つまり人間は、『自ら奴隷になり下がる』人と、『自らの意志で人生を生き貫く』人とに分かれる。『最初からそうなっている』のではない。自らの意志で、それを選んでいるのだ。アリストテレスはこう続ける。 自分にあるのは、『他人の理性を理解できる程度の理性』でしかない、と。そうやって自分の意志を卑下し、人生の舵を握ることを放棄している者は、『自ら奴隷になりさがる』行為を取っているに等しいのだ。そんな人間は、その時点で『そうではないと心に決める人間』とは友にはなれない。何なら彼の、『奴隷になりさがる』だろう。言う事を聞くだけの奴隷だ。これは友ではない。 『暴君』とて同じことだ。カギは『対等な人間関係』にある。『奴隷と奴隷』も『暴君と暴君』も、そもそも『人とて数えない』ことを考えると、そこにあるのは『友人関係』ではない。 『友人関係』とは、人間と人間の間にある高潔な絆のことだ。傷をなめ合うのでもない。裏切