年末最後の更新となる今回は、 毎年恒例となりました、写真でこの一年を振り返ってみたいと思います。 1月 ななちゃんと雪ロケ in 富山⛄ 雪の季節に来る北陸は初めてで、冬の立山連峰が綺麗でした🎶 2月 みこっちゃんと雪ロケ。 結構雪深く、足を取られたりして大変でしたが楽しかったです❄ 3月 みこっちゃんを連れて本州最南端へ。 みこっちゃんとは初めての潮岬。次はコンゴウ様と、かな。 ななちゃんはソメイヨシノより少し早く咲く河津桜と🌸 山里をピンクに染める姿がとっても綺麗でした。 4月 2022年初のコスイベはハーベストの丘。 満開のチューリップ畑と撮れて幸せでしたよ🌷🌷 翌週はみこっちゃんとモンコスへ。 久しぶりにチャイナドレスでの参戦でした。 5月 紀北エリアでロケ。 まだまだ行ったことのない場所もたくさんありそうなので開拓しないとですね。 6月 ななちゃんは3年ぶりの須磨離宮公園
-あ- 秋静葉 / 秋穣子 / アリス・マーガトロイド / 飯綱丸龍 / 十六夜咲夜 / 因幡てゐ / 犬走椛 / 茨木華扇 / 伊吹萃香 / 今泉影狼 / 宇佐見菫子 / 宇佐見蓮子 / 牛崎潤美 / エタニティラルバ / 戎瓔花 / 小野塚小町 / 奥野田美宵 -か- 鍵山雛 / 火焔猫燐 / 霍青娥 / 風見幽香 / 幽谷響子 / 上白沢慧音 / 河城にとり / 稀神サグメ / 鬼人正邪 / キスメ / 吉弔八千慧 / 霧雨魔理沙 / 菅牧典 / 雲居一輪 / クラウンピース / 驪駒早鬼 / 黒谷ヤマメ / 小悪魔 / 豪徳寺ミケ / 東風谷早苗 / 駒草山如 / 高麗野あうん / 古明地こいし / 古明地さとり / 魂魄妖夢 -さ- 西行寺幽々子 / 坂田ネムノ / 冴月麟 / サニーミルク / 四季映姫・ヤマザナドゥ / ジャケットのあの子 / 射命丸文 / 純狐 / 杖刀偶磨
二代目大江 美智子(おおえ みちこ、1919年2月20日[1] - 2005年7月)は、日本の女優である。急逝した先代から一座を引き継ぎ、女剣劇を成長させた舞台女優である[1]。初期の芸名は大川 美恵子(おおかわ みえこ)、本名は細谷 ヤエ(ほそや やえ)[1]。 1919年(大正8年)2月20日、神奈川県横浜市南太田町(現・南区南太田)に生まれる[2]。 1934年(昭和9年)、満15歳で女剣劇の劇団「大江美智子一座」に入団、座長の初代大江美智子に師事し、芸名を「大川美恵子」とする[1]。 1939年(昭和14年)1月6日、初代大江美智子が神戸での公演中に急逝し[3]、同年、二代目「大江美智子」を襲名した[1]。1942年(昭和17年)、浅草に進出、同じく女剣劇のスター不二洋子と競うほどの人気を得る[1]。 大衆性溢れる、女剣劇のスターとして一時代を築き、十八番とされた『雪の丞変化』の早
飛鳥井 雅経(あすかい まさつね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿・歌人。刑部卿・難波頼経の次男[1]。二条または明日香井を号す。官位は従三位・参議。飛鳥井家の祖。小倉百人一首では参議雅経。 治承4年(1180年)叙爵し、以後侍従などを歴任するが、源頼朝・義経兄弟が対立した際に義経と親しかった父・頼経が配流され、雅経も連座して鎌倉に護送される。だが、雅経は頼朝から和歌・蹴鞠の才能を高く評価され、頼朝の息子である頼家・実朝とも深く親交を結んだ。その結果、頼朝から猶子として迎えられ、更に鎌倉幕府政所別当・大江広元の娘を正室とするなど重んじられた。建久8年(1197年)に罪を許されて帰京する際には、頼朝から様々な贈物を与えられた。 その後、後鳥羽上皇の近臣として重んじられ、建保6年(1218年)には従三位に叙せられ、承久2年(1220年)には参議に任命された。また、院における歌壇で
小倉百人一首より 伊勢大輔(いせのたいふ / いせのおおすけ、永祚元年(989年)? - 康平3年(1060年)?)は、平安時代中期の日本の女流歌人。大中臣輔親の娘。高階成順に嫁し、康資王母・筑前乳母・源兼俊母など優れた歌人を生んだ。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。
源 経信(みなもと の つねのぶ)は、平安時代後期の公家・歌人。宇多源氏、権中納言・源道方の六男[1]。官位は正二位・大納言。桂大納言と号す。小倉百人一首では大納言経信。 後一条朝の長元3年(1030年)従五位下に叙爵し、長元6年(1033年)三河権守に任官する。その後、後朱雀朝から後冷泉朝前半にかけて刑部少輔・少納言・左馬頭等を歴任、この間、長久3年(1042年)従四位下、永承8年(1053年)正四位下と昇進している。 康平5年(1062年)右中弁に抜擢されると、康平6年(1063年)権左中弁、康平8年(1065年)蔵人頭兼右大弁と弁官として順調に昇任され、後冷泉朝末の治暦3年(1067年)参議として公卿に列した。 参議昇進後も引き続き弁官を兼帯する一方、中宮権大夫として後三条天皇中宮の馨子内親王に仕え、この間の治暦5年(1069年)従三位、延久3年(1071年)正三位、延久4年(107
藤原兼輔(狩野尚信『三十六歌仙額』) 藤原 兼輔(ふじわら の かねすけ、元慶元年(877年) - 承平3年2月18日(933年3月16日))は、平安時代中期の公家・歌人。藤原北家、右中将・藤原利基の六男。賀茂川堤に邸宅があったことから堤中納言と号した。小倉百人一首では中納言兼輔。三十六歌仙の一人。 醍醐天皇の外戚であったことからその春宮時代より仕える。この頃のちに義父となる醍醐天皇の伯父で右大臣に昇る藤原定方も同じく春宮殿上しており、この頃より交流があったか[1]。寛平9年(897年)に醍醐天皇が即位すると昇殿を許される。醍醐天皇に非蔵人として仕える傍ら、右衛門少尉を兼ね、延喜2年(902年)従五位下に叙爵する。 延喜3年(903年)内蔵助に抜擢されるが、この頃より定方の娘の許へ通い始める[2]。のち、内蔵権頭・内蔵頭と20年近くの長きに亘って内蔵寮官人を務める傍ら、左兵衛佐・右衛門佐・
