はてなキーワード: マッチョとは
最近、はてな村では名古屋(愛知)はコスパが良いという言説を見かけます。
確かに愛知県付近はトヨタを中心に製造の大企業が多く工業出荷額も日本No.1です。(以前に書いたこちらを参考に)
大企業の期間工や派遣になればそれなりの賃金や住まいも貰えます。
県としては関東の都市に比べれば人口密度も高くなく、中心都市の名古屋に行けばそれなりに何でもあります。
ですが、少し考えてみてください。あくまでも地方の工業都市なんです。
名古屋で育った人間は名古屋で就職が可能なのです。つまり、社会人になっても学生時代の人間関係を維持することが可能なのです。
この強固な人間関係に地方から出てきたコネのない人間が人間関係を築くにはそれなりの能力が必要です。
工業都市ということは仕事で多いのは工場の現場です。長年培ってきた工業は歴史を持ち、歴史があるということは人間関係が複雑なのです。
年長者、中堅、若手、世界からやってくる出稼ぎや移民労働者。多様性の高い人間層に地元コミュニティ。
コミュニケーション能力や忍耐はそれなりに必要です。そんな能力があるのであれば東京で働いた方が良いかもしれません。
しかし、キラキラ感は東京・大阪に比べれば一段も二段も落ちることになるでしょう。
加えて工業都市ならではの商習慣が強い言われます。そんなところでキャリアを積むくらいならアジアに近い福岡で働いた方が未来があるかもしれません。
「隣の芝生は青い」という言葉がありますが、ネットに転がっている適当な数字を見て名古屋(愛知)は良さそうだなんて思わないでください。
自分の価値観と合わない人間を女々しい呼ばわりして決めつけするような傲慢なマッチョイズム押し付けに少しも恥じ入る所がない人間がよく国粋主義者ぶっていられるよなあ
俺は時代の変化をキャッチせず凋落の原因も直視できずにユーザー側の見る目がないと悪者にする、そんな歪んだ国粋主義に陥る独善的な裸の王様気質の人間こそが、女々しい夢想家だと思うんだが違うか?
本当に国を憂うなら成功してる他国のもんを腐すのではなく大いに学んで教訓にするよう呼びかけるべきじゃないのか?出来の悪い国産モノを支えきれなかったユーザーのせいにするよりよっぽど建設的だろうに
https://www.hotpepper.jp/mesitsu/entry/kinniku/2024-01132
ここのブクマが鶏肉について面白い論争になりつつあったんでいい加減にまとめてみた。
【調理法など】
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20241206120752
kakaku01 Twitterの文句はTwitterで言え。/つか引用と一行しかない主張すらまともに読まずに表題だけでブコメしてるやつめちゃくちゃ居てビビる。
ireire Twitter晒し上げはtogetterでやれよ
Gl17 発端はやっぱ「女は~」で、女性側が言い返すとこうして晒される辺りが陰湿、Xの自分垢でやれ。むしろ男オタが無暗とカネ落とす自慢みたいの多いがマッチョイズム臭いし、資本主義に踊らされ過ぎ感あって嫌い。
外野から斧投げるために発明されたSNSであるはてなブックマークを常日頃使用している人間がそれ言って良いと思ってるんか?
お前らXのポストやTogetterなどをブックマークして相手から見えない立場を維持しながら陰湿に叩いたことないんか?
それとも神の選民であるはてなブックマーカーにだけはそのような暴挙も許されると過信しているのか?
・自発的に観たいという気持ちはなく人付き合い目的で観たが面白かった
・ワイルド・スピード(タンクトップを着たマッチョ禿男性がニトロエンジン積んだ車で爆走する)とラストマイル(利便性を追い求め過ぎて最終的には自分たち自身の首を絞める)成分もあったしモルカーの「可愛さ」「オーナーとの絆」という「この作品にしかない要素」で話しの中心が作られててイイネ!ってなった
・クリエイターの独りよがりでなく観ている人を楽しませるエンターテイメント作品
として作ってくれてる感じ、ここのところ作品に接して心がささくれてたので
染み入った ありがてえ… エンターテイメントですよ…
素直に楽しませてくれる…
・本編も面白かったしエンディングロールのプイプイ音とピアノの曲が良すぎたのでちょっと涙滲んだ
喋り方
あの団体も一方的に「悪!」っていうじゃなくて「お前らのやった事も無駄じゃなかった」っていう着地点だったの良…
・「食ってみろ、トブぞ!」が何度も擦られるとは思わないじゃん…
・うんちネタの取り扱いとかドッジにエネルギー錠が入るまでのリレーとか「子供向け作品のリアリティライン」のところはあったけどそれはそれとして作品として「わかりやすく」「視聴者を飽きさせず」「説教臭くならないがそれとなく社会問題を脚本に織り込む」作品を作れるクリエイターさん達はすごい…と思った
・公開初週土曜日
30〜50代が15人くらい
『メタ認知能力が極端に欠けている人』って表現は、"自惚れていてる"とか"井戸の中の蛙"みたいな評価に限定して使われているイメージがあります。
けど、ここで言いたいのはそういうことじゃなくて、エラー処理とか停止処理みたいな超基本的な考え方すら持ってなくて、それに気づけないままでいられる人のことです。
具体的な方法を知らないとかじゃなく、そもそも「そういう発想自体がない」って話で、これは単なる知識不足や視野の狭さ以上に、認知の仕組みそのものに問題があります。
時間が自然に解決してくれるようなものじゃなくて、かなり厄介な問題だと思います。
エラー処理とか停止処理って、ITだけの話じゃなくて日常でも必要なスキルです。
たとえば、「お目当てのプリンが冷蔵庫にないことを確認」(エラー検知)したら、フツーは「今日はプリン食べるの無理だな」って切り替えるじゃないですか。
冷蔵庫を何度も開け続けるのはちょっと変で、フツーは「開けるのをやめる」(停止する)って行動に移りますよね?
