はてなキーワード: 文化系女子とは
「いわゆるサブカル系ロックバンドのファンに背が低い女の子が多い現象」といった記事を読んでも読まなくても、ほんわりと感じていたことなのだが、いわゆるキャスケット(wikipedia)をかぶって街を歩いている日本人の男女がどうもちんちくりんな外見の人が多いのは、なぜなのだろうか、という問題について考えてみたい。
太めで大きな体の男性がキャスケットをかぶっていたら、この帽子の丸いシルエットがうまくマッチして、なかなか愛嬌のある外見になるが、ほとんどそういう人はいない。キャスケットをかぶっている男性はほとんどがひょろっとした体型で、以下の属性に分けられる。
たくましいイケメンがキャスケットをかぶっている姿はまず見かけない。かぶっているのは大抵の場合、ひょろっとした体型で、顔の作りがあまり良くない男性である。そして、キャスケットに合わせようとしている服や靴のセンスはぱっとしない。
これは次のように説明できるのではないか。
もともとファッションセンスがあまり良くなく、外見にもあまり自信のない男性が、オシャレしてみようと考えると、なにか他の人と違っていて、オシャレっぽく見えるものとして、キャスケットという選択肢がある。が、体を鍛えておらず、猫背で、しかもトータルコーディネートの技術に長けてはいないため、キャスケットのみが目立つ。その結果、全体的に、貧相で、うさんくさく、むさくるしいというイメージが、意図せず演出されてしまう。
若くして禿げてきている男性が、減った頭髪を隠すために帽子をかぶるが、少しでもオシャレにしようとして、キャスケットをかぶっている。しかし1.と同様の理由で、トータルコーディネートがうまくできていないため、一種異様な印象を与える。
私自身の周りで、キャスケットをかぶっている女性は、男性よりもさらに顕著な外見的統一性がある。
彼女たちは総じて背が小さく、痩せていて、顔の造作は地味であり、また浅黒い肌の割合が高い。
上記の体型をした彼女たちがかぶるのは、男性よりも輪をかけてサイズの大きなキャスケットであり、低身長とコントラストをなして、ひときわ、ちんちくりんとしか言いようのない外観を呈する。
この現象は次のように説明することができるのではないか。
彼女たちには、男ウケのする、Viviやcancamに載っているような、ギャル系の服を着る選択肢は最初から与えられなかった。
次の選択肢は、リンネルやOZmagazineに出てくるような、ナチュラル系かつ文化系女子を目指すことだが、この路線でナチュラルビューティーを達成するには、相当なリサーチ力とファッションセンスを要する。
とはいえ、ジーンズに、中途半端なフリルがついた寸胴型のチュニックを着ているだけでは、喪女たちの中に埋没してしまう。
このようにしてキャスケットをかぶることになるが、そのことによって全体的なコーディネート力がアップしたり、顔の造作が変わったりするわけではない。もっとわかりやすく、オシャレ感を出そうとすると、キャスケットのサイズがどんどん大きくなる。
こうして、身体の大きさにキャスケットの大きさが反比例してゆく。
以上のことから、キャスケットをかぶるという行為は、男女ともに、もともとの外見やファッションセンスというリソースの不足を最大限に補おうとする努力の一端であることが伺える。しかし、彼(女)らはもともと、異性に見せるための服と割りきって自分の服を選んだり、髪型や体型を変えたりすることがあまり得意ではない。その結果、キャスケットをかぶるという行為は、一点豪華主義または局所最適化的な解答になっている。
別にその考えはそうだと思ってるけど?
過去フェミニズムが求めて来たことは実現しつつある、結果としてフェミニズムは『新しいネタ』を若い女性に提示できなくなってきてる。
そのため興味を失われつつある訳で。
うちの嫁さんは30代前半だけど、専業主婦志向かな、高学歴女性の専業主婦志向というやつでさ、
今のアラフォー見てて、ガツガツ働いて乾いた女性をみて「幸せなんだろうか」って思ってる。
ふわふわしてるタイプじゃない(高学歴文化系女子)が「ゆるさ」は求めてる。
私との関係性も良い状態に保とうと気にしてくれているよ?