大弐三位歌碑、有馬山ゐなの笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする、京都市上京区廬山寺内 大弐三位(だいにのさんみ)は、平安時代中期の女流歌人。女房三十六歌仙そして百人一首の歌人として知られる。藤原宣孝の娘。母は紫式部。本名は藤原賢子(ふじわら の かたいこ / けんし)。藤三位(とうのさんみ)、越後弁(えちごのべん)、弁乳母(べんのめのと)とも呼ばれる。 長保3年(1001年)3歳ごろ父藤原宣孝と死別。藤原宣孝と紫式部の結婚生活は3年あまりだった。長和6年(1017年)18歳ごろ、母の後を継ぎ一条院の女院彰子(上東門院)に女房として出仕[* 1]。この間、藤原頼宗、藤原定頼、源朝任らと交際があったことが知られている。その後、関白・藤原道兼の次男・兼隆と結婚、一女の源良宗室をもうけた。これは『栄花物語』「楚王の夢」「大宮の紫式部が娘・越後の弁、左衛門督の子産みたる」の「左衛門督」を兼隆とする解
滝口 宗安(たきぐち(の)むねやす)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武士[1]。滝口武者の一人[1]。実名は前野宗安で、前野家3代目当主である[1]。本姓が良岑氏であるため正式な姓名は良岑宗安である。 京都御所で復元された滝口 滝口宗安は、当時の良岑氏流前野氏の当主前野(滝口)宗長の嫡男として長寛2年(1164年)に生まれる[1]。父の宗長は平忠度の従兄弟となり、由縁を求めて一族とともに京都へ移る[1]。父の宗長と共に平忠盛・忠度親子に仕え、内裏の北門警護を任される武士へと出世し、帝から滝口姓を勅許蒙る[1]。 養和元年(1181年)、木曽冠者源義仲が挙兵し越後国に攻め込んだ際には、主君・忠度の命令で越後守・城長茂加勢のため出陣する[1]。宗安は、頸城郡吉田荘に砦を築きこれを守った[1]。この際に縁があった菅原天神の社家吉田氏の娘を妻とし、前野時綱らを産んだ[1]。 城長茂ととも
滝口宗長(たきぐち(の)むねなが、仁安2年(1167年)~承久3年(1221年)6月14日)は、平安時代末期頃の武士[1]。良岑氏流前野氏の始祖とされる前野高長の子[2]。実名は前野宗長であり、前野家2代目当主[2]。滝口宗安の父[2]。滝口武者[1]。 京都御所で復元された滝口 滝口宗長は、尾張国の豪族・良岑氏流前野氏の初代当主である高長の長男として生まれる[2]。初名は前野小二郎[2]。元服して前野右馬入道宗長を名乗る[2]。尾州小弓荘の荘主となった。 叔母が平忠盛の側室となり、平忠度を産んだため、由縁を求めて京都へ移る[1]。平忠盛・忠度親子に仕えることを許され滝口武者へと出世し、承元4年(1210年)3月、帝から勅許を得て滝口姓を名乗る[2]。従兄弟の下野高助や弟の羽黒長高ら一族郎党を率いて京都御所の滝口を本拠とし、御所北門を警護した[2]。 宗長は、前野家で最初に武門の基礎を築き
前野高長は、良岑高成の子として平安時代後期に尾張国丹羽郡で生まれる[2]。母親は上総広常の娘とも、広常の妹とも、あるいは前野光幹の女ともされる。始め良岑高長もしくは立木田高長。丹羽郡小弓荘の荘園の荘主となって土地の開発を進める。 高長の母親が前野党の生まれといわれ、その由縁をもって稲木庄の地を前野村と号す。現在の愛知県江南市前野町付近。前野村の草分けとなって前野大夫を称し、良岑氏流前野氏の祖となる[2][注釈 2]。高長はこの地を伊勢神宮に寄進し、前野村は神宮の御厨となった[4]。毎年八丈絹十五疋上納めたという[4]。また法性寺関白に伺候している。 子孫に前野長康、前野忠康、前野助左衛門、佐々宗淳、前野五郎などがいる。
良岑高成は良岑季高の子で、桓武天皇皇子である良岑安世を祖とする良岑氏の系統である。 官位は従五位下 - 上総守(じゅうごいのげ - かずさのかみ)。父の跡を継いで尾張国丹羽郡郡司となる。立木田家は代々尾張国二宮大縣神社の大宮司も務めてきたという。 高成の娘は、桓武天皇皇子葛原親王の子孫で平清盛の父である平忠盛の側室であるとされ、『良岑氏系図』では高成の娘と忠盛の間に平忠度が生まれている。[2] また高成の子の前野高長は良岑氏流前野氏の祖[3] であり、主な良岑氏流前野氏の人物には、前野宗康、(前野宗吉[4])、前野長康[5] 、前野忠康などがいる。また尾張国の土豪でもある前野家が尾張に拠点を置いていたのは、良岑家が代々尾張国丹羽郡の郡司であった影響である。
十代の頃に一時期修理大夫・橘俊綱の猶子となる。篳篥に優れ、始め堀河天皇近習の楽人として活動し、承暦2年(1078年)の『承暦内裏歌合』には楽人として参加している。承保4年(1077年)右近衛少将に任ぜられると、10年近くに亘ってこれを務め、応徳3年(1086年)左京権大夫に遷った。 嘉保2年(1095年)に父の大納言・源経信が大宰権帥に任じられたため、俊頼も父に従って大宰府へ下向するが、承徳元年(1097年)経信の死去に伴い帰京する。その後は、堀河院歌壇の中心人物として活躍し、多くの歌合に作者・判者として参加すると共に、『堀河院百首』を企画・推進した。天治元年(1124年)白河法皇の命により『金葉和歌集』を撰集。藤原基俊と共に当時の歌壇を代表する存在となった。歌風として、革新的な歌を詠むことで知られた。 長治2年(1105年)に従四位上・木工頭に叙任され、天仁3年(1110年)越前介を兼ね
良岑 季高(よしみね の すえたか、生没年不詳)は、平安時代末期の貴族。官位は散位従五位下[1]。良岑惟季の子で、子に良岑高成。 良岑季高[編集] 季高は、尾張国丹羽郡の郡司・良岑惟季の子に生まれる[2]。父の跡を継いで丹羽郡司となる。季高の子・良岑上総守高成は、良岑氏流前野氏の始祖・前野高長の父である。高成の娘で高長の妹にあたる人物は平忠盛の側室となり、平忠度を生んだ[2]。良岑氏は桓武天皇と百済永継の子である良岑安世を祖とする氏族[1][2] で、種別としては皇別に分類される。本貫は山城国で、後裔には児玉丹羽氏・良岑氏流前野氏などがある。この季高も、良岑安世の子孫である。 系譜[編集] 父:良岑惟季 母:不詳 妻:不詳 男子:良岑高成 良岑氏系図[編集]
