■京の場末の母の喜寿
千宗室家元、高校の4年先輩やけど、そんな高貴なかたにお目にかかったことはあらへんのやが、場末の焼肉屋にようナマ肉を食べに行かはるいうコラム見かけたんで、気になって調べてみたらやな、むかし住んでたアパートの近くらしいわ。
ほな、おかあさんの喜寿、そこでやろか。
妹とそういう話になり、40年ぶりに、その場末に出かけてみました。喜寿を迎えた母と、その妹つまり叔母、その娘つまり姪、そしてその娘、など郎党を引き連れ。
降り立ったのは京都市の北東、叡電・修学院駅。アニメ「けいおん!」の舞台であるため、カメラを提げたアニオタ風が数名きゃっきゃ騒いでおります。でも昔の面影はありません。開けた街になっていました。細々とやっていたみんな、オモチャのとうみやも、同級生の山下くんちのひさみ寿司も、3個10円のたこやき屋も、借りるのに米穀通帳!を要した貸本屋も、いつもパッチはいて近所に迷惑をかけるガキがいたので「パッチめいわく」と呼ばれていたお菓子屋も、店主のばあさんの頭頂部が薄かったため「かっぱ屋」と呼ばれていた駄菓子屋も、おません。
ところが、駅から3分ばかり歩くと、北向きの6畳間に母子3人で過ごしたボロアパートが昔のたたずまいのまま残っていました。奇跡だ。奇跡は起きる。どうやら住民はみな学生の模様ですが、当時、トイレは共同、風呂もなく、裏庭でタライと洗濯板という木造2階建てに大勢の親子連れ所帯が暮らしていました。
まことに貧しかった。しかし、実に楽しかった。ぼくが自転車で妙法の山の際にある保育園へ送っていた妹も、あのころは楽しかった記憶しかあらへん
と言います。みんながいて、みんな貧しかったから。というだけではありません。ぼくの母のキャラにも起因します。
タフな人なのです。前夫、つまり父、が事業に失敗し、実家のある京都に夜逃げしてきたことは以前お話しましたね。
その後、女手一つ、保険の外交で二人を養うわけです。実家は西陣で、つまり京都の場末ではない街中で、父親、つまりじいさんは西陣最後の木工職人で、ぼくは今日もその形見のハカマをつけてますが、実に無口なものづくり。一方、母親、つまりばあさんは溌剌な共産党員で、戦中も幹部をかくまってメシ喰わせていたという、ウルトラパンク。実に京都、であります。
その実家に頼るということもなく、不満も悪態もつかず倒れもせずガハハと場末で育てたわけです。高校のころハンドボールで国体に出て、喜寿の今もバタフライを泳ぐという、ぼくの親とは思えぬ強靱な体の持ち主だからこそというのもありましょう。
腕まくりして汗を流していた母と遠出をした記憶は少ない。二人ででかけたのは2度かと。1度目は大阪万博。4年生でした。手元にチケットがあります。大人と小人。人類の進歩と調和。今と違い、科学が明るい未来をもたらしてくれる、未来、早よ来んかい、と子どもが前を向いていた時代。でも、覚えているのは、クソ暑くてやたら混んでて初めて見る外人がいっぱいいて、住友童話館とみどり館だけ見てフウフウ言うて京都に戻り、晩、四条京阪駅の脇ですすったみそラーメンの味。いまその店は「天下一品」になっています。ちなみにアパートから少しばかり南下した辺りが映画「パッチギ!」の舞台で、京都ラーメンの本場でして、天下一品の本店ができたころも、その周辺らしいフツーのラーメンと思っていたのですが、どうやら全国的にみれば特殊らしいぞ、と気がついたのは上京後。
2度目は大阪、ミナミの角座。6年生。漫才や落語を上演していました。ちゃっきり娘、フラワーショウ、かしまし娘。桂春団治師匠が登場したとたん、落語やんけ、便所いこ便所。と多くの大人が席を立ったので、座が弾けた雰囲気になり、ぼくを含むガキどもがウワ〜ッと舞台前に押し寄せて、かぶりついてマジマジながめていたこと。ミュージシャンからお笑いに転じたドリフターズとは逆に、演歌歌手に転向するまで面白くない楽曲コントをしていた「殿様キングス」のベーシストが赤い楽器に貼り付けている円形のシールが無理して母が買ってくれた自転車にぼくが貼り付けたのと同じシールだったこと。断片的だがくっきりとした記憶。
