はてなキーワード: 共通語とは
便乗して5冊挙げようとしたけど絞りきれなかったので倍プッシュした。2024年は1/1から今日までのあいだに315冊読みました。ちなみに、いま読んでる途中なのは上橋菜穂子『香君』(2022年)と飛浩隆『鹽津城』(2024年)、それに教養系の新書数冊。
今年はアプリリリース3周年を迎えたウマ娘に突如シーザリオが実装されるというサプライズが起きて、仮にウマ娘化されるとしたら絶対男装の麗人キャラだろうなと思っていたら本当に男装の麗人だったので全俺が歓喜したし、オフザリオの声が可愛すぎませんか……? 俺はああいう透き通ったというか透明感があるというか鈴を転がすようなというか、とにかくそんな感じの声に弱いのだ。身体つきもいいしなグヘヘ。シナリオではずっとイチャイチャしてて最高すぎる。俺の嫁Tier最上位です。引けてよかった……! ちゃんと「シーザリオ英雄譚」の称号もゲットしました。チャンミは優勝できなかったけどな! ところで俺は『ハムレット』しかシェイクスピア作品を読んだことがなかったので、良い機会だということでシーザリオの名前の元ネタになった『十二夜』を読んでみることにした。男装の麗人、すれちがう恋心、よく似た兄妹の人違い、と来てお前女だったのかからのハッピーエンドで終わる、まあテンプレ通りのラブコメだったんだけどひょっとしてこれがラブコメのテンプレになったやつだったりします? 偉大すぎでは。っていうか「十二夜」って、古代ローマのサートゥルナーリア祭をもとにした公現祭(エピファネイア)のことだったんだ……。ほかにも『リア王』『マクベス』『リチャード三世』『お気に召すまま』『ジュリアス・シーザー』『夏の夜の夢』を読んだんだけど、いちばん好きなのは『十二夜』です、はい。「僕は僕が演じているものではありません」っていう台詞すき(小並感)。
ところでシェイクスピアといえば、古河絶水『かくて謀反の冬は去り』(2023年)というラノベがシェイクスピアのパロディなのね。『リチャード三世』をパロった1巻を読んだときにはまったく気づいてなくて、あとがきを読んで「これシェイクスピアだったんだ」となり、元ネタを読んだらめっちゃあからさまだったし、今年出た2巻はもう露骨に『マクベス』オマージュで、さらに二・二六事件や三島由紀夫の割腹自殺などのネタも盛り込まれていて非常に楽しく読めた。古代日本風のファンタジィ(e.g. 沢村凜『黄金の王 白銀の王』)とか、近代日本モチーフのミリタリもの(e.g. 佐藤大輔『皇国の守護者』)とかはよく見かけるけど、人名とか文化とかが古代日本風なのにテクノロジが近代風な政治劇というのはなかなかなかったように思うので新鮮というか、「その手があったか!」という感じだ。笑いとシリアスのバランスが良く、裏の裏をかくサスペンスが繰り広げられて、続きが非常に楽しみな作品なのですごくすごいオススメです(語彙力トプロ)。そういえば春先にはちょうど前年に文庫落ちしたホルヘ・ルイス・ボルヘスの『シェイクスピアの記憶』(1980年)も読んだんだった。俺の中で今年はシェイクスピア元年ということで。
自分ではリベラル派のつもりなんだけど、実はちゃんと原典を読んだことがなかったので読んでみた。日本でいうと幕末に書かれた本なのに「そうだよ~~~それだよ~~~!!!1!」と同意するところが非常に多かったので、自分は根っからの自由主義者なんだと再確認。みんなも(本来の意味での)リベラリストになろうぜ。リベラリズム関連だと、ほかにも井上達夫『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』(2015年)を読んだ。ラディカルだが筋が通っている。ところで著者がアメリカに留学してたときに「なんで日本人がリベラリズムの研究を?」って言われたというエピソードがちっともリベラルではなくてドン引きしたというか、あいつらひょっとして自由主義を人類普遍の原理ではなく西洋の文化かなにかだとでも思ってんの? 人類普遍の原理じゃないならなんでヨソの文化圏に押し付けてもいいと思えるんだ。非西洋の自由主義者としては不愉快。
