歴史修正主義と「言語ゲーム」――学術の力を信じるために 『歴史修正主義とサブカルチャー』著者、倉橋耕平氏インタビュー 情報 #「新しいリベラル」を構想するために 90年代に現れた歴史修正主義的言説。多くの学術的な批判がなされてきたが、一向に収束する気配はなく、インターネット時代になってますます広く深く蔓延している。なぜ、学術は無力にみえるのか? あるいは、まだ学術の力を信じることはできるのか? 『歴史修正主義とサブカルチャー』の著者、倉橋耕平氏に話を伺った。(聞き手・構成/芹沢一也) ――最初に本書のコンセプトを教えてください。 今国会で財務省の公文書改ざんが話題になっていますが、あれこそまさに「歴史修正主義(=歴史否定論)」の系譜にある思考です。私が今回の本で問題にしていることの根幹というか、その最悪の事態がいままさに目の前で起こっている。歴史を恣意的に歪めることは、事実を歪めることです
学術論文に日常的にアクセスできるかどうかは研究生活を支える最も重要なインフラの1つと言っていいだろう。大学・大学院を卒業し民間企業に就職してしまうと多くの場合は出版社と契約していないため、マトモに入手しようとすれば論文1本40ドルなどと吹っ掛けられることとなる。旧帝大をはじめとする恵まれた研究大学にいると論文が手に入るのは当たり前という感覚になるが、残念なことに大学の外に一歩出ればPDFなど落ちていない。運が良ければ著作権を無視した著者がresearchgateにupしたPDFがあるかもしれないが、多くの場合は「Purchase PDF」とボタンが出てきて諦めることになるだろう。東大の大学院を修了して地方国立大に異動したポスドクが「こんなに論文が手に入らないなんて」などと嘆くシーンも何回か見かけたが、その地方国立大の契約誌数ですら圧倒的にうらやましく感じるのがアカデミア外の在野の研究者生活
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