はてなキーワード: 否定神学とは
非モテ論壇は、小谷野敦の「もてない男」 (1999年)に始まり、本田透に引き継がれるが、ものすごく盛り上がっているというほどでもなかった。本田は消息が分からなくなり、小谷野も2017年頃から売れなくなった。ツイッターでは雁琳のような第三波フェミニズムに応対できる論者が主流となっているが、そういうのの影に隠れたかたちであろう。大場博幸「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会的包摂」(2021年、教育學雑誌 (57) 31-43)というレビュー論文がある。ロスジェネ論壇も盛り上がった印象はない。氷河期世代はそれどころではなかったのだろうか。雑誌「ロスジェネ」は迷走してしまい、第3号は「エロスジェネ」で、第4号で終刊した。
東のゼロ年代はゼロアカ道場で幕を閉じる。東チルドレンを競わせるという企画であり、ゼロアカとは「アカデミズムがゼロになる」という意味らしい(「現代日本の批評2001-2016」、講談社、101頁)。彼らは東浩紀しか参照していないので、アカデミズムとしてはゼロなのかもしれない。ここで台頭したのが藤田直哉であり、ザクティ革命と称して、飲み会動画を無編集でアップした。ゲンロンのプロトタイプかもしれない。藤田はwokeしたが、東チルドレンでそちらに行ったのは彼くらいではないか。
3 ゲンロン
ニコニコ動画に「動ポノムコウ」(2020)というMADがあるが、ゼロ年代の東は輝いていたものの、震災後は落ちぶれてしまったという史観で編集されていた。落ちぶれたかどうかはともかく、震災前後に断絶があることは疑いない。東は移動を躊躇わないところがあり、90年代末に批評空間を離れたように、震災後に自らが立ち上げた動ポモ論壇からも離れてしまう。
ゲンロンの前身である合同会社コンテクチュアズは2010年4月6日に創業された。2009年の秋の飲み会でアイデアが出たそうである。宇野常寛、濱野智史、浅子佳英(建築家)、李明喜(空間デザイナー)との飲み会であった。「ゲンロン戦記」(2020年)では李はXとされているが、ウィキペディアには実名で出てきている。李はコンテクチュアズの代表に就任したものの、使い込みを起こして、2011年1月末日付で解任されている。代わって東が代表に就任し、李から使い込んだ金を回収した。ちょうど震災前のことで、震災後だと回収は難しかったかもしれないらしい(「ゲンロン戦記」、42頁)。この頃には、宇野や濱野は去っており、浅子が右腕だったが、その浅子も2012年には退任する。
「一般意志2.0」は震災前に雑誌「本」に連載されていた。2009年12月号から2011年4月号まで連載されていて、4月号は3月頭に出るものなので、ちょうど震災が起こる直前に終わったことになる。「ゲンロン戦記」には「その原稿は2010年代に書かれたのですが、出版は震災後の2011年11月になりました」(22頁)とあるが、ゼロ年代に連載が始まっているし、出版されたのも2010年代なので、おかしな文である。「震災前に書かれた」と直すべきところであろう。「一般意志2.0」はゼロ年代のパラダイムに属している。デジタル民主主義の本であるが、ちょっとひねって、ニコニコ動画のようなもので民意をくみ上げようというものである。ゲンロンもニコニコ動画でやられているので、その所信表明でもあるのであろう。ゼロ年代とゲンロンをつなぐ蝶番的な書物ではあった。
「サイバースペース」「情報自由論」は一冊の本として刊行されることはなかったのであるが、「一般意志2.0」は刊行された。すっきりとした構想だったからだろうか。東はネット草創期のアングラさのようなものを後光にして輝いていたのであるが、この本を最後に、アーキテクチャを本格的に論じることを止める。ニコニコ動画は2ちゃんねるの動画版のようなところがあったが、ツイッターをはじめとするSNSにネットの中心が移り、ネットはもはや2ちゃん的ではなくなり、東の想定していたアーキテクチャではなくなってきたのかもしれない。東はツイッターも使いこなしているが、かつてほどの存在感はない。
「一般意志2.0」の次の主著は「観光客の哲学」(2017年)であるが、サブカルチャーを批評することで「ひとり勝ち」した東が観光客を論じるのは意外性がある。娘が生まれてから、アニメやゲームに関心を失い、その代わり観光が好きになったとのことで、東の関心の移動を反映しているようである。「観光客の哲学 増補版」第2章によると、観光客は二次創作するオタクに似ている。二次創作するオタクは原作の好きなところだけつまみ食いするように、観光客も住民の暮らしなどお構いなしに無責任に観光地をつまみ食いしていく。このように観光客は現実を二次創作しているそうである。
「福島第一原発観光地化計画(思想地図β vol.4-2)」(2013年)は、一万部も売れなかったそうである。ふざけていると思われたのだろうか。観光に関心を持っていたところに、福島第一原発で事故があり、ダークツーリズムの対象にできないかと閃いたのであろう。もともと観光に関心がなければ、なかなか出てこないアイデアではないかと思われる。東によると、ダークツーリズムは二次創作への抵抗である(「観光客の哲学 増補版」第2章)。それなりの歴史のある土地であっても、しょせんは無名なので、原発事故のような惨事が起こると、そのイメージだけで覆い尽くされることになる(二次創作)。しかし、そういう土地に観光に出かけると、普通の場所であることが分かり、にもかかわらず起こった突然の惨事について思いをはせる機会にもなるそうである(二次創作への抵抗)。
社会学者の開沼博は福島第一原発観光地化計画に参加して、前掲書に寄稿しているのにもかかわらず、これに抗議した。東と開沼は毎日新聞のウェブ版で往復書簡を交わしているが、開沼の主張は「福島イコール原発事故のイメージを強化する試みはやめろ」というものであった(「観光客の哲学 増補版」第2章)。原発事故を語りにくくすることで忘却を促すというのが政府の戦略のようであるが、これは成功した。開沼は2021年に東京大学大学院情報学環准教授に就任している。原発事故への応答としては、佐藤嘉幸・田口卓臣「脱原発の哲学」(2016年)もあるが、こちらはほとんど読まれなかった。ジュディス・バトラーは佐藤の博論(「権力と抵抗」)の審査委員の一人であり、佐藤はバトラーに近い(竹村和子亡き後、バトラーの著作の邦訳を担っている)。「脱原発の哲学」にもそれっぽい論法が出てくるのが、こちらは功を奏しなかった。資本主義と真っ向から対立するような場面では効かないのだろう。ちなみに佐藤の博論には東も登場しており、バトラーも東の名前は知っているものと思われる。
