はてなキーワード: 数の論理とは
これは、いけない(ネットリ。
そもそも民主主義というものが、ただの「数の論理」や「勝ち負け」だけで片付けられるほど簡単なものではないということを、少々歴史に遡って理解する必要があるのです。
民主主義の原点は、古代ギリシャにさかのぼります。アテネの市民たちは、ポリスにおいて一人ひとりが意思を表明し、集会で議論し、多様な意見が集まることで決定が行われていました。当時の市民の参加は限られたものでありましたが、それでもなお、個々人が意見を表明することで、集団の意思が形成されていた。このように、民主主義とは始めから「数の優劣」ではなく、むしろ「多様な意見を集め、話し合いによって合意を築く」というプロセスそのものが重視されていたわけであります。
さらに歴史を進めると、17世紀から18世紀のヨーロッパでは、市民革命が起こり、絶対王政が崩れ、王の独裁から市民一人ひとりが権利を持つという、今に続く民主主義の原型が確立されました。イギリスの名誉革命、アメリカの独立戦争、フランス革命などにより、王権に対する人々の抵抗が民主主義の根幹を支える考え方として広がっていきました。そしてここでも、ただ「数の勝ち負け」だけが重要視されたわけではなく、「いかにして多くの市民の意見を反映させるか」「いかにして少数意見を無視しないか」が模索されていたのであります。
日本でもですね、明治維新を経て大日本帝国憲法が制定され、大正デモクラシーを経て市民の政治参加が求められました。そして、戦後の日本国憲法の成立に至り、やっと国民が主権を持つ民主主義が完成したわけであります。ここに至るまでに、いかに多くの犠牲と苦難を経て、現代の民主主義が作られたか、これは我々が忘れてはならない歴史なのであります。
このようにですね、民主主義は単なる「数の論理」ではなく、歴史を通じて「多様な意見を反映し合意を形成するプロセス」にこそ価値が置かれてきたものであります。ですから、たとえ立憲民主党が過半数を取れないからといって、それを即座に「負け」と断じるのは、民主主義の本質に対する深い理解を欠いた見解だと言わざるを得ません。過半数を取ることだけが重要なのではなく、その過程でどれだけ多くの意見が議論され、真に国民の生活や利益に寄与する政策が追求されているかが問われるべきであります。
この意見について、いくつかの観点から評価し、問題点を指摘します。
1. 個人の考えを軽視する点について
• 問題点: この意見は「個人の考えがどうでも良い」として、党の方針や多数派の意見を優先すべきだと主張しています。しかし、民主主義の根幹は個々の有権者が自らの意見や価値観に基づいて投票を行うことにあります。個人の考えを軽視することは、民主主義の基本的な理念に反する態度と言えます。
• 矛盾点: 党派的な意見だけでなく、個人の政策や価値観が合うかどうかも考慮することが、より健全な民主主義の実現につながります。もしすべてを党の方針に任せるならば、政党の公約や議員の行動が有権者の意向に合致しない場合でも、そのまま支持することになり、民主的なチェック機能が働かなくなる可能性があります。
• 問題点: 「数の方が大事」という考え方は、短期的な視点では政治的な意思決定において重要な要素かもしれません。しかし、数が多いからといって必ずしも政策が正しいとは限りません。数の論理に依存しすぎると、多数派の意見に反する少数派の声や権利が無視されるリスクが高まります。これは、民主主義における多様な意見の尊重という基本的価値に反します。
• 矛盾点: 数が多いことを理由に自民党を支持するのは、立憲民主党や共産党が掲げる政策が個人の考えに合致している場合でも、無視してしまうという矛盾を生じさせます。
