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はてなキーワード: 科学哲学とは

2024-09-14

にんげんのかんがえかたっていっぱいあってたのしいね

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2024-08-04

東浩紀

東浩紀の伝記を書く。ゼロ年代に二十代を過ごした私たちにとって、東浩紀特別存在であった。これは今の若い人には分からいであろう。経験していないとネット草創期の興奮はおそらく分からいかである。たしかにその頃は就職状況が悪かったのであるが、それはまた別にインターネットは楽しかったのであり、インターネットが全てを変えていくだろうという夢があった。ゼロ年代代表する人物を3人挙げるとすれば、東浩紀堀江貴文ホリエモン)、西村博之ひろゆき)ということになりそうであるが、彼らはネット草創期に大暴れした面々である。今の若い人たちはデジタルネイティブであり、それこそ赤ちゃんの頃からスマホを触っているそうであるが、我々の小さい頃にはスマホはおろか携帯電話すらなかったのであるファミコンはあったが。今の若い人たちにはネットがない状況など想像もできないだろう。

私は東浩紀の主著は読んでいるものの、書いたもの網羅的に読んでいるというほどではなく、酔っ払い配信ほとんど見ていない。しかし、2ちゃんねる(5ちゃんねる)の東浩紀スレ古参ではあり、ゴシップ的なことはよく知っているつもりである。そういう立場から彼の伝記を書いていきたいと思う。

1 批評空間

東浩紀は71年5月9日まれである。「動ポモ」でも援用されている見田宗介時代区分だと、虚構時代のちょうど入り口で生を享けたことになる。國分功一郎は74年、千葉雅也は78年生まれである。國分とはたった3歳しか離れていないが、東が早々にデビューしたために、彼らとはもっと年が離れていると錯覚してしまう。

東は中流家庭に生まれたらしい。三鷹市から横浜市引っ越した。東には妹がおり、医療従事者らしい(医者ではない)。父親金沢出身で、金沢二水高校を出ているそうである(【政治番組東浩紀×津田大介×夏野剛×三浦瑠麗が「内閣改造」について大盛り上がり!「今の左翼新左翼左翼よりバカ!」【真実幻想と】)。

東は日能研でさっそく頭角を現す。模試で全国一桁にいきなり入った(らしい)。特別栄冠を得た(らしい)。これに比べたら、大学予備校模試でどうとかいうのは、どうでもいいことであろう。

筑駒筑波大学附属駒場中学校)に進学する。筑駒在学中の特筆すべきエピソードとしては、おニャン子クラブ高井麻巳子福井県実家訪問したことであろうか。秋元康結婚したのは高井であり、東の目の高さが分かるであろう。また、東は中学生時代うる星やつらファンクラブを立ち上げたが、舐められるのがイヤで年を誤魔化していたところ、それを言い出せずに逃げ出したらしい(5ちゃんねる、東浩紀スレ722の555)。

もう一つエピソードがあって、昭和天皇が死んだときに、記帳に訪れたらしい。

東は東大文一に入学する。文三ではないことに注意されたい。そこで柄谷行人の講演を聞きに行って何か質問をしたところ、後で会おうと言われ、「批評空間」に弱冠21歳でデビューする。「ソルジェニーツィン試論」(1993年4月であるソルジェニーツィンなどよく読んでいたなと思うが、新潮文庫ノーベル賞作家を潰していくという読書計画だったらしい。また、残虐記のようなのがけっこう好きで、よく読んでいたというのもある。三里塚闘争についても関心があったようだ。「ハンスが殺されたことが悲劇なのではない。むしろハンスでも誰でもよかったこと、つまりハンスが殺されなかったかも知れないことこそが悲劇なのだ」(「存在論的、郵便的」)という問題意識で書かれている。ルーマン用語でいえば、偶発性(別様であり得ること)の問題であろうか。

東は、教養課程では、佐藤誠三郎ゼミ所属していた。佐藤村上泰亮公文俊平とともに「文明としてのイエ社会」(1979年)を出している。共著者のうち公文俊平だけは現在2024年7月)も存命であるが、ゼロ年代に東は公文グロコムで同僚となる。「文明としてのイエ社会」は「思想地図」第1号で言及されており、浩瀚な本なので本当に読んだのだろうかと思ったものであるが、佐藤ゼミ所属していたこから学部時代に読んだのだろう。

東は94年3月東京大学教養学部教養学科科学史科学哲学分科を卒業し、同4月東京大学大学総合文化研究科超域文化科学専攻に進学する。修士論文バフチンで書いたらしい。博士論文ではデリダを扱っている。批評空間に94年から97年にかけて連載したものをまとめたものである私たち世代は三読くらいしたものである博論本「存在論的、郵便的」は98年に出た。浅田彰が「東浩紀との出会いは新鮮な驚きだった。(・・・)その驚きとともに私は『構造と力』がとうとう完全に過去のものとなったことを認めたのである」という帯文を書いていた。

