■YouGo 「マルチ・メディア」から「マルチなメディア」へ
2011年は断絶の年です。過去20年のメディア状況と今後のメディア状況との分水嶺となります。
20年前、1990年代初めは、アナログからデジタルへの転換点。テレビ、電話からPC、ケータイへ。アナログ放送網と電話網からデジタル放送とインターネットへ。80年代中盤に盛り上がった「ニューメディア」は、CATVや衛星などアナログメディアの多様化でしたが、90年代初頭の「マルチメディア」は、パソコンに代表されるデジタル端末がインターネットなるデジタル網につながる未来を展望したものでした。
それから20年、「マルチメディア」が完成します。そして、その次のステージが始まります。
それが今年。以下の3つの状況が現れます。
1) デジタル高速ネットワーク
2011年はブロードバンド網の全国化が達成される見込みです。そして、1994年に郵政省江川放送行政局長の発言をきっかけに始まった放送ネットワークのデジタル化が今年完成します。地デジです。日本は世界に先駆け、通信・放送を横断するデジタル高速ネットワークの整備を達成することになります。
デジタル高速ネットワークの遍在を前提としたクラウド列島。メディア融合の環境が整うわけです。
明治以来、国家が推進してきた情報ネットワークの計画的な整備が完了するということは、国の情報通信政策も大きく変わることを意味します。アナログ跡地の電波割当方法が決まれば、もうインフラ政策は要らないんじゃないか?と。さらに言えば、計画的な社会資本の全国整備というのは、今後もう我が国では案件がないかもしれません。
2) 第4のメディア
昨年は、スマートフォン、電子書籍リーダー、タッチパネルPCなど、新型のデジタル・デバイスが一斉にラインアップされ、急速な普及を見せました。大小さまざまの、モバイル型あるいは壁いちめん据え置き型の、さまざまなディスプレイが登場。50年間君臨してきたテレビ、15年間広がってきたPCとケータイに次ぐ、いわば「第4のメディア」が登場してきたわけです。
これを出版業界は電子書籍元年と呼び、教育業界はデジタル教科書元年と呼び、広告業界はデジタルサイネージ本格化と読み、いずれも異なるとらえ方ながら、実は一つの事象でした。
(そして今年のCESはネットTV(コネクテッドTV)一色となり、多彩なメディアがさらに多様化するのか、あるいは多彩なメディアがまたしてもTVに集約されていくのか、改めて混沌とした場面となったのですが。)
3) ソーシャル
CD-ROMが普及した20年前の頃から、コンテンツの重要性が唱えられてきました。マルチメディアブームの頃はまだコンテンツという名前は定着しておらず、政府も「メディア・ソフト」という呼称を用いていました。その後インターネットの登場により、放送やパッケージに加え通信のコンテンツも産業として注目されていきました。
それから15年ほどたち、コンテンツ産業に元気がなくなる一方、ソーシャルメディアが花盛り。トラフィックも収益もソーシャルに集中しています。コンテンツが真ん中に座りながらも、それをネタにつながった人々がつぶやき、段幕を作る。そちらに関心が移り、主役を張る状況は当分続くでしょう。コンテンツからコンテキスト、コミュニケーション、コミュニティへ。
これはマルチメディアからマルチ「な」メディアへの移行でもあります。
90年代初頭のマルチメディアは、映像・音楽・文字を一台で扱う万能の集約型マシンでした。これ一台に、コンピュータも、電話も、ファックスも、テレビも詰まってる。ほかに何もいらない。しかしここに来て登場した新メディア環境は、その逆。ふたたび、バラバラで多様な機械が現れて、テレビ・PC・ケータイの3スクリーンに、タッチパネルや家庭内サイネージなども加わって、いろんなデバイスを個人が同時に使いこなす。
いわゆる「トランスメディア」という状況。マーケティングの世界でいう「クロスメディア」の進化形です。
マーク・ワイザーが唱えた「ユビキタスコンピューティング」にようやく近づくわけです。1台数名のメインフレーム=第一世代、一人一台のパーソナルコンピュータ=第二世代、そして一人数台のユビキタス=第三世代。それらは有線・無線の通信・放送のクラウドで全て常時つながっているという環境で達成されます。
そしてより重要なのは、それらデバイスやネットワークがソーシャルによって価値を持つということです。5年ほど前まで、検索エンジンのように、「向こう側」の「CODE」で書かれたものがネット社会の中核だったのですが、ともだちや知り合いや信頼を置く専門家といった「こっち側の人力」がソーシャルという呼び名で力の源泉となります。こうしたトランスメディアを紡いでいくのが佐々木俊尚さんの言う「キュレーション」という機能でしょう。
90年代後半に思い描いていた、MITメディアラボが鼻高々だったウェアラブルや人工知能は来ていません。テクノロジーが全てを制圧するデジタル社会はどうやらまだ先の話で、もっとこっち側の、ベタな、キュートな、生身のデジタルが当面のお相手のようです。
PCが普及し始めたころ、ぼくの命令に従って計算するか、ぼくに指令するかの、つまり上司か部下かでしかなかったコンピュータが、いつかぼくと共に笑って泣いてくれる友だちになってくれないだろうかと思い願っていましたが、ようやくそんな時期が到来したのかも知れません。
