はてなキーワード: スイミングとは
https://www.nicovideo.jp/watch/sm21303516
動画でみなおしたら、ほんとそうだったわ。
普通に倒れるだけなら、ドロがマットの代わりになるのに、わざわざスイミング飛び込みしたら、
深さがないんだからそりゃ折れるわ・・
「お前いくら稼いでるの?」
結婚4年目と少しでそれを聞いたら「は?」と言われていた。
弊家庭は、適当に共同通帳に金をぶち込んだりぶち込まなかったりするスタイルなのだ。
俺も実は投資用の通帳とか持っていたりするし、嫁の源泉徴収何かも見たことがなかったので、
実際のところ、家庭内の収入というものがどの程度のものなのか、知らなかったのだ。
結論から言うと、嫁の方が俺より多分100万くらい年収があった。
多分というのは、俺は投資でそこそこ儲けているはずだからだ。いくら儲かっているのかは知らない。野村證券の人に電話で応答してるとなんかやり手っぽいよね。それだ。たまに直筆の手紙とか来るから多分ちゃんと投資していると思う。
確か、実家からもらった栃木の駐車場の土地が微妙に金になっているんだか、
同じくもらった栃木の山の方の土地の税金でトントンくらいだった気もするし、
そもそも共同通帳にいくら入っているのかも、微妙にわかっていない。
いちいち確認しないからだ。1000万くらい?いや、なんかよくわからなかった。
預金ってネットで確認とかできるんだっけ?わからん。嫁もわかっていなかった。
控除?だか地方の子供の支援?を受けるためには家庭の収入がいくらなのかわかっている必要があるらしいのだ。
まあ、そんな小っちゃいことはどうでもいい。
子供だ。子供にいくらかかるのかよくわかってないから、こう、収入がいくらなのかそろそろ、真面目に計算しないとヤバイと思ったのだ。
なんか、出産って保険降りるの?わからん。入院ってお金かかるの?わからん。
わからないことだらけだ。まあググれば出てくるだろう。
あと、アレ、なんか習い事?とかも多分お金かかるだろ?水泳とか習わせたいし、そうすると月に多分3万だか4万だかかかると思うのだ。
そういうアレで、俺は嫁の収入が多い事を知ってしまったのだが、ショックだった。
なんとなく俺の方が稼いでいるんだと思って働いてきて、嫁のために頑張るぞ、なんて思っていた分、損をしている。返して欲しい。俺のアレを。気持ちを。返せ返せ。年間100万、4年で400万円分も損している。悲しい。
まあそんなこたあ、どうでもいいんですよ。
実は100万も多いので、俺は哀しい想いをしている。なぜならばその分投資に回せたはずだからだ。そしたらもっと増えたんじゃないかと思う。子供にも倍、スクールスイミングに通わせることができたはずだ。
あー、やりきれねえ、こたえられねえよな。つーか俺の気持ちなんてものはどうでもいいんだ。
問題の本質は嫁の収入が俺よりも100万、多いということに他ならない。
何故だ?男の方が普通は女よりも収入が多いんじゃないのか?なんか統計?的なものでそんなことを言われていた気もするし、日本のジェンダーギャップがどうたら、こうたらあったはずだろう。
何故俺の方が少ないんだ。これだと俺が頑張っていないみたいじゃないか。いや、平均値よりは稼いでいるはずなんだがね。
てか、俺の方が収入少ないのに、家事とかほぼ全部嫁に丸投げしてたから、俺としては申し訳ない気持ち、それが最初に来るんだ。
でもやっぱさあ、絶対俺の方が頑張ってるよなあ、とちょっと思う。なぜなら絶対俺の方が嫁より頑張っているからだ。
まあ、そんなちっちぇえことはどうでもいいんだ。
やっぱさあ、水泳なのかな?体が柔らかいと怪我をしにくくなるとか、喘息が治るとか言われているので俺は水泳推しなのだが。そろばんとか、IT系のアレとか、色々最近は習い事が増えてきて悩む。
子供の習いごと編成って永遠の課題じゃないだろうか。俺は公文式をやってたおかげで、国語の偏差値は常に60後半とか70くらいあったし、公文も推したいんだけど、Z会とか色々あるよなあ。
それよか、絵とかかけたりピアノとか弾けた方がいいのかな?
