はてなキーワード: ボーダーラインとは
経理なのでいろんな書類の不備を丁寧にチェックしてるんだけど、その確認が自分だけやけに多い気がする。
メールとか電話とかをひたすらやってる(我が社ではチャットでやり取りすることがない)ので、仕事が前に進まないことが多い。
また社内の別部署から電話がよくかかってきて、長い時だと30分くらい話したりする。
でも周りの人を見ると、そんなに電話したりしてる人、いないんだよなぁ。
自分の担当の仕事のせいなのかなと思ってたけど、そうではなくて、自分の仕事のやり方が悪い気がしてきた。
チェックが細かすぎたり、メールを送る時も文面で悩んだり、完璧主義すぎるのかもしれない。
だからやり方は間違ってないはずなんだけど、きっと手の抜き方が分かってないんだろうな。
40代男性。服にかける金はできれば自分の趣味とか他のことに使いたい。なのでファストファッション上等になっている。
しかしさすがにそればかりだとやばいなとも思うのでたまにZOZOとかで古着を買ってみたりはする。
そしてたどり着いてしまうのがアウトドアメーカーのアウターとかである。
服のブランドは全然覚えられないけどアウトドア系のブランドはなぜか覚えられる。
メジャーなとこのなら分かりやすし、変にも見えにくいし、着てて楽だし、機能性も高い。
ここがもうボーダーラインになっていて、それ以上のオシャレってのがもうまったく分からない。
そもそも普段の自分の生活圏内において、これ以上のオシャレも必要ないことがほとんどなのだ。
しかしもちろん困ることもある。
たまに人が多く集まる場に行くときとか、知らない人達との飲み会とか、そういう時に「普段よりちょっといい感じのコーデ」みたいなのができない。
自分みたいなやつ、めちゃくちゃいっぱいいると思う。
周りの変化を見て思ったことがあるので書く。
俺は今年で21になる大学生なのだが、恋愛の基準が「好き」から「性欲を求める恋愛」に大きく変わった肌感がある。
それこそ高校生の頃は「可愛い」とか「一緒にいて楽しい」とか、もちろん「ヤリたい」も中には含まれていたけれどあくまでもヤッているの母体数が少なくて天の上の話だった。
それが大学生になると大きく変わり、性交渉の機会が目に見えて多くなった。
友達と会えば「ヤった・ヤらない」の話になり、彼女と過ごした夜の経験談もよく耳にする様になった。
サークルや授業などの人間関係も男女問わず「この人とは体を許せるか」がボーダーラインとして引かれ、そうでないものは炙れているような感覚に陥る時がある。
そんな「恋愛が性欲中心の日常」に様変わりしたことで、そのことに苦しんでいる人も増えた印象だ。
具体的には女だったら「体を許し過ぎたことの弊害」、男だったら「性交渉のプレッシャー」になる。
性欲がどこかに潜み続ける日常を送っていると、恋愛と性欲の狭間がなくなっていく感覚がする。
これは特に高校は真面目だったけど大学に入りのまれてしまったやつに多いんじゃないかと思う。
恋愛と性欲を履き違えて、体を許し続ければ誰かに愛してもらえると勘違いしてしまった女。
周りが絶えず性の話をするからそのプレッシャーから本来の優しさを失ってしまった男。
そんな奴らがぽつりぽつりと現れては、ごちゃ混ぜにキャンパスライフを送っている。
特に一番悲惨だと思ったのが、それまで親しかった友達が性欲と恋愛を混同して短期間の交際を繰り返していたことだった。
もうあいつには「〇〇さんが好き」なのか、「ヤらせてくれないから嫌い」なのか、多分区別がついていない。
それこそ興味本位な性のペースや居心地の良さを含めて運命だというのかも知れないが、1人を大切に出来ないのに性欲だけを優先させようとする姿は本来の恋愛とかけ離れたものがあるんじゃないかと思ったりする。
この性欲至上主義な恋愛が終わりを迎える時は来るのか、とても不安になる瞬間がある。
「誰かを愛すること」って体だけじゃない良さがあると高校の時は思っていたのだが、これから生きていく社会では違うのだろうか。
ともかく誰とでも触れ合えてしまう「10代後半~20代前半の恋愛」は闇であり、きっと若気の至りとはこの間の期間を指すのだと納得した。
遊んでおくのか、はたまた寡黙に真摯に生きるのか。
