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必要な問題提起に関するheis101のブックマーク (4)

  • ヤンキーもオタクも、思春期アイデンティティとして大して役に立たなくなってしまった - シロクマの屑籠

    終業式が終わり夏休みが始まりました。ロードサイドのショッピングモールで、今では地方都市の定番となったヤンキースタイルの男の子やキャバ嬢メイクの女の子の姿を沢山見かけるのも、そのせいかもしれません。 ところで、ヤンキースタイルに限らず、昔は思春期のファッションやスタイルって、大人世代や親に対するカウンターとしてかなり重要だったと思うんです。昭和時代後半の「ツッパリ」なんかが典型的ですが、たとえ親や社会から鼻つまみ扱いされようとも敢えてそのスタイルを選ぶのは、心理的に自立していくプロセスの一環としてそれなりに意味がありました。もちろん、そういったヤバいファッション・ヤバいスタイルを選ぶからには親や教師から睨まれてしまいますし、やりすぎて非行に至ってしまうリスクもあります。けれども「親から自立したアイデンティティの構築」という思春期の発達課題をクリアするにあたり、そういった社会的逸脱を必要とした

    ヤンキーもオタクも、思春期アイデンティティとして大して役に立たなくなってしまった - シロクマの屑籠
    heis101
    heis101 2011/07/28
    「少子化が進み、しかも先行世代がなかなか思春期*1を手放さない時代がやってきましたから、新しい世代は、自分達だけの新しいカウンターカルチャーを創出するのが難しくなっているように見えます。」
  • 【コラム】ニートは精神科病棟に閉じ込めておけばよい - AMOKNの日記

    タイトルは来の趣旨と逆のことを意味するのだが、表面的には同じようなことに見えるのであえて付けてみた。 今、国は医療費削減のためか精神科における社会的入院を減らそうとしている。 それまで家族に見放されたり、そもそも帰るべき家族がいなくて何となく精神科の閉鎖病棟もしくは開放病棟に入院していたヒトを外にリリースしろというのである。 端から見ていると、外で自立して生活できるようなヒトとはとても思えない人が多いのよ。 一方、病院の中ではけんかもするけど、看護師や医師なども含めてそれなりの社会が作られているわけ。もちろん、ソーシャルワーカーのヒトが外で自立できそうなヒトはそれをサポートしているのだけれど、数字の目標を出してとにかく出せといわれても果たしてそれが彼らにとって幸せなことなのかなと思うわけです。 そういう病院的なところで半自律的な生活をするのもありなのではないかと思うわけです。 中途半端に

    【コラム】ニートは精神科病棟に閉じ込めておけばよい - AMOKNの日記
    heis101
    heis101 2009/11/02
    病院じゃなくても半自律的な生活をしている人はたくさんいると思われ。「そういう病院的なところで半自律的な生活をするのもありなのではないかと思うわけです。」
  • 小中学校の先生との会話 - 諏訪耕平の研究メモ

    今日も元気に保育園のバイトに行ったら小学校と中学校の先生が研修にいらしていた。小学校は新任の先生で両方女性,中学校は中堅の先生で女性と男性。小学校のほうは幼保小連携の一貫ということらしく,これは明るいニュース。丸二日授業を休んで保育園でずっと保育士体験をするとのこと。こういう形であれば,「(幼保小連携は)忙しいから無理」ということもないだろう。 中学校は,地域交流の一環だそうで,保育園と老人ホームに行くのだそう。それはいいけど,だったら小学校に行けばいいのにと思い聞いてみたら,小学校との交流はほとんどないとのこと。というか仲が悪いと思うとのこと。さらに言えば学内でも先生同士仲が悪いので小中交流どころじゃないとのことで,かなり深刻な話だった。地域交流はやっても小中交流はやらない中学校。もう1人の中学校の先生も,「小中交流って当にないですよね」とのことで,いじめや不登校が中学校に入ると跳ね上

    小中学校の先生との会話 - 諏訪耕平の研究メモ
    heis101
    heis101 2009/07/25
    「聞けば聞くほどかなりすごい状況なのに,中学校におけるこうした問題が取り扱われ,研究されるのを見ることはあまりない。恐らく,入っていけないのだろう。」
  • 感動の「貴賤」とは - すべての夢のたび。

    ごく最近、ぼくの「考え続けたいこと」に加わったので、自分でもまだよくわかっていないことについて書きます。「涙の理由」の81ページ後半から2ページ分程引用。小説家重松清氏と“脳科学者”茂木健一郎氏の対談です。 重松:「小説映画での感動」と、「音楽を聴く」や「絵画に出会う」感動は違うような気がする。実は音楽で泣いたことがないんだよね。ニューミュージックの歌詞では泣くんだけれど(笑)。クラシックで魂が震えたことって、僕はないんです。茂木さんは相当あるよね? 茂木:そうですね。ほんの少し(笑)。 重松:茂木さんがモーツァルトで感動するのは、どういう心の動きですか? 茂木:島田雅彦が――あいつは時々面白いことを言うのですが――「文学と接点を持てないと偉くなれない」と。要するに、生きること、人生のブックキーピング(帳簿付け)を考えたとき、音楽や美術・アートは、パーツになる。たとえばアート界の偉い人の

    感動の「貴賤」とは - すべての夢のたび。
    heis101
    heis101 2009/04/13
    なまの体験ほど高価値だとすると、確かに、言語という人間の意識的な恣意性が介在するうえでの感動は落ちるわな。でも言葉を学ばないと芸術に感動できないということもある気がするから微妙なんだよね
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