良岑 惟季(よしみね の これすえ、生没年不詳)は、平安時代末期頃の貴族。官位は散位従五位下[1]。子に良岑季高。尾張国丹羽郡司。 人物[編集] 惟季は、尾張国丹羽郡の郡司・良岑惟光の子に生まれる[2]。惟季の孫で季高の子である良岑高成(上総守)は、良岑氏流前野氏の始祖・前野高長の父である。高成の娘で高長の妹にあたる人物は平忠盛の側室となり、平忠度を生んだとされている[2]。良岑氏は桓武天皇と百済永継の子である良岑安世を祖とする氏族[1][2] で、種別としては皇別に分類される。本貫は山城国で、後裔には児玉丹羽氏や良岑氏流前野氏などがある。この惟季も良岑安世の子孫にあたる。 系譜[編集] 父:良岑惟光 母:不詳 妻:不詳 男子:良岑季高 男子:良岑長季(成海大夫、『寛政重修諸家譜』には季高の名は記載されず長季なる人物の名のみが惟季の男子として記されている) 良岑氏系図[編集]
良岑 惟光(よしみね の これみつ、生没年不詳)は、平安時代中期ごろの貴族。官位は散位従五位下[1]。良岑惟頼の子で、良岑惟季の父。 人物[編集] 惟光は、尾張国丹羽郡の郡司・良岑惟頼の子に生まれる[2]。惟光の曾孫で季高の子である良岑高成(上総守)は、良岑氏流前野氏の始祖・前野高長の父である。高成の娘で高長の妹にあたる人物は平忠盛の側室となり、平忠度を生んだとされている[2]。良岑氏は桓武天皇と百済永継の子である良岑安世を祖とする氏族[1][2] で、種別としては皇別に分類される。本貫は山城国で、後裔には児玉丹羽氏や良岑氏流前野氏などがある。この惟光も良岑安世の子孫にあたる。 系譜[編集] 父:良岑惟頼 母:不詳 兄弟:良岑季光、良岑惟光、橘為通 妻:不詳 男子:良岑惟季 良岑氏系図[編集]
良岑 惟頼(よしみね の これより、生没年不詳)は、平安時代頃の貴族。別名・椋橋惟頼。官位は下総介[1]。良岑頼利の子で、良岑惟光の父。 惟頼は、尾張国丹羽郡の郡司・良岑頼利の子に生まれる[2]。惟頼の子孫である良岑高成(上総守)は、良岑氏流前野氏の始祖・前野高長の父である。高成の娘で高長の妹にあたる人物は平忠盛の側室となり、平忠度を生んだとされている[2]。『寛政重修諸家譜』に、惟頼と父子関係が一致する、良岑頼利の子で良岑惟光の父として記される「椋橋下総介惟恒」とは官位が同じである。良岑氏は桓武天皇と百済永継の子である良岑安世を祖とする氏族[1][2] で、種別としては皇別に分類される。本貫は山城国で、後裔には児玉丹羽氏や良岑氏流前野氏などがある。この惟頼も良岑安世の子孫にあたる。
良岑 頼利(よしみね の よりとし、生没年不詳)は、平安時代ごろの貴族。官位は下総介[1]。良岑美並の子で、良岑惟頼の父。尾張国丹羽郡郡司。 人物[編集] 頼利は、尾張国丹羽郡の郡司・良岑美並の子に生まれる[2]。頼利の子孫である良岑高成(上総守)は、良岑氏流前野氏の始祖・前野高長の父である。高成の娘で高長の妹にあたる人物は平忠盛の側室となり、平忠度を生んだとされている[2]。良岑氏は桓武天皇と百済永継の子である良岑安世を祖とする氏族[1][2] で、種別としては皇別に分類される。本貫は山城国で、後裔には児玉丹羽氏や良岑氏流前野氏などがある。この頼利も良岑安世の子孫にあたる。 系譜[編集] 父:良岑美並 母:不詳 妻:不詳 男子:良岑惟頼(良岑惟恒?) 良岑氏系図[編集]
良岑 美並(よしみね の みなみ?、生没年不詳)は、平安時代ごろの貴族。別名・椋橋美並。良岑恒則の嫡男で、良岑頼利の父である。 人物[編集] 美並は、尾張国丹羽郡の郡司・良岑恒則の子に生まれる[1]。美並の子孫である良岑高成(上総守)は、良岑氏流前野氏の始祖・前野高長の父である。高成の娘で高長の妹にあたる人物は平忠盛の側室となり、平忠度を生んだとされている[1]。良岑氏は桓武天皇と百済永継の子である良岑安世を祖とする氏族[1] で、種別としては皇別に分類される。本貫は山城国で、後裔には児玉丹羽氏や良岑氏流前野氏などがある。この美並も良岑安世の子孫にあたる。 系譜[編集] 父:良岑恒則 母:不詳 妻:不詳 男子:良岑頼利 良岑氏系図[編集]
良岑 恒則(よしみね の つねのり、生没年不詳)は、平安時代初めごろの貴族。別名・椋橋恒則。良岑玄理の嫡子で、良岑美並の父である。 人物[編集] 恒則は、尾張国丹羽郡の郡司・良岑玄理の子に生まれる[1]。恒則の子孫である良岑高成(上総守)は、良岑氏流前野氏の始祖・前野高長の父である。高成の娘で高長の妹にあたる人物は平忠盛の側室となり、平忠度を生んだとされている[1]。良岑氏は桓武天皇と百済永継の子である良岑安世を祖とする氏族[1] で、種別としては皇別に分類される。本貫は山城国で、後裔には児玉丹羽氏や良岑氏流前野氏などがある。この恒則は良岑安世の曾孫にあたる[1]。 系譜[編集] 父:良岑玄理 母:不詳 妻:不詳 男子:良岑美並 良岑氏系図[編集]
良岑 玄理(よしみね の げんり、生没年不詳)は、平安時代初期の貴族。別名・椋橋玄理。六歌仙の一人とされる遍照僧正(良岑宗貞)の四男で、良岑恒則の父。尾張国丹羽郡郡司。 人物[編集] 玄理は、六歌仙の一人として知られる遍照僧正の子に生まれる[1]。 「玄理」の読み方には諸説あり、「玄理=はるとし」と読む説もあるが、これは兄の素性の俗名の読みとの混同を指摘される。『寛政重修諸家譜』にはその読みを「げんり」とされている。 玄理の子孫である良岑高成(上総守)は、良岑氏流前野氏の始祖・前野高長の父である。高成の娘で高長の妹にあたる人物は平忠盛の側室となり、平忠度を生んだとされている[1]。 良岑氏は桓武天皇と百済永継の子である良岑安世を祖とする氏族[1] で、種別としては皇別に分類される。本貫は山城国で、後裔には児玉丹羽氏や良岑氏流前野氏などがある。また玄理は良岑安世の孫で、桓武天皇の曾孫にあたる
この項目では、平安時代の歌人・僧侶について説明しています。 音韻論における素性については「弁別的素性」をご覧ください。 形態論・統語論における素性については「文法範疇」をご覧ください。 素性法師(狩野探幽『三十六歌仙額』) 素性法師(百人一首より) 素性(そせい、生没年不詳)は、平安時代前期から中期にかけての歌人・僧侶。桓武天皇の曾孫。遍昭(良岑宗貞)の子。俗名は諸説あるが、一説に良岑玄利(よしみねのはるとし)。 三十六歌仙の一人。 素性は遍昭が在俗の際の子供で、兄の由性と共に出家させられたようである。素性は父の遍昭と共に宮廷に近い僧侶として和歌の道で活躍した。はじめ宮廷に出仕し、殿上人に進んだが、早くに出家した。仁明天皇の皇子常康親王が出家して雲林院を御所とした際、遍昭・素性親子は出入りを許可されていた。親王薨去後は、遍昭が雲林院の管理を任され、遍昭入寂後も素性は雲林院に住まい、同院は和