「観光客の哲学」はネグリ・ハート「帝国」を下敷きにしているが、そこでのマルチチュードは、共通性がなくても集まればいいという発想で集められているものであり、否定神学的であるとして、郵便的マルチチュードとしての観光客を対置する。東は原発事故後の市民運動に対して否定的であり、SEALDsなどを毛嫌いしていた。第二次安倍政権は次々と「戦後レジーム」を否定する法案を提出しており、それに対抗する市民運動は盛り上がっていたが、負け続けていた。しかし、Me too運動が始まってからというもの、リベラルはマイノリティ運動に乗り換え、勝ち続けるようになる。「観光客の哲学」は市民運動が負け続ける状況に応答しているが、「訂正可能性の哲学」(2023年)はマイノリティ運動が勝ち続ける状況に応答している。小熊英二やこたつぬこ(木下ちがや)はSEALDsの同伴者であったが、マイノリティ運動に与した共産党には批判的である。小熊の「1968」(2009年)は絓秀実「革命的なあまりに革命的な」(2003年)のマイノリティ運動に対する評価をひっくり返したものなので、こういう対応は分からなくはない。東も「革あ革」を評価していない。「絓さんの本は、ぼくにはよくわからなかった。六八年の革命は失敗ではなく成功だというのだけれど、その理由が明確に示されないまま細かい話が続いていく。どうして六八年革命が成功していることになるのか」(「現代日本の批評2001-2016」、講談社、71頁)。論旨そのものは分かりやすい本なので、かなりの無理解であろう。
東はアベノミクスには何も言っていない。政治には入れ込んでいるが、経済は分からないので口を出さないという姿勢である。経済について分かっていないのに口を出そうとしてリフレ派に行ってしまった人は多い。宮﨑哲弥が典型であろうが、北田もそうである。ブレイディみかこ・松尾匡と「そろそろ左派は<経済>を語ろう――レフト3.0の政治経済学」(2018年)という対談本を出している。リベラルが負け続けているのは、文化左翼路線だけでは大衆に支持されることはなく、経済についても考える必要があるという主張であるが、リベラルがマイノリティ運動で勝ちだしてからはこういうことは言わなくなった。北田は2023年から刊行されている「岩波講座 社会学」の編集委員の代表を務めている。
「観光客の哲学」の次の主著は「訂正可能性の哲学」である。こちらも郵便本の続編といっていいのであろうが、そこに出てきた訂正可能性(コレクタビリティ)という概念がフィーチャーされている。政治的な正しさ(ポリティカル・コレクトネス)を奉じている者がそうしているように、理想を固定したものとして考えるのではなく、誤りをコレクトするという姿勢が大事であるということらしい。駄洒落のようであると言われることもある。森脇によると、東は状況に合わせてありきたりの概念の意味を変えるという「再発明」の戦略を採っているが、この「再発明」の戦略を言い換えたものが訂正可能性なのだという(森脇「東浩紀の批評的アクティヴィズムについて」)。そうだとすると、訂正可能性は郵便本では脇役であったが、これが四半世紀後に主役になることには必然性があったということであろうか。
こうして現在(2024年7月)まで辿りついたのであるが、東は多くの人と関係を断ってきたため、周りに人がいなくなっている。東も自身の気質を自覚している。「ぼくはいつも自分で始めた仕事を自分で壊してしまう。親しい友人も自罰的に切ってしまう。「自己解体と境界侵犯の欲望」が制御できなくなってしまう。だからぼくには五年以上付き合っている友人がいない。本当にいないのだ」(東浩紀・桜坂洋「キャラクターズ」、2008年、73頁)。一人称小説の語り手の言葉であるものの、現実の東と遠からぬものと見ていいであろう。ここからは東の決裂を振り返る。
宇野常寛は東を批判して「ゼロ年代の想像力」(2008年)でデビューしたのであるが、東に接近してきた。ゲンロンは宇野のような東に近い若手論客が結集する場として企画されたそうである。東によると、宇野を切ったのは、映画「AZM48」の権利を宇野が要求してきたかららしい。「東浩紀氏の告白・・・AZM48をめぐるトラブルの裏側」というtogetterに東のツイートが集められている。2011年3月10日から11日を跨ぐ時間帯に投稿されたものであり、まさに震災直前である。「AZM48」は「コンテクチュアズ友の会」の会報「しそちず!」に宇野が連載した小説である(映画の原作なのだろう)が、宇野のウィキペディアには書かれていない(2024年7月27日閲覧)。円堂都司昭は「ゼロ年代の論点」(2011年)の終章で「AZM48」を論じようと企画していたが、止めておいたそうである。「ゼロ年代の批評をふり返った本の終章なのだから、2010年代を多少なりとも展望してみましょうというパートなわけだ。批評家たちのホモパロディを熱く語ってどうする。そこに未来はあるのか?」(「『ゼロ年代の論点』に書かなかった幻の「AZM48」論」)。
濱野智史は「アーキテクチャの生態系」(2008年)でデビューしているが、アーキテクチャ論こそ「「ゼロ年代批評」の可能性の中心」(森脇、前掲論文)であった。東の右腕的存在だったこともあり、「ised:情報社会の倫理と設計」を東と共編している。濱野は東と決裂したというより、壊れてしまった。その頃、AKB48などのアイドルが流行りつつあり、宇野は、東をレイプファンタジーなどと批判していたのにもかかわらず、アイドル評論を始めたのであるが、濱野もそちらに付いていってしまった。「前田敦子はキリストを超えた 宗教としてのAKB48」(2012年)を刊行する。これだけならよかったものの、アーキテクチャ論を実践すべく、2014年、アイドルグループPlatonics Idol Platform (PIP)をプロデュースするも大失敗してしまい、精神を病んでしまった。行方が分からなくなっていたが、「『豪の部屋』濱野智史(社会学者)が経験したアイドルプロデュースの真相」(2022年)に出演して、東に「ぐうパワハラされた」ことを明かした。
千葉雅也の博論本「動きすぎてはいけない」(2013年)には、浅田彰と東浩紀が帯を書いていて、「構造と力」や「存在論的、郵便的」を承継する構えを見せていた。郵便本をきちんと咀嚼した希な例ということらしい。東がイベントで千葉はゲイであることをアウティングしたのであるが、その場では千葉は黙っていたものの、「怒っている。」などとツイートする(2019年3月7日、「男性性に疲れた東浩紀と何をいまさらと怒る千葉雅也」)。これに反応して、東は「千葉との本は出さないことにした。仕事も二度としない。彼は僕の人生を全否定した」などと生放送で二時間ほど怒涛の千葉批判を行った。こうして縁が切れたわけであるが、千葉くらいは残しておいても良かったのではないかと思われる。國分は数年に一度ゲンロンに登壇するようであるが、このくらいの関係でないと続かないということだろうか。
大澤聡も切ったらしいのであるが、「東浩紀突発#110 大澤聡さんが5年ぶりにキタ!」(2023年10月16日)で再会している。どうして切ったのかはもはやよく分からないが、それほどの遺恨はなかったのだろう。
福嶋亮大は向こうから去って行ったらしい。鼎談「現代日本の批評」の第1回、第2回に参加しながら、第3回に参加することを拒んだらしい。東も理由はよく分からないようである。珍しいケースといえよう。
津田大介とは「あずまんのつだっち大好き・2018年猛暑の巻」(2018年8月17日)というイベントが開催されるほど仲が良かった。津田は2017年7月17日にアイチトリエンナーレ2019の芸術監督に就任し、東は2017年10月、企画アドバイザーに就任する。しかし、企画展「表現の不自由展・その後」に政治的圧力が加えられ、2019年8月14日、東は企画アドバイザーを辞任する。この辞任はリベラルからも顰蹙を買い、東はますますリベラル嫌いになっていく。批評家は大衆に寄り添わざるを得ないので、こういう判断もあり得るのだろうか。