仮に、寄生獣に取り憑かれたために、冷蔵庫を開け続けちゃうのだとしても、「右手が勝手に動いてる?」って気づければ、他の方法を考えることができます。
けど、この『気づき』がなかったら、問題解決はかなり難しいです。
メタ認知は知識の応用力、いわゆる"知識移転(Knowledge Transfer)"にもめちゃくちゃ重要です。得意分野や好きなことだと、この力が特に発揮されやすいですよね。
たとえば、熟練プログラマーが別の言語でもスキルを応用できるのも知識移転の力があるからです。
でも、興味が薄い分野や苦手分野だと同じ力を発揮するのは難しい・・・それは自然なことではあるのですが、基本スキルや共通原理くらいはちゃんと押さえておくことが期待されます。
たとえば、プリウスの運転手が軽トラックをまったく運転できなかったら、それは個性とかそういう話じゃないですよね?致命的に知識移転能力が欠けてるってことです。大きさや操作性が違うにしても、ハンドル操作とか交通ルールみたいな共通点を活かせないのは深刻です。
仮に、共通点を見出せ無くなったのは異世界おじさんに「記憶消去魔法(イキュラス・キュオラ)」をかけられたからだとしても、「もしかして、記憶を消されてる?」って気づければ対処方法を考えることができます。けど、この『気づき』がなかったら、問題解決はかなり難しいです。
知識転移がうまくいかないのは、異世界おじさんに記憶を消されて気づかない以外にも、その対象の理解がそもそも極端に浅いことも大きな原因になっていそうです。
たとえば、『りんご=赤』って覚えるのは、学習コストを下げるためによくあることです。この簡略化を意識できる人は、この情報がいろんな側面の一つにすぎないってちゃんとわかっているので、黄りんごも青いりんごも許容します。りんごの品種や生育環境、熟成度みたいな要素が色に影響するんだろーなとか、味とか他の特徴も多次元的に捉えています。さらに、必要があれば「なんで赤いんだろう?」とか掘り下げて学ぼうとするオープンな姿勢もあります。
多次元的に対象を見れる人は、『見たままをありのままに受け入れて、自分の直感を大切にできる人』と言い換えても良いかもしれません。
だってりんごは、どう見たって単色の赤じゃないですからね。視覚的にも直感的にもそう感じるはずです。
一方で、こういう視点や意識(見たまま受け入れる、自分の五感や直感を信じる)がない人たちがどうなるかというと、
『りんご=赤い』っていう単純な答えでテストに合格して、「自分の理解は完璧だ!」って思い込みます。
現行のシステムでは、ぶっちゃけ深掘りする必要性がないので、結果として表層的な学びに終始してしまうのです。
で、こういう表層的な学習パターンが続くと、やがて複雑な問題に対処できなくなります。
同世代と話してもピントがずれた会話をしたり、科学、医療、社会問題、仕事の議論でトンチンカンなことを言ったりしてしまうわけです。
違う文脈で知識を応用するなんて、そもそもの理解が浅いと到底無理な話です。
新学習指導要領のSelf-Regulated Strategy Development (SRSD :自己調整型学習)って『自分で考えて学ぶ力』の改善策としてまあまあ良さそうだけど、
現状の受験システムとか評価基準が表層的な学びを助長するままだと、限界はある気がします。
それなら、メタ認知がないAIが多次元的に学んでいくプロセスを観察して、新しい教育のヒントを探すほうが面白いかもしれません。
増田のタイトルの通り、学歴があっても、長文を読んで理解するどころか、単純化された動画の内容さえ把握できなかったり、同世代との会話がどこまでも噛み合わなかったり、仕事の指示が通らなかったり、そんな人っていますよね?