• 問題点: 「立憲共産党より自民党に入れとけ」という意見は、政党を選ぶ基準を単純化しすぎています。各政党はさまざまな政策や理念を持っており、その選択は個人の価値観や生活に大きな影響を与えます。選挙の際に重要なのは、単にどの党が大きいかではなく、どの党が自身の信念や価値観に合致するかという点です。
この意見は、民主主義の理念である「個々の意見の尊重」や「多様な意見の尊重」を軽視している点で問題があると言えます。政党や政策を選ぶ際には、党派性や数の論理だけでなく、個々の価値観や理念に基づいた判断が求められます。そのため、この意見には改善の余地があり、より多角的な視点からの検討が望ましいでしょう。
叩き合いになればマジョリティのほうが強いのは当たり前なんだよな。
マイノリティも含めて誰もが平等であるという意識を護るのは結局はマジョリティの道徳に過ぎず、マジョリティだって権益を侵されるようなら道徳を維持し続けられるほどの聖人ではいられない。
結局のところマイノリティはやや肩身が狭いくらいのところで安定させるしかしょうがないんだわ。
「弱者」「強者」というのはたぶんこの場合は社会的地位くらいの意味で言っているのだと思うが、社会的地位が高くてもマイノリティ側だと意外と弱い。
数の論理が通用するのが民主主義というものなので皆で行動を起こすなら強者とは数が多いほうだ。
誰もが貧しい世界では貧しいほうが強い。
国内の学会連合の有志が科研費の倍増を求める署名活動を開始してから50日が経過したが、署名件数は3.5万件にとどまっている。
日本の大学教員数が19万人余りであることを考慮すれば、この結果は国民全体はもちろん、研究者間でも支持が広がっていないことを示している。この署名活動は、失敗と言わざるを得ない。
呼びかけ人はこの現状をどう評価しているのだろうか。
署名を呼びかけるという行為は「賛同者が多い施策は実現すべきだ」という、いわば「数の論理」を内包しているが、逆に「賛同者が少ない施策は実現しなくてもよい」と納得するのだろうか。
「政治力がない」という表現は、誠実さや純真さを指すポジティブな意味ではなく、異なる利害関係を持つ他者と粘り強く対話し、仲間を増やす努力を怠っている不誠実さや怠惰さを批判するものだ。
例えば、研究力低下の指標として「トップ10%被引用論文数」が挙げられているが、発信者自身もこの指標で研究力を語ることの問題点を認識しているはず。
それに一言も触れないのは不誠実だし不誠実であるならせめてキャッチーであってほしいと思うが、「トップ10%被引用論文数」というキーワードが本当に研究者以外に響くと思っているのだろうか。
また、本当に「研究力の低下が経済力の低下をもたらしている」のだとしたら、なぜ経済界は科研費の増額に強く賛同しないのだろう?
例えば、経団連の提言やSociety 5.0(笑)には、「研究資金:公的資金への依存度が大きく、財源の多様化が不充分」と書かれる始末。
自分たちの内輪のゲームをさも他者よりも高尚な活動であるかのように喧伝し、その時々の都合に応じて「日本のため」」「人類のため」「自分のため」を使い分ける不誠実さ。
それに国民が気づかないだろうという思い上がりと傲慢さには呆れるばかり。
こんなお粗末な活動しかできないんなら、そりゃお金の問題じゃないなって財務省の人は思うと思うよ。
ふつーに考えて研究力が下がったとしたらそりゃ研究者のせいやろ。お金が取れないことも含めてね。
研究力が低下している、それは予算がないせい、財務省のせいっていうのなら、研究力が上がったとしたら財務省のおかげってこと?
