はてなキーワード: ファーザーとは
コロンブスのアメリカ大陸500周年を記念した映画は1992年当時、すくなくとも2本公開されている。
1本は、元増田が書いてるリドリー・スコット監督の『1492 コロンブス』。(原題 “1492: Conquest of Paradise)”)
もう1本はジョン・グレン監督の『コロンブス』(原題 “Christopher Columbus: The Discovery”)。
ジョン・グレン監督というのは馴染みのない名前かもしれないが、1980年代から90年代の007シリーズを手掛けている人。
自分は見たのは前者(以下『1492』と略記)だけだが、後者(以下『コロンブス』)についてもいろいろ悪い意味で話題になってたよなあと思い出したので、wikipediaの英語版その他を手がかりに書いていく。正確性は必ずしも保証しない。
元増田は『1492』を“盛大にコケた”と評してたが、もっと目も当てられないコケ方というか、製作時点からトラブル続きだったのは後者の方。興行成績も『1492』のほうがよほどマシだったはず。
『コロンブス』は米・英・スペイン合作の、アメリカ大陸到達500周年記念大作として、スーパーマン・シリーズでも有名なサルキンド親子のプロデュースで動き出した企画だった。
実はリドスコ、こっちの監督としてオファーされていたのだが蹴ったあげく、ライバル作品である『1942』を監督を受けてしまう。
こっちのプロデューサーは当時は若手のフランス人で、脚本はその人の奥さんが書いてるのだが、たしか脚本に惚れ込んだとかいう話だった記憶が、うっすらあるような、ないような。
これが訴訟沙汰になってリドスコは訴えられてしまい『コロンブス』サイドによればリドスコ側が脚本のアイデアを盗んだとかなんとか。
脚本は似てないってことで損害賠償は認められなかったようだが、リドスコ版の原題が“Conquest of Paradise”となっていてコロンブスのコの字もないのは、そういう大人の事情が働いていたようだ。
『コロンブス』は大作にふさわしく、原案と脚本にマリオ・プーゾ(あのゴッド・ファーザーの)、キャストにはマーロン・ブランドも名を連ね、リドスコに蹴られた監督のオファーをまず受けたのは、イタリア出身のギリシャ人監督ジョージ・P・コスマトス。
っていわれても知らねえよってのが普通の反応だが、『カサンドラ・クロス』『ランボー怒りの脱出』『コブラ』等々の作品は知ってる人もそこそこいるか。
ところがこの人も、「創作上の相違」を理由に降板した上、製作サイドに訴訟を起こしており、あとを続くようにティモシー・ダルトン(4代目ジェームズ・ボンド)やイザベラ・ロッセリーニ(あのロッセリーニとイングリット・バーグマンの娘)も降板。
マーロン・ブランド(異端審問官役だったらしい)はクレジットの削除を要求したらしい。
詳細は不明だが、勝手に推測するに、“とにかく500周年に合せてデッカイ映画を!”が先走って、いろいろグチャグチャだったことがうかがえる。
映画自体は観てないから内容は知らないが、あらすじをみる限り、こちらはあくまで“アメリカ大陸到達まで”を描く娯楽大作だったようだ。
『1492』の方も見るには見たのだが記憶は曖昧だ。元増田同様、長くてつまんなかったというのは良く覚えてるけど。
ネットでいくつか感想や評のようなものを見かけたが、わりと人によって違う印象で、これはつまり、ダラダラ長い割に焦点の定まらない映画だったということかも。
ネットの情報を参考にしつつ自分の記憶とあわせて再構成してみると、
みたいな感じか。
で、当時たしか“なんだかコロさんがどういう人なのかも、監督がなにを言いたいのかよく分からん”と思った記憶がある。
山師なのか夢見がちなロマンチストなのか。結局は儲けたくて航海やってんのか。
いやまあ色んな面を持ってるのが人間だよねーで納得できる感じでもなかったと思う。
で、最後になんか取ってつけたように“人生にはロマンが必要だよね”みたいなこと言い出して、いや、これそういう映画だったっけ?みたいな。
コロンブスがきたせいで南米大変なことになっちゃったねー、それまで楽園みたいだったのに、ってのはかろうじて伝わったが。
もしかしたら当時、コロンブス像の転換というのが行われている最中で、それを反映していろいろ多面的な捉え方をしようとした脚本だったのかもしれないが、それが作品には投影されてなかったのだろう。多分。
まあ配信もされないってことは、もう歴史の闇に葬り去られていく映画なんだろうけど、あの年にコロンブス映画が失敗したことで、その後のエンタメのテーマとしてはとりあげにくくなったのかなぁ?という気はするな。
結論 コロンブスは鬼門なので安意にエンタメで扱わないほうが良い。
え?違う?
なぜあれほど駄目なのものが出来たのだろうか?
いや、「あれほど」と書いたが正直内容はさっぱり覚えていない。
とにかくストーリーがひどすぎる。
なんでスターウォーズみたいなスペースオペラに現代アメリカの問題点みたいなものを重ね合わせたのか?
夢やぶれて失意のうちに引きこもり中年男性ルーク・スカイウォーカー。
いや、別にそれはそれでもいいのかもしれないけれど、なんか料理の仕方が間違っている。
痛快な娯楽作品を求められているのに、なんで作りてもそれほど信じていないようなテーマを入れ込んだのか?
スターウォーズってそういう話ではないのにな。
あと主人公だよな。なんで、あんな縁もゆかりもない天涯孤独みたいなやつを主人公にしたのか?
