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2018年8月13日のブックマーク (2件)

  • 「あめぞうリンク」は日本のインターネット文化の底流だ | 集まれ「インターネット老人会」 | 文春オンライン

    私は1990年代のほとんどを全国紙の事件記者として過ごしていて、刑事宅への夜回りや現場の聞き込み取材に翻弄されていた。でももともとはそんな仕事を目指していたわけではない。大学を中退して26歳で新聞社に入る以前、ぶらぶらと執行猶予のようにボンクラ学生として過ごしていたころ、ふと思いついてバイト代をはたいて購入したパーソナルコンピューターにすっかりはまり、やがて漢字も使えるマシンに買い替え、ついには国内で販売されたばかりだった通信モデムも買った。 日夜活発に行われた政治や社会、経済の議論 マシンはエプソンのPC-9801互換機、PC-286U。モデムは1200bps。1987年の秋のことだ。Nifty-Serveなどの商用パソコン通信サービスが始まった直後のことで、パソコン購入で貯金を使い果たしていて入会する余裕もない。当時はパソコン通信のホストを個人が自宅で設置するのが小さなブームとなってお

    「あめぞうリンク」は日本のインターネット文化の底流だ | 集まれ「インターネット老人会」 | 文春オンライン
  • 「なぜ高畑勲さんともう映画を作りたくなかったか」――鈴木敏夫が語る高畑勲 #1 | 文春オンライン

    高畑さんが亡くなり、「お別れの会」を終えたいまも、気持ちが収まる気配がありません。徳間康快や氏家齊一郎さん、あるいは親父やお袋が死んだときも、葬儀を終えてしばらくしたら、心の整理はついたんです。ところが、今回はなかなか落ち着かない。気がつくと、すぐそこに高畑さんがいるんですよ。こんなことは生まれて初めてです。それだけ強烈な人だったということなんでしょうけど、正直なところ困っています。 お別れの会でも話しましたが、高畑さんと僕は最後の最後まで監督とプロデューサーでした。ある種の緊張関係がずっとあったんです。 鈴木敏夫(スタジオジブリ 代表取締役プロデューサー) ◆ ◆ ◆ 最初にじっくり話をしたのは、高畑さんが『じゃりン子チエ』を作っているときでした。当時の僕は『アニメージュ』の編集者。制作会社テレコムがあった高円寺の喫茶店でインタビューすることになりました。席に着くやいなや、高畑さんは先制

    「なぜ高畑勲さんともう映画を作りたくなかったか」――鈴木敏夫が語る高畑勲 #1 | 文春オンライン