが私刑の肯定でしかない。まあはてブ受けはいいだろうな |
HiddenList | こういう皮肉も 松本芸なんですか? |
isshyman | 正論から強引に読者に「そうだな」と言わせているが、後になって考えてみれば「そうでなかった」って思うような文章に思えて、筆者が批判するほど、自身の正義によってパワハラをしているようだ |
Gl17 | 「安倍さんは良い人」「証言は証拠にならない、反証はないけど」「旧軍は綱紀厳正」etcいちいち擁護の曲論が歴史修正主義と一緒。抑圧に頼り切りなのと、弱者と同等に対峙すること自体が許せない(これだけでダメ)。 |
kusanon | “犯罪の告発は、明らかな虚偽が認められないかぎりはいったん信用して受理しなければなりません。” |
Sakana_Sakana | 全く完膚なきではない。漫画家が自殺したようだが同様な事が松本人志にも発生する可能性を考えた方が良い。意見は良いがここ迄非難が酷い状態は狂気を感じるし危険だと思う。尚松本のやった事はダメな事だとは思う |
a_horuru | 長い文章なので後半は流し読みしたが、よくある俺様こそが絶対正義な意見だった。 |
georgew | 徹頭徹尾正論のオンパレード。 |
bogus-simotukare | スマホを没収した状態で普通の飲み会を主張するのはムリがあります。逆にスマホ没収が事実でなかったら、女性側の主張の信憑性はガタ落ちします。 正論 |
nt46 | むしろすっかりこの人も、かつて批判していた"社会学者"側になってしまったなとしか思わんが。すなわち、"ファクト"ベースではなく"あるべき価値"ベースで語る人。どっかで宗旨替えしたん? |
pukarix | 素晴らしい。逐一、いい加減な擁護論を破綻させてる。こういうのをホンモノの論破っていうんだろう |
dowtei | "一夜限りの性行為が好きな人たちは(略)リスクとスリルに興奮する性癖をお持ちだから、そういうエッチにわくわくして、冒険を求めるのでござんしょ?"わらっちゃった |
vndn | 告発の『受理』と『信用』の考えが私と合わないなあと思った。 |
hello-you | 冤罪の下りには違和感があったが、その他はほぼ正論で非常に納得感ある。これに反論できる人いるの? |
yto | > 芸能人が女遊びや薬物をやるのはしょうがないね、と大目に見る感覚は昭和くらいまでは庶民感覚としてありましたけど、それは庶民が芸人にやさしかったからじゃありません。差別です。江戸時代に芸人が河原者(河原 |
kiyotaka_since1974 | 松本さんのことより、「どの雑誌に取材力があるか、信用できるかはなんとなくわかってきます」のところを深めてほしい。どの雑誌が信用でき、信用できないのか。 マスコミ メディア テレビ |
River1992 | “ 芸能人が女遊びや薬物をやるのはしょうがないね、と大目に見る感覚は昭和くらいまでは庶民感覚としてありましたけど、それは庶民が芸人にやさしかったからじゃありません。差別です。” |
kintaorgH | “もし被害者が自分の娘だったとしても同じことをいうのでしょうか。”←これつらい気持ちになる。のぞむこたえでない現実はある。関係ない人は無関係。 |
lisagasu | 芸能界は一般の常識と違う場所、という世間と本人の差別逆差別意識は今もあると思う ヤクザが銃で撃たれたニュースに誰も動揺しないのと同じ 今はここで変わるかまた流されるかの瀬戸際じゃないかな |
lenore | 「性犯罪に無関心なテレビ局」全くそう思うわ。全然公益性の無い不倫疑惑はしつこく追いかけ回すのにね |
minboo | 本題とは関係ないですが、大河ドラマなどで歌舞伎役者が天皇を演るのを見るたび「パンチが効いたキャスティングだな」と思ってます。 |
honma200 | “もし被害者が自分の娘だったとしても同じことをいうのでしょうか” 志らくの論理でもそうなればより深い'人情'がある娘に肩入れするに決まっている。比較対象の例えが的外れ |
khtokage | 「およそ50年前、『文藝春秋』に田中角栄の不正金脈を暴く記事が載ったとき、テレビも新聞も記事を無視しました。そんななか、外国特派員協会だけが田中角栄を呼んで話を聞く場を設けました。」知らなかった |
