はてなキーワード: 一般常識とは
それは入れるだろうなっていうのと、えー選外にすら入ってないのもあるじゃんっていうのもいくつか。
リメイク含めると、かなりの数あるシリーズ作品だから仕方ないんだが、まあ俺も別案を出しておく。
基本的に、先人増田に則る。話のテーマ上、やはり初期作に偏る。
初の戦えるマイユニットであり、そして露骨なまでに優遇されている。
トラキアでも敵ユニットとして存在感を放ってはいたが、晴れて味方ユニットとして使えるようになった。
そしてトラキアの時よりも存在感を放ち続け、本作のバランス調整に禍根を残すことになる。
ロードというユニットの象徴的存在。説明は元増田とほぼ被るので省略。
元増田はジェイガン枠としてゼトを挙げていたが、だったらジェイガン本人を入れなきゃ。
序盤から加入しており、最初の内は雑魚もボスも一人で蹴散らせるほどの強さがある。
しかし、レベルアップしてもほぼ成長しないため「序盤は頼れても、頼りっきりでは未来がないよ」ってのを身を持ってプレイヤーに分からせる。
個人的には「それでも頼らなきゃいけないユニット」をやりくりしているときが一番FEを感じる。
ファイアーエムブレムのテーマに歌詞がついたとき「強い男に入れ込みすぎて周りの戦士はへなちょこばかり」って部分がある。
その象徴がオグマで、以降の作品でもこれに相当するユニットは必ずといっていいほど出てくる。
実はオグマって圧倒的な強さはもってなくて、成長がヘタれたりすると最後まで頼りになるユニットとはいえなかったりする。
そういう意味でも「いくら最初から最後まで使うつもりでも、色んなユニットを使ったほうがいい」というのを分からせてくれる。
仲間になる敵ユニットの象徴的存在。基本的な説明は元増田とほぼ被るので省略。
仲間になる敵ユニットという点ではナバールと同じなんだが、こいつ独自のアイデンティティとして「バカ兄貴」という属性がある。
「「レナ…おまえは今どこにいるんだ」というセリフとともに妹のレナに攻撃してくるのだ。
そして以降の作品でも身内に攻撃してくるユニットはちょくちょく登場し、FEに一般常識なんて通用しないことをプレイヤーに教えてくれる。
アーマーナイトというクラスの、ひいては重騎士クラスの象徴的存在。
元祖としてはドーガがいるが、アーダンを挙げるのは作中で「固い、強い、おそい!」と称されたのが理由として大きい。
いかつい見た目と、ユニットとしての使い勝手の悪さも含めて、最もプレイヤーの記憶に残った重騎士だろう。
作中で「大陸一の弓騎士」と称されながら、実際はそこまで強くない看板倒れユニット。
上級職で加入するユニットは基本的に下級職から育てたユニットより弱いことが多く、それは大層な看板を持っていても覆らない。
「若者だろうが大層な設定があろうが、中盤加入の上級職ユニットをアテにしてはいけない」という点においても重要なユニット。
ジョルジュの説明で「中盤加入の上級職ユニットをアテにしてはいけない」と書いたが、そのセオリーを破壊した存在。
以前のシリーズでも強い上級職加入ユニットはそれなりにいたが、友軍時でのあばれっぷりからくるインパクト、実際に仲間になったときの使い勝手の良さからピックアップ。
マムクートというクラスの象徴的存在であり、以降マムクートというキャラの方向性を決定づけた。
あと、なにより「使える武器の強さだけでほとんどカバーしてるユニット」という点でも印象的。
ロードでありながら、これまでとは異なるキャラ付けをし、それがちゃんとウケ、以降の作品でも主人公の方向性に影響を与えたという功績は大きい。
踊り子枠は抜きんでてコイツが印象的ってのはいないんだが、自分が強いて挙げるならレイリア。
聖戦は親世代でカップルを作らなかったり死んだりした場合、子世代では代替ユニットが出てくる。
代替ユニットはステータスが低いしスキルも微妙なことが多いんだが、レイリアだけは妙に優遇されてるのが印象的。
レイリア以外だと、トラキアのラーラはシーフとしても立ち回れるのが独特。
封印はソードマスターが特に強かった作品で、その象徴的ユニット。
