タグ

読書中と哲学に関するtakahiro_kiharaのブックマーク (18)

  • 正義を哲学すると「3つ」に分類できる。

    北国生まれ。東北大学大学院修了。会社経営者。 哲学、科学、数学をわかりやすく解説するブログを立ち上げ、そのシンプルで奥深い内容に注目が集まる。その後、作家としての活動を開始し、30万部を超えるベストセラー『史上最強の哲学入門』(河出文庫)を筆頭に数々の書籍を送り出し、幅広い支持を集めている。 主な著書に『正義の教室』(ダイヤモンド社)、『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』(河出文庫)、『哲学的な何か、あと科学とか』『哲学的な何か、あと数学とか』(ともに二見書房)などがある。 正義の教室 ソクラテス、プラトン、ベンサム、キルケゴール、ニーチェ、ロールズ、フーコーetc。人類誕生から続く「正義」を巡る論争の決着とは? 20万部突破のベストセラー『史上最強の哲学入門』の飲茶氏が、初のストーリー形式に挑みます! バックナンバー一覧 哲学史2500年の結論! ソクラテス、ベンサム、ニーチェ、ロール

    正義を哲学すると「3つ」に分類できる。
  • 『「くぐり抜け」の哲学』(稲垣 諭) 製品詳細 講談社BOOK倶楽部

    触れるでも、素通りするでもなく、「くぐり抜け」てみる。 共感とも感情移入とも違う――それは、「他者」を理解するための新しい方法論。 現象学から文学、社会学、生物学、人類学、リハビリテーション医療、舞踏、ゲーム・プレイ、男性性―― 現代社会の諸相に向き合い続けることで浮かび上がる「弱さ」の正体。 個の強さが要請される今、他者とかかわり生き抜くための哲学的逍遥。 他者をくぐり抜けて理解するということは、その他者の周辺/環境情報を知るにとどまらず、その他者とのかかわりの中で自分自身を作り変えていくことなのだ。自分の身体に自分のものではない経験があって、それが動き始める局面をくぐり抜ける。(中略)その自分の変化に応じて、他者との距離が認知的にも、行為的にも変化する。そのような経験を積み重ねていくのだ。(文より) ~~~「くぐり抜け」の哲学  目次~~~ はじめに  ともに「くぐり抜ける」ために

    『「くぐり抜け」の哲学』(稲垣 諭) 製品詳細 講談社BOOK倶楽部
  • 死の隠蔽-哲学.jp

    私たちは、人間は死すべき者だということを 知ってはいますが、自分の問題として考えてはいません。 死ぬのは他人が先であって、 自分はまだまだ死なないと思っています。 そして実際には自分もいつ死ぬか分からないのに、 死を「他人の死」と解釈して 自分から死を隠していると 二十世紀最大の哲学者の一人、 ハイデガーは言っています。 あれこれの近親者や遠縁の人が「死ぬ」。見知らぬ人々ならば、毎日、毎時間、「死んでいく」。「死」は、世界の内部で起こる当り前の出来事である。…そして世間はまた、この出来事にそなえてすでに一つの解釈を用意している。死について口にだして、あるいはたいていは言葉をはばかるようにして世間が漏らす話の趣旨は、《人はいつかはきっと死ぬ、しかし当分は自分の番ではない》ということなのである。……このような話の中で、死は漠然とやがてどこかからやってくるに違いない何かあるものとして、しかし当分

  • 哲学者はメタバースでデカルトの難問に挑む:SZ Newsletter VOL.130[METAVERSE]

  • それでもやっぱり、人は死ぬ その現実が導く理想の生き方

    「無限」という名の新しい絶望 不死によってもたらされる「無限」とは、単なる割り増しの時間ではなく、際限なく続く時間だ。無限の時間という巨大な枠組みの中では、たちまち私たちに残されるのは退屈極まりないものだけということになり、自分の意欲が著しく減退する憂き目に遭いかねない。 もちろん、何度も味わえる楽しみもある。美味(おい)しい事をしたり、友人と会話したり、好きなスポーツをしたり、お気に入りの音楽を聴いたりといった楽しみだ。こうしたことは、少なくとも2回目、3回目、あるいは100回目でも素晴らしさは薄れぬように思える。だが、毎日キャビアをべている人は、いずれげんなりするだろうし、いつの日か、たとえ100万年先だとしても、友人たちのジョークにも全部飽きるだろう。あらゆる贅沢(ぜいたく)も、長々と楽しんだ後は、ありきたりのつまらぬものになる。どんな活動を追求しても、終わることなく繰り返すなら

