漢だけの街
単行本『増補新版 ことばのバリアフリー 情報保障とコミュニケーションの障害学』に収録。加筆あり。 このページの電子書籍版(ePubファイル) このページの印刷版(PDFファイル) 公開シンポジウム「〈やさしい日本語〉と関連領域」 一橋大学(2019年2月8日) 「ことばのバリアフリーと〈やさしい日本語〉」 あべ・やすし 愛知県立大学非常勤講師 日本自立生活センター常勤介助者 http://hituzinosanpo.sakura.ne.jp ふりがなを つける ふりがなを とる 1. はじめに―全体像と位置づけ わたしはこれまで何度か「やさしい日本語」について文章をかいてきました(あべ2013a、2018a、近刊)。今回は、日本の社会環境に注目し、ことばのバリアがどのような問題をうみだしているのかを考えたいと思います。 ことばのバリアフリーのためには、やさしい日本語が必要です。それは、「人
【追記】 こんなに反応あるとは思ってなかった!ありがとう! 気になるコメントを返信したよ。 https://anond.hatelabo.jp/20240622221530 【追記終わり】 ~~~~~~~~~~~~ 暇つぶしでネットサーフィンをしていたら「国際結婚に憧れある!」「国際結婚したい!」「ハーフのかわいい子が欲しい!」といった掲示板や投稿を見かけた。 私の母は中国人だ。私は国際結婚した両親の子供である。ハーフである。投稿を見て「そういえば自分と同じハーフの子供たちの悩みを見てみたいな」と検索してみると「ハーフで良かったことはと聞かれるけど、悪い事しかない」との記事がある。俺もそう思う。国際結婚ってそんなに羨ましいか?ハーフってそんないいか? 記事が少ないので、自分語りでもネットに置いておこうと思った次第だ。同じくハーフの人が「そうそうw」と思い、私はこれが辛かったなと吐いてくれる
まず、土と水の混合物という意味での「泥」(以下「ドロ」と書く)ではない、生きものとしての「泥」(以下「デイ」と書く)については、中国唐代の沈如筠が書いた『異物志』という書物で紹介されているという。 泥为虫名。无骨,在水则活,失水则醉,如一堆泥。 泥は虫の名である。骨がなく、水に在ればすなわち活き、水を失えばすなわち酔う、一堆の泥のごとし。 南宋代の『能改斎漫録』、明代の『夜航船』などにも同様の記述が引き継がれている。なぜ「水を失えば酔う」のかといえば、言い伝えによると「デイ」は身体から酒を分泌しているので、周囲に水が無くなると自分の酒で酔って、ドロのようになって死んでしまうかららしい(が、この言い伝えのソースも不明なので信用できるかどうか)。おそらくナマコかクラゲのようなものを指しているのではないかと思われる。 「酔如泥(泥の如く酔う)」という表現の初出は『後漢書』の周沢伝だ……という説が
言語差別を議論しよう わたしは日本の識字問題について研究している。識字問題を個々人への教育で解決するのではなく、社会環境をバリアフリーにしていくことで解決したいと考えている。そのような理念をわたしは「ことばのバリアフリー」や「言語権」という用語をつかって議論している。 社会言語学という研究分野では言語権の議論が活発である。そしてその理念はある程度社会的にも共有されているように感じられる。日本語が(あまり)わからないひとに多言語情報を提供すること、言語継承を支援することが重要だと認識されつつある。しかし一方で、言語権の侵害をうみだす「言語差別」を問題化する議論は主流になっていない。つまり、言語権の理念は多くの場合、多言語支援や母語教育支援のように「マイノリティ支援」という位置づけで理解されている。言語の不平等、規範主義、書きことばのハードルなど、支配的な価値観をゆさぶること、多数派の特権を問
はじめに 「方言禁止記者会見」のCMを見たのは定食屋のテレビで、知り合いと「イヤイヤこの企画はマズいだろうよ」という話をしていた。翌日になって果たしてどんな番組なのかを判断するためにTVerで視聴すると、案の定マズい内容であった(なにがマズいかは後述)。しかしTwitterなどで調べても誰も言及していないどころか、「沖縄弁が出ちゃう二階堂ふみ可愛い」といった意見がちらほら見えたため、引用RTという形で「植民地主義的でエグい」と投稿すると、思ったより拡散されて番組が炎上したというのが今回の経緯である。 私はこの番組自体をキャンセルしたいわけではないし、ポリコレ的配慮がなっていないと言いたいわけでもない(植民地主義とは「ポリコレ」以前の問題なので)。また番組の批判者を見ていても少し疑問に思うところもある。そういった疑問や懸念について、本稿では現在の「普通の日本人」による沖縄差別あるいは植民地主
このページの電子書籍版(ePubファイル) このページの印刷版(PDFファイル) ヒューライツ大阪 第12回 じんけんカタリバ(2023年9月25日) 「ことばと差別―たとえばカタカナの使い方について」 あべ・やすし(日本自立生活センター自立支援事業所常勤介助者) ふりがなを つける ふりがなを とる 1. はじめに ことばと差別については、豊富な議論があり、テーマがある。そのなかでも今回はカタカナのつかいかたについて議論してみたい。何気ないことばの風景にたちどまってみよう。 2. 「ことばのかたち」について まず、ことばについて体系的に整理してみる。 世界の言語には ・音声言語 ・手話言語 の2種類がある(きくさわ/よしおか編2023、あべ近刊)。日本語は音声言語のひとつである。音声言語には文字のある言語もあれば、文字のない言語もある。 日本語の文字体系には ・墨字=すみじ(視覚にうった
「ウサギ年」ではなく「卯(う)年」と呼ぶのが適切としたツイートに、国語辞典編者の飯間浩明さんが否定的な反応をしました。至らぬ点を反省しつつ、書き言葉では卯年の方がよいと判断するわけを説明します。 1月4日の毎日新聞校閲センター運営のツイッターで〈2023年は「卯(う)年」。ウサギは卯年に割り当てられた動物ですが、暦としては「ウサギ年」ではなく「卯年」と呼ぶのが適切でしょう〉と記しました。 これに対し、国語辞典編者の飯間浩明さんから以下のツイートがありました。 〈暦としては「ウサギ年」ではなく「卯年」と呼ぶのが適切〉とのことですが、これはやはり報道の内規レベルのものと思います。現に「うさぎ年」でニュースを検索すると普通に出てくるし、会話では「うどし」より「うさぎどし」が伝わりやすい。二者択一という印象を与えるのは好ましくないでしょう。 https://t.co/NIasE6VAoA pic.
