はてなキーワード: 資するとは
(なんだか書いているうちに相手が記事を消してしまったが、せっかく書いたので投稿する。もともとは それは感性が死んでいるのではなくASDなのでは に関するコメント anond:20241231135829 からのやり取りの中での返信。)
荒らしてる奴は知らんけど、私は次期カサンドラ予定者である元増田を「困難を抱える者」として見ていいんじゃないかなと。 その場合、彼氏は残念ながら害そのものになりうる
これまで会話していた増田ではないようだけど、コメントしてくれてありがとう。人の苦しみに寄り添って現実的な考え方をする人なんだと思う。多分この社会でASD当事者と付き合う多くの人にとって、あなたの考えの方が「正しい」のだろうと思う。皮肉ではなく、私はそう思う。
私が気にしていることは現実を見ていないのかもしれないけれど、それでも私は首肯しがたい。
ブコメやあなたのコメントでもそうだけど、私の懸念を「誤診のリスク」と捉えているようだ。だが、それは違う。気になっていることはタイトルの通り。自閉症スペクトラム(ASD)とは、そもそも「症(Disorder)」とは、当事者の生活機能の向上のために使われる概念なのではないか?ということ。どれだけASDと認められるような特性がある人であっても、それがその人の生活を向上しようとする取り組みにつながらないのであれば、使ってはならないのではないか?と思う。
職場やパートナー、家庭などの対人関係に支障があり、そのことが当事者にフィードバックされた結果として当事者が困っている、生活の問題を解決したい、自分の何が他人を苦しめているのかを知りたいと思うのであれば、それは当事者に資することであるからASDという症概念を用いるのは妥当だと思う。
だが、その段階がなく一足飛びに周囲の人の問題解決のために誰かをASDと呼び、社会関係の断絶を呼びかける。それは差別につながる、というよりそれ自体が直球の差別なのではなかろうか。
単なる言葉遊びのように思われるのかもしれないが、当事者の幸福追求につながらない症概念の使い方は、間接的に当事者が医療につながること、診断を受けることから遠ざけてしまうのではないか。私はそこに危惧している。
うん。それで合ってるよ。
例えば、税金3割(所得税20%、住民税10%)くらいの所得で、月に2万円投資する場合で具体的に説明するね。
24万/年の3割の7.2万円も毎年税金が安くなりますので、その分を新NISAにいれると良いと思います。
実質的に24万円/年払うと、31.2万円/年(24+7.2)も投資にお金を回せます。
NISAのみを利用していると毎月2万だと24万円/年の投資にしかなりませんので、NISAのみ利用より3割もたくさん投資ができます。
idecoも利用して、31.2万/年投資、利回り年5%、30年積立だと2164万円になります。
NISAだけ使って24万円/年投資、利回り年5%、30年積立だと1665万円になります。
比較すると、iDeCoの方が500万円もたくさんお金が溜まります。iDeCoは受取時に税金がかかりますが多く見積もっても100万円程度。
こういうざっくりした計算だけでもNISAだけでなくiDeCoにある程度お金を入れて置くと大きなメリットがあります。
今後の受取時の税制がとんでもなく悪くなることまで考慮しても、月2万円程度はiDeCoに入れておくのが良いと思いますね。
勤務形態や、各種控除などで、所得税率が低かったりすると、多少計算は変わりますが、所得195万以上(所得税率10%以上)なら、iDeCoはおすすめです。
これまで、Twitter上の疑わしいツイートについた「コミュニティノート」に「役に立った」ボタンをポチポチ押してきたのだが、そのうちに「あなたもコミュニティノートの作成に貢献しませんか?」というオファーが来たので、深く考えずにオファーを受けてみた。オファーが来た、というのはもちろんTwitter(現X)アプリ上だけでの話で、X社側の生身の人間が私に電話をかけてきたわけではない。
「コミュニティノート協力者コミュニティ」(ややこしい)の中では、私はまだ新米扱いで、いきなり自分でコミュニティノートを書けるわけではない。今許されていることは、他の協力者が起案したコミュニティノート案に対し、「役に立った」「少し役に立った」「役に立たなかった」の三段階で評価し、その理由を複数回答チェックボックス式で答えるということだけである。このアクティビティで「功徳」を積み、評価ポイントなる数値が5に達すると、晴れてコミュニティノートの執筆が許される立場になる、という仕組みらしい。このポイントは、ノート作成権限が与えられたのちも、自ら作成するノートが他の協力者や一般ユーザーにどう評価されるかによって変動しうるので、真面目にやっていないと執筆権剥奪もありうる。
