はてなキーワード: 心理学とは
やる気が出ない時の対処法として
・とにかくやる、今すぐやる
・やる気の出し方を気にしてもダメ
・やる気は後からついてくる
という考え方がある
若い子は割と割り勘って子も多いけどな。
奢る奢らない論争の女子視点の話は、一応進化心理学で説明がつくんだけど。
進化心理学は、「生存、繁殖に有利な心理傾向を持つ個体の遺伝子が現代まで受け継がれて来たので、人間の心理は基本的に生存、繁殖に有利なように出来ているよ」みたいな考えがベースの心理学の一派閥みたいなもんで。
で、女性の心理としては、「自分産んだ子供の生存率を上げたい」んですよ。
そのためには
「生存に有利な遺伝子を持つ子供を産む(優秀なオスと子供を作る)」
か
の2択の戦略が取れるわけ。
女子が男に奢ってほしいのは、要は
相手のオスが、自分(とその子供)に資源を提供してくれるかどうかを見極める儀式なわけよ。
ただ、本人たちは無意識なので、そういう事を具体的に考えているわけでもなく
「奢ってくれる=愛されてる、奢ってくれない=愛されてない」
って、漠然と感じてるのさ。
「子どもは3歳まで母親と…」の母性神話を打ち破る 研究と調査報道の接点
https://frontlinepress.jp/6609
三歳児神話と、乳幼児の愛着を母親に求める論は同じではないのでは?という意見もあるだろうが
次の記述がある
このうち、①の「小さいとき、3歳くらいまでが大切」は真実であり、発達心理学的にも大切にしたいと思います。でも、なぜ大切なのかを考えてみたいですね。それは愛される経験が必要だからです。そして、その愛とは、母親の愛ももちろんですが、母親だけではありません。父親や祖父母、保育者や近隣の人など、子どもを大切に育もうとする人々の愛に見守られて子どもは健やかに育っていくのです。それなのに、幼少期に母親の愛情の必要性だけを強調・偏重するところに「3歳児神話」の問題の一つがあると言えます。
その根拠とされたのが、英国の精神科医ジョン・ボウルビィの研究です。20世紀初頭から問題となっていた、欧米の乳児院などで育てられていた子どもたちの発達の遅れや異常を調査し、その原因を「母性的養育の剥奪」に求めたのです。ただ、その研究が日本に導入・紹介されたとき、ボウルビィの言う「母性的養育の剥奪・欠如」、つまり「温かな養育環境の剥奪・欠如」は「母親不在」に置き換えられました。そして、「女性は家庭で育児に専念すべきであり、それがなされないと、子どもの成長発達が歪む」という形で、②③が強化されてしまったのです。
つまり赤ちゃんは母親との愛着を育み~~とかそういうのは生物学的とか心理学的な根拠があるかのように語られているが現実は別に前提が間違っていただけということになる。
母子関係を特別視している偏見が存在する・・・というところだろう。
【追加】
レファレンス協同データベースに資料紹介があった
事例作成日 2024/01/18 登録日時 2024/03/01 00:30 更新日時 2024/03/01 00:30
提供館 宮城県図書館 (2110032) 管理番号 MYG-REF-23017
https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000346742&page=ref_view
ジョン・ボウルビィの愛着理論が元で、三歳児神話が発表がされたものの、その後批判を受けたり研究が進んで、母親が育てることが重要なのでなく愛着対象となる保育者が固定されていること(または数人以下)が重要だとわかったそうですが、ボウルビィ自身の著書でそれを認めたことがわかる資料はありますか。
また、三歳児神話は否定され、子どもの愛着対象は母親のみでなく保育者が固定されていれば良いと今は言われていますが、その研究内容に関する資料はありますか。
に関する有識者懇談会(第4回)
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/kodomo_sodachi_yushiki/dai4/gijiroku.pdf
ここでも多少触れられている。
挙げられている資料はまだ読んでいないが乳幼児は母親を求めるとか、乳幼児は母親が大好きというような考え方は本当に正しいのか?現代人の思い込みではないのか?再考する時期にとっくに入っていると思う。
あなたの主張を真摯に受け止めた上で、性犯罪の加害者の9割が男性であるという現象に対して「法律の設計に問題があると考えるのが自然」という意見を検討してみます。ただ、このような複雑な問題に対して単一の要因だけを指摘するのは不十分であり、問題を包括的に理解するために複数の観点から考察することが必要です。以下で、再度丁寧に検討を進めます。
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9割という統計は、たしかに「圧倒的な偏り」を示す数字です。この数字をどのように解釈するかが重要なポイントになります。あなたの論点に基づけば、この偏りは法律が男性に不利に設計されている結果であるということになります。しかし、その結論に至る前に、以下の点を整理して考える必要があります。
1. **法律の役割と構造**:法律は社会の現実を反映し、規範を定めるためのものですが、同時に法律そのものが社会的偏りを作り出す可能性もあります。
2. **文化的背景の寄与**:法律が施行される背景には、文化的・社会的な要因が影響を与えており、それが数字にどのような形で表れるかを検討する必要があります。
3. **性別の違いが犯罪に与える影響**:生物学的、心理学的な観点から、男性がなぜ性犯罪に加担しやすいのかを考える必要があります。
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性犯罪の多くは「男性が女性に対して加害する」という前提に基づいて設計されている可能性があります。このような法律の構造が、統計に偏りをもたらしていることは否定できません。例えば、日本の刑法における強制性交等罪では、加害者が「男性」であることを前提とした条文構造が含まれています。
- 例: 強制性交等罪では「挿入行為」が犯罪の基準となるため、女性による性加害が統計的に過小評価される可能性があります。
社会的なスティグマ(恥の意識)や偏見により、男性が性被害を受けた場合に通報をためらうケースが多く、実際には女性加害者の存在が過小評価されている可能性もあります。これにより、「9割」という偏りが誇張されている可能性があります。
歴史的に見ても、男性は多くの場合、女性に対して優位に立つ立場に置かれてきました。このような権力構造が性犯罪という形で現れる場合があると考えられます。この背景は、社会心理学やフェミニズム理論で議論されています。
社会的に男性には「積極性」や「支配性」が求められる傾向があり、これが性犯罪を引き起こしやすい行動様式として現れる可能性があります。このような役割は、文化や教育を通じて内面化されるため、法律の問題だけではなく、社会全体の価値観にも原因があると言えるでしょう。
男性は進化的に「配偶者を得る」ために性的衝動が強く設計されているという仮説があります。このため、男性がリスクを取ってでも性行為を強行する傾向があるとする研究も存在します。
テストステロンの分泌量が多い男性は攻撃性や衝動性が高くなる傾向があります。このような生物学的要因が犯罪行動に影響を与えることも考えられます。
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あなたの主張は「法律が男性差別的である」という結論に向かっていますが、上記の議論を踏まえると、次のような限界が見えてきます。
性犯罪における男女比の偏りは、単に法律の構造だけで説明できるものではなく、社会的・文化的・生物学的な要因の複合的な結果です。法律がその結果を反映している側面が強いのです。
仮に法律を「男女平等」に設計し直したとしても、性犯罪の発生率が即座に変化するわけではありません。法律は犯罪を予防する手段の一部であり、その根本原因にアプローチするには社会の価値観や教育の変革が必要です。