クレイジーだよ。
いったいどこの誰かわからないんだぜ。
せっかく6作品もの物語の蓄積があるのにそれを全く生かさない。
例えば、ルーク・スカイウォーカーの娘、って設定にしただけで急激に視聴者の興味を惹きつけることが出来るだろ?
ある日、ルークがレイアとハン・ソロもとに僕の娘だ、といって赤ん坊を連れてきた。
それが主人公だ。
な?これだけで一気に物語が劇的になるじゃない。
しかし、暗黒面に落ちた兄。
そいつを助けたいがために、父ルーク・スカイウォーカーを探し求める。
で、第2部の終わりで真実がわかるわけだ。
実はルーク・スカイウォーカーは父ではなかった。
なんで、こんなふうにしなかったんだろう?不思議で仕方がない。
ケネディ家とロックフェラー家はピルグリム・ファーザーズの子孫ですか?
ケネディ家とロックフェラー家がピルグリム・ファーザーズの子孫であるかどうかについては、歴史的な記録に基づいて正確に回答することは困難です。しかしながら、両家族ともアメリカ合衆国の創設期において非常に重要な役割を果たし、アメリカ合衆国の歴史において大きな影響力を持っていることは事実です。
具体的には、ケネディ家はジョセフ・ケネディ・シニアを筆頭に、政治家や実業家としての成功を収め、アメリカ合衆国の歴史に多大な影響力を与えています。一方、ロックフェラー家はジョン・ロックフェラーを筆頭に、石油産業において巨大な財を築き、アメリカ合衆国の経済に大きな影響力を持っています。
一般的に言えることは、アメリカ合衆国の歴史において重要な役割を果たした家族は、多くが移民や早期入植者の子孫である可能性が高いということです。しかし、個々の家族のルーツや家系について正確な情報を得るためには、家族の系図や歴史的な資料を調査する必要があります。
最初に言っておくとこれはただの愚痴であり弱音だ。なんとか耐えるしかないのはわかってるし、社会変わるべしとも思わない。ただ吐き出したい。
当方30代後半。今年の6月に子供が産まれて、里帰り出産の妻が帰った後に2ヶ月の育休を取得。11月から復帰して仕事をしている。育休中はしんどくも子供とがっぷり四つで過ごせる充実感があったが、復帰後の毎日がまぁキツい。日々消耗して不安になる。
平日は平日でキツい。風呂と寝かしつけをするには定時退社を死守せねばならんし、そうなると仕事量や質も絞らざるを得ない。イクメン認知されてるので周りも気を遣ってくれるが、極端な割り切りもできずこれまで以上にせかせか仕事をしている。これまで20-30時間残業してたのに急に働き方を変えたもんだから、自分にも部署にも皺寄せがいっているように見える。ありがたいことに中心を担ってたプロジェクトから外してもらえたものの、それはそれで孤独感がある。そしてこれが、あと10年以上は少なくとも続く。
帰宅したらその後は仕事と変わらんぐらいゆとりがない。うちの子供は親がちかくにいないと叫ぶタイプみたいで、かつ身体発達も早くて転がってるので目が離せない。そのくせろくに昼寝もしないので妻が働いてる自分と変わらんぐらい疲弊してる。そんなこんなで寝かしつけてご飯食べて自由になるのが21時頃。夫婦の会話の時間をとったら後はもう寝るだけ。スプラをやる体力がもはやない。
土日は土日で休みでない。土日ぐらいは子供を見て欲しいとの妻の思いはわかるし、自分が妻の立場ならそう頼むと思う。仕事もしてるし土日ぐらい休ませて、なんてことは言えないし、それを言うぐらいなら子供を作るなとも思う。それはわかってるんだが、仕事の勉強もゲームも友人との遊びもできずに土日の終わりを迎えるのは辛い。今までできていた充電ができず、育児という長距離走のスタートをきったばかりなのにヘトヘトになってる。
子供は本当に可愛い。生活が一変して自分の時間がなくなり、これまでの小〜中程度の日々の満足感は手放すことになったけれど、瞬間最大風速で言えばこれまで得ることのなかった幸福感が今ここにある。産まれてきてくれたこと、産んでくれたことに感謝したい。けれど、それで心身の消耗感が埋め合わされるわけではなく、どうにも気持ちのやり場がなくこんな文章を書いている。
違うのは宗教そのものというより、宗教に代表される中間団体への警戒感だと思う。
フランスの場合、カトリックというのは国際的な組織でもあるし、何しろ「個人」というものを析出させるためにはキリスト教の否定が急務だった(もっとも政教分離法自体は20世紀に入ってからだが)。
一方の合衆国の場合はピルグリムファーザーズ神話以上に、やはり開拓の歴史からくる強烈な「自治」志向があり(銃所持が「権利」と憲法に明記されるのもこの歴史あってのこと)、そこから中央政府に対してはまず分権的・州権的な立場が存在する。
かつて「病気の中でも精神の病気は別格だ。他の病気なら、手足が動かなくなっても、内臓を摘出されても、自分は自分のままだが、精神の病では、自分が自分でなくなってしまう」
また、主人公の「自分が自分でなくなってしまう」という変容の恐怖を描いたホラー小説もあります。(朝松健には統合失調症の症状をモデルにしたと思しき小説が複数あります)
時計を盗まれた、と主張し、盗まれていなかったことが客観的に証明されたのに、誤った考えを訂正させるのが不可能である、というシークエンスのように、明らかに妄想であるとわかる客観的描写があり、身近に老年性の認知症の人がいる人にとっては「あるある」な描写も多く、本作は真面目なーいわゆる社会派のー映画です。
しかし、メインは認知症の患者の主観を中心に描いているので自分が狂ってしまう恐怖を味わうことができる、ホラー映画の側面も持っています。