最後だけ加入してくれる終盤お助けユニット元祖で、以降の作品でも相当するユニットがでてくる。
既に完成された能力で加入し、頑張って育てたユニットをあざ笑うような強さであることも多く、それが癪で使いたがらないプレイヤーも一定数いる。
終盤なのに下級職で加入し、その代わり成長率が高いという、いわゆる遅れてきたエース枠。
この枠の元祖はエストだと思うが元増田が挙げていたので、それ以外で記憶に残っているのはニノかな。
ストーリー上でも攻略上でも環境に恵まれてなくて、育ち切ったころには活躍できる場がほぼ残っていなかったりと、どうにもポテンシャルを活かしきれないことが多い。
しかも烈火は有能な魔導士が多いのでニノを育てるのは趣味の領域になりやすく「強いユニットが、使えるユニットであるとは限らない」というのを実感させられる。
仲間にするのが大変なユニットとして名前が挙がるであろうユニット。
こいつ以上に難しいユニットは今後でてこないだろうし、でてきてはいけない。
FEには二者択一の、片方しか仲間にできないユニットがいるんだが、その中でも優遇されているのがオルエン。
ストーリー上の見せ場があるって意味でも、強さ的にもほぼオルエン一択。
ドラゴンナイトで一人挙げるなら、やはり元祖のキャラになるか。
「縁のある人物が敵ユニットとして出てくる」っていう共通設定も、このころからある。
看板倒れキャラといえば、こちらを挙げる人も多そうだが、ジュルジュを挙げたのでこちらは選外。
「友軍時の行動が困ったやつ」として挙げるなら、難易度ハード時のこいつが印象的。
蒼炎でも登場するが、味方ユニットとして使えるのは暁の時。
あくまでゲスト参戦ではあるものの「まさか味方ユニットとして使えるのか!?」ってインパクトが最もあったのは、この人だと思う。
他だと紋章のシリウスとか、封印のトライアルマップでのみ使えるユニットとかもいるけど、一人だけ挙げるなら漆黒の騎士かなあ。
「お前らみたいなろくでもないような奴らを雇ってくれる会社なんか無いと思え!」
大学の就職セミナーで就職課の担当者が放ったこの一言が俺の耳に今もこびりついている。
当時いわゆるFラン大学にいたわけで、ぼんくらであることは流石に否定しようもないが「俺らみたいな奴らは雇ってくれるだけありがたいと思わねばならない」という時代だったことがこの一言に如実に現れている。
氷河期の時代、新卒で就職するには凄まじい数の会社に挑まねばならず、失敗すれば新卒カードは使えなくなり永遠に雇用への道が閉ざされる、という時代でもあった。
そんな氷河期世代のひとつ上はどんな世代だったのか、というといわゆるバブル世代だ。バブル末期の世代と言ってもいいが、まだバブルの頃の感覚が色濃く残された人たちが我々のすぐ上にいた。
ようは景気のいい日本というのが認識の中にあり、就職なんて言うのは対して苦労せずに終わるものだと甘い考えもあった。事実バブル世代の就職活動なんて言うのはひどいもので、大学生をごっそりとハワイに連れて行って好き放題遊ばせたら雇用契約書を渡すなんて言う事までやっていたくらいに金が余って仕方がない時代だった。
そのため、この頃の人たちは就職活動の話をしても全く話が合わない。
「仕事?選ばなきゃ何でもあるじゃん!ゴミ拾いだって立派な仕事だよ!」と何回か言われたことがあるが、彼らにとってのゴミ拾いの仕事はそれでも生活が成立する仕事だということでもあるだろう(実際はどうか知らんけど)
IT革命だ。
1995年にWindows95が発売され、人々がパソコンを持つようになった時代だが、氷河期世代にとってのパソコンというのは、「オタクが持っているなんだかよくわからない機械」くらいの認識だった。
氷河期世代についていろいろといいたい人もいるだろうが、ある意味でわかりやすい時代だったと言ってもいいだろう。
要は来るIT時代にベットしておけばよかったということでもある。就職活動だけを見るならば、だが。
IT業界もこの頃に一気に火を吹いたのだが、火を吹いた業界というのは実は入るのはかんたんで、趣味でプログラム書いてましたはウェルカム、趣味でパソコンの自作してましたはウェルカム、パソコンなんか触ったことはないけどやる気なら負けません、これもウェルカムだった。