『355』(スリーファイブファイブ[4]、The 355)は、2022年のアメリカ合衆国のスパイ映画。テレサ・レベックとサイモン・キンバーグが共同で執筆した脚本を、サイモン・キンバーグが監督した。出演はジェシカ・チャステインとペネロペ・クルスなど。タイトル及び作中のスパイチーム名の「355」とは18世紀のアメリカ独立戦争時代に実在したパトリオット側の女性スパイエージェント355(英語版)にちなむ[5]。
ユニバーサル・ピクチャーズから2022年1月7日に公開。日本ではキノフィルムズ
『AVA/エヴァ』(Ava)は、2020年のアメリカ合衆国のアクションスリラー映画。テイト・テイラーが監督し、マシュー・ニュートン(英語版)が脚本を執筆した。出演はジェシカ・チャステイン、ジョン・マルコヴィッチ、コモン、ジーナ・デイヴィス、コリン・ファレル、ヨアン・グリフィズ、ジョアン・チェンなど。女性暗殺者と彼女を陥れた組織の幹部との闘いを描いている[4]。
2020年7月2日にハンガリーで公開された後、本国米国では同年9月25日にヴァーティカル・エンターテインメントの配給で公開された。
『ARGYLLE/アーガイル』(原題:Argylle)は、2024年のイギリスとアメリカ合衆国の合作によるスパイコメディ映画。
製作・監督はマシュー・ヴォーンで、ジェイソン・フックス(英語版)が脚本を担当した。ヘンリー・カヴィル、ブライス・ダラス・ハワード、サム・ロックウェル、ブライアン・クランストン、キャサリン・オハラ、デュア・リパ、アリアナ・デボーズ、ジョン・シナ、サミュエル・L・ジャクソンからなるアンサンブル・キャストが出演している。
『コードネーム U.N.C.L.E.(アンクル)』(原題: The Man from U.N.C.L.E.)は、2015年の英米合作のスパイ・アクション映画。
『オペレーション・フォーチュン』は、2023年のアメリカ合衆国のスパイ映画。本作は、ガイ・リッチーが共同脚本・監督を務め、ジェイソン・ステイサムが主演する[1]。また、ステイサム以外にもオーブリー・プラザ、ジョシュ・ハートネット、ケイリー・エルウィス、バグジー・マローン(英語版)、ヒュー・グラントが出演する。
『アメリカン・アサシン』(American Assassin)は、2017年のアメリカ合衆国のアクション映画。監督はマイケル・クエスタ、主演はディラン・オブライエンが務めた。本作はヴィンス・フリンが2010年に上梓した『American Assassin』を原作としている。
『ケープタウン』(Zulu)は、2013年のフランス・南アフリカ共和国合作のクライム映画。原作はキャリル・フェレ(フランス語版)、監督をジェローム・サル、主演をオーランド・ブルームとフォレスト・ウィテカーが務めた。
『エンド・オブ・ホワイトハウス』 続編2本あり
『ブリックレイヤー』(原題:The Bricklayer)は、2023年制作のアメリカ合衆国のアクション映画。
元・FBIという経歴を持つ小説家のポール・リンゼイが「ノア・ボイド」名義で発表した小説『脅迫』(The Bricklayer)をレニー・ハーリン監督、アーロン・エッカート主演で映画化[5]。
『ラストスタンド』(原題: The Last Stand)は、キム・ジウン監督による2013年のアメリカ合衆国のアクション映画。『ターミネーター3』以来十年ぶりとなるアーノルド・シュワルツェネッガーの主演作品であり、韓国映画を今まで担当してきたキム・ジウンにとっては初めてのアメリカ映画でもある[4]。
『ボーダーライン』(Sicario)は、2015年のアメリカ合衆国のアクションサスペンス映画。監督はドゥニ・ヴィルヌーヴ、主演はエミリー・ブラントが務める。原題のSicarioとはスペイン語で『殺し屋』の意。
*別監督による続編あり
はーいジェーンすり抜けました
ということでガチャ更新ごとに一天井分回すのがやっとな微課金勢としては今回はスルーよ
来たるべき物理接待はパイパー育成進めることでなんとかしようねパイパーのが可愛いしね
先行プレイ動画みたからジェーンがとんでもない数字だすクソ強アタッカーということは分かってる