そういう所に集まってくる子女と知り合い、友達になれるってだけでもメリット多いとも聞くし、独創性?なんか高まりそう。でもピアノ弾けるとクラス分けとかで変にドラフトされるとかも聞くし、難しいよな~。
結局、やっぱり俺が100万も稼いでないのっておかしいよね。まあ、そんなことはどうでもいい。
子供に何習わせるかだよな。youtubeばっかり見てるような子供にはなってほしくないけど、学校行って習い事行って、自分の趣味が持てないような人間にもなってほしくないんだよなあ。まあ、楽しく生存してくれればそれでいいんだけどさ。金を惜しむ気はないけどお小遣いとかのバランスも考えて、習い事頑張ったらアイスとか買ってあげたいんだよな。野望としては。そこで100万円が引っかかってくるのが本当に俺の思考のボトルネックになってしまっていて、「あーこのアイスも実質嫁負担みたいなもんかー」とかなりそうなのもちょっと恐れるとこではある。でも、やっぱ夢だよな。習い事の帰りに子供にアイス買ってあげて帰るの。小さい頃、塾のテストでいい点とったらハーゲンダッツの抹茶味を親が買ってくれたからそう思うんだろうなあ。ハーゲンダッツって、まず真ん中に円形の穴空けて、その後円の縁が溶けだした所を攫って行って、最後に残った中央と縁の間の部分を食うのが一番旨いよなあ。いつの時代になってもハーゲンダッツはごちそうだよ。そういうものを子供に週に一回は振る舞える親でありたい。これからの時代は英語力あった方がいいかなって思う所もあるんだけど、俺自身がやってた公文の英語とか、日本の塾の英語教育ってあんまよくねえよな。あとなんか英語教師の人が個人でやってるやつも行ったんだけど、正直話せるようにはなってないし。難しいよな。
まあ、そんな感じなんだけど子供に何習わせたら良いと思う?
夏だ。プールだ。水着だ。諸君はスクール水着に思い出があるだろうか。筆者はなかった。学校の水泳でも競泳用水着、プライベートではサーフパンツを着る生活で、いわゆるスクール水着というものを着用したことはなかったし、習い事として水泳を習っていると泳ぐことに懸命で、よそ見をしている余裕などない。
さて。最近、学校指定のスクール水着が恥ずかしいとかそういう話がよく議論に上がっているのを見る。ジェンダーレス水着なるものが指定されるというニュースも見る。こうしたニュースが風物詩なのだろう。そしてインターネットでレスバが始まる。
基本的に男女はこうした場面では分かり合えない。水着の話でもトイレの話でも、性別によって見えている世界が違いすぎるのだ。こうした世界の違いに興味を持っている筆者は、現代の水着の何が問題で、共用水着が何を解決したのか気になった。ということで、大人サイズのスクール水着を着てみて現代人が抱える問題を観察してみようと考えた。ということで、簡単にレポートしようと思う。
そもそも知らなかったことなのだが、スクール水着というものは子供用だけでなく、メーカーから大人用の大きなサイズも発売されている。今回のような実験でコスプレ用のスクール水着を買うのは邪道である。本来は泳いで試したかったところもあるが、現代社会はまだ成人男性が女性用の水着を着てうろつくことを許容しないだろう。そこでいくつか購入して自宅でこっそり試着してみることにする。
またなるべく着用環境を整えるため、コスプレ用の女装用品を使って身体のラインを女性に近づけて着用してみることにした。
男性として、また女装した状態で、これらの水着を着用し、姿見でビジュアルを確認することに加え、準備運動に相当する運動で動きやすさを調べてみることとした。
用意した水着・道具
これが筆者が人生で初めて着用するスクール水着である。少し裾のあるタイプで、筆者の実体験から推定して、スイミングスクールはともかく、小学校高学年になってもビキニタイプを着用する学校は今時ないと考えてこの水着を選定した。わかりやすい海パンである。
初めて着用した感想としては、生地の薄さと伸縮性の高さに驚いた、ということ。密着した方が水の抵抗を抑えられ、水中でも脱げにくいので良いことだと思う。ダバダバした水着だと動き回っているうちに半ケツ状態に陥ってしまうことがあるのだが、今はそこまでは考えていないという状況だ。
ただこの密着が裏目に出ることもある。裏地付きとはいえ、ポジションが外見から丸見えになってしまう点だ。股間がやや膨らむのは正直なところ男子の宿命であって、思春期とはいえ諦めがつくものなのだが、ポジションが出るのはちょっと困る。メインターゲットであろう未発達の小学生なら悪目立ちすることはないと思うが、それでも高学年〜中学生になる頃には気になるのではないだろうか。スイムサポーターをを履いて改めて着用してみるとすっきりさせることができた。オプションではあるがマストアイテムであろう。
着替えのしやすさや動きやすさに関しては、ただのパンイチ状態なので特に問題はない。とても軽いという感想を持った。