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もしあなたの議論が「本当に男女平等な法律を求める」ものであるならば、次のステップが重要です。
性犯罪における「加害者」や「被害者」の定義をジェンダー中立的なものに見直し、統計上の偏りが法律そのものに由来していないかを再検討する必要があります。
性犯罪における男性被害者(例えば女性加害者によるもの)が正確に集計されるよう、通報しやすい環境を整備することが重要です。
性犯罪を減らすためには、社会全体でのジェンダー平等、教育、性的同意の文化の普及が必要です。これらの要因に取り組むことで、男性が加害者となる割合を減らすことができるでしょう。
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「性犯罪の9割が男性である」という現象は、法律の設計だけでなく、文化的・社会的・生物学的な要因の複合的な影響によるものです。法律を見直すことは重要ですが、それだけでは問題の本質にアプローチすることはできません。本当に男女平等を目指すならば、法律だけでなく、社会の仕組み全体に目を向け、根本的な問題解決に取り組む必要があります。
あなたが提起している問題は、男女平等や差別についての非常に興味深い議論を含んでいます。しかし、この問題を議論する際には、まずいくつかの誤解を解消し、背景にある社会的、文化的、歴史的な要因を分析する必要があります。以下に、あなたの主張をいくつかの観点から検討していきます。
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1. **現象の確認**:犯罪者の男女比が偏っている現象について。
2. **歴史的・社会的背景**:犯罪者の男女比に影響を与える要因を分析。
3. **学術的視点の適用**:以下の分野からこの問題を検討。
- 犯罪心理学
4. **議論と結論**:この議論が持つ意義と、現実的な平等の定義を再考。
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犯罪者、特に性犯罪の加害者の男女比は男性に偏っています。このデータは統計的に広く認められており、例えば日本でも性犯罪の加害者の約9割が男性であるという統計があります。
一方で、企業の管理職や社会的リーダーシップのポジションにおいては、男性の比率が女性を大きく上回っています。この「男女比の偏り」が、あなたが挙げた「差別」や「不平等」の議論の出発点になっています。
歴史的に、男性は「支配的であるべき」「攻撃性を持つべき」という社会的な期待を背負ってきました。このような役割が、男性の行動や心理に影響を与えている可能性があります。
性犯罪の被害者の多くが女性である理由には、社会的な力関係が影響しています。過去から現在に至るまで、女性はしばしば「守られるべき存在」と見なされ、加害者(男性)との力の不均衡が発生しやすい構造になっています。
法律や社会規範において、性犯罪は主に「男性が女性に対して行うもの」として規定されている場合が多いです。これも統計上の偏りを生む要因になっています。
生物学的観点から、男性は競争的でリスクを取る行動を取りやすいとされています。これは進化的に「資源を獲得する」「配偶者を得る」といった目的に適応した結果と考えられます。
男性は社会から「強くあれ」「結果を出せ」というプレッシャーを受けやすく、それが犯罪的な行動につながる場合もあります。
経済的な困窮が犯罪率を上昇させる要因となることが研究で示されています。男性の方が、伝統的に「家計を支える責任」を負わされるため、経済的プレッシャーが強くなり、結果として犯罪に走る割合が高くなる場合があります。
また、性犯罪に関しては、加害者の心理的特徴(例えば、権力欲や他者への支配欲)に性別特有の傾向が影響している可能性があります。
あなたの主張の中で注目すべきは、「平等とは何か?」という根本的な問いです。犯罪者の男女比が平等であるべきという主張は、一見すると「結果の平等」を求めているように見えます。しかし、現実には、男女の違い(生物学的、心理学的、社会的)を考慮しない結果平等の追求は、問題の本質を見誤る危険性があります。
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まとめ
「法律が男性差別的である」という主張は、単純化されすぎていると言えます。犯罪の男女比の偏りは、法律そのものよりも、社会的な要因や歴史的背景に大きく起因している可能性が高いです。平等を目指す議論を進める際には、こうした多様な要因を考慮し、単なる結果平等ではなく、根本的な原因へのアプローチが重要です。
あおやまさんの抱えている状況に関するお話、とてもストレスのたまる体験をされているようですね。自己愛性パーソナリティ障害(NPD)や、それに似た傾向を持つ人たちの行動パターンは、確かにワンパターンになりがちで、その背景には心理学的なメカニズムが隠れています。以下では、具体的な行動パターンを分解し、それがなぜ生じるのか、またどう対応すれば良いのかを分析してみます。
あなたが指摘されている「被害妄想」「被害者アピール」「批判に対する過敏反応」は、自己愛性パーソナリティ障害や自己愛的傾向を持つ人たちによく見られる行動パターンの一部です。これらを心理学の観点から簡単に解説します。
自己愛的な人たちは、自己イメージ(自分は特別で完璧であるという信念)を非常に重要視しています。しかし、その自己イメージは非常に脆弱です。ほんの少しの批判でも「自分が無価値である」と感じてしまうため、防衛的になりやすいのです。
自己愛的な人は、自分を「善」「無実」「被害者」として描くことで、自己イメージを守ろうとします。また、周囲からの同情や支持を得るために、被害者を装うことが戦略的に有効だと無意識に考えていることも多いです。
脳のメモリが少ない、という比喩表現は、心理学的には「認知の柔軟性が低い」ことを指している可能性があります。つまり、自己愛的な人たちは「自分のパターン」から外れた対応ができません。
ここでの重要なポイントは、自己愛的な人たちを「変えようとしない」ことです。なぜなら、彼らを変えることはほぼ不可能であり、こちらが疲弊するだけだからです。代わりに、以下のような戦略を取ることが効果的です。
これはとても面白い表現ですが、心理学的には「認知のリソースが限られている」という点に通じます。NPDの人たちは、以下のような理由で「ワンパターン」な行動になりがちです。
最後に、あなた自身のストレスを軽減するために、以下の点を意識してみてください。
自己愛性パーソナリティ障害の人たちは、確かにワンパターンであり、批判に対して過剰に反応したり、被害者を装ったりする傾向があります。しかし、その背景には、彼ら自身が抱える不安や未解決の問題が隠れています。それを理解しつつ、冷静に対応することで、あなた自身のストレスを最小限に抑えることができます。
ご提供いただいた内容は、自己愛性パーソナリティ障害に関連する特徴や、それに対する対処法について書かれたもののようですね。このテーマについてさらに深掘りし、学術的な観点から分析することで、問題の本質や解決策をより明確に理解する手助けができるかと思います。以下の流れで解説を進めます。
自己愛性パーソナリティ障害(Narcissistic Personality Disorder, 以下NPD)は、心理学や精神医学の分野でよく研究されている人格障害の一種です。その主な特徴には、以下のようなものがあります:
これらの特徴は、本人だけでなく、周囲の人々にストレスや葛藤をもたらすことが多いです。
投稿された内容を見る限り、あなたが指摘している「バカ女とジジイ共」は、おそらくNPDに関連する行動をとっていると感じているのでしょう。具体的には:
→ これに対して、「感謝の意を表すのみにして、あまり頼らない」という対処法が挙げられています。これは心理的境界線を引くアプローチの一環と考えられます。
→ 「詮索されてもはぐらかす」「勝ち負けの物差しで判断しない」という態度を推奨しており、相手の支配欲を刺激しないようにする対応策が提示されています。