東浩紀の伝記を書く。ゼロ年代に二十代を過ごした私たちにとって、東浩紀は特別の存在であった。これは今の若い人には分からないであろう。経験していないとネット草創期の興奮はおそらく分からないからである。たしかにその頃は就職状況が悪かったのであるが、それはまた別に、インターネットは楽しかったのであり、インターネットが全てを変えていくだろうという夢があった。ゼロ年代を代表する人物を3人挙げるとすれば、東浩紀、堀江貴文(ホリエモン)、西村博之(ひろゆき)ということになりそうであるが、彼らはネット草創期に大暴れした面々である。今の若い人たちはデジタルネイティブであり、それこそ赤ちゃんの頃からスマホを触っているそうであるが、我々の小さい頃にはスマホはおろか携帯電話すらなかったのである。ファミコンはあったが。今の若い人たちにはネットがない状況など想像もできないだろう。
私は東浩紀の主著は読んでいるものの、書いたものを網羅的に読んでいるというほどではなく、酔っ払い配信もほとんど見ていない。しかし、2ちゃんねる(5ちゃんねる)の東浩紀スレの古参ではあり、ゴシップ的なことはよく知っているつもりである。そういう立場から彼の伝記を書いていきたいと思う。
東浩紀は71年5月9日生まれである。「動ポモ」でも援用されている見田宗介の時代区分だと、虚構の時代のちょうど入り口で生を享けたことになる。國分功一郎は74年、千葉雅也は78年生まれである。國分とはたった3歳しか離れていないが、東が早々にデビューしたために、彼らとはもっと年が離れていると錯覚してしまう。
東は中流家庭に生まれたらしい。三鷹市から横浜市に引っ越した。東には妹がおり、医療従事者らしい(医者ではない)。父親は金沢の出身で、金沢二水高校を出ているそうである(【政治番組】東浩紀×津田大介×夏野剛×三浦瑠麗が「内閣改造」について大盛り上がり!「今の左翼は新左翼。左翼よりバカ!」【真実と幻想と】)。
東は日能研でさっそく頭角を現す。模試で全国一桁にいきなり入った(らしい)。特別栄冠を得た(らしい)。これに比べたら、大学予備校の模試でどうとかいうのは、どうでもいいことであろう。
筑駒(筑波大学附属駒場中学校)に進学する。筑駒在学中の特筆すべきエピソードとしては、おニャン子クラブの高井麻巳子の福井県の実家を訪問したことであろうか。秋元康が結婚したのは高井であり、東の目の高さが分かるであろう。また、東は中学生時代にうる星やつらのファンクラブを立ち上げたが、舐められるのがイヤで年を誤魔化していたところ、それを言い出せずに逃げ出したらしい(5ちゃんねる、東浩紀スレ722の555)。
もう一つエピソードがあって、昭和天皇が死んだときに、記帳に訪れたらしい。
東は東大文一に入学する。文三ではないことに注意されたい。そこで柄谷行人の講演を聞きに行って何か質問をしたところ、後で会おうと言われ、「批評空間」に弱冠21歳でデビューする。「ソルジェニーツィン試論」(1993年4月)である。ソルジェニーツィンなどよく読んでいたなと思うが、新潮文庫のノーベル賞作家を潰していくという読書計画だったらしい。また、残虐記のようなのがけっこう好きで、よく読んでいたというのもある。三里塚闘争についても関心があったようだ。「ハンスが殺されたことが悲劇なのではない。むしろハンスでも誰でもよかったこと、つまりハンスが殺されなかったかも知れないことこそが悲劇なのだ」(「存在論的、郵便的」)という問題意識で書かれている。ルーマン用語でいえば、偶発性(別様であり得ること)の問題であろうか。
東は、教養課程では、佐藤誠三郎のゼミに所属していた。佐藤は村上泰亮、公文俊平とともに「文明としてのイエ社会」(1979年)を出している。共著者のうち公文俊平だけは現在(2024年7月)も存命であるが、ゼロ年代に東は公文とグロコムで同僚となる。「文明としてのイエ社会」は「思想地図」第1号で言及されており、浩瀚な本なので本当に読んだのだろうかと思ったものであるが、佐藤のゼミに所属していたことから、学部時代に読んだのだろう。
東は94年3月に東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学分科を卒業し、同4月に東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻に進学する。修士論文はバフチンで書いたらしい。博士論文ではデリダを扱っている。批評空間に94年から97年にかけて連載したものをまとめたものである。私たちの世代は三読くらいしたものである。博論本「存在論的、郵便的」は98年に出た。浅田彰が「東浩紀との出会いは新鮮な驚きだった。(・・・)その驚きとともに私は『構造と力』がとうとう完全に過去のものとなったことを認めたのである」という帯文を書いていた。
郵便本の内容はウィキペディアの要約が分かりやすく、ツイッターで清水高志が褒めていた。「25年後の東浩紀」(2024年)という本が出て、この本の第3部に、森脇透青と小川歩人による90ページにわたる要約が付いている。森脇は東の後継者と一部で目されている。
東の若いころの友達に阿部和重がいる。阿部はゲンロンの当初からの会員だったらしい。妻の川上未映子は「ゲンロン15」(2023年)に「春に思っていたこと」というエッセイを寄稿している。川上は早稲田文学の市川真人によって見出されたらしく、市川は渡辺直己の直弟子である。市川は鼎談「現代日本の批評」にも参加している。
東は、翻訳家・小鷹信光の娘で、作家のほしおさなえ(1964年生まれ)と結婚した。7歳年上である。不倫だったらしい。98年2月には同棲していたとウィキペディアには書かれていたのであるが、いつのまにか98年に学生結婚と書かれていた。辻田真佐憲によるインタビュー「東浩紀「批評家が中小企業を経営するということ」 アップリンク問題はなぜ起きたか」(2020年)で「それは結婚の年でもあります」と言っており、そこが根拠かもしれないが、明示されているわけではない。
そして娘の汐音ちゃんが生まれる。汐音ちゃんは2005年の6月6日生まれである。ウィキペディアには午後1時半ごろと、生まれた時間まで書かれている。名前はクラナドの「汐」と胎児用聴診器「心音ちゃん」から取ったらしい。ツイッターのアイコンに汐音ちゃんの写真を使っていたものの、フェミに叩かれ、自分の写真に代えた。汐音ちゃんは「よいこのための吾妻ひでお」 (2012年)のカバーを飾っている。「日本科学未来館「世界の終わりのものがたり」展に潜入 "The End of the World - 73 Questions We Must Answer"」(2012年6月9日)では7歳になったばかりの汐音ちゃんが見られる。
96年、コロンビア大学の大学院入試に、柄谷の推薦状があったのにもかかわらず落ちている。フラタニティ的な評価によるものではないかと、どこかで東は推測していた。入試について東はこう言っている。「入試が残酷なのは、それが受験生を合格と不合格に振り分けるからなのではない。ほんとうに残酷なのは、それが、数年にわたって、受験生や家族に対し「おまえの未来は合格か不合格かどちらかだ」と単純な対立を押しつけてくることにあるのだ」(「選択肢は無限である」、「ゆるく考える」所収)。いかにも東らしい発想といえよう。