可愛い女の子が大好きだ。見るのも話すのも遊ぶのもぜんぶ好きだ。
女の子と話していると心がフワーっと軽くなって明るい気持ちになれる。
でもフッと「こんなことしてちゃダメだよなぁ」って虚しい気持ちにもなる。
街で見かけた女の子みんなと仲良くなりたいなぁって思うし、
仲良くなれた子には、すぐ性的なことをしちゃおうとする。
それで怒られたりして、ガーッと落ち込んで、それをまた女の子で埋めようとしたり・・・。
男なんかと話したくない、とすら思っちゃうんだよね。
でも、女の子で埋めた穴はすぐ元に戻って、しかも前よりも深く広くなっている印象。
ある日、ぼくが行きつけのバーに足を踏み入れると、こんな会話がなされていた。
「わたしって○○が好きなんだよね」
「ああ、××ってやつですね」
「おー、わかっているじゃん!(握手を求める)」
バーのカウンターには5、6人の客がいたと思う。その店は小さくてカウンターしかなく、みんなで話題を共有するところだった。それにも関わらず、二人は二人だけに通じる言葉で盛り上がっていたのだ。
池下チエの元カレである田無タクミに、新しい彼女ができた。チエはその手助けをしてくれたため、タクミはお礼がしたいと食事に誘い、タクミの彼女とチエの彼氏の西尾みのるも含めて4人でご飯を食べることになる。
みのるとタクミは初対面。なおかつチエと肉体関係がある同士ということで微妙な間柄なのだが、会話をしていくうちにお互い百人一首が好きだということがわかってくる。そして、二人で相手が口にした上の句を聞いて、下の句が当てられるかというゲームをしだすのだ。
チエは百人一首がわからない。そのうえ、タクミの新しい彼女まで、このゲームに参加しだしてしまう。
一人取り残されたチエは……怒って部屋を出ていってしまうのだ。
『婚前特急』と冒頭のバーの会話に共通しているのは、「限られた人間で知識の確認をしあう」というのと、それによって「阻害」が生まれているということだ。
ぼくはこの手の会話は世界で一番醜いと思っているし、参加しないようにしている。なんの発展性もなく、周囲を排除するような排外的な会話になんか加わりたくない。
そうして、ぼくはバーで一言も口を開かず、朝までずっといた。
こうした会話はサブカル好きのあいだで頻繁に行われている。彼らの会話は本当に幼稚で、頭がくらくらしてくる。ずっと「知識の確認」に終始しているのだ。
A「○○って知ってる?」
B「知ってるよ」
A「すごい! ××は?」
B「知ってるよ」
A「すごい!」
そんな会話を横で聴きながら、ぼくはどうやったら世界が平和になるかについて考えていた。結論だけ言えば、サブカル好きを文化シーンから早急に退場させるしかない。
2010年に芥川賞を受賞した小説『苦役列車』はこんな話だった。
中卒で家を飛び出し、日雇いの肉体労働で生計を立てている貫多には、長らく同年代の友人がいなかった。稼いだお金もソープで使い潰すような毎日を送っていた貫多だったが、仕事現場に専門学校生の日下部が働きに来るようになる。二人は年齢が近いこともあり、現場終わりに飲みに行くような仲になっていくのである。
貫多にとっては久々にできた友人だったが、二人の関係は突然終わってしまう。日下部が貫多との飲みに女友達を連れてきたのが原因だ。
二人は貫多を置いてきぼりにし、二人だけで趣味の話題に盛り上がってしまう。
一人取り残された貫多は……怒って店を出ていってしまうのだ。
サブカルの醜さを浮き彫りにしたこの小説は、見事日本文学のトップの称号を得た。なんていったって石原慎太郎が認めたのだ。
サブカルとは要するに安易な優越感を売る「ファストフード」でしかない。
