はてなキーワード: ソリューションとは
要約: 自分を否定する努力より、自分の肯定につながる努力をしよう
https://anond.hatelabo.jp/20241221204350 を読んで https://anond.hatelabo.jp/20241222173557 を書いたら、当事者より「努力するなは死刑宣告のように聞こえる」「何をするかを書いた方が良い」とお叱りを受けたので、再考して書いてみる。
はじめから言っておくと、俺は当事者ではないし、タイトルの答えは知らない。ただ、いろいろASDのことを学んだり、仕事で接するなどしてこうしたら良いらしいと理解したことを書く。
当事者の方が俺に文句を言いたいのであれば、これを叩き台にしてぜひより良い策を書いてほしい。
まず成人のASD当事者が定型発達の社会に沿って生きようと努力すること自体は尊重されるべきだし、それを無碍に否定することは当事者にとって絶望感を与えてしまうかもしれない。
ただ、支援者としては努力を続けて行くことで二次障害を起こしてしまうことを恐れている。ASD当事者の中には常に頑張りすぎて自分が高いストレス状態にあることに気づいていないこともあると思う。
努めて人とコミュニケーションをとろうとするのはいいが、やはり自分自身の心身の健康を最優先してほしい。努力した分と同じくらい、自分がリラックスできる環境や時間の確保をしてほしい。
ASDは感覚の過敏や偏りがあることがあり、例えば聴覚による情報処理が苦手な場合がある。人の空気が読めないといっている人が、実は音声の会話が苦手なことが主要因で、テキストチャットだとうまくコミュニケーションがとれるケースもある。
コミュニケーションの取り方は色々あるので、自分の気持ちを伝えるためにどんなツールや媒体を使うと一番スムーズなのかを考えて、大事な話は極力そうしたツールを使うようにしよう。
ここまではASDと診断されなくてもできることだが、やはりコミュニケーションの困り事がある人は専門の病院にかかって診断をもらった方が良い。その理由はいくつかある。
一つは、自分が遭遇している障害の全体像をきちんと把握するために必要な情報が得られるから。当事者自身はコミュニケーションで悩んでいても、実はそれが聴覚などの感覚の問題が起因だったりすることもあり、当事者が気づかない問題が起こっていることもある。客観的な医学知識に照らしてみることで問題の解決につながることもある。
もう一つは、合理的配慮などの各種取り組みは診断があることが前提になっていることもあり、とれる選択肢が増えるから。以前も書いたけどASDは本人のコミュニケーションスタイルや感覚がマイノリティであることで、周囲の人や環境とミスマッチを起こしていることが障害の原因である。なので、本来は当事者の特性に合わせて生きやすい環境や人との関わり方を調整して行くことが望ましい対処法になる。
環境は不変なもの、正しいものではなく、変えられるものしていけるように、使える選択肢は増やした方がいい。
当事者研究というのは、障害当事者など何らかの困り事のある人が、自分自身の困り事を探求し、自分独自の「病名」をつけてその対処法を研究すること。基本的には当事者のコミュニティの中で「研究会」として開催し、当事者同士が話し合いながら行うスタイルが多い。
当事者研究はもともと精神障害当事者が共同で暮らす「べてるの家」で始まった試みであり、障害者自立活動とアルコール依存症の自助グループ活動の2大潮流が合流して生み出された(綾屋紗月 2023)。精神医学の言葉や概念ではなく、自分自身で生み出した言葉で苦しみを仲間と共有することで、当事者が実践できる生活の方法を考えられるとして2010年代あたりから全国的に認知されるようになった。
こう説明されると、結局当事者が努力してるじゃないかというツッコミを受けるかもしれない。だが当事者研究が普通に頑張るのとは異なる利点がある。
一つは、障害と自己を切り離して考えられること。自身の障害について考えたり「克服」しようと思うと、どうしても自分の人格を否定してしまうことにつながりがちだ。そうなると、努力する分だけ自己肯定感が低くなっていき、過大なストレスを抱えてしまう。当事者研究は自分が抱える障害や症状「研究対象」として名前をつける(例:爆発さん、幻聴さん、おこるちゃん)。そうすることで、障害を自分の一部ではなく、自分のそばで起こっていることとして冷静に考えることができる。
二つ目は、自分だけでなく他の当事者への貢献になるように自分の問題を考えること。当事者研究は「研究」なので、同じような状況に陥る人の役に立つようなソリューションとして言語化することが求められる。そうすると、これまで自分のためにやっていたことが、他人のためになる活動に変換され、自己肯定感を高めることができる。その人はその障害の苦しみを理解できる「専門家」となることで、障害経験をポジティブに捉えることができる。
このように自己の人格を否定することなく、距離をとって自分が遭っている障害を仲間と一緒に見つめることで、建設的に今後のことを考えることができる。