タイムにしてみたらパイパーPTが55秒のところ無凸ジェーンPTが46秒って感じらしい完凸すると18秒とか壊れるけど過剰オブ過剰
まーボーダーラインが2分30秒であることを考えると全然星4でもいいですわ
性能で深追いしなくてもどうとでもなるのがホヨバゲーの優しいところですわね
異常マスタリー配れるセスが運良く4凸したからパイパー・セス・グレースの混沌PTを少しずつ育てていくか
もう既にエレン・ライカン・蒼角PTと、青衣・ニコ・朱鳶PT、11号・クレタ・ルーシーPTは完成してるから、つぎは4PT目になるな
既存の3PTでも激変7はいまんとこ更新後即一発Sとれるまでは行ってるから急ぐ必要はない
とはいえ初日から毎日1割しててもこんだけ育ててるとカツカツだな厳選も特にしてないのに
にしてもジェーンのキャラPVなんかこう夜蘭を彷彿とさせるんよな
話すときにはそのほうが良いんだろうけどさ
とうぜん女性一人一人にとって「清潔感がある人がいい」の定義って違ってるからね
まるで「優しい人が好き」に対して「優しさとは何か」を定義しようと議論してる人らみたいなんだけど
それって滑稽じゃない?
まずは具体的な相手に「どういう人が優しいと思う?」って聞いたり
それができなかったら何人かに聞いて幾つかのパターンをインプットするのが妥当でしょう?
どうもネットの議論はその具体的なところを置いといて、男子校の中で女性のことを話すみたいになってるんだよね
よくない流れだと思うのは
「俺はこの程度の清潔感を出して女性と仲良くなることに成功した。この程度の清潔感は当然だ」
みたいな主張ね
女性にだって個人差あるんだからそんな明確にボーダーライン引かれても困るんだよ
そもそも「優しい人が好き」とか言ってそれが虚偽であるケースが有るのと同様に、「清潔感がある人が好き」と言ってる人の言葉を額面通りに受け取るのはおかしいんだよ
清潔感を上げるのはとても良いことだけど、それで「清潔感がある人がいい」と言ってる全女性がなびく訳では無いし
なんならやり過ぎて引く人も居るんだから
全てはファジーなわけで
中学生の頃から、はてな、なろう、Twitter、個人ブログ、note、某ゲームのファンサイトなどを渡り歩いて、エッセイからファンタジー小説に至るまで思いつく限りほとんどのジャンルの文章を書いてきた。主戦場を匿名はてなとXにして、小説を紡ぐことよりも自分の考えを言語化することのほうが増えたという違いはあるが、今でもこうして文章を書いている。
このような過去から察せられる通り、自分は文章を書くことが好きだ。ただ、好きかどうかと得意かどうかは別だというのは世の常で、好きではあるのだがいつも途中で投げ出してしまう。長編小説には幾度となくトライしてきたが、結局一本も書ききることはできなかった。短編小説やはてなダイアリーなどの比較的短い文章であっても、さらに言えば140文字制限があって小学生の作文用紙の半分以下しか書けないXの投稿であっても、ブラウザの戻るボタンを押して、途中まで書いた文章を、途中まで書いたという事実ごと消し飛ばしたことが多々ある。
最後まで書ききれないということに自分はある種のコンプレックスを感じる。「あいつ途中で辞めたな」とか思われたくないからやめるときはサービスのアカウントごと消すこともあるし、リアルでの知り合いにははじめから絶対に見せない。
このコンプレックスを解消するのはとても簡単で、ただ単にとりあえず最後まで書けばいいのである。こんな性分であっても、繰り返すようだが自分は文章を書くのが好きなので小説家になるための本みたいなのを読んで自分の本が八重洲ブックセンターの目立つ棚に置いてあるイメージを膨らませたりもしていた。その本を執筆したプロの小説家先生も「はじめはとにかく一作品書いてみよう」と仰っているのである。その本によれば、最後まで書くというのはストーリーの矛盾やほころびには完全に目を瞑り、書きたかったラストまでを勢いで書き通して「めでたしめでたし」で締めくくるということだった。文章を書いている中で一番迷い、投げ出したくなるポイントはストーリーの構成がしっかりしていて、論理的に妥当であるかどうかを黙考するところであるのでそれを無視していいのなら時間と道具さえあれば誰だってできる。
