はてなキーワード: 本多勝一とは
よくブクマカは本文読まないって言うけど、こんなにも多くのブクマカが本文を読めてないとは……。こういう人たちは、今までも本文をよく読まずにノリでコメントを残してきたんだろうか?
以下「前者が後者に部分一致する」の条件を無視してる回答ね。該当部分を太字にしときました。
ninosan ペッパーランチとペッパーフードサービス(結構ヤヤコシーので検索してくれ)
hatebu_ai はてなブックマークとはてな匿名ダイアリー。
REV サクシンとサクシゾンは前三文字が一致しているので間違いやすいが、サクシゾンの代わりにサクシンを打つと息の根が止まる。 https://www.info.pmda.go.jp/hsearch/detail?id=D17000005 / 部分一致ではないが青梅駅と青海駅
s-eagle ディープインパクトとディープスカイとディープブリランテとディープボンド。馬主が同じなのはどれ?(答え:全部違います)
gnta 久石譲とクインシー・ジョーンズ。江戸川乱歩とエドガー・アラン・ポー。谷啓とダニー・ケイ
ustam 赤羽と赤羽橋、王子と八王子、東雲と東電、上越(上越/中越/下越)と上越(上州+越後)、クラゲとキクラゲ、シカとカモシカ、ウナギとヤツメウナギ、イモリとヤモリ、乳酸と乳酸菌、ランチとウンチ
本人から異議申し立てがあった。確かに「東京湾とトンキン湾」は漢字にすると完全一致になるので、セーフとする。失礼しました。
u_eichi 猫とジャコウネコ。オオカミとフクロオオカミ。てか有袋類は反則だな。|JR/東急蒲田と京急蒲田(まぜっ返し)
gaikichi 院近臣とインノケンティウス3世マングローブ林とグロブリン安倍貞任とアンワル・サダト大統領リッケンバッカーとオッペンハイマーとロッテンマイヤー地底怪獣バラゴンと冷凍怪獣バルゴン本多勝一と翔んだカップル
Southend シンボリクリスエス(天皇賞・秋、有馬記念連覇)とシンボリクリエンス(中山大障害・春/秋)は、それぞれが平地と障害という別カテゴリにおける超一流馬だったという文脈上、類似馬名界(?)の白眉と言えよう。
ryotarox wikiとwikipedia/木場と新木場 https://maps.app.goo.gl/Aynjy4JsxYDDKbak8 /アイスランドとアイルランド/グレープとグレープフルーツ
uguisyu 「世界の中心で、愛をさけぶ」と「世界の中心でアイを叫んだけもの」、「日本沈没」と「日本以外全部沈没」
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中でも一番のクソ回答はこれだと思う。全然趣旨を理解してないお前のほうがヤベーよ。
norinorisan42 やはりココリコ遠藤が池上さんの番組で「コーランを憲法としている国」と聞かれ「イスラエル」と答えたやつが忘れられない/イスラムとイスラエルがごっちゃになってるのはヤバすぎる
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※文字が違っても音が部分一致してしているものはセーフとした。(例:谷亮子と新谷良子)
※アルファベットで表記したときに部分一致するものはセーフとした。(例:ナイジェリアとニジェール、シリコンとシリコーン)
※略称で表記されているが、略さず書くと条件を満たすものはセーフとした。(例:Visual StudioとVS Code、ギガとGB)
※部分一致ではなく完全一致もセーフとした。(完全一致は部分一致に含まれるため。)
※インド人とインディアンは、英語だと両方Indianなのでセーフとした。
※名古屋では全部「メェダイ」となるらしい「明大と名大と三重大」はぎりぎりセーフとした。