nisezen | "大目に見る感覚(中略)庶民が芸人にやさしかったからじゃありません。差別です" た、確かに。河原乞食云々を別にしても「犯罪を犯しがちな人たち」って目で見てるんだかられっきとした差別だ |
uniR | 河原者のくだりと「つまりスマホを没収したのは、恥じるところがあったから」と性急な因果論には引っかかるところもあるのだが…… |
north_god | 吉本芸人がファンや同業者の女性を食ったり拒絶したら「だからお前はダメなんだ」と説教してるなんてジャニの件と同じくらい黒い噂あって、ダウンタウンファンが今更知らなかったは流石に変だと思うんだよね |
runningupthathill | さすがの整理。リスクの高い「遊び」をしてれば大火傷を負う可能性は当然ある。犯罪かどうか、道義的問題の有無、どちらも今は未確定。しかし被害者の訴えを簡単に疑ってはならない。文春経由であったとしても。 |
usomegane | 『週刊誌が完売して儲けてるだけだ、なんてつまらない皮肉をいってる芸人もいましたけど、主張の中身にきちんと反論してください』 |
zyzy | 「ほうはほうなんですぅぅぅけいじばつじゃないからつみっていうなぁ」という人はいい加減「人を犯罪者扱いする事自体は法律に刑事的な罪とは書いてない」って理解しような。間違ってても法は法なら犯罪者扱いも無罪 考え方 |
metalmax | 冤罪についての認識がびっくりするほどおかしいんだけどもしかして今はこの考えの人が少なくないんだろうか… |
cartman0 | 携帯取り上げて行為に応じないと返さない時点で軟禁・監禁の可能性あるよね |
nekonyantaro | 芸能界で優越的な地位の悪用(性的なものに限らず)が横行するのは世界共通?ハリウッドでも何か有った記憶が。 社会芸能事件性 |
Shin-Fedor | 真実は複数あり得る。例えば松ちゃんは「部屋に来て逃げ出しもせず射精させてくれたから合意だろ」と考え、女性たちは「恐怖で逆らえず、手や口でする事で許してもらおうと思った」となれば、事実は一つ真実は二つ。 |
outalaw | 擁護は人情論じゃなくて似た事例がたくさんたくさんあるからだと思う。テレビとか反省するわけ無い(というか似た事例が現在進行系でたくさんありすぎてできない)。 |
irh_nishi | 今の時代は昔と違ってデマ拡散が利益になるので明らかに偽証と分かっていなくても報じるべきではないよ。裏取りをしてあるならそれを証拠として報じるべきだけど文春は証言しか掲載してない。 |
hetenabeck | 8割くらいは同感、残りは少し偏りを感じる。警察の問題と推定無罪の法則は別。 |
sierraromeo | 勢いで全文同意したくなる文章だなぁ(とりあえず保留) |
hiroyuki1983 | 未成年を対象にしたジャニーズとは根本が違うでしょ。意図的に混同させようとしてる人ちらほら見るけど |
jigarashi | 「だから犯罪被害の告発を軽々しく否定してはいけないのです。」だからと言って軽々しく被害者の証言を鵜呑みにして自分一人で盛り上がらなくても |
remwegc | “あとからリークされた女性からのお礼メッセージが合意の証拠にはならないことは、すでに専門家が指摘してます。” だよね |
hakasegawa | “共感はスポットライトである。対象者だけを明るく照らし出すが、その周囲は暗闇で、何があるのかまったく見えないのだ。 中略 世話になった松本さんを一方的に信じる志らくさんは非情です。” パンチライン多い。 |
Yagokoro | これに乗っかってる奴は、アホやろ |
turanukimaru | 今のところ女性の告発を疑う理由はないし松本氏は反論してないし義理人情で松本氏を擁護すべきではない。との主題は私もそう思うが冤罪が悪い理由とか合意の内容が問題とか細かい話が法的におかしいのではなかろうか |
namisk | 説得力ある |
noabooon | 僕の中の個人的神であるパオロ・マッツァリーノ様がまだ活動されていたことに感動を禁じ得なくて中身が何も入ってこないww |
kasahannra | 後で読む |
kagehiens | うっわ……、フルボッコにしてはる。が、まぁこれ位は書かれても仕方がない程度にクズの所業をしたという嫌疑をかけられているのだから、申し開きが出来ない=所業がクズの芸人を炙り出す事に成功したという話になる |