生母(百済永継)の身分が低いために、親王宣下を受けられずに成長した。延暦21年12月(803年1月)になると、良岑朝臣姓を賜与されて臣籍降下する。 平城朝において衛士大尉・右近衛将監を歴任し、大同4年(809年)嵯峨天皇の即位後に、従五位下・右近衛少将に叙任される。武芸に優れたことから武官を歴任する一方で、大同5年(810年)権右少弁次いで左少弁、弘仁2年(811年)蔵人頭と側近として嵯峨天皇に仕えた。その後、弘仁3年(812年)正五位下、弘仁5年(813年)従四位下・左衛門督と急速に昇進し、弘仁7年(816年)には32歳で、安世と同年齢で同じく天皇の側近であった藤原三守と共に参議に任ぜられ公卿に列した。弘仁12年(821年)従三位・中納言。嵯峨朝では『日本後紀』『内裏式』の編纂に参画したほか、『経国集』の編纂を主宰している。また、弘仁13年(822年)には以下を上疏し許されている。 河内
僧正遍昭(狩野探幽『三十六歌仙額』) 遍昭(へんじょう、弘仁7年(816年) - 寛平2年1月19日(890年2月12日))は、平安時代前期の僧・歌人。俗名は良岑 宗貞(よしみね の むねさだ)。大納言・良岑安世の八男。官位は従五位上・左近衛少将[1]。花山僧正とも号す。六歌仙および三十六歌仙の一人。 仁明天皇の蔵人から、承和12年(845年)従五位下・左兵衛佐、承和13年(846年)左近衛少将兼備前介を経て、嘉祥2年(849年)に蔵人頭に任ぜられる。嘉祥3年(850年)正月に従五位上に昇叙されるが、同年3月に寵遇を受けた仁明天皇の崩御により出家する。最終官位は左近衛少将従五位上。 円仁・円珍に師事。花山の元慶寺を建立し、貞観11年(869年)紫野の雲林院の別当を兼ねた。仁和元年(885年)に僧正となり、花山僧正と呼ばれるようになる。同年12月18日に内裏の仁寿殿において、光孝天皇主催によ
貞観8年(866年)少内記。大内記・蔵人を経て、貞観15年(873年)従五位下に叙爵し、中務少輔に任ぜられる。のち、清和朝では大宰少弐・図書頭、陽成朝では因幡守・右兵衛権佐を歴任し、元慶6年(882年)従五位上に叙せられた。仁和2年(886年)右近衛少将。 宇多朝に入ると、仁和4年(888年)五位蔵人に任ぜられるが1年ほどで病気により辞任している。寛平6年(894年)右近衛権中将、寛平7年(895年)蔵人頭と要職を歴任し、寛平8年(896年) 正月に従四位下に叙せられるが、同年4月病気により蔵人頭も半年ほどで辞任した。またこの間、春宮大進/亮として春宮・敦仁親王にも仕えている。 寛平9年(897年)7月に敦仁親王の即位(醍醐天皇)に伴って、春宮亮を務めた功労として従四位上に叙せられ、同年9月に右兵衛督に任ぜられた。 昌泰4年(901年)または延喜7年(907年)卒去。 小野道風が古今最高の
紀友則(狩野探幽『三十六歌仙額』) 紀友則(菊池容斎『前賢故実』) 紀 友則(き の とものり)は、平安時代前期の官人・歌人。宮内権少輔・紀有友(有朋)の子。官位は六位・大内記。三十六歌仙の一人。 40歳過ぎまで無官であったが、和歌には巧みで多くの歌合に出詠している。寛平9年(897年)に土佐掾、翌昌泰元年(898年)に少内記、延喜4年(904年)に大内記に任ぜられる。 紀貫之(従兄弟にあたる)・壬生忠岑と共に『古今和歌集』の撰者となったが、完成を見ずに没した。『古今和歌集』巻16に友則の死を悼む貫之・忠岑の歌が収められている。 『古今和歌集』の45首を始めとして、『後撰和歌集』『拾遺和歌集』などの勅撰和歌集に計64首入集している[1]。歌集に『智則集』がある。 寛平年間に禁中で行われた歌合に参加した際、友則は左列にいて「初雁」という秋の題で和歌を競うことになった。そこで「春霞かすみて往に
持統天皇(じとうてんのう、645年〈大化元年〉 - 703年1月13日〈大宝2年12月22日〉)は、日本の第41代天皇(在位:690年2月14日〈持統天皇4年1月1日〉 - 697年8月22日〈持統天皇11年8月1日〉)。天武天皇の皇后(天智天皇の娘、天武天皇の姪にあたる)、のちに持統天皇となり皇室史上3人目の女性天皇[2]となった。 諱は鸕野讚良(うののさらら、うののささら)であり、これは娑羅羅馬飼造が養育したからであると考えられる[3]。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の大宝3年(703年)12月17日の火葬の際の「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)と、『日本書紀』巻30の冒頭に記された「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)がある(なお『日本書紀』において「高天原」が記述されるのは巻1・冒頭の第4の一書とこの箇所のみである)。確実で
天智天皇(てんぢてんのう 626年〈推古天皇34年〉- 672年1月7日〈天智天皇10年12月3日〉)は、日本の第38代天皇(在位:668年2月20日〈天智天皇7年1月3日〉- 672年1月7日〈天智天皇10年12月3日〉)。 諱は葛城(かづらき/かつらぎ)。皇子時代の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)の名でも知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた大王位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味する語。 また、661年の斉明天皇崩御後に即日中大兄皇子が称制したため暦が分かりにくくなっているが、『日本書紀』では越年称元(越年改元とも言う)年代での記述を採用しているため、斉明天皇崩御の翌年(662年)が天智天皇元年に相当する。中臣鎌足と共に大化の改新を行った事などで知られる。 生涯[編集] 大化の改新と即位[編集] 舒明天皇の第二皇子。母は