町山智浩や吉田豪、菊地成孔などをフォローし、発言を真似すれば、自分も「わかっている」側にいられると考える浅ましさ。実際は、自分で何の価値判断もせずに、彼らの美学にフリーライド(タダ乗り)しているに過ぎない。ファストフードを貪り食い、自分は「グルメ」なんだとドヤ顔をしている。結局は、他人の真似事でしかないのに。
たまに「大槻ケンヂが好き」と公言するアイドルが出てきたりして、何がメインなのかさっぱりわからない中途半端な雑誌で対談したりしている。そんな人間ははっきり言って「信用できない」。
なぜなら「オーケン」が取り上げられるのが、必ず「主流とはちょっとズレたものが好きな私」という文脈だからだ。
大槻ケンヂなんて、メジャー中のメジャーだ。「サブカル」でのなかで一番目立つものを手にとっておきながら、「一般的な女の子とはちょっと違ってマイナーな趣味嗜好を持つ私」というブランディングを展開している。
安易そのものじゃないか。本当に自分だけの美学を持っていて、それに合致するマイナーなものが好きなんだったら、大槻ケンヂなんか手に取るはずがない。ネットの片隅にしかないような、誰に言ってもわからないものを偏愛しているはずだ。
「大槻ケンヂ」に手を出す時点で、安易なエゴイズムが芽を出している。
雑誌『TokyoGraffiti』を開いてごらんよ。「消費」を、あたかも「経験値アップ」だと思っている連中が大集合している。彼らはサブカル文化人やサブカル雑誌が誉めそやしたものをコレクションすれば、自分の「レベル」(「ステージ」と言い換えてもいい)が上がっていくと思っている。
ドラゴンクエスト6には「かっこよさ」というパラメータがあったが、すぐに次作で消えている。堀井雄二はわかったんだ。「センス」だとか「オシャレさ」だとかいうのは、決して数値化できないし、競うことでもないってことを。
「美学」っていうのは外にあるものじゃない。自分の内側にしかないのだ。ぼくらはそれを孤独と向き合いながら、井戸を掘るようにして、少しずつ深めていくしかない。美学っていうのは他人の真似事で生まれるようなものじゃない。
他人の美学に安易に乗っかって、得意顔をするのは、結局のところ、滑稽でしかない。
じゃあ、この現状を打破するにはどうすればいいのだろうか?
彼らに間違いを気づかせ、正しい道(自分だけの美学を磨く旅)に向かわせるにはどうしたらいいだろう?
ぼくは『小説の読み方の教科書』(岩崎夏海)を読むことでしか解決できないと思っている。
この本は「本当の読書」とは何かを教えてくれる。ぼくらはあまりにも汚染されてしまった。誰よりも詳しくなきゃいけないだとか、センスが重要なんだとか、これを理解できるのは頭がいいからなんだろう、とか。
岩崎夏海はそんな現状を正しく認識し、解毒剤を処方してくれる。
誰かを仮想敵とするような読書はやめなさい、と。「本を読む」っていうのは孤独な作業であり、作者の「問い」と「自己」を真摯に向き合わせることなんだ、と。
これはすべての消費行為に言えることだと思う。「誰かに勝つための消費」をサブカルはしてしまっている。
そして、それはすべて他人の価値観に基づいているのだから、始末におえない。「あの人が褒めていたから、これを見れば周りに勝てる」って具合にね。
誰かの価値観に依存して、他者を阻害して、そうやって得意顔になっているエゴイストたち。
こんな人間が蔓延っているようでは、日本の文化は早晩終わってしまうだろう。そうなる前に、彼らの目を覚ましてあげなきゃいけない。ぼくはそのために生きるよ。
それぞれが、それぞれの美学を成長させ、それに乗っ取って生きていけば、ぼくは世界がもっと楽しくなるに違いないと、信じている。中沢健の美しさを、ぼくらは見習わなきゃいけない。
人類の歴史を紐解けばわかるように、自分だけの美学を磨いた人間だけが、世界を驚かし、未来に名を残すことができるんだ。
そう、紀里谷和明のようにね。
実態に全くそぐわない喪女像をネタに馬鹿にされてる、っていうのも腹立つけど、