もんのすごい面白い。話には聞いていたマーサズ・ヴィンヤード島の手話についての本。この島ではかつては高確率で聾の子供が生まれたため、島のほぼ全員が手話を身に着けていて、ときには聴者どうしが手話で話すこともあった。したがって耳の聞こえない人たちも完全に社会に統合されていて、社会的な不利益を受けることはなかった。この島では聾であることはただの様々な個人の特徴のうちのひとつであって、それが重大な意味を持っているとはみなされていなかった。たとえば以下の会話のように。
「アイゼイアとデイヴィッドについて、何か共通することを覚えていますか」
「もちろん、覚えていますとも。二人とも腕っこきの漁師でした。本当に腕のいい漁師でした」
「ひょっとして、お二人とも聾だったのではありませんか」
島の出身者にとって、彼らはまずもって漁師であり、聾であることは、そういえば耳が聞こえなかったね、という程度のものでしかなかったということだ。この本を読むと、なるほど障害の社会モデルは正しいのだなぁと納得してしまう。手話が共通語として存在した共同体のあり方をインタヴューと文献調査によって復元していく社会史的な面白さに加えて、途中では島民の聾の起源を近世イングランドにまで遡って明らかにしていくという謎解きの面白さも味わえる。まさか手話の本読んでてジョージ・ダウニング(ダウニング街の由来)とかサミュエル・ピープス(日記を遺したことで有名)とかの名前が出てくるとは思わないじゃん。そしてこの「手話の楽園」が徐々に崩壊し、終焉へと向かう過程は寂寥感にあふれている。今年読んだノンフィクションでは一番ですわ。超オススメ。
まだ読んでませんでしたテヘペロ。最初読んだときは「衝撃の一文」の意味がわからず、ああ、あれって襲名制でこいつは先代なんだ、って一瞬勘違いしちゃったんだけど、独白が始まるにつれて鳥肌立った。お、お前~~~~~~!!!1!! 小説としての出来は正直言って荒削りで、お世辞にも上手いとは言いがたいのだけれど、謎解きとしての衝撃は絶大ですわ。なるほどこれが新本格の先駆けか……。そういうことでちょぼちょぼと館シリーズを読み始めてます。いま人形館の途中。
そうそう、本作がきっかけで○○○○○○の『○○殺人事件』(1929年)も読みました。タイトルだけ読んで中世ヨーロッパを舞台にした歴史ミステリなのかと思ってたら全然違ったわ。あなたの「○○」はどこから? 僕は、『電脳山荘殺人事件』から! っていうか本作を読んで学生時代に読んだ米澤穂信『インシテミル』(2007年)のなかで意味がよくわからなかった一節の意味をようやく理解した(岩井が読書マウント取るシーン)。『○○殺人事件』のあとがきとか「読者への挑戦」とかそういうコーナーで作者が自己紹介する文があるものだとばかり思ってたけど、本作を指してたのかよ!
英語への解像度が上がった1冊。英語のスペリングに悩まされ、「俺は日本から出ないから英語は要らない!」と高校時代に放言しておきながらいまは英語をそれなりに使う仕事をしている者からすると、かつて味わった理不尽の謎解きという意味ですごく面白かったし、何というか、あの理不尽の背後にはこんな歴史があったのか……と知ることで、英語への愛情のようなものが増した気がする。「世界共通語」とか呼ばれて出羽守から持て囃される帝国主義的な覇権言語としての英語は相変わらず好きになれそうもないが、しかし、ヨーロッパの片隅にある島で数奇な歴史を辿ってきた言語としての英語のことは割と好きになれる、そんな本だった。
アニメを見た直後に読んでおけばよかったシリーズ。名作ジュヴナイルSFアニメ『放課後のプレアデス』のノベライズなんだけど、キャラクタの掘り下げが完璧すぎる。みなとという謎めいた存在に丁寧に肉付けして、彼がプレアデス星人と出会って闇堕ちしすばるに救われるまでの過程を説得力をもって再構成していてすごくすごい(語彙力)。主題歌の引用のタイミングが完璧すぎるだろ(「Stella-rium」は名曲だからみんな聴こうな)。そして、あおい、ひかる、いつき、ななこといったキャラクタの名前に漢字が当てられていくところは本当にゾクゾクした。これオリジナル設定ってマ? 佐伯昭志のリリカルなアニメを『永遠の森』『そばかすのフィギュア』の菅浩江がノベライズするなら、そんなのもう心が洗われるような名作にしかならんわけで。読み終えたあとにまたアニメを見たくなる、そんな素敵なノベライズだった。大好き。