御総様(ぐすーよー。皆様) 2016年の琉球新報に、首里言葉に一家言を持つ、今は亡き宮里朝光氏(大正13年生まれ)の「『おじい』、『おばあ』は下品な日本語。今日限り、使わないで~」という刺激的な発言を記事にしたものが掲載されていました。 それが下記です。 実は私も大賛成です。 「おじい」「おばあ」は、うちなーぐちではありません。 本来は「たんめー(おじいさん)」「ぅんめー(おばあさん)」といいます。 その前に少しこの記事の補足をします。 「なぜ『首里城正殿』と言うのですか。『百浦添御殿(ももうらそえうどぅん)』という素晴らしい固有名詞があるのに」 と記事にあるように宮里氏はご立腹の様子ですが、そうです。 宮里氏のいうように琉球王国時代の文化財のほとんどは日本語読みとなっており、それが当たり前のこととして教科書や公的機関でも記されています。これは私も本当に異議を申し立てたい。 例えば、「首里
どうやら殆どの場合は楢と訳すのが適切で、樫は誤訳になると。 ちなみにオークはブナ科コナラ属の木の総称で、日本で言うところの楢と樫の両方を包含する。 そんでオークのうち、一般的に落葉樹が楢で常緑樹が樫と呼ばれる。 なおヨーロッパで樫が生えているのは南欧に限られ、イギリス含む中欧・北欧は楢ばっかり生えていると。 これが最初に書いた、オークを樫と訳すのが基本不適切な理由らしい。 実際英語でオークのうち樫だけを指すときは"live oak"と言うみたいだし。 ではなぜこのような誤訳が起きたかと言えば、ヨーロッパにおけるオークの価値が、明治に和訳された時分に、翻訳者含め日本で十二分に理解されていなかったからと推測される。 というのも日本では古来、杉とか檜とかの針葉樹に高い価値があって、広葉樹は欅とか桐みたいな例外を除いて、近年まで雑木扱いだったイメージ。 これは従来日本における木材の用途が主に「建築
中国語の“改恶”(gǎiè) は日本語の「改悪」と異なり、普通は良い方向になることを示す。もし「悪い方向に改める」ことを中国語で表現したければ、“改坏” (gǎihuài) を使えばよい。 “改恶”は日本語の「改悪」と方向が違う 中国語に “改恶” (gǎiè) という単語がある。繁体字で書けば、“改惡”だ。これは字面こそ同じものの、一般には日本語の「改悪」と意味が違うので注意が必要だ。 日本語では「改悪」は普通は「悪い方向に改める」という意味になる。しかし、中国語の“改恶” (gǎiè) は普通はそうはならない。「悪(あ)しきを改める」ということで、結局の所「良い方向に改める」という意味になる [1] 。 例えば、1959年の中華人民共和国主席特赦令 [2] では、以下のように“改恶”という言葉が用いられている。ここでは犯罪人が共産党による改造を経て、過去の悪事を改めて善い道に進んだとい
この記事は「言語学な人々 Advent Calender 2021」の13日目の記事として書かれました。アドベントも中程まで来て、シュトーレンがだんだんと小さくなっています。 聖書の敬語キリストの誕生日が12月25日であるとは実は聖書には書いてないのですが、キリストの降誕を記念するクリスマスなので、聖書を読んでみたくなります。最新の翻訳である「聖書協会共同訳」で、「マタイによる福音書」を読んでみましょう。「共同訳」といういうのは、カソリックもプロテスタントも一緒に翻訳に参画しているという意味です。 イエスがヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、東方の博士たちがエルサレムにやって来て言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。 マタイによる福音書・2章・
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