しかし、この誰にでもできそうなことが思ったようにできないのである。「難しいことはいったん無視していいよ」とどんなに高名な先生が仰ったところで、ほかならぬ自分自身がそれを許さないのである。とりあえず最後まで書く、ということが三日坊主の自己嫌悪を解く鍵であって、その上で作品を主観的、客観的に分析する初めの一歩であることは理解しているが、それよりも今目の前にあるプロットに悩むのである。
このような事実について考えてみたが、結局文章を書くということは必然的に苦しみを伴うのだと思う。小説を書く場合でも、自分の意見を表明する場合でも、脳内にある自分のアイデアはパソコンのディスプレイ上に映っているときにはすでに元の形を残していない。言語化ができなくて自分の脳内と外の世界の間にある壁を越えられないアイデアがあるし、脳内からうまく取り出した言葉の塊を読むに堪える文章にするためにつなぎが必要になる。要するに、自分の脳内にあるものと自分が書いたものの間には共通項もあるが、脳内にしかないもの、書いたものにしかないものも無視できない量存在するのだ。しかも、文章化には自分が現時点でもっているありあわせの知識しか使えない。ところで『もしもピアノが弾けたなら』という西田敏行の名曲があるが、この曲の中では「もしもピアノが弾けたなら思いのすべてを歌にしてきみに伝えることだろう」から「だけどぼくにはピアノがない きみと夢みることもない」と続く。文章を書くのも同様で伝えたい思いがあっても、それを媒介する道具がなければ伝えることができない。それは当然の事実ではあるがとても辛いことである。ありあわせの知識、というのは青を表すのに群青、藍、瑠璃色、スカイブルーなどがあるみたいな表現するための単語としての知識だけでなく、物語に転機が訪れるのを天気の移り変わりに描写する、賛否両論あることについて自分の意見を述べるときにはたしかに~と言われているが私は~と思うという議論の流れにする、みたいな文章の書き方の知識も含まれる。
そうすると言いたいことを言語化するとその瞬間、自分がもともと言いたかったことと一般常識が混濁するのだ。言語化するまでは、よしこれを文章にしてみんなに教えてあげよう、と思っていることが明確な仕切りをもって脳内にあるが、文章にする段階でありあわせの知識という不純物が入り、ボーダーラインが薄れていく。これは辛いことであるだけでなく、不気味なことでもある。自分の言いたいことを言っていたはずが、自分は普段そんなこと考えないけど、知ってはいるような言葉が混ざっている。自分の書いた文章を読むと離人症のような恐怖に襲われる。この恐怖を避ける方法は3つしかない。1つ目は自分が書いたものを100%他人のものであると断じてしまうことである。中学生の頃の日記が掘り起こされたときに、「あれは黒歴史だ。」と言うのは暗に今の自分はそんなこと考えないし、そんなこと言わないと表明しているのであり、過去の自分と現在の自分の間を壁で分断することで自己防衛を試みている。2つ目は繰り返し考えていた自分の文章をまるごと消すという方法である。つい最近書いたものを見て、あれを書いたころの自分と今の自分は違う、と断言するのは無理があるので怖いものを見えなくするのは当然の反応だ。文章を途中で投げ出さないためには一番手っ取り早い恐怖の取り除き方を乗り越えて恐怖と向き合う必要がある。そのうえで自分自身と目の前の文章の間に壁を作らない方法で折り合う必要がある。つまり、3つ目の方法は文章を100%自分のものにすることである。もちろん、自分が書いた文章とにらめっこするだけでは、ただ嫌気がさしてさらなる自己嫌悪に陥るだけであるし、バックスペースを押してすべてを無に帰すまでの時間を延ばすに過ぎない。まず自分が書いた文章を読んだときに感じる恥ずかしさやもどかしさを我慢する必要がある。そのうえで文章を丁寧に精査して、自分の意見と異なるものに関して、別のありあわせの知識と置き換えるか、反芻することによって自分の意見の中に吸収する。それを繰り返していくことでいつか自分の脳内と文章が一致する。