祐子内親王家紀伊/近世の百人一首かるた[* 1] 祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけ の きい、生没年不詳)は、平安時代院政期の日本の女流歌人で、後朱雀天皇の皇女祐子内親王の女房。女房三十六歌仙の一人。一宮紀伊、紀伊君とも呼ばれる。従五位上民部大輔春宮亮平経方の娘とも、藤原師長の娘である堀河院御乳母典侍紀伊三位師子と同一人物ともいわれており父親は定かではない。母は「岩垣沼の中将」の作者祐子内親王家小弁(こべん)。紀伊守藤原重経(素意法師)は兄[1]とも夫[2]とも言われている。
寛弘4年(1007年)末に元服して従五位下に叙爵し、年が明けて侍従に任ぜられる。寛弘6年(1009年)右近衛少将に任ぜられると、少将を務める傍らで、寛弘7年(1010年)正五位下、寛弘9年(1012年)従四位下と昇進する。 長和3年(1014年)に右中弁と文官に転じると、長和6年(1017年)正四位下・蔵人頭に叙任される。在任中の寛仁2年(1018年)宮中で群飲中に右近衛少将・藤原兼房から暴行を受ける事件に巻き込まれている[1]。一方で、寛仁3年(1019年)弾正弼・源顕定を嘲笑した際、摂政・藤原頼通の発言を引き合いに出したため、頼通の勘気を蒙りこの年の後半謹慎させられている。なお、この事件の背景には藤原頼通・教通の兄弟の対立も原因であったという[2]。同年末には謹慎が解け、同じ蔵人頭の藤原経通と参議任官を激しく争うが、経通の後塵を拝して左中弁への昇進に留まった[3]。この人事に対して定頼
908年(延喜8年)大和権少掾次いで大和大掾に任ぜられる[1]。912年(延喜12年)少監物に転ずると、中監物・少内記を経て、921年(延喜21年)大内記と醍醐朝中期は京官を歴任した[1]。 924年(延長2年)従五位下・加賀介に叙任され、再び地方官に転じている[1]。930年(延長8年)卒去。 『寛平后宮歌合』や『大井川行幸和歌』など、宇多朝から醍醐朝にかけての和歌行事に度々進詠し、『古今和歌集』の撰者らに次ぐ歌人であった[1]。『古今和歌集』(7首)以下の勅撰和歌集に39首が入集[2]。家集に『是則集』がある[1]。 また、蹴鞠に秀でていたらしく、延喜5年(905年)3月2日に宮中の仁寿殿において醍醐天皇の御前で蹴鞠が行われ、そのとき206回まで続けて蹴って一度も落とさなかったので、天皇はことのほか称賛して絹を与えたという[1][3]。 『小倉百人一首』31番に「朝ぼらけ 有明の月と
恵慶 恵慶(えぎょう、生没年不明)は、平安時代中期の日本の僧、歌人。「恵慶法師」ともされる。中古三十六歌仙の1人。 出自・経歴は不詳。 播磨国分寺の講師を務め、国分寺へ下向する際に天台座主尋禅から歌を送られたとされる。 歌人としては『拾遺和歌集』に初出する。962年(応和2年)頃より歌合などで活動し、986年には花山院の熊野行幸に供奉した記録がある。 大中臣能宣・紀時文・清原元輔など中級の公家歌人と交流していたという。 小倉百人一首にも歌が取られている。家集に『恵慶法師集』がある。
崇徳天皇(すとくてんのう、旧字体:崇德天皇、1119年7月7日〈元永2年5月28日〉- 1164年9月14日〈長寛2年8月26日〉)は、日本の第75代天皇(在位: 1123年2月25日〈保安4年1月28日〉- 1142年1月5日〈永治元年12月7日〉)。諱は顕仁(あきひと)。 鳥羽天皇の第一皇子。母は中宮・藤原璋子(待賢門院)。譲位後は新院。その後、 平安時代末期の1156年(保元元年)に貴族の内部抗争である保元の乱で後白河天皇に敗れ、讃岐に配流後は讃岐院とも呼ばれた。日本三大怨霊の一人として知られる。 小惑星のSutoku(崇徳)は崇徳天皇に因んで命名された[1]。 元永2年(1119年)5月28日に生まれ、6月19日に親王宣下を受ける。保安4年(1123年)1月28日に皇太子となり、同日、鳥羽天皇の譲位により践祚、2月19日に数え5歳(満3歳7か月)で即位した。大治4年(1129年)、
寛平9年(897年)醍醐天皇が践祚すると、等は六位蔵人に任ぜられる。近江権少掾・主殿助の兼帯を経て、延喜4年(904年)従五位下に叙爵し、翌延喜5年(905年)大蔵少輔に任ぜられる。延喜7年(907年)三河守に遷ると、丹波守・美濃権守・備前守と地方官を歴任し、この間に治国の功労により延喜12年(912年)従五位上、延喜23年(923年)正五位下に昇叙され、同年10月には左中弁に補任されている。醍醐朝末の延長8年(930年)従四位下に昇叙された。 朱雀朝では、大宰大弐・弾正大弼・山城守・勘解由長官を歴任し、天慶6年(943年)従四位上、天慶8年(945年)右大弁に叙任される。 村上朝初頭の天暦元年(947年)参議に任ぜられ公卿に列す。天暦5年(951年)正月に正四位下に昇叙されるが、同時に議政官として兼帯していた右大弁・勘解由長官・讃岐守の官職を全て辞任し、同年3月10日に薨去。享年72。最
曽禰好忠 曽禰 好忠(そね の よしただ、生没年不詳)は、平安時代中期の歌人。出自については未詳[1]。中古三十六歌仙の一人。官位は六位・丹後掾[2]。長く丹後掾を務めたことから曾丹後(そたんご)とも曾丹(そたん)とも称された。 当時としては和歌の新しい形式である「百首歌」を創始し、さらに1年を360首に歌いこめた「毎月集」を作った。当時の有力歌人であった源順・大中臣能宣・源重之らと交流があったが、偏狭な性格で自尊心が高かったことから、社交界に受け入れられず孤立した存在であった。新奇な題材や『万葉集』の古語を用いて斬新な和歌を読み、平安時代後期の革新歌人から再評価された。 『拾遺和歌集』(9首)以下の勅撰和歌集に94首入集[2]。家集に『曾丹集』がある。小倉百人一首 46番(及び『新古今和歌集』恋一1071)より。 由良の門を 渡る舟人 梶を絶え 行方も知らぬ 恋の通かな 寛和元年2月13