以下、現時点での感想をメモ代わりに記すが、他の「コミュニティノート作成に協力したい」と考えていらっしゃる各位や、「そもそもコミュニティノートって実際どうなの?」といぶかる各位にも、ある程度は資する部分があることを期待する。
協力者は全員コードネームで呼ばれる。そのため実際のTwitterユーザIDなどとは第三者からは紐づけられないが、どのコードネームの人がどういうコミュニティノートを書き、またどういうコミュニティノートをどう評価しているか、という点に関しては、協力者コミュニティ内では完全に可視化される。
また、コミュニティノート採用に至るまでの仕組みは、単なる協力者コミュニティ内での多数決ではなく、「異なる立場に立っていると思われる複数の協力者から賛同を得ること」が必要となるように設計されている。このように、ある特定界隈に協力者コミュニティが乗っ取られるような事態を、仕組みで防いでいるのである。
概して、近年のXの荒れようから見ると不釣り合いに見えるくらい、堅牢性の高い仕組みだと感じた。
もちろん私がX社より与えられたコードネームをここで公表することはしないが、英単語3語で構成される、意味のあるようなないようなコードネームを付与され、それが自分のアイデンティティを指し示す唯一の鍵として扱われる、というのは、エージェント感が半端なく、個人的にはまあまあ楽しく思えた。
今のところ、日本語及び英語で書かれたコミュニティノート案のうち、自分の知識で適切性が確認できるものしか評価していないが(それが協力者に求められる誠実性だと信じる)、とにかく世にあふれるひどいツイートは本当にひどい。原口一博やASKAなどの有名人に連なる反ワクチン関連の誤情報、インド某所で拷問を受ける女性の生々しい動画(これは私の知識不足で真偽が判然としなかったため評価はしなかった)、ギャンブルサイトに暗に誘導するツイート(※X利用規約違反)、頭おかしいエロ動画ツイート、などなど。
これは、精神が脆い人はやられてしまう可能性がある。急性ニンジャリアリティショックに勝るとも劣らないショックを受けてしまう可能性がある。アイエエエ!ナンデ?クソツイートナンデ!?
協力者自身の心身がイカれてしまっては元も子もないので、各協力者は、自分の心身のキャパシティというものを見極め、適度な距離感を持って、過度な義務感に苛まれることなく、この協力者コミュニティと(ひいてはXと)付き合っていく必要があると思われる。
これは本当に正直な感想。「査読」を通って世に出たコミュニティノートは、概して客観的な事実の提示に徹し、主観的な表現をなるべく遠ざけ、かつ言語表現として分かりやすいものになっている。他方、私がこれまで見てきた「査読」待ちのコミュニティノートには、引用しているソースが片手落ちだったり、表現が主観的だったり(陰謀論と思われるものを「陰謀論です」と断定してしまっているなど……気持ちは分かるが、そう書いてしまったら客観性がガクッと落ちる)、要点を外していたり、あるいは単に読みにくかったり、というものがかなり散見される。いきおい、「少し役に立った」という評価がどうしても多くなる。
したがって、一般Xユーザの各位におかれては、時々X上で目にするコミュニティノートはこのような「査読」のような仕組みをクリアしたものであるので、もちろん頭から盲信する必要はないが、目にしたらまずは一読することをお勧めする。
再投稿は、正義である。その理由は、再投稿という行為が投稿者の声を埋もれさせず、広く伝播させるための正当な手段だからだ。匿名ダイアリーは日々膨大な数の投稿が行われる場であり、一つの投稿が一瞬で流れ去ることは珍しくない。その結果、価値ある意見や重要な体験が埋もれ、多くの人の目に触れないまま消え去る可能性がある。再投稿はそのような不公平を是正し、投稿者が自らの声を再び上げることを許容する手段である。