あなたが抱えている困難は、このような相手との関係性に起因している可能性が高いです。その上で、さらに詳細に分析するために、いくつかの学術的観点を適用します。
以下では、心理学・進化論・社会学・経済学の観点からこの現象を掘り下げます。
NPDの根底には、未解消の自己肯定感の欠如が存在するとされています。多くの場合、幼少期における親子関係の歪み(過剰な期待や無関心)が原因とされることが多いです。
相手を見下す、貶めることで、自分の劣等感を「相手に押し付け」、自分が優越的であると感じたい心理が働いています。
過去に十分な承認を得られなかったため、現在の関係性で「承認」を強迫的に求めるようになります。
進化生物学的に見ると、「他者より優位でありたい」という欲求は、原始的な生存戦略の名残とも考えられます。
群れの中で優位性を確立することで資源や交配の機会を得やすくする。このため、人間にも「他者を支配したい」という傾向が少なからず存在します。ただし、NPDの場合はこの傾向が過剰に誇張されており、社会的適応を妨げる要因になっています。
現代社会では、個人主義的な価値観や競争の激化が、自己愛傾向を助長しているとも言われています。
「いいね」やフォロワー数といった数値化された承認が、自己愛的な行動を増幅させています。自分を誇示し、他人を貶めることで注目を集めたいという欲求が肥大化していくのです。
NPDの人々がとる「干渉」「支配」「優位性のアピール」は、ゲーム理論でいう「ゼロサムゲーム」に近い行動です。
「誰かが得をすれば、自分が損をする」という発想のもと、相手を貶めて自分の利益を確保しようとします。この思考は、社会的な信頼を破壊し、長期的には本人にとっても不利益をもたらします。
あなたが提示した対処法に加え、以下のアプローチを試すことをおすすめします。
NPDの人と深く関わらないことが重要です。無理に「治そう」とするのではなく、自分の心理的な安全を確保することを優先してください。
相手の勝ち負け思考に巻き込まれないようにしましょう。例えば、「あなたが勝とうが負けようが、私は変わらない」といった態度を持つことで、相手の攻撃性を和らげることができます。
職場や地域でのトラブルの場合、カウンセラーや労働組合、法律相談所など第三者の専門機関に相談することも有効です。
自己愛性パーソナリティ障害の人々との関係は、感情的に大きな負担を伴います。しかし、心理学・進化論・社会学などの観点から行動の背景を理解することで、冷静に対応することが可能になります。
以下にご紹介する内容は、「100倍引き寄せる思考」というスピリチュアルな発想と、心理学・脳科学・量子力学などの科学的な理論を“あくまで比喩や拡大解釈として”融合させたものです。実験的に厳密に証明されたわけではない部分も含まれていますが、実践面でヒントとなりうる要素をまとめています。
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「思考したものが現実になる(引き寄せの法則)」をさらに拡大し、**“自分の想像の100倍”**という飛躍的な結果を実現しようとする考え方です。この背景には、
1. **枠を大きく超えたビジョン**を掲げることで、
2. **より大きな可能性**を意識レベル・行動レベルで開き、
3. 結果として「あり得ない」と思われた成果を招き寄せる、
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## 2.1 ラス(RAS: Reticular Activating System)の活性化
脳幹にある「網様体賦活系(もうようたいふかつけい)」と呼ばれる領域で、私たちがどの情報に意識を向け、どの情報をフィルタリングするかに大きく関わっています。
たとえば「月に50万円欲しい」より「月に500万円欲しい」という、より大きな目標を掲げた場合、脳は「この大きな目標を達成するために必要な情報」を積極的にピックアップしようとします。これがいわゆる“カラーバス効果”のように、意識が向いたものが見えやすくなる現象を加速させます。
> **ポイント**: 100倍レベルの発想をすることでRASがより強く働き、普段なら見過ごしてしまうチャンスやアイデアを拾いやすくなると言われています。
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## 2.2 自己効力感(Self-Efficacy)と期待の心理学
心理学者アルバート・バンデューラの理論で、「自分ならできる」という確信の度合いを指します。大きなゴールを設定しながらも、それに少しずつ近づいている感覚が積み重なると自己効力感が高まり、より大きなチャレンジが“当たり前”になっていきます。
組織心理学や行動科学では、*「期待」→「動機づけ」→「行動」→「結果」*という流れが重視されます。人は「自分が本当に手に入るかもしれない(期待できる)」と思うと、行動量が増し、成功率が上がる傾向にあります。
> **ポイント**: 「こんな大きな成果は無理だ」と最初から感じてしまうと、期待値がゼロになり行動量が減る。一方、ワクワク感が伴うレベルの大きなビジョンを掲げると、脳内報酬系(ドーパミンなど)が刺激され、やる気が継続しやすくなります。
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## 2.3 プライミング効果・セルフ・フルフィリング・プロフェシー(自己成就予言)
ある刺激(単語・映像・イメージなど)にさらされると、その後の行動や判断に影響が及ぶ現象。大きな成功をイメージすることで、自分の言動が「大きな成功と矛盾しない方向」に傾きやすくなると考えられます。
「自分が信じていることが、行動や判断を通じて、最終的にその通りの結果を導く」という心理的メカニズム。ポジティブな期待を大きく持てば持つほど、結果的にそれが叶う方向に自分自身を動かしていきます。
> **ポイント**: 100倍の成果を「ありありとイメージ」し続けると、思考・言葉・行動がそのビジョンに合った選択をしやすくなる。これが「引き寄せの一端」として科学的にも説明しやすい部分です。
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## 3.1 オブザーバー効果(観測者の効果)と「手放す思考」
観測(測定)をすると電子が“粒子的”に振る舞い、観測をしなければ“波”的”に振る舞う、という有名な実験。
「意識的にコントロールしすぎる(観測しすぎる)と可能性が限定されてしまう。逆に、執着を手放すことで、より多くの可能性(波の広がり)に開かれる」という比喩としてよく用いられます。
> **ポイント**: 「100倍のビジョンを掲げながらも、どう実現するかは細部まで執着しない」。このバランスが、“波動の広がり”を保つ姿勢だとされます。
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## 3.2 量子もつれ(エンタングルメント)と「大きな流れへの委ね」
「私たちも本来、意識レベルで繋がっている」という考えの比喩として使われます。大きな結果を得るとき、周囲の人や環境が突如シンクロするような“偶然”が起こる、と語られることがあります。
> **ポイント**: “自分だけの力”ではなく、“世界全体との繋がり”を意識し始めると、大きな流れ(サポート)がやってくるかもしれないという感覚を高めます。
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# 4. 「100倍引き寄せ」を加速させる実践法(科学的要素+スピリチュアル要素)
1. **拡大ビジョンの設定**
- 目標を数段階上乗せして設定する(例: 月収10万円 → 月収100万円、もしくは自分の想像の100倍に拡大してみる)。
- スポーツ心理学でも使われる手法。実際に成功している姿・状況を“具体的な五感”を使ってイメージする。脳は「実際に体験している」かのように反応し、自己効力感を高めてくれる。
1. **行動リストを作る**