成人男性である筆者が2着目に着用したスクール水着がこれである。Amazonという文明の利器がなければこのような経験をすることはなかっただろう。
下にシリコンパンツを履いて、下半身のラインを女性らしくして履いてみた。まず着用方法がとても難しい。セパレート式の水着についても、レディースの水着は上から被るのではなく下から履くように着用するのが正しい方法らしい。まず下半身を履くのだが上半身部分が嵩張ってうまく着用できない。そして下半身を履いたら胸当てをずり上げていき、最後に肩紐をつける。この肩紐を肩にあてるときに筆者の肩の関節が悲鳴を上げた。もしかすると筆者が成人男性だから苦労しているだけで、女性の肩が柔らかいのかもしれない。また胸の周りをきつく押さえつけるような構造になっていたので、おそらく尻は通せても肩を通すのが難しいのだろうと思ったが、筆者には胸がないのでこのあたりはよくわからなった。
今回はこのまま水に浸かるということは試していないが、こうした着用方法の特殊な水着は水に濡れてまとわりついたら脱ぐ時も大変かもしれないと思った。
さて、着用してみると、動きやすさについてはいうまでもない。腕にも脚にも何もついていないのだから何も支障が無いのである。そしてよく伸縮して筆者の膨らんだ腹にフィットし、まるでみかんネットに身を包んでいるような気分であった。
男性用と比較すると大きな水着だが、布面積に対してプライベートゾーンの細かいところでガードが乏しく、股間や胸元を安心できるところまでガードしているかというと不安を覚えるということなのだろう。日頃から体型を気にしている女子にとってはイレギュラーな格好に見えるのだろう。もはや半裸でやっている男子からは贅沢な悩みに見えるかもしれないが、日頃から体のラインを見せないように意識している人からすればショックが大きいのだろうし、泳ぎを優先した薄っぺらさからくる不安があるのだと思う。
いちおう、性転換パンツを履かずに男性としての身体でも着用してみると、裏地の当たるところが男性より狭いため、当然ながら何もガードしてくれずに股間が悪目立ちした。恐る恐る姿見を見たところ当然にも醜く、最近医者に注意された腹がぽっこり、その下で股間がもっこりと出たおっさんの体型が丸見えである。これなら正々堂々と腹をぶりんと出していた方がまだ恥ずかしくないのではと思ってしまった。布が多いはずなのに恥ずかしいのは何故だろう。隠しているからこそ、余計に恥ずかしいのだろうか。加えて筆者は脇毛が濃いのでこのあたりが猛烈に汚く見える。女性には脇毛がほとんどないイメージを持っているが、あれはそもそも脇毛が生えにくいのか常に剃っているのだろうか。
さらに股のクロッチの布の狭さに改めて驚く。男性の筆者でもハイレグ水着というのはなんとなく恥ずかしい格好であるという意識は持っているのだが、尻まで覆う普通のスクール水着でも薄さと狭さで守られていないように感じてしまう。脚の動きに制約がないので動きやすそうではあるのだが、これでは何かのはずみでズレて股の内側が見えてしまわないのかと不安になるのである。女子もこの中にサポーターを履いて体型を抑え込んだりしているだろうか。近年スパッツスタイルの水着が支持される理由がわかった。
そしてこれは余談だが、スクール水着を使った映像作品で、足の付け根にベージュ色の布が見え隠れしているものを見かける。あれは中に別のパンツを履いているのだと思っていたが、どうやらスクール水着の裏地らしい。なぜか裏地が縫い付けられておらず、着替えるときにぐるぐると巻きついて水着の外に飛び出してしまうのである。履いてみて初めてわかったこととして共有しておこう。
この水着は、サーフパンツと前開きのラッシュガードをボタンと暇で繋ぐことで捲れにくく構成された水着で、ゆとりを持たせて身体のラインが出にくいことを特徴としている。
まずは男性としてこれを着用してみる。少し大きめのサイズを注文したが、ボトムスに余裕があるのに対してトップスはやや窮屈な印象を受けた。
ボトムスはインナーパンツが内側にあり二重構造になっているのだが、裏地がクロッチにはついている一方、男性部にはついていない。少し心許ないというか、十分に大きいサイズの水着でないとやはりチンポジが浮き出てしまうと感じる。これもメンズ同様、スイムサポーターで防ぐことができたが、もうワンサイズ上げたものを購入してみることを検討した方が良いかもしれない。
トップスも着てみる。トップスの裾とボトムスの腰にボタンがあり、これをとめると固定できるのがユニークだ。生地は伸縮性があってやや薄く感じるが、ラッシュガードとしては十分な軽さを持っていると感じる。胸周りはパッドを入れるためか頑丈な作りになっているので、慣れない男性は違和感を覚えるかもしれない。しかし筆者はさきほど経験したばかりであり、どうやらこの胸の締め付け感はレディース水着では当たり前にあることのように感じ取れた。