再投稿を甘えとする批判は、再投稿の意義を過小評価するものだ。投稿者が自身の意見に価値を見出し、それを伝え続ける姿勢はむしろ誇るべき行為である。それは、自らの信念を守り、社会に対して一貫したメッセージを発信しようとする責任感の現れだ。さらに、再投稿は新たな読者との出会いを生み出し、同じ内容であっても異なるタイミングや文脈で新たな議論を引き起こす力を持つ。情報の伝播と議論の喚起が社会を活性化させるのであれば、再投稿は単なる個人的な行動を超え、公共の利益に資する行為であるとさえ言える。
再投稿は執念ではない。再投稿は怠惰ではない。再投稿は、自らの言葉に価値があると信じる者が取るべき正当な行動である。どのような批判があろうとも、再投稿は声を届けたいという投稿者の熱意と信念を体現する行為であり、それを甘えと揶揄する声こそが浅薄である。再投稿は正義であり、これを否定することは自由な意見表明の場を狭める行為に他ならない。
こちらはChatGPTです。
タナトフォビア(死への恐怖)から結婚を希望されているのですね。
増田が女性であっても男性であっても、記載された情報によれば、それほど「高望み」ではないと考えられます。
総合的に分析すると、活動を続ければ希望する相手と結婚できる確率は充分に高いと言えます。
しかしタナトフォビアの克服に対して、結婚やこどもを持つことが資する可能性は高いとは言えません。
また、生まれてきたこどももタナトフォビアを抱えていたために死への恐怖が高まるケースが報告されています。
一般的に、死を克服するために子孫を期待する発想は、自他境界が曖昧な幼少期に頻繁に見られますが、時間の経過とともに頻度が急速に低下します。
1998年の臨床研究によればタナトフォビアの解消に最も有効と考えられた因子は、死亡でした。
したがって、死亡することによってタナトフォビアから解放されると考えられます。
一方で死亡は健康に害を与える可能性が非常に高いことから、死亡の前には専門家のカウンセリングなどを利用して十分に情報を収集し、慎重に検討することが必要です。
https://note.com/verineko/n/n797e606a10ea
品質が一定の水準を下回る一部の報道により、一部国民において報道全体への信頼が低下し、さらに、ネット上における出所や真偽が確かでない情報のまん延とそれによる社会の混乱が懸念されていることに鑑み、報道に対する社会一般の信頼を保護し、ひいては公共の安全と秩序の維持に資するため、信頼低下の要因となる粗悪報道を一定の要件の下に選定し、当該報道を行った報道機関に対して是正を要求し、また、望ましい報道のあり方を再確認することで、以て、国民の知る権利の実質的充足と、情報空間の健全な発達に寄与すること。
専用フォームを通じて、「不適切」と感じる報道事例をお寄せください。
皆様から投稿いただいた事例をもとに、運営者が重複する事例や不適切な内容を除外し、ノミネート候補を作成します。
真に有能な犯罪者であれば有能,無能な男女を相応に利用して組織犯罪をするし,犯罪を犯罪化しないこともできる
組織は全て善であるという保証はなく、むしろ逆に戦争による殺人を実施してきた
だから有能なだけの人間が、有能さや犯罪を定義することはいけない
敵対者に無能や犯罪者の烙印を押し、バランスのとれた社会の発達の芽を摘む活動に利用するからだ
最底辺の衝動的犯罪者の人口を減らすという君の理論は治安に資するようには思われるが、一夫多妻制度を推進する理由付けには至らない
一夫多妻制は、女性の政治的独立性が維持されるのであれば個々人の問題だが、君の理論は、有能な男性(犯罪的でないとは限らない)の支配力を拡大するのみに思われる
なんであれ男女比が等しい方が望ましい、ということであれば元増田の理論もわかる。
そうすると、保育士や助産師や自衛隊員などには早急にクォータ制を設けるべきである、となるだろう。
「男女比が等しい方が社会全体に資する」という前提が必要である。たとえば、出産をするのが女性ばかりである、という前提を考えると助産師には女性が多い方が望ましい。
つまり、なんでもクォータ制がいいというわけではないし、クォータ制が「暫定」であるというもの大きな勘違いである。
元女子高に入学したかった女子が性別により入学できないのは、当人からしてみれば明らかに不利益な取り扱いをされており、これが許されるのは「元女子高の男女比が等しい方が社会全体に資する」と考えられるときだけである。
もっといえば、高校入試の成績が悪かったから、という理由で入学できないことについても明らかに当人にとっては不利益な扱いである。これが許されるのは「頭がいい奴に教育を施した方が社会全体に資する」とみなが考えているからである。
はたして、これは自明だろうか?