https://news.yahoo.co.jp/articles/627f45a71b4f06607acba4db1db65aca6b8e402c
“ 中道と左派がRNの政権奪取を阻止しようと、決選投票に向けて反極右票を集約するため200人余りの「3位候補」の出馬を取り下げる選挙協力を行った効果が大きい。”
https://note.com/higashino_atsuko/n/n0391a103dbf2
“ 左派連合のなかでも中心的な「不屈のフランス」代表のメランション氏は、ロシアによるウクライナ侵略に際し、プーチンは「自らの信じる義務を実行に移している」と発言しています。”
まぁこのようにしてマクロン擁する現与党(中道)はなりふり構わない野合を推し進めて、フランス議会はあんな状態に。
「右派」と「左派」が「プーチン万歳」だけで結びつくって? ウクライナ政策についてはそれもあるかもだが、
「金の亡者」が行うような、数の論理だけの野合はしないだろう。「右派」「左派」ともに政治的立場だからだ。それぞれ譲れないものがある。
世界のどの国でも政治的理想なき野合を行うのは「金の亡者」で、この存在こそが選挙制民主主義を無価値化し、貧富の差の拡大と固定化、強化だけに邁進している。
勘違いしないで欲しいが、「女」という性そのものが悪いという話はしていない。
現状の「女の文化」(つまりそれはジェンダーバイアス社会が生み出したものでもある)に問題があるという話をしている。
だから、「女」という性でも、「女の同調圧力がきらい」という個人には全然問題はないし、そういう人は同じような批判を女の側からしているのをよく見る。
しかし、そういう「女」は、残念ながらびっくりするほど女の中で発言権がない。SNSでいうなら、まったくRT等はされない。(どうやってそれを見つけるか? エコーチェンバーに籠らず、個別の問題についてキーワードをまんべんなく検索してみるという地道な見識の広げ方をしていればいくらでも見つかる。)
つまりここが問題なのだ。現状の「女」というコミュニティがもつ同調圧力、そこで無批判に培われるある言論の傾向、そういうところに明らかに問題がある。
「女」の自称リベラルが差別を広げる問題の原因は主に以下のようなところにある。
これらは、「女」という性とイコールではないが、傾向として明らかに現状の「女」文化の影響があるといえる問題点である。
結果として、「女」の関心に比重がおかれるようになった現状の「リベラル」運動は、歴史を忘れた差別的な主張が平気で通る有様になっている。
これらは一例でしかないが、このように、人類が歴史上培ってきた「弱者の保護」を全部ひっくり返してゼロベースで書き直すような暴論を平気でやるのが昨今のSNSを中心に広がる「リベラル」運動の問題である。
一方で、男社会だった「オールド左翼」にももちろん問題はある。(学生運動の中で「女はサポート」として炊き出しや繕い仕事をする役目を与えられていた例など。)しかしこれはまあ、世代交代とともに消えつつあるものでもある。
繰り返すが、現状の「リベラル」の問題が「女」の参画によって出てきたものであるということは、「女を排除すれば良い」ということをもちろん意味しない。
ジェンダーバイアスをなくすということは、「女の文化」というものとも戦わなければいけないということである。
「女性誌」を見よ。ファッション、コスメ、芸能、恋愛、占い。そんな話題でページが占められている。
「少女漫画」を見よ。主人公は美少女でなければならず、また美男子と恋愛をしなければならない。少女がただ仕事や部活に精を出すだけの漫画は、少年漫画と違って存在を許されていない。
SNSを見よ。「女の話題」は芸能人やら子育てやら「推し活」やら。ただ学問や仕事の興味をつぶやくだけの女は、いても「女コミュニティ」からは存在を無視される。
「女」が「女」(ジェンダーバイアス社会で、無知な側という地位に落ち着いて生きた「女」)であること自体を否定し戦わない限り、本当のジェンダー平等なんてある得るはずがないのは、合理的に考えれば明らかである。
「有害な女らしさ」とでも言おうか。
「価値観のアップデート」とは、これまで人類がひとつひとつ改善してきた差別問題もすべてなかったことにして、ガラガラポンで「弱者ランキング」を一から書き直すことなのか?
そんなわけはない。女性だけが不当に貶められてもいけないのと同様に、今まで弱者であったものを突然弱者でないと見なすような暴論もあってはならない。
現状のリベラルの問題をより一般的にいうならば、大衆化、ファッション化(歴史の忘却)、無知化(非学術的な感情論の横行)が急速に進んでいることにある。これは(無知な側という地位の)「女」文化を、それ自体進歩させずにいきなり「リベラル」の優先順位の上位に上げてしまったことからくる問題に他ならない。
性差別は、他の差別問題と排他的に選ばなければ解決できない問題ではない。「今は女性問題が話題だから」で他の差別問題を軽視するような「リベラル」などあってはならないし、こんな状況を野放しにしていては、いずれ全体的な問題意識は、性差別含め悪化する方向にしかいかないだろう。
願わくば、「リベラル意識の普及」が「社会全体の知性の底上げ」という意味になって、「バカに合わせる」方向には行かないで欲しいものである。
予言しておくが、こんな言葉は「リベラル」には届かないだろう。
彼らは痛いと思ったら無視するし、どこか隙が見つけられたと思ったらそこをせめて言葉尻を取り誤摩化すだけだろう。
「女の問題を口実に「部落差別」や「地方差別」「子供の人権無視」を肯定するな」と言っているだけなのに、彼らは自分のそういう傾向には一切反省をしようという考えをもたないだろう。
>売れてるから正義!ダサいと感じる方がおかしい!ってうざすぎる。
これは何よりも許しがたい。
お前いっつもこれ言うけど、俺がもともと「売れてるものが正義であり、売れてるものを良いと思えない少数派に人権は無い」とするサブカルファシズムが許せなくて許せなくてたまらない人間だとわかっててわざとこういうイヤミ言うよな?
