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災害と歴史に関するjingi469のブックマーク (21)

  • 震災の時に親父が撮った写真うpってく : snap速報

  • 明治三陸地震津波から116年 - 豪雨災害と防災情報を研究するdisaster-i.net別館

    1896年6月15日,岩手県沖を震源とするM8.25の地震が発生し,揺れは軽微だったものの大規模な津波が発生し,岩手県沿岸全域と宮城県沿岸北部を中心に,死者21959人の被害を生じました.近代以降2番目に大きな人的被害を生じた,いわゆる「明治三陸地震津波」です. 私は宮城,岩手に足かけ7年住んでいましたが,防災という分野に関わっていたせいかもしれませんが,「明治三陸」というのは,とてつもなく巨大で,恐ろしい現象というイメージを持っていました. さて,年6月15日は,明治三陸地震津波の発生から116年目に当たります.6月15日から16日にかけて,明治三陸地震津波に関する報道を有料検索まで広げてみましたが, 東京新聞 http://goo.gl/tjdNB IBC http://goo.gl/MMniF 岩手日報 http://goo.gl/WRCed の3件を確認したのみでした. 明治三陸

    明治三陸地震津波から116年 - 豪雨災害と防災情報を研究するdisaster-i.net別館
  • 地震のアート

    ジュリオ・ロマーノ(1499~1546)作「タイタン族の没落」、ディテール、フレスコ画、伊マントヴァ(Mantova)のパラッツォ・デル・テ(Palazzo del Te) akg-images ロッソ・フィオレンティーノ(1494~1541)作「伊カターニアの地震発生後、両親を肩に担ぎ逃げる双子」、フレスコ画、フランスのフォンテーヌブロー城(Chateau de Fontainebleau)所蔵 AFP

    地震のアート
  • 78 貞観地震とは何だったか? « 千秋日記

    今日、産総研の岡村 行信 活断層・地震研究センター長から、今年、3月11日の起きた東北地方太平洋沖地震と、同じく西暦869年に東日の太平洋沿岸を襲う大津波を生じさせた貞観地震との関係を解説して頂いた。日と異なり、米国では地震予知学は、既に意味のない研究として国から研究予算も出なくなったが、岡村先生が行われている学問は、地震予知学ではなくて、地層に埋もれている津波堆積物を調査分析する「地震考古学」と言えるものである。 駿河湾沖の東海地震の予知を目指して、精密な計器を沢山使う地震予知学は、華やかではあったが、この学問は、地震計が、この世に登場する、せいぜい100年の歴史しかない。一方、地層に埋もれた津波堆積物の調査は、数千年単位での分析が可能である。ところが、その分析結果が正しいものかどうかが文献によって立証されなかったため、これまで日の目を見てこなかった。残念なことに、この岡村先生達のグ

  • 東日本大震災:定説覆したM9地震 高密度観測網すり抜け - 毎日jp(毎日新聞)

    計2万人を超す戦後最大の死者・行方不明者を出した東日大震災で、これまでの災害想定や地震学の常識は大きく覆された。幾多の地震や津波にさらされ、備えを固め、世界に例をみない高密度の地震観測網が整備されたこの国で、なぜ「想定外」は起きたのか。超巨大地震とそれに伴う津波が生じた仕組み、招いた被害から何を学べるか。全国の海域では従来の地震想定の見直しが始まった。次の大災害はいつ起きてもおかしくない。古代からの歴史も振り返りながら、これからの日の防災を考えたい。 ◇阪神の1450倍、同規模未体験 学界、甘い想定 東日大震災をもたらしたのは、発生が予測されていなかったマグニチュード(M)9・0の超巨大地震だった。規模は阪神大震災(M7・3)のおよそ1450倍。世界では過去に発生していたM9級の地震をなぜ想定できなかったのか。背景に学術的な固定観念に縛られた地震学者たちの「思考停止」があった。 地球

  • 世界の過去100年間に起きた地震をビジュアル化した映像(動画) : らばQ

    世界の過去100年間に起きた地震をビジュアル化した映像(動画) 世界各地でどのような規模の地震が起き、被害を出してきたかは、ある程度ニュースや映像で知っているかと思います。 しかしながら、地球規模の時系列のイメージというのは、なかなかイメージしにくいのではないでしょうか。 20世紀の100年間に、地球上で起こった地震をビジュアル化した、3分半の映像をご覧ください。 YouTube - ‪Notable earthquakes that occurred in the 20th century‬‏ マグニチュード8未満 = 3重丸 マグニチュード8〜9 = 5重丸 マグニチュード9以上 = 9重丸 日を含めた環太平洋の地震地帯に頻発しているのはもちろんのこと、それ以外の地域のどこに頻発しているのか、手に取るようにわかります。 20世紀の間に起きたM9を超える地震は、カムチャツカ地震 (19

    世界の過去100年間に起きた地震をビジュアル化した映像(動画) : らばQ
  • 東日本大震災:「古代湖」内の被害突出 福島「郡山湖」 - 毎日jp(毎日新聞)