こうして肌の露出は避ける水着を着用することができた。普通にシャツを羽織るのと同じなので、ボーボーの脇毛を見られることもない。ひとつひとつが安心感につながるのだな実感した。いっぽう胸と腹で裏地の厚みが違うため、胸まわりがかちっとしている一方、筆者の腹はぽっこりと出ていた。ここはカバーできない可能性が高い。
次に女装用シリコンパンツを履いたうえでボトムスを履き直してみる。先ほど気にした裏地は性器の位置に合うようになっている。シリコンパンツの構造上尻が大きくなるが、この体型でやっと水着の上下ともに良いサイズになったと思う。つまり逆三角形体型の男性の場合、セット買いはせず、トップスはボトムスより大きいものを発注する必要がある。
動きやすさについては、これまでの水着と同様に伸縮性に優れていて、薄いので水を溜め込むこともあまりないのだろう。サーフパンツの水の抵抗は未知数だが、トップスとボトムスを連結する3つの部品が半ケツを回避できるほど強力だとしたら、かなり期待できる。
ここまでのことを思うと、このサーフパンツやラッシュガードは、男女共用というよりも、男性も着用可能とブランディングされつつも構造的にはレディース向けに設計された水着なのかもしれない、という感想を抱いた。
メンズ水着としてはトップスがついた程度で、ほかにめくれを防止する機能などがあるくらいで、一特段の革新性はないが、一方レディースとして考えるとこの着替えのしやすさというのは革命的なものになるのではないか、と感じた。
今回は男・女・共用という視点からスクール水着について調べてみた。女子用の水着の着替えでの扱いづらさは実体験しないとわからないものがあると思った。そしてこのビジュアルは、男性が着ることを完全に想定していない、女性だけに作られたアイテムであることも体感した。ゆえに、性差を強く見せてしまう格好として思春期の女子から嫌われているのだろうという実態も学ぶことができた。
実は男女共用水着の商品紹介ページには、児童が水着に求める機能についてまとめたアンケートが掲載されている。これを見ると確かに「着替えがしやすい水着」という意見が第一位にきて、次に身体の悩みが並ぶ。たしかに女子用水着は着替えにくかった。思春期特有の悩みというよりも、単純に実用性についての意見が多く寄せられていることを実体験することができたと思う。
一方で、男女共用水着にも課題があると感じる。身体のラインが出にくい水着、恥ずかしくない水着を身につけること自体は否定しない。ただ、インナーまで含めて男女共用とすることには少し無理があるのではないかと思う。小学校低学年くらいであればあまり性差もないだろうが、いずれは体格に差が出てくる。せめてインナーは性差に合わせた形状にして選択できないだろうかと思った。自由度があるならば、男子は敢えて男女共用水着を選ぶのではなく、メンズのサーフパンツにラッシュガードを着用するのが最適解ではないかという感想を持った。
とはいえ売る側の事情もあるだろう。単に「身体のラインが出にくい水着を」と主張しても、保守的な学校組織で指定水着を変えさせるのは難しい。ジェンダーレスという話題のバズワードを使うことで普及を促す意図があったのではないか、とも推測した。実際、変えてみて効果が出ているというニュースが好意的に報道されているが、単にレディース水着のバリエーションというだけではここまで話題にはならなかっただろう。
しかしそれもこれも、男女の水着の機能的な違いから目を逸らしてビジュアルだけを論じてきたことが背景にあるのではないだろうか。今まで通りの水着で良いとか、あるいは目の保養だとか思っている男性陣も、一度女性用のスクール水着を着てみれば、新しい視点からものを見ることが出来るのではないだろうか。
本来はこうした水着を自由に選定できることこそジェンダーレスではないかとも感じるのだが、体格的に難しいことを受け入れることもまた必要なのかもしれない。
深い暗闇に住んでいて、ときおり我らの住む浅瀬へ浮いてきては我々を魅了する。しかしいくら個体を調べたところで、その生態は深海に生きる者しか知らず、浅い海に生きる者にとっては永遠の謎でしかないのだ。
……こんなことを真顔で言ったら一発で社会的に死ぬかもしれないが、女性とは何者なのか、小さい頃から気になっている。
筆者には女性の服の下にあるものをよく知らない。というとまず、母親の裸くらい見たことあるだろという反論が飛んでくるだろう。厳密には、筆者は先天的に視力が悪かったために、両親の身体的な区別がつかなかった。要するにぼんやりしていて記憶にないのである。幼児期には男女で混じってトイレや入浴、着替えをする機会もあるだろうが、メガネという文明の利器を得るのが遅すぎた。服装や趣味嗜好のほかに男女の違いなど見出せない解像度の低い幼少期が横たわっている。
性差の興味を持つきっかけは、習い事として始めたスイミングスクールだった。