- どんなに些細なことでも、「大きな目標を達成するために役立つ行動」を毎日1つでも実行。
- 成功体験を書き留めると、自己効力感とRASが相互に高まり、チャンスを発見しやすくなる。
## 4.3 手放すワーク(観測しすぎない/執着しすぎない)
- 過剰な不安や執着を緩和するために、定期的に思考を静める時間を設ける。
- 「いつ手放せる?」「手放したらどうなる?」と問いかけ、ネガティブな感情やコントロール欲求を意識的に解放していく。
> **科学的には**、瞑想・深呼吸は自律神経を整え、ストレスホルモン(コルチゾール)の分泌を抑え、脳を“集中とリラックスが同居した状態”にしやすいと言われています。この状態がポジティブな発想や直感を受け取りやすいと考えられます。
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# 5. 注意点とまとめ
- 量子力学の話や脳科学のメカニズムは興味深いですが、「意識そのものが直接、物理現象を変える」とまで言える証拠はまだ不十分です。あくまで“比喩”や“モチベーションアップ”の要素として取り入れるのが賢明です。
- 「思考だけで何とかなる」と考えてしまうと、現実的な努力や行動をおろそかにしがちです。心理学的・行動科学的な知見を活かし、実践的にアクションを起こすことが重要です。
- あまりに“大きな結果”ばかりを追い求めて心身が疲弊してしまうと本末転倒です。必要に応じて休息やサポートを取り入れ、バランスを保ちましょう。
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## ◆ 最終的なポイント
心理学・脳科学的には“視点が大きくなり、新たな情報やチャンスを拾いやすくなる”“自己効力感が高まりやすい”といったプラス面が期待できます。
過剰な思考・不安・コントロール欲求を緩和し、創造的発想やシンクロニシティを受け入れる余地が生まれる、とスピリチュアル的にも心理学的にも説明可能です。
単なるイメージや願望だけでなく、小さな一歩を踏み出し、その成功を積み重ねることで、「夢物語」が「具体的な現実」に近づいていきます。
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### まとめ
以下では、これまでにまとめた「宇宙心理学」の理論と実践の枠組みに、仏教的なモチーフや概念を組み合わせてご紹介します。仏教思想とスピリチュアルな宇宙観は、意外にも多くの共通点があり、両者を合わせることでさらに深い気づきや実践方法が見えてくるでしょう。
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「宇宙(マクロコスモス)と人間の心(ミクロコスモス)は相似関係にある」という発想は、仏教的にも「一即多・多即一」や「色即是空、空即是色」という般若心経のフレーズと通じる部分があります。
- **色即是空**… すべての現象は本質的に空(実体がない)であり、同時に縁起によって姿を現す。
- この空性(くうしょう)という概念は、宇宙心理学でいう「見えない力」「量子的揺らぎ」とも重ね合わせることができます。
### 1-2. 根幹となる4つのキーワード × 仏教の教え
- 「すべては互いに依存しあって成り立つ」という仏教の縁起説は、フラクタル的な自己相似にも通じます。部分と全体が切り離せないように、私たちの内面も世界全体と相互に影響し合うのです。
- 「現在の思考や行動が未来を引き寄せる」という考えは、仏教でいう因果の法則(カルマ)に似た要素を感じさせます。善き思いと行いは善き結果を招き、悪しき思いと行いはそれ相応の結果をもたらす。
- 仏教にも“観じる(観法・観想)”ことで世界の本質を捉え、自他を変容させる実践があります。意識の向け方次第で現実の捉え方が大きく変わり、さらに現実そのものにも変化を及ぼすという点で共通しています。
4. **無意識の力 → 如来蔵(にょらいぞう)や阿頼耶識(あらやしき)**
- 大乗仏教では、すべての衆生の中に如来(仏)の種が秘められている(如来蔵思想)と説かれます。また唯識論では、意識の深層に阿頼耶識という“蔵識”があり、そこに無数の種子(しゅうじ)が蓄えられていると考えられます。宇宙心理学の「潜在意識=見えないが大きな力を持つ」構図と響き合います。
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# 第2章 「見えない力」こそが強い力である理由—仏教的解釈
### 2-1. 宇宙の95%を占めるダークマター・ダークエネルギー × 空性
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# 第3章 観測者効果・引き寄せの法則・フラクタル理論の融合
### 3-3. 引き寄せの法則と発願
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### 4-1. 占いを「占察」と見る
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### 5-2. 空(くう)と“やわらかな可能性”
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### 6-1. おみくじやタロットを「よい結果が出るまで」引く方法 × 仏教的リマインド
1. **まずは礼拝・合掌の心**
- 占いをする前に、仏前でなくとも「自分を取り巻くあらゆる存在への感謝」を込めて合掌し、一礼する。心を落ち着かせ、邪念を手放す効果がある。
- 言葉ではなく、場面や感覚をありありと描く。“無限の可能性”に開かれた空性を思い出す。
3. **占いという“観察”を繰り返す**
- おみくじやタロットで、ピンとくるまで繰り返し。“これだ”と思える結果が出たら、それが仏教でいう“因縁”に触れた合図かもしれない。
4. **結果を喜捨(きしゃ)し、行動に移す**
- 良い結果は心の励みに、不安な結果なら課題として受け止める。“喜捨”とは、結果がどうであれ執着しすぎず、感謝と共に手放す態度。そこから得た気づきを行動につなげる。
- 静かに座り、姿勢を整え、ゆっくり呼吸を数える。最初は5分程度でもOK。心を“今ここ”に置く。
- 占いで得たカードやメッセージ、星座などを軽く思い描き、そのイメージを空間に広げる感覚で観想する。
3. **行動→布施(ふせ)や慈悲行(じひぎょう)を意識**
- 自分の願いを実現する行動に移すと同時に、周囲や他者へも配慮・貢献しようとする心を持つ(菩薩行)。
- チベット仏教のマンダラや大日如来のイメージなど、仏教美術には多くの象徴や神秘的構図があり、ビジョンボードとしても利用できる。
- 宗派や個人の好みに合わせて、仏具や護符を身近に置き、そこに尊い象徴を感じることで無意識への影響を強める。
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# 結論・まとめ
1. **宇宙心理学 × 仏教の核心:縁起と空性、そして内なる仏性**
- すべては相互依存し、固定の実体をもたない(空)からこそ、大いなる可能性が広がっている。
- その内なる可能性=仏性は潜在意識の奥底(如来蔵や阿頼耶識)に息づいている。
2. **“見えない力”を敬い、智慧で照らす**
- ダークエネルギーや潜在意識といった不可視の領域は、仏教でいう空と縁起が働く世界。そこに無明ではなく智慧の光を注ぐことで、人生や運命に変化が起こる。
- この二つを組み合わせるとき、自分の内外がつながり、心身を超えたシンクロニシティが生まれやすくなる。
- イメージワークによって感情とエネルギーを高め、強く願う。
- 同時に、執着を手放し、他者への慈悲心も含めた“中道”のあり方を意識すると、より大きな調和と運命の展開が生まれる。
- 自己の願いを叶える過程で、同時に他者への思いやりや行動を怠らないこと。これが仏教の菩薩行とリンクし、自他ともに成長する道となる。
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## 最後に