郵便本の内容はウィキペディアの要約が分かりやすく、ツイッター清水高志が褒めていた。「25年後の東浩紀」(2024年)という本が出て、この本の第3部に、森脇透青と小川歩人による90ページにわたる要約が付いている。森脇は東の後継者と一部で目されている。

東の若いころの友達阿部和重がいる。阿部ゲンロンの当初からの会員だったらしい。妻の川上未映子は「ゲンロン15」(2023年)に「春に思っていたこと」というエッセイ寄稿している。川上早稲田文学市川真人によって見出されたらしく、市川渡辺直己の直弟子である市川鼎談現代日本批評」にも参加している。

東は、翻訳家小鷹信光の娘で、作家ほしおさなえ1964年まれ)と結婚した。7歳年上である不倫だったらしい。98年2月には同棲していたとウィキペディアには書かれていたのであるが、いつのまにか98年に学生結婚と書かれていた。辻田真佐憲によるインタビュー東浩紀批評家が中小企業経営するということ」 アップリンク問題はなぜ起きたか」(2020年)で「それは結婚の年でもあります」と言っており、そこが根拠かもしれないが、明示されているわけではない。

そして娘の汐音ちゃん生まれる。汐音ちゃん2005年6月6日まれであるウィキペディアには午後1時半ごろと、生まれ時間まで書かれている。名前クラナドの「汐」と胎児聴診器心音ちゃんから取ったらしい。ツイッターアイコンに汐音ちゃん写真を使っていたものの、フェミに叩かれ、自分写真に代えた。汐音ちゃんは「よいこのための吾妻ひでお」 (2012年)のカバーを飾っている。「日本科学未来館世界の終わりのものがたり」展に潜入 "The End of the World - 73 Questions We Must Answer"」(2012年6月9日)では7歳になったばかりの汐音ちゃんが見られる。

96年、コロンビア大学大学入試に、柄谷の推薦状があったのにもかかわらず落ちている。フラタニティ的な評価によるものではないかと、どこかで東は推測していた。入試について東はこう言っている。「入試残酷なのは、それが受験生合格不合格に振り分けるからなのではない。ほんとうに残酷なのは、それが、数年にわたって、受験生家族に対し「おまえの未来合格不合格かどちらかだ」と単純な対立を押しつけてくることにあるのだ」(「選択肢無限である」、「ゆるく考える」所収)。いかにも東らしい発想といえよう。

2 ゼロ年代

東の次の主著は「動物化するポストモダン」で、これは2001年刊行される。98年から01年という3年の間に、急旋回を遂げたことになる。「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」はその間の論考である

東はエヴァに嵌っており、「庵野秀明はいかにして八〇年代日本アニメを終わらせたか」(1996年)などのエヴァ論も書いている。その頃に書いたエッセイは「郵便不安たち」(1999年)に収められた。エヴァ本をデビュー作にすることも考えたらしいが、浅田彰に止められたらしい。だからサブカル本を出すというのは、最初から頭の中にあったのだろう。

「いま批評場所はどこにあるのか」(批評空間第Ⅱ期第21号、1999年3月)というシンポジウムを経て、東は批評空間と決裂するが、それについて25年後に次のように総括している。「ぼくが考える哲学が『批評空間』にはないと思ってしまった。でも感情的には移転があるから、「お前はバカだ」と非難されるような状態にならないと関係が切れない」(「25年後の東浩紀」、224-5頁)。

動ポモ10万部くらい売れたらしいが、まさに時代を切り拓く書物であった。10万部というのは大した部数ではないようにも思われるかもしれないが、ここから動ポモ論壇」が立ち上がったのであり、観客の数としては10万もいれば十分なのであろう。動ポモフェミニストには評判が悪いようである北村紗衣も東のことが嫌いらしい。動ポモ英訳されている(Otaku: Japan's Database Animals, Univ Of Minnesota Press. 2009)。「一般意志2.0」「観光客哲学」も英訳されているが、アマゾンのglobal ratingsの数は動ポモが60、「一般意志2.0」が4つ、「観光客哲学」が3つと動ポモが圧倒的である2024年8月3日閲覧)。動ポモ海外論文でもよく引用されているらしい。

次の主著であるゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2」までは6年空き、2007年に出た。この間、東は「情報自由論」も書いていたが、監視否定する立場から肯定する立場へと、途中で考えが変わったこともあり、単著としては出さず、「サイバースペース」と抱き合わせで、同じく2007年に発売される(「情報環境論集―東浩紀コレクションS」)。「サイバースペース」は「東浩紀アーカイブス2」(2011年)として文庫化されるが、「情報自由論」はここでしか読めない。「サイバースペース」と「情報自由論」はどちらも評価が高く、この頃の東は多作であった。