藤原 忠通(ふじわら の ただみち)は、平安時代後期から末期にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白・藤原忠実の次男。官位は従一位・摂政 関白・太政大臣。通称は法性寺関白(ほっしょうじ かんぱく)。小倉百人一首では法性寺入道前関白太政大臣[注釈 1]。 康和5年(1103年)、大江匡房の名付により「忠通」と称する。嘉承2年(1107年)、元服し白河法皇の猶子となる[注釈 2]。永久2年(1114年)、白河法皇の意向により法皇の養女・藤原璋子(閑院流・藤原公実の娘)との縁談が持ち上がるが、璋子の素行に噂があったこともあり、父・忠実はこの縁談を固辞し破談となる。保安2年(1121年)、法皇の勅勘を被り関白を辞任した忠実に代わって藤原氏長者となり、25歳にして鳥羽天皇の関白に就任(保安元年の政変)。その後も崇徳・近衛・後白河の3代に渡って摂政・関白を務める。摂関歴37年は高祖父・頼通の50年に次ぐ。
貞信公(百人一首より) 貞信公夜宮中に怪(もののけ)を懼(あや)しむの図(月岡芳年『新形三十六怪撰』) 藤原 忠平(ふじわら の ただひら)は、平安時代前期から中期にかけての公卿。藤原基経の四男。 兄・時平の早世後に朝政を司り、延喜の治と呼ばれる政治改革を行った。朱雀天皇の時に摂政、次いで関白に任じられる。以後、村上天皇の初期まで長く政権の座にあった。平将門は忠平の家人として仕えていた時期もあった。 寛平年間(889年-898年)に正五位下に叙し、侍従に任じられ、備後権守を兼ねる。昌泰3年(900年)参議に任じられるが奏請して、叔父/ 清経と代わり、自らは右大弁となる。 宇多天皇の時代は寛平の治と呼ばれ、摂関を置かずに天皇が親政をし、長兄・時平と学者・菅原道真らが政治を主導した。寛平9年(897年)に宇多天皇が譲位して醍醐天皇が即位すると、時平は左大臣、道真は右大臣に並んで朝政を執ったが、
この存命人物の記事には、出典がまったくありません。 信頼できる情報源の提供に、ご協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。 出典検索?: "山岡三子" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2021年10月) 実家は、愛媛でも著名な古刹である蓮福寺。愛媛県立松山東高校卒業後、1985年宝塚歌劇団に71期生として入団。星組に配属された。芸名:能舞 三子(のうぶ・みつこ)、愛称はみっちゃんで娘役だった。同劇団では新人公演でもメインキャストに抜擢されるなど出世が期待されたが、1988年にわずか入団4年目で退団。 宝塚退団後、テレビキャスターとなる。キャスターとして
1963年、華僑の両親のもと、東京都港区に生まれる。『ジーザス・クライスト・スーパースター』や『コーラスライン』に感動し、ショービジネスの世界を志す。 1982年、聖心インターナショナルスクールを卒業後、宝塚音楽学校に入学。 1984年、宝塚歌劇団に第70期生として入団。同期には、紫ともなど。『風と共に去りぬ』で初舞台を踏み、「碧海 蓮(あおみ れん)」の芸名で花組の男役として活動する。 1986年、『微風のマドリガル/メモアール・ド・パリ』千秋楽をもって、宝塚歌劇団を退団。イギリスに留学し、王立ウェールズ音楽演劇大学とギルドホール音楽演劇学校で声楽を学ぶ。 1989年、ミュージカル『ミス・サイゴン』の初演キャストとして、ドルリー・レーン劇場で約2年間活動する。アンサンブルを中心に、イヴォンヌ役やジジ役なども演じた。 日本へ帰国後、ミュージカルへの出演やコンサート活動を行う。 1996年、
富山県出身。父親は陸軍少将の久世弥三吉、弟は演出家で作家の久世光彦。 都立第一中学、東京陸軍幼年学校、陸軍士官学校、富山高等学校 (旧制)を経て東京大学教養学部に入学。3年次に同大学法学部へ進学し、行政法の大家である田中二郎の下で学ぶ[1]。 1953年、大学卒業後に自治省(現・総務省)入省[2]。同時に埼玉県総務部地方課配属。主に市町村の組織や運営に対する行政指導を担当した[3]。この時は「町村合併促進法」制定の年であり、町村合併に係る行財政の特例をはじめ、様々な問題とともに合併に関連する市町村からの問い合わせが殺到していたという[4]。 その後は秋田県財政課長、自治省大臣官房審議官、自治大学校長を歴任。自治省内では理論派で知られていた。 1983年、参議院選挙比例代表から立候補、落選したが、1986年に初当選、自由民主党では宮沢派―加藤派に属す。金融再生委員会委員長、党税制調査会副会長
久世 光彦(くぜ てるひこ、1935年4月19日 - 2006年3月2日)は、日本の演出家、小説家、実業家、テレビプロデューサー。テレビ制作会社「株式会社カノックス」創業者。テレビドラマ、小説ともに受賞多数。 歌謡曲作詞や脚本家としてのペンネームに市川 睦月(いちかわ むつき)、小谷 夏(こたに なつ)、林 紫乃(はやし しの)など。兄は元参院議員・金融再生委員長を務めた久世公堯。 当時の東京市杉並区阿佐谷生まれ[2]。 父親は陸軍少将の久世弥三吉で転属により、小学校2年のとき北海道札幌市へ移り、終戦の年に両親の故郷・富山県富山市へ疎開し、その後高校卒業まで富山で育つ[2]。富山市立西田地方小学校、富山大学教育学部附属中学校、富山県立富山高等学校[3]、東京大学文学部美学美術史学科卒業後、ラジオ東京(現・TBSHD)入社。TBSの二期上に、鴨下信一・柳井満らがいる。 演出家、プロデューサー
東京都杉並区出身[1]。2歳から中学2年生の時まで女性週刊誌のモデルをしていた[2]。高校2年終了後に宝塚音楽学校入学[1]。宝塚歌劇団に69期生として入団し、星組に所属。芸名は麻木 瑞穂[1]。2年5か月間在籍した後、1985年9月に退団[1][2]。 特技は日舞、琴、クラシックバレエ[2]。テニス、水泳、バドミントン、スキーとスポーツも得意なところがあった[2]。 あによめ(1986年、東海テレビ) 今朝の秋(1987年、NHK) - 車椅子の娘 役 田原坂(1987年、日本テレビ) - 西郷清子 役 春の砂漠(1988年、日本テレビ)- 楯紀代 役 春日局(1989年、NHK) - お万 役 暴れん坊将軍シリーズ(テレビ朝日 / 東映) 暴れん坊将軍III 第79話「命を賭けた女子駅伝」(1989年) - お波 役 第95話「狙われた四人の目撃者!」(1990年) - おせき 役 暴