小学校の水泳授業では、児童は各家庭から水着を持ってきていた。興味はなかったが、女子は模様入りの"ワンピースのような水着"を着ていることが多かったと記憶している。
当時の男子水着はVパンツと呼ばれるもので、動きやすさ重視の、大事なところを隠すだけのわかりやすい水泳パンツであった。しかし女子は全員競泳用のワンピース水着を着ていたのである。
指定水着に限らず、制服というものは集団をカテゴライズする。10年足らずの人生に於いて初めて、男子と女子を身体的に明確に区別した集団という者に遭遇したのである。
女子の水着には上半身と下半身の繋ぎ目すらなく、肩紐が背中でX字に交差して、奇妙な服装という印象を与えた。もはや水泳パンツではない、謎の女子専用水着の仕組みが気になって仕方なかったが、全ては女子更衣室の中で起こることゆえ男子には一生わからないのである。
やがて筆者にも思春期がやってくるのだが、このときまだ性知識が乏しく、異性に対する興味も薄かった。
筆者は中学受験キッズなので、胎児の発生において、父親の精巣で作られる精子と母親の子宮の中の卵子が結合するという概念があることは暗記していたし、卵巣と精巣の構造も予備校のテキストに描かれた性器の断面図から知っていた。
しかしこの性器がどこにあるかわからないのである。子宮はお母さんのお腹の中にあることはほぼ確実とみれるが、精巣は男性の一体どこにあるのだろう。
大人になったいま改めて、小学校向け理科教材を見返しても精巣の在処は伏せられているのである。
おちんちんは男性器の呼び名であるが、思春期以前の男子にとっては「おしっこをするところ」であって、精巣がここにあるという発想に至らなかったのだ。
ようやく性教育に出会ったのが中学時代。筆者は教科書が配られたらまず一通り目を通すタイプなのだが、保健と家庭科の教科書に性や家族計画にまつわる記述があった。やっとのスタートラインだった。
教科書を通じて、女性に膣という器官があることと、月経という現象があること、そして、精巣の場所と性行為について学んだ。陰茎が尿器から性器という概念に変わってようやく、女性に陰茎がないと言う現実を受け入れさせられた。そして身の回りの女子は毎月血を流しながらも平然と生活している。という想像し難い知識にただならぬギャップを覚え、異性への興味がエスカレートしていた頃だった。しかし女友達と仲良くなっても、この疑問をぶつけることはとうとうできなかった。
紆余曲折ありながら敷かれたレールを走り切って社会人になって、縁あって関わり始めたのが今の交際相手だ。付き合って2年ぐらい経って、いよいよ身体を見せ合った。初めて女性の体をメガネ越しに見て、本当に男女の身体機能が異なっていることを実感した。人生の大きな一歩だった。本当に長かったと感じている。
とはいえ、身体を交えて快楽を得ても、知的好奇心は満たされなかった。
男子が陰茎を心の友として生きてきたように女性にも女性の何かがあるはずだと筆者は考えた。しかし身体をまさぐったところで真実には辿り着けないし、拗らせた疑問を投げかけても答えが返ってくるとも限らない。
そもそも体が目当てで交際したわけではないので、消去法的に彼女を欲望の捌け口にしてしまうことは避けなくてはならない。
そんな筆者の欲求に、ある程度は応えてくれたのがAVである。盗撮は犯罪であるから女優によるヤラセであると知っていながらも、スクール水着の着方、ブラの付け方、男には縁のない知識をこうした動画で多く学んだ。
しかしこれでも満たされないものもある。AVと違って現実のトイレはいつも行列を作っている。「どうして女子トイレは並んでいるの?」なんて女性に軽く聞いても、それが普通なせいかなんとも思っていないようであった。いくら親しくとも筆者にはここが限界だ。排泄に時間がかかるのか、スマホでもいじっているのか、なぜ個室しかないのにゾロゾロと連れションしたがるのか。いろいろな文化が気になっても聞く勇気がない。
自分で言うのも変だが、筆者の人生は敷かれたレールの上を上手く走っていると思っている。それは絶対に脱線できない人生であることの裏返しだ。今の時代、異性とみだりに関わることはリスクを伴う。そう言い聞かせてやがておっさんになってもなお今更聞けない謎を一生引きずって生きていくのだろうか。
浅瀬で見かける魚が深海で卵を産んでいても、それを知る術は、浅瀬で卵を産むのを待つか、自ら深く潜るか。どちらにしても茨の道である。
お前らは食べ放題のよろこびを忘れてしまった。ああ、なんと悲しいことだろう。
思い出せ、食べ放題のよろこびを。食べが放題なのだ。何をいくら食っても良い。いくらばかり食っても良いし、肉ばっか食っても良い。その喜びをお前は忘れてしまった。
原因はわからない。きっと加齢だとは思う。胃が弱り、ガツガツするのをみっともないと思うようになり、アブラを受け付けなくなり、鶏肉とブロッコリーを蒸したやつしか食わなくなり、そしてお前らは食べ放題のよろこびを忘れた。