    それでもやっぱり、人は死ぬ その現実が導く理想の生き方
  • 「“不要不急"がなくなると社会と組織は弱体化する」

    コンテンツブロックが有効であることを検知しました。 このサイトを利用するには、コンテンツブロック機能(広告ブロック機能を持つ拡張機能等)を無効にしてページを再読み込みしてください。 ✕

    「“不要不急"がなくなると社会と組織は弱体化する」
  • 「ミネルヴァのフクロウは、タ暮れどきに飛び立つ」ヘーゲル

    ヘーゲルが『法哲学』で述べた言葉。ミネルヴァとは、ギリシア神話の知恵と戦いの女神アテナのことで、夕暮れになるとアテナは飼っていたフクロウをアテネの町に飛ばして一日の出来事をさぐらせ、それをもとにみずからの知恵を深めたとされる。ヘーゲルは、哲学をミネルヴァの梟(フクロウ)にたとえ、一つの時代が形成される歴史の運動が終わった後で哲学はその時代の意味を読み取り、歴史を総括する知恵を見出すという意味。これはヘーゲルが生きた時代が、フランス革命やナポレオンの時代であったことがあげられる。

    「ミネルヴァのフクロウは、タ暮れどきに飛び立つ」ヘーゲル
  • 【プラトンの『国家』とは】要約して内容をわかりやすく解説|リベラルアーツガイド

    プラトンの『国家』とは、哲人王の思想を中心とする理想国家について論じた哲学書です。政治に関することのみならず哲学の諸問題が広く論じられています。 日社会において多様な読解がされてきましたが、現代では倫理的問題や思想的課題に対してプラトンの哲学を活用するという意義が見出されてもいます。 この記事では、 プラトンの『国家』の時代背景 プラトンの『国家』の要約 プラトンの『国家』の学術的議論 をそれぞれ解説していきます。

    【プラトンの『国家』とは】要約して内容をわかりやすく解説|リベラルアーツガイド
  • トマス・ネーゲル - Wikipedia

    ユーゴスラビアのベオグラードで1937年に生まれた。両親はユダヤ系ドイツ人で亡命中だった。一家は1939年にアメリカ合衆国に到着した[1]。 コーネル大学(1954年 - 1958年)、オックスフォード大学のコーパス・クリスティ・カレッジ(1958年 - 1960年)を経て、1963年にハーヴァード大学で博士号を取得。その後、カリフォルニア大学バークレー校助教授(1963年 - 1966年)、プリンストン大学助教授(1966年 - 1969年)、同準教授(1969年 - 1972年)、同教授(1972年 - 1980年)を経て、1980年よりニューヨーク大学教授の地位にある。1980年にはアメリカ学士院会員に選ばれており、また1990年にはオックスフォード大学「ジョン・ロック講義」の講師に招かれている。 Nagel, Thomas (1970). The possibility of al

    トマス・ネーゲル - Wikipedia
  • タレス|「汝自身を知れ」,万物の根源は「水」である

    タレス 紀元前624年頃 – 紀元前546年頃 タレスは、自然哲学者のうちの一人である。イオニア地方のミレトス出身。ギリシア七賢人の一人。自然哲学の祖といわれる。万物の根源(アルケー)を『水』と考えた。従来の神話的(ミュトス)な説明から哲学的・合理的な説明を行った。「汝自身を知れ」という言葉で知られている。その他、天体観測にもとづき、前585年の日を予言したと言われている。 万物の根源は水である。 タレスは「万物の根源は水(ヒュードレ)である」とした。ここでいう水(ヒュードレ)は、湿ったもの、水気があるもの、みずみずしい生命の源を意味する。生物のいのちが湿気をまとっており、植物の種子が水気を含んで発芽するからである。 タレスの世界観 従来の神話的説明からタレスによってロゴス(論理)による説明がなされた。万物の根源(アルケー)は水(ヒュードレ)であるとした。水(ヒュードレ)は生ける自然であ