数値の測定は大事なことだが、それが濫用された結果どうなるのかという事例が色々と挙げられていて、この本末転倒感は日本でよくあるやつだ……! と思ったらだいたいアメリカの事例なので人類を滅ぼすしかない。この問題で難しいのは適度な測定には意味や意義があることで(たとえば、論文の本数が重視されるようになった結果薄っぺらい論文が量産されるようになるのはよくないが、ちっとも論文を書いていないひとに多額の研究費が配分されるのはおかしい、というお気持ち)、測定なんて意味がないとは言い切れないことだが、本書の著者は最後に「測定のまっとうな使い方」のための指針を提示していて、この増田で挙げた本のなかでは一番実用性が高い。「測定は判断の代わりにはならない。測定は、判断を要するものだ」という金言を政策決定にあたるひとたちには噛み締めてほしいなと。
こっちはJ. S. ミルじゃなくてJS見る。5巻くらいで読むのやめてたシリーズなんだけど読むの再開したらすごく面白くてハマってしまった。人工知能によって将棋が終わってしまったという夜叉神天衣と九頭竜八一の抱く絶望と諦念を、雛鶴あいと神鍋歩夢というそれぞれのライバルがねじ伏せていく、めっちゃ骨太の将棋小説じゃん……。ただのロリ小説と思わせておいて、いや実際にロリ小説でもあるんだけど(ロリホームって何だよ)、AIという最新のテーマに向き合って「解」を提示してみせる胸熱な将棋小説でもあるというギャップが俺を狂わせる。すげー面白いっすわ。
ところで、さんざ褒めておきながら将棋の定跡とか全然わからんのは秘密だ。ひ、『ヒカルの碁』も盤面わかんなくても読めてたし……(震え声)
〈小市民〉シリーズの完結編。ずっと追いかけてきたシリーズの終わりが見れて感無量すぎる。読み始めたの高校の頃とかだからマジで20年越しなんだよな。『春期限定いちごタルト事件』の序盤で示唆された、小鳩くんが出しゃばって不興を買ってしまった過去の事件が描かれていて、20年越しの伏線回収が嬉しすぎる。
「なあ。おまえ、鬱陶しいよ」
これってこういう文脈でのことだったのか~~~~~とか、互恵関係! 互恵関係きた! これで勝つる! とか、〈小市民〉シリーズの過去が明かされていく展開を味わって読んでいたらそれが小鳩くんの遭った事故と徐々に繋がっていく過程は流石のよねぽだった。本作で〈小市民〉シリーズは綺麗に完結したわけだけど、これ短編集もう1冊くらいいけるんじゃないですか? という気持ちになってしまう。読みたいよ~~~~小鳩くんと小佐内さんの物語をもっと読みたいよ~~~~~~~~!!!1!!
オモコロで話題になってたみくのしんの読書録。一文一文を噛みしめるように丁寧に読んでいてすごい。国語の授業が苦手だったみたいなこと言ってるけど、マジで正統的な国語の授業みたいな読み方してるのすごすぎるでしょ。そしてこの本を読んで「一文一文を噛みしめることなくただ数だけを積み上げてきた俺の読書とは空虚なものではないのか……」という敗北感に囚われていたところに次の文がすっと差し込まれてくるのです。
本が読めないと尻込みしていた男を「正しい読み方なんてないから」と、訳知り顔で励ましておいて、いざ自分のこととなると、ちっぽけ呼ばわりなんて本末転倒じゃないか。
本書はみくのしんの読書の追体験であると同時に、本好きへのエールでもあると感じた。本には色んな読み方の可能性があって、すごく自由なものなんだということ。それを思い出させてくれる、とても良い本だった。ありがとう。
NHKは全国の人にわかりやすい言葉で放送していて、同時にそのような言葉を共通語だと言っている。
しかし思うのだが、この「わかりやすい言葉」とはどういうものだろう?
どこにいっても伝わるような言い回しというのは江戸以前からもあって、NHKはそれを拾い集めて使っているのだろうか?
それともNHKによってお仕着せ的に放送され続けた言葉が「わかりやすい言葉に『なっていく』」のだろうか?