これって、上記に書いてきたように、メタ認知能力が極端に欠けてることや、知識移転能力の欠如、表層的な学習が積み重なった結果なんじゃないかと確信を持っています。
大卒以上であっても、こういう人が無視出来ない数いるのは、正直「なんで?」って思う人が多いんじゃないでしょうか。でも、この「なんで?」の背景には、「勉強やデスクワーク=知的で選ばれたもの」っていう妙な誤解がある気がします。この固定観念が、現代社会における知性や労働の本質を見誤る原因になってるんじゃないかなと思います。
しかし、その一方で、社会の基盤を支える多くの職種が軽視され、不当に評価されている現状があります。
なぜかというと、"知識労働者(Knowledge Worker) "ではなく、"知的労働者" って呼称が使われたりすることからもわかるように、肉体労働者は知能を使わないみたいな妙な誤解を悪用し、仕事の複雑さや多様性を極端に単純化し、賃金差別(経済格差ではなく差別が適切)を正当化する輩がいるからです。
実際は、デスクワークだけでなく、フィジカルワークにも、高い認知能力は不可欠です。
例えば、エラーを検知し、適切なタイミングで作業を中止し、問題を解決する–これらは、メタ認知能力と深い経験に基づく高度な知的作業ですよね?プログラム組んだことなくてもロボットを作ったことなくても、誰しも直感的に知っていることです。
障がい者雇用に最適化された職場を除けば、こうした能力に欠ける人がフィジカルワークに適応することは非常に困難です。その理由は単純で、迅速に適切な判断ができなければ、事故や怪我を招き、最悪の場合、死人が出るからです。
フィジカルワークが出来そうもない人は、なんとなく知識労働を選ぶことが多いです。必ずしも自分の適性を十分に理解しているわけではなく、「選択肢の中で最も受け入れられる道」として選んでいることが多いです。でも、極端にメタ認知や応用力がないと、どんなに学歴があっても知識を活用できず、「結局この人は何ができるの?」って評価に甘んじちゃうことになります。たとえば、エラーメッセージに明確な解決方法が書かれているにもかかわらず、それを読み取れず(一応、読んではいる模様)、ただそのまま誰かに転送するだけの技術者とか、その典型ですよね。
もう一度言いますが、デスクワークだけでなく、フィジカルワークにも、高い認知能力は不可欠です。
それがある前提で、重要視されるのが、物理筋肉(運動能力)なのか、論理筋肉(知識)なのかって違いだけです。
1つ前でも少し書きましたけど、知識って筋肉みたいなものだと思うんですよね。鍛えればどんどんムキムキになるけど、筋肉単体ではその魅力をフルに発揮できない。
物理筋肉も論理筋肉も、それをうまく使うスキルが必要です。データベースが単体ではただの情報の塊で、システムと連携して本来の力を発揮するのと同じです。
で、そのシステムを設計するには、基本的なエラー処理や停止処理の考え方は欠かせません。そして、エラー処理をするためには、知識を他の文脈で応用する力、
つまり『知識移転能力』が必要です。それを支えるのが、メタ認知能力なんですよね。
国の競争力を維持する上で、論理筋肉マッチョを育成することは非常に大切ですが、その筋肉を有効活用するためのメタ認知能力がないと、いくら筋肉がついてもリソースの無駄になってしまいます。
というか、論理筋肉マッチョに限らず、どんな分野でも同じことが言えます。リソースの無駄遣いを避けるために、筋肉の活用法を理解する能力を養うことは、なによりも優先されるべき取り組みだと思います。
(長文が読めない、動画の内容すら理解できない、仕事や科学や社会問題の議論でトンチンカンな発言をする、仕事の指示が通らない、でも広範囲に知的な課題は持っていない、なんなら大学も卒業している――そんな人たちの姿を見ながら書いてます)
リアルの知り合いや友人に対しては絶対にやらないのだが、こと好きな作家については好きな子に意地悪するようについつい悪口を言ってしまう。悪口というか、作家自身や作品そのものの特徴を面白おかしく書いたり話したりしてしまう。たとえばドストエフスキーなんかだと、「ギャンブル狂いの作家が、クソデカ感情を抱えて人の話を聞かないヤバい奴の話を書いている」と描写してしまうし、三島由紀夫だと「マッチョを目指しながらも繊細な感受性を備えた作家が、もしもこうだったらという想定を観念的に構成してそれを人工的で息苦しい文体で表現する」なんて言ってしまうし、グレッグ・イーガンだと「理系は文系よりも一段階上の場所にいると隠さない、人間の肉体や精神に手を入れまくる究極の理詰めなワールドビルダー」だとプレゼンしちゃう。
よした方がいいとわかっているのだが、物事をざっくりと要約して伝えるのが癖になっており、そこで妙なウケを狙ってしまう。愛情ゆえに作品の批判すれすれまで行き、時々それを増田に投稿しては怒られたりしている。「夏目漱石の長編は人付き合いと金の話だ」となんてうそぶいたりするが、そういう作家は他にもいるだろう(ちなみに漱石はそれ以外の小品が好き)。
それでもどういうわけか、中島敦だけはいじる気にならないので、自分の中では彼をどこか神聖視しているのだろう。全集を読んだ数少ない作家だし、残りの人生を一人の小説家だけ読むことを許すと言われれば、選ぶのは彼だ。