    タレス|「汝自身を知れ」,万物の根源は「水」である
  • 死に至る病 - Wikipedia

    「ラザロの蘇生」(画:フアン・デ・フランデス) 『死に至る病』(しにいたるやまい、デンマーク語: Sygdommen til Døden)は、1849年にコペンハーゲンで[2]出版された[3][4]デンマークの哲学者、思想家[5][6]セーレン・キェルケゴールの哲学書。副題は「教化と覚醒のためのキリスト教的、心理学的論述」[4]。キェルケゴールはアンティ=クリマクス(Anti-Climacus)と言う偽名を用いて書を出版した。 題名の「死に至る病」とは新約聖書『ヨハネによる福音書』第11章4節から引用されているイエス・キリストが、病気で死んだ友人ラザロを蘇生させた際に「この病は死に至らず」[7]と述べたことに由来し、即ち絶望を意味する[8][9][10]。そのためここで扱われる絶望の意味は日常的に使われるものと大きく異なる。 第一部「死に至る病とは絶望である」、第二部は「絶望とは罪である

    死に至る病 - Wikipedia
  • スピノザの自然主義プログラムとは何か?(前編):必然主義と目的論批判|じんぶん堂

    記事:春秋社 Spinoza, Excommunicated by Samuel Hirszenberg, 1907 書籍情報はこちら 自然主義プログラム――自由意志も目的論もない世界の中で人間を理解する そもそも「スピノザの自然主義プログラム」とは何か。これはスピノザの言葉ではなく僕なりの命名だが、スピノザ思想の中に見いだされる、次の2点を柱とする構想である。 (1)自由意志概念の否定を伴う決定論または必然主義、およびその帰結としての唯現実論(アクチュアリズム) (2)目的論的自然観の徹底的な否定 この構想の背景として想定しているのは、17世紀科学革命による、近代的な力学的自然観の成立である。近代力学は、中世までの目的論的自然観を退け、「目的」とは無関係な法則に従って運動する微粒子の総体として自然を説明する。 このような自然観を踏まえた上でスピノザは、目的なき自然法則を乗り越えられるよう

    スピノザの自然主義プログラムとは何か?(前編):必然主義と目的論批判|じんぶん堂
  • 「臓器摘出は道徳的に正当化できるか?」イェール大学哲学教授からの問い

    殺されない権利を持っているのは誰か? ここで決めなくてはならないのはおそらく、殺されない権利を持っているのは誰、あるいは何なのかだろう。 生存権を持っているのは私なのか、それとも私の身体なのか(あるいは、ひょっとすると、そのような権利は二つあり、一方は私が、もう一方は私の身体が持っているのか)? もし私の身体が生存権を持っているとしたら、私がすでに死んでいるときにさえ、心臓を摘出するのは現に不道徳だ! だが、生存権を持っているのは私だけなら、つまり、身体ではなく人格を持った人間がその権利の持ち主だとしたら、みなさんが私の心臓を摘出するのは、おそらく許されるだろう(念のため、私の家族の同意を得ておいたほうが良いかもしれない)。 その結果私の身体が死ぬことになったとしてさえ。そうしたところで、私の生存権は実際にはまったく侵害されないからだ。 たしかに、人格説を受け容れても道徳性にまつわる疑問は

    「臓器摘出は道徳的に正当化できるか?」イェール大学哲学教授からの問い
  • 間主観性(カンシュカンセイ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

    フッサール現象学の用語で,自我共同体,モナド共同体とも呼ばれる。彼によれば,私にとって存在するものはすべて,その存在の意味を,私自身の意識領域から汲みとるのであるから,〈我在り〉が私の原初的世界にとっての根源的な志向的根拠である。それゆえ彼は,哲学的諸学科のうち来第1の学科は,独我論的な自我論であるとした。しかしその反面,自然的世界や文化的世界がわれわれ万人に妥当する客観的世界であることもまた自明である。では万人に共通のこの客観性はいかにして構成されうるのか。フッサールによれば〈超越論的われわれ〉として客観的世界を構成するのが間主観性である。さらに彼はこの間主観性についても,自我にとって最初の他者である〈汝〉の構成から出発して,そのような自我共同体が構成されるまでの諸段階を解明しようとした。そのさいに他我認識の根原理と見なされたのが感情移入の理論である。 →現象学 執筆者:立松 弘孝