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沖崎姓は地名由来の名字と考えられます。地名から由来する名字は名字の成り立ちとして非常に多いといわれています。例えば武士や貴族の場合、邸宅のある場所や、支配地域の地名にちなんだ名字を名乗ったり、出身地から名乗ったりしました。また地形由来のケースもあると考えられます。地形に由来する名字となる経緯は、多くの人が住む同じ地域の中で、地名を名乗ることができるのはその土地の有力者や支配者であり、それ以外の人々は周りの地形から名字を名乗りました。
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8画 おか。山の背。小さい山。岡は「山+网(つな)」。网は網モウ・アミの原字であるが、ここでは綱コウ・ツナを示すと考えたほうがよい。かたくまっすぐな意を含む。もっと詳しく
オカミ 【岡見】レベル4 約1,400人 日本姓氏語源辞典 茨城県、神奈川県、東京都。茨城県牛久市岡見町発祥。鎌倉時代に記録のある地名。茨城県水戸市三の丸が藩庁の水戸藩士、秋田県秋田市千秋公園が藩庁の久保田藩士、埼玉県川越市郭町が藩庁の川越藩士、福井県小浜市城内が藩庁の小浜藩士、和歌山県和歌山市一番丁が藩庁の紀州藩士に江戸時代にあった。
Lesson252 毒 文章でも、 ものづくりでも、 完成度って、なんなんだろう? あなたが、 仕事でも趣味でも、とにかく、 なんかつくるとして。 その中身が、1から10まであるとしたら、 「1から10まで、全部、完璧にしあげたいですか?」 じゃない、とすれば、 じゃあ、 「何を目指してる?」 先日、妙な光景を見た。 これを読むことで、ムカつく人もいるだろうけれど、 それを承知で、あえて書こうと思う。 先日、友人とあるライブにいった。 5~6組のミュージシャンが出る中の 1つが目当てだったのだ。 ところが、会場に行ってすぐ、 自分たちが場違いのところに来たことに気がついた。 若い女のコばっかりなのだ。 それも、とてもおとなしそうな、 ごくふつうのかっこうをした女のコ。 みな似たような感じの、かっこうをしているので、 一見して、みんなおなじに見える。 私がよくいく、吉祥寺や高円寺のライブハウ
「おとぼけガイズ」を解消後は1961年に東京の舞台に復帰し、三波は個人として太田プロダクションに所属する一方、キャバレーの余興営業は戸塚とその劇団仲間だった伊東四朗が「三波・戸塚コンビ」として継続していた[注釈 2]。「(ニセ)三波伸介」[2]として馴染み人気になっていた伊東を外す訳にはいかず[3][注釈 3]、あらためて「本当は伊東四朗、本物の三波伸介、本人の戸塚睦夫」とキャバレーの司会者に自己紹介し「三波戸塚伊東トリオ」の3人で営業活動を再開し、あるきっかけから「ぐうたらトリオ」に改名した。 1970年12月20日に日本テレビ『笑点』の3代目司会者に就任。そのきっかけは、同年2月8日にてんぷくトリオとしてゲスト出演した札幌の地方収録の回で、飛行機の欠航により出演できなかった前田武彦の代役として司会を務めたこと。当時はまだ司会経験が浅かったものの、元々落語に造詣が深かったこともあり、並み
『求む、師匠』 突然に、師匠が欲しくなった。 プロ・マジシャン歴33年にもなるというのに、 なぜか師匠が欲しくてたまらなくなったのだ。 先日、いつものように、 「なにか、良いアイデア、 新ネタはないかなぁ。 どうにも、浮かばないなぁ」 と、嘆息していた。 すると急に、 「師匠はこんな時、 どう答えてくれていたかなぁ」 そう夢想する自分がいたのだ。 本当に、30年ぶりの想いだ。 そうなると私の心は、 「師匠さえいてくれれば、今のこの漠然とした 不安や疑問、 あるいは悩みさえも聞いてくれて、 弟子たちはたちまちホッとしてしまうに違いない。 師匠さえいてくれれば‥‥」 自分で解決することなど捨てて、 師匠に寄りかかってしまおうとするのだった。 こちらから打ち明けなくても、 師匠は私の表情を見て 心の中を探るのだった。 「どうしたぁ、ははぁ~ん。 また、しょうもないことで悩んでるなぁ。 きっと悩み
声優・女優・歌手で旧芸名がRicoの「佐々木李子」あるいはRICOの芸名で歌手活動も行う女優・元アイドルの「菅原りこ」とは別人です。
糸井重里がほぼ日の創刊時から 2011年まで連載していた、 ちょっと長めのコラムです。 「今日のダーリン」とは別に 毎週月曜日に掲載されていました。 疑うということ、みたいな? 2009-02-16 「疑う」というのは、ほんとうに大事なことだ。 「まてよ」でも 「もしや」でも 「まさか‥‥」でも、 「ほんとかよ」でも、 「そうかな?」でも、 「あれ?」でも、 ぜんぶ疑いのことばである。 疑いが問題というかたちになったら、 そこから答えへの道ができはじめる。 問題なしの答えというものはない。 小学校から大学にいたるまで、 学校の勉強が、 ともすれば退屈に思われやすいのは、 問題と答えの両方を知っているものが、 先生という名で、すでにいるからだ。 政治家のことばが、 どうしてもいやらしくなるのは、 疑いの指先が、 絶対に、 相手のほうにしか向いてないからだ。 ぼくが信じられるのは、 自分に疑い
1932年、教員の松延信蔵とカシエの長男として福岡県八女郡に生まれる。生後まもなく、日本統治時代の朝鮮に渡り、父の勤務に付いて全羅道、京城など朝鮮各地に移る。少年時代は、父から古典の素読や剣道、詩吟を教えられ、小説や物語を読むことを禁じられたが、友人から借りた山中峯太郎、南洋一郎、坪田譲治、佐々木邦、江戸川乱歩などを隠れて愛読した[1]。第二次世界大戦終戦時は平壌にいたが、ソ連軍進駐の混乱の中で母は死去、父とともに幼い弟、妹を連れて38度線を越えて開城に脱出し、1947年に福岡県に引き揚げる。 引き揚げ後は父方の祖父のいる三潴郡、八女郡などを転々とし、行商などのアルバイトで生活を支えた。1948年に(旧制)福岡県立八女中学校に入学、ゴーゴリやチェーホフを読み出し、同人誌に参加してユーモア小説を掲載。福岡県立福島高等学校に入学してからはツルゲーネフ、ドストエフスキーなどを読み、テニス部と新聞