根本的に言葉というのは他者と、お互いの内面を交換するためのメディアであるから自分の意見が初めから脳内に整然とした文章で存在していることはあり得ない。そう考えると文章化というのはなにか義務のような行いで、自分の意見は言語化せずに完全な状態のまま保っておくのが良いように感じるが、恐怖に向き合って自分の考えを文章にすることに意義はあると思う。先ほど文章を100%自分のものにする方法の最後で、自分の意見と異なるものを反芻して吸収すると言った。これによって自分の意見を言語化するあいだに自分の意見をより大きくすることができるのだ。だから文章を書くことは苦しいが、何度失敗してもやめられないのだろう。
道でお婆ちゃんが倒れてその娘が助けてくださいと叫んだら、近くのヤマト運輸のスタッフが出てきて対処してくれた、という話がXに投稿されて、世の中捨てたもんじゃないという反応が集まった。
今回の件は特に企業なので救助に手を貸すモチベーションはより高かっただろうが、別に一個人であっても、道端でお婆ちゃんが倒れて助けて助けてと叫んでいたら、助ける人はたくさんいると思う。
人は世の中が悪くなってると思い込みたくて、現代人は冷たくなった、都会の人は冷たくなったと言うけれど、実際それは昔のように密接に親交を約束して何かにつけて助け合うという文化が廃れただけで、人のために何かしてあげたいという素朴な心自体は都会人も普通に持っている。
自分に被害の被らない範囲で、少しの手間と時間、場合によっては少しくらいのポケットマネーを出してですら、見知らぬ人に親切にできる。
ただそれに付け込まれて被害を与えられたり、将来にわたってベッタリされ続けるのは嫌だから、慎重にはなるというだけだ。
今の世の中、かなり多くの人がこの程度の良心は普通に持ち合わせているのではないか?
そして、そうだということを、特別に意識はせずとも実はちゃんとわかりながら日々を過ごしていると思う。
webで読んだ「鍵がない」という漫画を思い出す。あれも、都会人の現実的な助け合いができるボーダーラインの内側を描いていた。
反応で「実際こんなもんだよね」と言われていたので、やっぱりこの感覚は合っているのだと思う。
今までは人間は動物と違って理性的にモノを考えられて、感情的になるのはごく一部だと思っていた。けど逆だったんだね。好き嫌いを基準に行動するし平気でボーダーラインを超えて犯罪に手を染めちゃう人の方が多いんだ。今まで「落ち着いて考えてほしい」などの高すぎる要求をしてすみませんでした。勝手にこっちがハードル高くして期待してしまったのが悪かったです。
ただ件の女優が故・飯島愛だったらコラボ帽子の仕事自体受けなかっただろう。
自分がAV女優だというのを素直に受け止めていただろう故・飯島愛は恥じたりはしないだろうけど、そういうコラボ商品の話は断ってただろう。
自分がAV女優であることと、自分に憧れて何も知らない女の子がAV女優になろうとすることは別物だと区別が付く人物だっただろう。
件の女優は、元々アイドルで手越祐也とのスキャンダルで挫折してAV女優という野に降りた人物だ。
元アイドルなので承認欲求が強いのか目立ちたがりなのかもっと有名になりたい綺麗になりたいというのに貪欲な人物でAV女優だけど綺麗とかインスタグラムでチヤホヤされたいという振る舞いがかなり多い。
本人のサガなのでしょうがないと思うが、やはり問題点としては若い女の子が件の女優みたいになりたいとAV女優に憧れたりすることだ。
ここで故・飯島愛に話を戻すが、彼女だったら若い女の子が自分みたいになりたいと憧れるだろう振る舞いをしなかっただろう。
その辺の分別というか一般社会においてAV女優ってここまではいいけどこれ以上はダメだよねってボーダーラインをわかってる人だった。
だから、若い女の子が件の女優みたいになりたいと憧れることをどう考えているかという点において、しっかりしてない。
AV女優として一般社会への向き合い方や露出、同性への影響力、未成年への影響力、そういった判断力がどこか欠けていると言わざるを得ない。
結局のところ元アイドルの感性を捨てられず、AV女優だけどアイドル的な振る舞いや野心を捨てられないのだろう。
この事案に対しては件の女優よりもコラボを持ちかけた帽子屋が迂闊だろう。