この頃は北田暁大と仲が良かった。北田は東と同じく1971年まれである。東と北田は、2008年から2010年にかけて「思想地図」を共編でNHK出版から出すが、3号あたりで方針が合わなくなり、5号で終わる。北田は「思想地図β」1号(2010年)の鼎談には出てきたものの、今はもう交流はないようである北田はかつてツイッターで活発に活動していたが、今はやっていない。ユミソンという人(本名らしい)からセクハラ告発されたこともあるが、不発に終わったようである結婚して子供もできて幸せらしい。

その頃は2ちゃんねるネットの中心であったが、北田は「嗤う日本の「ナショナリズム」」(2006年)で2ちゃん俎上に載せている。北田は「広告都市東京」(2002年)で「つながりの社会性」という概念を出していたが、コミュニケーションの中身よりも、コミュニケーション接続していくことに意味があるというような事態を表していた。この概念を応用し、2ちゃんでは際どいことが言われているが、それはネタなので心配しなくていいというようなことが書かれていた。2ちゃん分析古典ではある。

東は宮台真司大澤真幸とも付き合っているが、彼らは北田のように鋭くゼロ年代を観察したというわけではなく、先行文献の著者である。宮台は98年にフィールドワークを止めてからは、研究者というよりは評論家になってしまった。大澤は日本ジジェクと称されるが、何を論じても同じなのもジジェクと同様である動ポモは彼らの議論を整理して更新しているのであるが、動ポモも「ゲーム的リアリズムの誕生」も、実際に下敷きになっているのは大塚英志であろう。

宮台や大澤や北田はいずれもルーマンであるが、ルーマンっぽいことを言っているだけという印象で、東とルーマンも似ているところもあるというくらいだろう。しかし、ルーマン研究者馬場靖雄2021年逝去)は批評空間に連載されていた頃から存在論的、郵便的」に注目しており、早くも論文正義門前」(1996)で言及していた。最初期の言及ではないだろうか。主著「ルーマン社会理論」(2001)には東は出てこないが、主著と同年刊の編著「反=理論のアクチュアリティー」(2001)所収の「二つの批評、二つの社会」」ではルーマンと東が並べて論じられている。

佐々木敦ニッポン思想」(2009年)によると、ゼロ年代思想は東の「ひとり勝ち」であった。額縁批評などと揶揄される佐々木ではあるが、堅実にまとまっている。類書としては、仲正昌樹「集中講義日本現代思想 ポストモダンとは何だったのか」 (2006)や本上まもる「 “ポストモダンとは何だったのか―1983‐2007」 (2007)があったが、仲正は今でも読まれているようである。本上は忘れられているのではないか。この手の本はこれ以後出ていない。需要がないのだろうか。

佐々木の「ひとり勝ち」判定であるが、そもそもゼロ年代思想土俵を作ったのは動ポモであり、そこで東が勝つというのは当たり前のことであった。いわゆる東チルドレンは東の手のひらで踊っていただけなのかもしれない。懐かしい人たちではある。

北田によると、東の「情報技術公共性をめぐる近年の議論」は、「批評が、社会科学的な知――局所から全体を推測する手続きを重視する言説群――を媒介せずに、技術工学的知と直結した形で存在する可能性の模索である」(「社会批評Introduction」、「思想地図vol.5」、81-2頁)ということであるが、ゼロ年代の東はこういう道を歩んでいた。キットラーに似ており、東チルドレンでは濱野智史がこの道を歩んだのであるが、東チルドレンが全てそうだったわけでもなく、社会学でサブカルを語るというような緩い営みに終始していた。宇野常寛などはまさにこれであろう。

佐々木ニッポン思想」と同じ2009年7月に、毛利嘉孝ストリート思想」が出ている。文化左翼歴史をたどっているのであるが、この頃はまだ大人しかった。ポスコロ・カルスタなどと揶揄されていた。しかし、テン年代佐々木命名から勢いが増していき、今や大学メディア大企業裁判所を押さえるに至っている。しかし、ゼロ年代において、動ポモ論壇と比較できるのは、非モテ論壇やロスジェネ論壇であろう。

非モテ論壇は、小谷野敦の「もてない男」 (1999年)に始まり本田透に引き継がれるが、ものすごく盛り上がっているというほどでもなかった。本田消息が分からなくなり、小谷野2017年から売れなくなった。ツイッターでは雁琳のような第三波フェミニズムに応対できる論者が主流となっているが、そういうのの影に隠れたかたちであろう。大場博幸「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会包摂」(2021年教育Permalink | 記事への反応(13) | 17:44

2024-07-02

anond:20240702081617

時代おくれの論理。いまでは廃れてる。

検索避けって科学的エヴィデンスはあるの?