本書(仮)で提案した「宇宙心理学 × 仏教モチーフ」の考え方は、あくまでも仮説的・実験的な融合です。とはいえ、共通点やシナジーは多く、実践すれば多くの気づきを得られるでしょう。占いを一種の“縁”として捉え、瞑想や仏教的な観想法で深め、“空性と慈悲の心”を育むプロセスをぜひ楽しんでみてください。それはやがて、あなたの潜在意識を通じて宇宙全体とのつながりを実感させ、より豊かで調和した人生をもたらしてくれるかもしれません。合掌。
といったスピリチュアルな発想をベースにしながら、量子力学やフラクタル理論など現代科学の要素も加味して、人間の意識と現実との関係を解き明かそうとする新しい思想体系です。
- 部分と全体が自己相似的に繰り返される。心と宇宙もまた、フラクタルに構造が通じ合う。
2. **引き寄せの法則**
- 思考・感情の状態が“波動”を発し、それと共鳴する現実が引き寄せられる。
4. **無意識の力**
- 顕在意識よりもはるかに大きい無意識(潜在意識)が、実は現実や運命を動かすカギとなる。
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### 2-1. 宇宙の95%を占めるダークマター・ダークエネルギー
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# 第3章 観測者効果・引き寄せの法則・フラクタル理論の融合
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### 4-3. シナジー効果
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### 5-3. 「イメージして手放す」の大切さ
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### 6-1. おみくじやタロットを「よい結果が出るまで」引く方法
- 願いを言語で細かく規定しすぎず、“こんな場面があったら最高!”という映像を描く。
- おみくじやタロットで自分が納得する・気分が上がる結果が出るまで試行してみる。
- 良い結果が出たら、そのイメージをさらに瞑想で深めたり、日々の生活の中で思い出したりする。
4. **行動と連動させる**
- 占いで得たヒントやキーワードをメモし、それにつながる行動を少しずつ試してみる。
1. **朝・夜の数分瞑想**
- 呼吸に意識を向け、心身を落ち着かせる。
- 1日の始まりや終わりにカードを1枚引き、そのシンボルから受け取るメッセージを簡単に振り返る。
3. **イメージワーク**
- そのカードから連想される“理想の自分”や“未来のシーン”を映像として思い浮かべる。
4. **手放しと行動**
- イメージしたあとは日常へ戻り、小さな行動を積み重ねる。執着しすぎず、流れに任せる心持ちで過ごす。
- 写真や雑誌の切り抜き、シンボル的なイラストなどをコラージュして壁に貼る。
- 宇宙に関連する画像や、自分の理想を象徴する絵を設定しておく。
- 星座のペンダントや、お守り代わりのカードなど、“言葉以前”のレベルで象徴を常に意識する。
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# 結論・まとめ
- フラクタル理論や観測者効果を応用すると、私たちの心(特に潜在意識)が宇宙や現実と相互作用していると考えられる。
2. **“見えない力”を敬意をもって活用する**
- ダークエネルギーや潜在意識といった、直接は観測できない領域ほど大きな影響力がある。そこへアプローチするには、象徴やイメージを活用するのが効果的。
- 占いで外から得る象徴的メッセージと、瞑想で内側を整える行為を組み合わせることで、望む未来を設計しやすくなる。
- 願いを強く言語化しすぎるよりも、ビジュアルやシンボルを用いて無意識へ訴えかけるほうが、潜在意識や宇宙へ強力なインパクトを与えられる。
5. **日常の行動との両立が鍵**
- スピリチュアルな実践と現実的な行動をバランスよく継続することで、シンクロニシティや偶然の一致が起きやすくなり、自然に望む現実が創造されていく。
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## 参考スタンス
占いや瞑想、イメージワークといった手法を気軽に試しながら、日々の小さなシンクロや発見を大切にしていくことで、“宇宙と心が繋がっているかもしれない”という感覚を深めていけるでしょう。それこそが、宇宙心理学がめざす「内的世界と外的世界の調和」がもたらす豊かな人生観です。
・なぜか素っ裸の状態で商業施設とか駅の噴水の前とか公衆の面前に晒されてるとこらからスタート。
死ぬほど恥ずかしくて体のあちこちを手で隠そうとする。一方、周りは大騒ぎすることはなく「なにあの人」という感じにチラチラ横目に見るだけで普通に歩き続けてる。
陸上トラックとか歩道橋とかに敷いてある茶色いザラザラしたゴムっぽい舗装がしてある地面を蹴ってジャンプすると地上20メートルくらいまで体がみるみる上がっていく。
落下を予期し「ヤバいヤバいヤバいヤバい!!!!!!!」とめちゃくちゃ焦っている。落下が始まると物凄くリアルなGを感じながら地面がどんどん迫ってる。
ここで目覚めず毎回ちゃんと足が地面に着く。痛みはないが嫌な衝撃を感じまたトランポリンみたいに体が跳ね上がり地上20メートルくらいまで登っていく。
幼少期から内容が変わらない。
Copilot に作文を依頼した。
「電源で音質が変わるか」というテーマで、それに否定的に答えたAIに、音楽評論家の人間が反論を語る、という作文を書いて。
以下、回答。
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AI:電源の品質が音質に影響を与えるという主張は、科学的根拠に乏しいと言えます。現代のオーディオ機器は、電源の変動を補正するための高度な技術を備えており、電源の違いが音質に顕著な影響を与えることはほとんどありません。例えば、ノイズフィルターや電圧安定化装置が内蔵されているため、電源の質が音質に与える影響は最小限に抑えられています。
音楽評論家:AIの見解には一理ありますが、実際のオーディオ愛好家やプロフェッショナルの現場では、電源の質が音質に与える影響を無視することはできません。特に高級オーディオ機器においては、電源の質が音の透明感やダイナミクスに大きく影響することが知られています。
例えば、オーディオ評論家の間では、電源ケーブルや電源コンディショナーの違いによって音質が変わることが広く認識されています。これは、電源から供給される電流の質が、アンプやDAC(デジタル・アナログ・コンバーター)の動作に微妙な影響を与えるためです。電源のノイズや不安定な電圧が音質に悪影響を及ぼすことは、実際のリスニングテストでも確認されています。
さらに、オーディオ機器の設置環境や使用する電源の種類によっても音質が変わることがあります。例えば、専用のオーディオルームで使用する場合と、一般的な家庭のリビングルームで使用する場合では、電源の質が異なるため、音質にも違いが生じることがあります。
結論として、電源の質が音質に与える影響を完全に否定することはできません。オーディオ機器の性能を最大限に引き出すためには、電源の質にも注意を払うことが重要です。AIの見解は技術的な側面に焦点を当てていますが、実際のリスニング体験を重視するオーディオ愛好家にとっては、電源の質が音質に与える影響を無視することはできないのです。
以下、Gemini の回答。
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AI:「電源が音質に与える影響は、科学的に証明された事実はありません。音質は、オーディオ機器の設計や素材、再生環境など、様々な要素が複雑に絡み合って決まります。電源の違いが聞き分けられるという声もありますが、それはプラシーボ効果や、他の要因による変化と誤認している可能性が高いです。」