※前者と後者が入れ替わっているのも、おまけでセーフとした。
※「ちょっと違うか」「部分一致ではないが」のように、違うのを自覚しているものは見逃すこととした。
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つーか「オーストリアとオーストラリア」「阿藤快と加藤あい」「青海と青梅」何回出てくんだよ。
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iphone 増田は6つもサンプルを出してくれてるのに、部分になってない、似てるけど違うだけの二語を並べてるブコメはなんなんだ。
「ここでとりあげる『数字表記の際の点(コンマ)の打ち方』もまた、明白に不合理なまま強引な “慣習 ”として 一般化を押しつけられている例であろう。」
「たとえば 100,000,000 という数字表記を見て、もし一目で読める日本人がいれば、それは銀行マンや会計係のような、こういう表記になれた特別な職業の人とみてよいだろう。普通の人は、いちいちマルを数えないとわかりにくい。これでは何のために点を打ったのかわからなくなる。」
123,4567,8912,3456
「例えば、「四ケタずつ」に区切られた上記の数字は、「123兆 4567億 8912万 3456」と簡単に読むことができます。」
正直これ一冊でもほぼ勝てる状態になると思う。論理的であるというのはどういうことか、問題を解きながら徐々に理解する本。
最初の例題だけでも解いてみて、間違えたら残りを進めていけば良い。
どちらも少し古いが文書作成の技術はこの2冊で十分だろう。「日本語の作文技術」は大昔のレスバなども見れて面白い。
「論破」の舞台は掲示板やチャットなどが主であり、文字でやりとり行われることを考えると読んでおきたいところ。
適当に誤魔化すための定番テクニックを理解するならこれが良い。事例をもとに、どのような構造で陥れるか解説してくれる。
あった・なかった以前の問題で、言ってることやってることそれ自体が無茶苦茶なのだ。
どれほど無茶苦茶で出鱈目なことをやっているか、一例をあげよう。
西岡昌紀、木村愛二という1990年代にホロコースト否定でちょっと話題になった人がいる。この二人は、ホロコースト否定の仲間である。
私は西岡とTwitter上でつい最近やり取りした。必要以上に詳しい内容は書かないのでそんなもんだと思って読んで欲しい。
西岡の本に否定論界隈では有名な話が載っている。「137人のドイツ人捕虜の睾丸が修復不可能なほどアメリカ兵によって蹴られた」という虐待話である。その話自体はどうでもいいので割愛する。
この話が、いったいどこに書いてあったのかがポイントだ。
この時は西岡本を読んでなかったので、西岡のブログしか知らなかった為、「文献名も知らないのに読めるわけねーだろ」と私は噛み付いた。
すると、西岡、文献名を示した。後でわかったが、その文献名は西岡本に書いてあったそのままである(実際には一文字抜けてたが)。
ところが、どういうわけかなっかなか見つからない。でも、Googleさんは偉い! ちょっとくらい単語が違っても似たような候補を勝手に探してくれるのである。
それは、アメリカ合衆国の政府サイトだった(ちなみに彼らの著書の執筆時である1990年代には存在しなかった)。
そしてそれは確かにあった。しかし、資料名がかなり違う。西岡の言った文献名の「Report」は実は「Record」だった。しかもそれは、正しく記述したとしても、文献名そのものではないのである。
実は、西岡が書いた文献名は、その資料のいわゆるヘッダーに記載された文字だったのである。
どこの世界に、文献名ではなく、ヘッダーを記載するバカがいる?