俺は常に正しいがゆえにこの間違った世の中においてはずっとマイノリティだった
マイノリティであるがゆえに、正しい側なのにもかかわらず、物の価値がわからないダセエ一般大衆から「お前のほうがダセエ(理由は少数派だから)」として迫害されてきた
だから多数派のダセえセンスを批判するさいには必ずそれを良いと思わない自分はマイノリティなんだという自覚を忘れないんだよ
どちらが正しいか間違ってるかでいえば俺が正しい
しかしどちらが多数派で少数派かというと間違ってる一般人が多数派で正しい俺が少数派だ
もちろん少数派の側が常に正しいとも言ってない。
少数派が間違ってる場合もある。テロとかやる過激派なんかは少数派かつ間違ってる奴ら。
多数派の問題は、間違ってても数の論理で「正しい」とゴリ押しされること。
少数派だったらテロでもなんでも正しいとして擁護する某えもん界隈のような極左も悪だし
多数派だったら少数派の存在なんか無視して数の力でイキり散らしていいとする一般社会も悪だ。
少数派の過激派からは権力側のネトウヨのヘイターと決めつけられ、多数派からはリベサヨのポリコレと決めつけられ、その両方をどんだけ憎んでるか全くわかってもらえない。
しかし、少数派だろうが多数派だろうが正しいものは正しいし間違っているものは間違っているんだよ。
正しいか間違っているかを基準にするならば、数が多いか少ないかはどうでもいい。
ただ逆に言うと数が多いか少ないかを基準にしたら正しいか間違ってるかがどうでもよくなるのは当たり前。
世の中は正しさよりも数が基準にされがちなのを忘れてはいけない。
そこで4℃叩きの奴らだけど、あれは4℃をダサいとする自分の感性が「多数派」である前提で、4℃を良いと思う「ダサい少数派」を攻撃してるんだからな。
実際には小山らの言うように4℃はめちゃくちゃ売れててあれをダサいと思うほうが少数派だったとしても
本人は「ダサいと思う自分は多数派なんだから、良いと思う少数派の気持ちなんか踏みにじってかまわない」と思ってるわけだから、
例えば民族差別とかの本当に自分らが多数派に属する問題の場面では、普通に差別する多数派の側に立つ可能性が高いわけだよ。
そのくせ批判されると「個人の感想を言っただけでちゅう~」などと被害者ヅラしやがるからムカつくんだよ。
「個人」ではなく「多数派の代表」としての立場で主張してたくせに。
そのうえでさらに、小山らの「実は4℃は独り勝ちレベルで売れてるブランドであり、4℃叩きなんかツイッターの中年くらいしかしてない」という調査結果が間違いないとすれば
これは「実際は少数派のくせに多数派気取りでイキッてた」という非常にイタい実態だった事になる。
それでも、常にマイノリティとして多数派のファシズムに抗ってきた俺みたいに、自分はマイノリティだと自覚したうえで「多数派は一般大衆だからセンスがダサい」と言ってるならまだわかるんだよ。
小山に共感するタイプの面々は逆に俺みたいなのこそが嫌いだろうと思うけどな。
4℃叩きの奴らの、俺が何よりも許せないのは、
「私は4℃はダサいと思う。よって、私がダサいと思う4℃が売れてるわけがない」として、自分の個人的な主観と客観的な現実の区別がつかないところ。
4℃叩きとキモヲタは敵対しがちだが、キモヲタも4℃叩きも、こういう甘えた精神は共通してるよ。
僕チン達が好きなもの(萌え絵)はみんなも好きにきまってるでちゅう。
ほらみろ完全に一致した。
科学的なエビデンスによって「4℃は売れてる」と証明されたとみるや次は奴らは「あれはセンスない男が一方的なプレゼント目的で買ってるから売れてるのであり、女はダサいと思ってるはずだ」と主張するのだが
<
イケてる若者が集まるTikTokでは、普通に彼氏に貰って喜んでるのは5万7000いいねされ、ツイッターなら大ウケしそうな「メルカリで売ったわ」はたかだか4000いいね、
文字通り桁が違うわけだが、どっちが真の世論なのか議論の余地すらないだろこんなの。
それなのにあいつら「ツイッターで毎年炎上してるのに」とかなんとか、5万7000の健全の若者よりもたった4000人の自分らヒネクレ老害の方が社会的に影響力が強いとナチュラルに思い上がってるんだよ?