……ではダメなのかな。

決定的な敗因は、現在ポルノモザイクとか映画ゲームレーティングかにも、何ら科学的エヴィデンスはないということ。日本同調圧力の強い国だからエヴィデンスが無くったって右にならえで通ってしまう。コロナ時代マスクを思い出して。法治主義科学哲学の反駁可能性は一般日本人には知られてない。人々を支配する原理平成天皇最大の発見、「お気持ち」。

2024-06-09

anond:20240609135913

https://anond.hatelabo.jp/20240609120330増田です(今のところ他のはわたしではない)。とても大事な指摘だと思って長文書きながら読み直そうと思ってリロードしたら消えていたので中途で放流するね… 読んでくれなくていいし多分後で消す

とりあえず精神病精神疾患単語としての区別は、ややこしいだけなのでここでは忘れてください(精神病言葉ジャンルとしてはメヒョジャミチャー症候群みたいなものと思ってくれたらいいかもしれない)。

わたし理解が間違ってなければ、ここで使っておられる「精神病」は医者がこれこれの精神科病気ですと言って治療をしようとするアレ、「正常も異常も地続き」っていうところのあえて言えば異常サイドってことですよね。「精神科病気」とかぎ括弧つけて呼ぶことにしましょう(概念として存在しうると仮定して)。

一方「精神疾患」はその手前にあるもので、精神的な症状とかしんどさとかの特定パターンみたいな意味でしょうか。病気かどうかはともかくとして、もともとのAさんの状態とは違っていて(「精神疾患になる」ということがあって)、それが続くと「精神病」になることもあると。正常な心理的な反応として理解できる範疇で、誰でも一時的には起こりうる、みたいなイメージもあるでしょうか?これは長いけど「精神的症状のある状態」としてみます。例えば激務が続いてしんどくなって(あなたの「精神疾患」=ここの「精神的症状のある状態」)、その状態が続くと治療必要になったり病名がついたりする(あなたの「精神病」=ここの「精神科病気」)。 

ここまで合ってるか自信がないんですが、何にせよ「正常も異常も地続き」ではとか「一般人と切り離す」のに引っかかるとかはめちゃくちゃ大事なところな一方、明確な答えを持っているとは言えない。もっと科学哲学流行るべきだと思うのですが、なかなかそういうわけではない。一方生物学的な進捗のほうも、正常と異常をなまもの物理実体としての脳や体から見分けることは今のところできそうにない。わたし自身不勉強で、過去精神医学がたどってきた議論をまとめて書くこともできそうにない。

…みたいな書き出しで

みたいなことから書き始めていました

2024-05-28

伝説科学哲学ソーカルさん、トランス批判してしま

https://thecritic.co.uk/woke-invades-the-sciences/

性に関する事実単純明快であり、高校生物学の授業で習うようなことである。ほぼすべての動物や多くの植物有性生殖を行う。ほとんどすべての有性生殖を行う多細胞種では、卵子と呼ばれる大きな配偶子精子と呼ばれる小さな配偶子が結合することによって生殖が行われる。植物動物の中には卵子精子の両方を産む「両性具有」の種もあるが、哺乳類には両性具有の種はない。哺乳類では、各個体は1種類の配偶子しか産まない。比較的少数の)卵子を産む個体は雌と呼ばれ、(多数の)精子を産む個体は雄と呼ばれる。哺乳類の胚が雄になるか雌になるかは、(少なくともうまくいった場合、つまりほとんどすべての場合)一対の性染色体によって決まる: メスはXX、オスはXYである

赤ちゃん名前は出生時に決定される。 しかし、赤ちゃん性別は「割り当てられる」のではなく、受胎時に決定され、出生時にまず外性器検査によって観察され、疑わしい場合には染色体分析によって観察される。もちろん、どのような観察にも誤りはありうるし、まれ出生証明書に報告された性別不正確で、その後修正される必要がある場合もある。しかし、観察が誤りやすいからといって、観察されているもの、つまり人の性別が、血液型指紋パターンと同じように、客観的生物学現実であり、「割り当てられる」ものではないという事実は変わらない。

冷静な心を持った科学者たちが、このような簡単反論できる見解を唱えざるを得なかったのはなぜだろうか?その原因は明らかに政治的ものである医学界の権威が、生物学現実について正直に語りたがらないこと、そしてそれを不誠実に語ることに無頓着であることは、トランスジェンダー人権を守りたいという称賛に値する願望からきているのだろう。 しかし、その目的は称賛に値するが、選択した方法は見当違いである。 トランスジェンダーの人々を差別ハラスメントから守るためには、性別が単に「割り当てられたものであるかのように装う必要はない。