思い出してほしい、小学校6年生。サッカーか?野球でもいい。スイミングでもいい。運動会というパターンもあるだろう。なんでもいいが、試合の終わり、打ち上げですたみな太郎に連れて行ってもらった日のことを思い出せ。そういう記憶が無いなら脳内で捏造してもらっても構わない。
まずお前らはすたみな太郎の席につく。土曜日、ランチ。値段は2580円くらいだろうか?子供はちょっと安いから1580円くらいかもしれない。値段なんて覚えていない。親が払ってくれるからだ。
まあ、お前が小学生だった頃のすたみな太郎がいくらなのかは知らないが、とにかく驚くほど安い。最近はセブンイレブンでちょっと弁当とファミチキとアイスとコーラとコーヒーを買っただけで1580円くらい行くよな。しかしすたみな太郎なら食べ放題、食べが放題なのだ。
そしてまず肉を取りに行く。すると広がっている、肉が。食べホならではのよろこびだ。何をとってもいい。大人になると、すたみなたろうに置いてある肉が、ほとんど固形燃料か、あるいはゴムかの、どちらかであることに気づくが、野球終わりの小学生にはごちそうにしか見えない。
そして山盛りにとって席に戻り、ひたすら食べる。とにかく美味い。どうやって食べてもいい。適当にたべてもいいし、じっくりていねいに焼いてもいい。ここで問題なのは、食べホじゃない焼肉屋では"じっくりていねいに焼く"以外の選択肢が存在しないことだ。なんと不自由なのだろうか。
お前は小生意気だからきっと小6にして"すたみな太郎の肉とかゴムだろw"とか言って、少しでもマシそうに見える原価の高そうな肉ばかりをとるかもしれない。
だが、そんなことをされてもすたみな太郎は痛くも痒くもない。なぜなら、すたみな太郎にとって、お前の笑顔こそが一番の報酬だからだ。ほかの食べ放題屋はそうではないかもしれないが、すたみな太郎だけはお前の幸せを真剣に願っている。お前の打ち込んでいる、サッカーか、野球か、そろばんか、プログラミングか、なんなのかは知らないが習い事の成功を願っている。そして今でもお前の幸せを願っている。お前は今、幸せか?
お前は忘れてはいけない、食べホの魅力を。たとえお前が老いから食べホに行かなくなったとしても、食べホに魅力があったことだけは忘れてはいけない。
食べホには自由がある。何をどれだけ食ってもいい。殺人以外は何をしても許される。
たまに「デザートは一人1品」とか抜かす食べホもあるが、最初に告知しているのであれば別にかまわない。後出しジャンケンは卑怯だというだけの話で、最初からルールが決まっているのなら問題はない。食べホにおまけでデザートがついているのだと解釈すれば許せないことなど何もない。
食べホの魅力は食べが放題な部分にある。「ほかの客のためにほどほどにすべき」「ほどほどにしないと変なルールができて全員が損する」「品がない」などと抜かす奴は食べホの魅力をわかっていない。品がないのが食べホの魅力だ。(ホテルのレストランがやっている「高級中華注文制食べ放題」のように品のある食べホも世の中には存在するが、そういうのは例外かもしれない)
食べ放題の魅力は、後出しジャンケンをされないところにある。明文化されているルールの範囲であればなにをやっても許されるフリーダムさこそが食べ放題の魅力だ。「俺の行為で周りが迷惑するかも」なんて考える必要は1ミリも無い。マジで1ミリも無い。
自分にルールを決める権限がありながら後出しジャンケンをするカスの資本家店長も食べホの魅力をわかっていない。「スイーツは1品のみ」「フカヒレは1皿のみ」「一度に注文できるのは5皿まで」とルールを明文化して戦っている食べ放題屋さんは今ではありふれている。実にフェアだ。隣町のスポーツ少年団をサッカーでボコボコにしたあの輝かしい日のお前のように、完璧なスポーツマンシップにのっとっている。そういう店と比べると、ルールを決める権限があるのに明文化せず、シンプルなルールでお得そうに見せかけて客を呼ぼうとするのはフェアじゃない。
確かに、外れ値というものは存在する。赤字にならないようになっているはずの食べホに赤字の打撃を与える猛者というものは確実に存在する。だから外れ値が出たときの赤字を吸収できるように、それ以外の客で収益を上げられる仕組みにしておくべきだ。人間は食べる量が一定ではない。食べるものも一定ではない。だが平均すれば一定だ。
外れ値のせいで少食の人間は損をするかもしれないが、だからと言って外れ値を後出しジャンケンで排除したら、次に外れ値として後出しジャンケンで排除されるのはお前かもしれない。
後出しジャンケンで損をするのは外れ値の人間だけではない。お前も損をする。後出しジャンケンが横行すると心理的安全性が下がり、お前のような大して食べない老人までもが食べ放題を心から楽しめなくなる。だから、そういう資本家の横暴を許してはいけない。万国の労働者よ、団結せよ!