youtanwa | >重要なのは合意があったかどうかではなく、合意の中身と合意に至った状況です。 |
cyber_bob | 裁判後の判決次第では訴えられる可能性がある文章をブクマ。裁判で名誉毀損の証拠として提出できそう。 |
ho4416 | 罪とかいう一言で刑事と民事と道徳と倫理と正義を(意図的に)ごっちゃにして語る人間は信用しない |
grdgs | 明らかになるまで黙ってろって者達は、告発女性への誹謗を止めたりは決してしない。中立の振りをしながら、彼らの意図・立ち位置はバレバレ。 |
sinopyyy | だいだい同意かな。↓ジャニーなんて法で裁かれずに亡くなっただけでやってたこと犯罪じゃん。 |
wktk_msum | これは痛快、キレッキレの名文。同意合意を絶対視するリスク、携帯を取り上げる異常性、松本のパワハラ、明快な言語化/ちょっと偏りがある印象も抱く。ただ全体的に良文 犯罪あとで読むブコメ読むこれはすごい |
syamatsumi | マッツァリーノ氏は流石だなー。ぼくもこういう言及が出来るようになりたいわ。(思うだけで行動はしないのでおそらくムリだけど) |
doku_2gou | この文章はたった今「明らかに自分より有能で偉い人」にセクハラ、パワハラを受けて告発を躊躇う人に有用だと思う |
mag4n | 論点整理はされているが事実確認の理論展開がしょぼい。もう法廷行きなのとそこで何があったかの証拠の出し合いしかないので素人が偉そうに何言ってもしょうがない、分からないことは分からないというべき案件。 ネタ |
kommunity | 長文だけど読ませる。/別問題だったけど、島田紳助が引退追い込まれたとき松ちゃんどう思ってたのかな…あれだけの騒ぎで自分は大丈夫だとたかを括ってたのなら相当残念。(もちろん性被害が事実だった時) 社会犯罪考察芸能お笑い読み物society女性メディア |
yowie | 少し危うい踏み込みもあるが、不倫、事前対価合意なし、ワンナイト×複数回というほぼ確定の部分だけで、違法となるかはともかく、全部何の瑕疵もない同意内のみってのはほぼ無理だとよねという感性が重要かなと。 |
gyakutorajiro | 法廷外での不誠実かつ疑わしい言動…まあそうだよなぁ、スマホ没収も確かに。説得力あるなぁ、名文だ。「予断を持ってはいけない」ね、予断って言葉、「予断を許さない」以外だとこういう風に使うのね。 |
mohno | 「ジャニーさんは犯罪者だった」←強制性交(強姦)が性別を問わない形になったのは2017年、5歳差以上で成功同意年齢が16歳に引き上げられたのは2022年で、犯罪とは確定していない。冒頭からこれでは読む気がしない。 マッツァリーノジャニー喜多川松本人志リテラシー |
ryusso | そうだな。 |
tetsuya_m | 丁寧な考察 |
lb501 | 法的に罪があるかどうかはグレーだけど、出演番組にスポンサーがつかなければアウトでしょ。 |
run_rabbit_run | 薬やら女やら、芸能人なんてそんなもんだ...って呆れつつも「大目に見る」感情を持っていたので、それが差別だと言われてハッとしました。 |
tsumanne30 | 芸人の源流が河原乞食であることも、だからこそ法や常識の埒外に置かれたことも、歴史的な事実ではある それが今や「権威・権力」側になってしまっていることに、当人たちはどれだけ自覚があるのやら |
hatsumoto | “性犯罪を学問的に研究している学者や、性犯罪被害の弁護に詳しい弁護士といった専門家を呼んで解説してもらうべき”ここが1番同意。性絡みだと舐めプorバグる仕様が日本社会にある |
shidho | これ、元が反社会学なだけに、数日後に種明かししつつ今度は全く逆の論調で逆の提案を書くやつだったりしない? (社会学なら自分の意見に合うデータさえあればそれで何の論でも書ける、つまりどちらも意味のない論) 芸能要確認 |
unnmo | 河原者に戻りたいんですか?はダメでしょ。過去被差別階級にあった事を持ち出して現在の振る舞いを矯正しようとするのは違うと思う。 社会犯罪女性 |
uchya_x | これを読んでもわからないバカはもう放っておくしかない。 |
kurotokage | いくつか気になる点はあれど、後輩へのパワハラになり得ることと、証言の取り扱いの公平性については特に同感。前者は芸人は実力主義という建前も失いかねない。 |