科学哲学鳥類学者が鳥の役に立つ程度にしか科学者の役に立たない」というファインマン言葉があるが、批評家批評対象関係も似たようなもんだよな

2024-03-22

anond:20240322122217

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5/15

理学部物理学教室 浅川

科学哲学第二」のレポートは、5/31 までに1号館1階の浅川レターボックスに提出すること。

このレポートを提出しない学生には、単位は出ません。

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6/3

理学部物理学教室 浅川

期限を過ぎて提出されたレポートは、いかなる理由があろうとも 受けつけません。

締切を過ぎてもまだ私のレターボックスに「科 学哲学第二」のレポートを入れる者が居ますが、5/31 の午後 5:00 以降に投函されたレポートは全て破棄しました。

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6/4

理学部物理学教室 浅川

「5/31 まで」と書いたら「5/31 の午後 5:00 まで」の意味です。

こんなことは社会常識です。

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6/5

理学部物理学教室 浅川

他の教官が午後 12:00 まで受けつけていても、関係ありません。

反例を幾つ挙げようと、定量的に述べなければ意味がありません。

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6/8

理学部物理学教室 浅川

なぜその熱意を使い、もっと早くにレポート作成しないのか理 解に苦しみますが、とりあえず午後 12:00 まで受けつける教官過半数であることは理解しました。

よって、6/15 の午後 12:00 まで「科学哲学第二」のレポート提出期限を延長します。

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6/10

理学部物理学教室 浅川

「6/15 午後 12:00 まで」ではなく「6/16 に浅川レターボック スを開けるまで」ではないか、との意見がありましたが、これら は全く違います。必ず 6/15 中に提出するように。

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6/12

理学部物理学教室 浅川

私のレターボックスに猫の死骸を入れたのは誰ですか。

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6/13

理学部物理学教室 浅川

「私がレターボックスを開けた瞬間に波動関数収束し、内部状 態が定まるので、レターボックスを開けるまではレポートが提出 されたかどうか分からない」と主張したいことは分かりました。

今回は、提出場所を1号館302の浅川研究室前のレポート提出 用ボックスにします。

この箱は、6/15 午後 12:00 にシュレッダー へと自動的に切り換わるので、シュレーディンガーの猫の問題は発生しません。

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6/16

理学部物理学教室 浅川

いかげんにしなさい。午後 12:00 は「グリニッジ標準時」では なく「日本標準時」です。

これは常識以前の問題です。

普段日本時間生活しているくせに、レポート提出時だけグリ ニッジ時間を求めるなど言語道断です。

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6/18

理学部物理学教室 浅川

信じ難いことですが、「科学哲学第二」を受講する学生過半数グリニッジ標準時生活していることが分かりました。

夜型にも程があるとは思いますが、とりあえずレポートの提出は6/30 の午後 12:00 GMT まで待ちます

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6/22

理学部物理学教室 浅川

時間連続性についての疑義は受けつけません。どうやらベルグソン時間論を曲解している者がいるようですが、主観的時間がどうあれ、 7/1 の後に 6/30 が来ることはありません。

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「それで、確かに君は 6/30 中にレポートを提出したというんだね?」