なぜそうなったのかは、実はその資料、木村が西岡にそのコピーを渡したものであり、木村が国会図書館で簡単に見つかった!と自著で豪語していた資料だった。
つまり、木村は西岡にきちんとした文献名を伝えなかったのである。そして西岡は木村に確認もしていない。ヘッダーに書いてあったからそれをそのまま脚注文献名に書いたのだ。アホか……。
木村は西岡に「ここにあのネタが書いてある」しか言わなかったに違いない。
私は、西岡に怒った。違う文献名を書くとはどういうことだ? と。でも西岡は、木村が国会図書館にあると言ったから、とか言い張るのである。お前著者だろ? 文献名も知らないで自著に全然違う文献名を記載したのか? と文句言ってやったが、まだわかってないようなので、私は今度は国会図書館をネットを通じて探した。
ところが。
正しいと思われる文献名で検索しても、まるで見つからないのである。この辺の事情はちょっとややこしい。アメリカの政府サイトの文献名が正しいとは限らないからだ。その文献名はあくまでも、ネット上の資料を示している。
それで、文献名の単語の組み合わせを工夫したりして、延々と探し続けたが、今度はそうすると、ヒット件数が多くなりすぎたりして、どれがどれだかさっぱりわからない状態が続いた。
イライラしてきた私は西岡に「木村のやつ嘘ついてんじゃねーのか? 国会図書館に見つからないんだが」と言ってやったが、西岡の木村に対する信頼は揺るがない、絶対にあるはずだという。
そこまで言うならと、国会図書館に直接問い合わせていやったら……あった。しかし、外部からは絶対に検索できない文献名だったのである(国会図書館もどうかしてると思うけどw)。
見つかったので、正直言えば、ある程度は嬉しかったが(自力で苦労して見つけたから)、それだけ苦労させるとはどう言うことだ? お前が知ってなきゃおかしーだろ? と西岡に噛み付いたらやっと西岡は謝ったのである。
だが、疑問は終わっていない。その文献は、アメリカ議会記録というもので、議会での議論を記録するものである。アメリカ政府は1800年代から延々とずっと記録し続けている(大抵の国はそうしているが)。そして適当な日数分ごとに製本してまとめて保管している。
だから、膨大な量の議会記録が存在するのである。一冊あたり、私が見つけたその冊子だけでも一千ページはゆうに超える。それが数えきれない冊数が存在する。
もちろん、「137人の睾丸」事件のあった年代はある程度は絞れる(これ自体は別の本に載っている)。しかし、それでもどう考えても何千ページもの記録から探し出さねば絶対に見つからない。
と言うよりも、その情報が議会記録にあるとどうして知ったのだ? もちろん時期も含めて。
つまり、木村が自著で豪語したような「簡単に見つかった!」は絶対にあり得ないのだ。それは誰かから情報をもらったからとしか考えられないのである。多分、その情報が上院議会のある特定の日の議論にあるとだけ教えてもらったのだ。
そんなもん、英語さえわかれば誰でも簡単に見つけられるわ!バカタレ!
それは、細かくいうと第95巻のvol.1という108ページ分の塊の中にある、冒頭ページから20ページ分くらいのところにある情報だったのだ。
俺でもあっさり見つけたわ!バカが!情報を知っていたからだ。西岡の言ったヘッダーにある日付分だけを探したのである。
どうして、そこの情報を欧米のリビジョニストから教えてもらえたか(もちろん知り合いだからだが)、は簡単に理解し得る。欧米のリビジョニストの多くがお気に入りにしているネタであり、元ネタの記載が事実上そこにしかないからだ。
元々はある古い雑誌の記事なのだが、1949年当時、議会の中で、その記事のことが話題になり、議会記録に記録することになったからである。
当時の雑誌を入手するのはアメリカ人ですらかなり難しいそうだ。
が、有難いことにある程度の規模の図書館なら、議会記録は存在するので、アメリカ全州で簡単に確認可能なのである
日本でも、国会図書館にだけは存在する(その後調べたら、戦後占領政策をやったGHQが米国政府議会記録を日本の国会図書館に保管するようになり、この業務が停止されず延々と続いたそうだ。ただし、今はアメリカ政府のサイトで容易に閲覧可能なので、近年の議会記録については国会図書館に保管はされていないと思う)。