うちの娘、生まれつきの身体障害と知的障害(いずれも軽度)がある。
生まれる前にはわかっててそれでも生んで娘にも「ママもパパも娘ちゃんに会いたかったから生まれてきてもらったんだよ、生まれてきてくれてありがとうね」って話を沢山した。
知的障害が軽度だからむしろ他者との違いを認識して辛い思いをしたり、人間関係もうまくいかないことが沢山あった。
娘が小学校高学年〜中学あたりの思春期、コミュニケーションとか勉強とか周囲と比較してうまくいかない、思うようにできないことがより顕著になってきたとき、パパもママも娘ちゃんの味方だし、生まれてきてくれてとても幸せだよって話をたくさんしたけどそれでもやっぱり
「ママとパパは私がこういう思いすることをわかってて産んだんだね」って言われたよ。
ごめんねって言ったけどそれでも会いたかったから、娘ちゃんが少しでも幸せになれるように一緒に頑張らせてっていった。いまでもうまくいかないこと多いし、そういうことが続いて娘のメンタルが落ち込むと同じような発言は出るしその繰り返しだけど。
子どもに会いたいとか、産みたいは完全にこちらのエゴ。自分本位で、子どもがこの社会でどう扱われるかよりも自分が親になりたい、子育てしたい、子どもに会いたいという欲を満たすために産んだんだっていうエゴと責任を自覚して堂々と答えられないなら産んではいけないと思う。
非難されても私は子どもに会いたかったからって言い続けるし、親になった以上はそこを否定しては絶対にいけないと思うし、その発言に対する責任として絶対にこの子を幸せにしてみせるし、そのためにこの子を幸せにしない社会に対して抵抗してやると思っていろんな活動にも参加してる。
娘が幸せになりきれない原因は社会にあるけど、自分たち親の欲を優先してその社会に産んでしまったなら、その責任は果たさなければと思っているし、娘にもそういう話(自分勝手で産んだ、みたいな言い方はしてないけど)はしてる。
気分の落ち込みがないときは娘もその話すると嬉しそうにしてくれるし、ニコニコだし、ママもパパもだいすき、ありがとうって言ってくれる。
最終的にはどれだけ言葉と愛情を尽くすか、だと思うけど、そのためには自分のエゴを優先させました、という事実を認めないといけない。
増田が仮に生むことを選ぶ場合、子どもにどんな言葉と愛情を尽くすか夫婦でしっかり考えて準備したら良いと思う。それでも上手く行かないことは絶対にあるけど、そのときに生んで子どもを苦しませたことに対してどんな責任の取り方をするか(私の場合は障がい者の地位向上等の取り組みに資すること)を考えることで自分の中でもバランスが取りやすくなるのではないかと思う。
派遣やSESの形態で働いていると着任したプロジェクトごとにいろんなことが知れてなかなか面白いものである。
たいていは最初の数日でPCのセットアップし資料を読み込む時間となる
業界内でこの会社がどのような立ち位置にありどのような理念・戦略で立ち回るつもりなのか
延いてはそのためにどのような心構えで社員共々挑んでいくのか、そのようなことが知れる。
一方で同じプロジェクトに5年10年居ると知れることは、この処理はあの夜間バッチと連動しているだとか
あの処理には潜在バグがあって稀に異常データを生むのでデータパッチが必要だとか
色々なところを一年程度で回っていくのが気持ちのよい具合ではなかろうか。
曰く、
当社は創業以来より「七味一体主義」を掲げ、お客様第一の経営を続けている。
「七味一体主義」とはうんち、ションベン、ゲボ、下痢便、神、キリスト、聖霊であり、すなわちお客様を鏡とし襟を正す高潔性を示すものである。だとか
曰く、
バーニングうんちデリバリー事業は公共の福祉に資する公益性の高い事業であることから
各種規制を課されており