浅川助教授皮肉っぽい口調で生徒に尋ねた。

「ええ、ギリギリでした」

まだ若い学生が無邪気に答える。

「だが、君のレポートは私の手元には無い。君は時間を間違えたのではないかな?」

「いいえ、日に 0.1 秒も狂わない、正確な電波時計を使っていますから

先生レポートボックスこそ、時刻を間違えたんじゃないですか?」

冗談だろう。GPS 補正で ±5 ミリ秒の精度で合わせてある」

「それで、24:00 GMT ちょうどにシュレッダーに切り換わるわけですね?」

「そうだ」

「うーーん。あ、そうだ。多分うるう秒の差ですね」

うるう秒?」

「ええ。グリニッジ標準時、正確には協定世界時と言いますが、

これは太陽の公転周期から計算する平均太陽時と違い、原子時計によって

計られることになっています。この協定世界時と実際の天文時刻との

差を縮めるため、12/31 や 6/30 などの午後 24:00:00 に、閏年2月29日

と同様の 1 秒を挿入することがあるんです。いやあ、このうるう秒

間に僕はレポートを提出して、先生シュレッダー動作したんですね。

困っちゃうなあ。学生レポートもっと大切に扱ってくださいよ」

学生は目をキラキラさせながら答える。

科学哲学第二のレポートは、まだ集まりそうにない。

anond:20240321122400

締切の話で 「科学哲学第二」のレポートネタが出てこないのは時の流れを感じるな

2023-09-12

anond:20230912195121

科学者科学哲学を学ぶことには意味があると思うし、

科学者示唆を与えてくれるような科学哲学者にも存在意義があると思うけど、

科学にちっとも貢献しないやつが科学哲学適当に聞きかじって振り回しているのを見ると、薄ら笑いしか出てこない。

下世話に言えば、童貞AV博士セックスを語るのを拝聴する気分。

2023-05-21

anond:20230521124221

それな。なんであんなしつこく絡んでくるんだろ。哲学科学哲学一家言あるの自慢したいのかな

2023-03-05

科学哲学やってんなら国際英文誌に査読つきで論文出せよ

日本国内雑誌に出した論文だけでも素晴らしいと評価される分野があるのは理解出来る

それはそれとして科学全体をテーマにした科学哲学を専門にしてる人達ちゃん国内英文誌に出せって思う

日本雑誌でなきゃいけない事情なんてロクに無いだろ…

そして雑誌のIFもモロに見られるべきである

ホント…ただ日本語の本出してるだけで科学哲学の研究者面してる人とかさぁ…

2022-11-27

哲学科の意義

昨日あたりからやたらとたたかれてるけど、個人的言葉定義を厳密にやろうとかそういう話は大好物でどんどんやってほしい

ただ哲学の人と話していて悲しくなるのは、言葉定義し言い換えゲームをやった後でそこから特に何もないことなんだよね

お前は翻訳機かよって言いたくなる

それも他分野へのリスペクトが足りず曖昧訳語を作って謎の枠組みを作った後、そこから連想ゲームで別解釈を初め、その曖昧さを利用して最終的によくわからない結論を導く

いやそれお前の訳語曖昧なせいだからwwwみたいなことを思ったことは一度や二度ではない

過去の立派な哲学者がどうなのかは知らんが、哲学ってある種の思考の体系なので、普通にどの分野をやっていても哲学っぽい話は生じるし、そこであえて「哲学」をメインにいろいろやろうっていう人が最終的に何を目指しているのかわからない。分野specificでない一般的哲学をできるほど頭のいい人は(今の科学が発展しすぎて)全体を包括するような理論を作れないことに早々に気付いて個別分野をやっていて、それに気づけない、IQも足りてなさそうな二流の人間が小難しい言葉で煙に巻きつつなんかわめいている感じがある。私見

(今思ったがこれ科学哲学限定の話だな)

2022-11-14

はてなーで「3種の読書

クリエイティブになるには、3種の読書を1000日続けよ

https://note.com/hoshinomaki/n/n1c2fd844ed21

これ。毎日、(短編)物語1つ、詩を1つ、論考(essay)を1つ。

面白そうだけど、3種×1000個も探してらんないじゃん。今こそ集合知じゃん。よろしくお願いします。

自分から

  1. 川端康成掌の小説』より『火に行く彼女
  2. 谷川俊太郎『62のソネット+36』より『今日
  3. 野家啓一『「実証主義」の興亡 -科学哲学視点から-』 https://www.jstage.jst.go.jp/article/ojjams/16/1/16_3/_pdf

1種類だけでもいいし、元動画が言うほどビッグネームじゃなくていいよ。歴史に残っててぱっと読める論考なんて知らないよ

別にマイベストじゃなくていいから気兼ねなく頼むよ

2022-11-04

anond:20221102154429

確率人類にはまだ早いから仕方がない。

確率とはなんなのか?という疑問には、コルモゴロフの数学構造を認めても答えは出ないのです。

頻度主義ベイズ主義の血で血を洗う抗争に身を投じて科学哲学の深奥に迫ってくれたまえ。俺はやんないけど。

2022-10-13

anond:20221012124620

アブのおかげで長者になったわけではない

男が藁を手にした時点でアブは男の周りを飛び回る運命が決定づけられていたのである

アブに自由意志はない

なぜらなもしアブが男の周囲を飛び回らなければ男は長者になることは無かったのであり

これすなわち観音が嘘をついたことになってしまうからである

アブに自由意志は無いが、男は手にしたもの観音のお告げ通り大事に持っているか棄ててしまうのか自己決定可能

棄ててしまったら長者になれなかったわけだが

男には自由意志があるのである

このおとぎ話は非常に科学哲学的な話なのであーる

2022-10-03

anond:20221003003435

あの漫画科学哲学の扱いがめちゃくちゃモヤモヤする

反証可能性っぽい話を登場人物がするけど、反証可能性ポパーが唱えるのって地動説なんかよりも全然先の未来だかんなって感じてしま

地動説科学重要性を説明するのに作中でさらに先の概念である反証可能性」の話をするのはズルいというか、命がけで「地動説」を受け継ぐ話なのに、科学の発展の話なのに、発展した先の未来概念持ってくんのは道理が通ってなくない?と思ってしま