    間主観性(カンシュカンセイ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
  • 〈オブジェクト指向存在論〉最速入門01:対象とは?|motoaki iimori

    この世界のあらゆるものは、他のものと独立にそれ自体で存在する。それはそれでしかない。これが、グレアム・ハーマンのオブジェクト指向存在論における根的な発想だ。 ハーマンは、「思弁的実在論」や「オブジェクト指向存在論」といった21世紀の新しい哲学的潮流を牽引しているアメリカの哲学者である。20世紀ドイツの哲学者であるハイデガーの研究から出発し、オブジェクト指向存在論という独自の哲学的立場を展開している。ハーマンのこの立場は、いまや哲学だけでなく、アートや建築などの分野にも影響をあたえつつある。 シリーズは、オブジェクト指向存在論の考え方を、哲学の予備知識がなくても読めるように解説した入門的なシリーズだ。 とはいえ、あつかう対象は現代の最先端の形而上学理論である。ときにnoteにはふさわしくないほどに、高度に抽象的で日常からかけ離れた表現が出てくることもある。そもそも形而上学とは、この世界に

    〈オブジェクト指向存在論〉最速入門01:対象とは?|motoaki iimori
  • コナトゥス - Wikipedia

    コナトゥス(羅:conatus、より正確に音写すればコーナートゥス[独自研究?] 原義は努力、衝動、傾向、性向、約束、懸命な努力)は、かつて[いつ?]心の哲学や形而上学で使われた術語で、事物が生来持っている、存在し、自らを高めつづけようとする傾向を言う[1]。ここで「事物」とは心的実体、物理的実体、あるいはその両者の混合物を指す。数千年にわたって、多くの異なる定義や論じ方が哲学者によって定式化されてきた。17世紀の哲学者のルネ・デカルト、バールーフ・デ・スピノザ、ゴットフリート・ライプニッツ、トマス・ホッブズや彼と同時代の経験論者たちが重要な業績を築いている [2]。 「コナトゥス」は生物の能的な「生きる意志」を指したり、運動と慣性に関する様々な形而上学的理論を指したりする[3]。しばしばこの概念は汎神論者の自然観では神の意志と結びつけて考えられる[2][4]。この概念は定義が精神と肉体

    takahiro_kihara
    takahiro_kihara 2019/05/27
    日本語の「努力」とは大分違うらしい。
  • 不可知論 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "不可知論" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2017年8月) 不可知論というのは、「事物の根的な質といえるものを我々は認識することができず知る余地がない」とし[1]、我々が経験しえないようなことを問題として扱うことを拒否しようとする立場である[1]。現代の哲学で言えば、哲学用語で言う現象を越えること、我々の感覚にあらわれる内容を越えることまでは知ることができない、として扱うことを拒否する立場である。 agnosticismという表現は、トマス・ヘンリー・ハクスリーが自分の立場を言い表すために用いられはじめた、という[

    takahiro_kihara
    takahiro_kihara 2017/01/16
    ぐわぁ。
  • 充足理由律 - Wikipedia

    充足理由律(じゅうそくりゆうりつ、英: Principle of sufficient reason[注釈 1])とは、「どんな出来事にも、そうであるためには十分な理由がなくてはならない」という原理[1]。すなわちどんな事実であっても、それに対して「なぜ」と問うたなら、必ず「なぜならば」という形の説明があるはずだ、という原理のこと。なお、充足理由律とは「すべての真なる思考は根拠づけられているべきであるという法則である」とする見解もある。[2] 哲学の一分野である認識論や形而上学の領域で主に用いられる概念。理由律、根拠律、充足律、理由の原理などとも言われる。 「充足理由律」という名称を与えたのは17世紀のドイツの哲学者ゴットフリート・ライプニッツである。ライプニッツは充足理由律という名称を作り、それを事実の真理を保障する為には充分な理由がなければならないとする原理とし、推理の真理を保障する矛

  • 1