お前は年老いてしまった。豚バラを一切れ食べれば胃もたれする肉体になってしまった。店の弱点を突き、店長が泣くまで食ってやろうというガッツを無くしてしまった。そのガッツこそがお前をサッカーで活躍させたパワーの源だったに違いないのだが、お前はそれを忘れてしまった。
それ自体が悲しいことだとは思わない。老人には老人の役割がある。老人にガッツがあっても大して役にはたたない。お前のような老人には、威厳と、少しのユーモアさえあれば良い。
真に悲しいのは、お前がガッツを無くしてしまったことではない。お前が、食べ放題を楽しみにしていたあの頃の自分の気持ちを想像できなくなっていることだ。
老いてしまった肉体は取り戻せないが、老いてしまった想像力は少しくらいなら取り戻せるはずだ。今からでも間に合う。
だからこそ思い出せ、食べ放題の魅力を。そして行け、すたみな太郎に。
すたみな太郎に行きなさい。
そしてゴムみたいな肉を食え。それに飽きたらほとんど燃料としか思えない真っ白な肉を食え。そして黒毛和牛ではなく"黒毛牛"と書いてある謎の肉を食え。黒毛牛はそれでも他の肉よりは高そうだから、黒毛牛ばかりを食え。飽きたらラーメンを食え。タフな老人になれ。サンチュを焼け。手羽先を焼け。黒毛牛を焼け。ラーメンにカレーをかけろ。そのかわりに必ず全部食え。アイスを食え。他人の気持ちがわかる良い老人になれ。寿司にラーメンスープをかけてお茶漬けを作れ。黒毛牛を焼け。そしてサッカーで優勝しろ。サッカーじゃないのなら野球でもいい。お前が優勝できないならお前の子供が優勝しろ。子供も無理なら近所のガキでもいい。なんでもいいから優勝しろ。幸せになれ。お前の幸福、ただそれだけがすたみな太郎の望むことだ。そしてドリンクバーを混ぜろ。"黒毛牛"をラーメンに乗せてチャーシュー麺を作れ。そして唐揚げを焼け。寿司を焼け。
小学生のころ美形の友達がいた。美形な上にノリもよかったので男女を問わず人気者だった。彼の母親がフィリピン人で、母親譲りのくっきりした顔立ちが印象的だった。一番美しいのは目とそのまわりで、眉毛が濃くてまつ毛が長い上に目自体が大きく二重で黒目がちと非の打ち所がなかった。鼻は筋が通っているものの横に広いにんにく鼻で口はたらこ唇だったが、それも不格好すぎるということはなくむしろ愛嬌と色香をもたらしていた。俳優の赤楚衛二をはじめて見たときはその同級生がこっそり芸能界入りしたのかと思ったぐらいである。
6年生の春に彼はフィリピンの祖父母に会いに行った。そして向こうで割礼というのを受けさせられてから帰ってきた。割礼とは文化として行われる包茎手術のことである。帰ってきた彼は割礼体験のことを「いきなり今からチンコの皮切るって言われてパンツ脱がされたんだぜ」「チンコから見たことないぐらい大量に血出てた」「かなり痛かったけど泣いたらオカマだと言われるから耐えた」とどこか自慢気に語り、クラスの男子は筆者も含めみんなえげつない体験をした彼のことを尊敬の眼差しで見ていた。元から人気者なのにその一件で彼の株はさらにあがった。ただ、筆者はそんな体験を平然と語れる彼のことが少々恐ろしかった。心がどこか麻痺しているのではないかと思ったのだ。
筆者はその同級生と同じスイミングスクールに通ったりしていてけっこう仲がよく、家によく遊びに行っていた。あるとき彼の家でふざけてチンコがどうこう言って騒いでいたら居合わせた彼の二つ上の姉が、「こいつがチンコ切られた時の写真見る?」と言ってデジカメを見せてきた。日本ではありえないが、フィリピンでは割礼は男なら誰でも子供のうちに病院などで受けるもので、大人に近づいた記念のような意味合いがあるので手術室に家族が同伴して写真を撮るのは珍しいことではないらしい。写真は何枚もあったが、不服そうに手術を待っている姿、股に麻酔注射を打たれて絶叫している瞬間、おさえつけられて号泣しながら局部を切られている様子などが鮮明に収められていた。割礼体験を武勇伝のように語っていた彼は、本当は号泣していたということを知られるのが恥ずかしいらしく、なんでこんなの見せるんだよと姉にキレていた。だが姉の方が強い姉弟だったので姉はカメラをしまわなかった。そして筆者はというと、むしろ彼にもちゃんと恐怖心があるのだと確認できて安心したのだった。それからそのような辛い体験を乗り越えた彼に優しい言葉をかけてあげたくなった。あまり共感性の強くない子供だった筆者にとってはあまり馴染みのない感情だった。