大航海時代にどらえもんが「どこでもドア使う?」って言って台無しにしているような感じがする

2022-09-26

anond:20220926143640

理系だったか大学時代の友人もほとんど理系だが、科学哲学よりの話はたまにするぞ。おまえの周囲ではワンピースの話しか通じないだろけど。

2022-09-10

anond:20220910145914

から頻度論なら「同じ観測」を何度もやってカウントした頻度のことだと定義する(しかない)し、ベイズ決定理論なら観測者の頭の中にある行為の決定基準が期待効用として書けるときにそこに出てくるものを「確率」みなす定義してるだけやで。そっから先は科学哲学やるしかないと思うで(やってもあんまり意味ないと思うけど)。

2022-07-24

anond:20220724022334

よく知らんけど、科学方法論だったり、パラダイムだったりを扱うのは科学哲学の領域からそこらへんの本を読むといいと思う

2022-07-20

anond:20220720124155

なんか一冊だったら『人間 この信じやすもの』をおススメするよ

人間がなぜ間違った考えを信じてしまうのかを解説する本だよ

何でこれをおススメするかと言うと単純に読み物として面白い本からだよ

あいうの信じちゃう人がいるけど、こういう理由からだよと根拠を示しながら、ばっさばっさと誤認あるあるを切り捨てていく様は読んでいて痛快で楽しい

また、なんとなくあれって胡散臭いと思うけど、その理由言語化できないなあってことを平易な言葉説明してくれて、ぼくとしては腑に落ちる感じがすごくしたよ

一冊限りでこの本をおススメする理由としては、この本を読むことで他の本の説明が理にかなっているか考えることができるようになるからだよ

この本を読むことで胡散臭いものへの嗅覚がかなり鋭くなるよ

この本は誤認を認知的・社会的側面からとらえた本でしかいから、そもそも科学科学ってだけで妄信していいの?って思う人には『科学哲学冒険』がおススメだよ

科学哲学冒険』を読むと、文系でも科学とは云々が語れるようになるし、疑似科学科学の線引きができるようになるよ

哲学って難しいって思う人もいるだろうけど、この本はセンセイと文系テツオくんと理系リカちゃんの会話形式で話が進んでいくのでとても読みやすいんだ

『チ。』っていう漫画最近話題になってたけど、『チ。』の登場人物セリフの中には科学哲学の考えを元ネタにしてるものがあるから、『科学哲学冒険』を読むと『チ。』について科学哲学的な話題がだせるようになるかも

ぼく自身は『チ。』の舞台中世なのに、登場人物自分が思いついたこととして、1900年代のポパー反証可能性っぽいことを言及することについていまだに上手く気持ちの整理がついてないよ

2022-07-19

anond:20220719143323

そもそも「本当にある」ことを確定させることは原理的にできないんだよ。

科学哲学の初歩を勉強してこい(そんなの勉強しなくても考えれば分かることではあるが)。

2022-06-05

anond:20220605214725

科学論文とかの相互批判モデルもそうですけど

批判というのは

議論価値自体を認めない、一連の議論そもそも価値だという批判

議論価値自体は認めるが、事実認識に誤りがあるという批判

の2パターンあって、両者を形式的類推して判定できないとそもそも相互批判が成立しないのでは

建設的な議論と言うなら、議題自体価値はとりあえず認めないと無限に発散するし

前者だったらメタ科学なり科学哲学のレベルになるかもしれないし、ペーパーやリプライレベルでやっても不毛でしょう

それを本当にやり合うならともかく、リプライレベルでなんの根拠もなくそういう話を持ち出してくるのは

水掛け論を狙った難癖だとして却下するのはそこまで特殊立場だとは思いません

まあ長くなったのでこのへんでやめときます

2022-03-26

anond:20220326024434

自然科学とは何か、という議論は確かにまり聞かないね

科学とは何か、は科学哲学という分野があるくらい大事だけど、自然科学とは何か、はあまり見解の不一致がないので語られないのだと思う

一方で、人文科学とか社会科学にとってのその疑問はその分野のアイデンティティに関わることだから、色々と語られてるんじゃないですかね

2022-03-05

悪魔の証明

そもそも考えてみれば悪魔の証明とは二値(真偽)命題特殊な例に過ぎない

たとえば「生きている」は「死んでいない」ともいえる。

「死んでいる」は「生きていない」ともいえる。

ある人間に関して、生きているかどうかという証明は、死んでいるかどうかという証明でもある。

一体証明義務はどちらが負うべきなのか?

かりに否定文を主張する人が負うべきと考えてみても「死んでいない」と主張する人間が負うべきとも「生きていない」と主張する人間が負うべきともいえてしまう。

翻って「全くないかどうか」という話はそもそもあるかないか」という話ともいえる。

悪魔の証明はなぜか根本的には真偽命題という構造が同じもののなかで、存在論に関する命題だけを特別視し「あると主張する方が証明せよ」ということにしている。

しかしその理屈はどこにあるのか?

