吉田高校在学中、1983年夏の選手権大会に出場。1回戦で吉井理人・山下徳人を擁する箕島高校と対戦するが、延長13回サヨナラ負けを喫した。 大学進学を表明していたが1984年のドラフト2位で指名され、西武ライオンズに入団。当時は西武黄金時代の始まりで、周囲の選手の体格やプレーを見てプロでやっていけるか強い不安を感じたという[2]。 二軍時代は二軍監督の日野茂や二軍コーチの広瀬宰から厳しく鍛えられ、昼の試合後に特守を行って夕食後も夜間練習をするほどだった[2]。1985年はイースタン・リーグで多くの出場機会を得て打率3割を記録し、秋にはアリゾナでの教育リーグに派遣された。 1986年は1Aにあたるカリフォルニアリーグのサンノゼ・ビーズでトップバッターとしてプレー。140試合に出場し.306の高打率で[3]、1Aオールスターゲームにも出場した[4]。ここでは破れたスパイクを使う選手達を見てハング