2 ゼロ年代
東の次の主著は「動物化するポストモダン」で、これは2001年に刊行される。98年から01年という3年の間に、急旋回を遂げたことになる。「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」はその間の論考である。
東はエヴァに嵌っており、「庵野秀明はいかにして八〇年代日本アニメを終わらせたか」(1996年)などのエヴァ論も書いている。その頃に書いたエッセイは「郵便的不安たち」(1999年)に収められた。エヴァ本をデビュー作にすることも考えたらしいが、浅田彰に止められたらしい。だから、サブカル本を出すというのは、最初から頭の中にあったのだろう。
「いま批評の場所はどこにあるのか」(批評空間第Ⅱ期第21号、1999年3月)というシンポジウムを経て、東は批評空間と決裂するが、それについて25年後に次のように総括している。「ぼくが考える哲学が『批評空間』にはないと思ってしまった。でも感情的には移転があるから、「お前はバカだ」と非難されるような状態にならないと関係が切れない」(「25年後の東浩紀」、224-5頁)。
動ポモは10万部くらい売れたらしいが、まさに時代を切り拓く書物であった。10万部というのは大した部数ではないようにも思われるかもしれないが、ここから「動ポモ論壇」が立ち上がったのであり、観客の数としては10万もいれば十分なのであろう。動ポモはフェミニストには評判が悪いようである。北村紗衣も東のことが嫌いらしい。動ポモは英訳されている(Otaku: Japan's Database Animals, Univ Of Minnesota Press. 2009)。「一般意志2.0」「観光客の哲学」も英訳されているが、アマゾンのglobal ratingsの数は動ポモが60、「一般意志2.0」が4つ、「観光客の哲学」が3つと動ポモが圧倒的である(2024年8月3日閲覧)。動ポモは海外の論文でもよく引用されているらしい。
次の主著である「ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2」までは6年空き、2007年に出た。この間、東は「情報自由論」も書いていたが、監視を否定する立場から肯定する立場へと、途中で考えが変わったこともあり、単著としては出さず、「サイバースペース」と抱き合わせで、同じく2007年に発売される(「情報環境論集―東浩紀コレクションS」)。「サイバースペース」は「東浩紀アーカイブス2」(2011年)として文庫化されるが、「情報自由論」はここでしか読めない。「サイバースペース」と「情報自由論」はどちらも評価が高く、この頃の東は多作であった。
この頃は北田暁大と仲が良かった。北田は東と同じく1971年生まれである。東と北田は、2008年から2010年にかけて「思想地図」を共編でNHK出版から出すが、3号あたりで方針が合わなくなり、5号で終わる。北田は「思想地図β」1号(2010年)の鼎談には出てきたものの、今はもう交流はないようである。北田はかつてツイッターで活発に活動していたが、今はやっていない。ユミソンという人(本名らしい)からセクハラを告発されたこともあるが、不発に終わったようである。結婚して子供もできて幸せらしい。
その頃は2ちゃんねるがネットの中心であったが、北田は「嗤う日本の「ナショナリズム」」(2006年)で2ちゃんを俎上に載せている。北田は「広告都市・東京」(2002年)で「つながりの社会性」という概念を出していたが、コミュニケーションの中身よりも、コミュニケーションが接続していくことに意味があるというような事態を表していた。この概念を応用し、2ちゃんでは際どいことが言われているが、それはネタなので心配しなくていいというようなことが書かれていた。2ちゃん分析の古典ではある。
東は宮台真司や大澤真幸とも付き合っているが、彼らは北田のように鋭くゼロ年代を観察したというわけではなく、先行文献の著者である。宮台は98年にフィールドワークを止めてからは、研究者というよりは評論家になってしまった。大澤は日本のジジェクと称されるが、何を論じても同じなのもジジェクと同様である。動ポモは彼らの議論を整理して更新しているのであるが、動ポモも「ゲーム的リアリズムの誕生」も、実際に下敷きになっているのは大塚英志であろう。
宮台や大澤や北田はいずれもルーマン派であるが、ルーマンっぽいことを言っているだけという印象で、東とルーマンも似ているところもあるというくらいだろう。しかし、ルーマン研究者の馬場靖雄(2021年に逝去)は批評空間に連載されていた頃から「存在論的、郵便的」に注目しており、早くも論文「正義の門前」(1996)で言及していた。最初期の言及ではないだろうか。主著「ルーマンの社会理論」(2001)には東は出てこないが、主著と同年刊の編著「反=理論のアクチュアリティー」(2001)所収の「二つの批評、二つの「社会」」ではルーマンと東が並べて論じられている。
佐々木敦「ニッポンの思想」(2009年)によると、ゼロ年代の思想は東の「ひとり勝ち」であった。額縁批評などと揶揄される佐々木ではあるが、堅実にまとまっている。類書としては、仲正昌樹「集中講義!日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか」 (2006)や本上まもる「 “ポストモダン”とは何だったのか―1983‐2007」 (2007)があったが、仲正は今でも読まれているようである。本上は忘れられているのではないか。この手の本はこれ以後出ていない。需要がないのだろうか。
佐々木の「ひとり勝ち」判定であるが、そもそもゼロ年代の思想の土俵を作ったのは動ポモであり、そこで東が勝つというのは当たり前のことであった。いわゆる東チルドレンは東の手のひらで踊っていただけなのかもしれない。懐かしい人たちではある。
北田によると、東の「情報技術と公共性をめぐる近年の議論」は、「批評が、社会科学的な知――局所から全体を推測する手続きを重視する言説群――を媒介せずに、技術、工学的知と直結した形で存在する可能性の模索である」(「社会の批評Introduction」、「思想地図vol.5」、81-2頁)ということであるが、ゼロ年代の東はこういう道を歩んでいた。キットラーに似ており、東チルドレンでは濱野智史がこの道を歩んだのであるが、東チルドレンが全てそうだったわけでもなく、社会学でサブカルを語るというような緩い営みに終始していた。宇野常寛などはまさにこれであろう。
佐々木「ニッポンの思想」と同じ2009年7月に、毛利嘉孝「ストリートの思想」が出ている。文化左翼の歴史をたどっているのであるが、この頃はまだ大人しかった。ポスコロ・カルスタなどと揶揄されていた。しかし、テン年代(佐々木の命名)から勢いが増していき、今や大学、メディア、大企業、裁判所を押さえるに至っている。しかし、ゼロ年代において、動ポモ論壇と比較できるのは、非モテ論壇やロスジェネ論壇であろう。