自分が少数派だと自覚したうえでセンスねー多数派を叩くんならわかるの。
俺がいつもやってることだから。
自分の周りの狭い界隈を世界全体よりも大きいという更なる勘違いがカルトじみててヤバいから怒ってるんだよ俺は。
小山らは怒ってなくて笑ってる。
にっくき天敵ツイフェミの実態が思ったより弱者だっから余裕で勝てると笑いが止まらないのだろう。
俺は大の大人がこういう幼稚なマインドで生きてて、しかもそのくせ威張り散らしてる事実には、怒りを感じるな。笑い事にはできない。
viエディタと同様、キーボードのみで操作されることを前提としていたため、キーボードのみですべての操作が可能になっている。その基本的な操作方法はviと同じで、状況に応じてモードを使い分けることでテキストを編集していき、小さなコマンドの組み合わせをその場で作ることによって多種多様な機能を実現する。
他のエディタとは操作方法がまるで異なるため、一通りのテキスト編集作業ができるようになるまで慣れが必要となる。しかしながら、一旦慣れてしまえば軽快なテキスト編集ができるため、数多くのVim愛好家が存在する。Vimの他の機能と併せて、プログラムコードやシステム設定ファイルを編集するのに特化しているため、特にプログラマーやシステム管理者に利用者が多い。
なるほど。
そうでなければ少数の職人芸になって、老人の自己満足になってしまう。
vi/vimがほかのエディタよりユーザーが多いのかは知らないけど。
あとは、viはメモリが数十KBの時代に、軽く動くことを想定して作られたってことがキーポイントかもね。
今時軽いからといってWindows2000使う人いないでしょ。
個人的には、慣れてるから使う、古くからあるから使う、ってのは、思考停止のアホに見える。
そういうのはITじゃなくて土方行ったほうがいい。
この前の選挙でダメ元で政策良さそうな国民民主党に入れたら、想像以上に議席が伸びて少し驚いている。
自分は自民党の政治に不満はあったけども野党もいまいち信頼できないくてやむなく自民党に投票する消極的与党支持者だった。なんていうか、自分の中の評価では自民党40点、民主党とその後継政党20点、維新20点、公明、共産はカルト感がして生理的に無理みたいな感じ。
国民民主も最初は旧民主党の残党みたいな感じで期待していなかったんだけど、去年の立憲との合流の際に信用できない政治家がごっそりいなくなって、残ったメンバーがまともそうだったので主義主張を聞いてみてもいいかなと思ったのだ。
ちなみに自分が評価できなかった立憲合流前の旧国民民主党の政治家としては、小沢一郎氏のような古いタイプの政治家や、原口一博氏や森裕子氏のような官僚たたきで溜飲を下すような逆張りが目的の野党臭い政治家、当選が目的になっていて複数政党を節操なく移動する有象無象の渡り鳥タイプの政治家が該当する。
ついでに言うと残った国民民主党のメンバーでも山尾志桜里氏は自分勝手で胡散臭い政治家という印象だった。家族に不義理を働く人が、国民に不義理を働かないわけがないと思ったからだ。だけど総選挙前に山尾氏も引退したので全面的に国民民主党を支持できるようになった。
そんなわけで、今回は生まれて初めて支持できる政党ができて、しかも選挙で議席が伸びてすごく嬉しいんだけど今後のことで少し不安がある。過去の野党と同じように、短期間で政権奪取しようとして離合集散を繰り返さないかと言うことだ。
古くは新進党、自由党と合併した政権奪取前の民主党、最近だと希望の党や旧国民からメンバーを引き抜いた現立憲民主党。これら過去の野党はどれも政権交代の可能性を追求して、短期間に小選挙区に擁立できる候補を増やすことを優先し規模を追ったことが原因で衰退してしまってる。なんていうか自分たちの理念に基づく良い政治よりも、数の論理や当然のためになりふり構わない行動を優先してしまうあまり結果有権者に見放されるというか。