前の例になぞらえれば、「ある」は「存在しないわけではない」と否定文にもできる

「ない」は、「全く存在しないという認識事実に反する」「反さない」とこれもまた肯定文と否定文と自由に行き来できる形式に置き換えられる。

悪魔の証明一見(なぜか存在非存在に関する命題に限って)肯定文を主張する側が証明せよという約束事に見えて、実はそこには一貫性がないのだ。

上のことを踏まえて、なんで悪魔の証明詭弁とすることが都合のいい弾圧じゃなく合理的ものなのか説明することは可能か。

悪魔の証明っていうのは対立側が存在しないということが証明できなければ自分たち存在するという主張を真とすること

俺がやってるのは存在しないということが証明できなければ、わからないということにすべきだと言ってるだけのこと。

俺は存在するということが証明できない人間にも、わからないということにすべきだというだけなので、俺の発言動機自分にとっての都合のよさとか党派性はない。公正な態度で議論しているに過ぎない。

悪魔の証明否定する人間には悪魔の証明をしてくる側が正しい証明をできなれば存在しないということを真とするという人が往々にしている点で自分達が嫌悪してる人間と同じ穴の狢なんだよね。

からないことをわからないということにできない時点で、悪魔の証明を用いる人間も、用いて来た側の主張を無効にするような人間学問にはそぐわないんじゃないかなって思える。

自分なりに悪魔の証明について考えてみて、やっぱり悪魔の証明詭弁に組み込むことには合理性がないように思えるのでした。それを詭弁とする方が結局学問の妨げになるんじゃないかという科学哲学的な意見をここに残しておく。

今でこそ確かに悪魔の証明学問でも唾棄されているようだけどね。

学者自身別に哲学やってるわけじゃないか悪魔の証明というものについて深く考えてみた人は少ないからこの現状なんじゃないか

悪魔の証明を悪しきものとする考え方は結局、どちらかといえば誤まった事実認識を横行させる方向に強く働くのではないのか。これを詭弁としないほうがましになるかもしれない。

2022-02-04

繰り上がりの計算を教えてもらえればだいたいどんな桁数でも計算できるじゃん?

同じように「光速度不変の原理」ってものさえあれば特殊相対論効果が関連するどんな状況設定に対してもこうなるという解を論理的に導き出せるはず。

でも実際は「お互いに反対方向に光速の90%で進むもの同士があるのは相対論矛盾してるか→してない」

「公転を公転を公転するものって光速超えない?→超えない」「一秒までの時計光速一秒分ある巨大な時計ってどうなってるの→秒針がうずをまく」

みたいにそれぞれに応じて適切な解を「光速度不変の原理からだけで導き出せる人は少ない。

ようするに手ほどきが雑なんだよ。もっといろいろな状況設定自分でできてかつ自分で考えられるように、つまり応用が効くようになるためには言葉足らずだと思うん

だ。

なんというか正の数と正の数を足し合わせたら数が大きくなりますってすごく雑な法則を教えてもらってるだけって感じ。それでは繰り上がりの計算ができるようにはならないし、実際もっと筆算の手順は具体化されている。

同じように「光速は不変なんです」だけじゃなくて、もっと具体的に教えるべきことがあると思うんだよね、ってか絶対あるでしょ。

科学哲学の話がしたいんじゃなくて、自分の頭で考えられるようになりたいだけ。それには教えることがが足りてなさすぎてるんじゃないのって話。

本来は同一の法則から導ける問題なのにちょっと状況設定が変わってるだけで他人に聞かないと分からないなんて状態は不便すぎるもの。いちいち会計とかで他人に聞かないと合計額がわからない頭のままなのは不便でしょっていうのと同じで。

あなたのようなすでに理解してる側は初心というか初学者の頃のことを忘れてしまっているというか、理解できない側にいる人の気持ちがわからなくなっちゃうみたいだけど。

あなたも初学者のころは光速度不変の原理提示されてもすぐにはさまざまな状況設定に対して的確にこうなるという解を導き出せなかったころはあったと思うよ。

もしそんな雑な説明理解できる人だらけだったらそんなのより程度の低い高校物理でもあんだけ問題集が出てるわけないし。

さっき手ほどきが雑って書いたけど足し算引き算なんて大人にとっては簡単概念なはずなのにわざわざ「さんすうセット」なんて買わせておはじきとかで教えるでしょ。

そりゃ子供にとっては足し算引き算だって真新しい概念から当然。これを当然とするなら相対論大の大人にとっても十分真新しい概念たりうるから学ぼうとする人には同じようにもっと直感的な理解の助けになるような教材とかも充分用意されてるべきなんだよ。

anond:20220203192223

anond:20220203193029

anond:20220204141338

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