就職活動をする上で自己分析だとか一般常識だとかを必死で頭に入れていっても結局ITという爆風の前には吹き飛ばされざるを得なかった。
極端な話をするならば、時代の流れに乗ったか乗らなかったか、というものでしかなかった。
こういうことを言うと後でならどうとでも言えるとか、乗れなかった人のことを考えるべきとかいうやつらが出てきそうだが、大学にいる間から「ITやっときゃとりあえず間違いない」ということは必死で伝え、ITのバイトを紹介したりもしていたのだが、結局私を信じる人はいなかった。
ではなぜそこまで人々が乗らなかったのか、という話だが、まず、パソコンはオタクの持ち物でダサい、キモい、というような風潮はあったのかもしれない。iMacを買う人は結構いた。ボンダイブルーが良かったらしい。
次に、我々の直上の世代というのはパソコンなんかいらねーよっていう世代でもあった。ワープロはよく使っていたが、パソコンを使うなんて言うのは一部の物好きでしか無いし、パソコンが必要になる時代なんか来ないと固く信じていた、要は自分たちがこれまで通ってきた道は今後も続くと信じて疑わない人たちでもあったのだが、そういう人たちが、後輩にも「パソコン使うとか意味わかんねえわ、ホントどうかしてるよな」ということを堂々とのたまっていたので、氷河期世代は時流にのるか乗らないかを周囲に足を引っ張られながら決めなくてはならなかった。
まぁ、ブラック企業の話もあるので、乗ったから幸せかというとそうでもないのだが、乗っとけばとりあえず就職はできたんじゃないだろうか、とは思う。
飽きたので終わる。
ドカ食いをテーマとした漫画が、明らかに摂食障害を疑う描写が多いと話題になっていたので試しに読んでみると、確かに病的で、美味しい食べ方をしているとは言いがたいものがある。
一般常識で言うならば、医療処置を受けるレベルの場面ばかりが連続している。
あの漫画を笑うことができないと言っている読者は、非常に正しく作品を読み解いていると素直に思った。
しかしその一方、あの食べ方をエンタメとして笑い続ける層も一定の厚みがあり、果たして作者はどこを向いて、何を考えて描いているのか分からない。
少なくとも、描写と伝えたい本質のバランスが取れておらず、摂食障害のリスクを訴えたいのかどうかすら、怪しいの一言に尽きる。
もし、作者がこの作品を通して摂食障害の恐ろしさと警鐘を伝えたいと意図しているなら、是非とも10話までに主人公を急患に仕立てて病院へ担ぎこみ、そのまま打つ手なしで息を引き取らせれば、後々の世に語り継がれる第一級の社会派作品となるだろう。
そうでない限りは、グズでトンマの物知らずが妄想で、深刻な現代病を面白おかしく描いただけの偽善漫画としか言えないので、作者が米粒程度に持っている賢明な想像力に期待したい。
否、期待するではなく、描け。ここまで話を引っ張ったのだから、病院行きにして主人公をあの世へ送れ。
差別について議論するなら、以下のような内容は「文系」的には常識なので、わざわざ「賢い僕が発見したよ!」みたいに主張されると萎える。
・そもそも人間の思考(言語の構造)自体が、何かと何かを分けてグルーピングすることによってしか成立しないので、あらゆる区別を差別と呼ぶなら、極論すれば(たとえばニワトリをニワトリ、女性を女性と呼ぶことまで含めて)全ては「差別」であり、それが不当であるか否かは「程度問題」である。
・従って、通常は「世間的に見て『不当』と判断するもの」を「差別」と呼ぶことになっており、そのため一般的な用語としての「差別」という語には、「不当なものである」という含意がある。(従って自民党の付け加えは無意味であり、逆に余計な含意をもってしまうので有害ですらある。)
・図示するとこんな感じ。( /数字/ は その語の使い分けにおける境界線を指す。たとえば⑴は「A混沌(と呼ばれるもの)」と「B区別(と呼ばれるもの)」の間の境界線を意味している。)
ただし、何者も区別しない「A混沌」については、何も思考することができない、言語以前の領域なので、思考し論じる対象にならない。