beyoooooooon | よくこんな冤罪がどうこういう癖にいきなり犯罪者扱いしてる私は偏ってますよと自己紹介してる奴の長文読めるね。俺は洗脳されそうで無理。 |
i196 | 確かにそうだよな、と思うところ多数 社会考察 |
wapa | 冤罪のくだりといい、ちょくちょく気になる表現や決めつけがあり、全面的には賛同できない感じの記事。断定できないことについては、赤の他人がその仮定を前提に断罪もできないのでは?推定無罪とは |
nanako-robi | うんうん。 |
Southend | 愚行権のツケを払う時が来たのは間違いない。個人的に意外だったのは、紳助の引き際をある種の成功ロールモデルと考えているのかもと思ってたら違ったこと。芸能界 |
最近ニュースで連日報道されているように、公立学校教員の労働環境はブラック企業顔負けなことで有名だ。
月給の4%(2024年時点)を上乗せする代わりに、勤務時間外は残業代どころか給与を一切出さないというものだ。
とはいえ給与が支給されなければ法的には職務に従事する義務はない。これは公立学校教員も同じだ。
言い換えると、法的には部活動など勤務時間外はボランティアと同等。
それにもかかわらず、教師の皆さんはマジメな人が多く、責務と思ってそのままやってしまう。
管理職側や同僚も同じ経験をしてきたからか、普通に命令してくる。
なお、この命令が職務命令なのか拒否可能なお願いに過ぎないのかは、文部科学省も教育委員会も明言を避けている。
給与特例法を何とかしようと多くの人が立ち上がったが、法律として成立している以上実現できていない。
となると現状は上記の通りなのだが、唯一の例外がある。それが「勤務時間の割り振り」だ。
校外学習の引率や職員会議など、校長がやむを得ず勤務時間外の職務命令を出したときは、その分他の日の労働時間を短くできるというものだ。
最もどの職務が割り振りの対象になるかは地域や勤務校によって差が出やすいことも問題だが、ここではおいておく。
となると、勤務時間外に職務への従事を命令されたのであれば、勤務時間の割り振りを出すか、自由に拒否できる状態でなければならない。
ここでは、私が勤務時間外に職務をさせられることになったため、勤務時間の割り振りを勝ち取った話をしたい。
私の勤務校は、校長いわく「課題のある学校」(=小学校で学級崩壊したため、生徒指導で無理やり押さえつけないと荒れる可能性のある学校)だそうだ。
また勤務校はある委託研究をしており、職員会議でもよくその話が出る。
また「非常にやる気のある先生」が多く、始業時間1時間以上前から出勤し、終業時間から3時間以上残るだけでなく、休みも仕事をやりたがる先生が多い。
こだわりの強い先生や気の強い先生も多く、色々めんどくさいことも多い。
(これも地域や学校によって異なる。このようなところもあれば、残業時間を引け目に思っており毎日原則定時退勤せよと言っているところもある)
私はできる限り時間外在校時間を短く、休憩時間はしっかりと休み、長期休業期間は年次休暇などを連続して入れてバカンスを楽しめるようにしていた。
それでも急な雑用や昼休み・放課後の生徒対応などで休憩時間を潰されることがしばしばあった。
なので、休憩時間に職員室を離れてはならないと管理職より言われる状況だった。
むしろ「給料が出ないからといって周りを手伝わないのはどうかと思うよ」「ビジネスライクにやりたいならこの仕事は向いてない」とまで。
一応違和感を感じながらもできる限り気にしない方向でやってはきた。
が、教務主任より夜遅くの家庭訪問を命じられた時、ついに堪忍袋の緒が切れた。
どんなやり取りだったかはっきりは覚えていないが、こんな感じだったと思う。
教務主任(以下、教)「私くん、(生徒)さんの家に電話して。保護者の方が帰宅する今夜にね」
私「今保護者の携帯に電話したり、明日の対応じゃダメですか?」
教「今日じゃないとダメ。それに生徒と一緒になるべきだから今夜しかないね」
教「あ、やっぱり電話より家庭訪問の方が誠意があるからそっちにして」
教「打合せするから別室に来て」
別室へ。
教「~というわけ。私くん、よろしくね」
私「成長なんていらないんですけど」
教「え?」
私「金ももらえないくせして何が成長だ!!」
教「いきなりどうしたの?話聞かせて」