非モテ論壇は、小谷野敦の「もてない男」 (1999年)に始まり、本田透に引き継がれるが、ものすごく盛り上がっているというほどでもなかった。本田は消息が分からなくなり、小谷野も2017年頃から売れなくなった。ツイッターでは雁琳のような第三波フェミニズムに応対できる論者が主流となっているが、そういうのの影に隠れたかたちであろう。大場博幸「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会的包摂」(2021年、教育學 Permalink | 記事への反応(14) | 17:44
ラノベオタクは「ラノベ」は定義されないという否定神学の立場を取っているけど、以前講談社ラノベ文庫が創刊されたとき、そこでの作品募集メッセージにあったのは「ラノベらしいラノベを求む」だったんだよね。出版社側は「ラノベ」という存在があると思っているどころか、「ラノベ」というのは性質を記述していくことで定義できると思っているんだよ。個人的にはそのメッセージを見て、「ラノベらしいラノベ」を求めていたらいずれラノベ業界も縮小して終わるだろうなと思った。まあ、もう現代では本読む人なんてオタクか学者くらいだろうし、「ラノベらしいラノベ」を求めるのもまあ仕方ないのかなという気はする。一般小説のラノベ化っていうのも、ラノベオタクくらいしか本を読まないからだろうし。
わたしの職場に、自他ともに認めるクラシック・マニアがいる。近・現代の作曲家は一通り聴いているというが、中でもお気に入りはスクリャービンで、携帯の着信音とアラームには「神秘和音」が設定してあるくらいだ。
その彼が、最近、急にジャズに興味を持つようになった。なんでも娘さんが部活でサックスを始めたのがきっかけらしい。彼の机には娘さんの小さいころの写真が立てかけてあるが、父親と血がつながっているとは思えないかわいらしさだ。パパだってジャズくらい分かるんだぞ、ということにしたいのかもしれない。
彼はわたしがジャズ・ギターを弾くことを知っている。音楽に関して(だけ)は寛容なので、各種イヴェントの際には有給を消化しても嫌な顔ひとつしない。
「ちょっと私用なんだが」と彼は言った。「こんどの休みは空いてるか? お前の好きなジャズのCDを10枚くらい持ってきてくれ。うちのオーディオで聴こう」
「CDならお貸ししますよ」とわたしは答えた。特に予定はないが、できれば休日はゆっくり寝ていたい。
「まあそう言うなよ」と彼はつづけた。「プレゼンの訓練だと思えばいい。ジャズの聴きどころを存分に語ってくれ。昼はうなぎを食わせてやるぞ。それとも――」
「それとも?」
「もう有給は当分いらないということか?」
こうして、わたしは休日をつぶして彼の家を訪ねることになった。どのCDを持っていくかはなかなか決められなかったが、一日でジャズの百年の歴史を追いかけるのは無理だと割り切って、わたし自身がジャズを聴き始めた高校生のころ――もう15年も前の話だ――に感銘を受けたものを選ぶことにした。マイルス・デイヴィス『カインド・オブ・ブルー』、ビル・エヴァンス『ワルツ・フォー・デビー』、ジョン・コルトレーン『ジャイアント・ステップス』はもうコレクション済みだということだったので、それら以外で。
手土産の菓子と20枚ほどのCDを抱えて最寄駅に着くと――結局10枚には絞り込めなかった――彼の車が目に留まった。
「きょうは夕方まで家に誰もいないからな。気兼ねしなくていい」
「そうでしたか」
「いるのは猫だけだ」
「猫? 以前お邪魔したときには見かけませんでしたが」
「公園で拾ってきたんだ」
「娘さんが?」
「いや俺が。子供のころに飼っていた猫とよく似ていたものだから」
ノラ猫を拾う人間と、ショスタコーヴィチの交響曲全集を部下に聴かせて感想を求める人間が、ひとりの男の中に同居している。この世界は分からないことだらけだ。
「ちーちゃん、お客様にご挨拶だ」と彼は居間の扉を開けながら言った。ちーちゃんと呼ばれた白い猫は、こちらを一瞬だけ見るとソファのかげに隠れてしまった。そそくさと。
「ご機嫌ななめだな。まあいい。そっちに掛けてくれ。座ったままでディスクを交換できるから。いまコーヒーを淹れてくる」
――これ以降は対話形式で進めていきます。
( ・3・) さっそく始めよう。
――マイルスについてはご存じだと思いますが、次々に作風を変化させながらジャズを牽引していった、アメリカの文化的ヒーローです。デューク・エリントンはマイルスについて「ジャズのピカソだ」と述べました。
――はい。その作品の後に注目したいんですが、60年代の半ばに、ウェイン・ショーターというサックス奏者がマイルスのバンドに加わります。この時期の録音はひときわ優れた内容で、ジャズのリスナーやプレイヤーからはヒマラヤ山脈のように見なされています。
Prince of Darkness (1967) http://youtu.be/-wckZlb-KYY
( ・3・) ヒマラヤ山脈か。空気が薄いというか、調性の感覚が希薄だな。テーマの部分だけでも不思議なところに臨時記号のフラットがついている。
――主音を軸にして、ひとつのフレーズごとに旋法を変えています。コードが「進行」するというよりは、コードが「変化」するといったほうが近いかもしれません。
( ・3・) ピアノがコードを弾かないから、なおさら調性が見えにくいのかもしれないな。
――はい。余計な音をそぎ落とした、ストイックな演奏です。
( ・3・) 体脂肪率ゼロ。
――マイルスのバンドには一流のプレイヤーでなければ居られませんから、各々が緊張の張りつめた演奏をしています。
Nefertiti (1967) http://youtu.be/JtQLolwNByw
――これはとても有名な曲。ウェイン・ショーターの作曲です。
( ・3・) テーマで12音をぜんぶ使ってるな。
――覚めそうで覚めない夢のような旋律です。このテーマがずっと反復される。
――ボレロではスネア・ドラムが単一のリズムを繰り返しますが、こちらはもっと自由奔放ですよ。ドラムが主役に躍り出ます。
( ・3・) おお、加速していく。
――テンポ自体は速くなるわけではありません。ドラムは元のテンポを体で保ったまま、「そこだけ時間の流れ方がちがう」ような叩き方をしています。
( ・3・) ドラムが暴れている間も管楽器は淡々としたものだな。
――はい。超然とした態度で、高度なことを難なくやってみせるのが、このクインテットの魅力ではないかと思います。
Emphasis (1961) http://youtu.be/QRyNUxMJ18s
( ・3・) また調性があるような無いような曲を持って来よって。
――はい。この曲は基本的にはブルースだと思うのですが、テーマでは12音が使われています。ジミー・ジューフリーというクラリネット奏者のバンドです。アメリカのルーツ音楽と、クラシックとの両方が背景にあって、実際に演奏するのはジャズという一風変わった人です。
――ドラム抜きの三人のアンサンブルというアイディアは、ドビュッシーの「フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ」に由来するそうです。
( ・3・) いいのかそれで。ジャズといえば「スウィングしなけりゃ意味がない」んじゃなかったのか?