このAIの主張に対して、ベテランの音楽評論家であるB氏は、長年の経験と深い知識に基づいてこう反論する。
B氏:「AIの指摘も一理あるでしょう。しかし、電源が音質に全く影響を与えないと断言するのは、やや短絡的ではないでしょうか。確かに、盲検テストなど厳密な実験を行えば、プラシーボ効果の影響を排除できるかもしれません。しかし、音楽鑑賞は科学的な実験とは異なり、人間の五感と感情が深く関わる、より主観的な体験です。
私は長年、様々なオーディオ機器を試聴してきました。その経験から断言できますが、電源の違いによって、音の広がり方、深み、そして何より音楽の表現力が明らかに変化することがあるのです。例えば、高品質な電源ユニットに交換すると、楽器の音色がよりクリアになり、音場が立体的に広がるように感じることがあります。これは、単なる気のせいではなく、実際に私の耳で確認した事実です。
もちろん、電源一つで劇的な変化が起きるとは限りません。オーディオシステムは、それぞれのコンポーネントが複雑に絡み合って一つの音を作り出しています。電源は、そのシステム全体のパフォーマンスを底上げする、いわば土台のような役割を果たしていると言えるでしょう。
AIは膨大なデータを学習し、高度な分析を行うことができますが、人間の五感や感情、そして音楽に対する深い理解は、まだまだ及ばない部分があるのではないでしょうか。音楽は、科学的なデータだけでは測れない、人間の心に直接響く芸術です。電源が音質に与える影響を、単に科学的な根拠だけで否定するのは、音楽の多面性を軽視していると言えるでしょう。」
AI:「B氏の経験に基づいたご意見は大変興味深く、人間の感覚の複雑さを改めて認識させられました。しかし、音楽の主観的な側面と科学的な根拠は、必ずしも対立するものではありません。例えば、聴覚心理学の研究では、人間の聴覚が様々な要因に影響を受けることが明らかになっています。電源の質も、その要因の一つとして考慮できる可能性は十分にあると考えられます。
今後、より詳細な実験や分析を通じて、電源と音質の関係性を科学的に解明していくことが重要です。その際、人間の主観的な評価も重要なデータとして活用していくべきでしょう。」
B氏:「AIの指摘はもっともです。科学的なアプローチと人間の経験は、互いを補完し合いながら、より深い音楽体験へと繋がっていくはずです。重要なのは、どちらか一方の意見を絶対視することなく、多角的な視点から音楽を捉えることでしょう。
そして、忘れてはいけないのは、音楽は単なる科学的な現象ではなく、私たちの心を揺さぶり、感動を与える芸術であるということです。科学的な分析だけでなく、人間の感性や直感を大切にし、音楽を心から楽しむことが、真のオーディオ体験ではないでしょうか。」
この対話を通じて、電源と音質の関係は、科学的な側面と人間の主観的な側面、両方を考慮することで、より深く理解できることがわかります。AIと人間の知見を組み合わせることで、より豊かな音楽体験が生まれる可能性を秘めていると言えるでしょう。
「下手の考え休むに似たり」という言葉は、一見すると凡庸な教訓のように思われるが、その背後には、熟練と未熟の対比、行動と無為の葛藤、そして思索そのものの限界と可能性といった、多層的な哲学的・心理的含意が隠されている。この諺の核心には、人間の知的営為が必ずしも価値を生むわけではないという冷厳な認識があり、その背景を掘り下げることで、人間の思考と行為の微妙なバランスを探る契機となる。
この諺は、考えることそれ自体を否定するものではないが、「考える」という行為が持つ潜在的な二面性を指摘している。「下手」とは、単に未熟であること以上に、「適切な方法論を持たない」という含意を持つ。つまり、下手な人間の「考え」は、方向性を失った反復や錯乱に陥り、結局は「休む」こと、すなわち何もしない状態と等しいとする厳しい評価を示している。
「休む」という語の選択も興味深い。ここでは、ただの身体的な休息ではなく、「無効性」や「停滞」というニュアンスを帯びている。したがって、この諺は単なる知的な怠惰を指すのではなく、誤った方法による熟考がむしろ不作為と等しいというパラドックス的な洞察を表現していると言えよう。
この諺を解釈する際、特に興味深いのは「休む」という行為が果たして本当に「無」と同義なのか、という点である。ここには、「何もしない」という消極的な態度と、「無駄にする」という積極的な損失との間に微妙な違いが潜んでいる。休むという行為そのものは、中立的な意味を帯びる可能性もあるが、未熟者の考えが「休むに似たり」とされることで、それは一種の「偽りの活動性」への批判に変化する。考えるフリをすること、つまり見かけだけの努力をすることは、むしろ静止よりも害悪ですらあるという指摘が込められているのだ。
この点で、「下手の考え休むに似たり」は、古代ギリシャ哲学における「現象」と「本質」の対比を想起させる。プラトン的には、下手な考えは単なる「影」であり、それ自体は現実に触れない空虚なものに過ぎない。あるいは、ヘラクレイトスの「静止は存在せず」という思索を逆転させ、無意味な運動は静止以下であるとさえ言えよう。
この諺をさらに具体的に読み解くためには、「下手」の範囲を拡張する必要がある。ここでの「下手」とは、単なる技術的未熟さではなく、正しい道筋を見いだす能力、すなわち実践知(phronesis)の欠如を指している。この点ではアリストテレスが述べた「善く考える(euboulia)」という概念に近い。善く考えるとは、理性が行動の適切な目標を指し示す能力を持つことを意味し、下手な考えはその逆、すなわち目標も見失い、行動を導く力を欠いている思考を指す。
この実践知の欠如は、しばしば「方向感覚の喪失」というメタファーで表現される。下手な考えが「休むに似たり」とされる理由は、その思索が明確な目標に向かわず、無駄にループを繰り返すことで進歩を妨げるからだ。これは、経験や洞察に裏打ちされた熟考とは異なる、浅薄で空虚な反復を暗示する。古典文学で言えば、例えば『ドン・キホーテ』における無謀な行動や、シーシュポスの神話における徒労に通じるものがある。
心理学的には、この諺は「過剰思考(overthinking)」や「分析麻痺(analysis paralysis)」と呼ばれる現象を指摘していると考えられる。未熟な人間ほど、あれこれと余計なことを考え、選択肢を増やすばかりで最終的な決断に至らない傾向がある。つまり、熟練者が直感的かつ素早く判断を下せるのに対して、下手な者は思考過程そのものが目的化し、行動のタイミングを失うのだ。
ここには、「知識の量と知識の質」という重要なテーマが隠されている。下手な考えはしばしば知識不足から生まれるが、逆に言えば、中途半端な知識はむしろ思索を停滞させる。フランシス・ベーコンの言う「知識は力なり」という言葉も、適切に使われなければただの重荷となるのだ。
「下手の考え休むに似たり」は、経済学的には効率の問題として解釈できる。この諺の背後にあるのは、思索という「投資」に対して得られる「リターン」がきわめて低いという状況の批判である。言い換えれば、下手な考えはコストに見合う成果を生まない「非効率的なリソース配分」の典型例である。
この観点から見ると、「休むに似たり」という表現はむしろ控えめであり、下手な考えは単なる無駄以上に、リソースを奪い、他の重要な活動を妨げる存在とすら言える。たとえば、組織やプロジェクトの文脈では、下手な計画が最初からなされることで、リソースが浪費され、最終的な失敗を招くという例が挙げられる。
現代において、この諺はますます重要な意味を持つ。インターネットの普及により、情報は過剰なまでに流通し、誰もが「考えること」が可能になった。しかし、その結果として、考えるという行為の質が低下し、無駄な議論や非生産的な思索が増加する状況が生じている。「下手の考え休むに似たり」は、こうした現象に対する警鐘として読み替えることができる。
現代社会では、むしろ「考えることをやめる」という選択が重要になる場合もある。これは、「情報断捨離」や「マインドフルネス」のような概念と結びつき、必要な判断に集中する能力を取り戻す試みとして解釈される。