前者の可能性は否定できないものの、少なくとも後者はおかしい。
よっぽど引きこもりでテレビが自分にとっての世界の全てという人でもないかぎり、テレビから離れればすぐにその地方地方の周囲の人の方言を聞くことで言語感覚は方言人のそれへリセットされる。
言葉を覚え始めの幼児すらテレビの共通語ではなく身の周りの生身の人間が話す方言を使うのはなぜか。
それは幼児ですらどちらの言語にプライオリティを置くべきか理屈以前に脳で区別されるからだろう。
逆に言えば一度覚える対象から外れた言語は比較的触れられる状況下にあったとしてもなかなか吸収されない。
テレビ以外ではその地方の方言だけど、テレビだけはアラビア語しか流れない環境下のあっても、おそらくその子が話すようになるのはもっぱら日本の方言で、アラビア語を使いこなせるようにはならないのと同じだ。
で、言語習得の臨界期を超えて「共通語を学ぼう」と思い立った時には共通語はもはや英語などと同様ただの異言語などで、これまた聞き流しているだけで意味が理解できるようになるという可能性はついえるわけだ。
私の親の実家は東北だが、電話で実家と話している時1文字分すら何言ってるのかわからない言葉を話している。
そんな人でも首都圏で家庭を持つに至っては比較的共通語に近い首都圏方言を話すようになるのは不思議でしょうがない。
私があちらの方言をマスターできる自信がまるでないのと同じように、逆も無理なはずと考えるのが筋だろう。
共通語を使っているテレビは、今使っている共通語がどういう意味か語学番組よろしく逐一解説を挟んでくれることはない。
アラビア語でそれだったら一生アラビア語が何を言ってるかわかるようにならないのと同じように、同じ日本でも東北と共通語ほど違いある言葉を解説なしに垂れ流しにされても一生理解できるようにはならないものではないのか。
首都圏方言と共通語の違いは語尾にじゃんがつくかつかないみたいな瑣末な違いがある程度で、むしろそういう違いをことさら指摘されるか、自力で日本語学の初歩を身につけるでもしなければ、むしろ区別がつかない人がほとんどだろう。
共通語と首都圏方言をごちゃませにした短編を作っても、よもやほとんどの人はこれが二つの言語によって綴られていると気付けないと思われる。
さてそういう共通語は誰にでもわかりやすい前提なので、テレビと同様に学校でも教科書に書かれている共通語について一文節ずつ自分たちの方言との対応をおしえてくれはしないはずだ。
少なくとも首都圏の学校に通っていた俺の場合はそうだった。東北とかでは違うのだろうか?いやそんなはずはない。
で、だからこそどうなるか。言いたいことはここからごくわずかなものだ。
「共通語なんてないからこそ、教科書もろくに読めず落ちこぼれる人の問題が起こっているのではないか?」
つまり訛りの強い地方ほど共通語の教科書を見ても自分達の方言との類似性からの意味の類推も困難になり、だからといって誰もことさら解説しない、しかしそういうものだと諦めて、落ちこぼれるのではないか?
折に触れて、出産予定月をまたいだほどの生来の出不精からすると少し気が触れて、旅行することもある。するとその土地にはその土地のジジイがおり、ガキがおり、折々の少年時代があるんだと感じる。商店街通ったり、ローカルの電車に乗ったりしてるとね。
するとここで自分が過ごしてたら、とか、ここの方言使うことになるんだろうか[1]とか思ったりする。でもすっとそれを止めて景色を見たりする。いつからこんなにあきらめよくなったっけ。
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少年時代、というよりアカチャンマークツーくらいの時代、小学一年生上がりたての時に、道徳だか国語だかで冊子をもらった。教科書でもなくプリントでもなくワザワザ冊子なので夏休みの宿題だったのかも。家で読んでひっそり大泣きした記憶がある。
たくさんの動物に囲まれた白人のガキが表紙にあしらわれたクソ冊子。読んでいくと相棒の犬と仲良くなっていく様子、今生の別れ、葛藤、他のペットを飼えるようになって優勝みたいな流れだった。
ガキからするとそんな本邦における精神の発達過程のネタバレとかどうでもよくて、なぜゴールデンレトリーバーは死ななくてはならないのか、根本的に死んでしまった問題は解決されていないのでは、と飲み込めず泣き出し、親にまで提訴した。冊子を読んだ日は当時飼い始めたゴールデンレトリバーを抱きしめて寝た。
で、「諦め」っていうのが抵抗できない大いなる力、自然だの物理だのへの唯一の対策だと覚えたんだ。俺の犬は奇しくも高校の夏休み前最後の登校日に死んで、一日泣いて、諦めた。ここ進研ゼミでやったやつだと思ったけどそれからペットは飼わなかったし、黄色人種なので冊子の表紙みたいにはならなかった。
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だから自分の環境がこうだったらなーみたいなどうしようもない憧れは小学生の体感する夏休みより早く終わる。
[1]自閉症傾向が強かったり、発達がユニークだったりすると共通語のTVや共通語文書から言葉を学ぶので方言は身に付きにくいらしい