私「大体休憩時間に雑用押し付けて、勤務時間外も拘束して、休みの日に電話してきて、何様だお前は!!」
私「1分1秒でも取られたくねぇよ!!なんの法律があるんだよ!?」
私「社会人としての責任を果たさなければいけない法律はあるのか!?」
教「子供、嫌いなの...?」
私「さっき成長とか言ってたけど、押し付けがましいんだよ!!気持ち悪いんだよ!!二度としてくんな!!」
教「...」
校長(以下、長)「何を騒いでるんだ?」
教「(事情を話す)」
私「本当は教員になるつもりなんかありませんが、選択肢がないので仕方なくなりました。志望動機も面接は嘘をつかないと採用されないんで」
私「あと私は金のためだけに働いてます。というか話をそらさないでください」
長「わかった、職務命令とする。割り振りはつけてくれていいから家庭訪問行ってきて」
私「ならわかりました。何時間つけるんですか?」
長「家庭訪問の30分で」
私「待機時間は教務主任に拘束されたんですが、それは含まないんですか?」
長「...」
教頭と2人きりに。教頭は「ん~ボク?今日はどうしたの?」的な顔でこちらを見つめている。
頭「結局校長先生は君の割り振りを認めてくれたけど、同じことをしても僕にはないんだ。なんでだろうね」
私「(は?こいつ罪悪感を感じさせて割り振り獲得をあきらめさせる気か)そういうものは校長先生に聞いてください」
頭「いやだから君はどう思う?」
頭「...」
長・頭「了解」
私「はい」
長「さっきの割り振りだけど、どのくらいにするかは後日話し合おう」
私「あとでやっぱやめたとか忘れたふりをするつもりですか?」
長「(曇った顔で)そんなことしないって言ってるでしょ」
私「じゃあ帰ります、お疲れさまでした」
こうして、遅い時間の家庭訪問をさせられたものの、職務命令と認めさせることで勤務時間の割り振りを獲得することに成功した。
とはいうものの、引っかかるのが割り振りを後日話し合おうと言ってきた点だ。
好意的に解釈すれば、在校時間がこれ以上伸びないための配慮だが、本当にうやむやにしないだろうか?
教育委員会の人とかを連れてきて諦めさせようとしてくるのだろうか?
それとも、形式的に割り振りをくれるだけで、使わせずに消滅させる(割り振りは年次休暇より時効がとても短い)気だろうか?
校長、どうにかして割り振りは出したくないというか、無給労働させたい感じに見えるんだよね。
そんな疑念を抱えながら出勤したところ、
長「教育委員会からの通達も来たし、定時からの待機時間含めて割り振りを出すことにした」
私「(今回の件、教育委員会に上げたのね)」
一応は割り振りをもらえたものの、少し気になる点があった。
・この割り振りは有給休暇と異なり、放課後にしか使えないこと。
・放課後の行事練習があると、その使用が制限されたり、割り振り時間に食い込んでの職務を要求される可能性がある。
・裏台帳を使っての申請になった。つまり、割り振りそのものは勤怠記録には記載しない(勤怠記録をいじってフルタイムで勤務したように見せる)。
→不公平に思う同僚がいるからか?だとしても権利を主張すればいいだけの話なのだが。
今回のことをいろんな人に話してみると、反応は様々。
懇意にしてくれる先生は「割り振りもらえてやったぁじゃなくて教務主任に感謝しなよ」
出身大学の助教は「こうなったらいたたまれなくなって退職する人が多いのにメンタル強いな」とほめてもらった。
とりあえず、条件付きとはいえ待機時間含めて割り振りを獲得することに成功した。
休憩時間や勤務時間外の無給労働は他にもあるので、今度から同じようにしてみよう。
「法律ですか?職務命令ですか?そうであるなら割り振りを出してください。違うなら拒否します」
と。どちらに転んでも旨味が大きい。
なお、これは勤務時間外であり、犯罪ではないので人事評価が下がることも懲戒を受けることもない。
結局、一番の原因は「直接の給与にはならないけどこれも仕事のうち」というグレーな考えなんだろうな。
恥だとか責任だとか悩んで何もしないと上司の思うつぼ。何も言わないからいい気になって無給労働させてくるだろう。
(それはそうと、権利を主張しないだけならともかく、足を引っ張ってくるのが同じ立場の労働者というのが、ニッポン七不思議のひとつでもあるが)
とにかく、権利を主張することが権利獲得の最短ルートに他ならない。これだけは断言できる。