私たちの生活に欠かせなくなっているスマートフォン。6月、スマホのソフトウェアに競争を導入してさらに安心して使いやすくするための新法が成立。背景と役割を考えます。
Gateways to the past Photographs by Motoyuki Shitamichi テニアン(アメリカ) サイパンの隣に位置するテニアン島。「ブロードウェイ」と名付けられた荒れた一本道に沿ってジャングルの中を進むと、南洋桜が立ち並ぶ境内跡と鳥居が姿を現す 太平洋戦争中に日本が占領していた地域には、戦後67年がたった現在でも支配の跡が数多く残されている。なかでも、写真家の下道基行が注目したのは「鳥居」だ。 大日本帝国による同化政策や、移住した日本人の心のよりどころとして占領地や植民地に建立された神社は、一説によれば約1600社以上。一部は終戦後に各地の政府や市民によって取り壊されたが、現在でもミクロネシアに点在するアメリカ領の島々やロシアが支配するサハリン、台湾や中国本土などで見ることができる。 存在を忘れ去られたまま、人里離れた場所に放置された鳥居がある一方で、
フランスのモラーヌ・ソルニエ(Morane-Saulnier)社製「MS-35エレーヌ」(1913年製造) スイス空軍創設当時のパイロット2人。第1次世界大戦中、航空機の前に並ぶエントナー中尉(中央)とオーデマ准尉(右) Keystone スイス空軍の「ヘーフェリDH-1」(1916年から1919年までの偵察機) 前方の機関銃のある場所に座る偵察者。後ろはパイロット Keystone スイス空軍の「ヘーフェリDH-1」(1916~1922使用) A.ヘーフェリ氏とベルン州トゥーン(Thun)の連邦開発工場は「DH-1」を6機製造した後「DH-2」を観察機および訓練機用に6機製造 Keystone 「ヘーフェリDH-3」 24機購入。1917年から1923年まで、偵察機および訓練機として使われた Keystone 「ヘーフェリDH-5」 1920年代初期に飛行を開始。当時としては非常に高性能
トレンド・スポッター、経済アナリスト。日経CNBC「ヴェリタス・トーク」、TBS「森本毅郎スタンバイ」(毎週金曜朝7時台)、ラジオ日経「Roundup World Now」(毎週金曜午後10時半)など。日課は朝の散歩。毎日違うコースを歩くようにしています。街の観察にもなる。
ローザンヌ、ウシー(Ouchy)、「遊覧船祭(Fête de la navigation)」 1863年7月 Constant-Delessert, Musée historique de Lausanne
1945年8月14日正午、日本の天皇陛下はポツダム宣言における無条件降伏を受託するとの旨を全国に向けラジオ放送で伝えた。翌15日、日本政府は正式に日本の無条件降伏を宣言した。 アメリカの雑誌「LIFE」のJ.R.Eyermanは1945年9月に敗戦後の日本の様子を撮影している。 2:黑桜部隊:2011-11-06 11:53 あれ、全部中国語じゃん… 3:命石の门的选择:2011-11-06 12:04 >>2 中国語…? 4:陈可破:2011-11-06 12:04 これが日本か… 5:tianshi6645363:2011-11-06 12:06 この写真って第二次世界大戦終結後に日本軍が中国から撤退するときのかな 9:命石の门的选择:2011-11-06 12:27 >>5 いや、これは日本の写真だよ。見た感じボロボロだけどね。当時の中国は敗戦直後の日本よりも酷い状況さ。この写真は敗
Ein letzter Glanz fur Habsburg ハプスブルク家最後の皇太子の葬儀(オーストリアの反応) -日本に対する反応ではありません- ―2011年7月17日の記事― オーストリアは、ハプスブルク家最後の皇位後継者であったオットー・ハプスブルクに別れを告げた。昨日ウィーンで行われた葬列が、ハプスブルクの歴史に終止符を打った。 およそ1万人の人々が仮装し、参加したウィーン市内の葬列 ハプスブルク家最後の皇太子オットー・ハプスブルク オーストリア共和国は、ハプスブルク家最後の皇太子に頭を下げた。ウィーンでは、何千人もの貴族や、そうでない者も、オットー・ハプスブルクの葬列に参列した。 不運な皇帝の息子。彼は、始めに帝国を失い、そして祖国を追われた。それから1世紀ほどが経った真夏日の今日、彼はやっと、そして永遠に、自分の家へと帰って来たのである。 ウィーンは晴天。竜騎兵の黒と金の
BANDITS’ ROOST, NYC | AND TO THINK THAT I SAW IT ON MULBERRY STREET Jacob Riis was born the third of fifteen children on May 3rd, 1849 in Denmark. He was a carpenter by trade when he headed to the United States in 1870. Like a lot of immigrant folks, he was unable to find work when he landed on New York’s hard-scrabble streets, and sought shelter wherever he could– often spending the night sleepin
Babi Yar is a large ravine on the northern edge of Kiev which achieved notoriety as a place of mass executions of civilians and prisoners of war carried by German occupying forces. These horrible pictures are taken by German war photographer Johannes Hahle 10 days after Kiev’s occupation… Ukrainian policemen keep order in a crowd of women in occupied Kiev.