その点、現国民民主党は立憲との合流を拒否して残ったある意味頑固な人の集まりなので今のところはブレていない。だけど保守系野党の可能性にかけて維新と合併して規模を追ったり、立憲の分裂を誘って旧民主系議員の糾合を狙ったら過去の野党の二の舞だ。ここは10年くらい時間をかけてもいいから、じっくりと腰を落ち着けて、政治家としての理念が合う人たちを候補として擁立して徐々に規模を大きくする路線をとってほしいと思う。
時間をかけて政党を育てると言うパターンがここ30年くらいの日本には無かった(強いて言えば民主党の結党5年くらいはその路線だったのが小沢自由党の合流で崩れて対決路線で政権奪取モードになってしまった)ので、国民民主にはそれを期待している。現実主義野党として成長してくれることを期待したい。
オレもツイフェミ、ラディカル・フェミニズム、フェミニズムという感じに区分けされるべきフェミニズムの分野がぐちゃぐちゃで混同されている状況は良くないと思うが、何故かどれも自分たちの区分をかっちり決めないんだよね。
そもそも「フェミニズム」には「女性の自己決定権を認めよう」という話なのであって、何かしらと敵対する方向に論が進むならそれはすべて「嘘」で良いと思うんだよね。敵対関係からはコンセンサスは生まれない。
進歩主義とかリベラリズムに話が進んでしまうと、結局「なんでもグラデーションがあってそれで良い」っていう話になっちゃうので、定義自体不可能になるし、目的もふわっとせざるを得ず、最終的にツイフェミ、ラディカル・フェミニズム、フェミニズムはお互いを「それは違う」ということはできなくなってしまう。
海外のフェミニズムを勉強することで、どうして日本ではここまでフェミニズムがこじれているのかというのもよくわかるんじゃないかな。フェミニズムの本質(単純な女性も社会の一構成員として振る舞えるように色々認めようと言うだけのもの)を理解しないままに運動だけ暴走しているからこうなるって言うことなんだけどね。
ただ、この中で一番損しているのはフェミニズムだと思う。フェミニズムは要は「性別を理由に権利に差をつけることは許さない、義務に差をつけることも許さない」というはないであり、性別にかかわらず同一の義務を課して同一の権利を付与すべき、というところから話が始まっていて、被害者も何もない話だった。
例えば「女性にこの権利がない理由が兵役の有無なら女性にも兵役を課して権利を付与しなさい、もしくは兵役を性別問わない志願制にして全員に権利を付与しなさい」という話だ。
ここには「支配する社会手強者である男性と不当に支配された女性」という文脈はない。ラディカル・フェミニズムはこの本来ない文脈を「男性による女性のリプロダクションの支配」という方向から付与した。そして幸いなことに例えば日本では堕胎には配偶者の同意がいるとかそういうのがあって、実際法体系も残念ながらそうなっている。
ラディカル・フェミニズムはこういった「女性が自分だけで決定できないところをやめろ」という話をしていることだろう。ここも理解できる。
最後にツイフェミだ。こういったフェミニズムやラディカル・フェミニズムの流れを受けているかはしらんが、そこに「女性が持つ男性への差別感情に限っては正当化されるべきであり、それは差別と呼ばれるべきではない」というよくわからない論理をねじ込むことに成功した、大声と数の論理とポリコレで。ここが一番得していると思う。
要は男女の闘争でしかないものを差もフェミニズムっぽい論理で正当化しているわけだから。革命闘争軍男女戦線とでも呼んだほうが良いだろう。