このことを知っていたら、情報だけで日本人も容易に見つけられる。
ところがまだ話は終わらない。
西岡とこの話を最初にしていた時、私が言いたかったのは、上院議会のことではなく、その事件に関する公聴会の報告記録の方だった。ところが、西岡は上院議会と公聴会の区別がついていないのだ。だから、西岡は自分が所有している木村からもらった上院議会記録のコピー用紙の中に公聴会の記録もあると、訳のわからないことを言うのである。
そんなもんある訳ない。だって、公聴会の報告記録は上院議会記録とは全く別のものである上に、議会記録は日本にも関係するから国会図書館に所蔵するとしても、細かい公聴会報告までいちいち国会に所蔵するわけがない。しかもその公聴会報告は「137人」事件を否定するものでああり、リビジョニストが知っているわけがない(知ってたら、リビジョニストに都合の悪い話だから、自著に絶対に137人事件は書けない)。これを何度言っても、西岡は理解しないのである。
こんな連中の書いた本の内容を、どうやって信じる? だから否定論は出鱈目なのだ。あった・なかったの問題のレベルではないのである。欧米のリビジョニストの論文も幾らか読んだけど、まじで酷すぎるよ。フォーリソンなんか読んでるこっちが頭がおかしくなりそう。ただし、基本的な文献名などの記載は、欧米の方はしっかりしてる。西岡・木村よりはその面では欧米の方が信頼できるけどな
本多勝一ジイチャンお疲れさま
英語と違い日本語は主語を最初にする必要がないのに、主語を最初に置くよう指導している学校教育が悪い。日本語の文章は主語と述語の間が離れるほどに理解が困難になるからだ。
1番目の文章を例にして説明する。主語の「母」が先頭に、述語の「見送った」が末尾になっているので、間の文章が何の修飾語になっているかで解釈が分かれることになる。このような文章は良くない。句読点を用いることで2番目や3番目のように読み手に解釈させることができるが、そもそも句読点を使わずに済む文章を心掛けるべきだ。
2番目の文章は以下のようにすべきだ
笑いながら学校に行く娘を母は見送った
同様に3番目の文章も以下のようにする
主語はできるだけ文章の後半に置き、述語との間を空けないようにするのが良い。また、句読点は多ければ良いというものではない。
母は、笑いながら、学校に行く娘を見送った
2番目と3番目の両方の句読点を用いた文章だが、「笑いながら」が母と娘のどちらにかかっているかがわからない。これなら句読点を入れないほうがまだましだ。文章に句読点を用いるときは、本当に句読点が必要なのか、句読点が無くても理解できる文章に書き換えることはできないのかを念頭に入れるといい。
本多勝一の「中学生からの作文技術」に載っていたけど、手垢の付いた表現や、書いている側が笑っているような文体は、読み手が面白くなくなる原因になるという。
手垢の付いた表現っていうのは、はてなの記事では「ラノベアニメは寒い描写を入れろという暗黙の制約でもあるのかと思うほどテンプレ展開が多い。」の指摘が当てはまっていると思う。
書いている側が笑っているような文体は、恐らくだが「女子のツッコミの過剰な暴力、寒いギャグやノリ」が当てはまっているのでは無いだろうか?つまり、脚本を書いている側が「これ面白いでしょ」というメッセージがあるように感じられるのでは無いだろうか。
もう少し分かりやすい例を挙げると、アンサイクロペディアが気持ち悪いとか面白くないと指摘されているのに通じる気がする。また、「w」を多用している文章を面白くないと感じるのに近いかもしれない。
本多勝一は面白い文章の条件として、「自然さ」とか、ギャグとのギャップとしての「真面目な文体」とか、「手垢の付いていない表現」を挙げていた。元記事で、不自然さを嫌っているのにも共通する気がする。
アンサイクロペディアに対して、詰まらない、寒い(激寒)、気持ち悪いなどという批判があるのは何故なのか。
ユーモアどころか読み手が白ける文章の書き方をわざわざ使って、記事が書かれているからではないでしょうか?