基本、場末の狭い界隈で過ごしていました。子どもだけで遠出するといっても、その自転車で京都大学まで学生紛争を見物に行くのがせいぜい。タイミングがいいと、ヘルメットゲバ棒vs機動隊vsやじ馬の酔っぱらい が見られるのです。人が火だるまになるのも見たことがあります。海外に初めて渡ったのはそれから10年後、自分がその大学に入って、「伊右衛門」福寿園の福井社長らのご好意でロンドンパンクを見に行く機会を得てのこと。
その狭いコミュニティで迷惑ばかりかけるわけです。親不孝者です。ぼくは。
夜逃げしてきた一因に、ぼくが交通事故で死にかけたこともお話ししました。何日か意識がなく、一度は死亡宣告もあったそうですが、目を覚ました瞬間に、ベッドの周りに一族郎党や小学校の校長までいて、何か言わなければと焦り、「パーマンは?」と聞いてみたところ、周りがパーマン、パーマン、と騒いで近くのテレビをつけた瞬間にパーマンが始まった!、奇跡だ奇跡だ、という、だから日曜の晩ですな、奇跡は起きるのです。
その前、幼稚園のころ、と言っても半分以上さぼったという不良だったのですが、通りかかったちんどん屋さんについて行ってしまい、そのまま遠くに連れ去られ、誘拐騒ぎになったこともありました。オーバーオールの胸にクマさんのアップリケがついていたことは覚えていますが、大人がどう処理したかは母にまだ聞いていません。そんな迷惑が家計に響いたに違いありません。
二年生から五年生まで同級で、場末で四六時中つるんでいたのが山口洋です。今やJPホールディングスという東証一部上場企業の社主であり、日本最大の保育園経営企業として、産業界のみならず政官界からも注目されている人物です。またおまえらか。ぼくらは先生にグーで殴られていました。「かっぱ屋」で買い込んだ爆竹やら煙幕やらを近くの歯医者の邸宅に投げ入れて大騒ぎ。田んぼから投げた泥が通ってきたクルマに見事ヒットし、降りてきたオッサンが信じられぬ俊足で二人ともつかまる。毎日なにかしらそんなことがあり、学校に通報があるとまず疑われるコンビ。
二人が通った詩仙堂近くの空手道場で他の部員といざこざを起こし、破門となり、左京郵便局の空手部がわざわざ少年部を設けて拾ってくれたというのに、道場をシェアする柔道部の悪口を壁に書いて、破門。人生で2度の破門、おそらく周囲の大人が謝ったり調整したりしたはずです。どちらの母親も困ったことでしょう。
同じクラスに溝端宏という観光庁長官まで務めたイカレ野郎もおり、やつともつるんでいたのですが、互いにロクな死に方はせんと思っていたのです。2年下には前原誠司という人がいて、ぼくは小学校も中学校も高校も大学もずっと2年先輩で、小学校でぼくらが作った鉄道クラブに入ってきて、高校で新設した野球部に入ってきて、その高校で初めて奨学金を受けたのがぼくで2番目が彼で、聞くところ立派な人ですが、でも未だ話したこともその予定もありません。それよか小学校のうんと下にはチュートリアルの2人がいて、お話してみたいものだなぁと切に願う偉大なる後輩の出現に胸を張っております。
その後も事情は同じようなもので、林間学校での飲酒がバレたり、理科室の薬品を調合して作った黒色火薬の秘密実験がエラいことになったり、アタシはよう呼び出されたんえ、喜寿祝いで母に聞かされるまですっかり忘れていることも数多く。
家計が苦しいから授業料免除で奨学金もつくが下宿するカネはない、ということで大学進学の選択肢は限られ、単騎勝負で地元の大学に入り、少しは母を喜ばせたかと思いきや、本人は通いもせずパンクで暴れて迷惑を続けるだけで、就職に至っては、銀行やら商社やら高給取りとなって親をラクにするどころか借金せねばやっていけないほど薄給の役人になるといい、しかも実家が共産党の子が政府に入るちゅうのはどないやねん、そんなん知らんがな、という不孝者のまま今日に至るわけです。
ほんでも息子はまだ投獄されてるわけでもないし、母本人もガハハゆうて相変わらずやし、妹には孫もでき、だから母はひいばあさんになり、まぁええんちゃいますか。
千宗室さんが通たはる焼肉屋さん、はたしてアパートの隣にありました。
できたんは33年前ですか。
昔ここいら田んぼでしたよ。
このへんにコエダメおましたよ。
夏はカエルがやかましかったですよ。
舗装もしてなかったですよ。
えらい変わりましたなぁ。
ほんでもアパートはそのままでしたわ。
今日?母の喜寿です。次は傘寿、へてから米寿でんな。おおきに、また来ますわ。