通常ここに明確な境界線があると考えている人が多いがそれは誤解である。確かに、「時代や文化が変わっても、明白(に見える根拠)があり、人為が働かない(ように見える)弁別がある」違いというものはあるため、たとえば液体と固体、水と氷を分けることは明白に「B区別」であり人為が関与しないかに見えるのも事実だが、たとえば水と湯を分ける境界線が日本語と英語で異なり、色の弁別が言語によって曖昧であるように、「認識」が関与する限りそこに見いだされた「差」は人為的なものであり、人の「価値観(すなわち偏見)」から自由になることはない。その意味で「B区別」と「Cグレー」の差も所詮「程度問題」である。スポーツにおける男女分け、のように、かつては「B区別」と考えられていたものが、ジェンダー論の発展や女性の地位向上など諸々の状況から、「本当に合理的な区別であるか」が問い直されている、などの例は、「B区別」から「Cグレー」ではないかという議論が起きている例であり、逆に、近代以前は大人と一緒くたにされていた「子ども」を取り出して教育の機会を与え、社会で保護しようという風に変化したのは、「Cグレー」から「B区別」へと変化した例である。
ここを明確に区分できるというのは、いわゆる「ためにする」差別議論を行う人の大きな誤解である。この境界線は決して「明確に区分・定義」はできず日々揺らいでおり、またその状態がもっとも健全な状態である。あくまで、どこで線引きをすることが社会の安定と発展のために寄与するのか、を主眼として、「D差別(明らかに行ってはならない区分け)」なのか「Cグレー(判断がつきにくい、不当に見えるが法的な規制も行き届かない)」の判断は、常に慎重に検討される必要がある。その際、社会が全体主義的(全体の幸福のために少数の犠牲は許容される)なのか民主主義的(少数の意見も他の意見と同等に重視される)なのか、によっても当然判断は異なることになる。また、Cと判断されたからオッケーではない、というのも重要な点であって、その判断が妥当かどうか、いま必要で重要な問題かどうか、判断時点からの状況変化、対象が曖昧でないかどうか、など、不断の議論が欠かせない。
さて、それを踏まえて話を牛角に戻そう。
サービス業における女性優遇キャンペーンの是非、いわゆる「レディスデー」問題は、男女という一見明確な「B区別」に依拠しているように見えても、その区分の合理性自体が「程度問題」に過ぎないこと、また、「女性の受けるサービス料金は男性が負担させられているのでは」という疑念が拭えないことなどから、「Cグレー」であると判断されるが、ではそれを「D差別(明確に是正すべき不当な行為)」と判断すべきか否かについては、行き過ぎと感じる人も多いのが現状かと思う。そのことは、牛角に限らず、多くの「レディスデー」キャンペーンを実施する店舗で、逆に男性から忌避されるなどの大きな営業上の不利益が出ていないことからも了解される。そもそも、映画にせよ焼き肉にせよ、提供者も多いことから、忌避するにしても他の選択肢があるわけで、ぶっちゃけ「大多数の人にとってはどうでもいい」問題に属する。では、なぜ「差別だ」と騒ぐ人がいるのか。
話が変わるように感じるかもしれないが、類似の例として、一部の広告を取り上げて「女性差別だ」と騒ぐ事例を考えたい。企業が営利目的でやっていることで、それ自体が積極的な被害を引き起こし法的に規制する必要があるとまでは多くの人が認識しない(つまりDではないがC)ものだが、これについても「差別だ」と騒ぐ人がいる。これは、何も学問的に見て明確にCとDを峻別してDだと判断できる、という話をしているわけではなく(もしそう信じている人がいるとしたら、それは相当に×××)、騒ぐことそれ自体によって人々の気分を醸成し、結果として社会状況自体を変化させようという社会運動(一種のデモ、まさにデモンストレーションという意味で。)の一種なのだ。誤解されているが、今日フェミニズムと呼ばれているものの多くはこの「デモ」であって「学問」ではない。(※)だから、騒ぐ人たちはおおむね一般常識とは異なることを主張する(常識的なことをデモで声高に述べる意味はない)が、その人たちが声高に述べることが「正しい」と証明されているわけではないし、その人たちも積極的にそれが「正しい」ことを証明したりはしない(証明できるならデモより論文で書く)。騒ぎになることこそ、デモの狙いなのだ。つまり、これに顔を真っ赤にして反論しようとするのは無意味というよりむしろデモ側の応援をしているのと同じである。従って、意見に賛成できない場合も、デモ自体はスルーして別のところで意見表明なり社会行動をするなりした方がよいと思う。