――スウィングしたくない人だっているんですよ。といっても、ベースはフォー・ビートで弾いていますが。
( ・3・) これが録音されたのは……ええと、1961年か。ジャズもずいぶん進んでいたんだな。
――いえ、この人たちが異常なだけで、当時の主流というわけではありません。さっぱり売れませんでした。表現自体は抑制・洗練されていて、いかにも前衛というわけではないのに。同じ年のライヴ録音も聴いてみましょうか。
Stretching Out (1961) http://youtu.be/2bZy3amAZkE
( ・3・) おい、ピアノの中に手を突っ込んでるぞ。(3分16秒にて)
――まあ、それくらいはするでしょう。
( ・3・) おい、トーン・クラスターが出てきたぞ。(4分16秒にて)
――それでも全体としては熱くならない、ひんやりした演奏です。
――さて、次はエリック・ドルフィー。作曲の才能だったり、バンドを統率する才能だったり、音楽の才能にもいろいろありますが、この人はひとりの即興プレイヤーとして群を抜いていました。同じコード進行を与えられても、ほかのプレイヤーとは出てくる音の幅がちがう。さらに楽器の持ち替えもできるという万能ぶり。順番に聴いていきましょう。まずアルト・サックスから。
Miss Ann (1960) http://youtu.be/7adgnSKgZ7Q
( ・3・) なんだか迷子になりそうな曲だな。
――14小節で1コーラスだと思います。きちんとしたフォームはあるのですが、ドルフィーはフォームに収まらないようなフレーズの区切り方でソロをとっています。1小節ずつ意識して数えながらソロを追ってみてください。ああ、いま一巡してコーラスの最初に戻ったな、とついていけたら、耳の良さを誇ってもいいと思いますよ。
Left Alone (1960) http://youtu.be/S1JIcn5W_9o
――次はフルート。
( ・3・) ソロに入ると、コード進行に対して付かず離れず、絶妙なラインを狙っていくな。鳥の鳴き声というか、メシアンの「クロウタドリ」に似ている。
――鳥の歌に合わせて練習していたといいますから、まさにメシアンです。あるいはアッシジのフランチェスコか。ほかにもヴァレーズの「密度21.5」を演奏したり、イタリアのフルートの名手であるガッゼローニの名前を自作曲のタイトルにしたり、意外なところで現代音楽とのつながりがあります。
参考 Le Merle Noir (Messiaen, 1952) https://youtu.be/IhEHsGrRfyY
It’s Magic (1960) http://youtu.be/QxKVa8kTYPI
――最後にバスクラ。吹奏楽でバスクラ担当だったけど、主旋律で活躍する場面がなくて泣いてばかりいた方々に朗報です。
――いえ、当時、長いソロを吹いた人はあまりいませんでした。
( ・3・) バスクラ自体がめずらしいという点を措いても、独特な音色だな。
――村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』にこんなくだりがあります。「死の床にあるダライ・ラマに向かって、エリック・ドルフィーがバス・クラリネットの音色の変化によって、自動車のエンジン・オイルの選択の重要性を説いている……」
( ・3・) どういう意味?
――楽器の音が肉声のようにきこえる。でも何をしゃべっているのかはよく分からないという意味だと思います。あと、ミニマリズムの作曲家のスティーヴ・ライヒはバスクラを効果的に使いますが……
( ・3・) 「18人の音楽家のための音楽」とか、「ニューヨーク・カウンターポイント」とか。
――はい。彼はドルフィーの演奏を聴いてバスクラに開眼したと語っています。 [1]
――真打登場です。サックス奏者のオーネット・コールマン。50年代の末に現れて、前衛ジャズの象徴的な存在になった人です。といっても、難しい音楽ではありません。子供が笑いだすような音楽です。ちょっと変化球で、70年代の録音から聴いてみましょう。
Theme from Captain Black (1978) http://youtu.be/0P39dklV76o
――ギターのリフで始まります。
( ・3・) あれ、ベースがおかしなことやってるな。キーがずれていくぞ。
――はい、各パートが同時に異なるキーで演奏してもいいというアイディアです。イントロのギターが床に立っている状態だとすると、ベースは重力を無視して、ふらふらと壁や天井を歩きだす。
( ・3・) 複調を即興でやるのか?
――どのていど即興なのかはわかりません。コンサートに行ったことがあるのですが、譜面を立てて演奏していましたよ。でも、別にダリウス・ミヨーに作曲を教わったというわけではなくて、アイディアを得たきっかけは些細なことだったんじゃないでしょうか。たとえばサックスが移調楽器であることを知らなかったとか。「なんかずれてるな、でもまあいいか」みたいな。
( ・3・) それはいくらなんでも。もし本当だったら天才だな。
Peace (1959) http://youtu.be/bJULMOw69EI
――これは初期の歴史的名盤から。当時、レナード・バーンスタインがオーネットを絶賛して、自分がいちばんでなければ気のすまないマイルス・デイヴィスがたいそう機嫌を損ねました。
( ・3・) さっきのに比べると普通にきこえるが……
――1分40秒あたりからサックスのソロが始まります。集中してください。
( ・3・) (4分12秒にて)ん? いま、俺の辞書には載っていないことが起きた気がするな。
――ここはいつ聴いても笑ってしまいます。そのタイミングで転調するのか、脈絡なさすぎだろうって。ソロをとりながら、いつでも自分の好きな調に転調していいというアイディアです。
( ・3・) 言うは易しだが、真似できそうにはないな。
――どの調に跳んだら気持ちよく響くか、という個人的な経験則はあるはずです。突飛な転調でも、「これでいいのだ」といわれれば、たしかにその通り、すばらしい歌ですと認めざるを得ません。
――お昼はうなぎだと聞いておりましたが。
( ・3・) そのつもりだったんだが、いつの間にか値段が高騰していてな。「梅」のうなぎよりも、うまい天ぷら蕎麦のほうがいいじゃないか。
――この人も、オーネット・コールマンと同じくらい重要なミュージシャンです。テキサス出身のオーネットに対して、セシル・テイラーはニューヨーク出身。都市と芸術の世界の住人です。ピアノを弾くだけではなくて、舞踊や詩の朗読もします。これは1973年に来日したときの録音。
Cecil Taylor Solo (1973) http://youtu.be/X7evuMwqjQQ
( ・3・) バルトークとシュトックハウゼンの楽譜を細かく切って、よくかき混ぜて、コンタルスキーが弾きましたという感じだな。70年代にはずいぶん手ごわいジャズも出てきたんだ。
――いえ、テイラーは50年代から活動しています。チャック・ベリーやリトル・リチャードと同じ世代。この人が異常なだけで、当時の主流ではありませんが。さっきも似たようなことを言いましたね。
( ・3・) このスタイルでよく続けてこられたな。
――継続は力なり。2013年には京都賞を受賞して、東京でもコンサートがありました。
( ・3・) どうだった?