twiterのTLを見てると、ちらほらとコミケの話がでてくる。そういう時期だなたしかに。 昔、東京に居たときに、世間で有名なコミケというものに一度ぐらいは行ってみようか、と思って見に行ったときの写真がスキャンしたネガの中からでてきた。日付は1988.08.13だから23年前。結局コミケに行ったのはこれ1回だけ。 服装にも時代を感じる。見る人が見れば、どこの会場のどんなブースかわかるのだろうな。 会場は晴海だったと記憶している。Wikipediaのコミックマーケットにも「1988年のC34より会場を晴海に戻すことになった」とある。特に誰の何を買いに行くとかなかったので、友人と午後からのんびりでかけて見物をして、いくつかの同人誌とソフトを買ったような気がする。スキャンした写真の中には、仕事で関係してた方が同人誌売ってる写真もあって、忘れていた記憶が少しよみがえる。 買ったソフトはチェルノブイリ
昔の写真(ネガ)が見つかったのでスキャンしてみたら、30年ほど前に撮影した自分のマイコン環境が出てきた。当時はPCって言わなかったんだよな。PCって言うようになったのはWindows95あたりからかな? パソコンって言うようになったのは80年代に入ってからかなあ。パーコンと呼ぶ人もいた。 背後にI/O別冊の「アプリケーションプログラムライブラリ」(1980.12.20)が見えるので、撮影したのはたぶん1981年前半(1-3月?)だと思う。 左写真に機器の説明を付けてみた。当時の理系小僧の王道パターンである天文→BCL→アマチュア無線→マイコンと転落していったので、無線機器が左に見える。 マイコンは日立のベーシックマスターL2II (MB6881)。CPUは6800 750KHz、ROM 16KB、RAM 32KB。750KHzって遅いけど、画面表示をサイクルスチールで行う関係上、このクロッ
外のグラウンドに馬が集まり始めてる。間もなく出発の儀式。 わくわくする。 子供武者も。 「パパー!」と呼び、「パパとか言うもんでね!オヤジと言ええ!」と大人武者に怒られていたのが面白かった。 かっこいいよ! 総大将。 行列だけでもドキドキするなあ。これで合戦てどんなだか。見たかった。 女武者も。 相馬中村神社の禰宜さん。ピクチャレスクです。カメラを引きつける。 行列を見送ってから、取材に来ていた@miosa518 さんとカメラマンの方に、鳥居の前でお会いすることが出来た。この地でリアルに人と話をすることがなかったので、しばらく話し込む。 ○総大将お迎え(鹿島区) 鹿島区に移動。午後の行列を見る。ここも人が沢山。厳かな中村神社とはだいぶ雰囲気が違う。鹿島の方はまさにお祭り会場な感じ。お弁当買って食べるか 自衛隊も。 弁当を食べてたら余震来たら建物が崩れるのでどくように言われた。まだ修理ができ
珍しい絵葉書を見付けた。 昭和初期の名所や日本画のアルバムの中に海水浴場を写したものが有った。 (近江舞子)水泳場の全景 という説明が右からの横書きだし、平和な風景は恐らく昭和10年前後のものだろう。 近江舞子は琵琶湖の西岸だから正確には海水浴場ではなくて水泳場だ。 京都から家族連れで手軽に楽しめる場所だった。 夫が小中学生の頃には義父母や兄弟そろって泳ぎに行ったのだと思う。 想像して微笑ましいがもう話をしてくれる人は誰もいない。 水着が見たくて絵はがきの半分を拡大した。 私はその頃阪神間で海水浴を楽しんでいたが女性の水着はウエストからスカート状の布がついて2重になっていた。 この写真でもそう見える。 母の時代は半袖だった聞いた覚えが有る。 昭和になると腰から上は今とあまり変わりがないがさすがにビキニスタイルはなかったな。 男の子は黒い線のついた白いキャップを冠っていた。 京都に住むように
90年前の絵葉書・写真うpする カテゴリ☆☆☆☆☆ 1 :名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/14(月) 23:01:41.70 ID:9Ii/yu3T0 祖父からもらったアルバムに、大正9年(1920年)前後の絵葉書・写真約160枚が入ってたのでうpします 曾祖父さんがシベリア出兵に行ったときのものと思われるのが大半で、他には日本の風景とか。 6 :名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/14(月) 23:03:03.00 ID:DcTJPbJk0 興味深い 8 :名前:1:2011/02/14(月) 23:06:17.70 ID:DF+aNeqv0 セミョノフ将軍 グリゴリー・セミョーノフ - Wikipedia グリゴリー・ミハイロヴィチ・セミョーノフ(Семёнов, Григорий Михайлов
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