冗談(ネタ)が面白くないのに、文体で無理矢理笑わせようとしており、「面白いだろ?」「笑えるでしょ?」という感じを受ける書き方になっていると思います。実際には、記事の筆者が上記のように思っていなくてもです。
ところで本多勝一というジャーナリストが書いた本に「中学生からの作文技術」というものがあります。これは割と有名な作文技法本だと思われます。
この本の中に、面白い事を大真面目にやるから面白いんだ一流の落語を見ると分かり易い、面白い事を大真面目に書くから面白い、
面白いことを言う方がニヤニヤしていたら聞き手は白ける、中身でなく書き方で笑わせようとしても駄目だ・・・というような箇所がありました。
この考えでいくと、アンサイクロペディアのつまらない記事は正しく、面白くない文章の見本のような気がします。
※本多勝一は、世間では左翼のイメージが強いと思いますが(私自身、彼については左翼のイメージが強い)、そこは今回気にしないで欲しいです。
bareloです。自分のブログに書いてもまあほとんど読まれないんでこちらに。
「目配せしたあとからの中で、三ツ林が言ってることをちゃんと聞き取れる?私は無理だったよ☆」とのことであるが、
「マイクも拾ってない」と「ちゃんと聞き取れる?」では言ってる内容がぜんぜん違っている。
途中聞き取りにくい部分もあるが、書き起こすならば
「動議を提出いたします。内閣提出法律案に対する手続きを~~省略し~~直ちに採決されることを求めます」
くらいだろう。
あと俺は「偏ってるという次元の話ではない」とちゃんと書いてある。まさかこれを「偏ってるなんてもんじゃない」という意味とは解されていないと思いたい。
偏ってることを批判してないし、俺が偏ってないとも言ってない。
本多勝一・立花隆・斎藤茂男あたりを読んで育ったのだから、俺自身おおいに「左に」偏っている自覚がある。
「あんだけの騒ぎの中でマイクも拾ってない三ツ林議員の動議を聞き取って発言」という部分を読んで、そこに触れているブコメもあったので、へ~どんなもんなんだろと思って実際の映像を見てみたら、別にマイクで拾ってないなんてことはないんじゃないのと思ってあのように書いた。
これ以降、「無数の本をどのようにフィルターするか?」という話を書いていく。
以上。
3、当時の南京には日本人と中国人だけがいたのではなく、ロイターやAPなど各国欧州のマスコミもいたが、虐殺のことは誰一人として一言も触れていない。
ちなみに朝日新聞の本多勝一(本名・崔 泰英)が主張するまで中国の被害者も誰も事件のことを知らない模様。毛沢東もご存じなかった模様。
1、南京の人口が20万であり、30万人殺すのは不可能。アメリカの歴史教科書に40万人と書いてあるのはおそらく打ち合わせ不足。
南京安全区国際委員長から「南京市民約20万人が全員無事でした」と感謝状を送られている。
また、日本軍の南京占領後、南京市民の多くは平和が回復した南京に戻ってきて、1ヶ月後に人口は約25万人に増えている。
警察庁長官・王固磐は、南京で開かれた記者会見において、「ここ南京には今なお20万人が住んでいる」と発表。そののち日本軍は12月13日に南京を占領。それから5日後、12月18日には、南京国際委員会(南京の住民が集まっていた安全区を管轄する委員会)が人口「20万人」と発表。また12月21日には、南京外国人会が「南京の20万市民」に言及、さらに南京陥落から1ヶ月後の1月14日には、国際委員会が人口「25万人」に増えたと公表している。
3、当時の南京には日本人と中国人だけがいたのではなく、ロイターやAPなど各国欧州のマスコミもいたが、虐殺のことは誰一人として一言も触れていない。
イギリス、フランス、オランダ、スペインなど八カ国。アメリカの新聞記者団は日本軍についてきていた。
ちなみに朝日新聞の本多勝一(本名・崔 泰英)が主張するまで中国人も誰も主張していない。あれ?慰安婦問題と似てるなあ。気のせいか。
毛沢東もご存じなかった模様。
当時反日だった国連に、1938年1月末に、国民党が2万人の虐殺を訴えたが、完全に否定されてることから、数千人の虐殺もなかったと考えるのが自然である。
1938年1月末に、約一週間にわたり世界的なニュースになっていたのは、日本の軍人がアメリカの外交官を平手打ちした事件である。
虐殺が行われていたとされる間、ラーベら外国人は頻繁に外出してるが、日本軍による不法殺人を見たことが一度もない。