これを踏まえて、もう少し具体的に書く。「たわわ」や「宇崎ちゃん」を批判したフェミニストの狙いは激しい批判を巻き起こすことであり、それは社会運動として一定成功した。では「牛角」批判をする人は、男権主義者として失われた権利を獲得するため戦略的な意図でデモを行っているのだろうか、それとも、論理的に「レデイスデーはDであると証明できる」と考えて証明しようとしている人なのか、あるいは単に「この件で女性相手に憂さ晴らししたい」というルサンチマンに過ぎないのか。私は、そのいずれであってもこれは無意味な行動だと言いたい。
「たわわ」も「宇崎ちゃん」も、それらが女性差別「的」かと言えばそう論じることはもちろん可能だろうが、それを「D差別だ」などと言い切れば社会的には表現規制を強め過ぎる無意味・有害な主張であると思うし、それ以前に指摘し是正すべき有害で明確に「D差別」な女性差別が世の中にあふれているのだから(風俗業、芸能界などにおける性的搾取などはその典型だ)運動論としても拙劣だと思っているが、それらが激しい反応を引き起こしたという一点では運動論として評価することも可能かと思うし、その結果が女性の地位向上にわずかでもつながったのなら全く無意味とまでは言えないと思うが、「牛角・レディスデー」問題については、まず男権主義をこれ以上社会で伸張させることにはおそらく社会的合意は得られないだろうし、論理的証明は上で述べたようにほぼ不可能であり無意味でもあるし、ルサンチマンならそのエネルギーはもう少し建設的なことに使用した方がよいと思っているので、運動論としても学問的な意味でも、また俗論としても、とるべきところのない議論だなあと思っている。
仮に、真剣にいわゆる「弱者男性」問題を憂えているのなら、男権主義の伸張という方向でそれが解決されることはもう無い(過去一時的にあった「男というだけで威張ってるオッサン」があふれる社会に戻したい、などという主張は、当の男性からのものも含めて今後社会的合意を得ることはできないだろう。可能になるとすれば、そういう一派を集めてたとえばイスラム教勢力と結託し革命を起こして政権を奪取するくらいしかないだろう。)ので、機会平等社会の下で結果平等をいかに実現するかを考えるしかなく、つまり一種のアファーマティブアクションでしか対処方法がない。なので、そのためにはまずいわゆる「弱者男性」とそのルサンチマンを可視化し、それを救う方策を具体的に検討するのが近道だと思う。将来的には、たとえばVR空間へのアクセス権やアンドロイドの配布などが現実的な解かもしれない。いずれにせよ、牛角が女性サービスするかどうかなんて、それらに比べればおおよそ「どうでもいい」話で、議論したところで現実の弱者男性は一つも救われず、差別に関する社会的認識や理解など1ミリも深まらないし、一瞬の憂さ晴らしにしてはただの焼肉屋に迷惑がすぎるので、さっさと辞めた方がいいと思う。
※…もう少し丁寧に言うなら、主に「社会運動」を企図した活動であって、多くの人に認められうるような論理に基づき常識を解体・構築する「学問」的活動とはまた異なるところに主眼がある、ということ。後者は観測対象を描写・分析・記述するものだが、前者は積極的に観測対象を変化させることを目的としている。なお、社会学者の中には、学問の存在価値は現実を変革し社会運動となることにこそあると主張する人もいるが、その場合も、分析・記述に十分な力があるなら、それは自然と社会の常識を解体・再構築するであろう、という意味であり、観測対象の描写・分析・記述が"いい加減"であっても社会を変革できればいーや、という意味ではないと思う。