――会場で野菜を売っていたので、買って切って食った。
――文字通りの意味なのですが、それについては別の機会にしましょう。演奏の話に戻ると、混沌と一定の秩序とがせめぎあって、台風のさなかに家を建てている大工のような趣があります。「壊す人」というよりは「組み立てる人」です。また、あるフレーズを弾いて、復唱するようにもういちど同じフレーズを弾く箇所が多いのも特徴です。
( ・3・) いちどしか起こらないことは偶然に過ぎないが、もういちど起こるなら、そこには何らかの構造が見えてくるということか。
参考 Klavierstücke (Stockhausen, rec. 1965) http://youtu.be/mmimSOOry7s
――きょう紹介するのは北米の人ばかりなのですが、デレク・ベイリーは唯一の例外で、イギリス人です。さっそく聴いてみましょう。これも日本に来たときの録音。
New Sights, Old Sounds (1978) http://youtu.be/nQEGQT5VPFE
( ・3・) とりつくしまがない……。
――そうですか? クラシック好きな方には思い当たる文脈があるはずですが。
( ・3・) 無調で点描的なところはヴェーベルン。でも対位法的に作曲されたものではないみたいだ。あと、初期の電子音楽。ミルトン・バビットとか……。
――模範解答です。
( ・3・) でも即興でヴェーベルンをやるというのは正気の沙汰とは思えんな。
――即興の12音技法ではありません。それは千年後の人類に任せましょう。ベイリーがやっているのは、調性的な旋律や和音を避けながら演奏することです。最初に聴いたマイルス・デイヴィスも緊張の張りつめた音楽でしたが、こちらも負けず劣らずです。文法に則った言葉を発してはいけないわけですから。
( ・3・) 「どてどてとてたてててたてた/たてとて/てれてれたとことこと/ららんぴぴぴぴ ぴ/とつてんととのぷ/ん/んんんん ん」
――ちょっと意味が分かりませんが。
( ・3・) 尾形亀之助の詩だ。お前も少しは本を読んだらどうだ。それはともかく、こういう人が観念的な作曲に向かわずに、即興の道に進んだのは不思議な気がするな。
――いちプレイヤーとして生涯を全うしたというのは重要で、ベイリーの音楽はベイリーの体から切り離せないと思います。彼の遺作は、病気で手が動かなくなってからのリハビリを記録したものでした。
( ・3・) プレイヤーとしての凄みが音楽の凄みに直結しているということか?
――はい。技術的にも高い水準のギタリストでした。無駄な動きのない、きれいなフォームで弾いています。気が向いたら動画を探してみてください。
( ・3・) まあ、ギター弾きのお前がそう言うなら上手いんだろうな。
――楽器の経験の有無で受け止め方は変わってくるかもしれません。ジャズ一般について言えることですが、鑑賞者としてではなく、その演奏に参加するような気持ちで聴くと楽しみも増すと思いますよ。
ベイリーの即興演奏(動画) http://youtu.be/H5EMuO5P174
参考 Ensembles for Synthesizer (Babbitt, 1964) http://youtu.be/W5n1pZn4izI
――セロニアス・モンクは、存在自体が貴重なピアニストです。生まれてきてくれてありがとう、とお母さんみたいなことを言いたくなる。
( ・3・) 初めて聴く者にとっては何のこっちゃの説明だな。
――とてもユニークなスタイルで、代わりになる人が思いつかない、くらいの意味です。まあ聴いてみましょう。
Everything Happens to Me (Monk, 1959) http://youtu.be/YW4gTg3MrrQ
( ・3・) これは彼の代表曲?
――いえ、そういうわけではありません。モンクの場合、どの演奏にも見逃しようのない「モンクの署名」が刻まれているようなものなので、わたしの好きな曲を選びました。有名なスタンダードです。最初に歌ったのは若いころのフランク・シナトラ。
Everything Happens to Me (Sinatra, 1941) http://youtu.be/ZWw-b6peFAU
――1941年の録音ですが、信じがたい音質の良さ。さすがスター。さすが大資本。これがヒットして、多くのジャズ・ミュージシャンのレパートリーになりました。ちなみに曲名は「僕には悪いことばかり降りかかる」というニュアンスです。恋人に手紙を送ったらさよならの返事が返ってきた。しかも郵便料金はこちらもちで、みたいな。もうひとつだけ聴いてみましょう。
Everything Happens to Me (Baker, 1955) http://youtu.be/UI61fb4C9Sw
( ・3・) このいけすかないイケメンは?
――チェット・ベイカー。50年代の西海岸を代表するジャンキーです。シナトラに比べると、ショウビズっぽさがなくなって、一気に退廃の世界に引きずりこまれる。で、モンクの話に戻りますが――
( ・3・) ショウビズではないし、退廃でもない。
――もっと抽象的な次元で音楽を考えている人だと思います。
( ・3・) 素材はポピュラー・チューンなのに、ずいぶん鋭い和音が出てくるな。
――調性の枠内で本来なら聴こえないはずの音が聴こえてくると、デレク・ベイリーのような無重力の音楽とはまた別種の怖さがあります。幻聴の怖さとでもいうべきか。さいごにぽつんと置かれる減5度の音には、「聴いてはいけないものを聴いてしまった」という感じがよく出ています。
( ・3・) 減5度はジャズでは珍しくないんじゃないのか?
――はい。でも、その音をどう響かせるか、その音にどういう意味を持たせるかというのは全く別の問題です。そういう音の配置に関してモンクは天才的でした。
( ・3・) カキーン、コキーンと石に楔を打ちこむようなタッチで、ピアノの先生が卒倒しそうだが。
――意図的に選択されたスタイルだと思います。プライヴェートではショパンを弾いたりもしていたそうですよ。 [2]
( ・3・) 見かけによらないものだな。
――小さいころから必死に練習すれば、いつかはマウリツィオ・ポリーニの水準に達するかもしれません。しかし、ピアニストとしてモンクを超えるというのは、端的に不可能です。それがどういう事態を意味するのか想像できませんから。
( ・3・) 四角い三角形を想像できないように、か。
――アンドリュー・ヒルは作曲・編曲に秀でたピアニストです。『ポイント・オブ・ディパーチャー』というアルバムが有名ですが、録音から半世紀を経たいまでも新鮮にきこえます。ペンギンブックスのジャズ・ガイド(なぜか翻訳されない)では、初版からずっと王冠の印が与えられていました。
( ・3・) 英語圏では別格扱いということか。
――ヒルは若いころ、ヒンデミットの下で学んだという話もあるのですが……
――誇張も混ざっているかもしれません。ヒルの経歴は、生年や出身地も事実とは異なる情報が流れていたので。
Refuge (1964) http://youtu.be/zquk2Tb-D6I
( ・3・) 何かひっかかるような弾き方のピアノだな。
――ヒルには吃音がありました。 [3] 言いたいことの手前でつっかえて、解決を先延ばしにするような演奏は、しばしばそのことに結びつけられます。
――ヒテーシンガク?
( ・3・) ほら、メルヴィルの『モービー・ディック』で、神秘的な白鯨の本質については語れないから、迂回してクジラにまつわる雑学的な記述が延々とつづくだろ?