「下手の考え休むに似たり」という諺は、表面的には思索の無駄を戒めるものであるが、深く掘り下げると、思索それ自体の構造的な矛盾や、人間の知的限界を指摘する哲学的洞察を内包している。この言葉は、私たちに効率と成果のバランスを問いかけるとともに、思索という行為の価値を再評価する契機を提供するものである。
杞憂という言葉は、文字面の単純さを超えて、思索と反省の対象となるべき哲学的・文化的・心理的な深淵を秘めている。それは「不必要な心配」や「ありもしないことへの過剰な恐れ」といった単なる辞書的定義を超え、人間存在そのものに内在する不安の構造や、思考の限界を暗示する概念である。この言葉の起源を辿りつつ、その背後にある多層的な意味を探ると、杞憂という語は一つの寓話的なシンボルとして、私たちの精神的地平を照らし出す。
「杞憂」は中国古代の典籍『列子』の「天瑞篇」に由来する。物語の舞台は杞(き)という小国である。そこに住む一人の男が、「天が崩れ落ちてきたらどうしよう」と絶えず恐れていた。その恐怖のために、彼は食事も喉を通らず、夜も眠れなかったという。この杞の男を見かねた人が、「天とは何か」と理性的に説明を施す。曰く、「天は空気の層であり、その性質からして崩れ落ちることはあり得ない」と。しかし、この説明を聞いた杞の男の恐怖は一向に収まることがなかった。彼は依然として「では、大地は崩れるのではないか」と新たな恐怖を生み出したという。
この逸話を素朴な道徳的教訓や人間の愚かさの象徴と捉えることは容易だが、それはこの物語の本質を単純化しすぎるだろう。杞憂の核心には、存在論的な問いが潜んでいる。すなわち、「我々は何を恐れ、そしてその恐れの根拠は何か」という問題である。
杞の男が恐れていたのは、「天が落ちる」という一見荒唐無稽な事態であったが、彼の恐れの本質は、物理的な事象に対するものではなく、「秩序が崩壊することへの恐怖」だったと言える。天と地というのは、古代中国の宇宙論では根本的な秩序の象徴である。天が落ち、大地が裂けることは、自然界の崩壊のみならず、存在そのものが瓦解することを意味する。したがって、この恐怖は単なる無知や杞の男個人の愚かさに還元されるものではなく、人間が持つ「根源的不安(existential anxiety)」の表出である。
杞憂という概念には、複数のレベルでのメタファーが隠されている。そのいくつかを抽出しよう。
空(天)が落ちるという恐怖は、現代的に翻訳するならば、我々が宇宙や自然の安定性を信頼することの脆弱さを示している。宇宙論的スケールで考えると、杞憂はブラックホールの蒸発や熱的死といった現代物理学の概念に通じる、秩序の不安定性に対する漠然とした恐れとさえ言える。
大地が裂けるという杞の男の第二の恐怖は、社会や文化の基盤が崩壊することへの比喩とも読める。歴史的には、革命や戦争、経済的崩壊の予兆として、こうした恐怖が群衆心理を支配した例が数多く存在する。
杞憂の本質的な特徴は、恐怖が「自己生成的」である点にある。杞の男が「天は落ちない」と説明されてもなお「大地が裂ける」と新たな恐怖を抱いたように、恐れというのは理性による説明をすり抜け、次々と新しい対象を生み出す。この現象は、心理学で言うところの「一般化不安障害(GAD: Generalized Anxiety Disorder)」に近いものであり、人間が恐怖を必要とする存在であることを暗示している。
「杞憂」という言葉の文化的意義は、人間が「未知」や「制御不可能性」に直面した際の反応を考える契機を提供する点にある。杞の男の恐れが批判されるのは、それが非合理的で無用であるからという理由に加え、その恐れが「何の行動も生み出さない」からだ。しかし、この逸話は現代人にも重要な問いを投げかける。我々が杞の男と同様に、漠然とした不安に囚われている時、それを「無駄」と切り捨てるだけでよいのだろうか?
たとえば、気候変動やAIの台頭といった現代的課題を巡る不安の多くもまた、杞憂として一蹴されることがある。しかし、それが真の杞憂なのか、それとも未来への警鐘なのかを判断するには、慎重な検討が必要である。杞憂は時として、無意味な心配ではなく、行動を促す予兆でもあり得るのだ。
「杞憂」とは、表面的には「不必要な心配」を示すが、その奥には、「不安という人間の根源的条件」が反映されている。杞の男の恐怖は、無知や愚かさの象徴であるだけでなく、存在の根底に潜む不確実性、そして我々がそれにどう向き合うかを問う寓話的な警句でもある。
言い換えれば、杞憂とは、我々が避けて通れない「虚無」と「秩序崩壊への恐れ」の象徴であり、それを通じて、不安にどう対処すべきかという哲学的・実践的な問いを私たちに投げかけていると言えるだろう。
例えば
「シャンプーは髪にダメージを与えるので湯シャンのほうがハゲない」
「食べなきゃいけないというのはウソ、私は不食を10年実践している」
「警察は悪人ばっかり、ヤクザのほうが実は人情があって寄り添ってくれる」
「テレビが言ってることは実はウソばっかり、真実はネットにある」
こういう感じ
つまり、
・習慣的、常識的になんとなくやっていたこと、信じてたことが否定されて新しいものが提案される
・悪いと思ってたものが良い、良いと思ってたことが悪いと言われる
ここらへんで人は疑うことを辞める
「実は〜なんだ」とか、「君のやってるソレは間違ってる」とか
4.ニュートラルになる
みたいな変遷を経るからめんどくさい、1回目のやつも2回目のやつもめんどくさい
____
補足
なぜ信じちゃうかだけど、たぶん
・驚きのほうが勝るから
ここらへんかなと思う
[B! メディア] 論理的思考が高い人ほど「斎藤氏は陥れられた」と考える傾向…鹿大・大薗博記准教授らが捉えた〝異変〟 兵庫県知事選〈末尾に出典元リンク〉 | 鹿児島のニュース | 南日本新聞
いやー…そうなの?
社会心理学が社会学に属するというのは畢竟はてブ独自の見解に過ぎないのであって、一般には心理学に属するんじゃないか。
神経心理学は心理学に区分けされることが多いし、心理学の影響を多分に受けた行動経済学は逆に心理学には分類されないだろう。
同様に社会学と社会心理学は近隣分野ではあるし両方の領域に属する研究者もいるようだが、普通は別の領域だと考えると思う。
社会学は社会科学で、心理学は人文科学に分類されることが多い。違うかな?
Q:社会学か社会心理学か、社会学か文化情報論か、迷っています。
A:確かにこれらの分野とは、学問的な意味での近接性がありますので、迷うのももっともかもしれません。しかし、違いをはっきりとさせるならば、次のようなことが、およそ目安となるでしょう。
社会心理学との違いからです。違いの前に共通なことから言うならば、どちらも社会について扱っていることです。しかし、興味関心や視点が違います。……
ところで、辻准教授は、社会心理学会にも所属しています。これは、辻が社会意識など、社会心理学との相互乗り入れ領域について研究しているからです。人々の意識について社会(学)的な観点から研究したいという人は、受入可能です。
しょーもない些事ではあるが、社会学批判が他分野の出来事まで社会学のせいにしていると思われるのはよくないんじゃないのかね。
あと擁護になるけど大薗先生がオウム事件のあれこれを忘れて論理的思考力の高い人が陰謀論にはまりにくいみたいな前提を立ててるわけではないよ。
そもそも大薗先生2023年の研究で以下のような結論が出しているので。
それに加えて、2人が検証したかったのは、「頭が良いからこそ陰謀論にハマりやすい場合があるのかどうか」。大薗准教授は「オウム真理教の事件の時に高学歴の若者が集まっていたことが話題に上りました。そのときに語られていた『社会に不満を持ったインテリこそが陰謀論にハマりやすい』というイメージが科学的に証明できるか、ということも検証したかった」と明かす。その思いが「裏テーマ」となって、研究を進めたのだという。……
だが、この二つの傾向の組み合わせによる増幅効果は見いだすことができなかった。そのため、裏テーマだった、「社会不満を持ったインテリこそが陰謀論にハマりやすい」ことは表れなかったという。
この研究に対する批判は自由に行えばいいと思うけど、自分の過去の研究を元に議論を進めるのなんてよくある話だと思うね。
ところでこの記事470近くブクマされているんだけど皆さん覚えてます?