東京市京橋区銀座にて、銀座ヨシノヤの創業者一族の3代目として生まれる。日比谷幼稚園・泰明小学校・東京府立第五中学校から第二早稲田高等学院を経て、1950年に[1]早稲田大学文学部仏文科を卒業。 早稲田高等学院在学中の1944年(昭和19年)に[1]診断書を偽造して大学を休学し、俳優座研究生[1]となる。のち、戦時下の移動劇団に加わる[1]。移動演劇隊の『父帰る』(菊池寛原作)などで主役を張ったが、東野英治郎の薦めで演出部に転向する[2]。 大学時代は俳優座文芸部に属し[1]、1950年文学座に移り、同世代の三島由紀夫と親交を深める。1950年から演出も始め、劇作家、演出家として活躍[1]。後年に友人の劇作家田中千禾夫らと、師で文学座を主宰した岸田國士の『全集』(岩波書店)を編集した。 この間、1950年12月から1952年4月まで結核で入院し、肋骨を7本切除する。1963年(昭和38年)、
前田 真里(まえだ まり、1960年[2]1月23日 - )は、日本の女優、声優、脚本家である。東京都渋谷区出身。本名:前田良子。 旧芸名:葦川牧(あしかわ まき)、前田悠衣(まえだ ゆい)。 東京女学館高等学校出身。高校在学中から「前田真里」名義で女優活動を開始する。 宝塚音楽学校に入学し、宝塚歌劇団65期生として活動。葦原邦子にもらって芸名を「葦川牧」とする。1979年に初舞台を踏み、後に星組に配属される。1987年退団。 宝塚退団後芸名を「前田悠衣」に改め、さらにその後芸名を「前田真里」に改め、舞台のみならずテレビ・ラジオ・脚本執筆・後進育成と活動の場を広げる。なお脚本では旧名の前田悠衣を引き続き使用している。 ちなみに、同期の春風ひとみとは自身が脚本を手がけたラジオドラマ『OZ』で共演を果たしている。 2009年4月よりマウスプロモーション所属。
福間 創(ふくま はじめ、1970年〈昭和45年〉11月10日 - 2022年〈令和4年〉1月1日)は、日本のミュージシャン。「P-MODEL」元メンバー。大阪府出身。愛称は「課長[1]」。 シンガー・ソングライターの福間未紗、ミュージカル女優の福麻むつ美(元宝塚歌劇団花組男役・翼悠貴)、元宝塚歌劇団月組娘役の翼ひかる(ミュージカルスクール・スタジオTSUBASA主宰)は実の姉。 テクノポップ〜パンク・ニューウェーブムーブメントに強い影響を受け、80年代半ばからバンド活動を開始、当初はギターを手にしていたが、後にシンセサイザーやコンピューターといった打ち込み機器を導入する。P-MODEL、ヤプーズなどでの活動を経て、2001年より自身のユニットsoyuz projectを結成。2005年メンバーの解体を経て、2006年ソロ・ユニットとして再始動したが、2014年11月に解散。以降、ソロとし
この映画って、 最初はすごく緊張感があるんですけど、 観ているうちに、いつのまにか 役の人たちに入っていっちゃうんですよね。 そうですね。 序盤の、病院の屋上と階段のシーンまでを ぼくらは「第一楽章」と称しているんですけど、 なんとかそこまでに、観ている人が 佐伯雅行の気持ちのレベルになれたり、 枝実子の心境になれたらいいなと思いながら 編集をしました。
中学から高校2年生まで雲雀丘学園中学校・高等学校に通学し[7]、中学時分は水泳に没頭した。夏の高校野球PR女子高生に選ばれた幼馴染の木南晴夏を見るためにテレビを観て、高校野球に夢中になる[8]。高校球児に会いたい思いで2002年朝日放送「夏の高校野球PR女子高生」へ応募し、およそ1000人から選出される。帰省中のマネージャーが地元テレビで放送されていた当該PRビデオを目にしてスカウトし、芸能活動のため上京する。2003年、『WATER BOYS』(フジテレビ)で女優デビューする[9][注 1]。 2004年から出演した「ミスタードーナツ」CMで、タカアンドトシとのコミカルな掛け合いで話題となる。女優業では『17才夏。〜屋上ガールズ〜』(ABCテレビ)、シナリオ登竜門大賞受賞作『なつのひかり。』(日本テレビ)など単発ドラマで主役を演じ、「よるドラシリーズ」新規作品最終作『どんまい!』(NHK
映画 『不知火検校』/『悪名』シリーズ 『座頭市』シリーズ /『兵隊やくざ』シリーズ 『にせ刑事』/『燃えつきた地図』/『人斬り』/『やくざ絶唱』/『顔役』/『御用牙』シリーズ / 『海軍横須賀刑務所』 / 『無宿』/ 『迷走地図』 / 『帝都物語』/『浪人街』テレビドラマ 『座頭市物語』/『痛快!河内山宗俊』 『新・座頭市』シリーズ /『警視-K』 『下町物語』/『独眼竜政宗』 勝 新太郎(かつ しんたろう、1931年〈昭和6年〉11月29日 - 1997年〈平成9年〉6月21日)は、日本の俳優・歌手・脚本家・映画監督・映画プロデューサー・三味線師範。 本名:奥村 利夫(おくむら としお)。身長170cm[2]。血液型O型[3]。市川雷蔵とともに大映(現・角川映画)の「二枚看板」として活躍。その後は「勝プロダクション」を設立し、劇場用映画やテレビ作品などの製作にも携わった。 勝新(かつし
幼少の頃より弟の勝新太郎とともに長唄の修行を始める[1]。旧制日大三中在学中は1年生を3回落第するほど素行に問題があった。長唄の修行よりも柔道に熱中して師範(伍段)を目指していたといい、「あたしは柔道教師になろうと思ったんです...ええ、講道館の四段で、間もなく五段になるところでした」と語っている[5]。1949年、20歳のときに長唄の和歌山富十郎に弟子入りし[1]、芸名を若山 富三郎とした。1954年に新東宝からスカウト、演技経験のない新人としては破格の高給と、運転手付きの車での送迎を約束させた上で入社を決める。 前列中央。右横は藤原礼子。 1955年に『忍術児雷也』でデビュー[1]。『人形佐七捕物帖』シリーズなどの時代劇に主演。1958年には『銭形平次捕物控』に主演。新東宝が経営不振に陥ると1959年に東映へ移籍し、新東宝時代同様に『人形佐七捕物帖』シリーズで主演した他、多くの脇役もこ
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