若い女の子に売れて欲しいコラボ企画をやるとしても、AV女優コラボをやっていいのかどうかという冷静な判断ができてなかった。
デューデリジェンスはやめた方がいい。違う。買収監査ってなんですか?ここで言うDDとは誰でも大好きというアレである。
というわけで、推し増しはいいことですとかいう説があるが普通に愚策なのでやめた方がいい。
2022年の夏ごろからちょっとハマりだした某声優がいたんだけど、それまで名前と顔だけ知ってる程度だったのがひょんなことから本格的に追うようになって、番組見たりしてた。まだイベントとかそんな出る人じゃなかったから、ボケーっと眺めながら手紙を送ろうとした矢先に事務所を退所してしまった。
えー送り先消滅しちゃったやん・・・と思ってたら数週間後にどでかい発表があった。バチクソ超大手事務所に移籍した。
お~仕事増えるやん!実際移籍した瞬間鬼のように仕事が増えた。普通に深夜アニメのレギュラーはバンバン決まり、イベントにもガンガン出て、ありえんくらいコンテンツに所属してなんかユニットめっちゃ組み始めた。
ここで俺はある答えにたどり着いてしまった。時間と金が足りないことに・・・
DDをやっていると、どうしても愛の大きさに優劣をつけることになる。イベントが被った場合、どうしても金の工面がこれ以上できない場合、単純に行く気があるかないかは、「今まで推してきた時間」が決め手になるか、「とにかく今好きな子への愛」が決め手になるか、まあそんなとこである。
一応好きな女性声優数名のところには平等に行けるように調整してこの子のイベントとか舞台にも行ってたつもりではあるんだけど、どこかで破綻するのはもう時間の問題であった。
そして2024年に入り、また新たなコンテンツに所属したり映画の声優まで務めるようになった。アニメの先行上映会とかコンテンツのリリイベとか、とにかく安価で時間の拘束も短い現場に行ったりしてたんだけど、そのコンテンツのライブへ行くに至るまではできず(履修にとてつもない労力を要すため)徐々に「置いて行かれてる感」が出始めた。
そもそも女性声優への応援行為にタイパだのコスパだのを求めだしたら終わりである。俺は間違っている。皆はマネしないように。
一方その頃ほかの声優とは関係値をさらに深めており、この子に対してだけ「俺は何のために追っている?」「この子のためになれているのか?」という状態が続いた。
番組を見てても最近のライブとか舞台挨拶の話だし、疎外感を感じており(行ってないのが悪いのだが・・・)、メールも半年以上採用なくなっちゃたし、このまままたリリイベでも行こうもんなら「ライブとかには来ないくせに接近戦だけ来る典型的なイナゴ」認定を受けるのがオチであり、しんどくなってきた。
ここまで大風呂敷が広がると、もはや他の声優を追っているようじゃすべてを追うのは不可能なのだ。この子一人にすべてを捧げる相応の覚悟が必要なターンに入るくらい売れた。
推しの仕事が増えるのは良いことであるが、自分は結局、自分のボーダーラインスレスレで仕事をし続ける女性声優のような何かを応援したかっただけなのかもしれない、と最近思う。
なんか売れた瞬間身を引く人っているよね。あれの気持ちがちょっとわかり始めたかもしれない。じゃあ仕事がないやつを追ってろって話だ。なんやこいつ。人間収入と支出には限界があるし、土日は48時間しかない。優先順位をつけたときに、無意識に「下」に落とす声優はどうしても出てきてしまう。
ので、他の女に時間と金を割くのは良くない。一人と真摯に向き合うべきである。DDはやめた方がいい。
中途半端に応援するって最終的に自分の首を絞めることになると思う。「この子は好きだけどあのイベントには行かない」みたいな確固たる信念を持っているならいいと思うし(現に自分もそういうのあるので)、ここで一区切りついたかなっていう具体的な節目があってそこで身を引くのもいいと思う。そういうのが自分の中で作れないと、いつまでもゾンビみたいになってしまう。
ところで他のコンテンツの履修がだるいので俺はいつまでたってもアイマス声優という呪縛から逃げられずにアイマス声優に収束してしまうのかもしれない。怖くなってきた。アイマスから逃げたい。