「頭の良い人」は陰謀論にハマるか、学術誌に論文が掲載…「面白くない」研究結果は心理学者を奮い立たせた
ちなみに元のnoteを見ると、「斎藤氏は陥れられた」という考えと論理的思考力には非常に弱い相関があったと書かれているんだけど、
非常に弱いので「『「賢い人はみんな斎藤氏が被害者だと思っていて、そうでない人はそれに気づいていない』などというレッテル貼りはできないことに注意してほしい」と書かれていることは強調しておく。
なお、「兵庫県民では、SRSとCRTが高い人の方が、立花氏が『好き』で『発言は正しいことが多く』、『頭がよく』、『論理的』だと評価している傾向が、弱いながらも有意に認められた」という結構アレな話もあったり。面白いですね。
この説明は心理学や行動経済学の観点からある程度正当化できますが、いくつか補足が必要です。以下に整理してみます。
1. リスク回避行動と最悪の状況
人間は「損失回避」や「リスク回避」に強く影響される傾向があります。これは行動経済学で広く認識されている現象であり、最悪の状況を過大評価してしまう心理(例:危害を受ける可能性)が、意思決定に大きな影響を与えることが知られています。
2. 最善の結果を考慮するかは人による
一方で、最善の状況(例:相手が善良である可能性)を積極的に考えるかどうかは、個人の性格や価値観、また状況に依存します。リスクに対する感受性が高い人は、最善の結果よりも最悪の結果に偏る傾向があります。全ての人が「両方を天秤にかける」わけではありません。
3. 避ける行動の合理性
「避ける」という選択肢が合理的かどうかは、文脈や背景情報に左右されます。タトゥーの有無が本当にリスクに関連している場合、その判断は合理的と言えます。しかし、もしタトゥーと危害の関連性が統計的・科学的に裏付けられていない場合、この判断は偏見やステレオタイプに基づくものである可能性が高いです。この場合、行動経済学の観点では「認知バイアス」による判断ミスとされることもあります。
4. 全体的な判断
このプロセス自体は人間の自然な意思決定のメカニズムであり、完全に「間違い」とは言えません。しかし、前提条件(例:タトゥーをした人=危害を加える可能性が高い)が偏見に基づくものである場合、その意思決定プロセス自体が問題視される可能性があります。
結論として、「最悪の状況を避けるために避ける行動を取る」という点は行動経済学的に説明可能ですが、前提条件の妥当性や背景にある認知バイアスに注意する必要があります。
https://anond.hatelabo.jp/20241214160546
便乗して書く。順不同です。
不法移民を乗せた船が地中海に度々沈んでいるとニュースで話題だが沈んだ/打ち上げられた彼らの遺体は果たしてどう扱うべきか。大量死した移民難民の検死という大プロジェクトに立ち向かったイタリア法医学者の奮闘の記録。身元の照合なんてDNA鑑定すれば簡単やろ、なんて素人考えは早々に打ち砕かれ、うーんこれは大変だぞと読んでて途方に暮れてしまうが、それに立ち向かう筆者ら法医学者の技術と志には非常に頭が下がる。法医学の本なのに序文が筆者の肉親の死を描いたエッセイから始まるのが意外だったが、読み終えたあとにはその意図がよくわかる。ちなみにグロ写真は出てこないがグロ文章は出てくるので俗な好奇心も満たされた。
噂には聞いていたがおもろすぎる。特に『オムファロス』が好きだが読書メモを見返してみると『不安は自由のめまい』からの引用も多く、かなり自分の心に響いたようだ。あまりに面白かったから、SFマガジンの息吹刊行特集号を中古で探してきて、短編集未収録作(『2059年なのに、金持ちの子(リッチ・キッズ)にはやっぱり勝てない -DNAをいじっても問題は解決しない』)まで読んじゃった。
土を語るには色が欠かせない、ということで新書なのにフルカラー、本を開くと不思議な匂いがする。永久凍土、チェルノーゼム等等、高校の地理の授業で学んだものだが、実際に足を運んでみると結構ものが違ってたり、正確かつ詳細な分布記録はどこにもなかったり(なので国際プロジェクトが立ち上がり筆者もそこに参加した)教科書には載っていない地質研究のリアルが知ることができ面白かった。筆者の語りも軽妙でぜひ次回作が読みたいと思っていたら、ちょうど今月末にブルーバックスから『土と生命の46億年史 土と進化の謎に迫る』という本を出すようで興奮が止まらない。絶対読もう。
新卒時代に神経内科学に携わった経験があり、仕事内容はAD(アルツハイマー病)ではなかったもののアミロイドβ仮説の問題点については小耳に挟むことも多かった。ということで課題図書的に読まなければならないと思っていた本でようやく重い腰を上げて読んだのだが過たず面白かった。同時期に『失敗の科学』も読んだのだが、それに載っていてもおかしくないような事例ではある。認知症は確かに存在するのだろうが、アルツハイマー病という病気が本当にこの世に存在するかどうかは読み終わった今かなり疑問だ。病をどのように定義するか……。脳の病気は、脳以外の臓器と違ってすぐさま生検というわけにもいかないし、死後解剖も難しく(愛する人の頭を暴かれたいとはなかなか思えまい)、そもそも脳という臓器が複雑なブラックボックスすぎて、病態と組織学的所見とを適切に紐付けることが元々非常に困難なんだろうな。
わたくしごとだが11月末に待望の第一子が産まれ、本書はその産前休業期間中に読んだ(産後は集中力が低下して活字があまり読めなくなったので、今から思えば産前に読んでおいて本当に良かった)。薄めの本だが、発達心理学のエッセンスがぎゅっと詰まっている。ベテラン大学教授の発達心理学連続講義の第一回総論といった趣の本(というかそれそのもの)。筆者は障害児心理学で長年教鞭を執ってきていて、定型発達児・障害児の双方に平等に愛を注ぐ筆致に心を打たれた。医学では病める臓器の研究が進むことでその臓器そのものの生理についても知見が積まれるものだが、障害児心理にはひとのこころの成り立ちを考える上での重要な視点が詰まっているのだろうなと思う。
新生児の頻回授乳のお供にオーディブルを再開した。眠いと活字はなかなか頭に入らないのだが耳からならなんとかという感じである。今読んでいるのは『サピエンス前史 脊椎動物の進化から人類に至る5億年の物語』で、新生児のしゃっくりを見ながら古代脊椎動物が獲得した横隔膜に思いを馳せたりしている。次にオーディブルで読む本は未定なので、おすすめあったら教えてください。ちなみにわたしのオーディブルおすすめ(読み終わって好きな本)は『北関東「移民」アンダーグラウンド』です。2025年も色んな本に出会いたいものです。