■Buenos MIT Media Lab 新ビルお披露目-1
MIT Media Labの新しいビルが完成しました。構想から12年。
CSK/セガ会長だった大川功さんが2700万ドルを個人で寄付し、それを基に新しい建物を造って「MIT Okawa Center for future children」を設立する。そのプロジェクトに参加するため私が政府を飛び出してMITの客員教授に就いたのが98年。
当時、Media Labは飛ぶ鳥を落とす勢いで、150の企業スポンサーに支えられて面白い研究を進 めていました。そのころの研究内容やビジネスモデルは、「デジタルのおもちゃ箱」(2003.10、NTT出版)にまとめ切りました。以下にその一部を置いておきます。
序 http://www.ichiya.org/pdf/0310digitaltoybox.pdf
1章 http://www.ichiya.org/dtb/1.htm
不世出の大川さんのことは、当時あちこちに書きましたが、ひとまずこれをどうぞ。
「大川さんが遺したもの」 日経ネット時評 2001.3.22
http://www.ichiya.org/jpn/NikkeiNet/nikkeinet_010322_vol5.pdf
しかし。プロジェクトはそれから順風に進んだわけではありません。
お大尽の大川さんは2001年に逝去、アメリカではネットバブルが崩壊し、Yahoo!、Amazon.com、Googleが台頭、Appleが復権、ウェブ系のトレンドは西海岸に移り(私は2002年にスタンフォード日本センターに移り)、創始者ネグロポンテは西和彦さんと私が提唱した100ドルパソコン構想に乗ってラボを去り、リーマンショックが起こり・・。
曲折を経て、槇文彦さんが設計したビルがお披露目を迎えたのは2010年3月。エントランスは、同じく槇さんの手によるテレビ朝日のロビーに降り立ったような外光に満ちた空間と上層への吹き抜け構造。大川さんは安藤忠雄さんが意中だったのですが、「Prof.MakiにHarvardでFirst Classの建築を習った」ネグロポンテが槇さんを指名。
今回ネグロポンテは背中を痛めて入院しているとかで、会えませんでした。
さて、お披露目シンポで、槇文彦さんが証言していました。「1998年にビル・ミッチェル建築学部長が来て、こう口説くんだ。建物の面積は小さい。だが、夢は大きい。日本人建築家なら、狭い土地に大きなモノを詰め込むことができるだろう、と。ぼくは思ったね。MITで最も透明な建物にしようって。」
槇事務所のゲーリー亀本さんの証言。「当時、ヴェスト学長は、われわれに“世界の建築の最高水準を”と常に迫ってきたのです。」
ネットバブル期、「MIT、2兆円で売却!」という記事が踊ったことがありました。冗談の記事に対し、「オレたちはそんなに安くねえ!」と冗談で切り返したヴェスト学長。紳士でした。その期待を担う新生Media Lab。もともと建築学部の一部門です。世界を代表することを自認する建築士と科学者とアーティストの集まりが発注者である建物を、どうプロデュースするか。槇さんチームにはプレッシャーがかかり続けた12年でした。
その結果が出ました(つづく)。