デジタルは、ここから面白くなります。
2011年は断絶の年です。過去20年のメディア状況と今後のメディア状況との分水嶺となります。
20年前、1990年代初めは、アナログからデジタルへの転換点。テレビ、電話からPC、ケータイへ。アナログ放送網と電話網からデジタル放送とインターネットへ。80年代中盤に盛り上がった「ニューメディア」は、CATVや衛星などアナログメディアの多様化でしたが、90年代初頭の「マルチメディア」は、パソコンに代表されるデジタル端末がインターネットなるデジタル網につながる未来を展望したものでした。
それから20年、「マルチメディア」が完成します。そして、その次のステージが始まります。
それが今年。以下の3つの状況が現れます。
1) デジタル高速ネットワーク
2011年はブロードバンド網の全国化が達成される見込みです。そして、1994年に郵政省江川放送行政局長の発言をきっかけに始まった放送ネットワークのデジタル化が今年完成します。地デジです。日本は世界に先駆け、通信・放送を横断するデジタル高速ネットワークの整備を達成することになります。
デジタル高速ネットワークの遍在を前提としたクラウド列島。メディア融合の環境が整うわけです。
明治以来、国家が推進してきた情報ネットワークの計画的な整備が完了するということは、国の情報通信政策も大きく変わることを意味します。アナログ跡地の電波割当方法が決まれば、もうインフラ政策は要らないんじゃないか?と。さらに言えば、計画的な社会資本の全国整備というのは、今後もう我が国では案件がないかもしれません。
2) 第4のメディア
昨年は、スマートフォン、電子書籍リーダー、タッチパネルPCなど、新型のデジタル・デバイスが一斉にラインアップされ、急速な普及を見せました。大小さまざまの、モバイル型あるいは壁いちめん据え置き型の、さまざまなディスプレイが登場。50年間君臨してきたテレビ、15年間広がってきたPCとケータイに次ぐ、いわば「第4のメディア」が登場してきたわけです。
これを出版業界は電子書籍元年と呼び、教育業界はデジタル教科書元年と呼び、広告業界はデジタルサイネージ本格化と読み、いずれも異なるとらえ方ながら、実は一つの事象でした。
(そして今年のCESはネットTV(コネクテッドTV)一色となり、多彩なメディアがさらに多様化するのか、あるいは多彩なメディアがまたしてもTVに集約されていくのか、改めて混沌とした場面となったのですが。)
3) ソーシャル
CD-ROMが普及した20年前の頃から、コンテンツの重要性が唱えられてきました。マルチメディアブームの頃はまだコンテンツという名前は定着しておらず、政府も「メディア・ソフト」という呼称を用いていました。その後インターネットの登場により、放送やパッケージに加え通信のコンテンツも産業として注目されていきました。
それから15年ほどたち、コンテンツ産業に元気がなくなる一方、ソーシャルメディアが花盛り。トラフィックも収益もソーシャルに集中しています。コンテンツが真ん中に座りながらも、それをネタにつながった人々がつぶやき、段幕を作る。そちらに関心が移り、主役を張る状況は当分続くでしょう。コンテンツからコンテキスト、コミュニケーション、コミュニティへ。
これはマルチメディアからマルチ「な」メディアへの移行でもあります。
90年代初頭のマルチメディアは、映像・音楽・文字を一台で扱う万能の集約型マシンでした。これ一台に、コンピュータも、電話も、ファックスも、テレビも詰まってる。ほかに何もいらない。しかしここに来て登場した新メディア環境は、その逆。ふたたび、バラバラで多様な機械が現れて、テレビ・PC・ケータイの3スクリーンに、タッチパネルや家庭内サイネージなども加わって、いろんなデバイスを個人が同時に使いこなす。
いわゆる「トランスメディア」という状況。マーケティングの世界でいう「クロスメディア」の進化形です。
マーク・ワイザーが唱えた「ユビキタスコンピューティング」にようやく近づくわけです。1台数名のメインフレーム=第一世代、一人一台のパーソナルコンピュータ=第二世代、そして一人数台のユビキタス=第三世代。それらは有線・無線の通信・放送のクラウドで全て常時つながっているという環境で達成されます。
そしてより重要なのは、それらデバイスやネットワークがソーシャルによって価値を持つということです。5年ほど前まで、検索エンジンのように、「向こう側」の「CODE」で書かれたものがネット社会の中核だったのですが、ともだちや知り合いや信頼を置く専門家といった「こっち側の人力」がソーシャルという呼び名で力の源泉となります。こうしたトランスメディアを紡いでいくのが佐々木俊尚さんの言う「キュレーション」という機能でしょう。
90年代後半に思い描いていた、MITメディアラボが鼻高々だったウェアラブルや人工知能は来ていません。テクノロジーが全てを制圧するデジタル社会はどうやらまだ先の話で、もっとこっち側の、ベタな、キュートな、生身のデジタルが当面のお相手のようです。
PCが普及し始めたころ、ぼくの命令に従って計算するか、ぼくに指令するかの、つまり上司か部下かでしかなかったコンピュータが、いつかぼくと共に笑って泣いてくれる友だちになってくれないだろうかと思い願っていましたが、ようやくそんな時期が到来したのかも知れません。
デジタルは、ここから面白くなります。