――どうでしょう。アナロジーとしては分からなくもないですが。
( ・3・) 形而下の世界に戻るか。あれ、このサックス奏者、さっきも出てきたんじゃないか? (2分58秒にて)
――エリック・ドルフィー。共演者の共演者を辿っていくと、きょう紹介する人たちはみんなつながっています。
( ・3・) デレク・ベイリーも?
――はい。セシル・テイラーと共演していますし、この次に紹介する人ともアルバムを出しています。
( ・3・) なんだかドルフィーに耳を持っていかれてしまうな。
――圧倒的です。ねずみ花火のような軌道と瞬発力。数か月後に死ぬ人間の演奏とは思えません。
( ・3・) すぐ死んでしまうん?
――はい。ドラッグでもアルコールでもなく、ハチミツのオーバードーズで。正式な診断ではありませんが、糖尿病だったといいます。 [4][5]
( ・3・) ハチミツって、くまのプーさんみたいなやつだな。――ん? いまミスしなかったか? (6分36秒にて)
( ・3・) やり直しになるんじゃないの?
――ジャズは減点方式ではなく加点方式ですから。ミスがあっても、総合的にはこのテイクが最良という判断だと思います。
はてな見たあとで2chみて、やっぱりこのどちらも議論には向いていないんだよ。
いや議論なるものの定義も問題だけどね?なわけねえだよさね。
あぺまん一派とかニュー即死民とかはてサとか・・・こういうのなんていうの?党派性?つまんないよね~。つまんないんだよ。お前の意見なんて聞いてねえよ。
いやこの人たちがつまんないってことでは必ずしもなくてそういう言葉がある事実がつまんない。
ふるかつさんだかしろはたさんだかが党派性からは逃れられないとか言ってたけどさ、せめてそれはさ、存在しない前提で話そうよみんな。てか話せ。話す。
まあ言ってる俺も逃れられてないんだけど、こういうのを隠したほうが面白いと思うんだけど。てか面白いんだよ。黙れ。
誰誰は~派から離脱したwとか2chの割には正論とかもちお氏ねとかさ。基本的にはゴシップなわけでこれは僕が望む議論ではないし議論とは言わない(注意!これは否定神学です!)
じゃあお前にとっての議論ってなんだよ、って聞かれてもねえ。俺が知るわけねえだろと。
まあ僕の思い通りにならないものなんだけどさ。
2chのオチスレでいしけりさんが支持されてたけど、それは彼が実務家でありかつ実績もあげ正論をはくという三拍子そろった人だからだろうね。やっぱりなんだかんだ言っても彼の存在は現実味がある(ように見えると思う)。
羊に乗ったあべ・やすえさんとかホクシュさんとかトイックの本書いた革命家さんとかの言動って現実味なさそうに見えるもんね(今のとこ京都大学の件がどうなるかで今後の進路を決まりそうなきがするけど)。やすえちゃんの漢字の本オモシロイんだけどな。
ありむらさんとかはどうなんだろ。2chで叩かれてんの?氏らねい。
現実感というのが問題なのだと思う。2chで「はてサ」が叩かれる理由の一つ(だと僕が思うこと)はその人の意見が「極論」であるということだった気がする。そうなんだよ。たしかそういうことが叩かれてたはずだ。そうなんです。
この場合極論であるという主張の意図としてはたぶん「経済」とか「軍事」とかそういうものも議論に含めろという要請の意味が強いと思うけど。そうなんだよね。
でこれが2chに言われないのはなぜかっていうとやっぱりidの有無でやっぱり名前のある人ははなしのネタかされちゃうんよ。
2chに書き込む有象無象の人間がどこで何を書こうと別に吾勝手にって話だけど、仮にでも誰かを特定できちゃうとその人に責任があるかのように2chでは扱われていた気がする。違うかもしれないか、いや違わない。
で僕がここまで書いてきたことがどうなるかって言うとはてな匿名ダイアリーに書き込んだどこかの馬鹿と処理されてもしかするとブックマーク付けられてあわよくば2chにさらされるかもしれない。でまたネタか。つまり「またはてなorはてサor電ぱか」だよね。そうなの。
こういうのなんて言うの?テンプレヵ?相対化?
おっもしろ~い。わけない。よくもまあそんなことで暇つぶせるなある特定の人物たちい。
議論を見せてよ私の目の前で。
引き千切りあえお前ら。
あ~つまんないつまんない。なんでかね。ほんと。分かってるけどね。
まああれでしょ、俺は言わないけど電波が批判されるいわれわないよ。だって今そんなことになってたら結構ひかれるじゃん。あああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ^A^w。電波を嫌ってはいけません。従いましょ。
まあ結論としては、
②つまんね~。
③俺には権力がある。
って感じ?じゃお休み。
まあさこれはいわゆる自己主張?ってやつ?発露だよね。オナニーするといろいろ飛び出るのといっしょ。しんどいんだよ私は。先週病院いったら結構アレが転移してるってさ。アレってみんな知らないでしょ。教えな~い。
まあこれがぶっちゃけやばくて。
じゃお休み。
・・・・・・・・・。テクスチャ
「出たよ」って「出て」良かったね……そんなにウレシイのか。喜んでもらえて幸いだ。
僕が以前書いたように
あなたの文章を読んだ事がないので以前書いたとか言われても理解できません。ま、いいけど。
ってか、攻撃なんてしてませんよ。攻撃する必要がないんで。不思議だったから指摘&嘲笑してるだけ。
よーするに言いたいのは、モテ"ない"という不在の形式で自己を特権化してる時点で、ぐちゃぐちゃ言ってもただの否定神学じゃないの? っていうシンプルな指摘。あなたの言う「最高の復讐劇」の「最高」って言葉にその意識が表れてるように見えるんだけど、どうなんだろ。
そもそも、権力と権力"的"は違うからなぁ。それは上に述べたとおり。形式をなぞってるって意味。
「だから非モテなんだよ」ってのは厳密に言うと、「あなたは自らを非モテとラベリングして特権化してるのだから、自家撞着的に非モテのままで問題ないんでしょ」と言う意味と「そんな事も理解できないから非モテなんだよ」って意味を二重に含んでいます。前者の意味であれば、「だからイケメンのままなんだよ」って言説に差し替えたとしても機能しますが(そんな事態が訪れるとは仮定しにくいけど、意味的には可能)
「非モテのうちに入らんよ。」「真の非モテは、ユートピアなど待望すらしない。」
「真の」なんて中心主義的な言葉を使わないと保てない、"非モテ"という否定神学に齧り付いて「待望"すらしない"」と嘯き自己を特権化するしかない、そのマッチョな身振り自体が、非モテが排撃する「恋愛」の無限階梯のパワーゲームと同様の権力構造を析出するという、その矛盾になんで気がつかないんだろう。ふしぎだ。
だから非モテなんだよ。
まあ、非モテは非モテである事がアイデンティティらしいんで、一生非モテである方が幸せなんだろうけどね。
ネタだったら申し訳ないんだけど。