    東日大震災で、10万年前に福島県中部の内陸にあったとされる古代の湖「郡山湖」の内側で、特に家屋倒壊などの被害が大きかったことが、同県玉川村出身で東大大学院生の小林達也さん(23)=地理学専攻=の調査で分かった。同じ地域でも湖岸の外側では被害が少なく、小林さんは「建物の老朽化もあるが、湖と被害の大きかった範囲がぴったり一致した」と話している。今月下旬の学会で発表する予定。 郡山湖は同県郡山市から矢吹町まで南北に広がっていた巨大な湖で、推定で猪苗代湖(約103平方キロ)の少なくとも3倍以上と考えられている。地層から約2万3000年前までに大部分は泥で埋まったとみられるが、一部はその後、沼地になっていたという。 県災害対策部によると、今回の地震で海岸付近では揺れによる家屋倒壊は少なかったのに対し、郡山市や須賀川市など内陸部で家屋倒壊や地盤沈下などの被害が続出。郡山市では、県内で最も多い273

  • 専門家に聞く 年代別の老後資金作り  :日本経済新聞

    キャリア、転職、人材育成のヒントを提供してきた「リスキリング」チャンネルは新生「NIKKEIリスキリング」としてスタート。 ビジネスパーソンのためのファッション情報を集めた「Men’s Fashion」チャンネルは「THE NIKKEI MAGAZINE」デジタル版に進化しました。 その他のチャンネルはお休みし、公開コンテンツのほとんどは「日経電子版」ならびに課題解決型サイト「日経BizGate」で引き続きご覧いただけます。

    専門家に聞く 年代別の老後資金作り  :日本経済新聞
  • 東日本大震災:先人は知っていた 「歴史街道」浸水せず - 毎日jp(毎日新聞)

    東日大震災に伴う津波で大きな被害を受けた仙台平野で、浸水域の先端が、江戸時代の街道と宿場町の手前に沿って止まっていることが、東北大の平川新教授(江戸時代史)の調査で確認された。仙台平野は400~500年おきに大津波に見舞われており、街道は過去の浸水域を避けて整備された可能性が高いという。平川教授は「先人は災害の歴史に極めて謙虚だった」と話し、今後の復旧計画にも教訓を生かすべきだと提言する。 国土地理院が作製した東日大震災の浸水図に、平野を縦断する奥州街道と浜街道を重ねたところ、道筋の大部分と宿場町が浸水域の先端部からわずかに外れていたことが分かった。宿場町の整備後に仙台平野を襲った慶長津波(1611年)では、伊達領で1783人が死亡したとの記録が残る。平川教授は「慶長津波を受けて宿場町を今の位置に移したとも推察できるが、今回の浸水域と比べると見事なほどに被害を免れる場所を選んでいる。津

  • 「余震はおおよそ三ヶ月ほども続いたろうか」......方丈記「養和の大地震」から

    かくおびたたしく震ることは、しばしにて止みにしかども、そのなごり、しばしは絶えず。よのつね、驚くほどの地震、二三十度震らぬ日はなし。十日・二十日すぎにしかば、やうやう間遠になりて、あるひは四五度・二三度、もしは、一日まぜ、二三日に一度など、おほかた、そのなごり三月ばかりや侍りけん。 こんなにもひどい激震は、しばしの後には止まったけれども、余震はしばらくの間絶えることなく続いた。平生ならびっくりするほどの大きな揺れが、一日に二~三十回ほども来ない日はない。十~二十日も経過すると、ようやく余震の間隔は間遠になって、ある日は四~五度、別の日は二~三度、あるいは一日おきや二~三日に一度といった具合で、余震はおおよそ三ヶ月ほども続いたろうか。 先日、【「ここより下に家を建てるな」】の話もあわせ、昔の人たちが伝えようとしていたことは、しっかりと受け止めなきゃなぁ、と思う今日この頃。 経験則からすると、

    「余震はおおよそ三ヶ月ほども続いたろうか」......方丈記「養和の大地震」から
  • [PDF]溜池通信 vol.466「歴史に学ぶ震災後の進路」

  • 河北新報 東北のニュース/「津波」先人の警鐘生かされたか 東日本大震災

    「津波」先人の警鐘生かされたか 東日大震災 住民が明治時代から高台移住を続けた吉浜湾=6日、大船渡市 住民が明治時代から高台移住を続けた吉浜湾=6日、大船渡市 11日で発生から1カ月を迎える東日大震災。東北の沿岸部を襲った津波は多くの家、人々をのみ込んだ。「人知を超えた災害」とも言われる一方で、先人は津波への警鐘を残している。歴史から何をくみ取り、教訓をどう継承するのか。再び同じ被害を繰り返さないためにも、過去の津波被災地を歩き、学ぶ。 ◎大船渡・吉浜湾/「明治三陸」で被害、高台に集団移住  大船渡市の吉浜湾は、ほかの三陸海岸の湾とは風景が異なる。中心集落があるはずの湾奥部の低地には家屋がなく、水田が広がる。中心となる集落の家屋約100世帯は海抜20〜30メートル前後の県道沿いに並ぶ。  「吉浜では海辺の低地に家を建てないことが常識。親から言い伝えられて守った教訓というよりも常識なんだ