ここまで長々と書いてきたが一言で言えば上の言葉に尽きる。自己を肯定できないソリューションは続かない。どんな方法であれ、ありのままの自分を肯定できることにつながらなければ、本当には当事者を救う術にはならないのではないだろうか。
海外の情報を拾うにつれて、日本の女性専用車両という仕組みはむしろ西洋先進国でも取り入れるべきだし比較的優れたソリューションであることを再認識した。
多くの日本人がガスライティングされ、公共交通機関での性犯罪は日本特有のものだと考えているようだが、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカ等でも公共交通機関における性犯罪は非常に頻繁に行われる行為でこれははっきり統計にも出ている。
しかし欧米人はこの点を誤魔化すために、電車での性犯罪を日本でのみ起きている特有の事件であると矮小化している。しかも大局的に見ればわかるが、これは西洋人のアジア人への差別感情を巧みに利用しているかなり悪質な行為だ。アジア人は性的に変態であると誤認させることで、まるで西洋では性犯罪が少ないかのように誤認させているのだ。これは西洋人が日本に観光に来るようになり、何人かの女性が日本の公共の場が女性にとって比較的安全であるという主張を動画やテキストなどで発信するようになって気づいた。
彼女たちの動画には大抵西洋人(白人黒人)が以下のような反応を示す
これは西洋の公共の場で性加害を受けている西洋の女性視点で考えるとわかるがめちゃくちゃなwhataboutismである。
しかも言うまでもないことだが、日本人や日系人女性も西洋には住んでいる。
結論:
1.西洋人男性にガスライティングされ、このような性犯罪を日本特有であると矮小化して公共交通機関での対策をさせないことは西洋人女性、引いては西洋に住む私たちの同胞のアジア人女性への性加害をも手助けしている
2.女性専用車両はこれらの犯罪者に対抗するための優れたソリューションの一つであるし、積極的に海外でも推し進めるべきである。
興味のあるものをなんでもかんでも複雑なものまで脳にまるっと収められるオタクは脳の記憶スペックの上限値が上がっているから
実用的なことしか覚えようとしない人よりも脳の回路はハイスペックになる
だから頭のいいやつは勉強も遊びも常人とは桁違いにうまくやれるし色んなことに興味を持ちがちだ
オタクというのはある程度脳みそのスペックがないとなれもしないし逆に頭のいいやつはオタクにもなりやすい
勉強だけに集中って発想をしてる時点で基礎スペックの低い凡人かせいぜい秀才の低キャパな脳を前提としたソリューションと言える
正直、このトラバで改めて『能力の問題』とアニメ・マンガ・ゲーム界隈で起こりがちな地獄みを感じている
まぁワイは、元増田の作文含めて配慮なく思うがままに書き綴ってるのでお互い様ではあるのだけれど、無礼な投げかけには遠慮のない無礼な返事が返ってくるよと
覚えておくといいかもしれない
ねぇねぇ、アニメとかマンガ、ゲームって超すごくない?誰でも楽しめるのが最高の魅力なんだよね!例えばクラシック音楽とか美術館の絵とかって、ちょっと知識がないと難しいじゃん?でもアニメとかは、そんな予備知識なくても「わぁ、おもしろい!」って思えるんだよね。
これってマジやばくない?例えば『スパイダーバース』。子どもからおじいちゃんおばあちゃんまで、世界中の人が「すげぇ...」ってなれる作品でしょ?マイルスの成長物語に、誰もが自分を重ねられるし、あのぶち上がった映像美と音楽!「誰でもヒーローになれる」っていうメッセージが心に響くよね。
あ、そういえばスラムダンクの話!これ読んでバスケ始める人めっちゃ多いんだよ。「俺も湘北高校の選手みたいになりてぇ!」みたいな(笑)マジで人生変わった人多いよね。
実はドラゴンボールも面白いよね。アメリカのラッパーとかが「ドラゴンボールは俺たち黒人の生き様そのものだ」って言ってたりするの知ってる?悟空みたいに諦めずに強くなっていく姿に勇気をもらったって。スパイダーバースのマイルスも同じように、いろんな人に希望を与えてるんだよね!
スーパーマリオとかもそう。最初は「ジャンプでコイン取るだけ」の簡単なゲームなのに、やればやるほど「おっ、ここにこんな裏技あったの!?」みたいな発見があるでしょ?
要するに、アニメ・マンガ・ゲームってさ、「誰でも入れる」のに「めっちゃ深い」んだよね。「にわかはダメ!」みたいな意見もあるけど、それって違くない?だって、みんなが楽しめるってことが一番大事じゃん!
体調悪い時でも、言葉わかんなくても、年齢関係なく楽しめるって、むしろすごいことじゃない?そこからどんどん深掘りしていける。それってまさに現代のエンタメの理想形かもしれないね!
だからさ、アニメとかマンガ、ゲームが「わかりやすい」っていうのは、全然マイナスじゃないんだ。むしろ、それこそが最高の芸術なのかもね。スパイダーバースみたいに、最先端の表現方法使いながらも、誰もが心から楽しめる作品こそ、これからのエンタメの理想だと思わない?