逆に、喪女を自分たちと一方的に同一視し、更に幻想まで抱いて、喪女ならいけるんじゃね?って考える喪男が増えそうで嫌だなぁと思った。
文化系女子に対する一方的なイメージの固定化に反発が起きたのと同じ構図。あとオタ女に対する過剰な憧れとか。
受け付けない男に近づいてこられたときの女の拒絶反応は喪男ならわかってると思うけれど、それは喪女も当然持ってて、
これはお前喪女の癖に男に言い寄って貰って、えり好みできる立場か?っていう問題じゃない。
「喪女で妥協するわ」とか言ってる喪男がその「喪女」の中からモンスター級の不細工除外してるのと同様の判断。
しかも、そういう近づき方するのって脱喪のために喪女利用することしか考えてないってことだから、最悪の中の最悪。
ここまでするとものすごい勢いでサブカル男が集まって、勝手に物をプレゼントしてくれたりします
http://michaelsan.livedoor.biz/archives/51621646.html
1.ミソジニー
2.愛好しているとされる作品が古い
4.容姿批判
5.人格批判
6.学歴批判
7.出自批判
9.ブーメラン
12.無効
例えば五周。
サブカル女子が隣の男にサラダを分けてやった場合→『サブカル女子は男に媚びてて気持ち悪い』『サブカル女子の「周りに気が利く私」という自意識気持ち悪い』
サラダを分けなかった場合→『サブカル女子は周りに気が利かない』『サブカル女子の「男に媚びない私」という自意識気持ち悪い』
サラダを分けるかどうかにもはやサブカルは関係ない。この場合は主語が「女」ならただのミソジニーだが頭に○○系をつけて限定することでカモフラージュがなされている(メンヘル女子批判・腐女子批判も同じく)。これは欧米のレイシストによる詭弁の典型である「私は移民・黒人を差別しないが、移民・黒人が政府要職やスポーツの○国代表に居座るのは反対だ」
もう死語かもしれないがネット上のサブカル界隈で盛んに「文化系女子」が叫ばれていたことがあった。「自分よりも年下で知識が無く、でも実は賢くてそこそこ教養もあって自分を尊敬し話を聞いて従ってくれるけどたまにわがままだったりするおっぱいが大きくて美人の文化系女子」という妄想上の産物である(~マニアの俺が~初心者の彼女に薦める10の○○)。この妄想狂のサブカル男子達が現実のサブカル女子に落胆しサブカル女子批判に走っている場合もある。
(罵倒芸批判として読めないものが無いでもない。ネット上ではラウドマイノリティ・ネット市民運動家化しているサブカル女子も少数存在するし、その行動が過激すぎた時に取り締まるモヒカン・ネット警察として動くボンクラ男子も存在する)
昨夜は万人にとって楽しい集まりがあって、それは東京の大学に進学した上京組を集めての、ささやかな飲み会があった。
高校時代にぜんぜん話したことないやつと、まるで以前から親友だったかのように話したりする不思議な顔合わせである。
僕は目当ての顔を見つける。宙に浮かんばかりの嬉しさが襲う。だって、Yちゃんがそこにいるんだもの。
Yちゃん。僕が高1の秋からずっと思いを寄せ続けている女の子。
もちろん、恋心は現在進行形だし、布団に入ってさて寝ようってときに必ず彼女の顔が思い浮かぶ。
そんな彼女と僕の関係は、心のなかじゃ「Yちゃん、Yちゃん」言うくせに、実際に口に出すとなると名字にさん付けしてしまう、まあ、要するにただ3年間同じ空気を吸っていただけだ。
二人の関係性は変わらないが、僕の内面は変わった。女子への苦手意識がなくなったのだ。といっても「女友達」ができる程度の変化だけど。
だから、僕はすぐさま彼女の隣の席を確保するという積極性を出せたのさ。飲み会って厄介なもので、間に一人いただけでも、会話が困難になってしまう。