ラーベは、1938年1月14日にドイツ大使館にあてた手紙に、被害者数千人と記しているが、その二週間後イギリス大使館にあてた手紙には被害者数百人と記している。
ラーベたち委員会が記録した日本軍の暴行の報告書には殺人事件「25件」、被害者「49人」としか記されていない。
安全と秩序の維持のために、南京攻略戦の前から、南京に住む欧米人らは「南京国際委員会」というものを作っていた。彼らは、日本軍による南京占領後に南京で起きた犯罪事件をまとめ、被害届として日本軍に提出した。それは、南京で見聞きした日本兵による犯罪(強姦、略奪、殺人)等を記録したもので、日本軍に取締りを求める内容であった。
その被害届には、日本兵によるとされる犯罪が425件記されている。その大部分は伝聞にすぎず、資料に問題はあるが、たとえすべてを事実と仮定しても、そのうち殺人事件はわずか49件にすぎない。しかも、その49件のうち、国際委員会の委員が直接目撃したものはわずか2件。あとはみな伝聞だった。
なので、日本人が嘘をつき、欧州メディアも全部グルになって嘘をつき、当時の中国人が誰も主張せず、戦後何年もたって主張した中国人だけが本当のことを言っている。そう思う人は南京大虐殺が存在しているんだと思ってください。慰安婦と同じ構造ですね。
http://anond.hatelabo.jp/20130830202223
特定を恐れずに、その経験談を書いておこうと思う。
400文字詰原稿用紙のレポートを何度も書かされた。学校までの道案内や入学式の報告といった、無味乾燥としたレポートだ。
その400文字は、先生の厳しい添削で真っ赤になるのが常だった。
まともな文章をたった400文字すら書けない。その現実の中で僕らはもがいた。
本を読んだ。
プラトンから「神々の指紋」まである推薦図書のリストがあって、半分は読んだと思う。(神々の指紋は残念ながら読んでいない)
村上春樹や吉本ばななや江國香織が好きな人が仲間内では多かった。一方で、ラノベばかり読むグループもいた。
その時期いちばん読んで良かったと思うのは、佐藤信夫の「レトリック感覚」「レトリック認識」だった。
ただ、読んで良かった、という気持ちだけが残っていて、内容は詳しく覚えていない。
50枚書くことは難しくなかった。
夏にはもう初稿が提出できて、先生にはそれなりに褒めてもらえた。
しかし、自作が何となく気に入らなくて、勝手に最初から書き直してしまった。
書き直した作品は、生徒みんなの前で罵倒された。(トラウマだ)
合計で7回は書き直したと思うけれど、何度やっても評価はされなかった。
そちらも同じように失敗した。
レポートなども合計すると、2年間で2000枚は書いたと思う。
授業では色々な人から話を聴いた。
某有名ゲームのプランニングをしていた人・女性雑誌の編集長・とある古参ハッカー・ラノベの大御所・今ではずいぶん有名になってしまった当時の新人作家……。
映画や演劇もたくさん見せてもらった。レポートの宿題が必ず付いていたけれど。
民俗学で古事記を読んだり、美術学で有名絵画から聖書のシンボルを読み解いたり、構造主義を応用して物語のプロットを組み立てる授業もあった。
教えてくれる人はみんな(出来る範囲で)熱心で、青臭い自分の言葉もちゃんと聞いてくれた。
ちなみに、小説の先生は往年の一太郎ユーザーで、ESCから始めるショートカットばかり使っていた。
キーシーケンスの組み合わせを暗記していたようで、VimやEmacsに通じるところがある。
日本語IMEについて、ATOKは使い物になるが一番良いのはWnnだ、と言っていた。その真意は定かではない。
提出ファイルにはShift-JISのプレーン・テキストを指定し、タイトルや名前の入れ方も詳しく指示していた。おそらくマクロで処理したのだろう。
ただ、提出メディアがフロッピー・ディスクだった。もう10年以上前の話で、テレホーダイの記憶が鮮やかだった頃だ。
僕が通っていた学校に限れば、環境としてそんなに悪いところだとは思わない。
当初は周囲を見回して傲慢になっていたけれど、その鼻柱は見事に折られてしまった。
客観的に言って、使おうと思えばいくらでも使える環境だったと思う。
ただ、進路が難しい。学校を出た後でどう生活を立てていくかが難しい。
卒業生の進路はそれぞれだった。
定職に就いていない人間もきっと多いだろう。
頭の良い同期は大学に転入した。
プロとして活動していると言えるのは、50人の同期の中で3〜5人だと思う。