近年、これらのメディアの「わかりやすさ」を否定的に捉える言説が一部で散見されます。しかし、このような主張には認知科学的、メディア論的な観点から、いくつかの本質的な誤認が含まれていると考えられます。
優れたビジュアルナラティブは、複雑な情報や感情を直感的に伝達する高度な表現技術を要します。例えば、宮崎駿作品における視覚的メタファーや空間表現は、言語的説明を超えた普遍的なコミュニケーションを実現しています。これは決して「単純」な表現ではなく、むしろ高度に洗練された情報設計の成果と評価できます。
アニメ・マンガ・ゲームは、マルチモーダルな情報伝達システムとして機能します。視覚・聴覚・インタラクティブ性を統合した表現は、受容者の認知負荷を最適化しながら、複層的な意味伝達を可能にします。これは現代メディア論における「効果的なコミュニケーション」の典型例といえます。
情報工学の視点からみると、高度な内容を広く伝達可能にすることは、むしろ最も困難な技術的課題の一つです。『スーパーマリオ』シリーズにおけるUI/UXデザインや、『鬼滅の刃』のビジュアル・ストーリーテリングは、この課題に対する革新的なソリューションを提示しているといえます。
芸術社会学の文脈において、文化的価値を「理解の困難さ」と結びつける思考は、しばしば批判的に検討されてきました。現代のメディア環境において重要なのは、むしろ「複雑性の中の明晰さ」を実現する表現技術です。
心理学的観点からみると、メディアの価値を「理解の困難さ」に求める傾向は、しばしば確証バイアスや認知的不協和の現れとして解釈できます。これは作品の本質的価値の客観的評価を妨げる要因となりかねません。
アニメ・マンガ・ゲームにおける「わかりやすさ」は、決して表現の未熟さや単純さを意味するものではありません。それは以下の要素を高度に統合した結果として実現される特質です:
これらのメディアの真の理解者であれば、その「わかりやすさ」の背後にある技術的・芸術的達成を適切に評価できるはずです。それはまた、現代のメディア環境における重要な価値創造の一つとして位置づけられるべきものでしょう。
したがって、「わかりやすさ」を否定する言説は、メディアの本質的特性や現代的価値への理解を欠いた、表層的な判断であると言わざるを得ません。
その計算も、同じハードウェアスペックで同じ画質(解像度、フレームレート、描画範囲など)が再現される前提の話なんだよな
ゲーム機の場合は加えてハートソフト一体化したソリューションだからさらに最適化の余地があるし、聞いた話ではPS5Proは画質向上のためにAIを利用しているそうで、これは既存のグラフィックボードのものよりも一線を画する機能らしく、同等の画質をPCで再現するために求められるスペックはさらに上がる(さらに高額なグラフィックボードが必要になる)可能性が高い
学ぶべきだと思うんですよね
隈より大分上の世代で既に亡くなっているのが悲しいけど、自然と建築の調和についてはよっぽど瀧の方が優れていると思いますよ
有名なのは愛知県緑化センター(https://mainichi.jp/graphs/20220330/mpj/00m/070/056000f/20220330mpj00m070034000p)とか、アイアイランド、古今伝授の里フィールドミュージアム(https://morimoto32.exblog.jp/22953196/)とかかな
写真じゃ伝わりづらいかもしれないけど、コンクリート造で存在感ある作りながら自然の中に上手く落ち着いてるんだよね
建物内も至るところに植物が植わってたりするけど、ただ植えてりゃ良いよね、なんてことはなくてきちんと考えられているのが素人目にもよくわかる
隈はとにかく木を使うことを自然との調和へのソリューションにしたかったようだけど、それどころか腐ったり朽ちたりで迷惑になっちゃってるのがなあ
築年数が経過しても新しさを感じさせる瀧の建築を一度体感してほしい
人類はこれまでずっと、食と排泄を健康における重要な要素と考えてきた。
活動体としてエネルギーの出入りに注目すること自体は合理的だ。
自動車で例えるなら、ガソリンの質や種類と、マフラーの排気性能だけにこだわっているようなものだ。
真に重要なのは、エンジン、つまり我々にとっての消化器官である胃腸のスペックを上げることなのだ。
エネルギーの変換効率だけが健康のすべてではないにせよ、すぐれたエンジンは多くのことを解決できるはずだ。
しかし人類は、消化器官という核心へ思うようにアプローチできずにいる。
もしかしたら脳のような神経系よりも、消化器系というシステムははるかに複雑で、人工的再現や改造が難しいのかもしれない。
点滴のように消化器系をバイパスしたり、糞便移植のように大雑把な方法で改善を期待するようなソリューションは、一種の逃げだ。
消化器というエンジンをオーバーホールして、メカニズムを解き明かし、手を加えられる領域にまで達すること。
それこそが人類が「健康」の制御を掌握し、次の段階へと飛躍するためには欠かせないステップになるだろう。
しらんけど。
横だけどこれ見て何となくわかった気がするな
元増田やそれに同調する人は、「すべての男にとってソープに行けばすべての問題が解決するソリューション」だと思い込んでいるのかもしれない
私にはない、男はズルい
こうなる
実際はソリューションになるのは男の中でもごく一部だし、それで解決できるものは女風でもソリューションになる可能性が高い
元増田はそう思ってないんだろうけど、それは「でもでもだって」ってプライドが邪魔してソープいかない男やプロブレムが違ってソリューションにならなかった男と同じ