相変わらず可愛いなあ、Yちゃんは。制服着てなくてもすごく可愛いよ。今、この地球上にいる人間のなかでいちばん可愛いよ。そう、とにかく可愛いんだ。
Yちゃんは文学と美術が好きで、その辺の文化系女子と比べて、いつも一歩先を行っていた。ありていにいえば「センスがいい」ってやつ。
ファッションは地味だけど、その地味さがプラスに働き、身長の低さも相まって、奇跡的な可愛さを形成しているんだよ。
「私は恋愛に消極的です」みたいな雰囲気も出していて、僕が彼女を口説けるようになるまで待っててくれるんじゃないか、そんな空気を僕は感じとっていた。
今日の夜はその第一歩さ。僕はそう思っていたね。確信に近かった。
でもさ……僕が一歩階段を上ったら、センスのいい彼女は二歩も三歩も上っているに、決まってるじゃないか。
誰かが聞いた。誰が言ったかなんて覚えてないよ。僕は彼女しか見てなかったんだから。
「うん!」
満面の笑顔ってやつを、僕はその瞬間、初めて見たのかもしれない。とにかく顔の筋肉という筋肉が、嬉しさを表現しているんだ。まいったね、ほんと。
「おお、その反応は、ひょっとして彼氏とかできた?」
女が言った。たいしたことない女さ。たまたま仲良くなった男とセックスを繰り返して、妊娠させてしまった相手と結婚するような、そんなどこにでもいる空疎な女だよ。まあ、でも、30人中29人を幸せにするって考えたら、価値のある女なのかもしれない。
「わかる?」
彼女が答えた。
「え~、いつごろ付き合いだしたの?」
「夏ぐらいから……」
正直、この辺の会話は何も覚えちゃいない。だって、胸が痛かったんだ。目の前にいる彼女がまるで映画のスクリーンを見ているかのように、別世界の人間に思えてくる。彼氏がいるだって? 半年も付き合っている? 嘘だ嘘だ嘘だ。
もちろん、嘘じゃなかった。彼女の笑顔を見ればわかる。僕の意識はどんどん遠のいていって、ただ相槌を打つだけの生きものになっていく。彼女が彼氏の話をすればするほど、僕のチンコは柔らかくなっていった。
結局、彼女とは連絡先を交換しなかったし、まともな対話すらしなかった。だってできるかい? 処女喪失したての女の子と、楽しくおしゃべりだなんて。
家に帰り、布団に入ると、いつものように彼女の姿が頭に浮かんだ。一つだけ違ったのは、僕が勃起をしなかったってこと。がまん汁の代わりに涙が溢れだしてくる。それはフィニッシュを迎えることなく、ただただ流れ続けた。
ねえ、僕はどうしたらいいんだろう?
確かにあなたの言うことは間違っていない。
なぜなら体育会系男子は文化系女子のことを意識するが、文化系男子はそれ以外の人間全てに興味をもつ。
女性には性的対象として、体育会系男子にはコンプレックスのまなこを向けるのである。
彼らは思想信条行動様式すべてが体育会系のそれであり、体育会系との接点も多い。体育会系男子は明るく活発な吹奏楽部女子を手篭めにしたいし、吹奏楽部女子もかっこいい体育会系男子のために頑張って応援するのでWIN WINの関係にある。もちろん、吹奏楽部男子は罵倒の対象のままだが。
ちょっとオタクよりのものからオシャレなものも、クラシカルなものも好きです。
大学では芸術を学ぶことにし、無事そういう学科にはいることができました。(美大じゃないよ)
サークルは映研にはいり、趣味を共有できる仲間たちと、毎日楽しい日々をすごしています!
と、思う。そんな私だと思う。間違いじゃない。
でも、中学のころからいつも心にひっかかってることがある。
「私は、芸術が好きなんじゃなくて、
“芸術が好きな私”が好きなだけなんじゃないだろうか?」
大学に入って学科やサークルの人たちと喋るうち、その思いは強まった。
みんなが私よりもっと単純に、もっと純粋に、芸術を愛しているように見える。
いや、皆結局自分が好きだけど、気づいていないだけ?心のそこから自分に酔えてるの?