最後に見せられた写真は術後のもので、痛いのか彼は不機嫌そうな顔をしてハーフパンツを履いて股間のところを指で摘んでいた。傷口や亀頭が服に擦れると死にそうになるのでそんなふうにガードするのが向こうでは常識らしく、その姿のことを現地語で割礼ポーズなんて言ったりもするらしい。筆者は青いハーフパンツの布越しに彼の性器の存在を感じ取って不覚にもドキリとしてしまった。それはボディーラインを強調するような服を着た女性を見たときと同じ胸の高鳴りだった。この下にデカい乳が潜んでいるんだと想像してワクワクするあの感覚である。当時はそんなボキャブラリーは持っていなかったが、彼の性器から幼い私はエロスを感じていたのだ。そしてエロスを感じさせてくれる人というのは男でも女でも皆尊い。
写真を見終わって「お前すげえな」と声をかけたら、「この写真のこと絶対誰にも言うなよ」と強く口止めされた。本当はもっと「頑張ったな」とか「もう大丈夫だからな」とか言いたかったけれど男子同士でかけ合うような言葉ではないのでやめた。代わりにそれからというものの、給食当番で彼によそう時だけ肉を多めにして心のなかで「手術頑張ったご褒美だよ」と呟いたりした。
やがて筆者はダメだダメだと思いながらキッズケータイで撮った彼の写真を見てマスターベーションをするようになった。彼が異国で割礼の痛みに苦悶する様子を思い浮かべて「頑張れ、我慢しろ」と励ましながらである。そして射精するタイミングで「よく頑張ったな」と褒めてあげるのである。長じてはマスターベーションなら同性でも異性でもできるようになったが、同性をオカズにする時の筆者は相当なSである。肉体的な痛みに苦しめたあと労ってあげたいのだ。
彼はいま英語の能力を活かして某有名大学で学んでおり、しかも同じハーフの彼女がいる。彼女とも面識はあるが、やはり美形で人間性も素晴らしい人だ。敬愛する友人が痛みを乗り越えたそのどうしようもなくエロい性器で彼女と気持ちいいことしているのだったらいいなと思いつつ、今でも私はときどきその友人が割礼で苦しむ姿を思い浮かべながら己の性欲を解消している。彼が苦痛に顔を歪ませる姿は何よりも尊いけれど、それでもそんなこととは関係なく彼にはずっと幸せであってほしいと思う。
オーストラリア生活も35年目に突入した今年6月、仕事を辞めてリタイア生活に入ることにした。
長年貯めてきた年金をおろせる年齢に達した事と、結婚してニュージーランドに住む娘に二人目が産まれる事が重なり、それならとりあえず今年いっぱいは少しずつ年金を切り崩しながら、自由にオーストラリアとニュージーランドを行き来する生活を満喫しようと思ったのが主な理由。
早速犬を長期で友達に預け、7月初旬から半ば、9月から10月半ば、そして12月に二週間と、この半年間で3回ニュージーランドに飛び、孫の面倒を見たり、娘家族の家事全般を手伝ったりと楽しい時を過ごしたのだが、長期のニュージーランド生活はどうやら私には合わないという事が判明。
豊かな自然に恵まれ、どこに行っても絵葉書になりそうな風光明媚なニュージーランドは、一時は移住しようかと真剣に考えていたのだが、どうやらこの美しい自然が生み出す花粉やら動物の毛などで、喘息発作を起こすほどのアレルギー発作に見舞われてしまったのだ。
とにかく咳が止まらない。
市販の抗ヒスタミン剤程度では症状は収まらず、最後は喘息用の吸入器とステロイド剤のお世話になり、ようやく咳が収まったという次第。
それでも美しいニュージーランドに住む可愛い二人の孫の顔を見に、また遊びに行きたいのだが、この次の訪問予定は3月末になりそう。
それまでは、毎朝行かなくてはならない仕事もなく、毎日朝夕の犬の散歩と、早朝のスイミングが一日のハイライトとなってしまった。
実は趣味でゴルフもするのだが、12月から2月までの夏の間は、異常気象のせいで最近は30度超えが続く。
子供の頃にならったピアノでも始めようかとポロン、ポロン弾いてみたりしても、昔のようには指が動かず。
せっかく憧れたリアイア生活なのに、これでは頭がボケるだけと思い、ブログを始める事にしたのだった。