おそらく最良の選択は、大学に転入し、標準ルートに戻ることだ。
標準ルートを知ることも大事だし、それから生活を安定させてデビューを目指せば良いと思う。
(ただし金が掛かりそうだが……)
何も知らない自分に大きなトラウマを与えてくれたのは、本当にありがたい事だ。
ただ、自我の捨て方は教えてもらえなかった。
こればかりは、学校の外で年齢を重ねてから、知るほかなかった。
某純文学系の新人賞に一度だけ送って落選した実績しかまだない。
そして、日本語よりJavaを書く時間の方が長く、それよりもD言語を書きたいと思う毎日を、無為に過ごしているのだ。
トラバでも言われてしまったけど、「学んだこと」と言いながら、学んだ技術的な内容をあまり書いていなかった。
多少参考になる部分があるかもしれないので、追記してみたい。
ストーリー構成の教科書としては、シド・フィールドが使われていたようだ。
ただ、当時はろくな翻訳が無かったらしく、教師オリジナルのテキストを使っていた。
ハリウッド流の伝統的な4分割構成が基本で、自分のアイディアをとにかくそれに落とし込み、内的整合性を保って読者に提示する技術を教えられた。
たとえば下記のような点をチェックするよう繰り返し言われた。
他にも色々と細かいテクニックについて教えられた。書くときの気構えであったり、推敲や添削の方法であったり。
今はストーリー構成の良書も多いだろうし、自分で教科書を集めて勉強できる環境も整っているかもしれない。
だから、自分で体系的な資料を集め、先生になってくれる人や切磋琢磨できる仲間を見つけ、継続的に書く環境を整えられれば、わざわざ専門学校に行く必要は無いだろう。
専門学校などという人生を浪費する施設より、週末の教室+Webでの作品発表・添削という形の方が適しているかもしれない。今の時代はきっとそうだろう。
レベルの高い卒業生の作品を見ると、内的整合性の点では下手なラノベよりしっかりしているものが多かった。
しかし、
「全体的に整合性が取れていて、ちゃんとした盛り上がりがあり、伝統的な構成に従って無駄なく構成できているか?」
という問題と、
「それが商業的に売れるか?」
というのはまったく別の問題だ。
商業的消費はたぶん非体系的な世界で、体系的技術がそれにどこまで寄与できるかは分からない。
とあるデビューした卒業生の処女作は、内的整合性など何も考えていない、次々と新しい要素がひたすら出現する怪作だった。
その一方で、しっかりした技術のある人が、なかなかデビューの糸口を見つけられないでいる。
ちゃんとした構成や一貫性よりも、変に魅力的な脇役が愛されたりするのが商業の世界だ。
特に日本において、消費者は全体よりも部分を好む傾向が強いと思う。
そして、部分で受けることを狙うのはかなり難しい。
部分を愛する文化というのはきわめてハイコンテクストな文化で、普遍的・一般的な技術が原理的に存在できない気がする。
それは様式美に満ちた世界で、日本の文化はそういった様式美の継ぎ足し・連続で出来上がっているようにも思う。
こういった事は加藤修一の「日本文学史序説」に素晴らしくまとまっていて、とても面白かったので、創作に関わる人は序章だけでも全員読んだ方が良いと思う。
マンガもゲームもアニメもラノベも全部これで説明できるし、将来的にどんなものが日本で流行するか判別する目安にもできそう。
以上を要約すると、ちくま学芸文庫から上下巻で出ている加藤修一「日本文学史序説」を3000円で思い切って買おう、それを読めば専門学校に行かなくても大丈夫、場合によってはラノベを書かないで済ませられるかもしれない、ということだ。
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E7%99%BE%E4%BA%BA%E6%96%AC%E3%82%8A
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/otaku/12973/1373676357/
世の中には「2種類」の百人斬りがある。
うらやましくてうらやましくてしょうがない。
野田少尉・向井少尉がその罪で処刑され、本多勝一らが主張する百人斬り。
捕まえた中国人捕虜・民衆をゲーム感覚で日本刀で斬っていく、というもの。
上と違ってちょっとシャレになっていない。
百人斬り論争が混乱しているのは、この二つの意味を持つ「百人斬り競争」