考えてもわからない。
部活にも入っていなかった。入れば良かったと6年間後悔し続けた。
友達も少なかった。クラスの打ち上げに、ほんとは行きたかった。
親友とよべる友達がいた。でもその子に感じるのは劣等感ばかりだった。
私には逃避の場所や、アイデンティティを確率するためのなにかが要ったのだと思う。
いつも何かしらにコンプレックスを抱いている私だったから、
そんな私を私自身が知っていたから、
そしてそれを私が知っていたから、
私はいつも、芸術をただのオナニーの道具に使ってる自分に気づいてしまう。
「私、こんなの知っててすごいでしょ?」な、中二な、人たちが大嫌いなのに、
結局、そんな人たちと変わらない自分がもっともっと大嫌い。
(このへんでややこしいのは、
私は「人よりいろいろ知ってる自分」を演出するために芸術を使ったけれど、
その知識は、ネット上にいるような本当に知っているひとたちと比べれば浅い浅いものであることも知っていた。
ので、自分に浸りきるということすら完全にはできなかった。)
そんな自分を変えたいから、
もっと本気で芸術を愛したいから、もっと本気で芸術を知りたいから、
それが「日常」になってしまえば、逃避の場所にはならないだろうと思ったから。
そんなことを考えながら大学に入り、
私は「りあ充」になってしまった。
(私にとってそれは、充実しているひと、というよりは、当たり前のことをできるひとたち、という意味を含んでいた)
というより、無理にでもなった。中高時代を取り返すように。大学デビュー!
私はまっとうな大学生として、まっとうな大学生活を送っている。
模範的な、という意味ではなくて、ちょっとした堕落を含めて、典型的な。
毎日、ちょっと退屈で、ちょっと楽しい。
つまり、心のよりどころが、
あんまり必要じゃなくなってしまったのだ。
そうすると、また、やっぱり私は気づいてしまう。
私は、なんでも好きで、なんにも嫌いじゃない。
そして、なんにも好きじゃなくて、なんだって嫌いだ。
私は映画も絵画も音楽も文学も漫画も演劇も建築も、西洋問わず好き。
私は自分の知識の浅さを理由に、「嫌い」とか「面白くない」と言うことができない。
私は特に好きな監督、俳優、劇団、画家、音楽家、アーティストというのがない。
私は、何かに執着している人(たち)の臭いが嫌いでたまらない。
なにかをちょっと好きになろうとして、だけど「そのもの」の良し悪しより、
「それを好きなひとたち」の臭気にやられて(ネット上だと特にね)、私は「そのもの」自体が嫌になってしまう。
でもその知識を放棄することを私はしない。
そしてその人たちに笑顔を絶やさない。
私は常に、芸術それ自体をみることをしなかった。
私や、誰かの付属品としてしか、見れなかった。
大学に入って、本気でそれと向き合うことが怖い。
また、すぐ嫌いになってしまいそうで、でも好きになりたくて、
でもそう思うとやっぱり好きになりたい、なんて、
もう、無限ループ。
いつまでたっても出られない。
なぜ昔から考えてきたことにいまさら頭を悩ましているかというと、
こんな私にも好きなひとができてしまった、らしい、から。
その人は芸術をとても深く愛していて、
私が知っているなかで一番の、私なんか及ばないくらいの知識と見解を持っている。
私が周りと比べてちょっと多めの知識を持っている事で、私をちょっと気に入ってくれている、らしい。
その人に見合うような私になりたいな、と最近思い立った。
私は、また、芸術を好きになる「言い訳」を見つけてしまったらしいのだ。
こんなんじゃ、だめだと思う。虚しく、つまらない気分になる。
それに、そんな私が見破ってしまって、嫌われてしまうんじゃないかと思う。
ああ、どうしたらいいんだろう。
騙し騙し生きて行く、それでも良いって、
「そんな私」ごと愛してしまうって、そういう選択肢もありなのかもしれないけれど、
でも、本気で芸術を愛したら、きっと楽しいだろうと思う。幸せだろうと思う。
そういう自分になって始めて、自分を心から愛せるんじゃないかと、期待してしまう。
これは答えを出す問題ではないのでしょうか?
この矛盾を抱え込んで、これと共に生きてゆくべき問題なのでしょうか?
私はいま、答えが欲しい。不安なのかなあ。
日本語でおkな文章でごめんなさい。
運が良ければ、ここにいる賢そうな文章を書くひとたちが何かしらこたえてくれると聞きました。
パソコンばっかりやって、経験のないことを経験したような気分になって、
知識ばっかりで頭でっかちになってる現代っ子スイーツ文化系女子(笑)な私に、誰か答えをください。
(笑)をつけないと自分を提示できないっていうのも、悲しいよね。
もう4時すぎかあ。まだレポート終わってないのになあ。