  • 加来 耕三 - 新聞案内人 :新s あらたにす(日経・朝日・読売)

  • 2011.04.03 貞観三陸地震のあとに起きた仁和地震は再来するか at サイエンスライター 森山和道

    ▼3月15日の日記で箕浦幸治氏や、産総研や地震研、東北大などによる貞観津波の研究について簡単に紹介したが、今日はその続きの話。 ▼平安時代、西暦869年に起こったと「日三代実録」に書かれていた貞観三陸地震。M8.6以上と言われていたそれが、広範囲にわたる津波の痕跡から見てM9規模かもしれないと日応用地質学会で発表されたとの報道があったのは、2007年10月11日。自分のウェブ日記にも読売新聞で「平安期地震の新痕跡、国内最大M9規模か」と題して報じられたURLのメモがあった。大阪市立大准教授の原口強氏らを中心とした東北大、東京大地震研究所などのチームによる2004年からの研究成果によるもので、岩手県宮古市から宮城県気仙沼市にかけて津波堆積物を調べたところ、岩手県三陸海岸の大槌湾で津波跡が見つかったというもの。 ▼なお原口准教授らはこのあとに気仙沼・大島でも津波の痕跡を発見したことが20

  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    ベルギーに行った 先日、ベルギーに行きました。 マグリットの絵とルーベンスの絵を見るのが目的。 あまり時間もなく、ブリュッセルとアントワープを駆け足気味で巡ることに。 ミュンヘンから車で10時間近くかかり、なんでこんな無茶をしてしまったのかとも思いましたが、ヨーロッパの方…

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  • 神戸大学 電子図書館システム --一次情報表示--

  • "TSUNAMI" 失敗は伝わらない

    畑村洋太郎『だから失敗は起こる』第4回 知るを楽しむ「この人この世界。」(2006年放送) "高き住居は児孫に和楽 想え惨禍の大津波 此処より下に家を建てるな" A past victim put up the stone monument. It is carved for the slab as follows. "The dwelling in the height saves the descendant. Do not forget the tsunami. Do not build the house in a place that is lower than here." However, because life in the height was inconvenient, this warning was not defended.

  • 東西で電気の周波数がなぜ違うのか

    某理系学生が「なぜ東西で電気の周波数が違うのか」「なぜ今回西日で節電が行われないのか」という解説をしていたので、簡単にまとめました。一種の教養なので、あくまで参考としてください。

    東西で電気の周波数がなぜ違うのか
  • 解説委員室ブログ:NHKブログ | スタジオパークからこんにちは「暮らしの中のニュース解説」 | スタジオパーク 「教科書に復活した"稲むらの火"」

    << 前の記事 | トップページ | 次の記事 >> 2011年02月14日 (月)スタジオパーク 「教科書に復活した"稲むらの火"」 《前説》  今から150年余り前に起きた「安政南海地震」の時に、津波から村人を救った人の伝記が、この春から使われる小学校の教科書に64年ぶりに掲載されることになりました。山﨑解説委員に聞きます。 どんな人の話しですか? 新年度から全国で使われる小学校5年生向けの国語の教科書で、「百年後のふるさとを守る」というタイトルで、江戸時代に現在の和歌山県広川町(ひろがわちょう)、当時の広村に生まれた浜口儀兵衛(はまぐちぎへい)という人の話しがのっています。  今から157年前の1854年12月、紀伊半島の沖合を震源にマグニチュード8.4の巨大地震「安政南海地震」が発生しました。激しい揺れと大津波で、全国で数千人の犠牲者が出たといわれていますが、広村でも現在の震度にし

  • 北炭夕張新炭鉱ガス突出事故 - Wikipedia

    北炭夕張新炭鉱ガス突出事故(ほくたんゆうばりしんたんこうガスとっしゅつじこ)とは、1981年(昭和56年)10月16日に北海道炭礦汽船(以下「北炭」と表記)の関連会社「北炭夕張炭鉱株式会社」が経営する夕張新炭鉱(北海道夕張市。以下「北炭夕張新炭鉱」と表記)で発生したガス突出事故、およびこれに伴う坑内火災事故である。 最終的な死者数は93人にのぼり、戦後に発生した炭鉱事故の死者数としては1963年(昭和38年)に発生した三井三池三川炭鉱炭塵爆発の458人、1965年(昭和40年)に発生した三井山野炭鉱ガス爆発事故の237人に次いで3番目の事故[1]となった。 終戦直後、国は国土の復興に不可欠な石炭・電力・鉄鋼の三事業を最優先で再生させる「傾斜生産政策」を打ち出したが、割安な海外炭や石油への依存度を強めるエネルギー政策の転換[2]により、以後は国の強い指導のもと、各炭鉱に合理化を求めた[3]。

    北炭夕張新炭鉱ガス突出事故 - Wikipedia